れんだいこのユダヤ聖書神話考 |
(最新見直し2006.10.28日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ユダヤ聖書神話の考証はいずれしておかねばならない案件である。しかしこれを本格的に為すには、れんだいこの人生が二つ三つ必要であろう。そういう訳で概略抽出で理解し、それを俎上に乗せて批判検討せざるを得ない。この経緯を経て、既にれんだいこの批判スタンスは決まっている。これをもたらしたのはマルクス主義ではない。中山みき教義である。れんだいこに映ずる中山みき教義はそれほど偉い。本サイトで、中山みき教義を学んだれんだいこならではのユダヤ聖書神話を為そうと思う。 れんだいこは何故ユダヤ聖書神話に拘るのか。それは、この神話の中にユダヤ教徒の根本的な思惟形式を見て取るからである。ユダヤ教ばかりではなかろう、一般に宗教に根本的な思惟形式を見て取ることができる。即ち、歴史に生成した全ての宗教に認められることである。恐らく宗教は、人間という生き物種族の相応に発達した頭脳が為せる思惟様式の最初の御技として位置づけられるべきものであり、その宗教が当該民族ないしは国家の政治経済文化の根本を規制している。 従って、当該民族ないしは国家が浸る宗教を暴くことは、当該民族ないしは国家の根幹の秘密を知ることになる。従って、各宗教の根幹を知る営為は、諸国家諸民族が互いを認め共存共栄するための予備として孫子流に先ず相手を知る必要から要請される。そういう重要事であると思料する。 その点で、宗教を一片のアヘン論で顧慮しなくさせる俗流マルクス主義は宗教問題の重要さを弁えておらず、それは悪しき性癖ではなかろうか。れんだいこは、宗教問題に対するアヘン論的一蹴見解を採らない。むしろ、宗教こそ全ての根源であり始まりであると捉え、その思惟、思想、イデオロギーを俎上に乗せ批判的に検証しようと思う。その上で、学ぶべきものは学び、排すべきものは排そうと思う。 ここで、ユダヤ聖書神話の解析に挑む理由は、これを信奉する現代世界を牛耳る国際金融資本帝国ネオ・シオニストの精神の基盤を覗く為である。国際金融資本帝国ネオ・シオニストは実際には、ユダヤ聖書神話よりもタルムードに重きを置いている。そういう意味ではタルムードの検証の方が直接的に有効であるが、タルムード生成の基礎を為しているのがユダヤ聖書神話であるからして、やはりここから論を説き起こさねばならないだろう。 2006.10.28日 れんだいこ拝 |
【「預言と予言」考】 |
一般に、霊能者に関わる「よ言」には「預言」と「予言」の二種類が有る。ヘブライ語では、「預言」と「予言」を厳格に識別している。「予言」はホーゼーで、先見者ないしは占い師という意味を持ち、将来の出来事を予言したものである。それに対し、「預言」はナビーで、神の命令ないしは意思を口述したものであり、神の意思をユダヤ民族に伝えたものとされている。 宗教学で重要なのは「預言」の方であり、故にこれを愚考する。れんだいこの知る限り、「預言」の西欧代表は、ユダヤ教の聖書であろう。キリスト教、イスラム教もまたこれを踏襲している。東洋代表は、中山みきのお筆先であろう。中山みきのお筆先の意義は、ユダヤ教聖書に対置的な教条を提起したことにある。これにより、ユダヤ教聖書が相対化させられることになった。そういう意味で、中山みきのお筆先の意義が思われているより大きいと看做すべきだろう。どちらも神の御言葉を記したとされているが、東西の記述に明らかに異質な違いが認められる。こうなると、「預言」の正体が怪しくなる。又は、どちらかの「預言」がニセモノということになろう。以下、これを愚考する。 |
【「ユダヤ教聖書のサタニズム神」考】 |
