フリーメーソン日本会員録

 更新日/2018(平成30).1.8日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「阿修羅」の SP' 氏の2001.4.24日付「第三章 日本フリーメーソンの内幕(赤間剛『フリーメーソンの秘密』三一書房)」、「フリーメーソン」、「ヘブライの館」、「フリーメーソン」、村山有・氏の「終戦のころ・思い出の人々」(時事通信社刊)、“フリーメーソン・ライブラリー”所蔵の「日本のフリーメーソン百年史」(日本グランド・ロッジ編)、「人間と世界の改造者(楽園を創るフリーメーソン物語)」(仙石太郎)、エンセン氏の2003.12.25日付投稿「メ-ソンの二大ドンが練る日本支配総戦略計画」(http://www.asyura2.com/0311/idletalk6/msg/650.html )、太田龍・氏の「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」、「合気揚げの基礎知識について」、「ユダヤ人基礎講座・補講(4)」、「グラバーと坂本龍馬は、本当にフリーメーソンだったのか」その他を参照する。

 2006.1.3日 れんだいこ拝


CIAのスパイ・エージェント考
 2012-10-02「日本の中のCIAエージェント」参照。
 日本の政界、財界、マスコミ、学者、評論家、右翼・暴力団などあらゆる分野に張り巡らされたCIAのスパイ・エージェントの数は一体どのくらいになるのであろうか。日本で活動する実行部隊(オペレーション担当)は工作員指揮官として、まず3人の現地工作員の指揮に当たる。そして、工作員はそれぞれ3人の配下(協力者)を抱え、3人の配下もさらに3人の部下を抱える。つまり、1人の指揮官が3×3×3=27人の工作要員を指揮して情報収集などに当たっている。CIAエージェントとされる中には、本人が意識せずにCIAに対して情報提供をする者も含まれる。外交官や軍人に偽装するOCS(Official Covers)と民間人に偽装するNOCS(Non Official Covers)とに分かれ、それぞれ活動しているというが、最近はNOCSを増やしつつあると分析されている。その理由は、2001年9月11日、米国で起きた同時多発テロが関係する。要するに、通常総勢、数百人もの工作要員が活動しているというのである。それが東日本大災害による福島原発の破壊に伴うデーター収集や、混乱に乗じたる各国のスパイの増員により、CIAも当然増員されているものと思われる。ようするに、スパイ防止法すらない日本はまさにスパイ天国というわけである。

村山有・氏証言
 「日本の著名メーソン」。フリーメーソンの“カード”から、すでに故人となった著名な日本人メーソンを拾ってみよう。これらの人々をみると戦後社会でそれぞれに重要な働きをしている。戦後の占領時代の混乱のなかで、日本のフリーメーソンが根づき定着していくころが最も華やかなフリーメーソンの歴史であろう。
 日本グランド・ロッジ創設(昭和33年)に至る初期の日本人メンバーに村山有氏(前出)という人物がいた。『終戦のころ・思い出の人々』(時事通信社刊)の著作があり、そのなかに「フリーメーソンと日本」という章があって興味深い事実が載っている。戦後、村山氏と三島通陽氏らはボーイスカウトの再建に動いていたが、GHQではマッカーサー元帥はじめ高官の多くがメーソンと聞き、「今後は真にデモクラシーの兄弟愛で行こう」とフリーメーソン参加の仲間を集めた。賛同したのが、佐藤尚武氏、星島二郎氏、植竹悦二郎氏、高橋龍太郎氏、松本滝蔵氏らでマッカーサー元帥あてに手紙を出した。その結果、OKが出たが日本人の入会宣誓をどんな方法でやるか問題になった。

 結局、アメリカ軍将官を前に演説、「要するに、富士山に登るのに道はたくさんあろうが頂上は一つであると同様に、神は一なりの精神を論じ」、「聖書をもって日本の各宗派の聖典または教典に代えて宣誓する案」に決した。この案をマッカーサー元帥に提出、アメリカ本部の承認を得た。村山氏は「日本人にフリーメーソンの門戸を解放することの意義は、日本人の人種差別待遇を取り除いて兄弟愛の結合を深めることだった」という。

 入会式の模様はこうだった。「1950年1月5日に佐藤尚武、植竹悦二郎、三島通陽、高橋龍太郎、芝金平(後述)の諸氏に筆者も加わって、荘重なフリーメーソンの入会式が行なわれた。GHQのウォーカー少将ほか多数の人が参列してわれわれを祝福してくれた。越えて4月6日には芝金平氏と筆者に、日本で最初のマスターメーソンになる栄誉が与えられ、その儀式は占領軍各国の高官など400名以上が参列して盛大に行なわれ、マッカーサー元帥はとくに最高副官ハフ大佐を代理として出席させたほか、フィリピンからグランド・ロッジ代表ら二十余名も来日して参加した」(同)。

 4月8日、参議院議員官舎でフリーメーソンのフィリピン代表の歓迎会が開かれ、日本の政財界の名士も多数集まったが、席上、フィリピン代表の一人で後に国連大使や中南米、アフリカの大使として活躍し、教育家としても有名だったマウロ・バラディ氏が大演説した。「フィリピン人は、果たして日本人をメーソンの兄弟として手を握れるかどうか、私は泣きながら神に祈った。フィリピン代表が日本にくるまでの決意は、悲痛なものであった。今日ここにいる20人の代表のほとんどが、自分の目の前で、その親兄弟を日本軍のために殺され、家屋を焼かれた悲惨な経験の持ち主である。フィリピン人はみんな日本人を呪っており、憎んでいる。しかし、我々は子孫にこの憎悪を永久に伝えてはならないと要請され、メーソンの博愛精神にしたがって日本人をメーソンに迎え入れよと決意を促されて、我々は親子、夫婦相抱いて泣いたのであった。日本人を兄弟として握手しようと決心し、過去の罪を許してメーソンとして迎える決意をした。しかし、日本人は我々のこの厳粛な気持をわかってくれるか。“汝の敵を愛せよ”と教えているその精神を実行して生きるために、我々は日本にきたのである。この貴い決意こそ我々は子孫に知らせ、そして人類のために最高の友愛の表現として喜んでくれるものと信じている。
日本人の責任は大きい-諸君こそが世界の偉大なる期待をもって迎えているパイオニアだ。フィリピン人はひとしくフリーメーソンが日本で伸び、そして我々と兄弟として握手できる人が多くなることを心から願っている」。

