フリーメーソン日本史

 更新日/2021(平成31→5.1栄和/令和3).2.8日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 日本の近代史を振り返ると、いかに日本の近代化にフリーメイソンが暗躍していたか分かる。戦後日本もその歴史の延長上にある。その歴史の裏にはロスチャイルド系組織、フリーメイソリーの影の支配がある。アメリカと自民党の従弟関係が続いている状況が変わらない中、フリーメイソンが頭に描いた一種の日本改造計画は着々と進められている。これを確認しておく。

 「阿修羅」の SP' 氏の2001.4.24日付「第三章 日本フリーメーソンの内幕(赤間剛『フリーメーソンの秘密』三一書房)」、「フリーメーソン」、「ヘブライの館」、「フリーメーソン」、村山有・氏の「終戦のころ・思い出の人々」(時事通信社刊)、“フリーメーソン・ライブラリー”所蔵の「日本のフリーメーソン百年史」(日本グランド・ロッジ編)、「人間と世界の改造者(楽園を創るフリーメーソン物語)」(仙石太郎)、エンセン氏の2003.12.25日付投稿「メ−ソンの二大ドンが練る日本支配総戦略計画」(http://www.asyura2.com/0311/idletalk6/msg/650.html )、太田龍・氏の「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」、「合気揚げの基礎知識について」、「ユダヤ人基礎講座・補講(4)」、「グラバーと坂本龍馬は、本当にフリーメーソンだったのか」その他を参照する。

 2006.1.3日 れんだいこ拝


【来日最初のフリーメーソン】
 1779年、後にオランダ商館長となったオランダ東インド会社のティチングが長崎に来日。日本に来た最初のフリーメーソンと云われる。

【香港に、メーソンの極東ロッジが創立】
 1842年、阿片戦争。この戦争によって英国領となった香港に、メーソンの極東ロッジが創立され、アジア進出の拠点となった。

【ペリーの黒船来航】
 1853年、アメリカから黒船が来航し日本に開国を迫った。船長のマシュー・ぺリーは紛れもないフリーメイソン。彼の娘キャロライン・ペリーは1849年、オーガスト・ベルモントと結婚している。ベルモントはロスチャイルド家のカール・マイヤー・ロスチャイルドの妾の子供。ペリーもロスチャイルド家と直接、つながっている。
 1854年、日米和親条約締結。事実上の開国となる。

【トーマス・ブレーク・グラバーの来日】
 1859年、スコットランド人、トーマス・ブレーク・グラバー来日。彼もフリーメイソン。長崎にあるグラバー邸にはコンパスと定規を組み合わせたフリーメイソンリーのシンボルが刻まれた石柱がある。これはもともとグラバー邸にあったものではなくて、フリーメイソンリーから1966年に寄贈されたもの。グラバー邸から坂を下ると旧香港上海銀行(今のHSBC)記念館がある。その記念館で山口幸彦著「明治維新の大功労者 トーマス・グラバー フリーメーソンとしての活躍」が売られていた。著者は最後にこう結んでいる。「グラバーに関する書物は数多く世に出ているのに、彼がフリーメーソンだった事を言及しているものは、ない。何故なのだろう?」。

 グラバーは「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店として「グラバー商会」を設立し貿易業を営む。「ジャーディン・マセソン商会」はアヘン戦争で暗躍したロスチャイルド系商社。その業務の一つはアヘンの密輸。同じロスチャイルド系の「香港上海銀行」は、マセソンなどが香港で稼いだアヘン資金をイギリスに送金するために設立された銀行。明らかにグラバーもロスチャイルドとの間接的関係がある。グラバーは薩摩・長州・土佐ら討幕派を支援し、武器や弾薬を売る。つまり彼は江戸幕府を倒した反政府組織(明治維新政府)のクーデターを支援する武器商人だった。坂本龍馬は1865年、グラバー商会から7,300挺の洋式銃を薩摩藩名義で買い付けている。これらの銃が長州藩に渡り、薩長和解の契機となる。また上杉宗次郎も薩摩藩名義でイギリス製蒸気軍艦ユニオン号の購入に成功している。そうやって力を得ていった薩長同盟が江戸幕府を倒した。
 メーソンの特筆すべき存在は、トーマス・ブライク・グラバー。彼は武器弾薬を調達した「死の商人」として、又観光都市長崎の名所「グラバー邸」の主だった事でその名は有名だが、日本の近代化にも大きな功績を残している。例えば、英国の蒸気機関車を日本に輸入して、日本の地で初めてそれを走らせたのもグラバーであり、長崎の高島炭坑に近代的な採掘機械を最初に導入し、又日本の造船技術の始まりとなったソロバン・ドッグ(我が国最初の様式ドッグで、入江を利用したスリップ式造船施設)を作ったのも彼だった。グラバーは明治維新後も造幣機械輸入に関わるなど明治政府との関係を深める。そして日本で初めて電話線を敷いたのも彼であり、其の功績をあげたらキリがないほどである。
 三菱商事の創立者の岩崎弥太郎(と弟の弥之助)との関係も深く、グラバーが出資の面で深く関わっていた高島炭坑と長崎造船所(三菱造船所の前身)を三菱に譲渡している程で、明治26年にグラバーが住居を東京に移した時、三菱の特別役員となっている。この時の待遇も破格のもので、最高役員の2割増の給与を得ている。岩崎はグラバーの助言により麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)の基礎を築いている。

【ウィリアム・イーストレイ】
 1860年、「日本の近代歯科医学の父」と呼ばれるウィリアム・イーストレイが来日。彼もフリーメイソン。日本の近代歯科医学の発展に貢献する。
 1860年、勝海舟を含むアメリカ使節団派遣。桜田門外の変。

【西周、津田真道(つだ・まみち)が幕命でオランダ留学】
 ●西周とは何者か

 文政12年(1829年)2月3日石見国津和野藩医の子に生まれる。旧名周助。藩校養老館で儒学を学んだ後、嘉永6年(1853年)に江戸に出て蘭学を学ぶ。翌7年、脱藩して蘭学修業に専念し、手塚律蔵の門に入る。1857年(安政4年)、手塚の推薦で蕃書調所教授手伝並に任命される。 

 phirosophyを「哲学」という翻訳語にしたのは西周といわれる。他にも「芸術」、「科学」、「技術」、「理性」、「権利」、「義務」、「文学」、「心理」、「科学」となど西洋の抽象概念を次々に日本語に訳出し造語している。西は、かな漢字廃止論者でもあった。五箇条の御誓文も西が草案を書いたし、軍人勅諭も彼の起草と云われている。
 ●津田真道(つだ・まみち)とは何者か

 津山藩(岡山県)の出身。嘉永3年(1850年)に江戸に遊学して、箕作阮甫、伊東玄朴らに蘭学を、また佐久間象山に兵学を学んでいる。藩籍を脱して苦学する。1857年に幕府の蕃書調所に採用され、西と一緒に仕事をする。幕府側の人間。法学博士、衆議院副議長。
 1862(文久2)年、徳川慶喜の政治顧問の西周(にし・あまね)が、津田真道、榎本武揚らとともに幕命で幕府の研修生としてオランダ留学し、ライデン大学のフィセリング教授から法理学・国際公法学・国法学・経済学・統計学を学んだ。

 西周とグラバーとの接点を示す記録はないが何らかの交流があった可能性がある。というのは、ライデン大学に若きグラバーの写真が残されており、ライデン大学とグラバーとは何らかのつながりがあったことを示している。

【長州藩士の伊藤、井上らがロンドンへ密航】
 1863年、薩英戦争、攘夷戦争勃発。

【長州藩士の伊藤博文、井上馨ら5名がロンドンへ密航】
 グラバーは倒幕派であり、長州と薩摩に「ヨーロッパの現実」を見せるべく、密航留学を斡旋する。

 1863(文久3).5.7日(6.22日)、海外渡航が国禁のところグラバーの手引きで、長州藩士の後に5人の若者、即ち井上馨(聞多)、伊藤博文(俊輔)、山尾庸三、井上勝(野村弥吉)、遠藤謹助が、ロンドンへ密航するために、英国領事の紹介で英国商船ジャーディン・マディソン商会の船に乗って横浜を出発した。彼らの留学費用の大部分を負担したのはグラバーの勤めるマセソン商会の社長、ヒュー・マセソンだった。これにより「マセソンボーイズ」と呼ばれる。

 一行は、上海などを経て英国に到着した。世界一の金融王ネイサン・ロスチャイルドの息子であるライオネル・ロスチャイルドの庇護下でロンドン市内に下宿し、ロンドン大学で物理・化学などを学んだ。英国の新聞で「長州ファイブ」と紹介されている。井上と伊藤は、1864(元治元)年.4月の四国艦隊の下関砲撃計画を知って途中帰国したが、残りの3名は数年間学業を続けた。「ロスチャイルド家当主の子分」となった若者たちによって明治の日本が作られていくことになる。そう云う意味で、長州こそ「大日本帝国」の主体であり、その真の創設者であると云える。

