CIA史

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここでは、CIA史を検証する。

 2007.11.4日 れんだいこ拝


CIA

CIAとFBIと諜報組織の成り立ち
OSSドノヴァン長官とCIAダレス長官
CIA長官・副長官リスト及びペルーの武器取引
CIAの日本スパイ活動

2004/ 1/30 CIAの日本スパイ活動 UP
2001/ 7/25 CIA長官・副長官リスト及びペルーの武器取引 UP
2001/ 7/29 CIAとFBIと諜報組織の成り立ち UP
2001/ 7/31 OSSドノヴァン長官とCIAダレス長官

 このHPで取り上げる情報は、軍需産業を支える最大の組織が諜報機関であることを証明しており、とりわけアメリカには強力な諜報機関が存在して、工作員が世界中に配置されています。ところがそのアメリカのスパイの元祖は、雷雲の中に凧をあげて、雷が電気であることを実証したあの有名なベンジャミン・フランクリンだと言われてきました。様々な歴史的文書の調査結果では、フランクリンは一時イギリスの諜報エージェントとして活動し、時にはジャクソン、時にはジョンソン、ニコルソン、またある時にはワトソンなどの名前で署名したことが判明しています。アメリカからフランスに大使として派遣された時には、イギリスが彼のことを「エージェントNo72」と呼ばれていました。彼は何をスパイしていたのでしょうか。

 フランクリンは独立宣言の草案をつくり、アメリカをイギリスから独立に導いた人です。あたかも2000年前のキリスト教徒が、ローマの暴君ネロの目を逃れて集会を持ったように、イギリス・バッキンガムシャーの教会にもうけられた洞窟で、フランクリンはヘル・ファイヤクラブ(地獄の業火倶楽部)という奇怪な秘密組織のメンバーとして活動していました。彼らはクー・クラックス・クラン(KKK)のように白いマスクをつけて、互いに顔が分からないようにして集会を持ち、この会の創設者は大蔵大臣のフランシス・ダッシュウッド卿で、会員には、当時の上流階級のサンドウィッチ卿から首相までそろっていたと言われています。事実上、この秘密結社がイギリスのシークレットサービスとなっていました。

 イギリスとフランスが犬猿の仲にあったため、フランスから信用されていたフランクリンは、手に入れたフランスの情報をイギリスに渡していましたが、ところが彼はそこで得た情報をアメリカにも送って、裏では独立戦争でアメリカが有利になるよう工作しました。彼の優れていた才覚は、この秘密組織に加入する事によって、最終的にはアメリカの独立を認めさせるようイギリス人との友好関係を築いて、見事にその目的を果たしたことにあります。

最高と言える哲学を持った「2重スパイ外交員」、それがベンジャミン・フランクリンです。

 一方彼は、このやり方には重大な欠巻があることにも気づいていました。フランクリンがイギリスに与えた情報によって、戦争中にアメリカの商船が被害を受けたこともあったからです。

 007ジェームス・ボンドの先人たるスパイに相応しく、女性関係も多彩と言われています。彼の隠し子ウィリアムがニュージャージー州知事に就任したり、奴隷制廃止論者として活動したルイス・タッパンの大伯父がフランクリンであったり、膨大な数の親類縁者がアメリカを動かしてきました。初代郵政長官ベーチェ、財務長官ダラス、副大統領ダラス、財務長官ウォーカーなどが、みなフランクリンの近親者です。20世紀に入ると、ボルティモア鉄道社長ウォルター・フランクリンを筆頭に、ルーズヴェルト汽船副社長ジョン・フランクリン、富豪ヴァンダービルト、ブラウン・ブラザース・ハリマン幹部、真珠湾攻撃の時の日本大使ジョゼフ・グリュー、さらに現代では「シェーン」のジョージ・スティーヴンズ監督、石油王ポール・メロンらもフランクリンの閨閥から登場しています。

 このフランクリンが諜報活動をおこなったおかげで今日のアメリカがある、と情報の重要性を宣伝に利用するのがアメリカ中央情報局CIAです。ですが彼らがその名に使用した「情報」は、IT革命の情報ではありません。ITは information technology の略なので、ただものごとを伝達する技術であって、CIAは Centeral Inteligence Agency の略であり、知恵を意味する中央参謀本部だと彼らは位置付けました。

 アメリカのスパイ活動の歴史は、建国当初から、ワシントン、ジェファーソン、フランクリンたちが、スパイ活動を重視した時に始まります。さらに南北戦争では、北軍の雇った私立探偵アラン・ピンカートンがリンカーンの要請で連邦シークレットサービスをヴァージニア州に設立され、これが、国としての組織的な諜報活動のスタートとなりました。ところがピンカートン探偵社大物エージェントが南軍に捕らえられて縛り首となり、南軍の女スパイ、ベル・ボイドのほうが活躍して、戦争中のピンカートンは軍事的な成果をあげることができずに、戦争終了後はKKKとの戦いで活躍しています。ピンカートン自身は、昔から奴隷制廃止論者として活動していました。

 しかし、北軍の奴隷廃止論の根拠は、今日考えられるような人種差別撤廃という博愛的なものではありません。
 南部では、綿花などを生産する農業州が黒人労働者を大量に使っていたのに対して、北部は機械、鉄、石炭を生産する工業地帯を多く持ち、工場では低賃金の白人労働者を柱にして操業しています。


その白人労働者が賃上げを要求するので、資本家たちは南部の黒人奴隷を開放すれば
もっと安い賃金労働者を生み出して、失業を恐れる白人労働者も黙らせることができると考えました。


 これが「南北戦争」の始まりです。
 リンカーン自身も、南北戦争に突入してようやく一年半後、南部の黒人を味方につければ戦争に勝てるという半ば功利的な目的で、1862年9月になってから奴隷解放宣言を出しました。その後のピンカートン・ナショナル探偵社は、主に鉄道会社から大きな出資を受けて強盗被害を防止するビジネスを以来されて、アメリカだけでなく、『シャーロック・ホームズ』の作者コナン・ドイルからも高い評価を受けるほど、世界にその名を知られるようになっています。私立探偵ではなく、アメリカの国家警察、それが20世紀初頭のまでのピンカートン社でした。

 出資者には、19世紀の鉄道で暴利を貪る実業家が多数存在しました。その依頼人からは優秀だと評判をとりましたが、市民の秘密をあばくのに悪辣な手段を取り続けたため、この探偵社は恐ろしいスパイ組織とみなされ、嫌悪されるようになります。特に1892年、ペンシルヴァニア州に起こったホームステッド争議で、その悪名は全米に轟きました。過酷な労働と安い賃金に耐えかねたカーネギー製鉄のホームステッド工場の労働者たちが決起してストライキに入り、全米を揺るがす争議に至った時に、後にカーネギー製鉄会長となるヘンリー・フリックがピンカートン探偵社の私立探偵を雇い、ストを解散させるよう命じられた人間たちは武器を持ち、ついに10人の死者を出す大事件となります。

 この事件があってから、鉄鋼業界では1937年まで半世紀近く、労働組合を組織する事を禁じられました。

 一方、海軍と陸軍に公式の情報機関が設立されたのは1880年代で、彼らがヨーロッパ各国に表向き外交官として配置され、1898年に開戦したスペインとの戦争で、この外交アタッシェがスパイに転じて活躍して以来、外交官の顔を持つ諜報機関がアメリカ軍隊の柱となりました。第一次大戦では、アメリカが参戦するまで外国に対する情報収集作業は縮小されていますが、やがて陸軍内部に恒久的な通信情報局が設置されています。

 また、1908年にはセオドア・ルーズヴェルト大統領の命令で司法局に捜査局Bureau of Investingationが設置され、後に彼らが第一次大戦でドイツのスパイ活動をつぶすために活躍しました。これが軍部の情報局と合流して、CIAと並ぶ現代のアメリカ最高位のブレーン、NSC国家安全保障会議へと発展します。大戦後の時代に捜査局長に選ばれたのはウィリアム・J・バーンズで、かつてピンカートンがつくったシークレットサービスに所属した彼は、私立探偵のボスとなり、全米銀行協会に加盟する12000の銀行を警護するウィリアム・J・バーンズ探偵社の社長として全米に探偵を配置して、ピンカートン最強のライバルとなりました。この男が、1921年に私立探偵から転じて国家の捜査局長に就任します。

 バーンズは自分の右腕に、司法長官の特別補佐官を努める弱冠26歳のJ・エドガー・フーヴァーという男を採用し、1972年に死ぬまでの48年間、ほぼ半世紀にわたってFBI長官として君臨し、大統領を自在に操る男が、こうして世に出ました。

 これとは別に、1920年代の禁酒法違反者を取り締まる有名な「アンタッチャブル」と呼ばれるエリオット・ネスの別働組織があり、これらは財務省に属してシカゴの暗黒街の帝王アル・カポネと戦い、密売シンジケート撲滅に大きな成果をあげます。そのため、司法省の捜査局はほとんど出る幕はなく、それぞれが独自の活動をしていました。ですが、ハリウッド映画に描かれた正義の組織はほんの一面にすぎません。
 私立探偵社と、軍隊の諜報機関と、司法省の捜査官と、財務省の調査官は、陰湿な個人調査をすることでは一致していたので、ギャング並の暴力をふるって武器を扱い、エージェントは相互に交流し、ホワイトハウスから市長、警察官、裁判官まで賄賂にまみれた時代には、内部の腐敗が最大の問題となりました。

 それが大きく変貌したのは、1924年にフーヴァーが司法省捜査局長に昇進し、獰猛な組織が誕生してからです。
 ギャングの横行に対して、「アンタッチャブル」への競争心に燃えたフーヴァーは部員を強化していましたが、1924年に、前年に急死したハーディング大統領の時代にホワイトハウスの閣僚が石油会社から巨額の賄賂を得ていたことが暴露され、ティーポット・ドーム事件として政界を揺るがす大スキャンダルが起こりました。フーヴァーの上司だったバーンズ当人が、石油生産者のハリー・シンクレアを顧客として、ハーディング内閣の腐敗を放置した張本人だったことが露呈し、1927年には裁判にかけられています。

 1934年に銀行ギャングの大物ジョン・ディリンジャーを射殺して勇名を馳せた捜査局は、


翌1935年に様々な組織と部局を統合してFBI(連邦捜査局)Federal Bureau of Investigationとなり、
フーヴァーが初代FBI長官に就任し、強大な組織に生まれ変わりました


