辻政信 |
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(1902年10月11日 - 1961年に行方不明)元陸軍大佐。政治家。衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)。旧軍人グループとの繋がりで反共陣営に参画。著書を次々出版しベストセラー作家としての知名度を確立した。旧軍の参謀だったという要素がプラスに働き、追放解除後の1952年に旧石川1区から衆議院議員に初当選。自由党を経て自由民主党・鳩山一郎派、石橋派に所属。石橋内閣時代に外遊をし、エジプトのガマール・アブドゥン=ナーセル、ユーゴスラビアのヨシップ・ブロズ・チトー、中国の周恩来、インドのジャワハルラール・ネルーと会談している。衆議院議員4期目の途中だった1959年に岸信介攻撃で自民党を除名されて衆議院を辞職し、参議院議員(全国区)に鞍替えして第3位で当選した。2005年(平成17年)に公開された、米中央情報局(CIA)極秘文書には『辻政信ファイル』が存在する。しかし、経験不足で諜報活動は失敗に終わった」としているほか、日本の再軍備をもくろんでいたとしてアメリカ側が警戒していたことが記されている。 |
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→CIAのスパイ・エージェント論拠は不明。 |
服部卓四郎 |
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(1901年1月2日 - 1960年4月30日)戦時中からアメリカのスパイであることが疑われる。元陸軍大佐。1942年(昭和17年)8月に始まったガダルカナル島の戦いにおいては、現地を視察した際、「補給路が確立されつつあり、この点について問題なし」と実情とかけ離れた報告をした。結果、陸軍は3万人以上の部隊を投入したが、撤退できたのは僅かに1万人足らずだった。
終戦後は、チャールズ・ウィロビーの元で日本の再軍備にかかわる。当初は、創設される警察予備隊の幕僚長に任じられる予定であったが、公職追放された人物を入隊させることはできないと民政局及び吉田茂首相(吉田に進言したのは辰巳栄一元中将を中心としたグループ)が反対したため、服部の幕僚長就任は実現しなかった。
1952年(昭和27年)10月31日付のCIA文書によると、服部らは、自由党の吉田茂首相が公職から追放された者や国粋主義者らに敵対的な姿勢を取っているとして、
同首相を暗殺し、民主党の鳩山一郎を首相に据える計画を立てた。辻政信が「今はクーデターを起こす時ではない」と服部らを説得し、服部らはクーデターは思いとどまったものの、政府高官の暗殺を検討したという。 |
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→CIAのスパイ・エージェント論拠は不明。 |
今村均 |
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元陸軍大将。戦場で将兵の守るべき教訓を列挙した訓示、いわゆる「戦陣訓」を作成 した。「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」。インドネシアでは、民族独立を目指すスカルノとの友情を貫き、ラバウルでは陸軍7万人の兵を統率して、米軍の攻撃をものともせずに、玉砕も飢えもさせずに敗戦まで持ちこたえ、無事に帰国させた。
戦犯として捕まった部下を救うために、自ら最高責任者として収容所に乗り込み、一人でも多くの部下を救うべく奮闘した。オーストラリア軍の禁錮10年の判決により、1949年(昭和24年)に巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)に送られた。だが今村は「(未だに環境の悪い南方で服役をしている元部下たちの事を考えると)自分だけ東京にいることはできない」として、1950年(昭和25年)には自ら多数の日本軍将兵が収容されているマヌス島刑務所への入所を希望した。帰国後は、部下や、遺族の生活のために奔走した。その姿はマッカーサーをも感動させたのである。政治家や官僚、企業経営者の責任が問われる今、責任をとるとはどういうことか、今村将軍の生涯を振り返えれば答えが出るであろう。CIAのスパイ・エージェントではなかろう。 |
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→CIAのスパイ・エージェント論拠は不明。と云うか真反対ではなかろうか。 |
小野寺信 |