【西周がフリーメーソンに入会、津田真道も入会】
 1864.10.20日、西周(35歳)が、ライデン大学のフィッセリング教授の推薦を受け(入会には、会員の推薦を必要とする)、オランダのライデン市のフリーメーソン・ロッジ「ラ・ベルトゥ・ロッジNo7」に第一階級として入会している。ライデン大学に西周の入会のサインが残されている。こうして、西が、日本のフリーメーソンの先駆けとなった。 

 同年11月、津田真道が西よりも一ヵ月遅れてフリーメーソンに入会。西と同じロッジに入会。仲介者はライデン大学のフィッセリング教授。西も津田もこの教授の説得によってフリーメーソンに入会している。

【竜馬消息不明】
 竜馬消息不明(10月〜65年4月)。

【薩摩藩の五代友厚、森有礼、寺島宗則らがイギリスへ密航留学】
 1865(慶応元)年、薩摩藩の五代友厚、森有礼、寺島宗則など17名が、グラバーの手引きでイギリスへ密航留学。
 ●五代友厚とは何者か

 薩摩藩儒者の家に生まれる。通称は徳助、才助。十三歳のとき藩主島津斉彬から世界地図を模写するよういわれて2枚模写し、1枚は斉彬に献上、もう1枚は自分の部屋に飾って毎日のように眺めた。23歳で長崎の海軍伝習所に学び、2年後、長州の高杉晋作とともに上海に渡航、ドイツ汽船を購入して帰国する。留学生の欧州派遣を建議、英国商人グラバーの斡旋で計18人で渡欧。帰国後は藩の通商貿易に貢献し、長崎で龍馬と出会った。大洲薄から海援隊へチャーターしたいろは丸が、紀伊藩の明光丸と衝突・沈没すると、紀伊藩の依頼で事件を仲裁、龍馬らの主張を認めた。維新後は外国官判事をつとめ、実業界に転じた。
 薩摩藩士五代友厚らもこの頃欧州留学している。五代友厚の「廻国日記(かいこくにっき)」は、五代がパリ滞在中12日間に亙って連日、幕生西・津田両人と面会し共にパリ見物や料理屋通いもしていたことなどを書き記している。

【坂本龍馬がグラバー商会から武器購入】
 1865年、坂本龍馬がグラバー商会から武器購入。

【西周、津田真道が帰国、幕臣にとり立てられ蕃書調所教授就任】
 同年12月、西周が津田真道とともに帰国。翌2年9月、西が徳川慶喜の重要ブレーンとして抜擢され幕臣にとり立てられ、蕃書調所/安政3年(1856年)に発足した江戸幕府直轄の洋学教育研究機関。後の開成所)教授となった。役割は、徳川慶喜に西欧の事情を詳しくレクチャーすることにあった。東京大学の源流諸機関のひとつであり、現代でいうと、西は東京大学の教授といったところ。徳川慶喜の諮問に応え、大政奉還後の政権構想として「議題草案」を起草した。http://daigikan.daa.jp/nisi.html

【薩長同盟、徳川慶喜将軍に就任】
 1866年、薩長同盟。
 12月、徳川慶喜将軍に就任。

【グラバー系フリーメーソンの暗躍】
 1867年 津田真道『泰西国法論』発表。船中八策、大政奉還、竜馬暗殺。
 幕末から明治維新の激動の背後にあったロスチャイルド派ユダヤの動きを見ないと事態の真相に近づけない。日本が長い鎖国から解かれて開港したと聞くや、1864年頃、諸外国からメーソンがどっと流れ込んでいた。そして明治維新の大きな原動力となった。
 記録は残っていないものの、西とグラバーとは接点がある。五代友厚はグラバーから最も信頼されていた人物であり、さまざまな指令をグラバーから受けている。幕府の要人となった西と津田は、日本で革命を起こすさいの重要な手駒になる。五代、西、津田はいずれもフリーメーソンであり、彼らが会って話したとしても他に漏れることはなかった。

 国会図書館で加治将一氏が発見した
薩長同盟での取り決めを記した木戸孝允の書状があり、龍馬が朱筆で裏書きしている。(加治将一著「石の扉/フリーメーソンで読み解く歴史」新潮社刊)
 表に御記入しなされ候六条は小・西両氏および老兄龍等も御同席にて談合せし所にて、毛も相違これなく候。従来といえども決して変わり候事はこれなきは神明の知る所に御座候。
 ≪加治将一氏の口語訳≫
 表にある六ケ条は、薩摩藩の小松帯刀、西郷隆盛、長州藩の桂小五郎、そして竜馬が談判して決めたことに少しも相違ありません。この六ケ条が変わらないのは、神の知るところです。

【フリーメーソン続々来日と暗躍】
 幕末、日本を支配しようとしていたのはロスチャイルド派フリーメーソン即ちイルミナティーだった。倒幕派を操作したのが英国系フリーメーソン・イルミナティーであり、幕府側に食い込んでいったのがフランス系フリーメーソン・イルミナティーというようにユダヤ特有の両建て戦略に基づき日本攻略作戦を発動していた。彼らは、それぞれ幕府と薩長をけしかけ、日本を泥沼の内戦に持ち込み、内戦で弱体化したのち植民地にしようとしていた。

 フランスの全権大使として江戸に赴任したレオン・ロッシュは、「グランド・オリエント」(大東社)を代表し、幕府を援助した。横須賀製鉄所を開かせ幕府の軍制改革に助力している。倒幕側についたのが、イギリスのメーソン(スコティシュ)のトーマス・ブレイク・グラバーである。グラバーが来日した時には、既に多くのメーソンが入り込み、幾つかの商会が存在していた。彼は長崎の大浦海岸にグラバー商会を設立し、日本茶の輸出から商売に取りかかったが、次第に倒幕諸藩への武器弾薬、艦船の販売へと手を広げ、成功を収めていった。先住の商人達が幕府と密接な取引をしていた為、入り込める余地がなかったからであった。そこで倒幕諸藩に絞った。それが功を奏して、彼はわずか数年で長崎随一の商人となる。(「グラバー考(「明治維新とグラバー」考)」)

 その他、フランス人でベルギーのメーソンだったシャルル・ド・モンブランは、薩摩藩の五代才助(友厚)に近づき、1865年、ブリュッセルで五代と共に商社を設立しているほどだ。又、薩摩藩からパリ万国博覧会の事務総長に任命されたりしている。

 プロシア(独逸)のメーソン、エドワルド・スネルは、長岡藩の河井継之助に接近して、長岡城の戦い(1868年、官軍との戦い)を援助した。

 戊辰戦争の最後の戦いとなった五稜郭の戦いでは、フランスのメーソン、ブリュネが、榎本武揚ら徳川家臣幹部と共に五稜郭に立て籠もり、最後まで官軍に抵抗したが遂に敗れ、戊辰戦争が終結を迎える。いってみれば、明治維新は、フランスを中心とするヨーロッパ系メーソンと、大英帝国系メーソンの代理戦争であった。どっちに転んでいいように、メーソン特有の”両面作戦”がとられた。そして結果的にはイギリス系のメーソンが勝利を収めた。


【幕末日本にフリーメーソンロッジが次々と設立される】
 アメリカ独立、フランス革命、イタリア統一、ロシア革命など歴史の潮流の裏には必ずメーソンが絡んでいた。日本の近代化もその例外ではなかった。1842年の阿片戦争。この戦争によって英国領となった香港に、メーソンの極東ロッジが創立され、アジア進出の拠点となった。その香港から横浜の居留地警備の為に派遣されたのが、英国陸軍第20連隊だった。この連隊には、軍人結社スフィンクスがあった。アイルランド系の移動式ロッジで、駐屯地でメーソンの儀式を行った。アメリカ、カナダの植民地時代も、こうした軍隊の移動式結社が各地で展開され、その地にメーソンが浸透していった。スフィンクスのメンバーは、やがてメーソンの英外交官や貿易商と共に移動式ではなく、本格的なロッジを望む様になり、1865年、本国に新ロッジの設立を申請している。

 幕末に横浜の居留地に英国が持ち込み、続いて神戸、長崎の開港地に英米系のフリーメーソンが生まれた。1866年、明治維新の2年前、それが認可され、日本の横浜にメーソンのロッジが初めて設立された。最初のロッジは横浜に作られた(「日本初のメーソンロッジは1866年、横浜で創立」)。第1回集会には、スコティシュ系メーソンの西インド地区の前副棟梁カートライトが出席し、初代ロッジ長にはウィリアム・モタ、二代目ロッジ長には英国近衛連隊将校G・M・スマイスが任命されている。こうして正式のロッジが横浜に設立されてからというもの、日本各地にい次々とロッジが開設された。

 例えば、1869年に「オテントウサマ・ロッジ」(横浜)、1870年に「ロッジ・ヒューゴ・アンド・オオサカ」(兵庫・大阪)、1872年に「ライジング・サン・ロッジ」、こうした各地のロッジを統括する為、1873年、「日本グランド・ロッジ」が横浜に設立され、その初代グランド・マスターにチャールズ・ヘンリー・ダラスが就任している。