 これを創設した大統領は、捜査局設立者セオドア・ルーズヴェルトの姪エレノアと同族結婚したフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領であり、2人のルーズヴェルトがアメリカ諜報機関の生みの親となります。

 FBIの活動は、銀行強盗、売春、酒の密売、麻薬などを取り締まることであるかのように世間の目には映っていますが、それは警察活動の範囲にすぎす、「諜報機関としてのFBI」の一貫した本当の目的は、別のところにあって、フーヴァーの上司だった司法長官ミッチェル・パーマーが命じた 「無政府主義者と共産主義者の摘発」です。そのためフーヴァーが生み出した手法は、徹底的なファイルの作成にあり、この記録が、アメリカ諜報機関を世界のトップに君臨する恐怖の組織に育てあげました。これが後年、ハリウッドの赤狩りで多数の人間を社会的に抹殺した思想とデータベース誕生の背景であり、ペンタゴンがインターネットを磨き上げる濫觴となっています。

 さらにベトナム戦争時代に至ってFBIは、スペシャルエージェント6700人が部下9300人をかかえて活動する巨大な組織にまで肥大しました。モルガン商会からカーネギー製鉄、エリー鉄道まで、あらゆる産業と金融のガードマンとして立ち働いたピンカートン探偵社が、文字通り資本主義の牙城にある内部組織だったので、その流れを汲んだFBIは、必然的に無産階級やソ連、中国、キューバなどの社会主義国家を敵と位置付け、気に入らない外国の元首を暗殺したり政権を崩壊させる工作が、アメリカ諜報機関の活動原理として定着します。そこに、FBIにとって代わるさらに強大な組織、CIAが誕生することになりました。

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 第二次大戦では、国務長官ヘンリー・スティムソンが「紳士は他人の手紙を読まない」という有名な言葉を語ったにもかかわらず、アメリカは私信を盗む諜報能力で世界的な実力を培っています。第一次大戦以来、暗号解読を進言して、ブラックチェンバー(闇の会議所)と呼ばれる秘密組織をつくったハーバート・ヤードレーと暗号解読の名人ウィリアム・フリードマンらの驚異的な能力によって、日本の真珠湾攻撃は事前に判明していましたが、軍部がこの情報を信用しなかったため、1941年12月に真珠湾奇襲が成功しています。

 この屈辱をきっかけに産まれたアメリカの本格的な軍事用諜報組織は、ルーズベルトが1942年6月に設立した「OSS戦略事務局Office of Strategic Services」でした。大統領からOSS長官に任命されたウィリアム・J・ドノヴァンは、過去にFBIでフーヴァーと同様に司法長官補佐官を務めており、その時代に膨大な個人の秘密情報を握ってニューヨーク州知事時代のルーズヴェルトと深い関係にあったため、この時には高名な弁護士になっていました。ドノヴァンはすでに大統領と相談して全部局の情報を統合する作業を進めましたが、その矢先に真珠湾攻撃が起こったため、OSSを設立することになります。

 後年、彼の部下から、四人のCIA長官、ウォルター・スミス、アレン・ダレス、ウィリアム・コルビー、ウィリアム・ケイシーと、ベトナム工作班を使ってラオス・カンボジア侵攻作戦を指令した国務長官ヘンリー・キッシンジャーらを続々と輩出しました。「ワイルド・ビル・ドノヴァン」と呼ばれたこの男は、スティーヴン・ベクテルの妻の叔父ジョン・シンプソンと軍事情報を交換しています。

 全米一の建設会社ベクテルは、世界中の重要な建築物の図面のコレクションがあり、あらゆる地理・地形の資料をもっています。


湾岸戦争後のクウェート復興で土木・建築事業の大半を請け負ったべクテルや
フランスのブーイグにとって、目的の第一は軍事的資料の収集にありました


 そのデータが輸出入銀行とCIAに送られて、かつてはべクテル・マコーン社の経営者ジョン・マコーンがCIA長官となり、最近では輸出入銀行からバーシェフスキー通商代表やデイリー商務長官が出ており、誘導ミサイルやステルス攻撃機が飛行する山地の地形については、建設会社に代わって鉱山会社がデータを提供してきました。

 ワイルド・ビル・ドノヴァンに資料を提出したシンプソンは、シュローダー銀行副頭取の要職にあって、その幹部からイギリスの国外諜報機関MI6の情報を得ています。彼が銀行業務を遂行するとき最も信頼して契約取引を依頼したのが、ニューヨークのサリヴァン&クロムウェル法律事務所のジョン・フォスター・ダレスとアレン・ウェルシュ・ダレスという、後の1950年代のアメリカを支配する兄弟です。


以来シュローダー銀行とこの法律事務所は一体となって、相互の利益となるように
ビジネスを進めて、OSSドノヴァンとCIAダレスの歴史的な出会いが生まれました


 第二次大戦が終わると、1945年10月にOSSは解体されて、その職務が国務省と陸軍省に移管しましたが、ドノヴァンは中央に集中した情報組織の必要性を感じ、生前のルーズヴェルトに対して、統合参謀本部から独立した、新しい組織の設立を強く直言していました。また戦時中に、各政府部門でばらばらだった諜報組織をまとめた陸軍と海軍の統合情報研究会議が発足していたので、新しい組織の必要性はすでに1943年、陸海軍の情報局とドノヴァンの間で考えが一致しています。

 ところが彼が考えていたのは、その組織が、すべての省の情報を統括して、秘密の行動を独自に実行に移せるという強大な部隊でした。この考えは当然、独自の力を維持したいそれぞれの軍部から猛烈な反発を受けて、FBIも国内の情報を自ら掌握することを望んで強く反対します。 そうしたなかで、ドノヴァンの推奨する組織によって大統領が独裁的な力をつかめると考えたトルーマン大統領はすぐにこれを設立せずに、まず1946年1月に中央情報グループCIG(Central Intelligence Group)を設立し、大統領の代表、国務長官、陸軍長官、海軍長官からなる国家情報局NIA(National Inrelligence Authority)がこれを管轄する事で軍部を了解させて、海軍情報局副局長シドニー・ソーアーズを初代CIG長官に就任させる作戦をとりました。それは、ソーアーズはマクドネル航空機重役となる人物で、軍需産業と深く関わっていたからです。

 かくして軍部を統合することの重要性を彼らに納得させた結果、


翌1947年に国家安全保障法が成立し、NIAとCIGが再編されて、陸軍省、海軍省、空軍省を
統括した国防総省と、国家安全保障会議NSCと中央情報局CIAが7月26日に発足しました


 CIAが9月18日から実務を開始すると、これまでFBIが全般的に掌握していたアメリカ国外の情報収集と諜報活動をCIAが担当する事になり、FBIは主として国内の諜報活動に専念することになりました。ほぼドノヴァンが望んだ通り、CIAが誕生しました。ところがCIAの国家情報調査グループを指揮するダレスは、この生まれたばかりの組織が1年を過ぎても一人歩きできないことに不満を持ち、1949年になってこのグループは国家安全保障会議と共同で、「国家情報は一ヶ所に統括する必要があり、CIAは他の省と独立した機関でなければならない」と強く進言して、国家安全保障法を強化する中央情報局法を成立させることに成功しています。しかしこの法律は恐ろしい内容でした。


CIAは秘密の予算を使うことが許されて、他の省のような出費制限から免除されるという、
とてつもない強大な権限が与えらました


 以後CIAは、あらゆる行為について黙して語らぬようになり、組織も、機能も、高官の名前も、給与も、職員の数さえも秘密にされてしまいました。21世紀初頭のアメリカ政府の情報組織としては、国家安全保障会議と、大統領外国情報諮問会議と、情報監視会議があって、次のような機能を持っています。


★国家安全保障会議NSC:National Security Council
  国内外の政策と軍事戦略を調整・統合するため、大統領に直接助言する組織。1947年の国家安全保障法によって設立された。大統領、副大統領、国防長官、国務長官が参加し、CIA長官と統合参謀本部議長が顧問として参加する。

★大統領外国情報諮問会議PFIAB:President's Foreign Intelligence Advisory Board
  政府外の信頼性の高い人物16人から成り、大統領直属組織としてホワイトハウス内で運営される無報酬のグループ。情報管理政策について、絶えず調査し、適切な作業行われているかどえかチェックしながら、大統領にさまざまな忠告をする。

★情報監視会議IOB:Intelligence Oversight Board
  情報活動の法律的なチェックを行い、大統領と司法長官に結果を報告する。ジェラルド・フォード大統領とネルソン・ロックフェラー副大統領が1976年に設立した組織。


 公式には、これら組織はCIAの上にあり、CIAは政策を立てていないとされています。CIAは大統領の命令に基づき、法律の許す範囲でしか秘密の行動をとることができず、秘密行動を許可できるのは大統領だけで、国家安全保障会議が勧告して初めて行動を開始して、CIA長官が議会の情報委員に報告する事になっています。1981年の法によって、CIAによる暗殺は禁じられました。また業務は、資料収集、データ処理、解析にあり、CIAがアメリカ国民の国内活動について調査することは許されないことになっています。しかしこれは事実とは違うでしょう。
実際に、CIAは絶えず政策を立てて、大統領に勧告しており、絶えず法律を犯し、国民の活動について調査するのがCIAなのではないでしょうか。

 OSSでドノヴァンの将校を務めたニコラス・ディークは、後にCIAの工作資金を国外に秘密送金する金融会社ディーク社をニューヨークに設立します。ディークは1953年にCIA新長官に就任したダレスと組み、イランに巨額のドル札を送金して、べクテル社が武器を現地に供給し始めました。なぜかというとイランでは、国民の人気を独り占めする民族主義者のモハメッド・モサデク首相が、イギリスの石油会社を国有化してしまったからです。その年の8月19日の早朝に、


CIA資金と武器を手にしたイラン人が打倒モザデク」を叫んでクーデターを起こして、
イギリスやアメリカの石油会社に利権を与えるパーレヴィ国王を復権させてしまいました