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(1897年9月19日 - 1987年8月17日)元陸軍少将。スウェーデン公使館付武官に発令され、翌年1月、ストックホルムに着任し太平洋戦争を迎えた。1943年(昭和18年)8月、陸軍少将に進む。この頃からSD国外諜報局長であるヴァルター・シェレンベルクと共に和平工作に従事する。敗戦後の1946年(昭和21年)3月に日本に帰国復員したが、同年7月まで4ヶ月間戦争犯罪人として巣鴨プリズンに拘留された。 |
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→CIAのスパイ・エージェント論拠は不明。 |
石井四郎 |
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(1892年6月25日 - 1959年10月9日)(旧731部隊長)元陸軍軍人、軍医。関東軍防疫給水部長、第1軍軍医部長を歴任する。階級は陸軍軍医中将功三級医学博士。731部隊の創設者として防疫活動に従事した。多くの人体実験を行い細菌兵器を開発したとされる。 |
前田稔 |
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(1945年3月1日 - 1945年10月1日)元海軍中将。航空艦隊司令長官。「親ソ」でコミュニストの可能性。海軍内で暗躍したさほどの形跡はない。 |
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→CIAのスパイ・エージェント論拠は不明。 |
重光葵 |
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(1887年7月29日 - 1957年1月26日)第二次世界大戦期の、日本の外交官・政治家。1943年(昭和18年)11月の大東亜会議を開くために奔走。人種差別をなくし亜細亜の国々が互いに自主独立を尊重し対等な立場での協力を宣言した。公職追放解除後、改進党総裁・日本民主党副総裁を務めた。鳩山一郎派と合同して日本民主党を結党させる。1955年(昭和30年)の保守合同で自由民主党結党に参加。 |
下村定 |
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(1887年9月23日 - 1968年3月25日)元陸軍大将。政治家。終戦時下村は満州におり、下村の帰国まで東久邇陸軍大将宮が陸軍大臣を兼務している。第5回参議院議員通常選挙で全国区から出馬、当選し参議院議員を1期務めた。 |
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→CIAのスパイ・エージェント論拠は不明。 |
和知鷹二 |
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(1893年2月1日 - 1978年10月30日)元陸軍中将。1946年(昭和21年)1月、戦犯容疑(橘丸事件)で逮捕され巣鴨拘置所に拘留。1948年(昭和23年)4月13日、重労働6年の判決を受け、1950年(昭和25年)8月に仮釈放された。 |
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→CIAのスパイ・エージェント論拠は不明。 |
和智恒蔵 |
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(旧姓・大野、1900年7月24日 - 1990年2月2日) 元海軍大佐で、硫黄島では海軍警備隊司令を務めた。1946年4月25日から9月まで巣鴨プリズンに拘禁された。戦争から生還したことに責任を感じて出家し、天台宗の僧侶になる。硫黄島協会を設立して、慰霊と遺骨収集に生涯を捧げた。 |
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→CIAのスパイ・エージェント論拠は不明。と云うか真反対ではなかろうか。 |
佐藤尚武 |
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1950.1.5日入会、ロッジ番号No.2。終戦時の駐ソ大使、戦後代議士。元衆院議長、元外相で、外交界の長老であった。神社本庁の総代会会長に就任、国家神道の再建に貢献した。 |
植竹悦二郎 |
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1950.1.5日入会、ロッジ番号No.2。長野県出身の代議士、戦前の内務大臣、戦後憲法をGHQと会談、作成に協力した。吉田、鳩山政権に参加、リベラリストだったが反共主義者としても有名。 |
