パレスチナ問題を解くための歴史 11、現代史篇その5、2000、10年代

 更新日/2023(平成31.5.1栄和/令和5).5.21日

2000  大聖年(ジュビリー、ミレニアム)、バチカンの「聖なる扉」(聖年にのみ開かれる扉のこと)が開かれる。ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が聖地エルサレムを訪問し、ユダヤ教の指導者と会談する。(カトリックとユダヤ教の和解)
2000.6  シリアのアサド大統領が死去。

【三者首脳会談】
 2000.7月、クリントン大統領の仲介下、アメリカのキャンプ・デービッドで、クリントン、バラク、アラファト会談が開かれ、パレスチナの最終的地位に関する交渉が行われるが決裂。
 (解説)
 この時の会談の眼目は、パレスチナの暫定自治を決めた93年の「オスロ合意」で協議することが約束されたが、ずっと棚上げされてきた事柄であり、①・イスラエル・パレスチナ双方が「首都」と主張する聖都エルサレムの帰属問題、②・パレスチナ人の悲願である新国家の国境・領土を謳っての「一方的な独立宣言」、③・1948年と67年の中東戦争で離散したパレスチナ難民の帰還等々を廻っての大詰め談判にあった。会談では、バラク・イスラエル首相は、占領地であるヨルダン川西岸のうち、現状では「自治区」として42%の「領土」しかないパレスチナに対し、約90%の返還を申し出るなど、国境・領土、ユダヤ人入植地の存廃、治安問題で歴代の政権では考えにくい大幅な譲歩姿勢を見せたと言われている。 しかし、エルサレムの帰属を廻って、アラファト自治政府議長は、「(東)エルサレムを首都とする国家の独立はパレスチナ人のみならず他のアラブ・イスラム諸国に対する公約だ」とし、一方、バラク首相も「東西統一エルサレムの首都維持は国民への公約であり、断じて譲れない」として暗礁に乗り上げた。アラファト議長はイスラムの聖地のある「神殿の丘」の主権獲得にこだわり、バラク首相は、丘の地下にはかつてのユダヤ王国の神殿跡が眠るとして譲らなかった。クリントン大統領は主権共有案などの妥協策を提示し、強引にパレスチナへの経済援助凍結まで示唆したが、アラファト議長は「絶対に聖地とエルサレムをあきらめない」と拒絶したという。エルサレムは民族の宗教的、感情的な問題をはらむ。パレスチナの民間調査研究所長のマハディ・アブドラ・ハーディ氏は「タブーだった問題は首脳会談ですべて机上に上げられた。だが、宗教にまで触れてしまうと、話が終わることはない」と語り、妥協点を見いだすことは難しいと指摘する。会談後、イスラエル国内の右派と宗教政党は、バラク首相が譲歩し過ぎたと反発、政権は崩壊の危機に立たされている。一方のアラファト議長は9月13日へ向け外遊を続けてきたが、ほとんどの訪問国から「一方的独立宣言を自制するように」とクギを刺されている。クリントン大統領は会談再開と合意達成を目指しているが、任期終了を5カ月後に控え、どれだけの指導力があるか疑問もある。会談が再開されても三者三様に力が弱まる中での開催となる。

2000.7.18  イスラエルによるレバノン領空侵犯がほとんど連日遂行された。(~2001.1.18日)
2000.9.28  【第2次インティファーダ】
 イスラエルのリクード派の野党指導者アリエル・シャロン・リクード党首が、エルサレム旧市街とその周辺に数千人の治安部隊を配備した状態で、エルサレム旧市街のイスラム教のアル・アクサ・モスクの宗教聖地(イスラーム第3の聖地「ハラム・アッシャリフ(「神殿の丘」)」)を訪問。これを機に第二次インティファーダが起き、これがパレスチナ側とイスラエル軍の衝突に発展する。パレスチナ人抗議者とイスラエル軍との衝突により、2日間で5人のパレスチナ人が死亡、200人が負傷する死傷者多数事件が発生した。イスラエルは再びガザとの通行を厳しく制限した。この事件は広範な武装蜂起を引き起こした。インティファーダの間、イスラエルはパレスチナの経済とインフラにかつてない損害を与えた。
 イスラエルはパレスチナ自治政府が統治する地域を再占領し、入植地建設の横行とともにパレスチナ人の生活とコミュニティを破壊する分離壁の建設を開始した。
*入植地は国際法に違反しているが、数十万人のユダヤ人入植者がパレスチナから盗んだ土地に建設された植民地に移住してきた。入植者専用の道路やインフラが占領された西岸を切り裂き、パレスチナの都市や町をバントゥスタン(南アフリカの旧アパルトヘイト政策下で作られた黒人居住区)のような孤立した飛び地に追いやっているため、パレスチナ人のためのスペースは縮小している。
*オスロ合意が調印された当時、東エルサレムを含むヨルダン川西岸には11万人強のユダヤ人入植者が住んでいた。現在、その数は70万人を超え、パレスチナ人から収用された10万ヘクタール(390平方マイル)以上の土地に住んでいる。
2000.10.17  イスラエルのゼエビ観光相が暗殺される。
2000  イスラエル、南レバノンから撤退。跡地はヒズボラの支配地域となる。第二次インティファーダ(アルアクサ・インティファーダ)始まる。自爆テロ等多発。
2001.1.23  イスラエル機がほぼ連日ブルーラインを侵犯し、レバノン領空深く侵入した。それらの中でも、低空を飛行し、人口稠密地域の上で音速の壁を破るイスラエル機は、特に挑発的であり、一般市民に大きな不安を与えた。イスラエル当局への再三の抗議にも関わらず、領空侵犯は続行し続けた。(~2001.7.20日)

