フリーメーソン日本史その2 |
更新日/2018(平成30).1.8日
(れんだいこのショートメッセージ) |
「阿修羅」の SP' 氏の2001.4.24日付「第三章 日本フリーメーソンの内幕(赤間剛『フリーメーソンの秘密』三一書房)」、「フリーメーソン」、「ヘブライの館」、「フリーメーソン」、村山有・氏の「終戦のころ・思い出の人々」(時事通信社刊)、“フリーメーソン・ライブラリー”所蔵の「日本のフリーメーソン百年史」(日本グランド・ロッジ編)、「人間と世界の改造者(楽園を創るフリーメーソン物語)」(仙石太郎)、エンセン氏の2003.12.25日付投稿「メ-ソンの二大ドンが練る日本支配総戦略計画」(http://www.asyura2.com/0311/idletalk6/msg/650.html
)、太田龍・氏の「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」、「合気揚げの基礎知識について」、「ユダヤ人基礎講座・補講(4)」、「グラバーと坂本龍馬は、本当にフリーメーソンだったのか」その他を参照する。 2006.1.3日 れんだいこ拝 |
【日本グランド・ロッジ創設後の、グランド・マスター】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本グランド・ロッジ創設後の、グランド・マスターは次の通りだ(註5)「日本のグランド・マスター」。
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圧倒的に外人が多いが、日本人でも二世の人が目立つ。高野清氏も二世である。
現在、日本にはグランド・ロッジの下に20のロッジ(支部)がある。ロッジは、横浜(No.1)、東京(No.2)、国立(No.3)、同(No.4)、京都(No.5)、名古屋(No.6)、国立(No.7)、同(No.8)、佐世保(No.9)、三沢(No.10)、東京(No.11)、神戸(No.12)、座間(No.13)、福岡(No.14)、福生(No.15)、岩国(No.16)、千歳(No.17)、東京(No.18)、沖縄(No.19)、横須賀(No.20)であり、米軍基地周辺に多い。 このほか日本グランド・ロッジに属さない外国のロッジがいくつかある。それらは、神戸(No.1401、イングランド系)、大阪(No.496、スコットランド系)、横浜(No.640、スコットランド系)、東京(No.6、マサチューセッツ系)、座間(No.151、フィリピン系)、沖縄(No.118、フィリピン系)など。これらは明治以来の伝統あるロッジで“既得権”として日本グランド・ロッジの管轄下に入らなかった。
【東久邇宮(ひがしくにみや)が内閣総理大臣に任命される、フリーメーソンに入会】 |
1945年8月17日、終戦直後に東久邇宮(ひがしくにみや)が内閣総理大臣に任命された。日本の降伏宣言に受け入れられずにいる陸軍を武装解除し、終戦手続を円滑に進めるために皇族であり陸軍大将でもあった東久邇宮がふさわしいと考えられたことによる。東久邇宮は最初、迷っていたが、昭和天皇に懇願されて意思を固めたと云われている。その戦後の最初の総理大臣、皇族出身の東久邇宮は1950年、フリーメイソンリーに入会している。 |
【国内のフリーメーソンロッジ活動再開】 |
1947年、禁止されていた国内のフリーメーソンロッジ活動が容認された。 |
【高橋龍太郎入会】 |