 バラディ氏に対し、日本側から星島二郎氏が、「我々日本人は戦争責任を痛感している。今後は世界平和のために貢献することをみんな望んでいる。日本国民の名において、フィリピンにおける行為について謝罪決議を行なうことを望んでいる」と述べた。そして、星島氏は国会に謝罪決議案を提出、満場一致をもって可決され、それが直ちにフィリピン政府に打電された。これがフリーメーソンの日本でのひとつの働きである。

日本政界著名メーソン如何?
 2012-10-02「日本の中のCIAエージェント」参照。以下のリストは
辻政信  (1902年10月11日 - 1961年に行方不明)元陸軍大佐。政治家。衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)。旧軍人グループとの繋がりで反共陣営に参画。著書を次々出版しベストセラー作家としての知名度を確立した。旧軍の参謀だったという要素がプラスに働き、追放解除後の1952年に旧石川1区から衆議院議員に初当選。自由党を経て自由民主党・鳩山一郎派、石橋派に所属。石橋内閣時代に外遊をし、エジプトのガマール・アブドゥン=ナーセル、ユーゴスラビアのヨシップ・ブロズ・チトー、中国の周恩来、インドのジャワハルラール・ネルーと会談している。衆議院議員4期目の途中だった1959年に岸信介攻撃で自民党を除名されて衆議院を辞職し、参議院議員(全国区)に鞍替えして第3位で当選した。2005年(平成17年)に公開された、米中央情報局(CIA)極秘文書には『辻政信ファイル』が存在する。しかし、経験不足で諜報活動は失敗に終わった」としているほか、日本の再軍備をもくろんでいたとしてアメリカ側が警戒していたことが記されている。
→CIAのスパイ・エージェント論拠は不明。
服部卓四郎  (1901年1月2日 - 1960年4月30日)戦時中からアメリカのスパイであることが疑われる。元陸軍大佐。1942年(昭和17年)8月に始まったガダルカナル島の戦いにおいては、現地を視察した際、「補給路が確立されつつあり、この点について問題なし」と実情とかけ離れた報告をした。結果、陸軍は3万人以上の部隊を投入したが、撤退できたのは僅かに1万人足らずだった。

 終戦後は、チャールズ・ウィロビーの元で日本の再軍備にかかわる。当初は、創設される警察予備隊の幕僚長に任じられる予定であったが、公職追放された人物を入隊させることはできないと民政局及び吉田茂首相(吉田に進言したのは辰巳栄一元中将を中心としたグループ)が反対したため、服部の幕僚長就任は実現しなかった。

 1952年(昭和27年)10月31日付のCIA文書によると、服部らは、自由党の吉田茂首相が公職から追放された者や国粋主義者らに敵対的な姿勢を取っているとして、 同首相を暗殺し、民主党の鳩山一郎を首相に据える計画を立てた。辻政信が「今はクーデターを起こす時ではない」と服部らを説得し、服部らはクーデターは思いとどまったものの、政府高官の暗殺を検討したという。
→CIAのスパイ・エージェント論拠は不明。
今村均  元陸軍大将。戦場で将兵の守るべき教訓を列挙した訓示、いわゆる「戦陣訓」を作成 した。「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」。インドネシアでは、民族独立を目指すスカルノとの友情を貫き、ラバウルでは陸軍7万人の兵を統率して、米軍の攻撃をものともせずに、玉砕も飢えもさせずに敗戦まで持ちこたえ、無事に帰国させた。 戦犯として捕まった部下を救うために、自ら最高責任者として収容所に乗り込み、一人でも多くの部下を救うべく奮闘した。オーストラリア軍の禁錮10年の判決により、1949年(昭和24年)に巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)に送られた。だが今村は「(未だに環境の悪い南方で服役をしている元部下たちの事を考えると)自分だけ東京にいることはできない」として、1950年(昭和25年)には自ら多数の日本軍将兵が収容されているマヌス島刑務所への入所を希望した。帰国後は、部下や、遺族の生活のために奔走した。その姿はマッカーサーをも感動させたのである。政治家や官僚、企業経営者の責任が問われる今、責任をとるとはどういうことか、今村将軍の生涯を振り返えれば答えが出るであろう。CIAのスパイ・エージェントではなかろう。
→CIAのスパイ・エージェント論拠は不明。と云うか真反対ではなかろうか。
小野寺信  (1897年9月19日 - 1987年8月17日)元陸軍少将。スウェーデン公使館付武官に発令され、翌年1月、ストックホルムに着任し太平洋戦争を迎えた。1943年(昭和18年)8月、陸軍少将に進む。この頃からSD国外諜報局長であるヴァルター・シェレンベルクと共に和平工作に従事する。敗戦後の1946年(昭和21年)3月に日本に帰国復員したが、同年7月まで4ヶ月間戦争犯罪人として巣鴨プリズンに拘留された。
→CIAのスパイ・エージェント論拠は不明。
石井四郎  (1892年6月25日 - 1959年10月9日)(旧731部隊長)元陸軍軍人、軍医。関東軍防疫給水部長、第1軍軍医部長を歴任する。階級は陸軍軍医中将功三級医学博士。731部隊の創設者として防疫活動に従事した。多くの人体実験を行い細菌兵器を開発したとされる。
前田稔  (1945年3月1日 - 1945年10月1日)元海軍中将。航空艦隊司令長官。「親ソ」でコミュニストの可能性。海軍内で暗躍したさほどの形跡はない。
→CIAのスパイ・エージェント論拠は不明。
重光葵  (1887年7月29日 - 1957年1月26日)第二次世界大戦期の、日本の外交官・政治家。1943年(昭和18年)11月の大東亜会議を開くために奔走。人種差別をなくし亜細亜の国々が互いに自主独立を尊重し対等な立場での協力を宣言した。公職追放解除後、改進党総裁・日本民主党副総裁を務めた。鳩山一郎派と合同して日本民主党を結党させる。1955年(昭和30年)の保守合同で自由民主党結党に参加。
下村定  (1887年9月23日 - 1968年3月25日)元陸軍大将。政治家。終戦時下村は満州におり、下村の帰国まで東久邇陸軍大将宮が陸軍大臣を兼務している。第5回参議院議員通常選挙で全国区から出馬、当選し参議院議員を1期務めた。
→CIAのスパイ・エージェント論拠は不明。
和知鷹二  (1893年2月1日 - 1978年10月30日)元陸軍中将。1946年(昭和21年)1月、戦犯容疑(橘丸事件)で逮捕され巣鴨拘置所に拘留。1948年(昭和23年)4月13日、重労働6年の判決を受け、1950年(昭和25年)8月に仮釈放された。
→CIAのスパイ・エージェント論拠は不明。
和智恒蔵  (旧姓・大野、1900年7月24日 - 1990年2月2日) 元海軍大佐で、硫黄島では海軍警備隊司令を務めた。1946年4月25日から9月まで巣鴨プリズンに拘禁された。戦争から生還したことに責任を感じて出家し、天台宗の僧侶になる。硫黄島協会を設立して、慰霊と遺骨収集に生涯を捧げた。
→CIAのスパイ・エージェント論拠は不明。と云うか真反対ではなかろうか。
佐藤尚武  1950.1.5日入会、ロッジ番号No.2。終戦時の駐ソ大使、戦後代議士。元衆院議長、元外相で、外交界の長老であった。神社本庁の総代会会長に就任、国家神道の再建に貢献した。
植竹悦二郎  1950.1.5日入会、ロッジ番号No.2。長野県出身の代議士、戦前の内務大臣、戦後憲法をGHQと会談、作成に協力した。吉田、鳩山政権に参加、リベラリストだったが反共主義者としても有名。
下条康麿  1950.3.3日入会、ロッジ番号No.2。元文部大臣。子息が下条進一郎現代議士である。
野田俊作  1950.3.28日入会、ロッジ番号No.2。政友会の父、卯太郎の地盤を継ぎ、代議士。松野鶴平代議士と義兄弟の間。
松本滝蔵  1950.9.8日入会、ロッジ番号No.2。広島県出身の代議士。マッカーサー元帥後援の日米親善野球の日本側委員長。
岡本礼一  1950年入会。ボーイスカウト運動の役員。
鳩山一郎  鳩山は戦後公職追放中の身となった。この頃のこと、マッカーサー元帥の肝入りでフリーメーソンの門戸が開いたと聞き、村山氏を訪ねて入会を希望、「フリーメーソンの精神を日本人にも大いに理解させなくてはいかん」と力説した。やがて公職追放が解け、1951.3.29日入会、ロッジ番号No.2。その後、首相になりメーソンの第3位階に昇進、水交社で200人近いメーソン兄弟の祝福を受けた。この時、次のように挨拶している。

