ユダ邪ネオシオニズムの選民思想、その万事逆さ見解について

 更新日/2019(平成31).3.4日

【古代ユダヤ人の選民思想】
 ユダ邪ネオシオニズムは、ユダヤ人の選民思想をより激化させたところに特徴がある。ここで、ユダヤ人の選民思想を確認しておく。「創世記15章18節」は「主の御言葉」として次のように陳(の)べている。
 「その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。『わたしはこの地をあなたの子孫に与える。エジプトの川から、かの大川ユフラテまで』」。

 ユダヤ人は、聖書のこの記述を根拠に、彼らは神の民に選ばれた民にしてエジプトの川からユフラテ川までの地域の支配権を授与されているとしている。

 このユダヤ人選民論に対して、「マタイによる福音書3章9節」によれば、イエスキリストは次のように述べたとされている。
 「自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ」。

 この言葉は、「石ころ」にはさほど意味はない。ユダヤの選民思想を批判しているところに意味がある。イエスキリストのユダヤの選民思想批判の例証としての「石ころ論」として伺う必要がある。
 関曠野著「民族とは何か」が次のように記している。
 「ユダヤ人の思想が、英国の宗教改に影響しており、フランスの政治思想、ドイツ左翼の政治文化、ソヴィエト・ロシアへと伝播している。「民族国家が国家形態の普遍的な規格に至るまでには、こうした模倣の連鎖があった」。

 太田龍の時事寸評と思われる「投稿 平成16年06月02日22時45分、デーヴィッド・アイクの「シオン長老の議定書」解説本としての「ロボットの反乱」(一九九四年)」は次のように記している。
 「シオン長老の議定書(プロトコール)はイルミナティの議定書(プロトコール)として位置づけられる。『ブラザフッドは、シュメール、エジプト以降六千年、その人数とその権力に於て巨大なものに成長した。そして今や彼等は、世界征服計画の新しい段階に入った』(前出、百三十八頁)、と言われるところのもの(ブラザフッド)とひとしい。『ブラザフッド』と言う言語は、日本語に直訳すれば、『兄弟団』とでも成るか。『超限定された血縁関係のエリート集団』。六千年前に遡ることが出来る、と、本書『ロボットの反乱』では述べて居る。イルミナティ・ブラザフッドであっていわゆる『ユダヤ(Jew)』ではない。しかし、いわゆるシオン長老の議定書には、ゴイム(goyim)と言う用語が著しく目立つ。英和辞書には、『goy(複数形はgoyim)/ユダヤ人から見て異邦人、異人種、異教徒』と出て居る。もちろんこの説明はおかしい。ゴイ(ゴイム)は、『ユダヤ人にとっての非ユダヤ人』であると同時に、『家畜、人間家畜、家畜人間』の意味を有する。
 

【れんだいこの「ネオシオニズム的優越思想」批判】
 「ユダヤ人の選民思想」を始めとするいわゆる「ネオシオニズム的優越思想」は、いかなるところで異色過ぎるのか、ここを問う。れんだいこは、「万事逆さ見解」に基づく政治経済文化精神体系を構築していると看做す。最も大元なる違いは、世界の諸思想は概ね諸国民、諸民族との共和を図りシルクロード交易を張り巡らそうとするのに対し、「ユダヤ人の選民思想」だけが突出して諸国民、諸民族との敵対的抗争を図りワンサイド利権交易を張り巡らそうとする、ことにある。これを成立させる為のありとあらゆる悪知恵を鍛え働かさせるのが彼らの社会教育である。しかもこれを歴史的に系統的にやる。こういう人種は珍しいというか他には居るまい。

【「旧約聖書の呪い」のれんだいこ解析】
 「★阿修羅♪ > 議論31 」のお天道様はお見通し氏の2019 年 1 月 16 日付投稿「旧約聖書の呪い」参照。
 概要「中東を中東として定めるのは、メソポタミア文明であり、旧約聖書である。これが登場したのは、創世記によればBC3800年頃で、有名なアブラハム=エイブラム=イブラヒムがセム族の末裔として最初の主役になっている。アブラハムか一子イサクを神に捧げ、殺そうとしたとき、神は、アブラハムの忠誠を認めて、イサク以下、子孫の繁栄を約束した。このときの契約こそが、旧い契約→旧約聖書の本当の意味である。旧訳と呼ぶのは大間違いで、キリスト教の教典には、この間違いが通っているが、ユダヤ教では通らない。