1947年に参議院議員就任、1951年に通産大臣を務めた高橋龍太郎もフリーメイソン。彼は「日本のビール王」と呼ばれ、アサヒビールやサッポロビールの社長や役員を務めた。またプロ野球チーム、高橋ユニオンズのオーナーであり、第3代日本サッカー協会会長(1947年~1954年)でもあった。戦後初の天覧サッカー試合となった1947年の東西対抗戦で、高橋は昭和天皇、並びに皇太子明仁親王をグラウンドへ先導、試合終了後に天皇と皇太子が両軍選手たちをねぎらう場面に立ち会っている。同年、日本商工会議所会頭に就任している。 高橋龍太郎の長男・吉隆も、東京帝国大学卒業後、住友銀行副頭取を経て、アサヒビール入りし、1971年~1976年まで社長を務めた。日本におけるビールの普及にはフリーメイソンが深く関わっている。 |
【国内のフリーメーソン事務所開設】 |
1950年、港区の建物を購入、国内フリーメーソン事務所として現在に至る。この年、国会議員7人が入会している。 |
【松本滝蔵がメイソン入会】 |
1950年、マッカーサー後援の日米親善野球の日本側委員長を務めまた松本滝蔵がメイソン入会。鳩山政権時の内閣官房副長官(1954年~1956年)。 |
【日本の著名メーソンその3、戦後初期】 | |
戦後初の首相・東久邇稔彦とその次の首相・幣原喜重郎、そして鳩山一郎、衆議院議長・星島二郎、参議院議長・松平恒雄(宮内大臣でもあった)らもフリーメーソンであった。 初期の日本人メーソンは、浅地庄太郎(日本ビルサービス株式会社社長)、二宮順(朝日新聞記者、ボーイスカウト運動)、李垠(旧皇族の李王)、東ヶ崎潔(1950年入会、No.2。ジャパンタイムズ社長、ボーイスカウト運動に活躍、ロータリー・クラブ国際会長。1960年日本のグランドマスター)、植田優、吉井寿雄(貴族院議員吉井勇の息子、松本滝蔵の親族)、武田修、島内敏郎(外交官、サンフランシスコ講和会議の委員)、長田政次郎、北川正恵、小田春海、犬丸徹三(元帝国ホテル社長)、堀内貞一 (神奈川菱油取締役、新日本産業設立、社長。1959年日本のグランドマスター)、山本勝夫、増山吉成らである。
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【GHQ占領行政による日本人フリーメーソンの組織化始まる】 | |
日帝敗戦によるGHQ占領行政の開始と共に、日本に於けるフリーメーソンの組織化が格段に進められていく事になった。日本にフリーメーソンを進出させたのは、米軍人が主であり、それを助けたのは占領軍の高官メーソンだった。戦後日本の占領政策を推進したGHQ内の軍人のうちいわゆるニューディール派はユダヤ人フリーメーソンであった。彼らは、戦後日本を「理想的未来社会」に改造せんとした。 戦後、日本にフリーメーソンを進出させたのは極東地域で唯一のグランド・ロッジを持っていたフィリピン(マニラ本部)のメーソンだった。フィリピンのフリーメーソンは中国の同胞を援助すると同時に、戦後すぐに日本にロッジを結成した。1947.9.23日、横須賀海軍マソニックロッジを設立、同年10.6日、ファーイーストロッジ(横浜)。
マッカーサー元帥にとってキリスト教とフリーメーソンはともに日本人のイデオロギーを変える自由と民主主義の文明だった。しかし、キリスト教をこのように崇めるのはフリーメーソン的ではない。思うに、マッカーサー元帥にあってはキリスト教とフリーメーソンが混在していたのではないかと思われる。米国大統領トルーマンの後釜を狙っていたマッカーサーのこの雑居精神がその後のマッカーサーの悲運を定めることになったように思われる。 |
【「ボーイスカウト運動によるスカウト」】 | |
「フリーメーソンはボーイスカウト運動と共に日本へやってきた」。次のように騙られている。