下条康麿 |
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1950.3.3日入会、ロッジ番号No.2。元文部大臣。子息が下条進一郎現代議士である。 |
野田俊作 |
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1950.3.28日入会、ロッジ番号No.2。政友会の父、卯太郎の地盤を継ぎ、代議士。松野鶴平代議士と義兄弟の間。 |
松本滝蔵 |
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1950.9.8日入会、ロッジ番号No.2。広島県出身の代議士。マッカーサー元帥後援の日米親善野球の日本側委員長。 |
岡本礼一 |
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1950年入会。ボーイスカウト運動の役員。 |
鳩山一郎 |
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鳩山は戦後公職追放中の身となった。この頃のこと、マッカーサー元帥の肝入りでフリーメーソンの門戸が開いたと聞き、村山氏を訪ねて入会を希望、「フリーメーソンの精神を日本人にも大いに理解させなくてはいかん」と力説した。やがて公職追放が解け、1951.3.29日入会、ロッジ番号No.2。その後、首相になりメーソンの第3位階に昇進、水交社で200人近いメーソン兄弟の祝福を受けた。この時、次のように挨拶している。
「戦後日本において幾多の社会的変化がありました。そのなかでフリーメーソンの門戸が開かれたことは最も大きな出来事であります。私は世界幾多の指導者や元首が対等の資格で会員であるフリーメーソンの一員として、日本グランド・ロッジの年会に出席する機会を光栄に思います。 フリーメーソンが民主主義精神の根本を教え、アメリカの独立をはじめとして自由と平和のために闘ってきた数多くの先覚者は、みなメーソンでした。この友愛精神が新しく日本をもつなぐ大きな力となったことを考えましても、この精神を讃えずにはいられません。マッカーサー元帥は私ども日本人にこの友愛結社の門戸を開き、また占領軍の多くのメーソンは実際に兄弟愛の何物であるかを実践してくれました。占領初期から今日に至るまでのマッカーサー、リッジウェイ、クラーク、ハル、レムニッツアならびにアリソン大使は、いずれもメーソンであります。日本にこの会が結成されて数年を経ていますが、この間に日本語のみの関東ロッジが認められたことを喜ぶものです。4000年の歴史を有するフリーメーソンが日本で実を結んで今日に至ったことを誇りに思います」(昭和31年6月5日)
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元首相。昭和29年、青年運動の「友愛同志会」(現薫子夫人会長。クーデンホーフ・カーレルギー伯が名誉会長)を結成。「友愛同志会はフリーメーソンの精神を基礎にしている」が鳩山氏の口グセだったという。ちなみに、“パン・ヨーロッパ主義者”でEC創設者の一人、カーレルギー伯はオーストリアのメーソンといわれている。
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浅野良三 |
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1951年9月20日入会、No.2。浅野財閥の当主。戦後、経団連結成に参加、小林中などと“新番町会”を結成、池田内閣などとつながった財界人として知られる。 |
河合弥八 |
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入会、ロッジ番号不明。元参議院議長、鳩山自由党に参加した保守政治家として有名。 |
吉田茂 |
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面従腹背派。幼児に横浜の富裕な貿易商、吉田健三の養子となり、東京帝国大学政治科を卒業後、外務省に入省した。大久保利通の次男、牧野伸顕伯爵の長女、雪子と結婚。天津総領事、奉天総領事、イタリア大使、イギリス大使を歴任した。吉田茂は取り巻く人間を通して、ロスチャイルドの影響を受けていた。太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941年9月6日の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。元自民党総裁=麻生太郎の祖父。 |
辰巳栄一 |
