「シオンの議定書」訳出にあたってのれんだいこメモ

 (最新見直し2008.2.10日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「シオンの議定書」は、その由来は「シオンの議定書の真贋考」で確認するが、1773年、マイヤー・ロスチャイルド(ロスチャイルド初代)がフランクフルトで開いた重要秘密会議で講演した「二十五項目の行動計画書」を元に、1776年、ヴァイスハウプトが作成したものであり、同時にイルミナティーを結社しマニュフェストとした。1776.5.1日、イルミナティが、ドイツ南部のバヴァリアで創設されたと推定されている。

 「シオンの議定書」はしてみれば、ユダヤ教パリサイ派の18世紀型進化系教本であり、ネオシオニズム思想に基き世界転覆即ちユダヤ王国建設による非ユダヤ民族征服の宿望を達成せんと企図しているところに特徴が認められる。イルミナティーユダヤは、この願望を達成する為に手段を選ばず、ありとあらゆる策謀を廻らし世界を改変していくことになる。そのアジェンダ(行動計画)が今日まで着々と押し進められ、今や諸国家の殆どが完全にその支配下にある。

 これを、後に打倒されるロマノフ王朝の官憲スパイが、1884年、パリで政治情報を収集する任務を帯びて勤務中に命がけで入手する。1901年、セルジェス・ニールスによりロシア語版「シオンの議定書(プロトコール)」が世に出される。既に1897年にステパーノフにより密かに印刷配付されていたとの説もある。但し、仲間内の廻し読み程度のものであった。ニールスが刊行した同じ年に、編集者の明記のない冊子が「諸悪の根源」と題して発行されているとも云う。「諸悪の根源」は、民族主義団体「黒百人組」の創設メンバーが発行したものと云われている。

 「ニールス版議定書」が出回った時期は、日露戦争の最中で革命運動が昂揚し、世情は騒然としていた。ロシアに本格的な革命勢力が生まれ、ロシアロマノフ王朝のニコライ二世を苦しめ始めていた。ロマノフ王朝は、革命勢力の背後に世界支配計画を持つ「シオンの議定書派」がいると睨んで、ロシア大衆に対し軽挙妄動に扇動されぬよう警告の意味で、「ニールス版議定書」を世に露見させたと考えられる。

 「シオンの議定書」出現以来の世界史は、これを推進する議定書派と反議定書派の抗争史とも読める。世界は戦争と動乱と植民地主義の渦に巻き込まれ、議定書派の頭目ロスチャイルド財閥は未曾有の富を蓄積することになった。やがて世界を動かすようになった。それを思えば第二次世界大戦に於ける日独伊枢軸は、反議定書派の最後の抵抗だった節がある。

 日独伊枢軸は、世界を撹乱する平和の禍根、人類福祉の仇敵として徹底的にユダヤ排撃を断行し、フリーメーソン−イルミナティー秘密結社を弾圧解散せしめると同時に、その手足機関をも閉鎖した。緒戦は、またたくまに西欧を席巻し優位に立った。しかし、史実は日独伊枢軸側の敗北で終わった。勝てば官軍、負ければ賊軍で、第二次世界大戦後の世界は、ネオシオニズムに更に思うがままに操られ始め今日を迎えている。

 その原典となる「シオンの議定書」を確認、検証することにする。

 2008.1.21日 れんだいこ拝


【予備知識】 
 エス・ニールスは「シオン議定書の公刊について」で次のように述べている。
 「原稿の題目は完全にその内容と一致していない。原稿は会議の議事録でなくして、むしろ誰か勢力のある人物の講演かあるいは報告のようなものであって、抽象的断片的切れ切れになっていて、論理的終始一貫した連絡を欠いている。読後感からこれを厳密に云えば、これは或る極めて重要な物の一断片であって、その初めの部分と、また多くの細部とが失われたか、もしくは発見できなかったものらしく思われる」。

 「シオンの議定書」の場合、その真贋論争に明け暮れるより、まずはその内容を吟味することが先決だろう。とりあえずどういう内容のことが書かれているのか確認しようと思う。

 そこで、「シオンの議定書」本文をインターネットで検索すれば、「(歴史の澱)シオン賢人議定書」、「(阿修羅)プロトコール」、「(ビクター・E・マースデン )ユダヤプロトコール(シオンの長老の議定書) 」、「(樹下村塾)プロトコール本文 」、「海つばめシオン賢者の議定書」、「ユダヤ議定書(プロトコール)」等々で確認できる。2004.9.1日、四天王延孝・氏著、太田龍・氏解説の「シオン長老の議定書」(成甲書房)も出版された。

 ところが、上記の訳文が一定していない。下敷きの版が違うのではないかと思われるほど多様な表現になっている。中には要旨不明な箇所に出くわすこともある。意図的な誤訳があるやも知れぬ。内容が内容なだけにそういう訳文を読み進めていけばいくほど且つ下手読みするとこちらの頭がおかしくなること、れんだいこが請合う。