1947年、三島通陽氏 が参議院議員に当選、ボーイスカウト日本連盟総長となり、皇太子殿下を迎え、戦後初のラリー、キャンプ・ファイヤーが明治神宮外苑で催された。一九四九年、GHQの正式認可で財団法人・ボーイスカウト日本連盟が誕生、第一回通常総会でマッカーサー元帥を名誉総長に推挙、天皇・皇后の臨席で戦後初の全日本ボーイスカウト大会を皇居前広場で催し、郵政省から大会記念切手を発行した。このようにボーイスカウト運動は着々と進み、フリーメーソンとの協調も多かった。(フィリピンの例など人脈が大体メーソンである。) |
【フリーメーソンの宮中工作】 | |||||
マッカーサー元帥は、日本のフリーメーソンを発展させるため、まず皇族を入会させ、次に日本の指導層を獲得、最後に天皇を会員とする腹であった。フリーメーソンを日本で定着させ、拡大させるには天皇の入会がキー・ポイントであった。宮中工作が行われていた時期、日本人メーソンの笠井重治氏のもとにもマッカーサー元帥からの次のような要請があった。
1955年、日本のメーソン指導者ワーナー・P・シュトリング氏は次のように述べている。
これによると、東久邇宮(天皇の叔父、戦後の首相)が皇室最初のフリーメーソン入会者であったことが判明する。プリンス・李垠(夫人は皇后のイトコ)がこれに続いたことになる。
幣原喜重郎氏も列席者として、次のように語っている。
芝金平氏、笠井重治氏の談話にも二度名前が出てくるマイク・リビイスト氏は天皇入会の宮中工作を担当していたメーソンの大物である。1949年にアメリカからフリーメーソンの視察官として来日、マッカーサー元帥の腹心の軍人(大尉)であった。 天皇工作がなぜ実現しなかったかについて、次のような推測がある。
この事件とは、読売新聞昭和29.9.15付けの記事である。リビイスト氏がキャノン少佐帰米後の莫大な日本での“隠匿私財”の管理人、シヤタッタ軍曹を可愛がり、フリーメーソンの三十二位階にしたが、警察はリビイスト氏とシヤタッタ軍曹の関係を洗っているとの内容である。その後、リビイスト氏はメーソン内部でも問題になり沖縄に“追放”されたという。 |
【大物政治家鳩山一郎の入会】 | |
1954年から3年間首相を務めた鳩山一郎、そしてその孫、鳩山由紀夫(元首相)と鳩山邦夫(元・総務大臣)がフリーメイソンである事は周知の事実である。 | |
鳩山一郎氏は公職追放中だったが、マッカーサー元帥の肝入りでフリーメーソンの門戸が開いたと聞き、村山氏を訪ねて入会を希望、「フリーメーソンの精神を日本人にも大いに理解させなくてはいかん」と大変に力を入れた。やがて公職追放がとけ、総理大臣になるとメーソンの第三位階に昇進、水交社で二百人近いメーソン兄弟の祝福を受けた。そのとき鳩山氏は次のようにあいさつした。
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【読売新聞社・社主の正力松太郎の抱き込み】 |
アメリカは日本に原子力発電の開発と利用を迫る。1954年、ビキニ環礁での水爆実験で第五福竜丸が被爆した。原子力反対の声が叫ばれる中、読売新聞社・社主であった正力松太郎が原子力推進の一大キャンペーンを行い、アメリカの「原子力平和利用使節団」を日本に招いた。この経緯についてはCIA関連の機密文書によって、正力がその政治力拡大と原子力利権確立のため、CIAに接触した事が明らかになっている。1931年、アメリカ野球チームを招聘した、あの正力松太郎である。1950年代、原発関連施設導入に於いてアメリカ製とイギリス製の二つの選択があった。正力は原子力委員会の委員長となり、イギリスからの原子炉を三菱商事経由で納入し、財界がその運用することになった。しかし問題が多く発生し、すぐにアメリカ製の原子炉を使用することになる。1960年代に科学技術庁長官に就任した中曽根康弘が熱心に原子力発電を推し進め、アメリカからの設備を導入する。東京電力は1966年、福島県大熊町に東芝・日立・GE社の軽水炉を完成し、原子力発電の運用を開始した。アメリカのGE社(ゼネラル・エレクトリック)が大きく絡んでいる。 |