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(1895年1月19日ー1988年2月17日)/コードネーム「POLESTAR―5」。元陸軍中将。戦後の連合軍占領中は旧軍の反共主義工作機関「河辺機関」を率いた。警察予備隊の幹部人選に駐英武官当時からの上司であった吉田茂の腹心として関与。内閣調査室や後の自衛隊の設置に関わる資料をアメリカ政府に流していた事が2009年10月、有馬哲夫・早稲田大学教授のアメリカ国立公文書記録管理局における機密解除資料調査で確認された。1975年1月から1978年12月まで偕行社会長を務めた。 |
緒方竹虎 |
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(1888年1月30日 - 1956年1月28日)/コードネーム「POCAPON(ポカポン)」。ジャーナリスト、政治家。朝日新聞社副社長・主筆、自由党総裁、自由民主党総裁代行委員、国務大臣、情報局総裁、内閣書記官長、内閣官房長官、副総理などを歴任。栄典は正三位勲一等旭日大綬章。三男の緒方四十郎は元日本銀行理事。緒方は12月にA級戦犯容疑者指名、1946年8月に公職追放、1947年9月戦犯容疑解除、1951年8月に追放解除となっている。A級戦犯容疑者指名がなければ、敗戦で社内の緒方派と反緒方派の対立が再燃して自らも調停に乗り出し、村山長挙社長が辞任していた朝日新聞社の社長に就任するはずであった。追放解除の翌年にあたる1952年10月、第25回衆議院議員総選挙で福岡1区(当時)から出馬し、中野正剛の地盤を引き継いだうえに地元財界の支持を得て当選する。第4次吉田内閣で当選1回ながら、国務大臣兼内閣官房長官、さらに副総理に任命され、翌1953年5月成立の第5次吉田内閣でも副総理に就任した。この政界での急速な階梯昇段の要因には、吉田茂の政治指南役だった古島一雄の紹介や、吉田が重光葵の後任として東久邇宮内閣外務大臣に就任したのが、近衛文麿と緒方の推薦によるものだったことなどが挙げられる。なお、緒方は政界復帰前の1952年4月、吉田茂、村井順とともに、アメリカのCIA、イギリスのMI5、MI6などを参考にして、内閣総理大臣官房に「調査室」という小さな情報機関を設立した。これが現在の内閣情報調査室の源流である。緒方は、これとは別に強力な情報機関、いわゆる日本版CIAを新設する構想を持っており、吉田内閣入閣でこの構想は一挙に表舞台に登場したが、国会や外務省、世論の激しい批判を浴び、第5次吉田内閣の下で内調の拡充・強化を図るにとどまった。しかし、このときの緒方の動きを、アメリカCIAは高く評価した。 |
岸信介 |
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(1896年11月13日 - 1987年8月7日)言わずもがなのエージェント、但し国体観念は保持している面がある。岸の『系譜』の政治家は、CIAのスパイである。政治的に岸は日本の歴代首相のだれよりも右寄りだった。岸は、APACL(アジア人民反共連盟)、MRA(道徳再武装運動)、統一教会など、右翼組織やCIAのフロント組織に深く関わっていた。首相をしりぞいた二年後の1962年9月には、東京で5日間にわたって開催されたAPACLの会合で基調演説を行なっている。また、日本郷友連盟や祖国防衛同士会など、民主主義の粉砕と天皇の政権復帰を擁護する極右団体の顧問もつとめた。岸は首相在任中に、日本を訪れたMRAの代表達に次のように挨拶している。「諸君は全世界に対して道徳的バックボーンを与えるようにしておられる。私はMRAが6週間にわたって(1960年5月から6月までの期間)我が国に与えた圧倒的な影響力に対して感謝の気持ちを表明したい」。時あたかも、岸打倒を叫ぶ運動がピークに達しており、MRA代表団の訪日のタイミングのよさには目を見張るものがあった。
岸は日本でもっとも反動的な首相だった。1957年から60年までの短い首相在任中に、岸内閣は史上まれに見る反進歩的な法案を提出した。一つは1958年、警察官の権限を拡大強化する警職法(警察官職務執行法)改正案であり、もう一つは1948年に廃止された紀元節の復活であった。統一教会といえば、CIAの命によりKCIA(韓国中央情報局)が組織し、操る宗教団体であることが後に明らかになった。岸と教会との密接な関係を示す一例として1974年5月、東京の帝国ホテルで開かれた『希望の日』実行委員会主宰の大晩餐会がある。『希望の日』とは、教会の世界的宣伝キャンペーンの一環の集会名だが、同実行委員長が岸信介だった(週刊新潮1974年5月23日号より)。 |
三島通陽 |
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不明。旧伯爵、戦後代議士。戦前、戦後ボーイスカウト運動に活躍、日本ボーイスカウト連盟総長。 |