 このとき、契約した神が何者か? が、現代に至って大問題になっている。実は、ユダヤ教では、どうも、このときの神をルシファー=サタンであると考えているフシがある。ルシファーは、堕天使と呼ばれ、あらゆる悪魔の大御所なのだが、ユダヤ教は、彼と契約したといわれ、ユダヤ教徒による巨大カルトであるフリーメーソンも、ご神体としてルシファー=サタンを奉っているのは、ドル札や円札、世界のフリーメーソン国家に「ルシファーの眼」が君臨していることからも窺える。それがルシファーであった証拠は、旧約聖書の核心部にあるトーラー五書に明らかだ。そのなかのレビ記には、これでもかと、悪魔らしい恐ろしい殺人教唆が目白押しに書かれていて、旧約聖書の信者である、ユダヤ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒(例えばカトリックや福音派)などは、レビ記を忠実に実行しようとしてきた結果、世界最大級の死刑国家になっている。


 これを読んで、背筋が寒くならない人がいるとすれば、それは真のサイコパスだけだろう。 
https://www.biblegateway.com/passage/?search=%E3%83%AC%E3%83%93%E8%A8%98+
20&version=JLB


 レビ記は、「やられたら、やり返せ」と復讐の思想も教えている。有名なハムラビ法典もまた、同時期ではあるが、旧約聖書の報復思想から導き出された理屈と思われる。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%83%
93%E6%B3%95%E5%85%B8


 こうした報復の連鎖を強要するような旧約聖書の教えは、まさに人類にかけられた呪いであるというしかない。旧約聖書は、たった今でも、イサクの子孫であるユダヤ教徒とキリスト教徒、そしてイシュマエルの子孫であるイスラム教徒の心に覆い被さっていて、それは、人類の30億人に、人の愛や喜びを語るのではなく、報復制裁ばかりを語り、どうやって処刑するかというサイコパス的な恐ろしい価値観をもたらしている。これが旧約聖書の呪いでなくて何だというのだ?」。

(私論.私見)

 ここの下りは良い。
 「日本人は、旧約聖書の呪いから解放されているのだろうか? 違う!実は、日本の神道もまた、旧約聖書の呪いのなかにある。神道がもたらされたのは、もちろん秦氏(弓月氏)からであり、中東からシルクロードを経て伝えられた聖書の影響を強く受けている。それは、ネストリウス派といわれる新約聖書が合体した思想教義もあったが、それよりは、旧約聖書がモロに入ってきている証拠が、諏訪神社にあるし、秦氏は、福岡、出雲、福井など数カ所に上陸しているが、それらの神社の多くがユダヤ神社と呼ばれている。諏訪神社の祭祀は、旧約聖書の忠実なコピーであり、ユダヤ教そのものと思うしかない。また八坂神社も豊受神社も、ユダヤ神社といわれ、太秦も祇園も、ヘブライ語で解釈した方が意味が正確である。八百万の神などと、一神教ではなく自然信仰であると説明されることが多い神道ではあるが、それは、仏教と習合することで、意味が薄められていったのであって、本当は、実はユダヤ教であると考えた方が合理的なのだ。そこには、レビ記に描かれた恐ろしい報復制裁思想が息づいていて云々」。
(私論.私見)
 ここの下りが誤誘導である。「実は、日本の神道もまた、旧約聖書の呪いのなかにある。神道がもたらされたのは、もちろん秦氏(弓月氏)からであり、中東からシルクロードを経て伝えられた聖書の影響を強く受けている」のは云い得云い勝ちの論理であり、私などは日本神道固有自生論の立場にあり相容れない見解である。「八百万の神などと、一神教ではなく自然信仰であると説明されることが多い神道ではあるが、それは、仏教と習合することで、意味が薄められていったのであって、本当は、実はユダヤ教であると考えた方が合理的なのだ」も然りで、デタラメである。日本神道とユダヤ教を同視させようとするのは悪意のある詐術である。日本神道はユダヤ教と真逆な教理であるところに真価がある。
 「そもそも、旧約聖書の根源的な間違い=制裁報復という間違いを克服するためにイエスキリストが登場したのだ」。
(私論.私見)
 この観点は良い。
 「旧約信奉勢力は、たちまちイエスの思想を骨抜きにして、愛を捨てて報復だけを前面に出したカトリックやプロテスタントの「キリスト教」をでっちあげた。ドイツのカトリック教会では、戦後1980年代まで、異教徒を餓死させて、そのまま教会の門前に鉄籠に入れてさらし者にしていたのだ。こんな愚劣な発想では、ドイツがT4作戦に走るわけだ。
 http://storiastoria.com/wunderkammer/w-7.html

 アメリカのプロテスタント、共和党の支持母体であるキリスト教福音派は、戦争愛好家が集まっていることでも知られる。朝鮮戦争でもベトナム戦争でも、福音派は、積極的に戦争を支援し、北爆の皆殺し作戦に歓声をあげた。キリスト教徒というのは、人殺し大好き集団なのかと思うほどだ。日本のプロテスタントも、敗戦後、福音派が作ったものが多く、キリスト者が死刑制度に賛成しているのは、大半が、この人たちである。これじゃキリストも浮かばれないだろう……。右の手で、愛を語りながら、左の手で銃をぶっ放すのが旧約聖書を信奉するキリスト教とである」。