【「日本グランド・ロッジの創設、独立」】 |
マッカーサー元帥は、フィリピン管轄下の日本のフリーメーソン組織をフィリピン側の反対を押し切る形で独立させる働きをした。
「日本人にまかせるようにしなければいけない」と考え、そのため日本人フリーメーソンを「これこそ一晩で上級位階にする処置を取った」(芝金平氏。後述)。マッカーサー元帥(フィリピン系のロッジに属する)は、「日本はフィリピンを武力で征服したが、今度はフィリピンがメーソンの教えで日本を征服するのだ。それは日本人のイデオロギーを改めるだろう」と提案した。フリーメーソンの日本での発展は、「我々が占領していることに関係する民主化目標にとって根本である」とされた。 1949年の後半から日本国民にメーソンを開くことがグランド・ロッジ(比国)で問題になり、それは個々のロッジの自由と決められた。グランド・ロッジは、日本人の多くなることを「我々の組合が強くなるし、将来の核になる」と歓迎した。当時、メーソンの間で討議されたことは、「短い期間でフリーメーソンの教義が日本人に吸収できるか」だった。日本グランド・ロッジの独立は、フィリピン側からの「時期尚早」とか「指導者はクリスチャンでなくてはならない」とかの反対があったが、アメリカのサウスカロライナ・グランド・ロッジ(メーソンの世界では最高の伝統を持つ)からの援助もあり、独立の方向で全世界のフリーメーソンのグランド・ロッジに承認を求めた。 最終的に「日本に民主的な生き方が導入されたので、メーソンも握手し、日本を民主主義の側におかなくてはならず、そのためにメーソンは決定的な役割を果たさなければならない。メーソンの教えによって共産主義の侵略を阻止する助けとなる」という判断が勝り、日本ロッジの独立が決まった。1949年、東京ロッジが復活し、スコッチライト・テンプルとして日本人だけのメーソンを形成した。1950(昭和25)年、東京・港区芝公園の旧水交社を大蔵省より払い下げてもらい、日本グランド・ロッジが独立した。 1950.4.5日、東京アメリカン・マソニックロッジ、スクウェアー・コンパスロッジ、同年同月、九州ロッジ、同年12月、トリイ・マソニックロッジ(名古屋)、1951.2.27日、京都ロッジ、同年10.17日、東京グランド・ハイツロッジと開設していき、独立に至るまで16のロッジを全国に拡大した。 1951.4.27日、グランド・ロッジから代表団が日本を初訪問したが、すでに日本では政府高官、実業界の大物たちが多数参加していた。 |
【「鳩山一郎、河合弥八の二階級昇進」】 |
1955.5.25日、鳩山一郎、河合弥八の二階級の昇進が行なわれた。河合は1926年に内大臣府秘書官長となり、1930年から7年間にわたって皇后宮大夫兼侍従次長として昭和天皇・香淳皇后の側近として仕えた。東京テンプルで午前八時、特別グランド・ロッジが作られ、私どもの代表団により組織された、選ばれた比国代表のグループと地区グランド・ロッジの四人の主だった役員、東京ロッジ、関東ロッジの主だった役員、そしてブラザー・ハル将軍、ブラザー・マックノートン将軍、ルースト将軍が特別ゲストとして出席。もう一方では、臨時に作られた祭壇がおかれている鳩山邸で午前九時から厳粛な儀式が始まった。 午後4時、ブラザー・河合と鳩山は日本のすべてのメーソンとその婦人と共に東京テンプルでのティー・パーティーに招待され、祝福された。特にマッカーサー元帥、ハリー・S・トルーマン前大統領のような著名なメーソンからの祝辞が披露された。ブラザー・鳩山はメーソンの兄弟愛に深く感動し、これからのどんな活動もフリーメーソンの教えに導かれるであろうと私たちに語った。ブラザー・河合も、同じく世界の平和を得ることが、唯一の人類の願いという私たちの友愛精神の崇高な意志を高く評価すると表明した。 5.28日、午前9時、私どもの代表団は司令部でブラザー・ハル将軍に迎えられた。そして、極東における共産主義の潮をくいとめることが、フリーメーソンの重要点であるとの見方を交した」。 |
