フリーメーソン日本史 |
更新日/2021(平成31→5.1栄和/令和3).2.8日
(れんだいこのショートメッセージ) |
日本の近代史を振り返ると、いかに日本の近代化にフリーメイソンが暗躍していたか分かる。戦後日本もその歴史の延長上にある。その歴史の裏にはロスチャイルド系組織、フリーメイソリーの影の支配がある。アメリカと自民党の従弟関係が続いている状況が変わらない中、フリーメイソンが頭に描いた一種の日本改造計画は着々と進められている。これを確認しておく。 「阿修羅」の SP' 氏の2001.4.24日付「第三章 日本フリーメーソンの内幕(赤間剛『フリーメーソンの秘密』三一書房)」、「フリーメーソン」、「ヘブライの館」、「フリーメーソン」、村山有・氏の「終戦のころ・思い出の人々」(時事通信社刊)、“フリーメーソン・ライブラリー”所蔵の「日本のフリーメーソン百年史」(日本グランド・ロッジ編)、「人間と世界の改造者(楽園を創るフリーメーソン物語)」(仙石太郎)、エンセン氏の2003.12.25日付投稿「メ−ソンの二大ドンが練る日本支配総戦略計画」(http://www.asyura2.com/0311/idletalk6/msg/650.html )、太田龍・氏の「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」、「合気揚げの基礎知識について」、「ユダヤ人基礎講座・補講(4)」、「グラバーと坂本龍馬は、本当にフリーメーソンだったのか」その他を参照する。 2006.1.3日 れんだいこ拝 |
【来日最初のフリーメーソン】 |
1779年、後にオランダ商館長となったオランダ東インド会社のティチングが長崎に来日。日本に来た最初のフリーメーソンと云われる。 |
【香港に、メーソンの極東ロッジが創立】 |
1842年、阿片戦争。この戦争によって英国領となった香港に、メーソンの極東ロッジが創立され、アジア進出の拠点となった。 |
【ペリーの黒船来航】 |
1853年、アメリカから黒船が来航し日本に開国を迫った。船長のマシュー・ぺリーは紛れもないフリーメイソン。彼の娘キャロライン・ペリーは1849年、オーガスト・ベルモントと結婚している。ベルモントはロスチャイルド家のカール・マイヤー・ロスチャイルドの妾の子供。ペリーもロスチャイルド家と直接、つながっている。 |
1854年、日米和親条約締結。事実上の開国となる。 |
【トーマス・ブレーク・グラバーの来日】 |
1859年、スコットランド人、トーマス・ブレーク・グラバー来日。彼もフリーメイソン。長崎にあるグラバー邸にはコンパスと定規を組み合わせたフリーメイソンリーのシンボルが刻まれた石柱がある。これはもともとグラバー邸にあったものではなくて、フリーメイソンリーから1966年に寄贈されたもの。グラバー邸から坂を下ると旧香港上海銀行(今のHSBC)記念館がある。その記念館で山口幸彦著「明治維新の大功労者 トーマス・グラバー フリーメーソンとしての活躍」が売られていた。著者は最後にこう結んでいる。「グラバーに関する書物は数多く世に出ているのに、彼がフリーメーソンだった事を言及しているものは、ない。何故なのだろう?」。 グラバーは「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店として「グラバー商会」を設立し貿易業を営む。「ジャーディン・マセソン商会」はアヘン戦争で暗躍したロスチャイルド系商社。その業務の一つはアヘンの密輸。同じロスチャイルド系の「香港上海銀行」は、マセソンなどが香港で稼いだアヘン資金をイギリスに送金するために設立された銀行。明らかにグラバーもロスチャイルドとの間接的関係がある。グラバーは薩摩・長州・土佐ら討幕派を支援し、武器や弾薬を売る。つまり彼は江戸幕府を倒した反政府組織(明治維新政府)のクーデターを支援する武器商人だった。坂本龍馬は1865年、グラバー商会から7,300挺の洋式銃を薩摩藩名義で買い付けている。これらの銃が長州藩に渡り、薩長和解の契機となる。また上杉宗次郎も薩摩藩名義でイギリス製蒸気軍艦ユニオン号の購入に成功している。そうやって力を得ていった薩長同盟が江戸幕府を倒した。 |