 「戦後日本において幾多の社会的変化がありました。そのなかでフリーメーソンの門戸が開かれたことは最も大きな出来事であります。私は世界幾多の指導者や元首が対等の資格で会員であるフリーメーソンの一員として、日本グランド・ロッジの年会に出席する機会を光栄に思います。 フリーメーソンが民主主義精神の根本を教え、アメリカの独立をはじめとして自由と平和のために闘ってきた数多くの先覚者は、みなメーソンでした。この友愛精神が新しく日本をもつなぐ大きな力となったことを考えましても、この精神を讃えずにはいられません。マッカーサー元帥は私ども日本人にこの友愛結社の門戸を開き、また占領軍の多くのメーソンは実際に兄弟愛の何物であるかを実践してくれました。占領初期から今日に至るまでのマッカーサー、リッジウェイ、クラーク、ハル、レムニッツアならびにアリソン大使は、いずれもメーソンであります。日本にこの会が結成されて数年を経ていますが、この間に日本語のみの関東ロッジが認められたことを喜ぶものです。4000年の歴史を有するフリーメーソンが日本で実を結んで今日に至ったことを誇りに思います」(昭和31年6月5日)


 元首相。昭和29年、青年運動の「友愛同志会」(現薫子夫人会長。クーデンホーフ・カーレルギー伯が名誉会長)を結成。「友愛同志会はフリーメーソンの精神を基礎にしている」が鳩山氏の口グセだったという。ちなみに、“パン・ヨーロッパ主義者”でEC創設者の一人、カーレルギー伯はオーストリアのメーソンといわれている。
浅野良三  1951年9月20日入会、No.2。浅野財閥の当主。戦後、経団連結成に参加、小林中などと“新番町会”を結成、池田内閣などとつながった財界人として知られる。
河合弥八  入会、ロッジ番号不明。元参議院議長、鳩山自由党に参加した保守政治家として有名。
吉田茂  面従腹背派幼児に横浜の富裕な貿易商、吉田健三の養子となり、東京帝国大学政治科を卒業後、外務省に入省した。大久保利通の次男、牧野伸顕伯爵の長女、雪子と結婚。天津総領事、奉天総領事、イタリア大使、イギリス大使を歴任した。吉田茂は取り巻く人間を通して、ロスチャイルドの影響を受けていた。太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941年9月6日の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。元自民党総裁=麻生太郎の祖父。
辰巳栄一  (1895年1月19日ー1988年2月17日)/コードネーム「POLESTAR―5」。元陸軍中将。戦後の連合軍占領中は旧軍の反共主義工作機関「河辺機関」を率いた。警察予備隊の幹部人選に駐英武官当時からの上司であった吉田茂の腹心として関与。内閣調査室や後の自衛隊の設置に関わる資料をアメリカ政府に流していた事が2009年10月、有馬哲夫・早稲田大学教授のアメリカ国立公文書記録管理局における機密解除資料調査で確認された。1975年1月から1978年12月まで偕行社会長を務めた。
緒方竹虎  (1888年1月30日 - 1956年1月28日)/コードネーム「POCAPON(ポカポン)」。ジャーナリスト、政治家。朝日新聞社副社長・主筆、自由党総裁、自由民主党総裁代行委員、国務大臣、情報局総裁、内閣書記官長、内閣官房長官、副総理などを歴任。栄典は正三位勲一等旭日大綬章。三男の緒方四十郎は元日本銀行理事。緒方は12月にA級戦犯容疑者指名、1946年8月に公職追放、1947年9月戦犯容疑解除、1951年8月に追放解除となっている。A級戦犯容疑者指名がなければ、敗戦で社内の緒方派と反緒方派の対立が再燃して自らも調停に乗り出し、村山長挙社長が辞任していた朝日新聞社の社長に就任するはずであった。追放解除の翌年にあたる1952年10月、第25回衆議院議員総選挙で福岡1区(当時)から出馬し、中野正剛の地盤を引き継いだうえに地元財界の支持を得て当選する。第4次吉田内閣で当選1回ながら、国務大臣兼内閣官房長官、さらに副総理に任命され、翌1953年5月成立の第5次吉田内閣でも副総理に就任した。この政界での急速な階梯昇段の要因には、吉田茂の政治指南役だった古島一雄の紹介や、吉田が重光葵の後任として東久邇宮内閣外務大臣に就任したのが、近衛文麿と緒方の推薦によるものだったことなどが挙げられる。なお、緒方は政界復帰前の1952年4月、吉田茂、村井順とともに、アメリカのCIA、イギリスのMI5、MI6などを参考にして、内閣総理大臣官房に「調査室」という小さな情報機関を設立した。これが現在の内閣情報調査室の源流である。緒方は、これとは別に強力な情報機関、いわゆる日本版CIAを新設する構想を持っており、吉田内閣入閣でこの構想は一挙に表舞台に登場したが、国会や外務省、世論の激しい批判を浴び、第5次吉田内閣の下で内調の拡充・強化を図るにとどまった。しかし、このときの緒方の動きを、アメリカCIAは高く評価した。
岸信介  (1896年11月13日 - 1987年8月7日)言わずもがなのエージェント、但し国体観念は保持している面がある。岸の『系譜』の政治家は、CIAのスパイである。政治的に岸は日本の歴代首相のだれよりも右寄りだった。岸は、APACL(アジア人民反共連盟)、MRA(道徳再武装運動)、統一教会など、右翼組織やCIAのフロント組織に深く関わっていた。首相をしりぞいた二年後の1962年9月には、東京で5日間にわたって開催されたAPACLの会合で基調演説を行なっている。また、日本郷友連盟や祖国防衛同士会など、民主主義の粉砕と天皇の政権復帰を擁護する極右団体の顧問もつとめた。岸は首相在任中に、日本を訪れたMRAの代表達に次のように挨拶している。「諸君は全世界に対して道徳的バックボーンを与えるようにしておられる。私はMRAが6週間にわたって(1960年5月から6月までの期間)我が国に与えた圧倒的な影響力に対して感謝の気持ちを表明したい」。時あたかも、岸打倒を叫ぶ運動がピークに達しており、MRA代表団の訪日のタイミングのよさには目を見張るものがあった。

