「山本五十六は生きていた」考

 (最新見直し2010.05.30日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ヤコブ・モルガン・著「山本五十六は生きていた」( 第一企画出版、1995年刊)がサイトアップされている。これを貴重情報と認定し転載しておく。
《目次》
① 負けるべくして始まった太平洋戦争
② 米国のために重大な役割を果たした山本五十六
③ 日本兵を大量にムダ死にさせた山本の作戦
④ 山本五十六は戦死していなかった
⑤ あの戦争は世界支配層のシナリオだった


 2010.05.30日 れんだいこ拝
Space Navigator
黙示録の時代の必読書を紹介します。
  2012年の黙示録
1号室 2号室 3号室 4号室 5号室 6号室 食べ物 雑誌閲覧室
著書名 著者 出版社 UP
 7つのチャクラ  キャロライン・メイス  サンマーク文庫 '09.07.19
 闇の支配層に潰された世界を救う技術  ベンジャミン・フルフォード  講談社 '09.06.09
 仏教は心の科学  アルボムッレ・スマナサーラ  宝島社 '09.05.20
 心にまく種、心に咲く花  ジェームズ・アレン  Softbank '08.07.23
 霊の書  アラン・カーデック  潮文社 '08.04.20
 快癒力②  篠原佳年  サンマーク出版 '08.04.20
 快癒力  篠原佳年  サンマーク出版 '08.04.20
 まもなく日本が世界を救います  太田龍/B・フルフォード  成甲書房 '07.12.25
 光への道――ホワイト・イーグルの霊示  桑原啓善  でくのぼう出版 '07.10.03
 シルバー・バーチ霊言集  A・W・オースティン  潮文社 '07.09.25
 ユダヤ問題入門  太田龍  泰流社 '07.09.11
 あの戦争は世界支配層のシナリオだった  ヤコブ・モルガン  第一企画出版 '07.08.13
 山本五十六は戦死していなかった  ヤコブ・モルガン  第一企画出版 '07.08.13
 日本兵を大量にムダ死にさせた山本  ヤコブ・モルガン  第一企画出版 '07.08.13
 米国のため役割を果たした山本五十六  ヤコブ・モルガン  第一企画出版 '07.08.13
 負けるべくして始まった太平洋戦争  ヤコブ・モルガン  第一企画出版 '07.08.13
 日本に忍び入るユダヤ  牛山火壱  第一企画出版 '07.08.04
 世界権力構造の秘密  ユースタス・マリンズ  日本文芸社 '07.07.29
 大いなる秘密(下) 世界超黒幕  デーヴィッド・アイク  三交社 '07.07.16
 大いなる秘密(上) 爬虫類人  デーヴィッド・アイク  三交社 '07.07.16



山本五十六は生きていた1、負けるべくして始まった太平洋戦争
 はじめに  あなたの歴史観が180度変わります

 日本の未来に危機が迫っている。日本は滅亡への道をひた走っているのだ。

 日本の政治家はこの日本に何をしようとしているのであろうか。驚くなかれ、それは日本の破壊である。多く日本人は、政治とは日本国民の幸福の追求のためにあると信じている。だがそれは全くの誤りであり、幻想に他ならない。政治家は選挙によって国民から選ばれているのだから、国民のための政治をするのが当たり前だと思っているかも知れない。しかし、それでは政治というものの本質がまるでわかっていないことになる。

 日本人は国際情勢に対する認識の甘さや、政治家として軍部の横暴に歯止めをかけることができず、何度も国家の運営に失敗をしてきた。明治初期に国家大方針の選択を誤り、やがて太平洋戦争で高貴なる国家を滅亡させた。

 戦後の日本は平和である。平和すぎるから国民がみんなボケている。もはや集団催眠状態と言っていい。日本を取り巻く現在の世界情勢は、戦前にも増して危険の度合いを強めているにもかかわらず、そのことを十分に認識していない。日本人は今の平和がずっと続くと思っている。この日本人の認識の甘さにつけこんで、今の政治は再び日本を滅亡に導こうとしているのだ。

 日本には国家としての危機予知能力や管理システムは著しく不足している。いや、全くないと言ってもいい。ないからこそ、国際的な諸問題への対応も適切さを欠き、混迷する政治や長期化する不況にも有効な手が打てないでいる。日本が最も不得意とするものは「大局観」と「戦略」の構築である。

 この2つの重大な要素を欠くために、日本は国際社会において何度も失敗を繰り返す。日本にとって一層悲劇なのは、日本人自体の中に、日本を破壊し滅亡させようという徒党がいることである。彼らは明治以来一貫して日本の弱体化を画策してきた。こういう手合いは政界や軍部、財界、民間人、そして何と明治の元老の中にさえ多く見られた。彼らは一致協力して日本の進路を曲げ、破滅へと導いていった。

 再び日本は重大なる岐路に立っている。日本の政治は放置すれば必ず滅亡への舵取りを行なう。なぜならば、多く政治家たちは「世界支配層」に魂を売り、金で雇われているからである。

 小沢一郎が主導する連立政権は、日本に死刑を宣告するために生まれた政権である。そして平成の政治状況は、日本が太平洋戦争へと突入していった昭和の初期と酷似している。日本の政治とは日本の破壊のためにあった、と言っても怒るなかれ。歴史がそれを証明している。

(私論.私見)

 末尾の「小沢一郎が主導する連立政権は、日本に死刑を宣告するために生まれた政権である。そして平成の政治状況は、日本が太平洋戦争へと突入していった昭和の初期と酷似している。日本の政治とは日本の破壊のためにあった、と言っても怒るなかれ。歴史がそれを証明している」は何なんだろう。中曽根-小泉ラインを云うのなら分かるが、決まって田中角栄-小沢ラインに照準が合わされている。せっかく有益な指摘をしようとしているのに台無しである。

 2010.5.30日 れんだいこ拝

 白人種は元来戦闘的、侵略的

  人間はこの地球という惑星に知的生命活動を始めて以来、その生存のため、実に多くの生態を展開してきた。地球の環境というものは地球自体が球形であり、1億5000万kmのかなたから太陽光を受け、1年という周期で公転し、1日という単位で自転するとともに、その地軸が黄道面に対しておよそ23.5度傾いているがゆえに、その場所、地域によって大きく異なるのである。しかも地球はその表面積の71%を海でおおわれ、それによって隔離されたいくつかの大陸や亜大陸そして大小の島嶼によって成り立ち、気候や地形もはなはだしく相違を見せる。このような地球に古代より多くの人種・民族が住みつき、それぞれの場所で異なる環境に適応しながら生存を続けてきた。

  古代には現在のような通信手段やジェット機、高速鉄道などの交通手段はなかった。だからそれぞれの人種・民族は互いに隔離され、長い時を過ごしてきた。そして独自の言語、宗教、文化、風俗などを発展させてきたのである。 人間の性質は環境によって大きく影響されるものであるから、比較的大きな人間の集団である国家や民族単位も自然環境の好悪に応じてその性質は形成される。すなわち国民性や民族性である。

  厳しい自然環境で生きぬいてきた民族は、その性質も俊厳であり、戦闘的である。筋力や瞬発力も優れ、戦士としての体格にも恵まれている。また何よりもタクティクス(戦術)に長けている。そして勝ち残るためのストラテジー(戦略)も発達させた。一方、温帯や亜熱帯の豊かな土地で生活してきた民族の性質は温和であり、協調的である。ところがそのために戦闘力は弱く、体格も比較的小さい。 一般に白人と言われる人種、なかでもアングロ・サクソンやゲルマンなどは戦闘的でかつ戦略的な民族である。これに比べアジア人種、特に東南アジアや極東アジアの民族はおとなしく、ひ弱である。

  人間はひとりで生きられるものではないから集団を形成して生存をはかっている。その単位となるものは家族、部族、民族、国家である。このような単位が自然発生的なものであれば、血縁や同一の言語、宗教、文化、風習を共有することが結合のための条件となる。集団は家族単位から部族へ、さらに民族国家へと拡大していくが、歴史の進展過程では集団を統率する長は家長から族長へ、そして国王へと展開していく。部族や民族国家では古代ですら人口は数万人から数百万人ともなろう。このような大集団が機能するためには秩序ある規律が不可欠であり、そのための政治が必要となってくる。

  国家には国王を頂点とした権力機構が形成され、平和で理想的な国家であれば、国王は臣民を愛し、いつくしみ、その生活向上のためによき政治を行なう。また臣民は限りなく国王に対する敬愛の念を寄せる。なぜなら家長の延長が族長であり、そのまた延長が国王であるからで、部族、民族発生の起源以来、国王家族は臣民を代表し、かつまた愛し、統率・指導するからである。 国家はこうして国王を中心とした一大家族となり、運命をともにし、国王・臣民は互いに助け合い、愛し合うのである。このようなところから自然発生的に家族愛同様、民族心や愛国心というものは生まれてくるのである。国王は世襲制となり、臣民はこれを守り、歴代の国王がもたらす良き政治は国を発展させ、臣民の生活を豊かにする。
(私論.私見)
 平和に生きたい民族と略奪が日常の民族  

  ところが人間社会というものはこううまくはいかないものだ。まず第1に外敵の侵入・攻撃がある。敵が圧倒的な軍事力を有していれば王国は滅亡する。 第2に国王自身の悪政がある。長い王国の歴史上には必ず国王の資質上の問題で国家運営に破綻をきたすのである。そして3番目は臣民の中から野心家、陰謀家が現われ、国家体制の転覆を企てる。いわゆるクーデターである。この場合の首謀者は得てして外敵と通じあっている場合が多い。 いずれにせよ、1つの民族や国家が平和で安全に生存するためには、何と言っても確固たる中央権力とその政策を遂行するための行政機構、それに外敵から身を守るための軍組織が必要である。これは自明のことだ。