メーソンの特筆すべき存在は、トーマス・ブライク・グラバー。彼は武器弾薬を調達した「死の商人」として、又観光都市長崎の名所「グラバー邸」の主だった事でその名は有名だが、日本の近代化にも大きな功績を残している。例えば、英国の蒸気機関車を日本に輸入して、日本の地で初めてそれを走らせたのもグラバーであり、長崎の高島炭坑に近代的な採掘機械を最初に導入し、又日本の造船技術の始まりとなったソロバン・ドッグ(我が国最初の様式ドッグで、入江を利用したスリップ式造船施設)を作ったのも彼だった。グラバーは明治維新後も造幣機械輸入に関わるなど明治政府との関係を深める。そして日本で初めて電話線を敷いたのも彼であり、其の功績をあげたらキリがないほどである。 |
三菱商事の創立者の岩崎弥太郎(と弟の弥之助)との関係も深く、グラバーが出資の面で深く関わっていた高島炭坑と長崎造船所(三菱造船所の前身)を三菱に譲渡している程で、明治26年にグラバーが住居を東京に移した時、三菱の特別役員となっている。この時の待遇も破格のもので、最高役員の2割増の給与を得ている。岩崎はグラバーの助言により麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)の基礎を築いている。 |
【ウィリアム・イーストレイ】 |
1860年、「日本の近代歯科医学の父」と呼ばれるウィリアム・イーストレイが来日。彼もフリーメイソン。日本の近代歯科医学の発展に貢献する。 |
1860年、勝海舟を含むアメリカ使節団派遣。桜田門外の変。 |
【西周、津田真道(つだ・まみち)が幕命でオランダ留学】 |
●西周とは何者か 文政12年(1829年)2月3日石見国津和野藩医の子に生まれる。旧名周助。藩校養老館で儒学を学んだ後、嘉永6年(1853年)に江戸に出て蘭学を学ぶ。翌7年、脱藩して蘭学修業に専念し、手塚律蔵の門に入る。1857年(安政4年)、手塚の推薦で蕃書調所教授手伝並に任命される。 phirosophyを「哲学」という翻訳語にしたのは西周といわれる。他にも「芸術」、「科学」、「技術」、「理性」、「権利」、「義務」、「文学」、「心理」、「科学」となど西洋の抽象概念を次々に日本語に訳出し造語している。西は、かな漢字廃止論者でもあった。五箇条の御誓文も西が草案を書いたし、軍人勅諭も彼の起草と云われている。 |
●津田真道(つだ・まみち)とは何者か 津山藩(岡山県)の出身。嘉永3年(1850年)に江戸に遊学して、箕作阮甫、伊東玄朴らに蘭学を、また佐久間象山に兵学を学んでいる。藩籍を脱して苦学する。1857年に幕府の蕃書調所に採用され、西と一緒に仕事をする。幕府側の人間。法学博士、衆議院副議長。 |
1862(文久2)年、徳川慶喜の政治顧問の西周(にし・あまね)が、津田真道、榎本武揚らとともに幕命で幕府の研修生としてオランダ留学し、ライデン大学のフィセリング教授から法理学・国際公法学・国法学・経済学・統計学を学んだ。 西周とグラバーとの接点を示す記録はないが何らかの交流があった可能性がある。というのは、ライデン大学に若きグラバーの写真が残されており、ライデン大学とグラバーとは何らかのつながりがあったことを示している。 |
【長州藩士の伊藤、井上らがロンドンへ密航】 |
1863年、薩英戦争、攘夷戦争勃発。 |