 岸は日本でもっとも反動的な首相だった。1957年から60年までの短い首相在任中に、岸内閣は史上まれに見る反進歩的な法案を提出した。一つは1958年、警察官の権限を拡大強化する警職法(警察官職務執行法)改正案であり、もう一つは1948年に廃止された紀元節の復活であった。統一教会といえば、CIAの命によりKCIA(韓国中央情報局)が組織し、操る宗教団体であることが後に明らかになった。岸と教会との密接な関係を示す一例として1974年5月、東京の帝国ホテルで開かれた『希望の日』実行委員会主宰の大晩餐会がある。『希望の日』とは、教会の世界的宣伝キャンペーンの一環の集会名だが、同実行委員長が岸信介だった(週刊新潮1974年5月23日号より)。
三島通陽  不明。旧伯爵、戦後代議士。戦前、戦後ボーイスカウト運動に活躍、日本ボーイスカウト連盟総長。
児玉誉士夫  (1911年(2月18日 - 1984年1月17日)日本の右翼運動家、黒幕、CIAエージェント。暴力団・錦政会(後の稲川会)や東声会の顧問。朝鮮戦争(50年—53年)当時、CIAの前身である米戦略サービス局(OSS)の旧幹部グループは児玉らと組んで日本の貯蔵庫から数トンのタングステンを米国に密輸。ミサイル強化のためタングステンを必要としていた米国防総省に1000万ドルで売却。これを調べている米メーン大学教授の資料によると、CIAは280万ドルを児玉にその見返りとして提供したという。アメリカの国立公文書館が公開したCIA・中央情報局の機密文書に記されていたものによると、東西冷戦の初期、CIAは「右翼の大物」と言われ、戦犯の疑いで逮捕されたあと釈放された児玉や、元陸軍参謀の辻政信らと接触し、中国など共産圏の情報収集活動に当たらせたという。 しかし、CIAは、こうした試みは、工作資金を持ち逃げされたり、情報をねつ造されるなどしてほとんど役に立たなかったと分析している。特に、児玉氏については「自身の富や権力を得ることが目的で、母国の将来には関心がなかった。諜報員としての価値はないに等しい」と酷評している。
笹川良一  (1899年5月4日 - 1995年7月18日)日本の政治運動家、右翼活動家、社会奉仕活動家。CIAエージェント。真偽不明ながら、巣鴨の刑務所で鳩山と同房し、フリーメーソンになることで出所したと云われている。
星島二郎  元商工相、サンフランシスコ講和会議全権委員、鳩山自由党に参加、元衆院議長として自民党の長老。
青木義久  1959年5月20日入会、No.11。元満映、記録映画など学術物の映画プロデューサー。
賀屋興宣  (1889年1月30日 - 1977年4月28日)コードネーム「POSONNET-1」。広島県広島市出身の大蔵官僚~政治家。大蔵(現財務省)官僚はアメリカCIAのスパイである。戦後A級戦犯として極東国際軍事裁判で終身刑となり、約10年間巣鴨プリズンに服役。1955年(昭和30年)9月17日に鈴木貞一、橋本欣五郎らと共に仮釈放。1958年(昭和33年)赦免。同年第28回衆議院議員総選挙に旧東京3区から立候補し当選(以後5回連続当選)。岸信介首相の経済顧問や外交調査会長として安保改定に取り組んだほか、池田内閣の法務大臣、自民党政調会長などを歴任し、自由民主党右派・タカ派の政治家として有名だった。1972年(昭和47年)、政界引退。「自由日本を守る会」を組織、中華民国擁護など独自の政治活動を続けた。

 アメリカ共和党、中央情報局(CIA)や中華民国の蒋介石政権と強固な人脈を持ち、日本遺族会初代会長となる等、国際反共勢力、自民党、右翼のトライアングルを結ぶフィクサーとして国内外の右翼人脈を築いた。2007年(平成19年)に開示されたアメリカ国立公文書記録管理局所蔵の文書に、CIAの協力者(日本反共化のためのスパイ)だったことが記されている。
久原房之助  (1869年6月4日 - 1965年)衆議院議員当選5回(16、17、18、19、25回総選挙)。逓信大臣、内閣参議、大政翼賛会総務、立憲政友会(久原派)総裁を歴任。日立製作所創立の基盤となった久原鉱業所(日立銅山)や久原財閥の総帥として「鉱山王」の異名を取った。義兄の鮎川義介と共に「政界の黒幕・フィクサー」と呼ばれ、右翼に資金を提供して二・二六事件に深く関与した。戦後はA級戦犯容疑者となり、公職追放となった。明治の政商として活躍、藤田組を創業した藤田伝三郎は父・庄三郎の実弟にあたる。なお、庄三郎は伝三郎が「藤田伝三郎商会」(後の藤田組、現在のDOWAホールディングス)設立の際には共同経営者として名前を連ねている。

