「シオンの議定書」の真贋考 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和/令和2).6.1日
(れんだいこのショートメッセージ) |
日本左派運動は、「シオンの議定書」に対して全く無知状態にある。滑稽なことに自ら求めて無知状態にしているように見える。「シオンの議定書」を云々し始めるや一笑に付すのが左派の見識とばかりに聞く耳を持たず、否耳を塞ぐ。2005.3月現在でも相も変わらず、世の自称サヨイストのみならず結構な左派グループ陣営の者からでさえ「トンデモ陰謀論説」観が披瀝されている。この作法はどのようにして形成されているのだろうか、れんだいこには解せない。 恐らく、マルクス、エンゲルス、レーニン、トロツキーらがなべて「シオンの議定書」に象徴されるネオシオニスト運動に不言及な為であろう。開祖が言及しないものは受け継がないとでもしているのだろう。しかし、当時なら許されても、以来マルクス主義が衰亡し、ネオシオニズムが隆盛しているその後の歴史を観れば、ネオシオニズムに対する不言及は許されないと云うべきではないか。この態度を採らないのなら、そういう者達のマルクス主義は宗教に化していることになる。あるいはネオシオニズムの下僕たらんとしていることになる。そういう連中に限って我こそは科学的主義屋だと公言する。滑稽というべきか哀れというべきか。 れんだいこが「シオンの議定書考」を世に問うたのは2004.6.16日頃である。れんだいこは、本サイトで、「シオンの議定書」の考察を陰謀論で一蹴するのではなく、これを真っ当に研究していく必要を提起した。しかし、無視されている。こうなると、「トンデモ陰謀論説」でオカルト批判をしている側の者が変なオカルトに感染しているように見えて仕方ない。本サイトで、どちらがオカルト感染者なのか確かめようと思う。 「世界権力構造の秘密 ユースタス・マリンズ(Eustace Mullins) 1」、「『プロトコール』真贋論争の最終結論」その他参照。 2005.3.6日、2006.6.17日再編集 れんだいこ拝 |
【「シオンの議定書」とは】 | ||
「シオンの長老の議定書(プロトコール、Protocols of the Elders of Zion)」(以下、通称の「シオンの議定書」と記す)は、次のように評せられている。
その内容を知ればむぺなるかなであろう。「シオンの議定書」が史上に登場したのは、1901年、セルジェス・ニールスによるロシア語版「シオンの議定書」を嚆矢とする。同書で、ユダヤ人グループ内ネオシオニストの陰謀が明るみにされることになった。セルジェス・ニールスが「シオンの議定書」を入手した経緯は後述するとして、その底本は定かではない。いずれにせよ、1897.8.29日から31日にかけてスイスのバーゼルで開かれた第1回シオニスト会議の席上で、ユダヤ人の秘密結社ブネイ・ブリスのメンバーであるアッシャー・キンズバークが発表した「シオン長老作成の24項目の決議文」が存在すると云う。仮にこれを「シオニスト会議プロトコール」と称することにする。 元になる原文は誰の手になるものかまでは分からない。近代シオニズムの父デオドール・ヘルツェル博士が書いたものとみなされているが、それは表面的な受取りであろう。内容的に見て、第1回シオニスト会議か恐らくはそれ以前の段階における重要なユダヤ人秘密組織の秘密会議の席上での、「ある長老による三日間講義録」であるように思われる。仮にこれを「ある長老による三日間講義録プロトコール」と称することにする。 「第1回シオニスト会議」は世界史上の最重要な日となっている。それは、ヘルツェルが主催したとされているこの会議で、政治的シオニスト運動の国際組織「世界シオニスト機構」が創設され、「公法で保証された(世界が承認した合法的な)ユダヤ人のホームランドをパレスチナに創設することが宣言された」ことにある。以降、「土地なき民に民なき土地を」プロパガンダが喧伝されていき、実際にはアラブの民を追い出しながらイスラエル建国となり、はるけき今日の「国際金融資本支配-米英ユ同盟によるネオ・シオニズム全盛政治」にまで至っている、と見なせるからである。 その「第一回シオニスト会議」開催の動因力となったのが「シオンの議定書」である。いわば、ユダヤ人グループ内ネオシオニストにとって「シオンの議定書」は、キリスト教徒の聖書、マルクス主義者の「共産主義者の宣言」に匹敵する地位を持っていることになる。それほどの重要な文献が、セルジェス・ニールスによって暴露された史的意義は高過ぎる。かく認識すべきであろう。 2006.6.5日再編集 れんだいこ拝 |
【「シオンの議定書」偽書説とは】 | |||||||||||||||||||||||||||||