 従って、れんだいこはまず、極力正確に理解したい。既成の訳文の正確さがこころもとなく思えるので、れんだいことしてはせめて確定された英文を参照にしつつ確認したい。そういう英文があれば、既に数書やってきたようにれんだいこ訳が生まれよう。だが、今のところ手に入れていない。仮に手に入れたとしても、英訳文そのものの正確さが保証されていなければ危うい。

 「シオンの議定書」の原文は何語で書かれているのだろう。フランス訳からロシア訳、更に英訳へと広がっているらしいのだが、底本が分からない。それが幾種類あるのかどうかも分からない。前述の訳書もその殆どがどういう訳かこれを記していない。残念の極みであるが「シオンの議定書」の研究はその程度にしか為されていないように思われる。

 れんだいこは、「シオンの議定書」には底本がいくつか存在すると考えている。為に、全体の趣旨は一致しているものの、部分の書き出しがかなり多様な記述になっているのではなかろうか、と思っている。その意味で、訳者は、何年本の出版元何のそれを訳出したと明らかにすべきであろうが、いずれにも明記されていない。無用な混乱を防ぐためにも依拠本を明記するのが望ましい作法のように思われる。

 四天王延孝・氏著、太田龍・氏解説の「シオン長老の議定書」は、1941(昭和16)年刊「猶太思想及運動」付録第三「シオンの議定書」を底本としたとあるが、その「シオンの議定書」は底本とは云わない。それが依拠した底本こそ明示されるべきではなかろうか。

 さて、そういう訳で、原文ないしは英文との突合せのないままに各種の訳本を眼光紙背に徹して「れんだいこ文」を作り上げることにする。それ以外に方法がない。その際、(歴史の澱)シオン賢人議定書が読みやすく大いに参考になるのでこれをテキストとする。

 「れんだいこ文」は、「シオンの議定書」の理路整然ぶりに留意して文章化することに努めた。そういう意味で意訳が多い。その結果、原文に近づいたのか遠ざかったのかそれは分からない。大胆過ぎ危険極まりないが、市井の訳文が今ひとつれんだいこを納得させないので致し方ない。むしろ原意は、れんだいこ訳の方が近いのではないかと思っている。そういうことをお含みいただき、以下、これを紹介する。

 2004.6.16日 れんだいこ拝

【各章の見出しについて】
 「シオンの議定書」は全体が24章で構成されている。これは間違いないものとしても、訳書により見出しが付けられていたりつけられていなかったりする。その見出しもまちまちになっている。そこで、れんだいこは思い切って、24章構成を踏まえつつ、その章の内容に応じて適当な段落ごとに見出しをつけ一括りにした。そのほうが却って理解しやすいからである。この方法で行くと、既成の訳本の見出しは大雑把過ぎてことごとく役に立たない。故に割愛した。

 2004.9.18日 れんだいこ拝

【「シオンの議定書」の口語体について】
 「シオンの議定書」は何らかの会議における講演録の可能性が強い。それも数日(恐らく三日)に亘っての。当然、口語体になっている。偽書ならばわざわざこういう手の込んだ細工をするだろうか。その内容も含め、これが偽書なる説は受け入れ難い。

【「シオン長老の議定書」に関する最良の解釈と論評について】
 太田龍・氏は、「時事寸評」の中で、現在、日本語で参照することのできる、「シオン長老の議定書」に関する最良の解釈と論評として次の二書を挙げている。

 その一は、 ユースタス・マリンズ著、太田龍監訳の「カナンの呪い」(成甲書房、2004.2月出版)で、176P以下の記述。もう一つは、「Robot's Rebellion By David Icke」(1994年未邦訳)で、「英語文献で、最良のもの」とのことである。

【「シオンの議定書最古本」について】
 れんだいこが主催する「人生学院掲示板」に、2008.1.5日、のきば氏より投稿bR30「シオンの議定書読み比べ」と題する投稿を賜り、「シオン賢者の議定書」の最古の原著が現在大英博物館のNo3926D17として保管されているとの指摘を受けた。

 更に、これより直接邦訳されているのが昭和17年のエス・ニールス著「ユダヤ議定書」(破邪顕正社)で「これはS・ニールスの第2版にあたるので、出版に際しての加筆などは少ないものと思えます。 信頼に足る邦訳を探されるのであれば、この破邪顕正社版が良いとおもいます」とコメントされている。

 さらに、投稿bR34で、次のように指摘している。
 「これには1911年のモスクワで刷られたロシア語の原著が載っています(おそらく第3版)。ロシア革命前の1917年時点で、30ルーブルで売買されていた議定書ですが(この当時は第4版で、聖ゲルギウス僧院で印刷出版されている…って議定書は坊主が一枚噛んでいるのか??)かなりの量を焼き討ちされているらしく、残った本は高値で売買され、革命後は500〜600ルーブル、1930年代では何百万ルーブルで取引されている程の稀覯本になってしまいました。今では全く入手不可能。訳者の久保田氏は、原著から直訳したのは自分だけだと、この書のなかで自負していたりもします」。




(私論.私見)