【軍人結社スフィンクスが本国に新ロッジの設立を申請】
 香港から横浜の居留地警備の為に英国陸軍第20連隊が派遣された。この連隊には、軍人結社『スフィンクス』があった。アイルランド系の移動式ロッジで、駐屯地でメーソンの儀式を行う。アメリカ、カナダの植民地時代も、こうした軍隊の移動式結社が各地で展開され、その地にメーソンが浸透していった。『スフィンクス』のメンバーは、やがてメーソンの英外交官や貿易商と共に移動式ではなく、本格的なロッジを望む様になり、1865年本国に新ロッジの設立を申請している。

【横浜に創立日本メーソン初ロッジが設立される】
 1866年、明治維新の2年前、日本メーソンロッジの設立が認可され、横浜に初ロッジが創立された。第1回集会には、スコティシュ系メーソンの西インド地区の前副棟梁カートライトが出席し、初代ロッジ長にはウィリアム・モタ、二代目ロッジ長には英国近衛連隊将校G・M・スマイスが任命されている。

 こうして正式のロッジが横浜に設立されてからというもの、日本各地にい次々とロッジが開設された。例えば、1869年に『オテントウサマ・ロッジ』(横浜)、1870年に『ロッジ・ヒューゴ・アンド・オオサカ』(兵庫・大阪)、1872年に『ライジング・サン・ロッジ』(神こうした各地のロッジを統括する為、1873年、『日本グランド・ロッジ』が横浜に設立され、その初代グランド・マスターにチャールズ・ヘンリー・ダラスが就任している−−。

【徳川慶喜の対抗戦略】
 徳川最後の将軍となった慶喜は、英国系とフランス系フリーメーソンの日本を内戦に誘いこむ意図を見抜き対抗した。持久戦に持ち込めば幕府に充分勝ち目があったにも拘らず、あっさり大政奉還し、薩長に降伏した。これによりフリーメーソンの目算が外れた。フリーメーソンの手のうちにあって操られていた岩倉具視や木戸孝允が、慶喜にしきりにケンカを売ったが、慶喜は忍の一字で耐えた。慶喜が倒幕派の誘いに乗り、フランスの軍事援助を受けていたら、戊辰戦争は注文通りに長期化したはずである。慶喜は腰抜けと罵倒されることを覚悟しつつあえて政権委譲に応じた。フリーメーソンの企図の対抗上次善の方策だったといえるのかもしれない。

 この流れにつき、勝海舟と龍馬が慶喜の大政奉還を建策したことが知られている。これにより、フリーメーソンは倒幕軍を動かすことも、全国を内戦に導くこともできなくなった。「龍馬の裏切り」がフリーメーソンの怒りを呼び、龍馬を暗殺したという説もある。

【諸外国からメーソンがどっと流れ込む】
 日本が長い鎖国から解かれて開港したと聞くや、諸外国からメーソンがどっと流れ込んでいた。そして明治維新の大きな原動力となった。例えば、フランスの全権大使として江戸に赴任したレオン・ロッシュは、『グランド・オリエント』(大東社)を代表し、幕府を援助した。横須賀製鉄所を開かせ、幕府の軍制改革に助力している。その反対に倒幕側についたのが、イギリスのメーソン(スコティシュ)のトーマス・ブレイク・グラバーである。

 グラバーが来日した時には、既に多くのメーソンが入り込み、幾つかの商会が存在していた。彼は長崎の大浦海岸にグラバー商会を設立し、日本茶の輸出から商売に取りかかったが、次第に倒幕諸藩への武器弾薬、艦船の販売へと手を広げ、成功を収めていった。先住の商人達が幕府と密接な取引をしていた為、入り込める余地がなかったからだ(要するに、内部攪乱の政策を採っている!忍)。そこで倒幕諸藩に絞ったのである。それが功を奏して、彼はわずか数年で長崎随一の商人となる。

 その他、フランス人でベルギーのメーソンだったシャルル・ド・モンブランは、薩摩藩の五代才助(友厚)に近づき、1865年、ブリュッセルで五代と共に商社を設立しているほどだ。又、薩摩藩からパリ万国博覧会の事務総長に任命されたりしている。プロシア(独逸)のメーソン、エドワルド。スネルは、長岡藩の河井継之助に接近して、長岡城の戦い(1868年、官軍との戦い)を援助した。そして戊辰戦争の最後の戦いとなった五稜郭の戦いでは、フランスのメーソン、ブリュネが、榎本武揚ら徳川家臣幹部と共に五稜郭に立て籠もり、最後まで官軍に抵抗したが、遂に敗れる。ここに戊辰戦争は終結を迎えるのだが、いってみれば、明治維新は、フランスを中心とするヨーロッパ系メーソンと、大英帝国系メーソンの代理戦争だった−−。どっちに転んでいいように、メーソン特有の”両面作戦”がとられた。そして結果的にはイギリス系のメーソンが勝利を収めたのである。

 1867年、大政奉還。

 1867年、坂本龍馬暗殺される。

【江戸城無血開城】
 1868年、江戸城無血開城。明治元年、江戸を東京と改める(明治維新〜文明開化)

【日本の著名メーソンその1、最初期】
 明治新政府の第1回官費留学生として、鳩山一族の初代当主になる鳩山和夫がイェール大学に留学する。イェール大学は、ネオシオニズム系秘密結社「スカル&ボーンズ」の活動で知られている。鳩山は、ここで、アメリカ憲法と国際関係法を学んだ。いずれもフリーメーソン教学であり、その影響を色濃く受けたことは想像に難くない。帰国した鳩山は、明治新政府の下で、近代国家の基本となる憲法策定と、外交法の整備に乗り出す。その功で、帝国議会の衆議院議長を務めている。政治家に転身するまでの間、日本最初の「法学博士」となり東大で教鞭を執り、憲法や外交を担当する元祖法学者として活躍した。他方で、法律家の育成に取り組み、学界有力者との積極的な婚姻政策を通じて鳩山閨閥を作り出して行った。これが鳩山家の血脈となる。

【西と津田が、福沢諭吉らと明六社を作り文明開化を推進】
 1868年の明治維新後、西と津田は、フランス系メーソン人脈の福沢諭吉らと明六社を作り文明開化を推進する。他にも英語学校を開いた神田乃武(YMCAの創設者)も然り。

【御雇い外人の動き】
 明治維新後、日本は西洋崇拝の教育となっていた。明治初年頃、数百名の御雇い外国人が来日し、英米独仏等の国籍に分かれていたが、大部分ユダヤ人でありフリーメーソンであった。彼らは、日本をインドや東南アジアのようにユダヤ人の奴隷国とする目的で「近代化」という名のユダヤ属国化に精出し始めていた。

 英国公使パークス初め外国大使の多くもユダヤ人であった。彼らは英米独仏などの国籍を以て偽装し、東京帝国大学など高等教育機関をわが物とし法律、経済、哲学などユダヤ人の都合のよいもののみを以て固めた。日本の大学をまだ物心つかない赤ん坊の時代からユダヤの奴隷学問の府としてしまったのだ。

 ユダヤ人どもは国立大学に巣食って、帝国大学はついにユダヤの秘密結社フリーメーソンの支部のような形になったと言われる。北大の前身札幌農学校の教頭クラークが(米国)マサチューセッツのフリーメーソンのグランド・マスターであった。

 太田龍・氏の「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」は次のように記している。
 「明治新政府は一挙に大量の外人教師を雇いいれて、欧米式の文物と制度を輸入したが、このいわゆるお雇い外国人の主要部分は、ユダヤ又はフリーメーソンの人脈である」。
 「幕府が洋学の研究教授のために設立した機関を、新政府はそっくりそのまま継承して、後の東京帝国大学とした。つまり、この東京帝大の一部がユダヤ・フリーメーソンの実働部隊のようなものであったのだ」。

【伊藤博文ー林董系の動き】
 明治維新後、伊藤博文が駐英公使の林董(はやし・ただす)にフリーメーソンの何たるかを知るために英国で秘かに入社させた。その結果、日本では外人のみに入社を認め、日本人の入会を禁じることになった。これにより、表向きは戦前には日本人のメーソンはいないことになっている。外国での入会は認められたので、外国のフリーメーソンに入社した日本人は千数百人と推定されている。
 政界においては日本の外交官として初めての海外派遣大使となった林董(初代駐英大使)が1903年、イギリスのエンパイア・ロッジにてフリーメイソンに入会している。彼はフリーメイソンになったことで様々な国で真の友達に巡り会えたと関係者に語っている。

【小村外相のフリーメーソン加入禁止令】
 日露戦争当時の外務大臣小村寿太郎は、1908年成立の第二次桂内閣の外務大臣に再任され、幕末以来の悲願の安政不平等条約の改正に着手し、1911年、通商航海条約を調印し関税自主権の回復を果たした。小村はただちに日本人のフリーメーソン加入を禁止し、監視体制をとった。外務大臣辞任後の同年11.26日、く死んでしまった(享年57歳)。

