パレスチナ問題を解くための歴史 10、現代史篇その3、1960、70年代

 更新日/2023(平成31.5.1栄和/令和5).5.21日


【第三次中東戦争(六日間戦争)勃発】
 1967.6.5日、イスラエルにとって、アカバ湾はインド洋への唯一の航路だった。イスラエル空軍はエジプト各地の空軍基地を電撃的に攻撃し、第三次中東戦争が勃発した。これによりエジプト空軍は壊滅的打撃を受けた。ダヤン国防相の指揮するイスラエル軍は、東部でヨルダン、北部でシリア、南西部でエジプトという「三正面」で交戦し、全てに勝利した。アラブ側はイスラエルに制空権を握られ、ゴラン高原、ヨルダン領の東エルサレムとヨルダン川西岸、エジプト領のガザ地区、シナイ半島などを占領された。

 エジプト、ヨルダン、シリアは停戦を受け入れた。この戦争はアラブ側の敗北で、6日間で終わった(1967.6.5日~6.10日)。故に6日間戦争(第三次中東戦争)と呼ばれる。イスラエルが、西岸、ガザ、シナイ半島、ゴラン高原、エルサレムを獲得した。ナセル大統領(エジプト)による汎アラブ民族主義が失墜した。中東革新陣営諸国によるアラブ統一・社会主義路線も敗北した。
約2000年振りにエルサレムがユダヤ人国家の都に。
 (解説)
 第三次中東戦争は、イスラエルの圧倒的勝利に終わった。イスラエルはこの戦勝により更に領土を拡大した。東エルサレムを含むヨルダン川西岸、エジプトの領土だったガザ地区とシナイ半島をも支配下においた(エジプトはシナイ半島全域を失ったことになる)。

 右派政党リクードの「大イスラエル主義者」らによる西岸とガザ地区への入植地建設が始まった。

 約40万人のパレスチナ人が難民となり、ヨルダン川東岸に逃げ込んだ。ヨルダンの人口約200万人の内74万人がパレスチナ人となった。この人口構成により、ヨルダンでは大きな政治勢力としてパレスチナ人を抱え、国内政治情勢は不安定となった。

 イスラエルは統一されたエルサレムを「首都」と宣言した。しかし、各国(日本を含め)はこれを認めていない。あくまでテルアビブが首都であるとして、大使館はテルアビブにおいている。 国連総会は、イスラエルによる東エルサレム併合に対する撤回決議を採択したが、イスラエルはこれに拒否し今日に至っている。


 東エルサレムは以降イスラエルに占領されることになったが、中心部の「旧市街」にはイスラム、ユダヤ、キリスト各教の聖地があり、パレスチナ人約21万人が住む状態の中での占領であり、この宗教上の聖地問題が「パレスチナ問題」の複雑さに更に輪をかけていくことになる。


 (日本を含め)これを認めていない。あくまでテルアビブ首都であるとして、大使館はテルアビブにおいている。 国連総会は、イスラエルによる東エルサレム併合に対する撤回決議を採択したが、イスラエルはこれに反論した。
 そして1967年6月5日に始まった第3次中東戦争。この年の3月から4月にかけてイスラエルはゴラン高原のシリア領にトラクターを入れて土を掘り起こし始めて挑発、シリアが威嚇射撃するとイスラエルは装甲板を取り付けたトラクターを持ち出し、シリアは迫撃砲や重火器を使うというようにエスカレートしていった。

 しかし、この時にイスラエルはシリアに対し、イスラエルに敵対的な行動を起こさなければイスラエルとエジプトが戦争になってもイスラエルはシリアに対して軍事侵攻しないと約束していた。

 軍事的な緊張が高まったことからエジプトは1967年5月15日に緊急事態を宣言、部隊をシナイ半島へ入れた。5月20日にはイスラエル軍の戦車がシナイ半島の前線地帯に現れたとする報道が流れ、エジプトは予備軍に動員令を出す。そして22日にナセル大統領はアカバ湾の封鎖を宣言した。

 イスラエルはこの封鎖を「イスラエルに対する侵略行為」だと主張、イスラエルの情報機関モサドのメイール・アミート長官が5月30日にアメリカを訪問、リンドン・ジョンソン米大統領に開戦を承諾させた。そして6月5日にイスラエル軍はエジプトに対して空爆を開始、第3次中東戦争が勃発する。