  国家は同一民族で成り立つべきものだが、そうであればなおさら他の民族国家とは利害関係をめぐり闘争しがちである。特に国境を接する国どうしでは絶え間なく戦争が起こる。戦争に勝ち残った大国家、帝国は領内に他民族を包含することになるが、ここに単一民族国家体制は崩れ、帝国の拡大とともに民族問題は潜在化していく。国家内で抑圧された民族や階層は反権力闘争を強めるのである。近世までほとんどの民族国家は絶対君主をいただく封建制であったが、このような体制を不満とする勢力は互いに連携して国家体制の転覆を企て実行した。

  17世紀におけるイギリスの清教徒革命、18世紀のアメリカ合衆国建国、フランス革命、19世紀の日本における明治維新、そして20世紀の辛亥革命、ロシア革命、さらにドイツ、オーストリア、トルコ、大日本帝国の崩壊である。 世界中の王国、帝国を倒壊していく過程で新たな権力の座についた「世界支配層」ユダヤ・イルミナティ・フリーメーソンは、打ち続く戦乱で鍛えられた白人層を世界征服のための先兵として駆使してきた。

  マクロ的に見ればヨーロッパやアメリカの白人層は相対的に国力を増大し、白人間の熾烈な闘争によって鍛えられた戦闘力でアフリカ、中近東、中南米そしてアジア太平洋地域へと侵入、その旺盛な物質的欲望と覇道主義によって世界の分割に乗り出したのである。16世紀から20世紀初頭に至る白人帝国主義国家による世界各地での残虐非道な植民地支配は、弱者である被支配地域に深い傷跡を残したが、その真実のすべては決して明らかにされることはない。その暴虐のすさまじさは、殺された人民の数もさることながら、地球規模で略奪された文化遺産や美術品の量を見ても明らかであろう。大英博物館やルーヴル博物館などはそれを証明している。

  残虐行為を働くものはその戦慄的行動の当事者であると同時に、情報の管理者でもある。大地が血の海となっても「血は一滴も流れなかった」と発表する。だが真実の一端はごくわずかの生存者によってもたらされ、語りつがれるのである。 アジア・太平洋地域では19世紀から20世紀中頃にかけて多くの悲劇がもたらされた。白人種によるアジア人種への圧迫と領土的、民族的支配によってである。19世紀中頃、アジアおよび太平洋の広大な領域はほとんど植民地としての徹底的な支配を受けた。 白人帝国の世界分割支配を陰で操ったのは国際ユダヤ勢力(イルミナティ)であり、その実行組織であるフリーメーソンである。

(私論.私見)

 団結力の強い日本民族を粉砕したいのだ   

  ところが東洋を完全支配しようとした「世界支配層」に大いなる誤算が生じた。それは日本の存在である。以前より日本にはすでに何人もの工作員を送りこみ、計画通りクーデターによって徳川幕府を倒壊することに成功した。その理由は幕末、維新を遂行した日本人の多くが洗脳され、忠実なるエージェントとなったことである。そして、ことはすべてうまく行くはずであった。だが東洋のいち島国にすぎなかった日本が、明治維新後の激しい欧化にもかかわらず、いつの間にか強烈なナショナリズムに目ざめ、いち早く封建制を脱却し、近代天皇制国家のもとで強力なる軍事力を保有、西欧列国に肩を並べ始めたのである。

  明治維新はまぎれもなく日本の封建的幕藩体制を倒すためのフリーメーソン革命であったが、国際ユダヤ勢力のひとつの誤算は、日本人が持っている天皇への絶対的とも言える忠誠心である。この権威の前にはユダヤ・フリーメーソンが仕掛けたいかなる内的・外的工作も効果を発揮し得なかった。 アジア分割支配のためには日本を屈服させ、無力化しなければならない。そのために周到なる準備が必要であった。ペリー艦隊が日本に送りこまれたのも、日本に開国を迫り国家体制を変革させることが目的であった。

  幕末・維新当時すでに何人かの日本人がフリーメーソンとなっていた。坂本龍馬はその代表的人物である。明治の国家大改造はフリーメーソン及び欧化主義者たちによってダイナミックに行なわれたが、その後の日本がたどった太平洋戦争に至る道すじのことごとくが「世界支配層」の描くシナリオ通りに事が運ばれたのである。けれども、ほとんどの日本人はこのことを知らなかった。日本人と大日本帝国は破壊すべくして破壊させられたのである。

  日本がかつて夢みた「アジアの盟主」たることや「王道楽土」の建設、そして「八紘一宇」の思想はことごとく挫折した。日本人がいく百万人もの兵士の血で遂行した大陸政策や戦争の数々も「世界支配層」の大計画の前には無力であった。と言うより、日本は見えざる手によって否応なしに敗北へと導かれていったのである。 米欧や中国との協調路線を主張した政治家も強硬路線を突っ走った軍部も、結局は「世界支配層」に操られていた。
(私論.私見)
 「 幕末・維新当時すでに何人かの日本人がフリーメーソンとなっていた。坂本龍馬はその代表的人物である」は舌足らずではなかろうか。坂本龍馬は確かにフリーメーソン機関に操られていたが、他の者はいざ知らずフリーメーソン員として加入していたかどうかは不明である。それと、その坂本龍馬の功績は、「船中八策」を通しで徳川家に大政奉還させ、フリーメーソンが企図していた内戦を回避させたことに最大の功績がある。これを思えば、「フリーメーソンの手の内に乗らなかった」のが坂本龍馬であり、それを「 幕末・維新当時すでに何人かの日本人がフリーメーソンとなっていた。坂本龍馬はその代表的人物である」と記すのは不実評論であろう。
 軍部の中枢が売国者(フリーメーソン)では勝てる訳がない  

  「大本営陸海軍発表。帝国陸海軍は本日未明、西大平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」――昭和16年(1941年)12月8日、早朝ラジオの臨時ニュースは日本が真珠湾を攻撃し、太平洋戦争に突入したことを報じた。日本はこの日より国家滅亡への道をひた走りに進んでいくのである。日本が米英を相手に戦いを始めたことは大局的かつ戦略的な失敗であった。だが、はたして当時の日本に他の選択肢があったかと言えば、それはなかったとしか言いようがない。

  明治以来、日本はアジア諸国を決して友邦として扱ってこなかったのみならず、アジア人を一段低いものとして蔑視すらしてきた。中国や朝鮮と連帯するどころか、植民地支配を続け、抗日、侮日のナショナリズムを高揚させたのである。日本はアジアの中で孤立し、ABCD(米・英・中・蘭)包囲網によって経済的に追いつめられていった。日本が描いた「大東亜共栄圈」の夢もアジア諸国の理解を得られたものではなく、日本が西欧植民地にとって代わるというスローガンでしかなかった。満州事変を正当化した「王道楽土」の建設も、結局中国人には通用しなかったのである。太平洋戦争はまさに「清水の舞台から飛び降りた」(東条英機)ものであった。

  だが、太平洋戦争が勃発せざるを得なかったのは、日本を戦争にひきずり込む、数々の歴史の罠と歯車が存在したからである。太平洋戦争は海軍が主体の戦争であった。アメリカを相手に戦って日本が勝つ見込みはほとんどなかったが、日本側にもし本来の高度な戦略とそれを実行する優秀かつ愛国心に燃えた将官がいれば、戦局は大いに違ったものとなっていただろう。日本帝国海軍の中枢は欧米派で色どられ、その内の主要な人物はユダヤ・フリーメーソンですらあった。このため日本の海軍はあらゆる太平洋上の戦闘で不可思議な動きをする。それは敵に手ごころを加え、まるで負けることを目的としたかの如き戦いぶりであった。

  また陸軍についても同様のことが言えた。大本営参謀本部の高級参謀たちはつねに無謀極まる作戦計画を立てては日本軍に多大な損害を与え、多くの将兵を失う結果を招来した。 陸軍参謀本部といえば陸軍大学を優秀な成績で卒業したエリート中のエリートである。その彼らが、まるで痴呆のように拙劣な作戦を立案してはそれを強行し、日本軍に取り返しのつかない打撃を与え続けたのである。 参謀本部のエリートたちもやはり日本を敗北に導くために「世界支配層」によって操られた者たちであったのだ。彼らの一部はユダヤ・フリーメーソンであり、またその一部はソ連と通謀した共産分子であった。 国家としてあろうことか、日本はこのような売国的戦争指導者たちによって太平洋戦争を戦わなければならなかったのである。

  太平洋戦争は大きく分けると4つの局面で展開していく。それは「開戦・進攻」、「戦局反転」、「特攻・玉砕」、「斜陽・終戦」である。そしてそれぞれの局面で日本軍はいつも決定的な失策を犯し、戦局は暗転していくが、その失策を犯す人間はある特定の人物であり、その人物の指導により日本軍は決まって壊滅的な打撃を受けるのである。太平洋戦争は勝てるはずの戦いであった。いや、勝てないまでもこのように悲惨な負け方をするはずのない戦争だった。日本軍の兵の士気、優秀さ、空母、戦艦、航空機など兵器や物量の点においても日本の戦力は充分にアメリカを凌駕できるものであった。 にもかかわらずこのような負け方をせざるを得なかったのは、戦略や作戦に携った司令官や参謀たちの多くが無能であったという以上に、敵と密通し日本が敗北することを望んだ奸たちがいたからに他ならない。日本は戦う前にすでに敗れていたのである。
(私論.私見)
 この戦争指導者たちがユダヤの手先である         

  太平洋戦争の全容は実に膨大であり、その戦闘のひとつひとつを語ることは数十冊の本をしても不可能に違いない。(中略)それぞれの戦局で日本軍を敗北に導く役割を果たした主な人物たちは次の通りである。