 2004.3月、イスラエルはヤシンを暗殺。


 2004年、PLO指導者のヤセル・アラファトが2004年に死去。その1年後に第2次インティファーダが終結、ガザ地区のイスラエル入植地が解体され、イスラエル兵と9000人の入植者がガザ地区を去った。その1年後、パレスチナ人は初めて総選挙に投票した。ハマスが過半数を獲得した。しかし、ファタハとハマスの内戦が勃発し、数カ月間続き、数百人のパレスチナ人が死亡した。ハマスがファタハをガザ地区から追放し、パレスチナ自治政府の主要政党であるファタハがヨルダン川西岸の一部の支配権を回復した。


 2005年、イスラエルは、67年の戦争でエジプトから奪ったガザ地区から撤退した。


 2006年7月から9月、イスラエル軍の地上部隊がにかけてレバノンへ侵攻。ヒズボラに敗北した。その際、イスラエルが誇る「メルカバ4」戦車も破壊されてメルカバ神話が崩れ去った。ヒズボラは精密誘導ミサイルを含む約15万発のロケット弾やミサイルを保有、イスラエルのどこでも攻撃できる。しかも戦闘慣れした数千人の兵士が存在、様々な種類の軍事用ドローンを保有している。イランとヒズボラとは関係が深い。


 ハマスは07年、パレスチナ自治政府の主流派「ファタハ」と衝突した後、ガザ地区を支配下におさめた。ガザ地区には約200万人のパレスチナ人が暮らす。 ハマスがガザ地区を掌握した後、イスラエルとエジプトはガザを厳重に包囲した。イスラエルはガザ地区の空と海も封鎖している。


 2008.8月、ジョージア軍は南オセチアを奇襲攻撃、ロシア軍の反撃で惨敗している。ロシア軍は戦闘能力の高さ、兵器の優秀さを世界に示した。ジョージアの背後にはイスラエルとアメリカが存在、イスラエルは2001年からジョージアへ武器/兵器を含む軍事物資を提供し、将兵を訓練している。アメリカの傭兵会社も教官を派遣していた。奇襲攻撃が行われる前の月にアメリカの国務長官だったコンドリーサ・ライスがジョージアを訪問している。


 2009年、シーモア・ハーシュによると、​2009年に返り咲いた時、ベンヤミン・ネタニヤフはPLOでなくハマスにパレスチナを支配させようとした​。そのため、ネヤニヤフはカタールと協定を結び、カタールはハマスの指導部へ数億ドルを送り始めたという。こうした経緯がある。これにより、ハマスを疑惑する論調が生まれている。


 イスラエルは2008年、2012年、2014年の3回にわたり、ガザに対する長期的な軍事攻撃を開始した。多くの子どもを含む数千人のパレスチナ人が殺され、数万棟の家屋、学校、オフィスビルが破壊された。包囲によって鉄鋼やセメントなどの建設資材がガザに届かないため、再建は不可能に近い。2008年の攻撃では、燐ガスなど国際的に禁止されている武器が使用された。2014年、イスラエルは50日間に渡り、1,462人の市民と500人近い子どもを含む2,100人以上のパレスチナ人を殺害した。イスラエル軍によって「保護的エッジ作戦」と呼ばれたこの攻撃で、約1万1000人のパレスチナ人が負傷し、2万棟の家屋が破壊され、50万人が避難した。