 戦争が勃発した4日後にアメリカは情報収集船のリバティを地中海の東部、イスラエルの沖へ派遣するが、そのリバティをイスラエル軍は8日に攻撃している。偵察機を飛ばしてアメリカの艦船だということを確認した後の攻撃だった。ロケット弾やナパーム弾が使われているが、これは船の乗員を皆殺しにするつもりだったことを示している。

 それに対し、リバティの通信兵は壊された設備を何とか修理、アメリカ海軍の第6艦隊に遭難信号を発信するが、それをイスラエル軍はジャミングで妨害している。

 遭難信号を受信した空母サラトガの甲板にはすぐ離陸できる4機のA1スカイホークがあった。艦長はその戦闘機を離陸させたが、その報告を聞いたロバート・マクナマラ国防長官は戦闘機をすぐに引き返させるように命令している。

 その後、ホワイトハウス内でどのようなことが話し合われたかは不明だが、しばらくして空母サラトガと空母アメリカは8機の戦闘機をリバティに向けて発進させた。

 この戦争で圧勝したイスラエル軍はガザ、ヨルダン川西岸、シナイ半島、ゴラン高原を占領している。ゴラン高原の西側3分の2は今でもイスラエルが不法占拠している。勿論、イスラエルはそうした占領地を返すつもりはない。残りの地域を制圧する作戦を進めているのだ。

【第三次中東戦争(六日間戦争)勃発】
 「★阿修羅♪ > 戦争b24」の「HIMAZIN 日時 2023 年 6 月 17 日」「No. 1827 USSリバティ号:巧みに計画された事故(耕助のブログ)」。
The USS Liberty: A Well-Planned Accident by Melvin Goodman
 今日6月8日はイスラエルによるUSSリバティ号への攻撃から56年目にあたる。この攻撃は、多くの米国とイスラエルの説明によって事故であるとされてきた。実際、この攻撃が起きたのはイスラエルによる8時間の空中監視の後で、2時間の空と海からの攻撃で34人の船員が死亡し、さらに172人の軍人が負傷した。これは294人の乗組員のうち、70%が犠牲になったことになる。イスラエル側はエジプト船を攻撃したと主張したが、世界最高水準の諜報船であるリバティ号の構成からして、米国のものとしか思えないことは明らかである。空爆は30分近く続き、無標のイスラエル軍機がナパーム弾をリバティ号の艦橋に投下し、30ミリ砲やロケット弾を撃ち込んだ。この空爆には少なくとも12機のイスラエル軍機が関与していた。さらに、イスラエルの魚雷艇がリバティ号に魚雷を撃ち込み、リバティ号の消防士や担架係が船と乗組員を救おうと奮闘しているところに機銃掃射を行った。これらの魚雷艇は、水中で重傷を負った軍人を救助するために下ろされたリバティの救命いかだを機銃掃射するために戻ってきた。生存者によると、イスラエルのパイロットは、この船がアメリカの国旗を掲げていることを認識しながらも、攻撃してきたという。私の調査によると1967年6月8日の早朝、巨大なアメリカ国旗が掲揚され、攻撃機によって撃ち落とされるまで一日中掲揚されていた。リバティ号は常に国際海域で、わずか5ノットの速度で航行していた。さらに、イスラエル軍機がリバティ号の5つの緊急無線チャンネルをすべて妨害したため、リバティ号の無線オペレーターは遭難信号を送信することが難しかった。リバティ号の乗組は、なんとか間に合わせのアンテナでSOSを放送した。このSOSがイスラエル軍の指揮官に届くと、攻撃は即座に中止された。