 2回結婚しており(最初の妻が鮎川義介の妹・キヨ)、妾腹の子を含めると3男10女計13人の子に恵まれた。長女は元衆議院議長・石井光次郎に、三女は大隈重信の孫・信幸に、四女は元東京急行電鉄社長・五島昇に、八女は元スタンレー電気社長・北野隆興に嫁ぎ、九女と十女は米国人と結婚している。孫にシャンソン歌手の石井好子と元東急建設社長の五島哲、スタンレー電気社長の北野隆典がおり、曾孫に詩人・フランス文学者の朝吹亮二が、玄孫に小説家で第144回芥川龍之介賞を受賞した朝吹真理子がいる。
佐藤栄作  2007年に公開された日本占領中のマッカーサーの諜報活動を詳述しているCIA文書など5万点に上る機密解除文書には、岸信介の弟である佐藤栄作元総理大臣が米国に対し「共産主義と戦うためにアメリカからの財政援助を願い出ていた」ことが書かれている。また、佐藤栄作大臣(岸政権下の大蔵大臣)が当時の米国駐日大使館S.S.カーペンター大使館一等書記官と東京グランドホテルで秘密裏に会談し、資金援助を要請したことがS.S.カーペンター大使館一等書記官作成の覚書の中に書かれている。
中曽根康弘  ロッキード事件の発覚直後の1976年2月、中曽根・自民党幹事長(当時)から米政府に「この問題をもみ消すことを希望する」との要請がをしている。三木首相(当時)は事件の真相解明を言明していたが、裏では早期の幕引きを図る動きがあったことになる。 76年2月20日にジェームズ・ホジソン駐日米大使(当時)から国務省に届いた公電の写しが米国立公文書館の分館であるフォード大統領図書館に保管され、2008年8月に秘密指定が解除された。文書中、依然として秘密扱いの部分が2カ所あり、大使館関係者の名前は不明。結果的に、事件の資料は、原則として公表しないことを条件に日本の検察に提供された。
宮沢喜一  元総理大臣。
渡辺恒三  CIA指令「小沢抹殺」実行の主役の一人。原発利権とCIA工作によって寝返った。渡辺恒三一族は従米ネオコンエージェント活動を主導している。
渡辺恒雄  渡辺恒三の息子。マイケル・グリーンの教え子で、肩書きもCSIS(シー・エス・アイ・エス)の研究員。
佐藤雄平  渡辺恒三の甥っ子。福島県知事
小泉純一郎
竹中平蔵
飯島勲  小泉元首相の秘書官だった。
麻生太郎  戦後、米国政府は、日本を共産主義への防波堤に使おうと考え日本を「監視下」 に置いた。その任務を担ったのが、初代CIA日本支局長ポール・ブルーム。そのブルームは東京の渋谷区神山町22番地に住居した。近所に2008年現在の麻生太郎元首相の生家があり、当時の総理大臣吉田茂は麻生の祖父であり、両者は麻生の家で日本の経済成長や米軍駐留の政策について深夜まで話し合った。ブルームは麻生太郎を自宅に引き取り、CIAエージェント工作をしている云々。
小泉進次郎  ジェラルド・カーティス教授とのコネで国際関係(SIPA)に入学。
前原誠司
長島昭久  SAIS(ジョンズホプキンズ大学高等国際問題研究大学院)ではプレジンスキー教授のゼミで仕込まれ、防衛省の政務官を経て野田の首相補佐官。マイケル・グリーンの使い走り。

【皇室】
東久邇稔彦 (1887年12月3日 - 1990年1月20日)旧皇族、陸軍軍人、陸軍大将。位階は従二位。勲等は大勲位。功級は功一級。皇籍離脱後は東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)を名乗った。第二次世界大戦後、敗戦処理内閣として憲政史上最初で最後の皇族内閣を組閣した。連合国に対する降伏文書の調印、陸海軍の解体、復員の処理を行い、一億総懺悔を唱え国内の混乱を収めようとしたが、歴代内閣在任最短期間の54日で総辞職した。

【官僚】
★勝栄二郎 (元財務省事務次官)
★松元 崇(財務省)
★清水 治(財務省)
★竹歳 誠(財務省)勝栄二郎と東大時代からの盟友
★太田 充(財務省) 
★宇波弘貴(財務省) 
★小宮義之(財務省) 
★吉井浩氏(財務省) 
★井藤英樹(財務省)
★宇波弘貴(財務省)
★大串博士 衆議院議員(財務省出身)
野村吉三郎  (1877年12月16日 - 1964年5月8日)日米開戦時の駐米大使。昭和初期に活躍した日本の海軍軍人、外交官、政治家。和歌山県和歌山市出身。位階勲功等は海軍大将従二位勲一等功二級。終戦後の1946年(昭和21年)8月、公職追放となるが、ACJ(アメリカ対日協議会)の面々は積極的に野村に近づき、定期的に(違法ではあるが)食料や煙草を送り、経済的に苦しい野村の便宜を図った。メンバーの一人であるウィリアム・リチャーズ・キャッスルは、野村を「日本を正しい道筋で、再び重要な国家となるように再建するのに役立つ人物の一人だ」と評した。

 1953年(昭和28年)3月24日、同郷の松下幸之助に請われ、松下電器産業の資本傘下となった日本ビクターの社長に就任。空襲による会社や工場施設の焼失、戦後の労働争議などでの危機的経営を創生期の親会社で疎遠となっていたアメリカRCAと技術支援契約を結び再建の道筋をつける。追放解除に伴い、吉田茂の要請で再軍備問題の調査にあたり、海上自衛隊の創設に深く関わる。1954年(昭和29年)の第3回参議院議員補欠選挙(和歌山選挙区)に出馬・当選、続く第5回参議院議員通常選挙(和歌山選挙区)にも当選した。自由民主党に参加して、防衛政策を担当した他は外交調査会会長を務め、松野鶴平の参議院議長就任に伴い党参議院議員会長に就任した。
秋山浩 旧731部隊情報提供者。
有末精三 (1895年5月22日 - 1992年2月14日)元陸軍中将 駐留米軍顧問 日本郷友連盟会長。CIAの記録によると有末とその部下は在日中国共産党員に情報を売っていたとされている。戦時中から、アメリカと中国共産党の二重スパイか。
麻生達男 詳細不明  詳細不明
西原正 (防衛大学校社会科学教室教授)(防衛庁防衛研究所第一研究部長)(国際戦略研究所(ロンドン)理事)(元ロックフェラー財団国際関係部門客員研究員)(悪名高き猪木正道氏が主宰する平和・安全保障研究所研究委員歴任)
緒方貞子 国連難民高等弁務官 元・上智大学教授 元・国際基督教大学助教授 平成2年国連人権委員会で、ミャンマの人権抑圧調査
瀬島龍三 (大本営陸軍参謀と大本営海軍参謀を兼務)
吉野丈六 (国際経済研究所理事長、元・駐西ドイツ大使、経済連参与)
島内敏郎 (外交官、サンフランシスコ講和会議の委員)