● 米内光政 ………海軍大将、海軍大臣、首相。フリーメーソン
● 山本五十六 ……連合艦隊司令長官、海軍大将・元帥。フリーメーソン。
● 南雲忠一 ………真珠湾攻撃時の第一航空戦隊司令長官、海軍中将、ミッドウェー海戦時の第一機動部隊指揮官。
● 源田実 …………第一航空艦隊参謀、海軍大佐。
● 井上成美 ………海軍軍務局長、第四艦隊司令長官、海軍中将。
● 原忠一 …………真珠湾攻撃時の第五航空隊司令官、海軍少将。
● 服部卓四郎 ……大本営参謀作戦課長、陸軍大佐。
● 辻正信 …………大本営参謀本部作戦課参謀、陸軍大佐。
● 瀬島龍三 ………大本営参謀本部作戦評参謀、陸軍中佐。
● 牟田口廉也 ……支那駐屯歩兵第一連隊長、ビルマ方面軍第一五軍司令官、陸軍中将。
● 栗田健男 ………第二艦隊司令長官、海軍中将。

  もちろん、彼らだけがすべてではない。日本の陸海軍の組織は複雑な派閥で形成されており、人脈は網の目のようにはりめぐらされていたから、日本軍が敗北していく過程には何百人、何千人という多くの協力者が暗躍したのである。重要なことは、日本軍や政財界の中には、日本が天皇制軍事国家であることを望まず、米英(ユダヤ)やソ連(ユダヤ)と通謀して日本の国体破壊にひたすら協力した者が大勢いたということである。
(私論.私見)
 東京裁判でも裁かれず戦後は英雄扱い  

  戦後、太平洋戦争を振り返って多くの本が出版されている。戦記ものから人物伝、敗北の原因探究を行なうもの、戦争の反省など無数とも言える書物が存在する。だが、日本の敗北が日本人自身の手によって現実化されたことを指摘する本は少ない。それどころか、真の戦争犯罪者は極東軍事法廷(東京裁判)でも裁かれず、戦後数々のフリーメーソン作家によって「英雄」または「偉人」として最大限に賞賛されている。米内光政や山本五十六、井上成美などがそうである。日本人は戦後においてもまだ歴史の真相を知らされず、騙され続けているのだ。太平洋戦争敗北の原因は、多くの研究家によって一般的に次のように分析されている。

● アメリカを敵としたこと。
● 真珠湾攻撃によるアメリカ兵の士気高揚。
● 大本営による机上のプラン(前線の実状無視)。
● 戦線の拡大、兵姑(へいたん)の無視。
● 兵器(含レーダー)の発達無視。
● 戦略なき戦術論。
● 銃剣突撃、決戦主義(精神主義)。
● 暗号の漏洩(日本はスパイ天国であった)。
● アメリカ本土での諜報線を断たれた(日系人の強制収容)。
● 潜水艦の使用法錯誤(米潜水艦は徹底して日本の補給線を断った)。
● 航空機の戦略的位置づけ錯誤(米航空機により制空権を奪われた)。
● 大艦巨砲主義から脱却できなかった。

  これらの分析は一応みな正しい。だが、知らずしてか意図してかはわからないが、戦後の歴史家、研究家が掲げていないもうひとつの原因がある。それは日本人のなかにいた「敗戦主義者」の存在である。彼らこそが歴史の深層に隠された最大にして最悪の原因だったのである。 大本営参謀本部、軍令部の高級参謀たち、そして陸海軍の将官、司令官たちがいかなる行動をとり、日本を敗北に導いたかその軌跡をたどることにしよう。
(私論.私見)

山本五十六は生きていた2、米国のために重大な役割を果たした山本五十六
 骨の髄まで親米派のフリーメーソン    

  山本五十六は明治17年4月4日、新潟県長岡の玉蔵院町に六男として生まれた。父・高野貞吉はすでに56歳に達していたので「五十六」と命名されたという。山本姓を名のるのは少佐時代の33歳のときに山本家の養子となってからである。 (中略)

  大正2年12月には巡洋艦「新高」の砲術長となるが、砲術学校時代には海兵29期で五十六より2期上の米内光政と交誼を深めた。米内も教官として赴任しており、五十六とは同じ部屋に起居している。二人はことごとく波長が合ったと言われるが、のちに米内海軍大臣、山本次官のコンビで、陸軍がすすめる三国同盟に真っ向から反対することになる。

  大正5年海軍大学を卒業、第二艦隊参謀となるが病気で休職、続いて同6年、海軍省軍務局第二課を経て8年5月20日、米国駐在となって横浜を出港した。アメリカではボストンのハーバード大学に籍を置き英語力を身につけた。

  大正末から昭和の初めにかけては再び渡米し、日本大使館付武官として2回目の米国在勤をしている。米国在留中に五十六は中佐に昇進、アメリカの産業やヤンキー精神に強く瞠目するが、五十六がフリーメーソンに入信したのもこの頃と思われる。五十六は在任中にアメリカで石油および航空軍備について強い影響を受けた。

  大正7年に五十六は帰国、10年から12年半ばまで海軍大学の教官に任じた。その後9カ月の欧州視察旅行を終え、大正13年3月帰国。そして1年3カ月後、五十六は三たび渡米。アメリカの日本大使館付武官となった。戦前の海軍でこれほどアメリカと縁の深い軍人は他にいないのではないか。 山本五十六が骨の髄まで親米派となる過程は、このようにして造られたのである。
 空軍の重要性を熟知しながら設立を拒否        

  山本五十六は戦術兵器としての戦闘機改良には大いに貢献したと言えるが、海軍の航空化には賛成しても、空軍の独立には一貫して反対であった。イギリスではすでに大正7年(1918年)に空軍を独立、ドイツでもナチス政権が昭和10年(1940年)には空軍を創設していた。あれほど航空戦力を重視した五十六に、空軍独立の必要性と重要性がわからなかったはずはない。山本五十六は意図的に日本空軍の創設を拒んだのである。

  その狙いは2つあった。1つは、日本が独立した空軍を持つことで(米英軍に対して)戦略的な優位に立つことを恐れたからであり、もう1つは、来たるべき対米戦で真珠湾攻撃を行なう際に、すべての航空戦力を自分の指揮下に置いておくためであった。日本の航空戦力を海軍の補助戦力として位置づけることによって、日本は確実にアメリカよりは劣勢でいることができる。フリーメーソンの山本五十六はそのように考えたに違いない。海軍大学校教官・加来止男中佐(のちに空母「飛龍」艦長。ミッドウエー海戦で艦と運命をともにした)と陸軍大学校教官・青木少佐は連名で、陸・海大学校長あてに空軍独立の意見書を提出するが、山本五十六を本部長とする海軍航空本部はこれに対して、正式に空軍独立反対を表明するのである。
 真珠湾奇襲攻撃でルーズヴェルトに協力 

  連合艦隊司令長官に就任した山本五十六は日米開戦はもはや避けられないものとして、いつの間にか真珠湾攻撃を口にするようになる。欧州ではすでに昭和14年(1939年)9月3日、第2次世界大戦が勃発してドイツが破竹の進撃を続けていた。欧州で苦戦を続ける英仏を救済しアメリカを参戦させることはアメリカ大統領フランクリン・D・ルーズヴェルトの基本戦略であった。ルーズヴェルトは英首相チャーチルと共謀して日本を追い込み、先に攻撃を仕掛けさせてアメリカの世論を激昂させ、その怒りで対独伊戦、対日戦を正統化しようと目論んだ。

  フリーメーソン山本五十六はルーズヴェルトとチャーチルに協力してハワイ奇襲攻撃の構想を練ったのである。 山本五十六が連合艦隊司令長官に就任して半年あまり経った昭和15年3月、真珠湾攻撃を想定した実戦さながらの雷撃訓練が行なわれた。五十六の計画の中には、すでに機動部隊による真珠湾攻撃の具体的構想があったのである。 ハワイ奇襲攻撃の猛訓練は鹿児島県志布志湾を中心に行なわれた。こうして訓練に訓練を重ねた第一航空艦隊(空母6隻を中心とした機動部隊。司令長官は南雲忠一中将)は択捉島単冠(ひとかっぷ)湾に集結、昭和16年(1941年)11月26日、秘かにハワイに向けて出航した。日本時間12月8日午前3時25分、6隻の日本空母から発進した第一次攻撃隊183機は、ハワイ・オアフ島パール・ハーバーにあるアメリカ太平洋艦隊の基地を奇襲した。

  アメリカ大統領ルーズヴェルトはこの奇襲攻撃を事前に知っていた。日本の外務省が使用していた「紫暗号(パープル)」はアメリカに筒抜けであったが、この裏には日本に暗号解読の協力者がいたと見なければならぬ。真珠湾に集結していた米太平洋艦隊は、主なもので戦艦が8隻、重巡1隻、軽巡3隻、そして駆逐艦5隻で、総計17隻であった。 不思議なことに空母レキシソトンはミッドウェーに飛行機を輸送中であり、エンタープライズはやはり飛行機を輸送しての帰路で不在、サラトガはアメリカ本土西海岸にいたために無事であった。

  被害を受けた戦艦はいずれも1910~1920年代に就役した旧式艦であり、しかも攻撃し易いようにわざわざ真珠湾に沿って一列に並べて停泊してあった。戦艦アリゾナは撃沈、他の艦は転覆、海底沈座、大破、中破、小破などの被害を受けたが、真珠湾は海底が浅く、海底に沈座した戦艦等はいずれも引き上げが容易で、短期間のうちに修理、再就役し、太平洋戦争中期からは攻撃力を発揮したのである。