 ダレスはサリヴァン&クロムウェル法律事務所でスタンダード石油の顧問弁護士であり、特にダレス兄弟が顧問をつとめたアングロ・イラニアン石油(イギリス・イラン石油)は直接イランの利権に関わっており、ダレスはその見返りに、ディーク社に軍需産業を紹介する仲介の労をとっています。ロッキードはディーク社を通じて日本に政界工作資金を送る方法を学び、右翼の政界フィクサー児玉誉士夫に送金し、田中角栄らがそれを懐に入れました。これが「ロッキード事件」のあらましです。

 1961年には、ベルギー領コンゴ独立の父パトリス・ルムンバが暗殺され、ドミニカの独裁者ラファエル・トルヒーヨも暗殺され、国連事務総長ダグ・ハマーショルドがコンゴで飛行機墜落事故のために死亡しました。62年にはケネディー大統領とのスキャンダルが噂された女優マリリン・モンローが死体で発見され、63年には南ベトナムでゴ・ジン・ジェム大統領と弟ゴ・ジンニューが暗殺され、ケネディー大統領が暗殺され、その容疑者リー・オズワルトが暗殺されました。1965年には黒人指導者マルコムXが暗殺され、68年にはマーティン・ルーサー・キング牧師暗殺され、大統領候補ロバート・ケネディーが暗殺されました。

 70年にはチリの護憲派参謀総長ルネ・シュナイダーが暗殺され、73年には同じくチリの社会主義大統領サルバドール・フジェンデ・ゴセンス博士が暗殺され、以後アウグスト・ピノチェト軍事政権下で70万人が拷問にかけられ、数千人が殺され、数万人が行方不明となっています。74年には、高速増殖炉の危険性に気づいた女性労働者カレン・シルクウッドが新聞記者に重要な資料を届けに行く途中ハイウェイで謎の交通事故によって死亡し、資料は消失しました。76年にはキューバ旅客機爆破事件が発生し、キューバはCIAの工作と主張しています。


1960年代のキューバのカストロ首相暗殺未遂事件は、ダレスの
指示によるCIAの工作だったことが判明しています


 ケネディー兄弟もカストロ暗殺計画に夢中になっており、チリのアジェンデ失脚をキッシンジャーが工作したことも公知の事実です。CIAによる第三世界の政府転覆事件と、首相失脚事件は、イラン、グアテマラ、インドネシアを筆頭に、枚挙にいとまがありません。

 FBIとCIAの職務は、国内と国外の活動に大きく分離されていますが、実際にホワイトハウスが取り組むテロリズムや麻薬、軍需、原子力産業に関して、国際問題と国内問題が完全に切り離されることはなく、FBIとCIAは互いに資料を交換し合い、時には各州の警察と組んだ 「三者連携プレー」によって工作活動を行ってきています。

 FBI長官 フーヴァーがケネディー家の過去の「密造酒による収益問題」と「マフィアのマイヤー・ランスキーとのつながり」や「数々の女性関係」を詳しく調べ上げて、ホワイトハウスに入ろうとするケネディー兄弟を脅迫して、リンドン・ジョンソンを副大統領に指名させたと言われています。それに怒った司法長官ロバート・ケネディーがフーヴァーを排除するように、慣例を破ってFBI長官に厳しい態度に出たことはあまねく知れ渡りました。

 一方フーヴァー自身は、同性愛者だったことをランスキーに知られ、マフィアから脅迫される立場にありました。ケネディー大統領と深い関係にあったモンローの死、ケネディー大統領暗殺調査特別委員会に、最も疑惑の濃いダレス元CIA長官が入り、委員会ではオズワルト単独犯行説がむりやり結論づけられ、そのオズワルトは逮捕直後にランスキーと過去に関わりのあるジャック・ルビーによって射殺されています。事件は完璧なまでに闇に葬り去られてしまいました。

 ヴァージニア州ラングレーに、CIA中央情報局の本部があります。国防総省と並ぶアメリカ政府最大級の組織ですが、CIAの予算と職員数は現在も非公開にしてよいとされています。アメリカ政府の情報活動予算は、1997年に初めて公表されて、CIAを含めて97年度に226億ドル、98年度に267億ドル、日本円で約3兆円でした。CIA本部の職員の数は、建物の大きさから推測し、かねてから1万6千人程度であると言われています。CIA長官だったジョージ・ブッシュ副大統領の時代に敷地30万坪の土地に3年間をかけて26階建てのビルが隣接され、1991年に完成し、湾岸戦争直後から実際に使用されるようになりました。

 CIA職員が失業しないためには、常に世界に危機があり、緊張がなければならず、幹部になれば危機情報を操り、大きな裁量権を持つことができる巨大軍事・情報収集予算を、CIA自らに配分させることができます。そこでは、今でもドノヴァンとダレスが神の様に崇められているということです。



  「CIA」の2001/ 7/29CIAとFBIと諜報組織の成り立ち」、2001/ 7/31OSSドノヴァン長官とCIAダレス長官」、2001/ 7/25CIA長官・副長官リスト及びペルーの武器取引」、2004/ 1/30CIAの日本スパイ活動」、「CIA長官・副長官リスト及びペルーの武器取引」
 このHPで取り上げる情報は、軍需産業を支える最大の組織が諜報機関であることを証明しており、とりわけアメリカには強力な諜報機関が存在して、工作員が世界中に配置されています。ところがそのアメリカのスパイの元祖は、雷雲の中に凧をあげて、雷が電気であることを実証したあの有名なベンジャミン・フランクリンだと言われてきました。様々な歴史的文書の調査結果では、フランクリンは一時イギリスの諜報エージェントとして活動し、時にはジャクソン、時にはジョンソン、ニコルソン、またある時にはワトソンなどの名前で署名したことが判明しています。アメリカからフランスに大使として派遣された時には、イギリスが彼のことを「エージェントNo72」と呼ばれていました。彼は何をスパイしていたのでしょうか。

 フランクリンは独立宣言の草案をつくり、アメリカをイギリスから独立に導いた人です。あたかも2000年前のキリスト教徒が、ローマの暴君ネロの目を逃れて集会を持ったように、イギリス・バッキンガムシャーの教会にもうけられた洞窟で、フランクリンはヘル・ファイヤクラブ(地獄の業火倶楽部)という奇怪な秘密組織のメンバーとして活動していました。彼らはクー・クラックス・クラン(KKK)のように白いマスクをつけて、互いに顔が分からないようにして集会を持ち、この会の創設者は大蔵大臣のフランシス・ダッシュウッド卿で、会員には、当時の上流階級のサンドウィッチ卿から首相までそろっていたと言われています。事実上、この秘密結社がイギリスのシークレットサービスとなっていました。

 イギリスとフランスが犬猿の仲にあったため、フランスから信用されていたフランクリンは、手に入れたフランスの情報をイギリスに渡していましたが、ところが彼はそこで得た情報をアメリカにも送って、裏では独立戦争でアメリカが有利になるよう工作しました。彼の優れていた才覚は、この秘密組織に加入する事によって、最終的にはアメリカの独立を認めさせるようイギリス人との友好関係を築いて、見事にその目的を果たしたことにあります。 最高と言える哲学を持った「2重スパイ外交員」、それがベンジャミン・フランクリンです。
 一方彼は、このやり方には重大な欠巻があることにも気づいていました。フランクリンがイギリスに与えた情報によって、戦争中にアメリカの商船が被害を受けたこともあったからです。007ジェームス・ボンドの先人たるスパイに相応しく、女性関係も多彩と言われています。彼の隠し子ウィリアムがニュージャージー州知事に就任したり、奴隷制廃止論者として活動したルイス・タッパンの大伯父がフランクリンであったり、膨大な数の親類縁者がアメリカを動かしてきました。初代郵政長官ベーチェ、財務長官ダラス、副大統領ダラス、財務長官ウォーカーなどが、みなフランクリンの近親者です。20世紀に入ると、ボルティモア鉄道社長ウォルター・フランクリンを筆頭に、ルーズヴェルト汽船副社長ジョン・フランクリン、富豪ヴァンダービルト、ブラウン・ブラザース・ハリマン幹部、真珠湾攻撃の時の日本大使ジョゼフ・グリュー、さらに現代では「シェーン」のジョージ・スティーヴンズ監督、石油王ポール・メロンらもフランクリンの閨閥から登場しています。

 このフランクリンが諜報活動をおこなったおかげで今日のアメリカがある、と情報の重要性を宣伝に利用するのがアメリカ中央情報局CIAです。ですが彼らがその名に使用した「情報」は、IT革命の情報ではありません。ITは information technology の略なので、ただものごとを伝達する技術であって、CIAは Centeral Inteligence Agency の略であり、知恵を意味する中央参謀本部だと彼らは位置付けました。

 アメリカのスパイ活動の歴史は、建国当初から、ワシントン、ジェファーソン、フランクリンたちが、スパイ活動を重視した時に始まります。さらに南北戦争では、北軍の雇った私立探偵アラン・ピンカートンがリンカーンの要請で連邦シークレットサービスをヴァージニア州に設立され、これが、国としての組織的な諜報活動のスタートとなりました。ところがピンカートン探偵社大物エージェントが南軍に捕らえられて縛り首となり、南軍の女スパイ、ベル・ボイドのほうが活躍して、戦争中のピンカートンは軍事的な成果をあげることができずに、戦争終了後はKKKとの戦いで活躍しています。ピンカートン自身は、昔から奴隷制廃止論者として活動していました。

 しかし、北軍の奴隷廃止論の根拠は、今日考えられるような人種差別撤廃という博愛的なものではありません。南部では、綿花などを生産する農業州が黒人労働者を大量に使っていたのに対して、北部は機械、鉄、石炭を生産する工業地帯を多く持ち、工場では低賃金の白人労働者を柱にして操業しています。その白人労働者が賃上げを要求するので、資本家たちは南部の黒人奴隷を開放すればもっと安い賃金労働者を生み出して、失業を恐れる白人労働者も黙らせることができると考えました。 これが「南北戦争」の始まりです。リンカーン自身も、南北戦争に突入してようやく一年半後、南部の黒人を味方につければ戦争に勝てるという半ば功利的な目的で、1862年9月になってから奴隷解放宣言を出しました。その後のピンカートン・ナショナル探偵社は、主に鉄道会社から大きな出資を受けて強盗被害を防止するビジネスを以来されて、アメリカだけでなく、『シャーロック・ホームズ』の作者コナン・ドイルからも高い評価を受けるほど、世界にその名を知られるようになっています。私立探偵ではなく、アメリカの国家警察、それが20世紀初頭のまでのピンカートン社でした。