それにしてもつくづく考えさせられるのは、中山みきはどういう経路で「創世記」を生み出したのだろうかということである。これなかりせば、比較するものがないという理由により、真偽不明のユダヤ聖書神話を神の御言葉として鵜呑みにさせられる破目になり易い。れんだいこはたまたま「中山みき創世記」に通暁していたので、ユダヤ聖書神話を対自化させ、比較検討することができた。れんだいこは、僥倖的に「中山みき創世記」に触れたが実に有り難いことであった。 その比較検討から気づかされることは、ユダヤ聖書神話の説く神が、みきの説くそれと違ってサタニズム神であるという秘密である。こういう神を信仰すると、人は、信仰を深めれば深めるほどサタニズムの虜(とりこ)になる。ネオ・シオニズムは、サタニズム神信仰が当然にもたらしたイズムであり、その根源はユダヤ聖書神話にあると云うべきではなかろうか。彼らの指南書タルムードは、ユダヤ聖書神話が併せ持つ共生思想とサタニズムのうち、サタニズムに比重を移して導き出したイズムであるように思われる。 もとへ。ユダヤ聖書神話考は、遠い昔の神話時代の検証にとどまるのではなく、勝れて現代的課題性を帯びていると認識すべきだろう。そう云えば、ブッシュの妄言の端々にユダヤ聖書神話に基づく神観、社会観、歴史観が漏れるのも偶然ではないということになる。ユダヤ聖書神話考の現代的意義は、過去形のものではなく、現に生きて機能しているそのイズムであると踏まえ、故にそれを考察するところにあると云うべきだろう。 れんだいこは、本サイトで、ユダヤ聖書神話を概術した。ユダヤ聖書神話に登場するヤハウェは、概念的に一定していない。創造主でもあり、人格神でもあり、ユダヤの民に契約を迫る神でもあり、ユダヤの民に契約する神でもあり、奇跡を為す神でもあり、破戒する神でもあり、反省する神でもあり、ユダヤの民のみに恩寵を授ける神でもある。これを神義的に考証するのは不可能であろう。 思うに、神をそういう玉虫色に描いているところに注目すべきではなかろうか。考えようによれば不敬涜神であろう。実は、ユダヤ教の本質はまさにここにある。即ち、ユダヤ教とは信仰的宗教的に見えて実はその否定であるところに本質がある。パリサイ派教学は、そういう背反的信仰性を真骨頂としていた。ヨハネーイエスがパリサイ派教学を最も徹底的に批判して止まなかったのはここに真因があると看做すべきだろう。 もっとも、ここからややこしくなる。「信仰的に見えてその否定であり、宗教的に見えてその否定である」ユダヤ教の特にパリサイ派精神からは容易に宗教批判が導かれる。そうすると、意味を持ってくるのは赤裸々な現実であり、これを科学する必要が生まれる。こうして学問が生まれ、生の政治、経済、文化そのものの研究に向うことになる。この場合、人類史上どちらが有益なのであろうか、という疑問を迫ることになる。 れんだいこは、ユダヤ教の特にパリサイ派教学の効用は実はここにあると見立てている。人類史上彼らこそが逸早く宗教から決別して政治、経済、文化をそれとして研究する道を切り開いたのではなかろうか。それは人類史上の革命だったのではなかろうか。れんだいこはそのように認識している。だが、これを手放しで称讃できぬところにユダヤ教及びユダヤ人問題の難しさがある。彼らは、政治、経済、文化を赤裸々に対象化させながらも、やはりユダヤ教的選民主義から抜け出せない。その学問的効果をユダヤ教選民主義及び金貨信仰過多を特質とするいわゆるユダヤ人的に運用するという癖が抜けない。つまり、矛盾関係というか自己撞着関係というか背理に陥っている。 れんだいこは、ユダヤ教及びユダヤ人問題の考察の意義は実はここにあると見立てている。誰かがこれを素敵に簡略に解析せねばならないであろう。残念ながら、既成のマルクス主義にはまるっきりその能力はなかろう。という訳で、別智が要求されることになる。れんだいこはたまさか中山みき思想を知る機会を得、これの薫陶を受けている。故に、この角度から解析している。他の思想からの比較検討が大いに要請されているというべきであろう。 とりあえず以上記しておく。 2006.10.28日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)