  こうしてみると真珠湾攻撃というのは一種の茶番劇であったことがわかる。山本五十六は真珠湾攻撃の「大成功」により英雄視されているが、その結果残ったものは「日本の卑怯な騙し討ち」という非難と、アメリカの対日積極参戦の意識高揚、そして今も観光地ハワイの真珠湾海底に沈む戦艦アリゾナの残骸だけである。この時死んだアメリカ兵2403名は今でもアメリカ人にとって対日憎悪の原因となっている。
 最後通牒を遅らせた大使館員は戦後大出世
  真珠湾攻撃にはいくつかの不可解なことが起こっている。ひとつは宣戦布告の通知が遅れたこと、そしてもうひとつは攻撃の不徹底さである。通知が遅れた件に関しては、これは最初からそう仕組まれたものであったと言うほかはない。日本から発せられた最後通牒は時間的にも充分間に合うものであった。東郷外相の訓令は対米宣戦布告の最後通牒の手交をフシントン時間、12月7日午後1時に行なうものであった。ところが野村、来栖大使が実際にそれをハル国務長官に手交したのは午後2時であり、その時真珠湾はすでに猛火と黒煙に包まれていた。最後通牒の手交がなぜ遅れたかについてはもっともらしい説明がつけられている。

  対米最後通牒の電報は14通から成り、その内の13通はアメリカ時間の12月6日中に日本大使館に到着し、すでに電信課によって暗号解読され、その日のうちに書記官に提出されていた。残り、すなわち最後の14通目は翌7日早朝(ワシントン時間)に大使館に到着、同時に最後通牒の覚書を7日午後1時に手交すべく訓令した電報も大使館には届いていた。 その時の大使館の様子は次の如くであったとされる。

●14通の電報は2種類の暗号を重ねたニ重暗号であり、最初の13通は12月6日午後1時から入電を開始、ほぼ同時に専門の電信官によって暗号解読が始まった。午後8時半頃事務総括の井口貞夫参事官が解読作業中の若手外交官たちを誘って行きつけの中華料理店の一室で夕食会を開く。これは寺崎英成一等書記官の中南米転任送別会をかねていた。

●7日、早朝13通分の電文タイプを開始。寺崎一等書記官は妻グエンと娘のマリコ、および妻の母とともに郊外にドライブ、連絡もつかない状況であった。

●7日の朝、大使館の電信課宿直員で若い熱心なクリスチャン藤山猶一は14通目の電報ともう1通の「最後通牒」の手交時間訓令の電報を入手したが、その日は日曜日であったため、教会の礼拝に出かけ、電信課の責任者であり前夜宿直していた奥村勝蔵首席一等書記官および松平康東一等書記官に対し連絡を怠った。

  14通目の電報の暗号解読が7日の何時から始められたかの公式記録はない。だが前日に受信した13通の電報がすでに解読されており、事の重大性に大使館全員が気づかないはずはない。重大であればこそ大使館員全員が待機して14通目の到来を待ち、それ以前の13通分についても事前にタイプを済ませて、いつでもハル国務長官に提出できるようにしておくのが当然であったろう。

  だが実際にタイプが始まったのは7日午前7時半頃からであり、14通目の暗号解読が終わったと推定される午前10時頃までは奥村一等書記官によるのんびりしたペースであった。ところが午前11時過ぎに最後通牒の手交時開が午後1時であることがわかり、大使館は騒然となった。だが日本の外務省から秘密保持のためタイピストを使わぬよう指示されていた日本大使館では、慣れない奥村がタイプを打ち続け、終了したのが真珠湾攻撃開始後の1時25分、ハル長官に野村、来栖大使が手交したのは1時55分であった。

  この外務省、日本大使館の動きは全く理解に苦しむものである。まず外務省であるが、わずか残り数行にすぎない14通目と最後通牒文である電報を、なぜわざわざそれまでの13通よりはるかに遅れて発信したのか。さらにこの重要な時期になぜ寺崎一等書記官を転任させる処置をとったのか。またなぜ秘密保持と称して専門のタイピストを使用禁止にしたのか――などである。

  大使館側にも深い疑惑は残る。大使館員十数人全員が、まるで事の重大性をわきまえぬ無神経かつ怠慢な動きをとっていることだ。これは一体何を物語るものであろうか。答は2つ。外務省の大使館員は天下一の無能集団であるか、さもなくば確信犯であったということである。おそらく真相は後者であろう。

  戦後ポルトガル駐在公使だった森島守人が、帰国するなり吉田茂外相にこの最後通牒手交遅延の責任を明らかにするよう進言したが、吉田は結局この件をうやむやに葬り去ってしまった。吉田茂こそ日本を敗北に導いた元凶のひとりフリーメーソンであった。当時の日本大使館員たちは戦後いずれも「功労者」として外務次官や駐米、国連大使となり栄進した。 日米開戦の最後通牒が遅れ、真珠湾攻撃が卑怯な騙し討ちになったことで、アメリカ人の世論は開戦派が以前の3%から90%にはね上がっている。日本外務省と大使館の責任はまことに大きいと言わざるを得ない。
 不徹底な攻撃で米国を助ける      

  ところで「攻撃の不徹底」であるがそれには2つの意味がある。 ひとつは真珠湾上のアメリカ海軍艦船に対するものであり、もうひとつはハワイ太平洋艦隊海軍基地の陸上軍事施設に対するものである。真珠湾攻撃で受けたアメリカ太平洋艦隊の実際の被害状況は当初発表された程大きなものではなかった。戦艦8隻のうちアリゾナとオクラホマを除き残りの6隻はその後すべて水深15メートルという浅い海底から引き上げられ、修理されて、いずれも戦線へ復帰して大活躍しているのである。

  また陸上施設については南雲第一航空艦隊司令長官による第1次、第2次攻撃隊は全く手を触れておらず、第3次攻撃隊を出すことも中止している。第3次攻撃に関してはほとんどの艦隊幕僚が実行の提案をし、現に第11航空艦隊司令長官の山口多聞少将は第3波攻撃準備を完了していたが、南雲中将や草鹿第一航空艦隊参謀長や源田参謀はおろか、はるか後方の旗艦「長門」で高見の見物をしていた山本五十六連合艦隊司令長官までがその必要性を認めていないのである。

  もし、この時第3次攻撃を敢行し、艦隊に対するもっと徹底した攻撃と、陸上のハワイ空軍基地の格納庫、補給庫、給油施設、武器弾薬貯蔵庫、さらにはアメリカ海軍基地の補給、修理施設、工場群、燃料タソク群を破壊しておれば、太平洋の戦局は大いに変わったものとなったであろう。

  ハワイがアメリカの太平洋艦隊の最も重要な海軍基地であったことを考えるならば、この攻撃不徹底はいかにも奇異なものであると言わなければならない。ハワイの燃料タンクに貯蔵されていた重油450万バレルを爆撃しておれば、アメリカ本土からの補給は数カ月間にわたって不可能となり、アメリカの太平洋艦隊は身動きがとれなかったのである。 さらにもうひとつつけ加えるならば、ハワイ攻撃の日がなぜ12月8日であったかということだ。もちろん日米交渉の行き詰まり、最後通牒の日程上この日になったというのはひとつの説明であるが、山本長官が、この日は真珠湾にアメリカ空母がいないことをあらかじめ知っていたからであろう。 山本五十六はハワイを徹底攻撃する気は最初からなかった。日本がアメリカを奇襲攻撃し、「卑怯な日本」という既成事実をつくればそれでよかったのである。

山本五十六は生きていた3、日本兵を大量にムダ死にさせた山本の作戦
 日本の連合艦隊の撃滅が山本の目的  

  昭和17年5月、帝国陸海軍はニューギニア進攻作戦を実行する。この作戦の主目的はニューギニアのポートモレスビーを攻略して強固な前進基地を構築し、アメリカとオーストラリアの分断を計り、オーストラリアを孤立させることだった。この頃、大本営では陸海軍の戦略思想の対立が再び深刻化、陸・海軍省および参謀本部・軍全部で戦争指導計画の再検討が行なわれ、「今後採ルペキ戦闘指導ノ大綱」が妥協によって3月7日に成立した。そして「戦況の許す限り、できるだけ早く占領あるいは撃滅する必要のある地域」として次の3部に分けられた。

(1) ソロモン諸島のツラギ、およびニューギニア南岸のポートモレスビーの基地を占領し、珊瑚海とオーストラリア北部の支配権を確立する。

(2) ハワイ北西の太平洋上に広がるミッドウェー環礁を一挙に水陸両面作戦により襲撃する。

(3) フィジー、サモア、ニューカレドニアを結ぶ線を確保し、アメリカ合衆国とオーストラリアとの直接連絡路を断つ。

  このうち(1)と(2)は山本長官の発案だった。計画(1)の暗号名は「MO」、計画(2)は「MI」とされ、この2作戦が失敗した場合、計画(3)は中止するというものだった。こうして先ず「MO」作戦が山本長官の強い意志で実行されたのであるが、その真の意図は、この作戦によりアメリカ太平洋艦隊をこの海域におびき出して決戦を挑み、日本の連合艦隊を撃滅させることだった。

  驚くなかれ、山本長官の狙いはアメリカの太平洋艦隊を撃破することではなく、その逆だったのである。ニューギニア進攻作戦そのものは米豪連合軍の激しい反撃に遭って挫折、ポートモレスビーの陸路進攻も失敗するが、海路からこの地を攻略するため井上成美中将の指揮する第四艦隊は、珊瑚海において5月7日、8日の両日、アメリカ太平洋艦隊(司令長官チェスター・W・ニミッツ大将)と激突するのである。

  この海戦で日米はほぼ互角のたたき合いとなり、7日の戦闘で日本側は空母「祥胤」1隻を失い、米側は駆逐艦と油槽艦各1隻、続いて8日は日本側は空母「翔鶴」が被弾、米側は空母「レキシソトン」が沈没、「ヨーククウン」は大破した。ところがこの時、井上中将はなぜか「ヨークタウン」にとどめをさすことをせず、攻撃を中止して北上するのである。この「ヨーククウン」がハワイの海軍基地に帰り、わずか2日間で修理されて2カ月後に起こったミッドウェー海戦に参加、あの連合艦隊撃滅の立役者となるのである。