 この攻撃は、1967年の「6日戦争」開始時にイスラエル軍の通信を監視していた米艦を破壊しようとする意図的なものであったと、多くの米政府関係者が証言している。しかし、彼らがそう証言したのは、公職を離れた後で、もはやリンドン・ジョンソン大統領の政権に所属していなかったからだった。このリストには、ディーン・ラスク元国務長官、ジョージ・ボール元国務次官、リチャード・ヘルムズ元中央情報局長官、ウィリアム・オドム元国家安全保障局(NSA)長官、ドワイト・ポーター元在レバノン米国大使が含まれていた。元統合参謀本部議長のトーマス・ムーア退役提督も政府を去った後、リバティのエピソードは「アメリカ全土の古典的な隠蔽工作の一つ」と結論付けている。戦時中、CIAのタスクフォースに所属していた元アナリストとして、私もその事実を証明することができる。中東での情報収集のためにNSAに出向していた海軍艦艇は、イスラエルの戦争計画に関する機密情報を提供していた。イスラエル側は、そのようなデータを傍受されないように艦艇の移動を要求していた。ジョンソン政権によるUSSリバティ号への攻撃の公式隠蔽は、アメリカ海軍の歴史上、前例のないことである。議会はこの攻撃を調査せず、生存している乗組員も攻撃について公に証言することは許されなかった。ホワイトハウスがリバティ号を守るために米海軍を出すのを止めた、という報道もあったが、私はその報道を確認することはできていない。NSAの攻撃に関する調査は、依然として機密扱いのままである。海軍の法廷では、イスラエルがなぜ攻撃し
たのかについて判断するには情報が不十分であると結論づけられた。リバティ号に関する嘘に加え、イスラエルは6日戦争の開始についても嘘をついた。開戦に向け、イスラエル側は「エジプトが侵攻の準備をしている兆候がある」と主張したが、航空戦力や装甲戦力などエジプトの準備態勢を示す情報はなかった。私は当時、エジプトは軍の半分近くがイエメンの内戦に参加している状態で、イスラエルと戦争を始めることはないだろうと主張した。国務省のアラブ派の人々は、ナセル大統領がハッタリをかましていると考え、カイロの軍備の質の低さを理由に挙げた。 飛行場でエジプトの飛行機が翼をくっつけて駐機していることから、エジプトがイスラエルを攻撃する計画はないことがうかがえた。それが、イスラエルが地上で200機以上のエジプト機を撃破できた理由だった。ずっと後になって、ジョンソン大統領の腹心の部下であったハリー・マクファーソンが開戦時にイスラエルに滞在し、レヴィ・エシュコル首相との会談に米国大使を伴っていたことを知った。会談中にイスラエルの空襲警報が鳴り始めると、イスラエル情報部長のアハロン・ヤリブ将軍が「地下壕に移る必要はない」と言い切った。イスラエル政府の最高レベルでは、エジプトの攻撃はありえないという確信があったのだ。これは、イスラエルの攻撃は先制攻撃であったという主張に反するものである。アメリカの歴史上、武力行使が腐敗した情報、あるいは単なる嘘で正当化されたことがあまりにも多い。ベトナム戦争も、2003年のイラク戦争もそうだった。私たちは大統領の嘘を容認すべきではなく、外国の公式の嘘も容認すべきではない。それは6日戦争やUSSリバティへの攻撃の場合でも同様である。

The USS Liberty: a Well-Planned Accident
https://www.counterpunch.org/2023/06/08/the-uss-liberty-a-well-planned-
accident/
 

 (解説)
 1922年のイギリス支配時代、66万8000人のアラブ人がパレスチナの土地の98%を所有していたのに対し、8万4000人のユダヤ人は2%の土地を所有しているに過ぎなかった。1948年のイスラエル共和国建国の時になると、76万人に膨らんだユダヤ人がパレスチナ領土の75%以上を支配するようになり、135万人のアラブ人がパレスチナから追い出されてしまったのである。1967年に第三次中東戦争が勃発すると、236万人のユダヤ人がパレスチナ全土を支配するようになり、パレスチナ難民は約300万人にまで膨らむ。