(私論.私見)
 言い過ぎのところもあるが、教えられるところが多い。

 「同じ意味で、イスラム教徒も、ジハードの義務から、際限のないテロに走るようでは、まるで未来に対する救いがないではないか? 自分たちが間違っていると批判する人は殺してしまえ、というのがイスラム教徒であり、一切、聞く耳を持たない。だから、イスラムについて論評すれば命の危険が及ぶので、誰も指摘しようとしない。これでは、彼らの本質的な心の間違いは、永久に正されることがない」。

(私論.私見)
 ここでイスラム教徒のジハードを持ち出しているところが臭い。本来なら、ユダヤ教徒とイスラム教徒のジハードの歴史的背景の考察に向かうべきところ、喧嘩両成敗式にして事たれりとしている。
1. 2019年1月16日 20:51:41 : O4pUfLwvsA : lleAWoei_CE[884] 報告
 帚木氏の著作『聖灰の暗号』にはキリスト教の異端とされているカタリ派をバチカンがどのように虐待し抹殺したのかが小説のかたちで記されていますが、カトリックが何を行ってきたか考えさせられ、カトリックという集団が政治勢力の一派でありそれ以外の何物でもなかったことがよくわかります。 歴代の「法王」以下カトリック組織が裏で子供を売買していた事が現在暴露され、小児虐待で全世界から批判されている最中だ。キリスト教集団が何を行ってきたか今日では知らない者はいない。

 「★阿修羅♪ > カルト30 」のポスト米英時代 氏の 2021 年 2 月 16 日付投稿「井口・ユダヤの屁理屈・目的は手段を正当化。それで矛盾した主張や加害者の癖に被害者ぶるという厚顔な事が平気でできる訳である」。
 要は嘘つきは泥棒の始まりという訳だが、泥棒そのものな連中だから、泥棒の為には嘘でも何でも強い意思を持って遂行する訳で、我々であれば努力を積み上げて目標を成就する刻苦勉励するようなノリで手段を選ばず泥棒に励む訳で、イチローのような努力や工夫を泥棒に注ぎ込むと言えばその手強さが実感できると思うが、そこに罪悪感や躊躇などない連中な訳である。逆に我々の勤勉さや誠実さをワンパターンの行動原理として悪用する訳で、我々をピッチャーに例えると完全にモーションも盗まれているし、コースも高さも球種も読まれている訳である。だから、連中のようにワルになる訳にはいかないが、我々で言えば卑怯な事を平気でする奴という前提で対処しなければ駄目で、一々連中のずる賢さに驚いていては駄目で、我々が思いつく限りの卑怯な事は全部やってくるという前提でいなければお話にならない連中で、中国や韓国ムカつくとか可愛い事を言っていては駄目なのである。

(私論.私見)

 ユダ邪思想の倒錯ぶりをうまく表現している。
 私ならこう言い換える。
 分かりやすくする為にユダ邪をA、非ユダ邪をBと言い換える。Aは、嘘つきは泥棒の始まりを承知で意図的故意に嘘をつくのを生業とする連中である。泥棒結構と自認しており、泥棒に利する為には嘘でも何でも強い意思を持って遂行する。Bが努力や工夫を積み上げて目標を成就する為に刻苦勉励するのに比して、Aはそのノリで手段を選ばず泥棒に励む。その励み方が尋常でない。そこに罪悪感や躊躇などない、むしろ正義的確信を以て執行する連中である。連中は、Bの勤勉さや誠実さをワンパターンの行動原理として研究し悪用する。Bをピッチャーに例えると完全にモーションも盗まれているし、コースも高さも球種も読まれている訳である。Bは、Aのように意図的故意になワルになる遺伝子を持たないが、Aは卑怯な事を平気でする奴である。一々連中のずる賢さに驚いていては駄目で、我々が思いつく限りの卑怯な事は全部やってくるという前提でいなければお話にならない連中である。

 興味深いことは次のことである。Aは、自分たちがしていることが如何に反道徳的非人倫的悪行であるかを承知していることである。このことがなぜ分かるのかというと、Aは、Bの側の有能者(Cと言い換える)を非難攻撃する際に、Aの所業をCに被せ、Cの悪行非道ぶりを満天下に暴き、満腔の怒りを以て糾弾するからである。メディアは、Cに対するAの糾弾ぶりを評してAを正義の士として称賛する。これがAとメディアの巾着関係である。こう捉える座標軸を持つ評論士はそう多くない。大概はAの太鼓持ち、囃子、チンドン屋である。




(私論.私見)