(私論.私見)パレスチナの抵抗運動を支持したとして、元ウズベキスタン駐在イギリス大使のクレイグ・マーリーは10月16日に「テロ防止法」に違反したとして逮捕された。アイスランドでパレスチナ人を支持する抗議活動に参加、イギリスへ戻って来たところだった。
 現在のイギリス首相、リシ・スナックはハマスに協力した者に「責任を取らされる」と宣言、イスラエル政権への支持を誓っている。ウクライナに対するのと同じように、イギリス政府はイスラエルを軍事支援する用意があるともしている。
 イスラエルが建国されてからイギリスの労働党はイスラエルを支持していたが、そうした政治的な立場を大きく変える出来事が1982年9月に引き起こされた。レバノンのパレスチナ難民キャンプのサブラとシャティーラでパレスチナ難民が虐殺されたのだ。
 キリスト教マロン派系のファランジスト党のメンバーが虐殺したのだが、その黒幕はイスラエルだった。ファランジスト党の武装勢力はイスラエル軍の支援を受けながら無防備の難民キャンプを制圧し、PLOは追い出されてしまう。
 ファランジスト/イスラエルは死体を持ち去ったり爆弾を仕掛けるなど隠蔽工作を行ったこともあり、正確な犠牲者数は不明だが、数百人、あるいは3000人以上の難民が殺されたと言われている。
 この虐殺の序章は1981年6月30日にイスラエルで行われた選挙。春の段階では労働党がリクードを引き離していたが、6月7日に実行されたイラクのオシラク原子炉爆撃で形勢は逆転した。この爆撃でリクードの支持率は一気に上昇、選挙で勝利している。
 7月に入るとベイルートにあったPLOのビルをイスラエル軍は空爆、国連のブライアン・アークハート事務次長の説得で停戦する。イスラエル側は戦争を継続するだけの準備ができていなかった。
 1982年1月にアリエル・シャロン国防相はベイルートを極秘訪問し、キリスト教勢力と会談、レバノンにイスラエルが軍事侵攻した際の段取りを決める。その2週間後にはペルシャ湾岸産油国の国防相が秘密裏に会合を開き、イスラエルがレバノンへ軍事侵攻してもアラブ諸国は軍事行動をとらず、石油などでアメリカに敵対的なことを行わないと言う内容のメッセージをアメリカへ送った。
 6月3日に3名のパレスチナ人がイギリス駐在のイスラエル大使、シュロモ・アルゴブの暗殺を試みたが、この3名に暗殺を命令したのはアラファトと対立していたアブ・ニダル派。
 イスラエル人ジャーナリストのロネン・ベルグマンによると、暗殺を命令したのはイラクの情報機関を率いていたバルザン・アッティクリーティだという(Ronen Bergman, “Rise and Kill First,” Random House, 2018)が、この組織には相当数のイスラエルのエージェントが潜入していて、暗殺の目標を決めたのもそうしたエージェントだったともされている。この事件を口実にしてイスラエルは6月6日にレバノンへ軍事侵攻、1万数千名の市民が殺された。(Alan Hart, “Zionism: Volume Three,” World Focus Publishing, 2005)
 アメリカ政府の仲裁で停戦が実現、8月21日にイスラエル軍が撤退、PLOも撤退を始めて9月1日には完了、12日には国際監視軍も引き揚げる。その直後、9月14日にファランジスト党のバシール・ジェマイエル党首が爆殺された。レバノンへの軍事侵攻を目論んでいたシャロンにとって好都合な出来事。その報復だとして同党のメンバーがイスラエル軍の支援を受けながらサブラとシャティーラ、両キャンプを襲撃したわけだ。
 この虐殺はイスラエルに対する批判を強めることになり、EUを中心にBDS(ボイコット、資本の引き揚げ、制裁)が展開される。歴史的に親イスラエルだったイギリスの労働党でもイスラエルに対する批判が強まり、党の方針が親パレスチナへ変更された。
 そうした情況を懸念したアメリカのロナルド・レーガン政権はイギリスとの結びつきを強めようと考え、メディア界の大物を呼び寄せて善後策を協議。そこで組織されたのがBAP(英米後継世代プロジェクト)である。アメリカとイギリスのエリートを一体化させることが組織の目的で、特徴のひとつは少なからぬメディアの記者や編集者が参加したことだ。
 そうした中、目をつけられたのがトニー・ブレア。1975年に大学を卒業した直後に彼は労働党へ入り、1983年の選挙で下院議員に選ばれている。その後、影の雇用大臣を経て1992年には影の内務大臣に指名された。