【司法】
★東京地検特捜部

東京地検特捜部の歴代トップは、全員CIAに留学し、CIAの対日工作員としての徹底的教育を受け、日本に帰国する。この教育を受けた者でなければ、東京地検特捜部、そして日本の警察機構の中で、上層部に出世する事は出来ない。時には、防衛省の守屋事務次官の事件のように、米国CIAから東京地検への直通ファックスによる「摘発指令」が来ることもある云々。


【財界】
行天豊雄 (東京三菱銀行相談役、国際通貨研究所理事長)
井上薫 (第一勧業銀行名誉会長)
宮崎勇 (大和総研特別顧問、村山改造内閣時元経済企画庁長官)
千野宜時 (大和証券名誉会長)(日本証券協会会長)、
八城政基 (シティ銀行)
渡辺文夫  元・東京海上火災保険会長 現相談役 日本航空相談役、日本棋院理事長 日本租税研究会会長 日本コントラクトブリッジ連盟会長 東京マリーン会長 元・日航会長
渡辺武 損害保険事業総合研究所会長 日本シルバーボランティアズ会長 日本フォースター・プラン協会会長 AFS日本協会理事  
植谷久三 山一証券相談役 元・山一証券経済研究所会長 元・経済同友会幹事 元・東京証券取引所理事会議長 日本証券業協会会長
緒方四十郎  山一証券顧問 元・日本開発銀行副総裁 元・山一投資顧問取締役、元日本銀行理事 富士ゼロックス取締役、国連財政諮問委員会共同議長
犬丸徹三 (元帝国ホテル社長)
堀内貞一 (神奈川菱油取締役、新日本産業設立、社長。一九五九年日本のグランドマスター)
五島慶太 (1882年4月18日 - 1959年8月14日)1944年(昭和19年)、東條英機内閣の運輸通信大臣に就任し、名古屋駅の交通緩和や船員の待遇改善などに貢献する。終戦後の1947年(昭和22年)、東條内閣の閣僚だったという事で連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって公職追放者指定を受けた。公職追放後も影のご意見番として事実上企業活動に参加。大東急分割騒動の際も、むしろ自ら企業分割を推奨し大東急再編成の推進役を果たした。東急電鉄創業者。
高橋龍太郎  1950.1.5日入会、No.2。元商工大臣、元通産大臣。元東京商工会議所会頭、ビール会社の社長として財界人。
山下太郎  1950.4.3日入会、No.2。俗に“満州太郎”“アラビア太郎”との異名を持つ財界人、山下汽船の社長。
加納久朗  1950.4.3日入会、No.2。吉田元首相の親族として財界側のスポンサー、「不明の外資を導入する男」(『真相』)といわれた。子爵、元横浜正金銀行重役などの戦後財界人。 
笠井重治  山梨県出身で、戦前、シカゴ大政治学科、ハーバード大学院を卒業、親米派の人物である。
梁瀬長太郎  1950.4.19日入会、No.2。ヤナセ自動車の元社長、同社は日本初の自動車ディーラー、ヤナセ商会が前身で、世界の高級外車を輸入販売して有名。ちなみに、鹿島守之助(鹿島組会長)と親族。「守之助氏はフリーメーソンに十分な理解があり、『鹿島平和研究所』を創設、“パン・アジア”運動や世界連邦運動で有名です。カーレルギー伯やハンフリー副大統領(メーソン)、鳩山薫子ほかに創設した鹿島平和賞を贈呈しています。日本のフリーメーソンに入会を頼んだが、なぜか入られませんでした」(日本のグランド・マスターの話)という。
小松隆  1950.8.8入会、No.2。元日本鋼管重役、吉田茂日米協会会長時の副会長、後に同会長。ロータリー・クラブの評議員、会長でもある。
田中元彦  不明、No.11。前出の藤山愛一郎氏の実弟、日本NCRの顧問、菱和航空サービス(株)会長、日本アドレソグラフ・マルティングラフ(株)取締役。プリンストン大卒の知米派だった。
浅地庄太郎  日本ビルサービス株式会社社長。
浅野良三  1951.9.20日入会、No.2。浅野財閥の当主。戦後、経団連結成に参加、小林中などと“新番町会”を結成、池田内閣などとつながった財界人として知られる。
弘世源太郎  1961.4.10日入会、No.1。元日本生命常務、父・現氏が同社社長、妹の正子さんは旧皇族の久邇宮朝融王氏の子息、邦昭氏と結婚。財界の“名門”といえよう。
小林陽太郎 (富士ゼロックス会長 経済同友会副代表幹事)日米経済協議会会長
椎名武雄 (日本IBM会長 経済同友会副代表幹事)
香西泰 日本経済研究センター理事長
山本正 日本国際交流センター代表理事長
向坊隆 日本原子力産業会議会長 日本工業教育協会会長 日中協会会長、日本生命財団会長、東京大学名誉教授・元総長 元・日本ユネスコ国内委員会副会長
石川六郎 鹿島建設名誉会長、日本商工会議所名誉会頭 元・東京商工会議所会頭
小林庄一郎 関西電力元会長 日本航空監査役、ロイヤルホテル取締役、現阪急電鉄取締役
久米豊  元・日産自動車会長 現相談役
長谷川周重 元・住友化学工業会長 現相談役 日本ギリシャ協会会長 元・経団連副会長、顧問、日経連理事 日米経済協議会代表世話人 世界経営協議会名誉会長