【三島通陽(みしま みちはる)入会】 |
三島通陽(みしま みちはる)。貴族院議員・参議院議員も務めましたが、彼はボーイスカウト日本連盟・初代理事長だった事で知られています。彼ももちろんフリーメイソンです。ボーイスカウトはフリーメイソンによって結成され、マッカーサーもボーイスカウトの日本普及に力を入れました。また彼の父は第8代日本銀行総裁を務めた三島弥太郎です。日本銀行もフリーメイソンの関わりが囁かれている。 |
【日本国内のフリーメーソンロッジが16】 |
1956年、日本国内のフリーメーソンロッジが16。 |
【「日本グランド・ロッジの国際的承認」】 | |||||||
1957年、承認の方向で動いてくれたグランド・ロッジは、サウスカロライナ、ベネズエラ、イタリア、ミズリー、ジョージア、アラバマ、アーカンサス、ルイジアナ、カリフォルニアなどだった。15のフィリピン系ロッジが全会一致で日本グランド・ロッジの創設を決議した。東久邇宮は、「フリーメーソンの活動が日本の民主化と社会の道徳意識の向上を目ざすため促進せねばならない」と会議で演説した。
当時マッカーサー元帥は、アメリカのサウスカロライナのグランド・マスターだったが、ニューヨークのグランド・ロッジに対して次のような手紙を出している。
1958年、創設大会が挙行された。日本人メーソンの指導者、小松隆氏は次のように演説している。
フィリピンのグランド・ロッジは当時、次のように語っている。
笠井重治氏は山梨県出身で、戦前、シカゴ大政治学科、ハーバード大学院を卒業、親米派の人物である。だ。『マッカーサーの二千日』(袖井林二郎)によれば、笠井氏は戦後すぐGIIのウィロビー部長への有力な情報提供者であり、占領政策の「友好的日本人」と評価されていて、マッカーサー元帥とも知人であった。また、マッカーサーの記念館を作ろうとの運動を起した人物でもある。笠井氏は次のように証言している。
笠井重治氏は1950.1.7日、入会。No.2ロッジに属した。国際産業(株)社長、日米文化振興会会長、フィリピン協会理事などをしている。
日本人のフリーメーソン創設期の事情を知る一人に芝金平氏(朝日イブニングニュース社相談役)は次のように証言している。
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【「入会手法と審査・再審査」】 | |
「自由や平和、民主主義」運動体としてのフリーメーソンが宣伝され、「永久の平和は我々の教えが実行されるなら解決される」、「我々は世界で最も偉大な団体のメンバーである」と自画自賛された。具体的な行動として、「我々はフリーメーソンの教義を日常生活で実践する。一人一人が行動的なメーソンとなり、メーソンの教えを言行一致させる。具体的には、1・すべてのメーソンが兄弟としての連帯を図るためロッジ集会に出席する重要性を自覚する。2・十分練られたプログラムを通じて、メーソンの歴史、組織、活動をよく知る。3・すべてのメーソンはロッジ内外で、あらゆる人間関係を通じ、兄弟愛、救済、真実を伝える。こうしてメーソンの教義を広く世界に普及する」(同、小松隆氏の演説)が基準とされた。 これにより賛同してきた者に対して次のような審査が行われた。
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【フリーメーソン入会式の様子】 | ||
入会式の模様が次のように伝えられている。「日本フリーメーソンの内幕4」その他を参照する。