 出資者には、19世紀の鉄道で暴利を貪る実業家が多数存在しました。その依頼人からは優秀だと評判をとりましたが、市民の秘密をあばくのに悪辣な手段を取り続けたため、この探偵社は恐ろしいスパイ組織とみなされ、嫌悪されるようになります。特に1892年、ペンシルヴァニア州に起こったホームステッド争議で、その悪名は全米に轟きました。過酷な労働と安い賃金に耐えかねたカーネギー製鉄のホームステッド工場の労働者たちが決起してストライキに入り、全米を揺るがす争議に至った時に、後にカーネギー製鉄会長となるヘンリー・フリックがピンカートン探偵社の私立探偵を雇い、ストを解散させるよう命じられた人間たちは武器を持ち、ついに10人の死者を出す大事件となります。

 この事件があってから、鉄鋼業界では1937年まで半世紀近く、労働組合を組織する事を禁じられました。

 一方、海軍と陸軍に公式の情報機関が設立されたのは1880年代で、彼らがヨーロッパ各国に表向き外交官として配置され、1898年に開戦したスペインとの戦争で、この外交アタッシェがスパイに転じて活躍して以来、外交官の顔を持つ諜報機関がアメリカ軍隊の柱となりました。第一次大戦では、アメリカが参戦するまで外国に対する情報収集作業は縮小されていますが、やがて陸軍内部に恒久的な通信情報局が設置されています。

 また、1908年にはセオドア・ルーズヴェルト大統領の命令で司法局に捜査局Bureau of Investingationが設置され、後に彼らが第一次大戦でドイツのスパイ活動をつぶすために活躍しました。これが軍部の情報局と合流して、CIAと並ぶ現代のアメリカ最高位のブレーン、NSC国家安全保障会議へと発展します。大戦後の時代に捜査局長に選ばれたのはウィリアム・J・バーンズで、かつてピンカートンがつくったシークレットサービスに所属した彼は、私立探偵のボスとなり、全米銀行協会に加盟する12000の銀行を警護するウィリアム・J・バーンズ探偵社の社長として全米に探偵を配置して、ピンカートン最強のライバルとなりました。この男が、1921年に私立探偵から転じて国家の捜査局長に就任します。

 バーンズは自分の右腕に、司法長官の特別補佐官を努める弱冠26歳のJ・エドガー・フーヴァーという男を採用し、1972年に死ぬまでの48年間、ほぼ半世紀にわたってFBI長官として君臨し、大統領を自在に操る男が、こうして世に出ました。

 これとは別に、1920年代の禁酒法違反者を取り締まる有名な「アンタッチャブル」と呼ばれるエリオット・ネスの別働組織があり、これらは財務省に属してシカゴの暗黒街の帝王アル・カポネと戦い、密売シンジケート撲滅に大きな成果をあげます。そのため、司法省の捜査局はほとんど出る幕はなく、それぞれが独自の活動をしていました。ですが、ハリウッド映画に描かれた正義の組織はほんの一面にすぎません。 私立探偵社と、軍隊の諜報機関と、司法省の捜査官と、財務省の調査官は、陰湿な個人調査をすることでは一致していたので、ギャング並の暴力をふるって武器を扱い、エージェントは相互に交流し、ホワイトハウスから市長、警察官、裁判官まで賄賂にまみれた時代には、内部の腐敗が最大の問題となりました。

 それが大きく変貌したのは、1924年にフーヴァーが司法省捜査局長に昇進し、獰猛な組織が誕生してからです。ギャングの横行に対して、「アンタッチャブル」への競争心に燃えたフーヴァーは部員を強化していましたが、1924年に、前年に急死したハーディング大統領の時代にホワイトハウスの閣僚が石油会社から巨額の賄賂を得ていたことが暴露され、ティーポット・ドーム事件として政界を揺るがす大スキャンダルが起こりました。フーヴァーの上司だったバーンズ当人が、石油生産者のハリー・シンクレアを顧客として、ハーディング内閣の腐敗を放置した張本人だったことが露呈し、1927年には裁判にかけられています。

 1934年に銀行ギャングの大物ジョン・ディリンジャーを射殺して勇名を馳せた捜査局は、1935年に様々な組織と部局を統合してFBI(連邦捜査局)Federal Bureau of Investigationとなり、フーヴァーが初代FBI長官に就任し、強大な組織に生まれ変わりました。これを創設した大統領は、捜査局設立者セオドア・ルーズヴェルトの姪エレノアと同族結婚したフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領であり、2人のルーズヴェルトがアメリカ諜報機関の生みの親となります。

 FBIの活動は、銀行強盗、売春、酒の密売、麻薬などを取り締まることであるかのように世間の目には映っていますが、それは警察活動の範囲にすぎす、「諜報機関としてのFBI」の一貫した本当の目的は、別のところにあって、フーヴァーの上司だった司法長官ミッチェル・パーマーが命じた 「無政府主義者と共産主義者の摘発」です。そのためフーヴァーが生み出した手法は、徹底的なファイルの作成にあり、この記録が、アメリカ諜報機関を世界のトップに君臨する恐怖の組織に育てあげました。これが後年、ハリウッドの赤狩りで多数の人間を社会的に抹殺した思想とデータベース誕生の背景であり、ペンタゴンがインターネットを磨き上げる濫觴となっています。

 さらにベトナム戦争時代に至ってFBIは、スペシャルエージェント6700人が部下9300人をかかえて活動する巨大な組織にまで肥大しました。モルガン商会からカーネギー製鉄、エリー鉄道まで、あらゆる産業と金融のガードマンとして立ち働いたピンカートン探偵社が、文字通り資本主義の牙城にある内部組織だったので、その流れを汲んだFBIは、必然的に無産階級やソ連、中国、キューバなどの社会主義国家を敵と位置付け、気に入らない外国の元首を暗殺したり政権を崩壊させる工作が、アメリカ諜報機関の活動原理として定着します。そこに、FBIにとって代わるさらに強大な組織、CIAが誕生することになりました。
 第二次大戦では、国務長官ヘンリー・スティムソンが「紳士は他人の手紙を読まない」という有名な言葉を語ったにもかかわらず、アメリカは私信を盗む諜報能力で世界的な実力を培っています。第一次大戦以来、暗号解読を進言して、ブラックチェンバー(闇の会議所)と呼ばれる秘密組織をつくったハーバート・ヤードレーと暗号解読の名人ウィリアム・フリードマンらの驚異的な能力によって、日本の真珠湾攻撃は事前に判明していましたが、軍部がこの情報を信用しなかったため、1941年12月に真珠湾奇襲が成功しています。

 この屈辱をきっかけに産まれたアメリカの本格的な軍事用諜報組織は、ルーズベルトが1942年6月に設立した「OSS戦略事務局Office of Strategic Services」でした。大統領からOSS長官に任命されたウィリアム・J・ドノヴァンは、過去にFBIでフーヴァーと同様に司法長官補佐官を務めており、その時代に膨大な個人の秘密情報を握ってニューヨーク州知事時代のルーズヴェルトと深い関係にあったため、この時には高名な弁護士になっていました。ドノヴァンはすでに大統領と相談して全部局の情報を統合する作業を進めましたが、その矢先に真珠湾攻撃が起こったため、OSSを設立することになります。

 後年、彼の部下から、四人のCIA長官、ウォルター・スミス、アレン・ダレス、ウィリアム・コルビー、ウィリア
ム・ケイシーと、ベトナム工作班を使ってラオス・カンボジア侵攻作戦を指令した国務長官ヘンリー・キッシ
ンジャーらを続々と輩出しました。「ワイルド・ビル・ドノヴァン」と呼ばれたこの男は、スティーヴン・ベクテル
の妻の叔父ジョン・シンプソンと軍事情報を交換しています。

 全米一の建設会社ベクテルは、世界中の重要な建築物の図面のコレクションがあり、あらゆる地理・地形
の資料をもっています。
湾岸戦争後のクウェート復興で土木・建築事業の大半を請け負ったべクテル
やフランスのブーイグにとって、目的の第一は軍事的資料の収集にありました。
そのデータが輸出入銀行とCIAに送られて、かつてはべクテル・マコーン社の経営者ジョン・マコーンがCIA長官となり、最近では輸出入銀行からバーシェフスキー通商代表やデイリー商務長官が出ており、誘導ミサイルやステルス攻撃機が飛行する山地の地形については、建設会社に代わって鉱山会社がデータを提供してきました。

 ワイルド・ビル・ドノヴァンに資料を提出したシンプソンは、シュローダー銀行副頭取の要職にあって、その幹部からイギリスの国外諜報機関MI6の情報を得ています。彼が銀行業務を遂行するとき最も信頼して契約取引を依頼したのが、ニューヨークのサリヴァン&クロムウェル法律事務所のジョン・フォスター・ダレスとアレン・ウェルシュ・ダレスという、後の1950年代のアメリカを支配する兄弟です。
以来シュローダー銀行とこの法律事務所は一体となって、相互の利益となるようにビジネスを進めて、OSSドノヴァンと
CIAダレスの歴史的な出会いが生まれました。


 第二次大戦が終わると、1945年10月にOSSは解体されて、その職務が国務省と陸軍省に移管しましたが、ドノヴァンは中央に集中した情報組織の必要性を感じ、生前のルーズヴェルトに対して、統合参謀本部から独立した、新しい組織の設立を強く直言していました。また戦時中に、各政府部門でばらばらだった諜報組織をまとめた陸軍と海軍の統合情報研究会議が発足していたので、新しい組織の必要性はすでに1943年、陸海軍の情報局とドノヴァンの間で考えが一致しています。

 ところが彼が考えていたのは、その組織が、すべての省の情報を統括して、秘密の行動を独自に実行に移せるという強大な部隊でした。この考えは当然、独自の力を維持したいそれぞれの軍部から猛烈な反発を受けて、FBIも国内の情報を自ら掌握することを望んで強く反対します。 そうしたなかで、ドノヴァンの推奨する組織によって大統領が独裁的な力をつかめると考えたトルーマン大統領はすぐにこれを設立せずに、まず1946年1月に中央情報グループCIG(Central Intelligence Group)を設立し、大統領の代表、国務長官、陸軍長官、海軍長官からなる国家情報局NIA(National Inrelligence Authority)がこれを管轄する事で軍部を了解させて、海軍情報局副局長シドニー・ソーアーズを初代CIG長官に就任させる作戦をとりました。それは、ソーアーズはマクドネル航空機重役となる人物で、軍需産業と深く関わっていたからです。