 替わってフランス系フリーメースソンと言われる西園寺公望が首相になった。こうして、ユダヤ・フリーメーソンは国家中枢に入り込むことになった。

 1908年、最初のアメリカ野球チーム来日。初戦(対早稲田大学)で大隈重信が始球式に参加している。
 1913年、ニューヨーク・ジャイアンツとシカゴ・ホワイトソックスの2球団が、日本、中国、オーストラリア、エジプト、フランス、イギリスなどを訪問して試合を行った。
 1931年、読売新聞社・正力松太郎社長が全米選抜チームを招き、初めて読売新聞社主催により開催している。
 1932年、「ロイヤル・ジャイアンツ」が来日。    1934年、野球の神様ベーブ・ルースを含む全米オールスターチームが来日。この年の日米野球をきっかけとして、日本初のプロ野球チームである「大日本東京野球倶楽部(後の読売ジャイアンツ)」が結成された。

【日本の著名メーソンその2、戦前期】

 20世紀はアメリカとイギリスの闘いの世紀だった(ロックフェラー 対 ロスチャイルド)」を転載する。

■戦前の二大政党制の“根”にあった二大財閥の対立構図

 戦前、昭和初年代の《政友会 対 民政党》の二大政党制が、国際舞台における《米ロックフェラー財閥対 英ロスチャイルド財閥》の対立と密接に結びついていた。「政友会・田中義一内閣」(昭和2〜4年)の大蔵大臣・高橋是清と、「民政党・浜口雄幸内閣」(昭和4〜6年)の大蔵大臣・井上準之助を比較してみるとよくわかる。国内的には当時、三井財閥が政友会を財政支援しているのは周知の事実であった(浜口首相は三菱の岩崎弥太郎と同じ土佐出身)。

 高橋是清は日露戦争の外債を「クーン・ローブ商会」のヤコブ・シフに引き受けてもらって以来、シフとは家族ぐるみのつきあいだった。ドイツのユダヤ系財閥で、アンチ・ロスチャイルドのワーバーグ家が、ヤコブ・シフと親しかった。高橋是清も当然ワーバーグ家と親しかった。ワーバーグも日露戦争の日本の外債を引き受けてくれている。三井財閥もワーバーグ財閥と親しくしている。 

 そして金融界では、《独ワーバーグ=米クーン・ローブ連合》を米ロックフェラー財閥が支援し、これと相対立するのが、《米モルガン=英ロスチャイルド連合》であった。ウォール・ストリートの対立では、《独ワーバーグ(ユダヤ)=米クーン・ローブ(ユダヤ)》 対 《米モルガン(クリスチャン)》の図式であったが、この背後に、《米ロックフェラー(クリスチャン)》 対 《英ロスチャイルド(ユダヤ)〉の英米財閥対立があったのである。

 一方、民政党の井上準之助は、関東大震災復興の外債募集でモルガンの番頭トマス・ラモントに国際金融家として認められ、ラモントの指導の下に金解禁政策を実施することになる。

 つまり、《民政党=三菱財閥=井上準之助蔵相=米モルガン財閥=英ロスチャイルド財閥》の流れと、《政友会=三井財閥=高橋是清蔵相=米クーン・ローブ商会・独ワーバーグ商会=米ロックフェラー財閥》という流れが、国の内外を貫いて対立していたのである。

 米内光政(よない・みつまさ、第37代首相、東久邇宮&幣原喜内閣で海軍大臣)、東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや・なるひこ、昭和天皇の叔父、第43代首相)、幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう、外交官、第44代首相)、吉田茂(東久邇宮&幣原喜内閣で外相、第45、48〜51代首相)、鳩山一郎(第52〜54代首相)、沢田教一(写真家、ベトナム戦争の写真でピューリッツア賞)。

【国内のフリーメーソンロッジ活動が禁止】
 1940年、大東亜戦争勃発前夜事情に伴い国内のフリーメーソンロッジ活動が禁止された。

 1940年、駐イタリア日本大使を務めた佐藤尚武もフリーメイソン。第二次世界大戦末期のソ連対日参戦当時の駐ソビエト連邦大使。戦後、参議院議長等を歴任している。

【第二次世界大戦期に於ける「日本解放会議」】
 「日本フリーメーソンの内幕7」その他を参照する。
 「『人間と世界の改造者(楽園を創るフリーメーソン物語)』(仙石太郎)という本によると、ユダヤ・フリーメーソンがニューヨークで戦前からすでに“日本解放会議”をもち、『「専門職のメーソンを三百名くらい集め、日本の解放指導者に教育して解放軍に編入する』ことを決定。これはルーズベルト大統領(オランダ系メーソン)と直結するものだったという。ニューヨークで1943年に選び出された日本人の解放指導者には、首席候補が幣原喜重郎以下十数名、進歩系の片山哲以下十数名、そして吉田茂がロンドン駐在中にスコッチ・メーソンになったから特別に育成すると決まった。そして、解放要務員のメーソンが三百名軍籍に入れられ軍政顧問として新日本建設の各分野に配属された。1949年に復活した東京ロッジがスコッチライト・テンプルとして日本人だけのメーソンを形成、サンフランシスコの講和会議に活躍した」。

 サバイバル日記」を転載する。
 日本人が知らない 恐るべき真実 山本五十六がフリーメーソン結社員であった
 http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060913

 戦後、通説とされた「陸軍悪玉・海軍善玉論」の真偽を検証した力作『米内光政と山本五十六は愚将だった』によれば、米内光政は、対米戦争に反対した平和主義者としてもてはやされましたが、実は日中戦争を拡大し、停戦の機会を失わしめた張本人の一人であり、悲劇の名将といわれる山本五十六は、ミッドウェー海戦で圧倒的戦力という戦略的優位と海軍機の高性能と搭乗員の高熟練度という戦術的優位がありながら、戦闘指揮の失敗で敗北した、つまり両人とも戦後の名声とはかけ離れた“愚将”であったとしています。

 和平への道を誤ったり、戦勝の機をむざむざ逃したのは、単に両人の能力の欠如ゆえだったのでしょうか? 国際政経学会*1員であった渡部悌治氏は、山本五十六がフリーメーソン結社員であったと指摘しています。渡部悌治の『ユダヤは日本に何をしたか』から引用。

 山本五十六が司令長官になった頃、ハーバード大学ルートの情報で、米国の海軍力は山本五十六が司令長官である間ならば、日本に撃って出ても勝算があり、悪く行っても五分五分で決着がつく。早々に戦端を開くべきだという海軍側の意向が伝えられて来た。しかもその理由の中に一項目、山本はフリーメーソンの結社員だからという条項が入っていた。(略)山本五十六が、米内光政や高橋三吉らと、日独伊三国の軍事同盟反対の密議を凝らしていた場所は、東京麻布の狸穴にあった。この妾宅の若い女性は当時18歳で、新橋あたりで芸妓をしていた。(略)山本が戦死した報を得て、須藤某が文書の遺稿でもと狸穴に訪ねた時には、すでにこの女性が一切を処理し終えた後であり、(略)戦時中、米内光政の身内や縁故者たちから、国の機密に属する事柄が敵国に流されていたことは事実であり、しかもその事柄が、日本の戦争遂行を不可能にするほどの重要なものもあったことを特筆しておく。またこの縁辺の者のうちには、首相であった東条の鎌倉での生活苦を賄っていた者もあり、それらを取り巻く近親の者たちの言動から察知された国家機密が直ちに敵国に通報されていた事実も明白になっていた。

 山本五十六は1919年5月〜1921年7月までと、1926年1月〜1928年3月までの二度、アメリカ勤務(大使館付武官)をしています。この他にヨーロッパへの長期出張が二度。同時期に駐米大使、駐英大使を歴任していたのが、戦前からフリーメーソンに加入していた松平恒雄でした。吉田茂が駐英中にフリーメーソンに加入したように、山本も、松平に誘われ、フリーメーソンに加入していたことは十分に考えられます。また、山本と米内は砲術学校時代には同じ部屋に起居している間柄であり、生涯に渡り二人は非常に波長が合ったと言われています。フリーメーソンとは直接関係ないかもしれませんが、英米に取り込まれていた可能性があるのは山本や米内だけではないようです。

 渡部悌治氏は、英米の対日工作費が右翼に渡されたルートとして、英米の対日工作費→張学民経由→キリスト教矯風会の子女→大川周明・赤尾敏。英米のエージェントであった巌本善治→正則中学校の今岡信一郎→関東国粋会の梅津勘兵衛などを挙げています。クーデターにはアメリカ、ユダヤから金がきていた。2.26事件には三井財閥の金も動いている。北一輝には三井の池田成彬から月々の手当てが出ていた。それで池田には行動決行の電話がいち早く届いている。5.15事件も、2.26事件も、他のクーデターも、いずれの場合も、第三国の金が動いたのである。2.26事件の資金は、久原房之助から出ていた分のルートも分かっている。(略)久原の背後にあって久原に資金を調達していた者が誰か、ということも考えてみなければなるまい。

 このように、いわゆる右翼なるものが必ずしも純粋に愛国的なもののみでなく、またその中核とも見られる国粋主義団体にまで第三国の対日工作資金が流れていたことは、日本の愛国運動史上きわめて不幸なことであり、それがまた日本の敗戦と解体を招いた原因となっていると考えられる。