日本グランド・ロッジ創設(昭和33年)に至る初期の日本人メンバーに村山有氏(前出)という人物がいた。「終戦のころ・思い出の人々」(時事通信社刊)の著作があり、そのなかに「フリーメーソンと日本」という章があって興味深い事実が載っている。戦後、村山氏と三島通陽氏らはボーイスカウトの再建に動いていたが、GHQではマッカーサー元帥はじめ高官の多くがメーソンと聞き、「今後は真にデモクラシーの兄弟愛で行こう」とフリーメーソン参加の仲間を集めた。賛同したのが、佐藤尚武氏、星島二郎氏、植竹悦二郎氏、高橋龍太郎氏、松本滝蔵氏らでマッカーサー元帥あてに手紙を出した。その結果、OKが出たが日本人の入会宣誓をどんな方法でやるか問題になった。結局、アメリカ軍将官を前に演説、「要するに、富士山に登るのに道はたくさんあろうが頂上は一つであると同様に、神は一なりの精神を論じ」「聖書をもって日本の各宗派の聖典または教典に代えて宣誓する案」に決した。この案をマッカーサー元帥に提出、アメリカ本部の承認を得た。村山氏は「日本人にフリーメーソンの門戸を解放することの意義は、日本人の人種差別待遇を取り除いて兄弟愛の結合を深めることだった」という。 1950.1.5日、佐藤尚武、植竹悦二郎、三島通陽、高橋龍太郎、芝金平(後述)らが加わり、荘重なフリーメーソンの入会式が行なわれた。GHQのウォーカー少将ほか多数の人が参列し祝福した。 4.6日、芝金平氏と筆者に、日本で最初のマスターメーソンになる栄誉が与えられ、その儀式は占領軍各国の高官など四百名以上が参列して盛大に行なわれ、マッカーサー元帥はとくに最高副官ハフ大佐を代理として出席させたほか、フィリピンからグランド・ロッジ代表ら二十余名も来日して参加した。 4.8日、参議院議員官舎でフリーメーソンのフィリピン代表の歓迎会が開かれ、日本の政財界の名士も多数集まった。席上、フィリピン代表の一人で後に国連大使や中南米、アフリカの大使として活躍し、教育家としても有名だったマウロ・バラディ氏が大演説した。
バラディ氏に対し、日本側から星島二郎氏が、次のように述べた。
星島氏は国会に謝罪決議案を提出、満場一致をもって可決され、それが直ちにフィリピン政府に打電された。これがフリーメーソンの日本でのひとつの働きであった。 |
【フリーメーソン入会の契機】 | ||
「フリーメーソン入会の契機」について、大日本製糖会長の藤山勝彦氏は次のように述べている。
TAC建築設計事務所の高橋真一郎氏は、次のように述べている。
高橋真一郎氏は、米陸軍技術本部日本司令部特殊顧問をへてDMJM設計事務所勤務、TAC建築設計事務所長。韓国大使館、韓国国連ビル、インドネシア、サウジアラビア、アブダビ石油プラントなどの設計キャリアを持っている。 |
【東京メソニック協会】 | |
港区虎の門の第六森ビル。
東京メソニック協会の述丈夫事務局長(32位階)は次のように述べている。
現在、日本グランド・ロッジに所属するメーソンは四千人で日本人は二百五十人と少数である。「外人メーソンの多くはアメリカの軍人であとは在日実業家、ほかはヨーロッパ、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピン、韓国、台湾と世界中の人がいます」(述事務局長)。日本人メーソンはそれこそ職業の全分野にわたっているが、在日米軍の軍属二世が比較的多いのが特徴だろう。 |
【日本グランドロッジ設立】 |
1957年、日本国内のロッジを管轄するグランドロッジが設立される。 |
【「日本フリーメーソン・ロッジ百周年記念」】 |
1966年、横浜のプリンスホテルで、「日本フリーメーソン・ロッジ百周年記念」式典が開かれた。出席者は約200人で、その内の2/3が在日外人だった。席上、直径5センチ程の銀の記念メダルが会員に贈呈されたが、そのメダルにはメーソンのマークと1866年~1966年という年代が刻まれていた。つまり、日本にメーソンのロッジが初めて設立されたのは、1866年。明治維新の2年前だ。横浜で記念パーティが開かれた様に、最初のロッジは横浜に作られている。 |