 その彼が妻のチェリー・ブースとともにイスラエル政府の招待で同国を訪問したのが1994年1月。帰国して2カ月後にブレアはロンドンのイスラエル大使館で開かれたパーティーに出席しているが、その時に全権公使だったギデオン・メイアーからマイケル・レビーを紹介されている。その後、レビーはブレアの重要なスポンサーになった。
 そのブレアが労働党の党首になるチャンスが訪れる。当時の労働党党首、ジョン・スミスが1994年の5月に急死、その1カ月後に行われた投票でブレアが勝利して新しい党首になったのである。
 レビーだけでなく、イスラエルとイギリスとの関係強化を目的としているという団体LFIを資金源にしていたブレアは労働組合を頼る必要がない。そのブレアは「ニューレーバー」の看板を掲げ、「ゆりかごから墓場まで」という歴史的な労働党の路線を放棄した。外交面では「親パレスチナ」に傾いていた労働党を再び「親イスラエル」に戻した。
 1997年5月に首相となったブレアの政策は国内でマーガレット・サッチャーと同じ新自由主義を推進、国外では親イスラエル的で好戦的なものだった。後にブレアはイラクへの先制攻撃を正当化するため、偽文書を作成している。
 ブレアはジェイコブ・ロスチャイルドやエブリン・ロベルト・デ・ロスチャイルドと親しいが、首相を辞めた後、JPモルガンやチューリッヒ・インターナショナルから報酬を得るようになる。
 こうしたブレアのネオコン的な政策への反発に後押しされて2015年9月から党首を務めめることになったのがジェレミー・コービン。アメリカやイギリスの情報機関もコービンを引きずり下ろそうと必死になり、有力メディアからも「反ユダヤ主義者」だと批判された。イギリスの支配システムは親パレスチナを許さない。
 コービンに対する攻撃には偽情報も使っているが、その重要な発信源のひとつが2015年に創設されたインテグリティ・イニシアチブ。イギリス外務省が資金を出している。「偽情報から民主主義を守る」としているが、その実態は偽情報を発信するプロパガンダ機関だ。
 そして​2020年4月4日、労働党の党首はキア・スターマーに交代。彼はイスラエルに接近、自分の妻ビクトリア・アレキサンダーの家族はユダヤ系だということをアピールしている​。彼女の父親の家族はポーランドから移住してきたユダヤ人で、テル・アビブにも親戚がいるという。労働党はブレアの路線へ戻った。
 そもそもイスラエル建国にはイギリスの富豪が深く関係している。
 イギリスの支配層は19世紀からロシア制圧を目指し、南コーカサスや中央アジア戦争を始めている。いわゆる「グレート・ゲーム」だ。これを進化させ、理論化したのがイギリスの地理学者、ハルフォード・マッキンダー。ユーラシア大陸の周辺部を海軍力で支配し、内陸部を締め上げるという戦略だ。
 この戦略を可能にしたのは1869年のスエズ運河完成、75年にはイギリスが経営権を手に入れた。運河を買収した人物はベンジャミン・ディズレーリだが、買収資金を提供したのはライオネル・ド・ロスチャイルドである。イギリスは1882年に運河地帯を占領し、軍事基地化している。世界戦略上、スエズ運河はそれだけ重要だった。(Laurent Guyenot, “From Yahweh To Zion,” Sifting and Winnowing, 2018)
 ディズレーリは1881年4月に死亡するが、その直後からフランス系のエドモンド・ジェームズ・ド・ロスチャイルドはテル・アビブを中心にパレスチナの土地を買い上げ、ユダヤ人入植者へ資金を提供しはじめている。この富豪の孫がエドモンド・アドルフ・ド・ロスチャイルドだ。
 中東で石油が発見されると、イギリスとフランスはその利権を手に入れようとする。そして1916年に両国は協定を結ぶ。フランスのフランソワ・ジョルジュ・ピコとイギリスのマーク・サイクスが中心的な役割を果たしたことからサイクス-ピコ協定と呼ばれている。その結果、トルコ東南部、イラク北部、シリア、レバノンをフランスが、ヨルダン、イラク南部、クウェートなどペルシャ湾西岸の石油地帯をイギリスがそれぞれ支配することになっていた。
 協定が結ばれた翌月にイギリスはオスマン帝国を分解するためにアラブ人の反乱を支援。工作の中心的な役割を果たしたのはイギリス外務省のアラブ局で、そこにサイクスやトーマス・ローレンスもいた。「アラビアのロレンス」とも呼ばれている、あのローレンスだ。