  この珊瑚海海戦で井上成美第四艦隊司令長官の果たした役割は一体何であろうか。それは「手ぬるい攻撃」によって引き起こされた戦術的勝利・戦略的大敗北に他ならない。 しかも真珠湾攻撃同様、暗号はことごとく米軍によって解読されていた。ニミッツによる空母2隻の急派も日本海軍のMO作戦をすべて事前に知っていたからであった。結果として日本軍はポートモレスビーの攻略に失敗、南太平洋の戦局は厳しいものとなり、日本軍の限界を示すものとなった。
 なぜ暗号が米軍に筒抜けになるか 

  こうしてミッドウェー攻略作戦は陽動作戦であるアリューシャン作戦とともに陸海軍の合同兵力で推進されることになった。ミッドウェーは太平洋上の最西端に位置する拠点であった。日本にとってもこの地点を攻略することにより東京空襲の阻止はもちろんハワイの再爆撃も可能であった。当然この作戦は秘密裡に、しかも迅速に遂行されねばならなかった。

  ところが日本海軍が用いていた暗号はことごとくアメリカの暗号解読班によって傍受され、その全容はアメリカ海軍首脳部に筒抜けであった。日本海軍は秘密保持のため「JN25暗号」を定期的に変更すべきところを怠ったのである。 本来、変更は4月1日の予定であった。これが5月1日に延期され、さらに戦闘開始直前の5月28日まで再延期された。このおかけで米暗号解読班は「JN25」を完全に解読するチャンスを得たのである。

  この暗号解読により日本軍が画策したアリューシャン列島への陽動作戦は全く用をなさず、始まる前からアメリカ軍にはわかっていたので、ニミッツは全力をミッドウェーに投入するために迅速な手を打った。6月4目の海戦に備えてフレッチャー少将の率いる第17機動部隊(空母「ヨークタウン」など)は日本軍に悟られることなく絶好の位置に待ち伏せすることができた。

  山本長官は暗号の変更を延ばし延ばしにし、アメリカ側に「MI作戦」の全貌を知らせた上で日本海軍の総力を投入し、その壊滅を策謀したのである。ミッドウェー作戦には、無能であり、しくじることがわかっている南雲忠一中将や草鹿龍之助少将を最も重要な機動部隊に起用し、自らは後方400キロの北西海上で旗艦「大和」や戦艦「長門」「陸奥」などとともに主力部隊にとどまり、これまた高見の見物をしていたのである。

  米太平洋艦隊司令長官チェスター・W・ニミッツは珊瑚海海戦で空母「レキシントン」を失い「ヨークタウン」を大破された第17機動部隊司令長官J・フレッチャー少将をハワイに急遽呼び戻し、さらに珊瑚海海戦に間に合わず無疵でいたハルゼー中将率いる第16機動部隊を合衆国艦隊司令長官E・J・キングの反対を押し切ってミッドウェーに急派、司令長官をハルゼーからレイモンド・A・スプルーアンスに交替させた上で空母「エンタープライズ」と「ホーネット」の2隻を投入した。 ミッドウェー海戦に投入された空母3隻のうち「エンタープライズ」は、真珠湾攻撃のときに取り逃がした空母のうちの1隻だった。
 山本長官は常に後方で高見の見物

  この時点において日本側は「ヨークタウン」「レキシントン」の空母2隻は珊瑚海で沈没、「エンタープライズ」「ホーネット」もはるか南方海域にいるはずと固く信じていた。日本側は連合艦隊始まって以来の大艦隊を編成。山本長官の指揮下には空母8隻、「大和」、「武蔵」など戦艦11隻、巡洋艦22隻、駆逐艦65隻、潜水艦20隻など合わせて艦船200隻、総トン数150万トン、さらに飛行機700機を含めて動員数10万人の将兵という堂々たる陣容を形成した。 これだけの大戦力を持ちながらミッドウェー海戦で日本側は大敗北を喫してしまった。この海戦で日本は虎の子の空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の4隻を一度に失ったのである。アメリカ側の損害は空母「ヨークタウン」1隻にとどまった。このような大敗北は全く予期せざるものであった。

  日本は勝てる戦争を敗れるべくして敗れたのである。敗北の「大原因」すなわち戦略的失敗をもたらしたのは山本五十六であり、それは意図されたものだった。いくつかの予期せざる偶然、悪運が重なったとはいうものの、戦術的「大失策」を犯したのは南雲機動部隊司令長官だった。南雲は刻々と変化する戦況を的確に判断することができず、逡巡し、誤った判断を下した。本来の目的であったミッドウェー島の基地爆撃も、上陸も果たせず、アメリカの艦隊撃破にも失敗した。

  南雲の指揮した空母では帰投して上空で着艦を待つミッドウェー攻撃隊の収容と、第2次攻撃のための爆弾および敵空母攻撃のための魚雷換装をめぐって判断が遅れ、結果的に米艦隊の猛攻を受けて次々と沈没したのである。かろうじて山口多聞少将率いる空母「飛龍」が攻撃機を飛ばし米空母「ヨークタウン」に甚大な損害を与えた。6月7日、ハワイに向けて曳航中の「ヨークタウン」を日本の潜水艦が撃沈した。

  ミッドウェーで山本長官がなぜ空母部隊のみを突入させ、自らは戦艦とともに安全圏にいたのかは一種の謎であった。空母を中心とする機動部隊本務はそもそも制空権の獲得であり、敵機動部隊の撃破もその一環であるが、逆に攻撃を受けた時には艦隊防御能力は極めて低い。日本海軍の誇る戦艦「大和」「武蔵」「長門」など高い防御能力を持った戦艦群ははるか後方にあって、連合艦隊司令部の護衛などという戦略的に無意味な任務に就いていた。機動部隊の空母を防御していたのは駆逐艦など数隻であり、その陣容にも大いに問題があった。米機動部隊の陣形が空母中心におよそ1.5㎞の距離を保ち、1隻ごとに巡洋艦、駆逐艦を多数配置して輪陣を組み空母上空に濃密なる弾幕を張り、防御能力を最大限に高めていたのに対して、日本の空母は2隻並んでいる上にわずかの駆逐艦を横に配置しているだけであった。これでは空母に対する防御が手薄であり、米機にとっていかにも攻撃しやすい陣形になっていた。

  珊瑚海海戦で軽空母「祥鳳」が撃沈、「翔鶴」が大破するという苦渋を味わったのもこの艦隊防空能力の欠如であった。連合艦隊は1カ月前の苦い教訓を生かすことができなかったのだ。日本側が機動部隊に充分な対空防御能力をつけておれば、敵機襲撃に対しても時間的余裕が生まれ、空母での攻撃機兵装を大急ぎで取り替えるという混乱は起こり得なかったであろう。 だが山本長官個人を守るために温存された強力な戦力はついに一度も投入されることなく、大事な空母を米機の攻撃にさらし、海の藻屑と消えさせたのであった。
 真珠湾もミッドウェーも山本が強引に決行

  真珠湾攻撃のときもそうであったが、ミッドウェー攻略作戦もまた山本長官の強引な主張によって計画されたものであった。山本長官の主張とは「昭和17年(1941年)中に米太平洋艦隊をおびき出してこれを撃滅する。そのためのエサとしてはミッドウェーが最適であり、ここを占領してハワイに脅威を与えればアメリカの戦意は著しく衰え、それによって和平交渉への道が開かれる」というものであった。

  だがこの計画に対して東京の海軍軍令部は強い反対論を唱えた。その第一の理由は「占領後のミッドウェーの戦略的価値が疑わしい」というものである。ミッドウェーはハワイからわずか1800キロしか離れていないため、ハワイの陸上基地から攻撃機が殺到し、すぐに奪還されるに違いないし、ミッドウェーを占領しても、日本の奇襲以来ハワイの基地を強化し続けてきた米軍にとって脅威にはならず、米国民の士気に影響を与えることはなく、従ってアメリカが和平交渉を提案することはあり得ない、というのである。 また日本の偵察機の行動半径は20キロにすぎないので、広大な太平洋のまんなかで有効なる偵察任務は果たせない、と反論した。

  それよりもニューカレドニア、フィジー、サモア諸島に対する攻撃を強め、オーストラリアとの分断をはかるほうが戦略的価値は高く、アメリカ艦隊も本国基地から遠く離れているので、補給困難に陥るだろうとし、米艦隊をおびき出す目的であれば、オーストラリアが自国の海岸線をおびやかされるためアメリカに救援をたのむのは確実である、と強く反駁したのである。

  ところが山本長官は、「敵の空母勢力を撃破すれば自ずから米豪間は分断されるので、まずミッドウェーで敵の空母をおびき出し、これを必ず撃破してみせる」と豪語したのである。山本長官の主張はかたくなにミッドウェー攻撃一点ばりであった。 ミッドウェーがアメリカ最大の海軍基地ハワイの近くであり、戦略的に日本が不利なことは一目瞭然である。にもかかわらず、山本長官がミッドウェーに固執し一歩も譲らなかったのはルーズヴェルトとの間に秘密の協定があり、日本の連合艦隊をここで壊滅させる約束をしていたからに違いない。

  そもそもハワイ真珠湾で航空機による奇襲攻撃を実施し、航空機のもつ破壊力と重要性をわざわざアメリカに教えたことのみならず、生産力では圧倒的に勝るアメリカがこのことを教訓に大量生産のもと、航空戦力の飛躍的増大をはかったことは山本長官の決定的ミス(実は陰謀)ではなかろうか。以後アメリカはあらゆる戦局で航空戦を挑み、日本を圧倒していくのである。

  ミッドウェー作戦自体も、真珠湾攻撃同様山本長官が立案したものであるが、山本長官の表向きの主張はミッドウェー島の攻略と米空母部隊をおびき出した上で、これと決戦をするという2つの目的であり、首尾よく米空母部隊を撃滅できた場合は、続いて10月頃ハワイを攻略するというものであったが、真の隠された狙いは日本の連合艦隊を破壊に導くことであった。