2016年4月5日、「実はフリーメイソンのロッジだった!? 京都・美濃吉本部ビルの謎」。
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【ロッジと会員数】 |
現在、日本には北海道から沖縄まで24箇所のロッジがあり、会員には2600人。その内日本人が250人である。意外と少ないように思われるが、政財界のトップクラス、宗教人、文化人、外務官僚、大蔵官僚など、社会的に大きな影響力を持つ人々によって占められている。 永井陽之助(青山学院大学教授)、船橋洋一(朝日新聞編集委員、元北京特派員)、行天豊雄(東京三菱銀行相談役、国際通貨研究所理事長)、八城政基(シティ銀行)、井上薫(第一勧業銀行名誉会長)、宮崎勇(大和総研特別顧問、村山改造内閣時元経済企画庁長官)、千野宜時(大和証券名誉会長)(日本証券協会会長)、西原正(防衛大学校社会科学教室教授)(防衛庁防衛研究所第一研究部長)、天谷直弘(電通総研所長)、永末英一(元民社党委員長、ハーバード大学に留学)、宮沢喜一(元総理大臣)、瀬島龍三(大本営陸軍参謀と大本営海軍参謀を兼務)、向坊隆(日本原子力産業会議会長 日本工業教育協会会長)、石川六郎(鹿島建設名誉会長、日本商工会議所名誉会頭、元・東京商工会議所会頭)、緒方貞子(国連難民高等弁務官 元・上智大学教授 元・国際基督教大学助教授)。 |
自民党の長期政権は、善きにつけ、悪しきにつけて、根回し、派閥、金権主義など、余りにも独特の政治機構だった。メーソンから見れば、これほど分かり難く、扱い難い日本独特の政治機構はなかった。 世界のメーソンの二大ドン、ロックフェラーとロスチャイルドが、遂に本格的な日本包囲網に乗り出したのだ--。 |
【フリーメーソンの慈善団体】 |
「フリーメーソンの慈善」その他を参照する。 フリーメーソンは慈善団体ではないが、日本ではグランド・ロッジや有志のロッジが寄金で作った「東京メソニック協会」を通じていろいろな慈善行為をしている。昭和五十三年度の同協会事業概況をみると次の通り。 1・各種養護施設への寄附。2・各種団体、機関を通ずる慈善寄附。3・災害被災者救援寄附。4・その他の公益に資する寄附。5・直接の慈善活動その他。 フリーメーソンは原則として慈善活動を隠れて行う。フリーメーソンの財政は、ふつうは各ロッジごとの会計で、グランド・ロッジへの寄金行為はあるがそれほど多くはない。裕福なロッジでは、余裕の資金を株や証券にして増収を図っている。 |
【「メーソンのメリット」】 |
「メーソンのメリット」その他を参照する。 メーソン同士の兄弟愛と相互扶助は、さまざまな形である。たとえば、代議士の植竹春彦氏(メーソン)は、「国際会議などでメーソンだとわかると急に親切にしてくれ、交渉がうまくいった」という。また、外国での話だが、戦場で敵味方となり、銃殺寸前のときメーソンとわかって助かった例などがあるそうだ。小さな話では、羽田税関にメーソンがいて、「メーソン同士だと楽に通してくれる」(日本のメーソン)といい、匿名となるともっとさまざまな便利さもあるらしい。 「それがメーソンの知恵なのです。ハイソサエティのエリートで占められている英国でさえ、チャーチル首相がメーソンであったと発表されたのは死後でした」 。 |
【日本でメーソンが広がらない理由考】 | |||
「日本フリーメーソンの内幕7」その他を参照する。
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(私論.私見)