【長州藩士の伊藤博文、井上馨ら5名がロンドンへ密航】 |
グラバーは倒幕派であり、長州と薩摩に「ヨーロッパの現実」を見せるべく、密航留学を斡旋する。 1863(文久3).5.7日(6.22日)、海外渡航が国禁のところグラバーの手引きで、長州藩士の後に5人の若者、即ち井上馨(聞多)、伊藤博文(俊輔)、山尾庸三、井上勝(野村弥吉)、遠藤謹助が、ロンドンへ密航するために、英国領事の紹介で英国商船ジャーディン・マディソン商会の船に乗って横浜を出発した。彼らの留学費用の大部分を負担したのはグラバーの勤めるマセソン商会の社長、ヒュー・マセソンだった。これにより「マセソンボーイズ」と呼ばれる。 一行は、上海などを経て英国に到着した。世界一の金融王ネイサン・ロスチャイルドの息子であるライオネル・ロスチャイルドの庇護下でロンドン市内に下宿し、ロンドン大学で物理・化学などを学んだ。英国の新聞で「長州ファイブ」と紹介されている。井上と伊藤は、1864(元治元)年.4月の四国艦隊の下関砲撃計画を知って途中帰国したが、残りの3名は数年間学業を続けた。「ロスチャイルド家当主の子分」となった若者たちによって明治の日本が作られていくことになる。そう云う意味で、長州こそ「大日本帝国」の主体であり、その真の創設者であると云える。 |
【西周がフリーメーソンに入会、津田真道も入会】 |
1864.10.20日、西周(35歳)が、ライデン大学のフィッセリング教授の推薦を受け(入会には、会員の推薦を必要とする)、オランダのライデン市のフリーメーソン・ロッジ「ラ・ベルトゥ・ロッジNo7」に第一階級として入会している。ライデン大学に西周の入会のサインが残されている。こうして、西が、日本のフリーメーソンの先駆けとなった。 同年11月、津田真道が西よりも一ヵ月遅れてフリーメーソンに入会。西と同じロッジに入会。仲介者はライデン大学のフィッセリング教授。西も津田もこの教授の説得によってフリーメーソンに入会している。 |
【竜馬消息不明】 |
竜馬消息不明(10月〜65年4月)。 |
【薩摩藩の五代友厚、森有礼、寺島宗則らがイギリスへ密航留学】 |
1865(慶応元)年、薩摩藩の五代友厚、森有礼、寺島宗則など17名が、グラバーの手引きでイギリスへ密航留学。 |
●五代友厚とは何者か 薩摩藩儒者の家に生まれる。通称は徳助、才助。十三歳のとき藩主島津斉彬から世界地図を模写するよういわれて2枚模写し、1枚は斉彬に献上、もう1枚は自分の部屋に飾って毎日のように眺めた。23歳で長崎の海軍伝習所に学び、2年後、長州の高杉晋作とともに上海に渡航、ドイツ汽船を購入して帰国する。留学生の欧州派遣を建議、英国商人グラバーの斡旋で計18人で渡欧。帰国後は藩の通商貿易に貢献し、長崎で龍馬と出会った。大洲薄から海援隊へチャーターしたいろは丸が、紀伊藩の明光丸と衝突・沈没すると、紀伊藩の依頼で事件を仲裁、龍馬らの主張を認めた。維新後は外国官判事をつとめ、実業界に転じた。 |
薩摩藩士五代友厚らもこの頃欧州留学している。五代友厚の「廻国日記(かいこくにっき)」は、五代がパリ滞在中12日間に亙って連日、幕生西・津田両人と面会し共にパリ見物や料理屋通いもしていたことなどを書き記している。 |
【坂本龍馬がグラバー商会から武器購入】 |
1865年、坂本龍馬がグラバー商会から武器購入。 |
【西周、津田真道が帰国、幕臣にとり立てられ蕃書調所教授就任】 |
同年12月、西周が津田真道とともに帰国。翌2年9月、西が徳川慶喜の重要ブレーンとして抜擢され幕臣にとり立てられ、蕃書調所/安政3年(1856年)に発足した江戸幕府直轄の洋学教育研究機関。後の開成所)教授となった。役割は、徳川慶喜に西欧の事情を詳しくレクチャーすることにあった。東京大学の源流諸機関のひとつであり、現代でいうと、西は東京大学の教授といったところ。徳川慶喜の諮問に応え、大政奉還後の政権構想として「議題草案」を起草した。http://daigikan.daa.jp/nisi.html |