しかし、通説的には次のように評されている。
かく見なされ、排斥されている。「シオンの議定書」その他を参照すれば、その理由として次の諸説が挙げられている。
以上3説の理由づけで、「故に、シオンの議定書は紛れもない偽書なのだ」と云う。しかし、3説はいずれも異なる見地のものであるのに精査されていない。つまり、「否定するための論拠のあれこれ」でしかない。 2006.2.3日づけ読売新聞の12版で、解説部の波津博明氏は「ハマスの原理主義綱領」の見出しの小論を書いており、その中でシオンの議定書に触れて次のように述べている。
波津氏は、文末で、「帝政ロシアが作成したといわれる偽書さえ援用して、ユダヤ人陰謀説を説く徹底した反ユダヤ主義だ」と何の疑いもなく断じている。これによると、波津氏は、通説的な偽書説に依拠して「ハマスの原理主義綱領」を批判していることになる。 これに関連して、「ユダヤ人問題」は、概要「『ユダヤの陰謀説』が、日本の部落差別同様の排外主義的な一般大衆の不満のはけ口として利用されている」とする見解を示して、次のように述べている。
「名誉のために名を秘す」氏の次のような言説も為されている。
これにつき、「阿修羅」のあっしら氏が20002.11.19日付「『シオン長老の議定書』偽書説について」で、素敵な言い回しで「偽書説の空疎な反論」を衝いている。「『ロシアの秘密警察が1920年代に偽造したと言われ』とあるが、記憶によれば、流布しているのは、ソ連時代ではなく帝政ロシア時代(1905年頃)の警察関係者の偽造説ではなかっただろうか?(ご存じの方フォローをお願いします)」の問いに対して次のように述べている。これを転載しておく。
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上述のように真贋を廻って論争が為されているが決着がついていない。その理由として、その内容において「あまりにも露骨な且つ驚倒すべきリアリズム的陰謀論理に基づく世界支配計画」が認められるからである。読了した者には自明であろうが、「シオンの議定書」にあるごとく、「世界支配の陰謀」なるものが存在し、これを座右の書としている勢力が跳梁しているとしたら、それは脅威に過ぎるであろう。これに、かのヒトラーが対峙していたのは事実であるが、実書派も偽書派も取扱いに苦労しているのが実際のところのように思える。 れんだいこが注目するのは、いわゆる左派圏の否定派の見解である。ネオ・シオニズム派がおのれらの悪行の露見を恐れてこれを否定するのは当然としても、その大胆過ぎる観点からであろうか、左派圏の人たちは概ね「旧体制護持帝政派側からのフランス革命以降の近代的諸革命運動に対する革命抑圧を企図した悪質な逆宣伝偽造書であるとする」見解に依拠している。この観点は、「シオンの議定書」の入手経緯のミステリーさに不自然さを見てとり、ロシア帝政の放った間諜が取得したとされている経緯を疑惑することにより補強されている。その真偽は今も不明である。 実書派の書籍紹介は、「ユダヤの陰謀を窺い知る必読の書」として次のように述べている。
ここで、れんだいこの見解を示せば次のようになる。 れんだいこは、「シオンの議定書」は、「ユダヤ王による世界支配宣言書」として紛れもなく存在すると受け留めている。あまたの偽書説が流布されているが、書かれている内容を読み取った方が早い。さすれば、偽書説が為にする「議定書隠蔽工作」でしかないことが分かる。そういう主張をする者に限って罵倒に終始し、内容の紹介に及ばないのも頷けるところである。「シオンの議定書」の内容があからさまにされることを怖れているのであろうが、議定書派の者ならともかく、何の関わりもない自称インテリが率先して加担しているのは滑稽なことだ。偽書派は、「シオンの議定書」を俗に採るに足らぬ「陰謀書」とみなして排斥しようとしている。れんだいこは、それは違うと思う。「シオンの議定書」において「陰謀論」はその要素の一つに過ぎない。しかと聞け。正しくは次のようにみなすべきであろう。