  アメリカは充分に航空戦の練習を積み、山本長官のさし出した獲物に向かって殺到したのである。山本長官の作戦に対し大本営海軍部は大反対であった。だが山本長官はその反対にはまったく耳を貨そうとしなかった。最後は山本長官とは腐れ縁であった永野修身軍令部総長の決裁でミッドウェー作戦は認可された。 いくら連合艦隊司令長官が特殊な立場であり強い権限を持っていたからと言っても、大本営軍令部にこれほどまで楯つくことは異常であった。フリーメーソン山本長官はルーズヴェルト大統領(フリーメーソン33位階)やチャーチル英首相(フリーメーソン)との約束を死守したのである。ミッドウェー海戦で首尾よく日本の空母部隊を壊滅させた山本長官は、次のガダルカナル、ソロモン海戦で日本軍敗北の総仕上げを行ない、自らはアメリカ側と通謀の上、逃亡計画を実行する。ブーゲンビル上空での戦死狂言である。ではそこに到るまでのプロセスを見ることにしよう。

山本五十六は生きていた4、山本五十六は戦死していなかった
 悲劇のガダルカナルを生んだ大本営軍令部

  ミッドウェーは太平洋戦争全体を通じてまさにターニングポイントであった。この敗北以来、日本の帝国陸海軍は苦況に陥るのである。それを象徴するのがミッドウェーの海戦であった。 「MO作戦」でニューギニアのモレスビー攻略に失敗した日本軍が、米豪を分断するため、次に戦略的拠点として選んだのが南太平洋ソロモン諸島の主島ガダルカナル島である。この島に飛行場を敷設し、強力な基地航空隊をおけば、南西太平洋の制海権(制空権ではない)が得られ、アメリカとオーストラリアの連絡は分断され、オーストラリア北東部は日本軍の攻撃範囲となり、ここに猛攻を加えることによりオーストラリアを厭戦気分に陥し入れ、連合軍からの脱落を誘い、日豪単独講和にもち込むことができればアメリカも戦意を喪失、日米の和平も実現できるのではないかと海軍は考えていた。 (中略)

  ガダルカナル戦およびソロモン海戦で極めて特徴的なことは、日本軍に戦略というものが全く存在しなかったことだ。山本長官はソロモン海戦においても南雲忠一中将、草鹿龍之助参謀長、原忠一少将、さらにのちのレイテ沖海戦で「謎の反転」を演じた栗田健男中将などの無能な司令官を投入し、日本艦隊の消耗を加速させた。その分、アメリカ側の被害は最小限で済んだのである。 山本長官はソロモン海戦でも「大和」「武蔵」などの大型戦艦を攻撃隊に加えることなく、戦力の小出し投入を行なった。このため戦艦「大和」はついに「大和ホテル」と呼ばれるありさまであった。

  ガダルカナルの空軍基地からは、山本長官の指揮下にあるすべての空母や戦艦など58隻からなる大艦隊と艦載機を駆使して全力投入していれば、奪還は可能であったのみならず、ソロモン海域全体で大きな勝利を手にすることができたはずであった。 戦後『大日本帝国海軍』の著者ポール・ダルは、その中で「山本長官はこの会戦をどう考えていたのか理解しにくい」と指摘しているが、山本長官の行動は良心的なアメリカ人にすら全く理解のできないものであった。 (中略)

  ガダルカナルおよびソロモン海戦で、日本軍は2万3800人におよぶ地上部隊員の戦傷病死を出し、艦艇の喪失も空母1隻、戦艦2隻、巡洋艦5隻、駆逐艦等25隻、それに航空機の喪失は1053機にも及んだ。 昭和17年12月31日、昭和天皇はガダルカナル島からの撤退を裁可し、翌18年2月1日から7日にかけて、3回の撤収作戦を実施、同島に取り残された飢餓と熱帯病のため生死の境をさまよいつつあった日本軍将兵1万有余人を救出したのであった。 (中略) 山本長官は昭和18年4月16日、北ソロモン諸島にいる将兵の労をねぎらい士気を鼓舞するためと称し、前線基地視察を計画した。
 疑問だらけの死体検案書

  こうして昭和18年4月18日、ブーゲンビル島ブインの航空基地視察のためと称して山本長官は午前6時ラバウル東飛行場を一式陸攻で離陸した。宇垣参謀長らを乗せた二番機もほぼ同時に離陸したが、これを護衛するのは第204航空隊の零戦わずか6機だけであった。この日、山本長官はなぜか正式な連合艦隊司令長官の軍服ではなく、生まれて初めて着る草色の略装である第三種軍装を身にまとい、護衛機の数を増やすことにも強く反対したという。

  山本長官の前線基地視察スケジュールの情報は事前に暗号電報で前線基地に予報された。連合艦隊司令長官の詳細な行動予定が、視察の5日も前に前線基地に伝えられるのは異例のことだった。 ショートランド第11航空戦隊の城島少将は、不用心な暗号電報に憤慨したと言われるが、ご丁寧にもこの暗号電報を受け取った現地指揮官ひとりは、わざわざ儀礼的に低レペル暗号の無電で関係先に知らせたともいう。 米軍はこの暗号を解読して山本長官搭載機撃墜計画を練ったとされるが、むしろ山本長官自身ないしはその側近が、事前に何らかの方法で米軍に詳細な行動予定を知らせていたというのが真相だろう。山本長官はすべての役目を終了し、ルーズヴェルト大統領との約束に基づいて姿を消すことにしたのである。

  山本長官を乗せた一式陸攻は高度2500メートルでゆっくりと飛行、6機の護衛戦闘機はその500メートル上空を飛行していたが、ブーゲンビル島南端のブイン基地上空にさしかかったところ、ガダルカナル島ヘンダーソン基地を飛び立ったミッチェル少佐の指揮するP-38米攻撃機28機が午前7時33分、正確に山本長官機と出合った。ミッチェル隊はP-38の航続距離からしてわずか10分間という許容時間で攻撃を開始、山本長官機を撃墜したのであった。 右エンジンに弾丸を受けた長官機は火災を発し、黒煙を吐きながらジャングルの中に落下していった。2番機はモイラ岬沖の海上に不時着、宇垣参課長ら3名は助かったが、長官機は翌19日午後2時頃陸軍の捜索隊によって発見された。

  山本長官の遺体は機外に投げ出された座席に腰かけ、軍刀を握りしめたままであったとされているが、その死には深い謎がつきまとう。 大本営発表の「死体検案書」(死亡診断書)と「死体検案記録」(死亡明細書)によれば、死亡日時は「昭和18年4月18日午前7時40分」である。傷病名は「顔面貫通機銃創及び背部盲貫機銃創」であり、末尾には「右証明ス 昭和18年4月20日 海軍軍医 少佐 田淵義三郎」として署名捺印がある。

  ところが墜落現場を最初に発見した浜砂陸軍少尉は次のように証言している。 「長官はあたかもついさっきまで生きていたかのような風貌で、機外に抛出された座席上に端然として死亡していた……その顔面には創はなかったし、出血の痕もなかった。その発見は墜落後実に30時間前後も経った頃である」。 同様の証言は陸軍軍医・蜷川親博中尉も行なっている。蜷川中尉は長官機遭難現場近くの歩兵第23連隊の次級軍医として勤務していた。このため、中尉は救難捜索行動に参加し、長官死体の検視も行なっている。 にもかかわらず、山本長官の秘蔵っ子と言われた渡辺中佐参謀は、事故のあと19日、ラバウルより現地に急行、20日夕刻掃海艇上に運び込まれた長官の遺骸を検死して大本営と全く同一内容の証言をしている。渡辺参謀の証言内容とは「20日夕の時点で顔面貫通機銃創と背部盲貫機銃創は共にあった。4月18日、機上での戦死は間違いない」というものである。 前出の田淵軍医は「私が検死した時点では顔面に創はあった」「姐(うじ)の侵蝕とは考えられぬ」とし、さらに重要な証言「死後の作為が加えられたかどうか判らない」と言いながらもその可能性を強く示唆している。
 戦死が狂言であったこれだけの証拠 

  山本長官の「死」は明らかに狂言であろう。その穏された真相は次の如くであると推測される。

1.山本長官は太平洋戦争前半における帝国海軍崩壊のためのすべての役割を完了した。

2.そのため急遽姿を隠す必要が生じ、側近の宇垣纏中将(連合艦隊参謀長)や渡辺中佐(参煤)と共謀し、あらかじめ暗号をアメリカ側に漏洩した上で長官機撃墜の一大ペテン  劇を演出した。

3.当日、山本長官はわざわざ草色の第三種軍装を身にまとい、ジャングルを逃亡の際目立たぬよう略装にした。

4.米軍機攻撃の際、いち早くパラシュートで脱出、地上よりかねて打合せの場所からガダルカナル島米軍基地へと逃亡した。

5.捜索班が事故機を発見したとき、長官の身替りとされた男(恐らくは風貌の似た人物)を座席に縛りつけ毒殺した。

6.従って発見時には顔面の創も背部盲貫機銃創も存在しなかった。

7.その後、山本長官を「機上死」であると捏造するため、遺体に拳銃か鋭利な刀物で人工的な死後損傷を加えた。

  事実、田淵軍医が検死をしている最中に長官のワイシャツを脱がせようとしたが、渡辺参謀から突然大声一喝され、「脱がすな、これ以上触れてはならぬ!」と怒鳴られ制止されているのである。人工的な死後損傷であったとする証言も数多く存在するが、これらのすべては黙殺され、渡辺中佐の命令下、虚偽の「死体検案書」と「死体検案記録」は作成され、「機上壮烈なる戦死」という大本営発表となるのである。
 戦後、「山本五十六を見た」という多くの証言  