【薩長同盟、徳川慶喜将軍に就任】 |
1866年、薩長同盟。 |
12月、徳川慶喜将軍に就任。 |
【グラバー系フリーメーソンの暗躍】 | ||
1867年 津田真道『泰西国法論』発表。船中八策、大政奉還、竜馬暗殺。 | ||
幕末から明治維新の激動の背後にあったロスチャイルド派ユダヤの動きを見ないと事態の真相に近づけない。日本が長い鎖国から解かれて開港したと聞くや、1864年頃、諸外国からメーソンがどっと流れ込んでいた。そして明治維新の大きな原動力となった。 | ||
記録は残っていないものの、西とグラバーとは接点がある。五代友厚はグラバーから最も信頼されていた人物であり、さまざまな指令をグラバーから受けている。幕府の要人となった西と津田は、日本で革命を起こすさいの重要な手駒になる。五代、西、津田はいずれもフリーメーソンであり、彼らが会って話したとしても他に漏れることはなかった。 国会図書館で加治将一氏が発見した薩長同盟での取り決めを記した木戸孝允の書状があり、龍馬が朱筆で裏書きしている。(加治将一著「石の扉/フリーメーソンで読み解く歴史」新潮社刊)
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【フリーメーソン続々来日と暗躍】 |
幕末、日本を支配しようとしていたのはロスチャイルド派フリーメーソン即ちイルミナティーだった。倒幕派を操作したのが英国系フリーメーソン・イルミナティーであり、幕府側に食い込んでいったのがフランス系フリーメーソン・イルミナティーというようにユダヤ特有の両建て戦略に基づき日本攻略作戦を発動していた。彼らは、それぞれ幕府と薩長をけしかけ、日本を泥沼の内戦に持ち込み、内戦で弱体化したのち植民地にしようとしていた。
フランスの全権大使として江戸に赴任したレオン・ロッシュは、「グランド・オリエント」(大東社)を代表し、幕府を援助した。横須賀製鉄所を開かせ幕府の軍制改革に助力している。倒幕側についたのが、イギリスのメーソン(スコティシュ)のトーマス・ブレイク・グラバーである。グラバーが来日した時には、既に多くのメーソンが入り込み、幾つかの商会が存在していた。彼は長崎の大浦海岸にグラバー商会を設立し、日本茶の輸出から商売に取りかかったが、次第に倒幕諸藩への武器弾薬、艦船の販売へと手を広げ、成功を収めていった。先住の商人達が幕府と密接な取引をしていた為、入り込める余地がなかったからであった。そこで倒幕諸藩に絞った。それが功を奏して、彼はわずか数年で長崎随一の商人となる。(「グラバー考(「明治維新とグラバー」考)」) |
【幕末日本にフリーメーソンロッジが次々と設立される】 |
アメリカ独立、フランス革命、イタリア統一、ロシア革命など歴史の潮流の裏には必ずメーソンが絡んでいた。日本の近代化もその例外ではなかった。1842年の阿片戦争。この戦争によって英国領となった香港に、メーソンの極東ロッジが創立され、アジア進出の拠点となった。その香港から横浜の居留地警備の為に派遣されたのが、英国陸軍第20連隊だった。この連隊には、軍人結社スフィンクスがあった。アイルランド系の移動式ロッジで、駐屯地でメーソンの儀式を行った。アメリカ、カナダの植民地時代も、こうした軍隊の移動式結社が各地で展開され、その地にメーソンが浸透していった。スフィンクスのメンバーは、やがてメーソンの英外交官や貿易商と共に移動式ではなく、本格的なロッジを望む様になり、1865年、本国に新ロッジの設立を申請している。 