児玉誉士夫 |
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(1911年(2月18日 - 1984年1月17日)日本の右翼運動家、黒幕、CIAエージェント。暴力団・錦政会(後の稲川会)や東声会の顧問。朝鮮戦争(50年—53年)当時、CIAの前身である米戦略サービス局(OSS)の旧幹部グループは児玉らと組んで日本の貯蔵庫から数トンのタングステンを米国に密輸。ミサイル強化のためタングステンを必要としていた米国防総省に1000万ドルで売却。これを調べている米メーン大学教授の資料によると、CIAは280万ドルを児玉にその見返りとして提供したという。アメリカの国立公文書館が公開したCIA・中央情報局の機密文書に記されていたものによると、東西冷戦の初期、CIAは「右翼の大物」と言われ、戦犯の疑いで逮捕されたあと釈放された児玉や、元陸軍参謀の辻政信らと接触し、中国など共産圏の情報収集活動に当たらせたという。
しかし、CIAは、こうした試みは、工作資金を持ち逃げされたり、情報をねつ造されるなどしてほとんど役に立たなかったと分析している。特に、児玉氏については「自身の富や権力を得ることが目的で、母国の将来には関心がなかった。諜報員としての価値はないに等しい」と酷評している。 |
笹川良一 |
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(1899年5月4日 - 1995年7月18日)日本の政治運動家、右翼活動家、社会奉仕活動家。CIAエージェント。真偽不明ながら、巣鴨の刑務所で鳩山と同房し、フリーメーソンになることで出所したと云われている。 |
星島二郎 |
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元商工相、サンフランシスコ講和会議全権委員、鳩山自由党に参加、元衆院議長として自民党の長老。 |
青木義久 |
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1959年5月20日入会、No.11。元満映、記録映画など学術物の映画プロデューサー。 |
賀屋興宣 |
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(1889年1月30日 - 1977年4月28日)コードネーム「POSONNET-1」。広島県広島市出身の大蔵官僚~政治家。大蔵(現財務省)官僚はアメリカCIAのスパイである。戦後A級戦犯として極東国際軍事裁判で終身刑となり、約10年間巣鴨プリズンに服役。1955年(昭和30年)9月17日に鈴木貞一、橋本欣五郎らと共に仮釈放。1958年(昭和33年)赦免。同年第28回衆議院議員総選挙に旧東京3区から立候補し当選(以後5回連続当選)。岸信介首相の経済顧問や外交調査会長として安保改定に取り組んだほか、池田内閣の法務大臣、自民党政調会長などを歴任し、自由民主党右派・タカ派の政治家として有名だった。1972年(昭和47年)、政界引退。「自由日本を守る会」を組織、中華民国擁護など独自の政治活動を続けた。
アメリカ共和党、中央情報局(CIA)や中華民国の蒋介石政権と強固な人脈を持ち、日本遺族会初代会長となる等、国際反共勢力、自民党、右翼のトライアングルを結ぶフィクサーとして国内外の右翼人脈を築いた。2007年(平成19年)に開示されたアメリカ国立公文書記録管理局所蔵の文書に、CIAの協力者(日本反共化のためのスパイ)だったことが記されている。 |
久原房之助 |
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(1869年6月4日 - 1965年)衆議院議員当選5回(16、17、18、19、25回総選挙)。逓信大臣、内閣参議、大政翼賛会総務、立憲政友会(久原派)総裁を歴任。日立製作所創立の基盤となった久原鉱業所(日立銅山)や久原財閥の総帥として「鉱山王」の異名を取った。義兄の鮎川義介と共に「政界の黒幕・フィクサー」と呼ばれ、右翼に資金を提供して二・二六事件に深く関与した。戦後はA級戦犯容疑者となり、公職追放となった。明治の政商として活躍、藤田組を創業した藤田伝三郎は父・庄三郎の実弟にあたる。なお、庄三郎は伝三郎が「藤田伝三郎商会」(後の藤田組、現在のDOWAホールディングス)設立の際には共同経営者として名前を連ねている。