 ついでに『月間猶太研究』から山中豊吉氏の論文『キリスト教に隠れたユダヤ教の陰謀』から引用しておきます。日本に対するユダヤとキリスト教の謀略を検討いたしますと、だいたい次のような四点に分けてこれを観察することができるように思います。すなわち

@日本プロテスタントを利用加勢してカトリックに対抗せしめること。(すなわちフリーメーソン的キリスト教の前進)
Aこれによりカトリックを刺激して、さらにカトリックの教勢を張らしめること。(ローマ的キリスト教の前進)
Bかくして双方の競争的努力によって急速に、かつ手広く日本を変質せしめ、これをユダヤ化すること。(分進合撃の戦法)
Cその結果、エホバ秩序、ないしキリスト教秩序の下に統一せられたるユダヤ世界の完成を期すること。(イザヤ預言の新天新地の実現)

 山中氏は、プロテスタント≒フリーメーソンと考えていたようですが、この指摘は的確だと思います。いずれにせよ、日本は、ユダヤ伝統の両建て戦術、「分断して、統治せよ」に見事に嵌っていたようです。
 日本メーソンの敗北

 『人間と世界の改造者(楽園を創るフリーメーソン物語)』(仙石太郎)という本によると、ユダヤ・フリーメーソンがニューヨークで戦前からすでに“日本解放会議”をもち、「専門職のメーソンを300名くらい集め、日本の解放指導者に教育して解放軍に編入する」ことを決定。これはルーズベルト大統領(オランダ系メーソン)と直結するものだったという。いわゆるニューディール派のユダヤ人は、戦後日本の解放政策を採用したGHQ内の軍人で、フリーメーソンだった。フリーメーソンにとって解放後の日本が未来の「人間と世界の縮図、理想」と考えられたからだと述べられている。

 同書によると、「ニューヨークで1943年に選び出された日本人の解放指導者には、首席候補が幣原喜重郎以下十数名、進歩系の片山哲以下十数名、そして吉田茂がロンドン駐在中にスコッチ・メーソンになったから特別に育成すると決まった。そして、解放要務員のメーソンが300名軍籍に入れられ軍政顧問として新日本建設の各分野に配属された。1949年に復活した東京ロッジがスコッチライト・テンプルとして日本人だけのメーソンを形成、サンフランシスコの講和会議に活躍した」という。天皇の人間宣言からGHQの諸政策もフリーメーソンの政策という驚くべき内容だが、もちろん真偽は判らない。

 この話を日本のメーソンに聞くと、「そんなこと判りません。聞いたこともないから、おそらく嘘でしょう。フリーメーソンは政治とは無関係ですからね」と否定する。たぶん、そうだろう。政治評論家の戸川猪佐武氏にフリーメーソンについて聞いても、「戦後政治をフリーメーソンが動かしたなんて聞いたこともありませんよ」というからである。戦後政治の中で、日本のフリーメーソンが大きな役割を果たすには余りに人数も少なく、規模も小さい。しかし、天皇入社を成功させ、支配者層の獲得をしていれば、話も違ってきたかも知れないのだ。

 しかし、現在に至っても、フリーメーソンの日本人はほとんど参加人数が変わっていない。その理由について、ある日本のグランド・マスターは次のように分析する。「フリーメーソンは宗教と違って仲間を勧誘しない。これがフリーメーソンがもともと何か知られていない日本では決定的に弱い。欧米では、メーソンになるのは名誉ですから、あちらから押しかけてくるからね。第二に日本人の精神がメーソンの個人主義を受けつけないし、自由の精神が薄いことです。第三に、日本の社会がいわゆる“タテ型”になっており、大会社の人間はそれこそ結社のようにバッジとか入社式があり、一生会社人間でフリーメーソン結社と同じ構造です。だから、日本人にはことさら別の社外組織であるクラブとか秘密結社に入って同胞愛を確かめる必要がないのだね。私は日本人がフリーメーソンの精神を受け入れ、国際的な同胞愛に目ざめるには、あと一世紀はかかると思う。日本にはまだ真の個人主義も、真の民主主義もないのですよ」。

 フリーメーソンが日本で発展しなかったのは、逆説的にいって日本が世界の中で、“秘密結社”のように閉鎖的で、内部の平等と同胞愛を持っているからだというのである。この意見は貴重だ。欧米の「ヨコ社会」(差別的な階級社会)に対して、日本は同人種の国家であり、フリーメーソン的な高位階級制度が社会の中に存在するから、秘密結社が育ちにくいのである。もちろん、フリーメーソンの日本での発展がなかったことは、他にもいろいろな要因が考えられるが、何といってもフリーメーソンの教義*1が持つ宗教性が、キリスト教と同じく日本人に適さなかったのであろう。

 現在、日本にはグランド・ロッジの下に20のロッジ(支部)がある。これは、横浜(No.1)、東京(No.2)、国立(No.3)、同(No.4)、京都(No.5)、名古屋(No.6)、国立(No.7)、同(No.8)、佐世保(No.9)、三沢(No.10)、東京(No.11)、神戸(No.12)、座間(No.13)、福岡(No.14)、福生(No.15)、岩国(No.16)、千歳(No.17)、東京(No.18)、沖縄(No.19)、横須賀(No.20)であり、米軍基地周辺に多い。

 このほか日本グランド・ロッジに属さない外国のロッジがいくつかある。それらは、神戸(No.1401、イングランド系)、大阪(No.496、スコットランド系)、横浜(No.640、スコットランド系)、東京(No.6、マサチューセッツ系)、座間(No.151、フィリピン系)、沖縄(No.118、フィリピン系)などだが、これらは明治以来の伝統あるロッジで“既得権”として日本グランド・ロッジの管轄下に入らなかった。こちらの方は取材に応じてくれず、その内容はわからないが、「日本人はほとんどいない」(日本のメーソン)という。

 失敗した天皇入社
 
 日本人のフリーメーソン創設期の事情を知る一人に芝金平氏(朝日イブニングニュース社相談役)がいる。「私とか村山有さんなんかが始めたとき、日本人はほんの五、六人でした。フリーメーソンということではなく、日米親善の組織として集めました。当時、水交社にアメリカのメーソンがたむろしており、中心人物はマイク・リビイスト氏たちだった。彼らから日本人のメーソンを作らないかと話があり、村山有さんがGHQにかけあいに行き“宗教団体としてならよろしい”となりました。それで私らが日本のメーソンの発起人になり、東久邇宮さんとか主だった人々を集めたのです。私たち初期メンバーは一位階のメーソンでしたが、一晩で昇進させられました。英語で儀式用語を暗記するんですよ。今は日本語でいいが当時はあくまで英語でした。それから水交社を払い下げてもらったが、これは正確にいうと“盗んだ”みたいなもので後に水交社側と示談になりました。マイク・リビイストたちが仕組んだことです。そういうやり方が私はおかしいと思ってトルーマン大統領がメーソンだというので直訴したんだ。すると日本のメーソンはフィリピンの管轄下だからそちらへ言えと返信がきた。そしてフィリピンから調べにきたが、結局ウヤムヤになってしまった。日本人のメーソンといったってコントロールしていたのは一部の外人でした。イタリア人のリビイストとかが水交社ビルを使って金儲けをしており、“話が違うじゃないか”と私はやめました。当時、日米親善といえばみんな乗ってきましたし、東久邇さんや鳩山さんにしろ他の政治家の多くもうまいことがあると思って集まったのですよ」。

 フリーメーソンの高尚な教義にもかかわらず、日本人メーソンも外国メーソンの指導者たちもかなりいかがわしい行状があったようである。フリーメーソンを日本で定着させ、拡大させるには天皇の入会がキー・ポイントであった。前出の宮中工作と同時期、日本人メーソンの笠井重治氏のもとにもマッカーサー元帥からの次のような要請があった。「マッカーサーから手紙がきて“メーソンのアジアというものを作りたい”といわれた。私は“いいと思う。日本ではメーソンは誤解されているが、世界との友情に必要だ”と答えた。するとマッカーサーが、“重要な会合なので天皇を加えたい”という。私は“それは無理だが皇族なら何とか”と答え、当時総理大臣だった東久邇宮を訪ねた。マッカーサーがフリーメーソンに天皇や皇族を加入させたいという意図は、日本の支配者だからというものでした。私が当時無理だといったのは、フリーメーソンへの悪いイメージがあったからで、今ならおかしくないし、反対もしません。東久邇さんのもとへはリビイストを連れていって話をしました。東久邇さんが入会してから二、三年後、佐藤尚武、植竹悦二郎他が入会したが、みんな私が説得したんですよ。