幕末に横浜の居留地に英国が持ち込み、続いて神戸、長崎の開港地に英米系のフリーメーソンが生まれた。1866年、明治維新の2年前、それが認可され、日本の横浜にメーソンのロッジが初めて設立された。最初のロッジは横浜に作られた(「日本初のメーソンロッジは1866年、横浜で創立」)。第1回集会には、スコティシュ系メーソンの西インド地区の前副棟梁カートライトが出席し、初代ロッジ長にはウィリアム・モタ、二代目ロッジ長には英国近衛連隊将校G・M・スマイスが任命されている。こうして正式のロッジが横浜に設立されてからというもの、日本各地にい次々とロッジが開設された。 例えば、1869年に「オテントウサマ・ロッジ」(横浜)、1870年に「ロッジ・ヒューゴ・アンド・オオサカ」(兵庫・大阪)、1872年に「ライジング・サン・ロッジ」、こうした各地のロッジを統括する為、1873年、「日本グランド・ロッジ」が横浜に設立され、その初代グランド・マスターにチャールズ・ヘンリー・ダラスが就任している。 |
【軍人結社スフィンクスが本国に新ロッジの設立を申請】 |
香港から横浜の居留地警備の為に英国陸軍第20連隊が派遣された。この連隊には、軍人結社『スフィンクス』があった。アイルランド系の移動式ロッジで、駐屯地でメーソンの儀式を行う。アメリカ、カナダの植民地時代も、こうした軍隊の移動式結社が各地で展開され、その地にメーソンが浸透していった。『スフィンクス』のメンバーは、やがてメーソンの英外交官や貿易商と共に移動式ではなく、本格的なロッジを望む様になり、1865年本国に新ロッジの設立を申請している。 |
【横浜に創立日本メーソン初ロッジが設立される】 |
1866年、明治維新の2年前、日本メーソンロッジの設立が認可され、横浜に初ロッジが創立された。第1回集会には、スコティシュ系メーソンの西インド地区の前副棟梁カートライトが出席し、初代ロッジ長にはウィリアム・モタ、二代目ロッジ長には英国近衛連隊将校G・M・スマイスが任命されている。 こうして正式のロッジが横浜に設立されてからというもの、日本各地にい次々とロッジが開設された。例えば、1869年に『オテントウサマ・ロッジ』(横浜)、1870年に『ロッジ・ヒューゴ・アンド・オオサカ』(兵庫・大阪)、1872年に『ライジング・サン・ロッジ』(神こうした各地のロッジを統括する為、1873年、『日本グランド・ロッジ』が横浜に設立され、その初代グランド・マスターにチャールズ・ヘンリー・ダラスが就任している−−。 |
【徳川慶喜の対抗戦略】 |
徳川最後の将軍となった慶喜は、英国系とフランス系フリーメーソンの日本を内戦に誘いこむ意図を見抜き対抗した。持久戦に持ち込めば幕府に充分勝ち目があったにも拘らず、あっさり大政奉還し、薩長に降伏した。これによりフリーメーソンの目算が外れた。フリーメーソンの手のうちにあって操られていた岩倉具視や木戸孝允が、慶喜にしきりにケンカを売ったが、慶喜は忍の一字で耐えた。慶喜が倒幕派の誘いに乗り、フランスの軍事援助を受けていたら、戊辰戦争は注文通りに長期化したはずである。慶喜は腰抜けと罵倒されることを覚悟しつつあえて政権委譲に応じた。フリーメーソンの企図の対抗上次善の方策だったといえるのかもしれない。 この流れにつき、勝海舟と龍馬が慶喜の大政奉還を建策したことが知られている。これにより、フリーメーソンは倒幕軍を動かすことも、全国を内戦に導くこともできなくなった。「龍馬の裏切り」がフリーメーソンの怒りを呼び、龍馬を暗殺したという説もある。 |
【諸外国からメーソンがどっと流れ込む】 |