  ここで「運よく」助かった宇垣纏中将とは何者かを知らなければならない。(中略)  三国同盟締結の折は賛成派に回ったため山本長官にうとんじられているとも言われたが、どういうわけか昭和16年8月、連合艦隊参謀長に任命され、山本五十六大将を直接補佐することになる。以後、連合艦隊の旗艦「大和」上の司令部内で山本長官の影武者に徹して常にその意向を尊重し、補佐してきた。 あれほど傲岸不遜な宇垣がなぜ山本長官に寄り添い続けたのか。そのわけは宇垣がユダヤ・フリーメーソンに入信したことにあろう。

  山本・宇垣のコンビは真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル、ソロモンと呼吸を合わせ、日本海軍の崩壊に尽力した。ブーゲンビル上空で山本長官逃亡の手はずを整えたのも宇垣である。宇垣もしっかりと生きのびており、昭和17年11月には中将に進級、昭和20年8月15日の終戦詔勅渙発を知るや、沖縄の沖合に蝟集する米艦隊めがけて突入すると称して部下の操縦する飛行機に搭乗、そのまま行方を絶った。日本の敗戦を見とどけて姿を消したと言うべきか。 戦後、山本長官の姿をどこやらで見かけたと証言する人もおり、太平洋戦争を敗北に導いた功労者の多くは「世界支配層」ユダヤ・フリーメーソン陣営によって手厚く保護されるのである。
 ルーズヴェルトの命令を忠実に守ったから

  ここで山本長官の果たした役割についてもう一度まとめてみよう。 真珠湾攻撃の計画はもともと「世界支配層」およびアメリカ、それに山本長官の深慮遠謀から生まれた計画であった。 日本人フリーメーソン山本五十六は、連合艦隊司令長官にあるずっと以前、恐らくは海軍次官の頃からアメリカ側と連絡をとり、もし日米が開戦になった時は先ず真珠湾を奇襲し、アメリカの対独戦を合理化させると同時に、日本へのアメリカ国民の参戦気分を一気に高揚させるという計画を練り上げたに違いない。

 アメリカ側でこの計画を推進したのはもちろんフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領であった。そしてこの計画にはヘンリー・スチムソン陸軍長官、フランク・ノックス海軍長官、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長、ハロルド・スターク海軍作戦部長、そしてコーデル・ハル国務長官が加わっていた。日本側でこの計画を知っていたのは、山本五十六以外にはほんのひと握りの人間であろう。それはもと首相や海軍大臣、そして外務省の高官たちなど最高度の機密を保てる者に限られていた。

  山本長官はこの計画を実現させるためにいろいろな手を打った。開戦の年昭和16年(1941年)夏の時点では、真珠湾攻撃で使用する予定の軽魚雷はまだ開発中であったし、9月初旬においても攻撃用の直接部隊は不足していた。山本長官は画策の末、こうした戦術面での問題を11月の末にはすべて解決した。

  ところが肝心の永野修身軍令部総長ら海軍首脳部はこぞって反対であった。海軍上層部はまだ日米開戦に躊躇し、真珠湾攻撃が実際にどれだけ効果をあげられるか疑問を持っていたのである。日本がアメリカを仮想敵国としたのは明治40年(1907年)4月に「帝国国防方針」が制定されてからであるが、日本の陸海軍が立案した正式な作戦計画の中にはハワイ攻略は含まれていない。攻略の対象はせいぜいグアム島どまりだったのである。

  昭和15年(1940年)ルーズヴェルト大統領は米海軍首脳の反対を押し切って、それまで西海岸カリフォルニア州のサンディエゴ軍港にあった太平洋艦隊を年次演習の目的でハワイの真珠湾に進出させた。第2次大戦が勃発し、山本五十六が連合艦隊司令長官として対米戦を計画している最中であった。ルーズヴェルトは山本長官と共謀して、日本側に格好の攻撃目標を提供したのである。
 日本を敗戦に導いた山本の謀略とは 
  
  山本五十六連合艦隊司令長官が3年8カ月に及ぶ太平洋戦争の中で、実際に艦隊を指揮したのは真珠湾攻撃の始まった昭和16年12月8日からブーゲンビル島上空で「戦死」する昭和18年4月18日までの1年4カ月である。 この間に山本長官は偉大なる貢献を「世界支配層」ユダヤ・フリーメーソン陣営に行なった。その貢献とは何であったかである。山本長官は太平洋戦争が日本の敗北で終わることを望んでいた。日本を敗北させることがフリーメーソンである山本五十六の役目だったのである。 そのためには日本が圧倒的優位を誇る連合艦隊を速やかに壊滅させる必要があった。そしてもう1つは、アメリカの太平洋艦隊に対し常に手ごころを加え、その戦力を温存させることであった。このため山本長官が取った手段は次の通りであった。

● 海軍軍令部の強い反対を押しきって真珠湾攻撃を強行。ただしその攻撃は不徹底なものとする。
    忠実なる配下の指揮官  南雲忠一中将(第一航空艦隊司令長官)
                   草鹿龍之前少将(第一航空艦隊参謀長)
                   源田実中佐(第一航空艦隊参謀)
● 珊瑚海海戦で米海軍に手ごころを加える。米空母「ヨークタウン」撃沈せず。
    忠実なる配下の指揮官  井上成美中将(第四艦隊司令長官)
                   原忠一少将(第四艦隊空母指揮官)
● ミッドウェー海戦で連合艦隊大敗北を画策。
   忠実なる配下の指揮官   南雲忠一中将(機動部隊司令長官)
                   草鹿龍之肋少将(機動部隊参謀長)
● ソロモン海戦でガダルカナル大敗北の原因を作る。
   忠実なる配下の指揮言   三川軍一中将(第八艦隊司令長官)
                   南雲忠一中将(機動部隊司令長官)
                   草鹿龍之助少将(機動部隊参謀長)
                   原忠一少将(軽空母「龍驤」指揮官)
● 「い」号作戦で日本の南東方面航空兵力を潰滅させた。

  いずれの海戦においても忠実なる配下の凡将、愚将、怯将である南雲中将、草鹿少将、源田参謀、井上中将、原中将、三川中将などを長期にわたって使い続け、「攻撃の不徹底」ないしは「手ごころ」を加えさせている。 さらに大事なポイントは、海軍が使用していた暗号電報をアメリカ側に筒抜けにさせていたことであろう。山本長官はアメリカが日本海軍の暗号電報をすでに解読し、連合艦隊のあらゆる作戦行動を見抜いていたこともあらかじめ承知の上で、作戦を強行したふしがある。真珠湾攻撃のときもそうであるし、モレスビー攻略作戦(MO作戦)における珊瑚海海戦は不充分な戦果に終わった。ミッドウェー海戦(MI作戦)の時も、アメリカ側に充分な情報と対応のための準備期間を与えていたと考えられる。 長期間に及んだソロモン海戦のときも日本の艦隊や輸送船、飛行隊の動きはすべてアメリカによって把握されていた。結局日本海軍は山本五十六の意図によってその初期戦力を激滅させていたのである。

  この偉大なる「功績」により山本長官の役目は一通り終った。そして姿を消す時期がやってきたのである。ブーゲンビル島上空における「戦死」がそれである。アメリカが暗号解読をしていることを承知の山本五十六は、前線視察と称して連合艦隊司令部から一式陸攻に搭乗してブーゲンビル島のブイン飛行場に向かったのである。 山本五十六連合艦隊司令長官はこうして戦線から姿を消すのであるが、山本長官とともに1年4カ月の海戦を戦った将官たちは、その極度な無能ぶりにもかかわらず戦後さまざまな戦記作家によっていずれも名将、名参謀としてたたえられている。戦後の日本がアメリカに占領され、民族心をことごとく失うまでに洗脳された結果、「世界支配層」に迎合するフリーメーソン作家がこのような日本民族に対する背信行為をするのも、いわば当然であろう。

  日本が開戦したときのアメリカとの国力は1対10の比率であったと言われる。 このために日本が戦争したのは無謀であったとか、やがては負ける運命であったなどという意見があることも事実だ。だが、日本があらゆる海戦で勝利をおさめていれば(それは可能であった)アメリカの戦意が喪失し、休戦、和平交渉の道も可能だったのである。

山本五十六は生きていた5、あの戦争は世界支配層のシナリオだった
 今も作られている日本非難の大合唱    

  太平洋戦争は謎に包まれた戦争である。 3年8カ月にわたって死闘を繰り広げたあの戦争で、日本の兵員死亡者数は117万4000人余、民間死亡者数67万人余、アメリカの兵員死亡者数9万2000人、他連合国の死亡者数17万人余、太平洋を舞台に、合わせて210万8000人が死亡した。このような大規模で非人間的な戦争がなぜ行なわれたのか、戦後50年が経過する今日、この疑問は深まるばかりである。 太平洋戦争は人類の歴史始まって以来、世界最大の海戦であったばかりでなく、陸上の戦争としても他に類を見ない激しいものであった。それにしても、日本側のおびただしい兵員の死亡者数は一体何を物語るものであろうか。戦場に累々と横たわった日本兵の屍は次のことを教えている。

 ● 太平洋戦争は日本が敗北するために始めた戦争であった。
 ● 戦争を遂行した政府大本営、陸・海軍の戦争指導者たちは、あらゆる戦闘で敵に手ごころを加え、日本が敗北するように仕向けた。
 ● 日本が敗北することは明治以来の予定のコースであった。

  1994年8月15日、第49回目の「全国戦没者追悼式」が東京・九段の日本武道館で行なわれた。この日、ワシントンポストの東京特派員は次のように外電を発した。
  「世界のほとんどの国の歴史教科書は、日本が第2次世界大戦における侵略者であることを疑問視していない。日本は30年代に中国を侵略、さらに真珠湾などを攻撃し、戦争を太平洋全体に拡大した。日本のこのような行動はこの何十年、当地ではおおむね黙殺されてきた」

  また、オランダ人ジャーナリストのイアン・ブルーマは、近著『罪の報い』で、日本が戦争責任の反省を十分に行なっていないとして次のように語っている。
  「日本は自分だけが悪いのではないと泣いて地団駄を踏む子供みたいだ」。