 かくして軍部を統合することの重要性を彼らに納得させた結果、
翌1947年に国家安全保障法が成立し、NIAとCIGが再編されて、陸軍省、海軍省、空軍省を統括した国防総省と、国家安全保障会議NSCと中央情報局CIAが7月26日に発足しました。CIAが9月18日から実務を開始すると、これまでFBIが全般的に掌握していたアメリカ国外の情報収集と諜報活動をCIAが担当する事になり、FBIは主として国内の諜報活動に専念することになりました。ほぼドノヴァンが望んだ通り、CIAが誕生しました。ところがCIAの国家情報調査グループを指揮するダレスは、この生まれたばかりの組織が1年を過ぎても一人歩きできないことに不満を持ち、1949年になってこのグループは国家安全保障会議と共同で、「国家情報は一ヶ所に統括する必要があり、CIAは他の省と独立した機関でなければならない」と強く進言して、国家安全保障法を強化する中央情報局法を成立させることに成功しています。しかしこの法律は恐ろしい内容でした。CIAは秘密の予算を使うことが許されて、他の省のような出費制限から免除されるという、とてつもない強大な権限が与えらました。以後CIAは、あらゆる行為について黙して語らぬようになり、組織も、機能も、高官の名前も、給与も、職員の数さえも秘密にされてしまいました。21世紀初頭のアメリカ政府の情報組織としては、国家安全保障会議と、大統領外国情報諮問会議と、情報監視会議があって、次のような機能を持っています。

★国家安全保障会議NSC:National Security Council

  国内外の政策と軍事戦略を調整・統合するため、大統領に直接助言する組織。1947年の国家安全保障法によって設立された。大統領、副大統領、国防長官、国務長官が参加し、CIA長官と統合参謀本部議長が顧問として参加する。

★大統領外国情報諮問会議PFIAB:President's Foreign Intelligence Advisory Board
  政府外の信頼性の高い人物16人から成り、大統領直属組織としてホワイトハウス内で運営される無報酬のグループ。情報管理政策について、絶えず調査し、適切な作業行われているかどえかチェックしながら、大統領にさまざまな忠告をする。

★情報監視会議IOB:Intelligence Oversight Board
  情報活動の法律的なチェックを行い、大統領と司法長官に結果を報告する。ジェラルド・フォード大統領とネルソン・ロックフェラー副大統領が1976年に設立した組織。


 公式には、これら組織はCIAの上にあり、CIAは政策を立てていないとされています。CIAは大統領の命令に基づき、法律の許す範囲でしか秘密の行動をとることができず、秘密行動を許可できるのは大統領だけで、国家安全保障会議が勧告して初めて行動を開始して、CIA長官が議会の情報委員に報告する事になっています。1981年の法によって、CIAによる暗殺は禁じられました。また業務は、資料収集、データ処理、解析にあり、CIAがアメリカ国民の国内活動について調査することは許されないことになっています。しかしこれは事実とは違うでしょう。
実際に、CIAは絶えず政策を立てて、大統領に勧告しており、絶えず法律を犯し、国民の活動について調査するのがCIAなのではないでしょうか。

 OSSでドノヴァンの将校を務めたニコラス・ディークは、後にCIAの工作資金を国外に秘密送金する金融会社ディーク社をニューヨークに設立します。ディークは1953年にCIA新長官に就任したダレスと組み、イランに巨額のドル札を送金して、べクテル社が武器を現地に供給し始めました。なぜかというとイランでは、国民の人気を独り占めする民族主義者のモハメッド・モサデク首相が、イギリスの石油会社を国有化してしまったからです。その年の8月19日の早朝に、
CIA資金と武器を手にしたイラン人が打倒モザデク」を叫んでクーデターを起こして、
イギリスやアメリカの石油会社に利権を与えるパーレヴィ国王を復権させてしまいました。

 ダレスはサリヴァン&クロムウェル法律事務所でスタンダード石油の顧問弁護士であり、特にダレス兄弟が顧問をつとめたアングロ・イラニアン石油(イギリス・イラン石油)は直接イランの利権に関わっており、ダレスはその見返りに、ディーク社に軍需産業を紹介する仲介の労をとっています。ロッキードはディーク社を通じて日本に政界工作資金を送る方法を学び、右翼の政界フィクサー児玉誉士夫に送金し、田中角栄らがそれを懐に入れました。これが「ロッキード事件」のあらましです。

 1961年には、ベルギー領コンゴ独立の父パトリス・ルムンバが暗殺され、ドミニカの独裁者ラファエル・トルヒーヨも暗殺され、国連事務総長ダグ・ハマーショルドがコンゴで飛行機墜落事故のために死亡しました。62年にはケネディー大統領とのスキャンダルが噂された女優マリリン・モンローが死体で発見され、63年には南ベトナムでゴ・ジン・ジェム大統領と弟ゴ・ジンニューが暗殺され、ケネディー大統領が暗殺され、その容疑者リー・オズワルトが暗殺されました。1965年には黒人指導者マルコムXが暗殺され、68年にはマーティン・ルーサー・キング牧師暗殺され、大統領候補ロバート・ケネディーが暗殺されました。

 70年にはチリの護憲派参謀総長ルネ・シュナイダーが暗殺され、73年には同じくチリの社会主義大統領サルバドール・フジェンデ・ゴセンス博士が暗殺され、以後アウグスト・ピノチェト軍事政権下で70万人が拷問にかけられ、数千人が殺され、数万人が行方不明となっています。74年には、高速増殖炉の危険性に気づいた女性労働者カレン・シルクウッドが新聞記者に重要な資料を届けに行く途中ハイウェイで謎の交通事故によって死亡し、資料は消失しました。76年にはキューバ旅客機爆破事件が発生し、キューバはCIAの工作と主張しています。ケネディー兄弟もカストロ暗殺計画に夢中になっており、チリのアジェンデ失脚をキッシンジャーが工作したことも公知の事実です。CIAによる第三世界の政府転覆事件と、首相失脚事件は、イラン、グアテマラ、インドネシアを筆頭に、枚挙にいとまがありません。

 FBIとCIAの職務は、国内と国外の活動に大きく分離されていますが、実際にホワイトハウスが取り組むテロリズムや麻薬、軍需、原子力産業に関して、国際問題と国内問題が完全に切り離されることはなく、FBIとCIAは互いに資料を交換し合い、時には各州の警察と組んだ 「三者連携プレー」によって工作活動を行ってきています。FBI長官 フーヴァーがケネディー家の過去の「密造酒による収益問題」と「マフィアのマイヤー・ランスキーとのつながり」や「数々の女性関係」を詳しく調べ上げて、ホワイトハウスに入ろうとするケネディー兄弟を脅迫して、リンドン・ジョンソンを副大統領に指名させたと言われています。それに怒った司法長官ロバート・ケネディーがフーヴァーを排除するように、慣例を破ってFBI長官に厳しい態度に出たことはあまねく知れ渡りました。

 一方フーヴァー自身は、同性愛者だったことをランスキーに知られ、マフィアから脅迫される立場にありました。ケネディー大統領と深い関係にあったモンローの死、ケネディー大統領暗殺調査特別委員会に、最も疑惑の濃いダレス元CIA長官が入り、委員会ではオズワルト単独犯行説がむりやり結論づけられ、そのオズワルトは逮捕直後にランスキーと過去に関わりのあるジャック・ルビーによって射殺されています。事件は完璧なまでに闇に葬り去られてしまいました。

 ヴァージニア州ラングレーに、CIA中央情報局の本部があります。国防総省と並ぶアメリカ政府最大級の組織ですが、CIAの予算と職員数は現在も非公開にしてよいとされています。アメリカ政府の情報活動予算は、1997年に初めて公表されて、CIAを含めて97年度に226億ドル、98年度に267億ドル、日本円で約3兆円でした。CIA本部の職員の数は、建物の大きさから推測し、かねてから1万6千人程度であると言われています。CIA長官だったジョージ・ブッシュ副大統領の時代に敷地30万坪の土地に3年間をかけて26階建てのビルが隣接され、1991年に完成し、湾岸戦争直後から実際に使用されるようになりました。

 CIA職員が失業しないためには、常に世界に危機があり、緊張がなければならず、幹部になれば危機情報を操り、大きな裁量権を持つことができる巨大軍事・情報収集予算を、CIA自らに配分させることができます。そこでは、今でもドノヴァンとダレスが神の様に崇められているということです。今や世界中の国々において、政治・官僚が軍部と民間組織の間に深い繋がりがあることは、推測されてはいても、一般にはなかなか浸透しない事実です。ここではアメリカのCIAの上層部が、どれだけ「黒いパイプ」で繋がれているかを公表しています。

※CIA発足は1947年7月26日で、それ以前はCIG(中央情報グループ)の長官と副長官です。

CIA長官 就任年月日 退任年月日
ソーアーズ Sindey W Souers 1946/1/23 1946/6/10
ヴァンデンバーグ Hoyt S. Vandenberg 1946/6/10 1947/5/1
ヒレンケッター Rosecoe H. Hillenkoetter 1947/5/1 1950/10/7
スミス Walter Bedell Smith 1950/10/7 1953/2/9
ダレス Allen W. Dulles 1953/2/26 1961/11/29
マコーン John A. McCone 1961/11/29 1965/4/28
レイボーン William F. Raborn, Jr 1965/4/28 1966/6/30
ヘルムズ Richard Helms 1966/6/30 1973/2/2
シュレンジャー James R. Schlesinger 1973/2/2 1973/7/2
コルビー William E. Colby 1973/9/4 1976/1/30
ブッシュ George H.W. Bush 1976/1/30 1977/1/20
ターナー Stansfield Turner 1977/3/9 1981/1/20
ケイシー William J. Casey 1981/1/28 1987/1/29
ウェブスター William H. Webster 1987/5/26 1991/8/31
ゲイツ Robert M. Gates 1991/11/6 193/1/20
ウールジー R James Woolsey, Jr 1993/2/5 1995/1/10
ドイッチ John M. Deutch 1995/5/10 1996/12/15
テネット George J.Tenet 1997/7/11