日本が長い鎖国から解かれて開港したと聞くや、諸外国からメーソンがどっと流れ込んでいた。そして明治維新の大きな原動力となった。例えば、フランスの全権大使として江戸に赴任したレオン・ロッシュは、『グランド・オリエント』(大東社)を代表し、幕府を援助した。横須賀製鉄所を開かせ、幕府の軍制改革に助力している。その反対に倒幕側についたのが、イギリスのメーソン(スコティシュ)のトーマス・ブレイク・グラバーである。 グラバーが来日した時には、既に多くのメーソンが入り込み、幾つかの商会が存在していた。彼は長崎の大浦海岸にグラバー商会を設立し、日本茶の輸出から商売に取りかかったが、次第に倒幕諸藩への武器弾薬、艦船の販売へと手を広げ、成功を収めていった。先住の商人達が幕府と密接な取引をしていた為、入り込める余地がなかったからだ(要するに、内部攪乱の政策を採っている!忍)。そこで倒幕諸藩に絞ったのである。それが功を奏して、彼はわずか数年で長崎随一の商人となる。 その他、フランス人でベルギーのメーソンだったシャルル・ド・モンブランは、薩摩藩の五代才助(友厚)に近づき、1865年、ブリュッセルで五代と共に商社を設立しているほどだ。又、薩摩藩からパリ万国博覧会の事務総長に任命されたりしている。プロシア(独逸)のメーソン、エドワルド。スネルは、長岡藩の河井継之助に接近して、長岡城の戦い(1868年、官軍との戦い)を援助した。そして戊辰戦争の最後の戦いとなった五稜郭の戦いでは、フランスのメーソン、ブリュネが、榎本武揚ら徳川家臣幹部と共に五稜郭に立て籠もり、最後まで官軍に抵抗したが、遂に敗れる。ここに戊辰戦争は終結を迎えるのだが、いってみれば、明治維新は、フランスを中心とするヨーロッパ系メーソンと、大英帝国系メーソンの代理戦争だった−−。どっちに転んでいいように、メーソン特有の”両面作戦”がとられた。そして結果的にはイギリス系のメーソンが勝利を収めたのである。 |
1867年、大政奉還。 |
1867年、坂本龍馬暗殺される。 |
【江戸城無血開城】 |
1868年、江戸城無血開城。明治元年、江戸を東京と改める(明治維新〜文明開化) |
【日本の著名メーソンその1、最初期】 |
明治新政府の第1回官費留学生として、鳩山一族の初代当主になる鳩山和夫がイェール大学に留学する。イェール大学は、ネオシオニズム系秘密結社「スカル&ボーンズ」の活動で知られている。鳩山は、ここで、アメリカ憲法と国際関係法を学んだ。いずれもフリーメーソン教学であり、その影響を色濃く受けたことは想像に難くない。帰国した鳩山は、明治新政府の下で、近代国家の基本となる憲法策定と、外交法の整備に乗り出す。その功で、帝国議会の衆議院議長を務めている。政治家に転身するまでの間、日本最初の「法学博士」となり東大で教鞭を執り、憲法や外交を担当する元祖法学者として活躍した。他方で、法律家の育成に取り組み、学界有力者との積極的な婚姻政策を通じて鳩山閨閥を作り出して行った。これが鳩山家の血脈となる。 |
【西と津田が、福沢諭吉らと明六社を作り文明開化を推進】 |
1868年の明治維新後、西と津田は、フランス系メーソン人脈の福沢諭吉らと明六社を作り文明開化を推進する。他にも英語学校を開いた神田乃武(YMCAの創設者)も然り。 |
【御雇い外人の動き】 | ||
明治維新後、日本は西洋崇拝の教育となっていた。明治初年頃、数百名の御雇い外国人が来日し、英米独仏等の国籍に分かれていたが、大部分ユダヤ人でありフリーメーソンであった。彼らは、日本をインドや東南アジアのようにユダヤ人の奴隷国とする目的で「近代化」という名のユダヤ属国化に精出し始めていた。 英国公使パークス初め外国大使の多くもユダヤ人であった。彼らは英米独仏などの国籍を以て偽装し、東京帝国大学など高等教育機関をわが物とし法律、経済、哲学などユダヤ人の都合のよいもののみを以て固めた。日本の大学をまだ物心つかない赤ん坊の時代からユダヤの奴隷学問の府としてしまったのだ。 ユダヤ人どもは国立大学に巣食って、帝国大学はついにユダヤの秘密結社フリーメーソンの支部のような形になったと言われる。北大の前身札幌農学校の教頭クラークが(米国)マサチューセッツのフリーメーソンのグランド・マスターであった。 太田龍・氏の「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」は次のように記している。