【学会】
福見秀雄  (1914年4月20日 - 1998年12月19日)昭和時代後期の微生物学者。(旧731部隊関係者)昭和22年創設の国立予防衛生研究所入所、細菌部長をへて、53年所長。55年長崎大学長。藤野恒三郎と腸炎ビブリオを発見。インフルエンザワクチンの開発、集団接種などに力をそそいだ。死去。84歳。愛媛県出身。東京帝大卒。
小宮義孝  (1900年 2月18日埼玉県にて出生。元東京大学医学部助教授国崎定洞(ドイツ共産党日本人部創設者で、旧ソ連に亡命後スターリン粛清の犠牲になったコミュニスト)の親友であり、東大医学部助手時代に治安維持法違反で検挙され、上海に渡った経歴を持つ。七三一部隊の石井四郎・秋山浩・福見秀雄と同様に細菌戦関与を疑われたが、もともと治安維持法で検挙され東大医学部助手から上海へ左遷された左翼。この小宮義孝を唯一の例外として、今回機密解除されたCIA個人ファイルには、左翼関係者は公開されていない。
山岡萬之助  不明、No.11。元貴族院議員、日本大学の“中興の祖”といわれる名総長だった。戦後、GHQにより公職追放。
三島通陽  不明。旧伯爵、戦後代議士。戦前、戦後ボーイスカウト運動に活躍、日本ボーイスカウト連盟総長。
岡本礼一  1950年入会、No.2。ボーイスカウト運動の役員)
青木義久  1959.5.20日入会、No.11。元満映、記録映画など学術物の映画プロデューサー
永井陽之助 (青山学院大学教授)
薬師寺泰蔵  慶應義塾大学法学部教授『国際関係理論の新展開』『テクノヘゲモニー』『政治家VS官僚』『社会科学に於ける理論と現実』
佐藤誠三郎 世界平和研究所主幹、所長代理、埼玉大学大学院政策科学研究科教授東京大学名誉教授、元慶応義塾大学総合政策学部教授。『文明としてのイエ社会』『近代日本の対外態度』『自民党政権』『近代化日本の内政と外交』『自由と統合』
市村真一 国際東アジア研究センター所長、京都大学名誉教授 元・大阪国際大学副学長 エコノメトリック・ソサイエティ、アジア政経学会
嘉治元郎 放送大学教授・副学長 東京大学名誉教授
田中明彦 東京大学東洋文化研究所助教授
神谷不二 東洋平和女学院大学教授、慶應義塾大学名誉教授、日本学術会議会員 さくら総合研究所特別顧問。
渋沢雅英 (東京女学館理事長、東西セミナー)

【マスコミ】

電通NTTはもともとCIAが作った通信網。

時事通信社、共同通信社はCIAが作った通信社。

深井武夫  米国による日本情報統治の父。時事通信社。昭和24年(1949年)に当時アメリカ占領軍のC I E の調査担当のハ-バ-ト・パッシング博士等の推薦で、アメリカ、ミシガン大学のサ-ベイ・リサ-チ・センタ-に招かれた。そこで知ったことは、世論調査とともに科学的な市場調査の重要性であった。帰国後そのことはいち早く時事通信社にもたらされた。すぐにこの事が話題になり、市場調査研究会が結成され、日本で初めて世論調査を導入する。(時事通信社と共同通信はCIAによって設立された。)
稲盛和夫  「アブシャイア・イナモリ・リーダーシップアカデミー」をCSIS内に作った。稲森は、生前から松下幸之助と昵懇で政経塾の世話人となってきた。その稲森が典型的な「ジャパン・ハンドラー」であるCSISに、政経塾メンバーを送り込むという構図。
村山有  1950.9.8日入会、No.11。元朝日新聞記者、ジャパンタイムズ編集長、幣原首相のGHQとのパイプ役といわれた。戦争中は陸軍中野学校と組み、対米謀略放送に従事、戦後、ボーイスカウトの再建に活躍、アメリカ生まれの二世。
村田五郎  1950.9.8日入会、No.2。ジャパンタイムズ重役、元群馬県知事、元内閣情報局次長、日本会会長。
東ヶ崎潔  1950年入会、No.2。ジャパンタイムズ社長、ボーイスカウト運動に活躍、ロータリー・クラブ国際会長。1960年、日本のグランドマスター)。
ハリー・カーン  ニューズウィークの元編集長。岸信介の英語の教師。ハリー・カーンはGHQの「アメリカ対日協議会」(ACJ)のエージェントだった。ACJはA級戦犯の釈放、公職追放された旧官僚の復職、解体された財閥の復興を仕切ったことで、戦後の日本に「ジャパン・ロビー」ともいうべき組織を作り上げていた。その中心メンバーなのに、その実態は本当に闇に包まれ日本国民には知られていない。日本のニューズウィーク編集部は今でもCIAのたまり場。
正力松太郎 (1885年4月11日 - 1969年10月9日)/コードネーム「PODAM」。読売新聞、日本テレビ、プロ野球・読売巨人軍の、コードネーム・スパイ組織暗号名は、「ポハイク POHIKE」 。ペンタゴンの資金提供で、日本テレビは創立される。読売新聞と日本テレビはフル稼働で原子力のイメージアップに努め、CIAは原子力に対する日本の世論を転換させたのは正力の功績だと認めている。 日本の警察官僚、実業家、政治家。元読売新聞社社主。従二位勲一等。富山県高岡市名誉市民。京成電鉄OB。長期わたって、CIAエージェント。 正力松太郎や、読売ジャイアンツとの関係で、野球は警察利権。CIAの管轄下にある。マスコミ操作を通じアメリカが常に「善」であると日本の市民を洗脳し、アメリカを批判する言論をマスコミに「登場」させない。アメリカ映画、音楽を大量に流し、アメリカが「すばらしい」国だと連日宣伝することが目的だとアメリカ国立公文書館 米国政府の心理戦争局の内部文書に書かれている。 
芝金平  (朝日イブニングニュース社相談役)
二宮順  (朝日新聞記者、ボーイスカウト運動)
渡辺恒雄  読売新聞経営者。敗戦当時、日本にはテレビ局はNHKしか存在しなかった。米軍は3S作戦実行のため、戦前からのCIAスパイである読売新聞の創立者、正力松太郎とその部下渡辺恒雄(現在の読売新聞・経営者)に「命令」し、CIA直営のテレビ局として日本テレビの創立を命令する。CIAスパイエージェント正力松太郎は、CIAの資金で読売新聞を日本最大の新聞に育て上げるが、戦争中読売新聞は、日本の中国侵略と日米戦争を大々的に「アオッタ」新聞である。日本に中国侵略と日米戦争を行わせる事は、CIA新聞である読売新聞を使った米国の戦略であった。正力松太郎と渡辺恒雄がCIA工作員として、読売新聞、日本テレビ、プロ野球・読売巨人軍を創立し、その経営資金がCIAから出ている事実は、米国政府の心理戦争局の内部文書Records Relating to the Psychological Strategy Board Working Files 1951-53に明記されている。米軍が武器を持ち日本に駐留し、日本を支配下に置いているように、読売新聞、日本テレビ、プロ野球・読売巨人軍は、米軍の「兵器」として「作られた」。