1967.11  【国連安保理、イスラエルの占領地撤退を求めた安保理決議242を採択】 この決議は、占領地からのイスラエル軍の即時撤退と、イスラエルを含む中東地域の全ての国の生存権をうたっている。アラブ側は決議をボイコッ ト。PLOの穏健化、これに飽き足らないPFLPが結成されることになる。
1968  アル・カラーメの戦い。
1968  日本福音同盟(JEA)設立。
1969  アラファト氏がパレスチナ解放機構(PLO)執行委員会議長に就任 ヤセル・アラファトが議長に就任したアラファトは、「西岸とガザ地区に東エルサレムを首都とするパレスチナ独立国家を樹立する」との目標を掲げ、イスラエルの当該占領地域からの撤退を要求、パレスチナ人自身による解放闘争を目指すことになり、現在の紛争の基本形が出来上がった。その後、アラファト議長はPLO内現実派として国際交渉に活躍、国連でパレスチナ人の権利を認めさせるのに成功した。それと共にPLOはイスラエルの抹殺という当初の目的を変更し、イスラエルとの共存をはかるようになる。ファタハはPLOの最大勢力となった。
1969  日本基督教団、教会派と社会派の紛争に突入。
1970年  ヨルダン空港に到着した4機が同時にハイジャックされ、人質は全員解放後爆破された(黒い9月・Black September)。ヨルダン内戦。これによりヨルダンで活動していたPLOメンバーはレバノンに移動した。PLO、ヨルダンを追われ、レバノンに拠点を移す。結果、レバノン国内に於ける宗派間の政治バランスが崩れ、内戦の原因となった。
 急死したナセルの後を継いで、アンワル・サダト氏がエジプト大統領になる。ナセルが行ってきた社会主義的政策を覆し彼は保守的政策を志向した。
1970  新改訳聖書発行。日本ハリストス正教会、独立。大阪万博へのキリスト教館出展を巡り、日本基督教団で内紛。
1971.7  【ブラックセプテンバー事件】 全てのパレスチナ・ゲリラ組織がヨルダンから追放される。PLOは本部をレバノンのベイルートに移し、抵抗運動を続けることになった。
1971.11  エジプトのカイロを訪問中のヨルダン首相・ワシフィ・タル氏が暗殺される。PLO傘下のテロ組織ブラックセプテンバーの犯行であった。
1972.5  日本赤軍の岡本公三ら三人が、テルアビブのロッド国際空港(現在のベングリオン空港)で自動小銃を乱射する事件が起こった。100名近く死傷。
1972.9  イスラエルのオリンピック選手団が、ドイツ・ミュンヘンオリンピック選手村で人質に取られ、交渉不成立で11名が殺される。ブラックセプテンバーの犯行で、200名の革命戦士の解放を要求していた。
1973  ダビッド・ベングリオンはSde Bokerのキブツで、六度の戦争を目の当たりにする波乱の生涯を閉じた。人生の最後にもまた一波乱あり、彼が病床にあったのはヨム・キップル戦争の真っ最中で、エジプト軍の大攻勢にイスラエル軍が撃破されつつあった時でした。

 カリスマ的指導者」とされていますが、実際のところ、それほどカリスマがあったわけではありません。少なくとも、ワイツマン博士よりもカリスマ性はずっと劣っていました。人々がベングリオンに従ったのは、常にベングリオンが正しい判断を下してきたからです。だから、ラヴォン事件のたった一度のミスで彼の政治生命は終わりました。とは言え「建国の父」であることには変わり無く、イスラエル国民から相応の尊敬を受け続けました。現在、テルアビブのダビッド・ベングリオン空港(旧ロッド空港)で、彼の名を偲んでいます。

【第4次中東戦争(ヨム・キプール戦争)勃発】
 1973.10.6日、サウジアラビアは、アメリカが中東の抱える諸問題を解決しようとせずイスラエルを軍事支援するアメリカを激しく非難した。10.6日、エジプト軍がスエズ運河東岸を、シリア軍がゴラン高原に進撃して、アラブ諸国対イスラエルの第四次中東戦争が勃発した。1973.10.6日~10.26日まで続く戦争となった。

 10.15日には、サウジアラビア軍も参戦して、アラブ側参戦国は10ケ国に達しましたが、アメリカの巨大な軍事力を背景にしたイスラエル軍がアラブ側を圧倒した。
 1973.10.17日、OAPEC(アラブ石油輸出国機構、クウェート、リビア、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、アルジェリア、カタール、バーレン、イラク、シリア、エジプトの十カ国)は、いわゆる「石油戦略」を発動した。これは、親イスラエル国に対して石油輸出禁止や削減政策を断行するというものであり、原油価格を70%値上げするというものだった。世界に「オイルショック」が襲い、アラブの石油に頼っていた日本では、トイレットペーパーが店頭からなくなるというほどのパニックを引き起こした(「石油危機」)。