※一部長官不在の空白期間は、副長官が代理を努めています。


CIA副長官 就任年月日 退任年月日
ダグラス Kingman Douglass 1946/3/2 1946/7/11
ライト Edwin K. Wright 1947/1/20 1949/3/9
ジャクソン William H. Jackson 1950/10/7 1951/8/3
ダレス Allen W. Dulles 1951/8/23 1953/2/26
キャベル Charles P. Cabell 1953/4/23 1962/1/31
カーター Marshall S. Carter 1962/4/3 1965/4/28
ヘルムズ Richard M. Helms 1965/4/28 1966/6/30
テイラー Rufus L. Taylor 1966/10/13 1969/2/1
クッシュマン Robert E. Cushman, Jr 1969/5/7 1971/12/31
ウォルターズ Vernon A. Walters 1972/5/2 1976/7/7
ノチェ E. Henry Knoche 1976/7/7 1977/8/1
ブレーク John F. Blake 1977/8/1 1978/2/10
カールッチ Frank C. Carlucci, Ⅲ 1978/2/10 1981/2/5
インマン Bobby R. Inman 1981/2/10 1982/6/10
マクマホン John N. McMahon 1982/6/10 1986/3/29
ゲイツ Robert M. Gates 1986/4/18 1989/3/20
カー Richard J. Kerr 1989/3/20 1992/3/2
ステュードマン William O. Studeman 1992/4/9 1995/7/3
テネット George J. Tenet 1995/7/3 1997/7/11
ゴードン John A. Gorgon 1997/10/31

インマン ―  81~82年のCIA副長官で、軍需産業サイエンス・アプリケーションズ・インターナショナル重役。
ヴァンデンバーグ ―  NATO創設など東西対立を決定的にし、上院外交委員長から上院議長、共和党大統領候補となったアーサー・ヴァンデンバーグの甥。46~47年、CIAの前身であるCIG長官、翌年48~53年空軍参謀長、59年には無人スパイ衛星ディスカバリー打ち上げに関与した後、IRBM・ICBM発射実験を行う。ヴァンデンバーグ空軍基地は彼の名に由来。
ウェブスター ―  ゼネラルダイナミクスとマクドネル・ダグラスの本拠地セントルイスの財閥一族。78~87年FBI長官を経て87~91年CIA長官。
ウールジー ―  68~70年国防省勤、69~70年SALT顧問、同70年国家安全保障会議、77~79年海軍次官、91~93年マーティン・マリエッタ重役、93~95年CIA長官。
カールッチ ―  コンゴ・南アの利権獲得後CIA工作員、78~81年CIA副長官を務めるが、80年にイラン大使館人質奪回作戦失敗。81~82年国防次官、87~89年国防長官、89~93年カーライルグループ副会長、93年以後会長に就任。現在ウェスティングハウス、ゼネラルダイナミクス重役。
ケイシー ―  48年マーシャルプラン、71~73年証券取引委員会委員長、74~75年輸出入銀行総裁に就任したが、フィリピンのバターン原発輸出にからむウェステイングハウスの賄賂工作に関与。81~87年CIA長官就任中、イラン・コントラ武器密輸事件渦中に急死。ベクテル社顧問。
ゲイツ ―  74~80年国家安全保障会議、80年CIA、86~89年CIA副長官。86~87年長官代理中、ニカラグア港の地雷爆破事件、イラン・コントラ武器密輸事件に関与。89~91年国家安全保障担当大統領次席補佐官就任中、パナマ侵攻作戦、リベリア内戦、湾岸危機に暗躍。91~93年CIA長官、軍事シンクタンク「スワット」メンバー。TRW重役。
コルビー ―  47~49年OSS元長官ドノヴァン法律事務所、59~62年南ベトナム大使館員、62~67年CIA極東課長、68~71年南ベトナム大使館民間作戦部隊組織部長、72~73年CIA作戦副部長、73~76年CIA長官就任中ベトナム戦争鼓舞。87年ドノヴァン法律事務所復帰。
シュレシンジャー ―  63~67年ランドコーポレーション、71~73年原子力委員会委員長、73年2月~7月CIA長官就任中カンボジア強行爆撃。73~74年国防長官、77~79年エネルギー長官。
スミス ―  50~53年CIA長官、53~54年国務次官。ユナイテッド・フルーツ重役として中南米の利権拡大にCIA活動を利用。
ソーアーズ ―  46年1月~6月CIAの前身CIG長官。エヴィエーション・コーポレーション、マクドネル航空機など多数の軍需産業重役。
ターナー ―  60~70年代のベトナム戦争司令官、主に誘導ミサイル部隊を指揮。75~77年NATO軍指令官、77~81年CIA長官、ベトナム戦争枯葉剤製造責任者として多数の訴訟の被告企業の重役。
ダレス ―  ジョン・フォスター国務長官とロバート・ランシング国務長官の一族で、兄がジョン・フォスター・ダレス国務長官。第一次大戦ドイツ賠償問題など多数の軍事外交に関与。26~42年サリヴァン&クロムウェル法律事務所の弁護士で、USスチールとスタンダード石油トラストをつくった事務所。兄が最高責任者で共同経営者。この時代にもアメリカの外交代表として各国国際会議出席。アングロ・イラニアン石油顧問、シュローダー銀行顧問時代にOSSドノヴァンと出会う。42~45年スイスのベルンで、国際的諜報活動と金融活動を行う「諜報センター」設立。47年CIA発足と同時に作戦組織の編成を担当し、国家情報調査グループを指揮。49年国家安全保障会議と共同で「国家情報統括の必要性CIAの独立性」を大統領に進言。51~53年CIA副長官、53~61年CIA長官。60年にCIAがキューバ国内の反革命軍を支援、また同年にアメリカ偵察機U2がソ連上空で撃墜され、KH1偵察衛星によるコロナ計画で121個の人工衛星による共産圏軍事施設の偵察を始動。61年長官退任後もダレスの計画でCIAが亡命キューバ人1500人部隊を組織してキューバ侵攻作戦を実施するも失敗。これはピッグズ湾事件と言われ、キューバ人死者3478人を出す。62~69年サリヴァン&クロムウェルに復帰、63~64年ケネディ大統領暗殺調査特別委員会委員。
テネット ―  97年から現在CIA長官で、99年NATO軍によるユーゴ攻撃の作戦立案者。
ドイッチ ―  61~65年国防総省システムアナリスト、76年MIT(マサチューセッツ工科大学)副理事長、79~80年エネルギー省次官、82年MIT科学部長時に、国防関連技術と核兵器を中心に学部長や事務長として勢力を拡大。93~94年国防次官(調達担当)、94~95年国防副長官、95~96年CIA長官、99年CIA在職中に高度機密情報をずさんに取り扱っていたことが発覚。現在兵器会社レイセオン重役。
ヒレンケッター ―  47年CIAの前身CIG長官。47~50年CIA長官、ミサイル産業エレクトロニクス・ミサイル・ファシリティーズ重役。
ブッシュ ―  投資銀行W・A・ハリマン社長ジョージ・ハーバート・ウォーカーの孫。第二次大戦の戦時融資キャンペーン議長で、米ソ冷戦時代に長距離ミサイルとポラリス潜水艦の開発を強力に推進したプレスコット・ブッシュ上院議員の息子。ジョージ・ブッシュJr大統領の父。第二次大戦の海軍パイロット。53~66年テキサス州ヒューストンでザパタ石油創業・社長、67~71年下院議員、71~72年国連大使、76~77年CIA長官、81~89年レーガン政権時の副大統領、89~93年第41代アメリカ大統領、89年パナマ侵攻作戦実施、91年湾岸戦争開戦。
ヘルムズ ―  国際決済銀行バーゼル・クラブ初代理事長ゲイツ・マッガラーの孫。42~46OSSドノヴァンの部下として活動、47~52年CIA工作本部長、東南アジア作戦担当企画本部長、65~66CIA副長官、66~73年CIA長官、73~76年イラン大使、ベクテル顧問。
マコーン ―  第二次大戦で巨額の利益をあげたベクテル・マコーン社長。41~46年カリフォルニア造船会社・社長、48年国防副長官、50~51年空軍次官、58~60年原子力委員会委員長、61~65年CIA長官。
レイボーン ―  56年潜水艦発射弾道ミサイル「ポラリス」開発責任者。60年ケープカナベラル沖合いで潜水艦ジョージ・ワシントンが初の発射実験成功、61~63年エアロジェット・ゼネラル副社長、65~66年CIA長官。


これら出兵の陰では、紛争当事国にアメリカやヨーロッパから兵器や武器が輸出されてきました。中南米はアメリカ合衆国の裏庭とされ、最近ではペルー周辺に新たな取引が発見されています。2000年11月に、ニューヨーク・タイムズが報道して以来の経過をまとめると、次のようになります。

 98年末、ヨルダンの首都アンマンで、現地のCIA事務所にヨルダンの高官が訪れて、「アメリカはペルーに強力な攻撃用ライフル銃AK47を5万丁以上も売っているが、気にならないのか」と尋ねました。CIAはその時事実を否定しましたが、99年春になって、「ペルーではなく、ワシントン政府が禁じているコロンビアの左翼ゲリラに何千丁ものライフルが渡っていることを確認した」と、CIA高官がクリントン政権に報告しています。ペルーで多年にわたった情報機関のボスを務め、アルベルト・フジモリ大統領側近として院政をしいてきたブラディミロ・モンテシノスが、その武器取引の中心人物です。

 モンテシノスは、反対派のリーダーに賄賂を渡しているところをビデオテープに録画されて、それが発覚すると2000年9月23日にパナマへ逃亡しましたが、10月23日に帰国しました。逃避と見えたこの一時的な行動は、逃げたのではなく、パナマの2社にスイスから送金するモンテシノスの銀行口座あり、大金を受けるためです。

 しかもフジモリ大統領は、その二日後にモンテシノスについて捜査を命じながら、翌11月13日にはアジア太平洋経済協力会議APECへの出席を口実にブルネイへと出発し、会議後はなぜか16日にマレーシアに立ち寄って、自分が所有するパナマ企業2社の株をシンガポール証券取引所で売却した後、東京へと向かったとされています。その後フジモリ氏は新議長宛てに大統領職の辞表を送付して、帰国しないという、突飛な行動をとっています。