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【伊藤博文ー林董系の動き】 |
明治維新後、伊藤博文が駐英公使の林董(はやし・ただす)にフリーメーソンの何たるかを知るために英国で秘かに入社させた。その結果、日本では外人のみに入社を認め、日本人の入会を禁じることになった。これにより、表向きは戦前には日本人のメーソンはいないことになっている。外国での入会は認められたので、外国のフリーメーソンに入社した日本人は千数百人と推定されている。 |
政界においては日本の外交官として初めての海外派遣大使となった林董(初代駐英大使)が1903年、イギリスのエンパイア・ロッジにてフリーメイソンに入会している。彼はフリーメイソンになったことで様々な国で真の友達に巡り会えたと関係者に語っている。 |
【小村外相のフリーメーソン加入禁止令】 |
日露戦争当時の外務大臣小村寿太郎は、1908年成立の第二次桂内閣の外務大臣に再任され、幕末以来の悲願の安政不平等条約の改正に着手し、1911年、通商航海条約を調印し関税自主権の回復を果たした。小村はただちに日本人のフリーメーソン加入を禁止し、監視体制をとった。外務大臣辞任後の同年11.26日、く死んでしまった(享年57歳)。 替わってフランス系フリーメースソンと言われる西園寺公望が首相になった。こうして、ユダヤ・フリーメーソンは国家中枢に入り込むことになった。 |
1908年、最初のアメリカ野球チーム来日。初戦(対早稲田大学)で大隈重信が始球式に参加している。 1913年、ニューヨーク・ジャイアンツとシカゴ・ホワイトソックスの2球団が、日本、中国、オーストラリア、エジプト、フランス、イギリスなどを訪問して試合を行った。 1931年、読売新聞社・正力松太郎社長が全米選抜チームを招き、初めて読売新聞社主催により開催している。 1932年、「ロイヤル・ジャイアンツ」が来日。 1934年、野球の神様ベーブ・ルースを含む全米オールスターチームが来日。この年の日米野球をきっかけとして、日本初のプロ野球チームである「大日本東京野球倶楽部(後の読売ジャイアンツ)」が結成された。 |
【日本の著名メーソンその2、戦前期】 | |||
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【国内のフリーメーソンロッジ活動が禁止】 |
1940年、大東亜戦争勃発前夜事情に伴い国内のフリーメーソンロッジ活動が禁止された。 |
1940年、駐イタリア日本大使を務めた佐藤尚武もフリーメイソン。第二次世界大戦末期のソ連対日参戦当時の駐ソビエト連邦大使。戦後、参議院議長等を歴任している。 |
【第二次世界大戦期に於ける「日本解放会議」】 | |
「日本フリーメーソンの内幕7」その他を参照する。
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「サバイバル日記」を転載する。
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「東海アマブログ」の2019.4.9日付けブログ「渋沢栄一とフリーメーソン」。
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(私論.私見)