 政治部の渡辺記者は大野番として出発したが、大野伴睦や児玉誉士夫に密着して子分役を務め、暴力団の東声会のクラブの運営委員に連なったり、ロッキード事件の前にワシントン特派員として、児玉の対米窓口を果たしたとも噂された。また、児玉が乗っ取った出版社の「弘文堂」では、若き日の中曽根と共同経営者に名を連ね、その時の株主仲間には児玉や中曽根の他に、大橋富重、萩原吉太郎、永田雅一、久保満沙雄のような、戦後の疑獄史の裏面に出没した政商たちが、読売の現役記者だった渡辺と共に名を連ねている。

船橋洋一  朝日新聞編集委員(元北京特派員)。朝日新聞が親中、新ロ論陣と左右に別れていた時代には、世論調査の信頼度も一定の範囲で存在したが、朝日新聞が小泉純一郎政権以降、船橋洋一主筆を筆頭に急速に親米化一色になった時点で、マスメディアが持ち続けるべきジャーナリズム精神は失われた。人民日報提携紙、同じ住所に東亜日報を置く朝日新聞は、CIA資料からCIAエージェントと明らかにされてから、記事内容も支離滅裂である。過去の高飛車な断定報道を無かったかの様にスルーし、追いつめられると言い訳ばかりで決して謝罪もしない低レベルのゴシップ新聞社である。
小島明 日本経済新聞論説副主幹、元・編集局次長兼国際第1部長、総合研究開発機構(理事)
小笠原敏晶  ジャパンタイムズ会長・社長、ニフコ(日本工業ファスナー)社長 FMインターウェーブ会長、日英物産を設立
福川伸次 電通総研社長・研究所長 東京都臨海副都心開発懇談会座長、地球産業文化研究所顧問 元・神戸製鋼所副会長 日中経済協会(理事) ワールド・リソーシズ・インスティテュート(米国)(理事)
天谷直弘 (電通総研所長)スカラー波研究絡み?
 佐伯喜一(国際政治評論家 世界平和研究所常任顧問 元・野村総合研究所社長)
  (国際戦略研究所(副会長)国際情勢研究会(会長))(東京国際研究クラブ(顧問)、経済同友会(顧問))ワイズメン・グループの大来佐武郎(300人委員会会員)の後を継いで、54年ワイズメンに選ばれる。
田中健五 「諸君!」初代編集長で文春タカ派路線の生みの親。文藝春秋の取材記者を経て、「諸君-!」から「文藝春秋」の編集長を経て、その後は社長にと出世していく。

江口克彦

江口は松下幸之助の側近中の側近。松下の意向を受けで、松下政経塾の司令塔であるPHP研究所の社長になっでコントロールしていた。その人物が最高位に就任している以上、「みんなの党」は松下政経塾政権の別働隊と分析できる。

【労働組合】
鷲尾悦也  連合会長、鉄鋼労連代表

【ジャパンハンドラーズ】
マイケル・グリーン CSISの日本部長
ジェラルド・カーチス コロンビア大学教授)=CIA工作員。その妻・深井翠の父は深井武夫。
統一教会
文鮮明(ムン・ソンミョン)
CIAが文鮮明(ムン・ソンミョン)に作らせた教団。公明党が出来てからは創価学会に代わって自民党に政治資金を流すと同時に、統一教会の資金で各国会議員に秘書を提供している。秘書と言ってもCIAの情報網であり議員の監視役である。
三宝会 竹下登元首相の指示で96年に設立された。新開、テレビ、週刊誌、政治家、官僚、評論家が集まって、自民党にとっで最大の脅威だった小沢一郎をメディアの力で抹殺する作戦が展開された。最高顧問は竹下登、世話人が高橋利行(読売新聞世論調査部長)、後藤謙次(共同通信 編集委員)、芹川洋一(日本経済新開政治部次長)、佐田正樹(朝日新開電子電波メディア局局長付)、湯浅正巳(選択出版)(肩書きはすべて当時)。いま現在は、共同通信、ホリプロ、朝日、毎日、読売、日経、TBS、日テレ、フジ、テレ朝、講談社、文春、プレジデント、選択、朝日出版社が会員だというから、狙われたら抹殺される。中曽根内閣によるバブル経済時代にCIAと結んで日本の核装備のために、原発の建設を財界とともに推進して、現在の破局の基盤作りをしていた。それに協力したのがマスコミという構図。

【その他】
大川周明  (1886年12月6日 - 1957年12月24日)積極的にスパイ活動に関与したとは思えないが、CIAは、満鉄の情報を収集していたのではないだろうか。日本の思想家。 1918年、東亜経済調査局・満鉄調査部に勤務し、1920年、拓殖大学教授を兼任する。1926年、「特許植民会社制度研究」で法学博士の学位を受け、1938年、法政大学教授大陸部(専門部)部長となる。その思想は、近代日本の西洋化に対決し、精神面では日本主義、内政面では社会主義もしくは統制経済、外交面ではアジア主義を唱道した。晩年、コーラン全文を翻訳するなどイスラーム研究でも知られる。
 植田優、吉井寿雄(貴族院議員吉井勇の息子、松本滝蔵の親族)、武田修、長田政次郎、北川正恵、小田春海、山本勝夫、増山吉成。

【ロッジと会員数】
 現在、日本には北海道から沖縄まで24箇所のロッジがあり、会員には2600人。その内日本人が250人である。意外と少ないように思われるが、政財界のトップクラス、宗教人、文化人、外務官僚、大蔵官僚など、社会的に大きな影響力を持つ人々によって占められている。

 、西原正(防衛大学校社会科学教室教授)(防衛庁防衛研究所第一研究部長)、天谷直弘(電通総研所長)、永末英一(元民社党委員長、ハーバード大学に留学)、宮沢喜一(元総理大臣)、瀬島龍三(大本営陸軍参謀と大本営海軍参謀を兼務)、向坊隆(日本原子力産業会議会長 日本工業教育協会会長)、石川六郎(鹿島建設名誉会長、日本商工会議所名誉会頭、元・東京商工会議所会頭)、緒方貞子(国連難民高等弁務官 元・上智大学教授 元・国際基督教大学助教授)。








(私論.私見)