 金銭の授受や株の売却に関してフジモリ氏本人は否定しましたが、11月28日までスイスの銀行が確認したモンテシノスの秘密口座は、総額8000万ドルにのぼっています。さらにアメリカ、ルクセンブルグ、ウルグアイなど五カ国にも1000万ドルの口座があり、100億円を超えていました。これがほとんどペルー政府の武器取引の際に彼が受け取った10%のコミッションです。実際には「100億円なんて、そんなに少ないはずがない」と関係者が発言していましたが、確かにその後12月に入ると、妻トリニダ・ベセラ夫人の名義でスイス銀行に1700万ドルが預金されていたことが判明しました。

 これら隠し口座の金は、単なるアンダーグランド・マネーではありません。フジモリ政権になってペルーでは三万人以上が殺され、膨大な数の農民が政府軍に誘拐されたまま行方不明になっていました。モンテシノスらが送りこんだライフルはその人殺しのために使われ、コミッションは武器産業の利益からひねり出された金です。情報機関のモンテシノスと密接に共同行動をとってきたのがアメリカのCIAで、80年代後半から彼を利用し、ペルーの国家安全保障という名目で様々な協力関係を築いてきました。中東のレバノンを経由して武器が流れ込んだ、これらの複雑な事実経過は、国務長官オルブライトや
国務次官トマス・ピッカリング、国防長官コーエンらが当然知っていたことはいうまでもありません

山一證券、大和銀行、野村證券などの大手組織が起した事件の疑問に対して、日本人はその事の重大さを認識できなかったために、国内ではほとんど紹介されませんが、その内容は、世界最大のスパイ組織CIAが、産業スパイとして日本の経済情報をターゲットに諜報活動をやっているというものでした。以前から一説に言われていますが、昔からCIAはフリーメーソンと呼ばれる世界的規模で様々な影響力をもつ団体と深いつながりを持って活動してきました。例を挙げると、CIA長官は、創設当時のアレン・ダレスからウィリアム・ケーシー、ジョージ・ブッシュなど、多くが高位メーソン組織のCFR(外交問題評議会)の常任メンバーから選出されています。そして今やCIAはこれらメーソンの私物化された諜報機関となってしまいました。

 1995年10月15日付けのニューヨークタイムズ紙には、CIAの日本に対する秘密工作を次のように報じています。

 「95年春に始まった日本自動車交渉で、米国側のミッキー・カンター通商代表は、定期的にCIAの東京支局長が集めた日本側に関する秘密情報を受け取っていた。CIAは、NSA(国家安全保障局)の電子通信傍受システムを使って、日本の通産省官僚と自動車メーカー幹部の会話を盗聴し、これをワシントンで分析して米国の交渉団に提供した。これでカンター代表らは、トヨタや日産の幹部が通産省にプレッシャーをかけていたことを知ったため、交渉を有利に進めることができた。さらに交渉が最終局面を迎えた6月下旬、米国側代表団の宿泊したスイス・ジュネーブのインターコンチネンタルホテルにCIA要員も同行して、日本側にどこまでプレッシャーをかけられるかの判断材料をカンター代表に提供した。」
日本バッシングでその名を馳せたあのカンター通商代表が、CIAの盗聴したスパイ情報を受け取って、交渉の武器にするという犯罪行為を国家ぐるみでやっていることが暴露されました。
 こうしてマスコミに報道されること自体、昔から同じようなスパイ活動を行っていたということにさしたる疑問はありません。わかっているだけでも、1987年4月のココム(対共産圏輸出調整委員会)違反の東芝機械事件から始まっていました。CIAの情報源は、ヒューミント(ヒューミント・ヒューマン・インテリジェンス)と呼ばれる人的な情報と、通信情報(コミント)、信号情報(シグニット・シグナル・インテリジェンス)があり、通信と信号情報は、組織上国防総省ペンタゴンの管理化に置かれた国家安全保障局NSAの偵察衛星を使えば、世界中の電話、ファックス、電子メールなどは簡単に傍受できます。
 そのためすでにターゲットにされている通信手段であれば、局内や情報員の持っている端末でキーワードを叩くだけで、簡単に必要な情報や諜報活動を行うことができます。また、このNSAの他に、NRO(偵察衛星の管理や運営を担当する国家偵察局)、DIA(ペンタゴン内の国防情報局)、陸海空3軍の各情報当局など10を越す情報局があり、これらの情報機関のことを総称して 「インテリジェンス・コミニティ)と呼びます。CIA長官は、公式的には 「中央情報長官(DCI)」 と呼ばれ、これら全ての情報機関を統括する権限が与えられています。

 東芝機械事件では、事件が発覚する9ヶ月前の86年7月から諜報活動が開始されており、こうした総合的な情報収集能力を駆使して、各機関から情報を集めていました。これにより、86年秋には、すでに東芝機械事件の全体像を掴んでいました。これはスパイ映画の世界ではなく実際に起きて、それが「国策」として使われている 「国家犯罪」 以外の何者でもなく、アメリカ当局も暗黙の事実を認めながら当時の外務省長官も 「商談内容を打ち合わせたテレックスの内容を傍受されたのは間違いない」 と語っているほどです。こうしたCIAのスパイ活動に以前から疑いを持っていた優秀なジャーナリストたちがメーソンの取り仕切る、具体的に公的な機関を通じて報道されたことは賞賛に値すると共に、それだけ隠し通すことが困難な程の証拠を叩きつけられたことを意味します。

 山一證券、大和銀行、野村證券などの大手組織が起した事件の疑問に対して、日本人はその事の重大さを認識できなかったために、国内ではほとんど紹介されませんが、その内容は、CIAが買収した「日本政府内のスパイを使って情報収集をしていた」というショッキングなものでした。公表されたニューヨーク・タイムズの記事は
、CIAが買収した「日本政府内のスパイを使って情報収集をしていた」というショッキングなものでした。
 その日本人工作員は、日米自動車交渉の始まる前から決着まで、日本代表団の構成メンバーや旅程、通信システムなど様々な情報を流しています。その情報に基づいて、CIAは、電子機器専門家チームに盗聴器を設置させ、最先端の盗聴技術を駆使してスパイ活動していました。こうして日本人スパイの活動について、共同通信は具体的に次のように報道しています。

 「CIAは、日本国内に最盛期には百人以上、現在も60人という在外支局としては世界で最大級規模の要員を配置し、自民党や社会党の議員、政府省庁職員、朝鮮総連本部、左翼過激派、商社員らに定期的に報酬を渡して秘密の情報提供者として確保してきたことが、複数のCIA関係筋の証言で明らかになった。(略) 政府情報機関では、第一に首相の動向が最大の関心事。CIAは、歴代首相の側近、周辺につねに情報提供者を確保してきた。日米間の貿易交渉をめぐっては、主に通商代表部の要請を受けて、CIAが日本側の交渉態度を探るのが通例。88年6月に決着した牛肉・オレンジ市場開放交渉では、農林水産省の情報提供者から『日本の最終譲歩リスト』 を入手していた、と別の関係筋は証言した。電気通信分野の交渉に関連しても、郵政省の内部やNTT、さらに通産省内部からも情報を得ていたという。日本企業のハイテクの軍事的側面も調査、京セラや大日本印刷、宇宙開発事業団、三菱重工、石川島播磨工業などが調査の対象となった」(共同通信95年1月5日付)。

 これに対して、CIAスポークスマンは、「ノーコメント」 を貫きました。もし事実無根であればCIAにとってこの非常事態に対して全面否定が道理であるはずが、ノーコメントというう言葉は暗黙の内に認める結果となります。それにしても、
日本の首相及び将来の首相候補には、CIAの情報網が張りめぐらされており、常にCIAの監視下
にあったことは、一部関係者の間では公然の秘密になっていました。
 特にクリントン大統領になってからは、CIAとホワイトハウスの協調関係はより緊密になり、新たなCIAの役割として、外国との貿易交渉の支援、海外の公共事業入札で米国企業と競合する外国企業の非合法活動の調査、米国に影響を与える海外の金融・財政トラブルの調査、などが付け加えられています。

 CIAは、1947年に設立させて以来、米国の国家安全保障に重要な役割を果してきました。その情報活動は、主に旧ソ連をはじめとする共産圏が対象となっています。ところが、ソ連が崩壊で冷戦構造がなくなり、その存在意義が失われかけた時に生き残りをかけて新たに浮上してきたのが、「経済諜報活動」 でした。クリントン大統領は、このCIAの新たな役割を定めたことによって、これまで秘密に行ってきた経済スパイ活動を公式に認めたような形にしました。これによって、冷戦時代、命をかけて共産諸国から機密情報を盗み出すスパイ訓練を受けた秘密工作員の実力が、遺憾なく発揮され始めました。

 「世界の真実の姿を求めて!」。

日本はスパイ天国

日本の首相及び将来の首相候補には、CIAの情報網が張りめぐらされており、常にCIAの監視下にあったことは、一部関係者の間では公然の秘密になっていました。

CIAは、日本国内に最盛期には百人以上、現在も60人という在外支局としては世界で最大級規模の要員を配置し、自民党や社会党の議員、政府省庁職員、朝鮮総連本部、左翼過激派、商社員らに定期的に報酬を渡して秘密の情報提供者として確保してきたことが、複数のCIA関係筋の証言で明らかになった。(略) 政府情報機関では、第一に首相の動向が最大の関心事。CIAは、歴代首相の側近、周辺につねに情報提供者を確保してきた。

政治家、大企業経営者の女性スキャンダル情報等を集め、米国に逆らう場合にはそれをマスコミに暴露する事を仕事にしている、アジア最大のスパイ軍事組織アメリカ陸軍第500軍事情報大隊が神奈川県座間市に常駐している。

この部隊の下部組織として、日本人の個人個人の銀行口座の中味、株式投資の中味、家族構成、勤務先企業、友人関係等を監視、情報蓄積しているのが、自衛隊東部方面隊第一施設団第三施設群と呼ばれるスパイ軍事組織である。
この部隊も米軍キャンプ座間内部にある。


自衛隊と米軍は別組織であり、本来自衛隊が米軍基地内部に常駐する事は違法である。



http://www.asyura2.com/10/senkyo87/msg/360.html

総理自身が指摘している、誰が官邸情報の漏洩をしていたのか?