 その後も次々と原油生産削減、石油禁輸が実行に移され、この政策によりアラブ側はそれまでの圧倒的不利な状況を覆した。ところが、皮肉なことに石油危機に乗じた原油値上げによりメジャーは空前の利益をあげ、このことがイスラム諸国の大衆に一層の貧困をもたらすという現象となった。しかし、原油価格は1972年末と比較して3$/Bから12$/Bと約5倍近くに値上がり、世界経済に大打撃を与えることになった。

 その後エジプトが単独でイスラエルとの共存路線を模索し始めたこともあり、アラブ諸国全体の占領地返還などにはつながらなかった。

 国連安保理決議338号採択。
 (解説)
 第四次中東戦争も、イスラエルの勝利に終わった。但し、エジプトのサダトは、サウジなど保守陣営諸国との対立を解消・協力することによって、イスラエルとの第4次中東戦争を引き分けに持ち込んだとも云える。

 1973年、汝矣島(ヨイド)純福音教会、献堂。
【国連総会でアラファトが演説】
 1974年、国連総会でパレスチナ人の民族自決権利承認。アラ ブ首脳会議と国連総会(3236号決議)でPLOがパレスチ ナ人の唯一の代表と承認され国連総会でアラファトが演説。国連総会はPLOに国連オブザーバー資格を付与した。パレスチナ国家創設の歴史的決定が為された。

 1974年、ローザンヌ世界伝道会議、「ローザンヌ誓約」採択。
【レバノン内戦起こる】
 1975年、レバノン内戦起こる。度重なる中東戦争、さらに1970年のヨルダンによるパレスチナ解放機構(PLO)追放(ヨルダン内戦、黒い九月事件)が発生すると、多数のパレスチナ難民がレバノン国内に流入した。レバノン政府は、PLOに対して自治政府なみの特権を与えた(カイロ協定。1994年にイスラエル・パレスチナ間で締結された「カイロ協定」とは別物)。この協定の結果、レバノン南部に「ファタハ・ランド」と呼ばれるPLOの支配地域が確立した。イスラエルはこれを危惧し、空軍及び特殊部隊を用いて南レバノンやベイルートを攻撃し始めた。ファランヘ党をはじめとするキリスト教マロン派は米国・ロシアから様々な重火器を調達し、既存の民兵組織を強化した。イスラム教徒もPLOやシリアから軍事支援を受け入れ、アマル(シーア派)やタウヒード(スンニ派)といった民兵組織を構築していった。

 マロン派とイスラム教・PLO双方の民兵組織は対立する宗派の国民を次々に誘拐・拷問・処刑するという残虐行為を繰り広げた。特に週末は「ブラック・マンデー」と呼ばれ、こうした残虐行為が頻発した。自動車爆弾も次々にベイルート市内に置かれ、要人を含め多数の市民が殺傷された。誘拐は外国人観光客や外交員もターゲットとなった。内戦には距離を置いて中立姿勢を保っていたドルーズ派も信徒が殺害された事により、マロン派と対立していくことになった。1975.10月以降、各宗派の民兵達は立てこもるホテルを要塞化し、互いの陣地と化したホテルに目掛けて銃撃や砲撃を繰り返し、この戦闘で多くのホテルが壊滅した(ホテル戦争)。こうした結果、ベイルートはイスラム教徒・パレスチナ難民の多い西ベイルートと、マロン派の居住する東ベイルートに分裂。東西の境界線には「グリーン・ライン」とよばれる分離帯が築かれた。