 もう一方では芝金平さんが日本人メーソンを集めていました。ちょうどそのころ、アメリカの将校たちが旧海軍の水交社にいたので、私が日本政府に交渉して日本グランド・ロッジにしたのです」(笠井重治氏の話)。笠井重治氏は山梨県出身の代議士で、1950年1月7日入会、No.2ロッジに属した。国際産業(株)社長、日米文化振興会会長、フィリピン協会理事などをしている。戦前、シカゴ大政治学科、ハーバード大学院を卒業、親米派の人物だ。『マッカーサーの二千日』(袖井林二郎)によれば、笠井氏は戦後すぐGUのウィロビー部長への有力な情報提供者であり、占領政策の「友好的日本人」と評価されていて、マッカーサー元帥とも知人であった。また、マッカーサーの記念館を作ろうとの運動を起した人物でもある。笠井氏の話では、「メーソンの資格はこれといってないが、戦前の日本人でメーソンになれる人は少なかった。アメリカでは銀行の頭取とか社会的有力者ばかりが入会していました。私がマッカーサーと話して日本のメーソンを独立させたのです」ということである。

 芝金平氏、笠井重治氏の談話にも二度名前が出てくるマイク・リビイスト氏とは前出の天皇入会の宮中工作を担当していたメーソンの大物だ。1949年にアメリカからフリーメーソンの視察官として来日、マッカーサー元帥の腹心の軍人(大尉)であった。天皇工作がなぜ実現しなかったかについて、次のような推測がある。「天皇とフリーメーソンを接近させたくない勢力があってマイク・リビイストの行状を洗って警察にたれ込み、事件を作った。推測ですが、私は当時、天皇の入信工作をしていたバチカンとCIAが臭いと思う。フリーメーソンに詳しい人は反フリーメーソンとしてバチカンをあげます。マッカーサー元帥もプロテスタントですし、プロテスタントは親メーソンです。また“犯人”は日本の右翼勢力かも知れません」(当時の新聞記者)。この事件とは『読売新聞』昭和29年9月15日付の記事である。リビイスト氏がキャノン少佐帰米後の莫大な日本での“隠匿私財”の管理人、シヤタッタ軍曹を可愛がり、フリーメーソンの32位階にしたが、警察はリビイスト氏とシヤタッタ軍曹の関係を洗っているとの内容だ。その後、リビイスト氏はメーソン内部でも問題になり、沖縄に“追放”されたという。天皇の入会工作が成功していたら、「日本のフリーメーソンは創立当初と余り変わらない勢力ですが、天皇が入っていればみるみる大きな力を持ったでしょうね。政財界人などがこぞって入会したでしょうから」(矢野文雄氏。翻訳家、メーソン)
といまだ残念な口ぶりである。

 天皇への入会工作は戦後占領期の混乱のなかで の一時的なことだったのであろうか。この問題は同時期のキリスト教の布教を喜んだマッカーサー元帥の政策と似ているかも知れない。東久邇宮の終戦内閣でキリスト者の賀川豊彦氏が閣僚に入り、総理大臣を待望されたり、翌47年の片山哲内閣誕生で、マッカーサー元帥が、「歴史上はじめて日本がキリスト教徒によって指導されることになったのは特別に重要だ。キリスト教は圧政を求めるイデオロギーに対する無敵の精神的砦である」と歓迎声明。マッカーサー元帥にとってキリスト教とフリーメーソンはともに、日本人のイデオロギーを変える自由と民主主義の文明だったからである。
 フリーメーソンの宮中工作

 村山氏の本からもう少し続ける。鳩山一郎氏は公職追放中だったが、マッカーサー元帥の肝入りでフリーメーソンの門戸が開いたと聞き、村山氏を訪ねて入会を希望、「フリーメーソンの精神を日本人にも大いに理解させなくてはいかん」と大変に力を入れた。やがて公職追放がとけ、総理大臣になるとメーソンの第3位階に昇進、水交社で200人近いメーソン兄弟の祝福を受けた。そのとき鳩山氏は次のようにあいさつした。「戦後日本において幾多の社会的変化がありました。そのなかでフリーメーソンの門戸が開かれたことは最も大きな出来事であります。私は世界幾多の指導者や元首が対等の資格で会員であるフリーメーソンの一員として、日本グランド・ロッジの年会に出席する機会を光栄に思います。フリーメーソンが民主主義精神の根本を教え、アメリカの独立をはじめとして自由と平和のために闘ってきた数多くの先覚者は、みなメーソンでした。この友愛精神が新しく日本をもつなぐ大きな力となったことを考えましても、この精神を讃えずにはいられません。マッカーサー元帥は私ども日本人にこの友愛結社の門戸を開き、また占領軍の多くのメーソンは実際に兄弟愛の何物であるかを実践してくれました。占領初期から今日に至るまでのマッカーサー、リッジウェイ、クラーク、ハル、レムニッツアならびにアリソン大使は、いずれもメーソンであります。日本にこの会が結成されて数年を経ていますが、この間に日本語のみの関東ロッジが認められたことを喜ぶものです。4000年の歴史を有するフリーメーソンが日本で実を結んで、今日に至ったことを誇りに思います」(昭和31年6月5日)。

 村山氏があげている初期の日本人メーソン(前出の他)では、浅地庄太郎(日本ビルサービス株式会社社長)、二宮順(朝日新聞記者、ボーイスカウト運動)、李垠(旧皇族の李王)、東ヶ崎潔(1950年入会、No.2。ジャパンタイムズ社長、ボーイスカウト運動に活躍、ロータリー・クラブ国際会長。1960年日本のグランドマスター)、植田優、吉井寿雄(貴族院議員吉井勇の息子、松本滝蔵の親族)、武田修、島内敏郎(外交官、サンフランシスコ講和会議の委員)、長田政次郎、北川正恵、小田春海、犬丸徹三(元帝国ホテル社長)、堀内貞一 (神奈川菱油取締役、新日本産業設立、社長。1959年日本のグランドマスター)、山本勝夫、増山吉成がいる。

 村山氏も述べているように日本のフリーメーソンは、マッカーサー元帥はじめ占領軍高官とアメリカの戦後政策(新日本建設)が合致して強力に推進させられたと考えられる。“フリーメーソン・ライブラリー”所蔵の『日本のフリーメーソン百年史』(日本グランド・ロッジ編)の中でもそのあたりの“政治の裏面”が記録されている。以下、同書にそって追ってみたい。「フリーメーソンに対する嫌悪感を生ませた軍国主義者のやり方を私はアメリカのメーソンに説明した。アメリカのメーソンの人々は、日本の若い世代の心にヒューマニティとデモクラシーの精神による日本の再建策として非常に重要な戦後計画であるスカウトを支え、援助することを日本の指導者と政府の役人に約束した。私はフリーメーソンの真実の姿を、日本の皇族とトップ・リーダーに紹介するために働きかけた。そして東久邇宮(天皇の叔父、戦後の首相)が兄弟、友愛の真実を学ぶためにフリーメーソンの“忠実な奉仕者”になることを表明した。彼は少数の日本人希望者と共に、加入申請書を出し、最初の日本人となった。プリンス・李垠(夫人は皇后のイトコ)も私どもと共にメーソンとして歩んでいる。このことが佐藤尚武、高橋龍太郎、鳩山一郎、河合弥八、三島通陽ら日本人リーダーを含む人々の入会を納得させるのに役立ったのである」(同、1955年、ワーナー・P・シュトリング氏記述、日本のメーソン指導者)。

 マッカーサー元帥は、フィリピン管轄下の日本のフリーメーソン組織をフィリピン側の反対を押し切る形で独立させる働きをした。 「日本人にまかせるようにしなければいけない」と考え、そのため日本人フリーメーソンを「これこそ一晩で上級位階にする処置を取った」(芝金平氏。後述)。日本のフリーメーソンを発展させるため、マッカーサー元帥はまず皇族を入会させ、次に日本の指導層を獲得、最後に天皇を会員とする腹であった。戦前からアメリカのメーソンで日本通の人々は、「アメリカ人に対し、天皇を理解せよ」と説いたが、今度は天皇の方からフリーメーソンに対して「大いに興味を持たれた」という。天皇の耳にフリーメーソンを吹き込み、勧めたのは次の人々である。「日本のエンペラーに接近するため皇族の東久邇宮、李垠、宮中の伯爵と男爵、政府のトップに接近した。1949年頃である。この工作を小松隆、三島通陽が二年前から行なっていた。工作の中心はマッカーサー元帥が中心で、アメリカ側にも働きかけていた。天皇への工作は、反共政策とフリーメーソンの普及を同レベルで位置づけるためである。メーソンでは、リビイスト他がこれに当たっている」(同)。

 宮中の伯爵と男爵とは、村山氏によれば英国のフリーメーソンであった松平恒雄氏(宮内大臣、衆院議長、伯爵、元駐英大使)と幣原喜重郎(元首相、男爵、元駐英大使)の二人であった。松平恒雄氏は1950年4月、マスターメーソンの最高階級のミーティングに出席、「私はよくメーソンを知っている。人類愛、同胞愛があり、それを尊重している。破壊からこの世界を救うのは、フリーメーソンのみであると信じています。マスターメーソンの崇高な会議に出席できたことを喜びます。マッカーサー元帥がとくに日本のフリーメーソンに好意を寄せ、門戸を開いた。日本の社会革命は疑いのないところです。そして日本に自由と平等と兄弟愛が訪れるわけで、すばらしいことです」(同)と熱烈な言葉を贈っている。幣原喜重郎氏も列席者として、「私はロンドンで日本大使の林董(メーソン)から聞き、引きつけられました。私は加入することを望んだが入会する前に任地を離れ、残念でした。日本ではフリーメーソンは、破壊活動をする団体とみられていましたので、日本人は加入を禁じられていましたが、マッカーサー元帥が日本人にメーソンを開き、ありがたく思ってます」(同)と語っている。