鳩山総理とすれば、自分でも「県外」と言っているわけで、それを模索してきた形跡もある。ここで「反腹案派」は「抑止力」などをちらつかせ、県外・国外に関する情報を遮断したのだろう。

この記事の中に出てくる、総理大臣秘書官(政務担当)佐野忠克氏は、1969年(昭和44年)4月 通商産業省入省、 1993年(平成5年)8月 総理府 細川護熙内閣総理大臣秘書官(事務担当)につき、鳩山総理と接点ができている。

当初、鳩山総理は、小泉元首相の秘書官だった飯島勲氏のように、芳賀大輔氏を首相秘書官に起用する予定だったようだが、偽装献金事件で潰されてしまった。だから、旧知の佐野氏に白羽の矢が立った、ということだ。

この佐野氏が注目された時があった。
一秘書官が、異例とも言える米国務省NO.2と会談したというもので、ここに何か辺野古の布石が打たれたのではないかという怪しい動きである。

≪首相秘書官、米国務副長官と会談へ
 平野博文官房長官は14日午後の記者会見で、鳩山由紀夫首相とともに訪米して米国に残っている佐野忠克首相秘書官が、スタインバーグ国務副長官と会談することを明らかにした。米国務省「ナンバー2」が日本の首相秘書官と会談するのは極めて異例。米軍普天間飛行場移設問題について、佐野氏は日本側の検討状況などについて説明するとみられる。(時事トッドコム  2010/04/14-17:23)≫

また、記事の主旨には賛成できないが、「現代ビジネス」に「徳田虎雄との会談を仕掛けた佐野忠克首相秘書官」と題し、田崎史郎が書いている。(参照)

≪ 鳩山が動きだしたのは4月28日、徳之島出身の元衆院議員・徳田虎雄との会談からだった。そもそも徳田と会談したことがまず疑問だ。 徳田虎雄が1980年代に衆院奄美群島選挙区(定数1)で保岡興治と「保徳戦争」と呼ばれるほど激しい選挙を戦い、選挙違反で逮捕者が続出したこと、徳洲会の病院経営、彼の政治活動などを多少知っていれば、接触することにもっと注意を払っただろう。 案の定、会談内容は、同席した衆院議員の二男・毅からマスコミに公表された。毅は自民党に所属している。毅がマスコミに、あるいは自民党にすべて話してしまうことは容易に想像できたはずだ。
徳田が会談を受けた時、「これはトラップ(罠)かもしれない」という懸念を抱かなかったのだろうか。  
この会談の設定は政務担当の首相秘書官・佐野忠克を中心に進められた。・・・佐野は鳩山と徳田との会談を他の秘書官はもちろん官房副長官・松井孝治らともほとんど相談しなかった。時期もまずく、住民の反対集会が4月18日に徳之島で開かれた後では、地元を説得しようとしてもできるはずがない。≫

鳩山総理は佐野秘書官に手篭めにされていたことになる。

首相秘書官の内訳は、慣例的に政務担当1名、事務担当4名の計5名で構成され、それぞれ外務省、財務省、警察庁、経済産業省の各省庁から1名ずつ出向する形で就任する。財務省出身者が事務秘書官の中で筆頭格とされ、他の事務秘書官よりも年次が上の者が就けられる。これは自民党時代からの、別の言い方をすれば、官僚主導政治時代からの因習である。鳩山総理が政権発足から、なぜここにメスを入れなかったかが、今思えば疑問。当初は別の候補の名前があがっていた。

昨年の総選挙前に首相秘書官にジャーナリストの上杉隆氏を起用、というニュースが流れていたのだ。
上杉氏を報道担当として、また日本総合研究所会長の寺島実郎氏も外交担当ということだった。(参照)上杉氏になっていれば、会見のオープン化が一挙に進んだだろう。

完全に官僚主導でこの普天間移設を解決されてきたことがよくわかる。外務省と防衛省にそれぞれ岡田大臣、北沢大臣が早い段階から取り込まれていた。

今からでも遅くない。まず首相秘書官全員、特に佐野秘書官を更迭せよ!




http://alternativereport1.seesaa.net/article/114342261.html

日本の首相側近にアメリカ軍のスパイ

 マスコミ・レベルの古い情報として、1994年10月9日付の「ニューヨーク・タイムズ」には、1950年~60年代、自民党に対しCIAが資金提供を行って来た事実が1面トップで報道されている。

黎明期から、自民党がCIAの「下部機関」として「育てられて来た」事実が、見える。

また同紙には、70年~80年代に、日本の官庁、首相側近に、CIAが情報提供を行い、CIAによって日本の政界、官界が「動かされている事」が、報じられている。

 また、1994年12月9日付の「産経新聞」には、同紙の編集委員であった久保紘之の体験談話として、自民党首相の側近である国会議員の秘書を担当していたアメリカ人男性が、米国に帰国する際、「秘書を辞めたため」、今後の連絡先として米国本土での、「本来の職業」が記載された名刺を渡して来た趣旨が書かれている。その名刺には、「アメリカ陸軍情報大佐」と記載されていた。

日本の首相の「側近・国会議員」を、米軍の諜報=スパイ専門の軍人がコントロールし、情報操作、自民党の政策誘導を行って来た「事実」を、これは暗示している






http://elbaal.hp.infoseek.co.jp/cia.htm


日本人スパイの活動について、共同通信は具体的に次のように報道しています。

 「CIAは、日本国内に最盛期には百人以上、現在も60人という在外支局としては世界で最大級規模の要員を配置し、自民党や社会党の議員、政府省庁職員、朝鮮総連本部、左翼過激派、商社員らに定期的に報酬を渡して秘密の情報提供者として確保してきたことが、複数のCIA関係筋の証言で明らかになった。(略) 政府情報機関では、第一に首相の動向が最大の関心事。CIAは、歴代首相の側近、周辺につねに情報提供者を確保してきた。日米間の貿易交渉をめぐっては、主に通商代表部の要請を受けて、CIAが日本側の交渉態度を探るのが通例。88年6月に決着した牛肉・オレンジ市場開放交渉では、農林水産省の情報提供者から『日本の最終譲歩リスト』 を入手していた、と別の関係筋は証言した。

 電気通信分野の交渉に関連しても、郵政省の内部やNTT、さらに通産省内部からも情報を得ていたという。日本企業のハイテクの軍事的側面も調査、京セラや大日本印刷、宇宙開発事業団、三菱重工、石川島播磨工業などが調査の対象となった」(共同通信95年1月5日付)。

 これに対して、CIAスポークスマンは、「ノーコメント」 を貫きました。もし事実無根であればCIAにとってこの非常事態に対して全面否定が道理であるはずが、ノーコメントというう言葉は暗黙の内に認める結果となります。それにしても、

日本の首相及び将来の首相候補には、CIAの情報網が張りめぐらされており、常にCIAの監視下
にあったことは、一部関係者の間では公然の秘密になっていました。




http://alternativereport1.seesaa.net/article/49609511.html

1. 米軍は、日本人全ての身分証明書のコピーを蓄積し、日本人全員の私生活を監視し、米国に反対する人物をチェックしている。

また、政治家、大企業経営者の女性スキャンダル情報等を集め、米国に逆らう場合にはそれをマスコミに暴露する事を仕事にしている、アジア最大のスパイ軍事組織アメリカ陸軍第500軍事情報大隊が神奈川県座間市に常駐している。

この部隊の下部組織として、日本人の個人個人の銀行口座の中味、株式投資の中味、家族構成、勤務先企業、友人関係等を監視、情報蓄積しているのが、自衛隊東部
方面隊第一施設団第三施設群と呼ばれるスパイ軍事組織である。
この部隊も米軍キャンプ座間内部にある。

自衛隊と米軍は別組織であり、本来自衛隊が米軍基地内部に常駐する事は違法である。


この違法な「一体化」は何なのか?
 徹底した秘密主義、度々暴露されるいくつかの悪事から、いかにも怪しい組織といった印象が全世界的に強いため疑念の対象として見られることも多い。イランなど反米国家においては、逆にテロ組織に指定されている。反米的な政権に対し起こされるクーデターの支援、外国の親米政党に対する秘密援助など、連邦政府・国務省が公的に手を下せない“裏稼業”に関わる事から「見えない政府」(Invisible government)、「クーメーカー」(クーデターメーカー)、「もう一つのアメリカ政府」(Another U.S.Government)

 イスラエルのモサド、イギリスのMI6とつながりが深い。また、米国、カナダ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドの諜報機関は、アングロ・サクソン連合として横の連携がある。

 政治家、官僚、軍人から、NPO活動家、宗教団体、留学生、芸術家、無職者に至るまで広範な職業に偽装させて、また非アメリカ国籍者も組み込んでエージェントを全世界に配置しているという意見がある。末端のエージェントや職員は自分の活動の目的となる作戦の全容を開示されていない、もしくは虚偽の説明を受けていることも多いという考えもある。ジャーナリストがテロの対象となるのを防止する意味と、報道の自由、中立性を担保する目的で、エージェントを報道関係者として偽装させないという鉄則がある。

 CIAは、アメリカの覇権の維持拡大を最終目的として、政権中枢と反政府勢力の双方に介入接触して政策決定をコントロールする分割統治方式を得意とし、反社会集団の活用も辞さない、アメリカが攻撃対象とできる反米集団をあえて育成して、軍事介入ないし戦争のきっかけを長期間かけて仕込む方式も好んで用いるという見方がある。

 敵国内での情報操作、プロパガンダから民衆扇動を行なうだけでなく、敵国指導者の暗殺も担当することがあると考えられている。

 日本での展開

 日本占領期から、児玉誉士夫、笹川良一、岸信介、田中清玄などをエージェントとして、設立期の自由民主党に活動資金を提供した。ゆえに自民党代議士は基本的に親CIA(指令局、指揮本部)が多いとされる] 。 日本の指定暴力団ともコネクションを持つとされる。 田中清玄や松永安左ェ門による日本の左翼学生運動の資金提供にも関与したとされる。岸の系列から、統一教会への関与も主張される。 エージェントの正力松太郎を使って日本全土を縦断する一大反共軍事通信網を構築する構想があったとされる。(→正力マイクロ波事件 )
(転載終わり)






(私論.私見)