2回結婚しており(最初の妻が鮎川義介の妹・キヨ)、妾腹の子を含めると3男10女計13人の子に恵まれた。長女は元衆議院議長・石井光次郎に、三女は大隈重信の孫・信幸に、四女は元東京急行電鉄社長・五島昇に、八女は元スタンレー電気社長・北野隆興に嫁ぎ、九女と十女は米国人と結婚している。孫にシャンソン歌手の石井好子と元東急建設社長の五島哲、スタンレー電気社長の北野隆典がおり、曾孫に詩人・フランス文学者の朝吹亮二が、玄孫に小説家で第144回芥川龍之介賞を受賞した朝吹真理子がいる。 |
佐藤栄作 |
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2007年に公開された日本占領中のマッカーサーの諜報活動を詳述しているCIA文書など5万点に上る機密解除文書には、岸信介の弟である佐藤栄作元総理大臣が米国に対し「共産主義と戦うためにアメリカからの財政援助を願い出ていた」ことが書かれている。また、佐藤栄作大臣(岸政権下の大蔵大臣)が当時の米国駐日大使館S.S.カーペンター大使館一等書記官と東京グランドホテルで秘密裏に会談し、資金援助を要請したことがS.S.カーペンター大使館一等書記官作成の覚書の中に書かれている。 |
中曽根康弘 |
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ロッキード事件の発覚直後の1976年2月、中曽根・自民党幹事長(当時)から米政府に「この問題をもみ消すことを希望する」との要請がをしている。三木首相(当時)は事件の真相解明を言明していたが、裏では早期の幕引きを図る動きがあったことになる。
76年2月20日にジェームズ・ホジソン駐日米大使(当時)から国務省に届いた公電の写しが米国立公文書館の分館であるフォード大統領図書館に保管され、2008年8月に秘密指定が解除された。文書中、依然として秘密扱いの部分が2カ所あり、大使館関係者の名前は不明。結果的に、事件の資料は、原則として公表しないことを条件に日本の検察に提供された。 |
宮沢喜一 |
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元総理大臣。 |
渡辺恒三 |
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CIA指令「小沢抹殺」実行の主役の一人。原発利権とCIA工作によって寝返った。渡辺恒三一族は従米ネオコンエージェント活動を主導している。 |
渡辺恒雄 |
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渡辺恒三の息子。マイケル・グリーンの教え子で、肩書きもCSIS(シー・エス・アイ・エス)の研究員。 |
佐藤雄平 |
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渡辺恒三の甥っ子。福島県知事 |
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小泉純一郎 |
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竹中平蔵 |
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飯島勲 |
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小泉元首相の秘書官だった。 |
麻生太郎 |
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戦後、米国政府は、日本を共産主義への防波堤に使おうと考え日本を「監視下」 に置いた。その任務を担ったのが、初代CIA日本支局長ポール・ブルーム。そのブルームは東京の渋谷区神山町22番地に住居した。近所に2008年現在の麻生太郎元首相の生家があり、当時の総理大臣吉田茂は麻生の祖父であり、両者は麻生の家で日本の経済成長や米軍駐留の政策について深夜まで話し合った。ブルームは麻生太郎を自宅に引き取り、CIAエージェント工作をしている云々。 |
小泉進次郎 |
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ジェラルド・カーティス教授とのコネで国際関係(SIPA)に入学。 |
前原誠司 |
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長島昭久 |
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SAIS(ジョンズホプキンズ大学高等国際問題研究大学院)ではプレジンスキー教授のゼミで仕込まれ、防衛省の政務官を経て野田の首相補佐官。マイケル・グリーンの使い走り。 |
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