 フリーメーソンとは、「宗教を基礎にしたいろんな有神論者が集まる団体」(北村安忠氏。1980年グランド・マスター)である。だから、大局的にみれば全世界の多様なフリーメーソンは有機的な“世界反共同盟”ともいえるのだ。この意味を正直に語っているのが1955年の同書の次のような記述であろう。「5月25日、鳩山一郎、河合弥八の二階級の昇進が行なわれた。河合は東京テンプルで午前8時、特別グランド・ロッジが作られ、私どもの代表団により組織された、選ばれた比国代表のグループと地区グランド・ロッジの4人の主だった役員、東京ロッジ、関東ロッジの主だった役員、そしてブラザー・ハル将軍、ブラザー・マックノートン将軍、ルースト将軍が特別ゲストとして出席。もう一方では、臨時に作られた祭壇がおかれている鳩山邸で午前9時から厳粛な儀式が始まった。午後4時、ブラザー・河合と鳩山は日本のすべてのメーソンとその婦人と共に東京テンプルでのティー・パーティーに招待され、祝福された。特にマッカーサー元帥、ハリー・S・トルーマン前大統領のような著名なメーソンからの祝辞が披露された。ブラザー・鳩山はメーソンの兄弟愛に深く感動し、これからのどんな活動もフリーメーソンの教えに導かれるであろうと私たちに語った。ブラザー・河合も、同じく世界の平和を得ることが、唯一の人類の願いという私たちの友愛精神の崇高な意志を高く評価すると表明した。5月28日、午前9時、私どもの代表団は司令部でブラザー・ハル将軍に迎えられた。そして、極東における共産主義の潮をくいとめることが、フリーメーソンの重要点であるとの見方を交した」(同)。

 「東海アマブログ」の2019.4.9日付けブログ「渋沢栄一とフリーメーソン」。
 2019年、4月9日、紙幣のデザインを一新し、1万円札に渋沢栄一、五千円札に津田梅子、千円札に北里柴三郎を採用することが公表された。日本の紙幣は、フリーメーソンによる支配の象徴図形が描かれていると言われていて、採用される肖像は、フリーメーソン関係者であると噂されている。現行紙幣の1万円は福沢諭吉、五千円は樋口一葉(2004年まで新渡戸稲造)、千円は野口英世(以前は夏目漱石、伊藤博文)、樋口一葉以外はいずれも日本フリーメーソン創始に関わった人物である。樋口一葉も、女性の社会進出を象徴する人物としてメーソンの思想に関連して選出されたようだ。同じ意味で、次の五千円札肖像である津田梅子も、アメリカに留学し、メーソンの提唱するグローバルスタンダードの普及に力を尽くしたとして評価されたのだろう。夏目漱石も英国留学の経験があり、グローバルスタンダード思想に合致する人物といえる。

 福沢諭吉= http://suinikki.blog.jp/archives/
75039374.html

 新渡戸稲造=ホプキンス大学への留学経験 品川ロッジ創始者ともいわれる
 樋口一葉=http://cucinatto.com/post-1260/
 野口英世=  https://urbanlegend-jp.com/blog/
freemasonry-person-05/


 フリーメーソンは、ロスチャイルドが支配するユダヤ系のグローバリズム団体であるといわれていて、ユダヤ人が支配する国家の紙幣には、必ず、彼らの神であるプロミデンス=ルシファー=サタンの眼がピラミッドとともに描かれているといわれる。メディアは、ちょうど、フクイチ原発事故による健康被害と同じように、「触らぬ神に祟りなし」とばかり、フリーメーソンに関する詳細な内容の報道を避けていて、実態は秘密に包まれている。しかし、その背後、歴史には、恐るべき人類史の闇が隠されていて、ユダヤ教=旧約聖書と深い関係がある。

 コンパスと定規で作られた上下の三角形は、石工の測定用具であり、六芒星(イスラエルの国章=ダビデの星)の疑似マークといわれユダヤ人表す。真中のGはGODとされるが、彼らの本当の神は、プロミデンス=ルシファーである。コンパスはピラミッドを表すともいわれ、Gは「すべてを見抜くルシファーの眼」ともいわれる。またグノーシス「透徹して見抜く見識」の意味もあるようだ。

 これが最も歴史が古く有名な、アメリカの1ドル札。ピラミッドに描かれた眼は、ユダヤ人の先祖がエジプトでピラミッド建設の石工奴隷として使役されていたこと、それを見守るユダヤ人の神であるプロビデンス=ルシファーの眼が描かれ、彼らがモーゼに連れられてシオンの地に脱出する故事から採用されたと思われる。これこそ、ユダヤ人石工が作ったフリーメーソンを象徴する図柄である。

 (メーソンは、テンプル騎士団から派生したバッキンガム宮殿建設の石工が作った同業者組合という説が流布されているが、それはずっと後のことで、本当はピラミッドの石工、バビロニア石像建築の(バビロン捕囚)ユダヤ人石工たちのものである) 
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%
83%AA%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%
82%BD%E3%83%B3


 メーソンは、国家権力を利用した活動は行わない。表には絶対に正体を見せず、陰で、地元の有力者を取り込んだ社交団体・経済団体を設立して人脈を作り出し、いつのまにか、国家の中枢に入り込み中央銀行を支配する。メーソンに支配された中央銀行(FRBや日銀)の発行紙幣には、メーソン、がその国の経済を支配したことを示すマークが印刷されるのである。

 日本では、1779年から東日本インド会社・在日オランダ商館長として滞在したイサーク・ティチングが最初に来たメーソンと言われている。1860年代、トーマスグラバーが原型組織を創設し、岩崎弥太郎・坂本龍馬・福沢諭吉らを取り込み、鹿鳴館という上流階級経済人の社交サロンを作り、この種の特権階級団体に隠れながらメーソン組織を拡大していったと言われるが、これについてはメーソンとの関係を否定する見解もある。(グラバー邸の隣にあるメーソン石標は、長崎市が設置したものでグラバーとは無関係という)

 アメリカが、ドル札によって最初にメーソンの支配宣言を受けた理由は、アメリカという国が、欧州の清教徒によって作られた国であり、清教徒の正体は欧州で迫害を受けていたユダヤ人だったことで、「アメリカはユダヤ人の国」と世界に宣言する意味があったと考えられる。日本通貨に最初にメーソンを意味する形象が現れたのは、おそらく旧5000円札(新渡戸版)に印刷されたシナイ山だと思うが、まだまだ隠された形象があったかもしれないい。
 
 上の写真は、新渡戸5000円札の裏側を上下反転させたものだが、岡田紅葉撮影の富士山が、本栖湖の湖面に映ると、まったく別の山になっている。これは、モーゼの出エジプト記のルートとなったシナイ山だといわれている。しかし、セム族の祖先であるノアの漂着したアララット山(左右反転)にも非常に似ている。もしも、アララット山だったなら、それはユダヤ人を意味する形象ということになる。

 このサイトでは、日銀券に隠された、さまざまの秘密が、分かりやすく述べられている。
 http://cucinatto.com/post-1202/

 https://xn--japan-9t2hu30gsg3fz4l.com/archives/4314

 日銀券、千円札に印刷されたメーソンの、「ピラミッドとルシファーの眼」
 千円札の野口英世の左目を透かして見ると、ピラミッドとルシファーの眼が浮かび上がる。これはメーソンが日銀を支配したとの宣言である。

 https://urbanlegend-jp.com/blog/freemasonry-person-05/

 フリーメーソンとは何か?
 参考サイト https://sekirintaro.com/freemasonry/

 表向きの基本理念は『自由、平等、友愛、寛容、人道』という友愛団体、つまり慈善団体ということになっている。会員数は全世界で600万人、日本には2000人くらいといわれ、いわゆる上流階級である議員・病院経営者・司法関係者・地方有力者・大企業経営者などを中心に勧誘されていて、その入会条件は、@18歳以上の男性(女性否定)A一定以上の収入(私は排除される)B身体障害者でない(これも差別と偏見)C宗教(至高の存在)を信仰してる(麻原彰晃も入会してたのか?)D既存会員2名以上の推薦と、なぜ女性団体がピットブルのように噛みつかないのか不可解だ。

 上に羅列した入会資格から、もの凄くお高く止まった差別大好き組織だと分かるが、組織には33階級あって、厳格に身分を区別していると噂される。
 https://golden-tamatama.com/blog-entry-1294.html