 1976.5月、レバノン政府の要請に基づいてシリア軍が介入(「シリア、レバノンに軍事介入」)し、レバノン右派軍と共に急進派のPLOやイスラム教ドルーズ派を制圧した(「黒い六月」)。タル・ザータルの虐殺起こる(シリア軍がレバ ノンのパレスチナ人キャンプの攻撃で多数殺害)。レバノン内戦終結。1977.3月、シリアを裏切り者として特に非難したジュンブラットは何者かによって暗殺された。1976.9月、マロン派から反シリア・パレスチナを旗印に掲げたレバノン軍団(以下LF)と呼ばれる民兵組織連合体が結成するた。シリア軍とLFは散発的に衝突し、PLOやドルーズ派とも戦闘を繰り広げた。劣勢であったLFはイスラエルの支援と介入が不可欠と目論み、内戦へのイスラエル参入を誘導する。1878年、LF部隊がシリア軍の検問で衝突し、怒ったシリアは、レッドライン協定を無視してマロン派の拠点である東ベイルートに砲撃を加えた。イスラエルは協定違反として、シリアを非難した。さらに特殊部隊と空軍機を出動させ、リタニ川以南のレバノン南部を占領した(リタニ作戦)。しかし、イスラエル軍自身による占領は国際的批判を免れず、イスラエルはレバノン国軍の元将校であるハダト少佐に占領地を譲り渡して支配させた。彼は占領地で「自由レバノン」軍という民兵組織を結成し、イスラエルの傀儡部隊として協力した(その後、ハダトは病死し、「南レバノン軍(South Lebanon Army)」と改称)。

1976.6.27  フランスのエール・フランス機139便がPFLPによりハイジャックされ、ウガンダのエンテベ空港に着陸。イスラエルの特殊部隊が救出成功する。
1977  イスラエル総選挙で右派連合政権誕生。占領地への入植政策強化。
1977.11.19  エジプト大統領アンワール・サダトは、アラブ首脳初のイスラエルを訪問した。中東和平へ向けた模索が始まる。 
1977  イスラエル、「リクード」が第一党に。ベギン内閣成立。
1978  イスラエル軍のレバノン侵攻。
 ヨハネ・パウロ2世がポーランド人として、またスラブ人初のローマ教皇となる。
1978.9  【キャンプ・デービッド合意】米・カーター大統領、エジプト・サダト大統領とイスラエル・ベギン首相を招き会談(キャンプ・デービッド合意)。会談の内容は、
イスラエル・エジプトの平和条約を求める。→両国関係を正常化させる。
パレスチナ人の自治に関する規定。→イスラエルはパレスチナ人の自治について交渉することを約束。
イスラエルはシナイ半島から撤退し、代わって国連軍が駐留することを約束。それによって生ずる石油供給への不安をアメリカがカバーする
等々であった。アラブ諸国は、エジプトの非難の声をさらに高め、大半のアラブ諸国がエジプトとの外交関係を絶った。
1978
 共同訳聖書発行。ヨハネ・パウロ二世、ポーランド人・スラブ人として初めて教皇に就任。小坂忠、ミクタムレコードを設立。

1979.2  【イランでイスラム革命起こる】イランで、ホメイニ師による革命が起こり、パーラビ王朝が倒れ、シーア派が権力を握った。1960年代から、アメリカの援助を受けたイラン国王による近代化政策(白色革命)によって、市民の政治的自由は奪われ貧富の格差も増大、市民の不満は募っていた。そこで市民は反国王色を明確にしていたイスラム教勢力の下に結集、反国王運動を繰り広げた。遂に国王は国外へ退避、続いて宗教指導者ホメイニの帰国によってイラン・イスラム革命が達成された。以後、イランではイスラム教が国家のイデオロギーとなる。当然、国王を援助していたアメリカとの関係は悪化していく。
1979.7  イラクで、度重なるクーデターを経て政権を掌握したバース党が、42歳のサダム・フセインを大統領に就任させた。
1979.3  【イスラエルとエジプトが平和条約調印】 サダトは、欧米諸国との関係改善を積極的に行い、イスラエルとも1978年のキャンプデービット合意にて和平を達成して、1979年には平和条約を結んだ。エジプト政府は、他のアラブ諸国の反対を押し切ってイスラエルと真っ先に和解し、それ以来親米-イスラエル路線に立って中東和平の仲介役に乗り出すことになった。エジプトへのシナイ半島全面返還が約束される。
1979.5  シナイ半島がエジプトへ返還される。アラブ諸国とPLOがエジプトと断交。
1979  ソ連がアフガニスタンに侵攻、アフガニスタンで内戦始まる。








(私論.私見)