  今、日本に対する国際世論は実に厳しく辛辣である。米欧諸国はもちろんのこと、戦場となったアジア諸国からも日本の戦争責任を追求する声は一段と高まりを見せている。なぜ日本だけが悪いとされ、これほどまでたたかれるのか、その真の理由を日本人は知らない。

  戦争による多大な人的、物質的犠牲により、多くの日本人は戦争を忌み嫌い、平和を希求した。中でも広島、長崎に投下された2発の原爆により多くの貴い命を失った日本は、その強烈な核アレルギーとともに、戦争を指導した軍部、ファシズムといった戦前なるもののすべてが悪であると固く信じるようになったのである。 けれども、その信念の強さとは裏腹に、日本人の多くが戦前の歴史、太平洋戦争の全容を知らず、真相に対して目を背けていることも事実である。 戦後、日本人は荒廃から立ち直り、ひたすら経済復興に邁進し、いつの間にか世界第2位の経済大国となった。日本の潜在成長力とその民族的エネルギーはすさまじいものがある。その日本の台頭を好まない世界のある勢力が、日本の成長をいかに抑え、いかにしてそのみなぎる国力を抑圧するかに心血を注いできた。 その一つの手段が日中戦争の泥沼化と日米開戦であった。日本は“計画通り”敗北したが、日本人の民族的エネルギーを止めることは誰にもできなかった。戦後の日本は再び巨大な経済力を身につけ、科学先進国、産業技術大国となったのである。
 日本をいつまでも侵略国にしておきたい理由 

  日本の台頭を戦前も戦後も決して許さない「世界支配層」、その中でも最も忠実な強権国家アメリカは、日本を非難し、排斥する。経済面での円高攻勢に加えて、アジア諸国をけしかけて日本の戦争責任を追求させる。日本を侵略国と断定し、戦争犯罪国としてとがめるためである。昨今の従軍慰安婦問題や軍票預金の償還など激しい抗議はその一環である。

  だが、歴史の真相を知る者は、アメリカこそが欧州大陸において無理矢理に第2次世界大戦を起こさせ、日本を太平洋戦争に引きずり込んだ元凶であることを知っている。 アメリカの第32代大統領フランクリン・ルーズヴェルトはその張本人であった。そしてそのルーズヴェルトを陰で操ったのは「世界支配層」ユダヤ・フリーメーソン勢力である。ルーズヴェルトはユダヤ・フリーメーソン33位階でもあった。 アメリカ合衆国において下院議員、ニューヨーク州知事、上院議員、さらにコロンビア大学の理事長などを歴任したハミルトン・フィッシュは、94年間のその生涯において一貫してアメリカの良心を代表し、ルーズヴェルトの犯罪をあばき、告発し続けた。 その偉大なる著書『トラジック・ディセプション』は岡崎冬彦氏の監訳で『日米開戦の悲劇』としてPHP文庫より出版されている。この書は、誰が第2次大戦を招き、いかにして日本とアメリカを戦わせるべく仕組んだかについて、ルーズヴェルトの謀略性を明確に証言している。(残念ながらこの本は既に廃刊になっています――なわ註)

  第2次世界大戦と太平洋戦争は、この大統領の陰謀によって引き起こされたと明言していい。 ルーズヴェルト大統領およびハル国務長官は、真珠湾攻撃の直前の11月26日に、最後通牒であるハル・ノートを日本に突きつけてきた。これは日本が絶対に受け入れることのできない内容であった。その前日、ワシントンでは、日本外務省の暗号をすべて解読した上で、ルーズヴェルト大統領、ハル国務長官、スティムソン陸軍長官、ノックス海軍長官、マーシャル陸軍参謀総長、スターク海軍作戦部長による戦争賛成派内閣の会合が開かれた。議題は「いかにして日本をだまして戦争に陥れるか」であった。彼らは、日本軍が真珠湾を攻撃することを事前に知っていた。

  真珠湾攻撃の前日、日本外務省より駐米日本大使館へ送られた解読済みの暗号電報を見て、ルーズヴェルトは「これは戦争を意味する」と述べた。けれども、パール・ハーバーの太平洋艦隊司令長官キンメル提督やハワイ方面陸軍司令官ショート将軍に対して、ついに日本軍による真珠湾攻撃が事前に知らされることはなかった。彼らは大統領の陰謀を知ることなく、開戦直後に責任を追求され、解任されるのである。 アメリカは対日戦に勝利することを確信していた。その理由は、山本五十六がフリーメーソンであり、その他にも日本には政界、陸・海軍に協力者は多数いたからである。日本を戦争に巻き込むことに成功したアメリカは、欧州での戦争に参戦する正当な理由を手にした。
 欧州戦争もルーズヴェルトが引き起こした

  欧州における第2次世界大戦もルーズヴェルト大統領の陰謀によって起こされたものであった。ヒットラーのナチス・ドイツでは、ポーランドのダンチヒをドイツに帰属させるべくポーランドのジョセフ・ベック外相と交渉していたが、ルーズヴェルトは、ジョセフ・ケネディ駐英大使を通じてチェンバレン英首相に圧力をかけ、イギリスがドイツに対してもっと強硬な態度をとらなければ対英援助を中止すると迫った。イギリスはポーランドを防衛する力はほとんどなかったが、チェンバレンはルーズヴェルトの圧力に屈し、ポーランドに対して支援を保証した。これに勇気づけられたポーランドは、ダンチヒの帰属問題についてドイツと平和裡に解決することを拒否するのである。 さらにルーズヴェルトは、「ドイツの陸・空軍力はヒットラーが言うほどの実力はなく、恐れるには足りぬ」としてフランスの対独参戦を促した。 ルーズヴェルトはイギリスとフランスがドイツと戦争を始めれば、アメリカはナチス・ドイツを倒すために必ず参戦することを約束していた。

  1939年9月1日、ヒットラーの軍部はポーランドに侵入、ここに第二次世界大戦が勃発するのである。ルーズヴェルトの約束は、日本軍による真珠湾攻撃によって実現される。歴史上最も血に飢えた悪魔の大統領フランクリン・ルーズヴェルトはユダヤ人であったが、欧州でのユダヤ人虐殺を防ぐ人道主義のためには、指一本挙げることなく無関心を装い続けた。 「世界支配層」に仕え、欧州大戦と太平洋戦争の両大戦を自らの手で演出したルーズヴェルト大統領は、大量のユダヤ人と日本人の血を犠牲にして、戦後「世界支配層」ユダヤ・フリーメーソンが支配する20世紀を築き上げたのである。
 おわりに 平成二・二六を起こすべき今の日本 

  アジアは古代より豊かな精神文明を育て、自然とともに生きてきた。アジア人の性格は温和で、人々は慈愛に満ちている。これにくらべ西欧人は物質的で欲深き人種である。物欲にあふれた西欧人が植民地を求めてアジア、アフリカ、中南米に殺到したのは16世紀以降であったが、中でもアジア人に対する抑圧と搾取は過酷を極め、容赦ないものだった。 このような野蛮な西欧人をけしかけ、世界中の富や地下資源を略奪したのは「世界支配層」ユダヤ・フリーメーソンであった。アジア民族はまぎれもなくその多大なる犠牲となったのである。

  1995年は日本が太平洋戦争で敗北して50周年にあたる。日本ではこれから、先の戦争がいったい何であったのか、その歴史的意味をめぐって議論が続くだろう。日本人の思考はいま混乱のさなかにあり、太平洋戦争とそれに先立つ日中戦争の意味を理解できないでいる。 日中戦争はアジアの完全支配を狙う「世界支配層」が、日中の協力者とともに推進した謀略の戦争である。アメリカやイギリス、そして数々のユダヤ・フリーメーソンたちが暗躍したこの不幸な時代は、不可避的に日中を闘争に導いた。

  平和を願う多くの人々の願いもむなしく、戦争製造者たちは世界支配の野望のもとに、いたるところで人々を戦火の中に追いやったのである。 日中は決して戦ってはならぬ永遠の同胞である。けれども不幸なことに日本の内部にも、戦争を願う「世界支配層」の協力者と推進者がいた。そして、それは中国にも存在したのである。日中戦争は太平洋戦争への導火線となった。 太平洋戦争はアジアの完全支配を企てる「世界支配層」の前に立ちはだかる日中を打倒し、屈服させるための明らかな罠であったが、勇猛果敢で無知な日本人はその裏に秘められた底意をしることもなく、無謀な戦いを挑み、そして予定通り敗れた。 日本をおだて、操り、屈服させることはもともと「世界支配層」の遠大なる計画である。日本はそれを知らず、明治維新以来西欧(ユダヤ)の表面的な華美性に魅了され、あろうことか西欧的な帝国主義に走り、アジアに植民地を求めた。

  一方、多くのアジア諸国の中に「世界支配層」の走狗となり、イギリスやアメリカ、ロシアと通謀して日本を排斥する勢力が跋扈した。 当時のアジアは西欧(ユダヤ)によって中枢が汚染されていたのである。日本が何もしなければ、朝鮮半島はロシア領に、中国および東南アジアは「世界支配層」のもと英米仏蘭により徹底的に分割支配され、現在のようなアジア諸国は存在し得なかったことであろう。 「世界支配層」は最終的に日本を倒し、滅亡に至らしめてアジアの全域を略取する計画であった。日本が太平洋戦争を決意できずに屈服しておれば、米欧(ユダヤ)は労せずしてすべてのアジアを征服し、日本は弱小国に転落していたことであろう。

  だが日本は戦争によって事態を打開しようとした。戦争没発の背景には、「世界支配層」と米英の謀略があったことは明らかであるが、日本側にも戦争推進に協力した一群が存在したことは事実である。彼らは勝利のためではなく敗北のために戦争を遂行し、そして戦後最大の功労者として「世界支配層」やGHQより数々の報酬を受けることになった。
























(私論.私見)