 北朝鮮の54階級身分差別ほどではないが、人に序列をつけないと我慢できない人々の集団であるらしい。基本的にメンバーは非公開だが、最近、高須クリニック院長が入っているとの情報が書かれている。鳩山兄弟がメーソンというのは昔から有名だった。このメンバーを見れば、なるほどとしか言えない。
 https://withnews.jp/article/f0170110002qq
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 庶民でも入れるこのゾーンを総称して『ブルーロッジ』と呼ばれている。
階級1 Entered Appprentice(徒弟)
階級2 Fellow Craft(職人)
階級3 Master Mason (親方)
 スコティッシュ・ライトという関連組織ではプラス30階級、ヨーク・ライトでは9階級の上位階級用意されている。これらを総称して『レッドロッジ』と呼ぶ。庶民が入り込めない、フリーメイソン中枢メンバーの称号だね。
階級4 Secret Master (秘密の親方)
階級5 Perfect Master (完全な親方)
階級6 Intimate Secretary (親密な秘書)
階級7 Provost and Judge (主監と判事)
階級8 Intendant of the Building (建物の管理者)
階級9 Elected Master of Nine (選ばれた9人)
階級10 Illustrious Elect of Fifteen (選ばれた15人)
階級11 Sublime Elect of the Twelve, or Prince Ameth (選ばれた12人)
階級12 Grand Master Architect (建築の大親方)
階級13 Royal Arch of Enoch, or Royal Arch of Solomon (エノクまたはソロモンのロイヤル・アーチ)
階級14 Perfect Elu, Grand elect, Perfect, and Sublime Mason (完全なる被選抜者または完全にして崇高な石工)
階級15 Knight of the East (東方または剣の騎士)
階級16 Prince of Jerusalem (エルサレムの王子)
階級17 Knight of the East and West (東西の騎士)
階級18 Knight Rose Croix (薔薇十字の騎士)
階級19 Grand Pontiff (大司教)
階級20 Grand Master of All Symbolic Lodges (象徴的ロッジの親方)
階級21 Noachite, or Prussian Knight (ノアの末裔またはプロイセンの騎士)
階級22 Knight of the Royal Axe, or Prince of Libanus (王者の斧の騎士またはレバノンの王子)
階級23 Chief of the Tabernacle (幕屋の長)
階級24 Prince of the Tabernacle (幕屋の王子)
階級25 Knight of the Brazen Serpent (青銅の蛇の騎士)
階級26 Prince of Mercy, or Scottish Trinitarian (恩寵の王子)
階級27 Knight Commander of the Temple (殿堂の指揮官)
階級28 Knight of the Sun, or Prince Adept (太陽の騎士または熟達した王子)
階級29 Grand Scottish Knight of St. Andrew (スコットランドの騎士聖アンドリュー)
階級30 Knight Kadosh (カドシュの聖なる騎士)
階級31 Grand Inquisitor Commander (大審問長官)
階級32 Sublime Prince of the Royal Secret (王者の秘密の至高の王子)
階級33 Grand Inspector General (最高大総監)

 4〜14のクラスは、主にマスメディア、国際的な法律機関に関わる人たちが多い。15〜18のクラスではノーベル財団、国際人権擁護委員会、全米アカデミー、エスペラント団体、ローマクラブなど、科学、社会思想関係の分野で活躍しているフリーメイソンメンバー。19〜29のクラスでは、国際連合、外交問題評議会、赤十字、ユニセフCIA、EU、NATO、IMF、BISなど政治経済の分野で影響力を持っている国際機関で活躍するフリーメイソンメンバー。30〜32のクラスでは、ユダヤ、キリスト教を中心とした宗教関係の主要機関に関わるフリーメイソンメンバー。最上層部に位置する人たちとはロスチャイルド家、ロックフェラー家、モルガン家、フォード家、デュポン家、カーネギー家、モービル家など(ほとんどユダヤ人巨大富豪ばかり)

 フリーメイソンの原型となったと言われる『テンプル騎士団』は、11世紀後半、十字軍遠征のために結成された。はじめは聖地エルサレムへ向かう巡礼者を守るために結成された組織だった。現金を持ったまま巡礼の道を移動するのは危険なので、今でいう銀行システムを世界で初めて作ったと言われている。この金融業によって、資産と権力を莫大に増やしていった。実は、この種の「金融業」というのを世界で初めて実現していたのが、新約聖書に出てくる律法主義者=パリサイ人たちであり、その末裔であるサバタイ・フランキスト派と呼ばれるなかにロスチャイルドやモルガンが含まれていた。
 https://sites.google.com/site/uranenpyou/frankist

 彼らが「金貸し」を始めたのは2000年以上も前で、当時、キリストがこれに激怒し、何度もパリサイ人に殴り込みをかけたことが新約聖書にたくさん記載されている。「金貸しユダヤ人」は、当時から法外な利息をとって、人々から憎まれていた。フランス国王のフィリップ4世によって咎められた騎士団のメンバーは、スコットランドへと渡る。そして石工職人(ギルド職人)としてスコットランドに渡ったテンプル騎士団の生き残りは、バッキンガム宮殿の石造などに関与し勢力を築いた。元々、ユダヤ人には、ピラミッドやバビロン空中庭園以来の精密巧緻な石造技術があった。メーソン石工たちは、アメリカでも多くの有名な石造建築を作り出した。大統領官邸ホワイトハウス、米国会議事堂。

 日本の国旗が四角と円の組み合わせで作られていることも、四角を描くのに必要なものといえば定規、円を描くのに必要なものがコンパス、つまり、日本のシンボル『日の丸』がフリーメイソンのシンボル『定規とコンパス』からとられた疑いもある。日本の他にも、パラオ、ラオス、バングラデシュなど日の丸が国旗に描かれている国はあるが、最も古い歴史を持つ国が日本である。なお、通貨紙幣に「ピラミッドとルシファーの眼」で構成されるフリーメーソンマークが描かれている国は、他にもあるらしい。以下は、ウクライナの紙幣。ウクライナはメーソンが支配したとの宣言であろう。

 フリーメイソンに関係した秘密結社『イルミナティ』

 フリーメイソンはあくまでも友愛団体であるのに対してイルミナティは悪魔教崇拝者たちの集まりであり、フリーメイソンを隠れ蓑として使いながら、各分野の多国籍企業、銀行、教育機関、政府機関にまで入り込み、富と権力を拡大し続けているといわれる。ビルダーバーグ会議は、イルミナティ主催とも噂されるが情報が少なくて、詳細不明である。全世界のユダヤ教徒の利権を守るための秘密会議との噂もある。

 さて、遅ればせだが、新一万円札に採用される渋沢栄一も、フリーメーソンメンバーであったといわれる。彼がメーソンでなければ誰がメーソンか? と思われるほど、高橋是清と並んで、メーソンらしいメーソンである。ついでに、連合艦隊司令長官・山本五十六や、硫黄島の最期を飾った栗林忠道中将もメーソンであった。つまり、太平洋戦争は、日米のメーソン同士の戦いという側面もあった。自民党による軍国化が加速すれば、やがて彼らも円札モデル候補になるだろう。

 渋沢栄一は、日本の資本主義の父と呼ばれている。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%
B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80


 明治政権草創期から、年下の高橋是清とともに日本経済の基礎を作り出してきた。その業績は広大で、福沢諭吉などより、よほど一万円札にふさわしいモデルであった。渋沢は、ロスチャイルドと密接な関係を持ち、メーソンによる経済支配の根幹に位置する中央銀行=日銀を創設した人物である。
  http://takao-sato.seesaa.net/article/170491931.html

 もしも、野口英世の千円札の「ルシファーの眼」や、新渡戸稲造の五千円札のシナイ山(アララット山)が秘密裏に描かれた原因を作ったのは誰かと問えば、それは渋沢栄一であると答えなければなるまい。つまり、メーソンの大本命が、いよいよ一万円札を飾ることになるのだ。

 津田梅子や北里柴三郎が選ばれた理由も、メーソンのグローバリズムにふさわしい人材という意味であろう。また、日本通貨の円札を全部足せば、18000円=10000+5000+2000+1000
 2000円札なんて百害あって一利もない、五千円札と間違えて、どれだけ悔しい思いをさせられたか! 馬鹿げた額の札が無理矢理、流通させられた本当の意味は、それがないとメーソン=ユダヤ教の神秘数である18000にならないからである。硬貨の総計が666円=500+100+10+5+1 なのも、完全に計画された数字である。それは、ユダヤ教メーソンによる「獣の数字」(ヨハネ黙示録)であって、通貨のすべてを足すと18666円になる。これはフリーメーソン日本ロッジの設立が1866年6月だったからである。つまり、これも、日本経済をメーソンが支配していると宣言しているのだ。

 これらの絶対に偶然でありえない、通貨紙幣にまつわる奇っ怪な事実は、すべてフリーメーソン=ユダヤ教が、日本のすべてを経済的に支配しているぞという宣言でしかない。日銀が、常識では信じられないほど、むちゃくちゃな株投機への介入を続け、「五頭の鯨」とともに日本国民の資産を100兆円近くもドブに捨てている理由も、すべて背後にメーソンの思惑、すなわちロスチャイルドの思惑があると考えるべきだろう。








(私論.私見)