かく評して位置づけるべきであろう。 これを総称して「陰謀論」とするなら、「陰謀論」という命名自体はおかしくない。しかし、れんだいこのようにそういう陰謀は存在するとして「陰謀論」を受け止めるのではなく、逆に陰謀は存在しないとして否定する為に「陰謀論」を唱え、「シオンの議定書偽書説」を吹聴するのなら、連中は実書派の論拠に反論せねばなるまい。果して、その反論をしているのだろうか。例によって、ホロコースト論同様に「議論せぬのが上策」として単に排斥しているだけなのではなかろうか。 れんだいこが見るところ、「シオンの議定書」はむしろ対話すべき性質のものである。何とならば、彼らが目指すユダヤ王朝論理の検討にこそ向うべきであろうから。その指摘は、人類社会の警句としてかなり鋭いものがある。同書の非ユダヤ人諸国家の支配秩序に対する批判は的確で辛辣である。この方面の指摘に対する問答だけでさえ値打ちものであろう。その鋭さを思えば、偽書派の云う如く仮にロシア帝政の秘密警察の創作であったとした場合、度の過ぎた体制批判が繰り返し為されており、何のためにそこまで内情暴露する必要があったのだろう、との疑問が禁じえない。 もとへ。最終的に、彼らが構想する「ユダヤ王社会」の検討に移らねばならない。それがなるほど彼らが自画自賛するほどに秀逸な人類の未来社会なのか、単に戯画的なそれなのか、「悪の論理」による狂信的奴隷社会招来プロトコールなのか、そこを問わなければなるまい。 我々人民大衆にとっては次のような実践課題が提起されている。「シオンの議定書」で示された運動が実在するとして、旧あるいは現支配秩序を貫く歴史のベクトルを、「シオンの議定書」が説くような「ユダヤ王支配社会」方向に向わせるのが賢明なのか愚挙なのか、後者であるとすれば我々はどのような道筋を対置すべきなのか、していくべきなのか等々が問いかけられているように思う。 こういう思想的営為を為さずして、「シオンの議定書」を「単なる陰謀論教本」と見なしてその価値を落としこめ、検討を放棄することは、それこそ問題ありではなかろうか。れんだいことしては、「議定書派ユダヤ人頭脳の狂信ぶり」を理論的に明らかにしない限り、「シオンの議定書」研究は終わらないと思っている。内容が高度でもあるので、それにはかなりな能力が要求され、誰しもにできる業ではなかろうが。 いずれにせよ、「シオンの議定書」は無視されるものではなく格好の理論闘争テキストと見なして大いに検討されるべしであろう。ならば、「5W1H」こそ確認しておかねばならない。現に書物としてあり、それが質疑されるに値する内容を持っていることは事実なのだから、正式書であるとする側からであろうと偽書であるとする側からであろうと、何時ごろ(when)、何処で(wheres)、誰が(who)、何の為に(why)、何を(what)、如何にして(how)書かれたのものなのか、如何に露見することになったのか、如何に歴史的に登場することになったのか、を確認せねばなるまい。 これをせずして「ユダヤの陰謀実書か偽書か論」に拘泥するさまは詰まらない。内容的に見てかなり重要なメッセージの宝庫である以上、加えて世界の諸事情が現に「シオンの議定書」に書かれている如くに推移しているように見える以上、その内容に習熟し吟味せねばならないだろう。孫子曰く「敵を知り己を知らば百戦闘うも危うからず」ではないか。実際は、「シオンの議定書を知らず、己も知らず、百戦闘うも闘えば闘うほどジリ貧」ではないか。根本姿勢からしておかしいからそうなる。これがれんだいこの観点である。しかるに、これをしようとしない。特にいわゆるサヨ系のアレルギーが強いように見受けられる。こここそ怪しむに足りるというべきであろう。サヨ系の親ネオ・シオニズム傾向については稿を改めて述べることにする。 2004.6.16日、2006.6.5日再編集 れんだいこ拝 |
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2006.1月、「愛宕北山氏のユダヤ問題論考」に行き当たり、愛宕北山氏が「第1章、ユダヤ魂の本質」の「シオンの議定書」の項でかなり詳しく真偽問題を検討していることが判明した。特に、偽書派により「1930年代には、ベルンの法廷が偽物との判定を下している」と流布されているベルン法廷の実際の様子を明らかにしている点で貴重である。 2006.1.20日 れんだいこ拝 |
【「シオン長老」とは】 |
「シオン長老」とは、自他ともに認めるグランドリアンの33位階のフリーメーソンであったことは事実である。フリーメーソンは、「メーソン乗っ取り」を云うまでもなく、その奥の院が「ユダヤ人フリーメーソン長老」により構成されていることも判明している。メーソンの内部記録にはフリーメーソンにしてフランス支部の最高監査役として鉄道王ジェームスの名前が明記されている。フランスではロスチャイルド家のことを“フライット街の帝王”と呼んできた。こうしてシオン長老二十四人のうち一人はロスチャイルドであることが判明している。 |
【「プロトコール」とは】 | ||
「ユダヤプロトコール」、「阿修羅♪プロトコール」を参照する。
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【「1492年のプロトコール手紙」】 | |||||||||||||
「ユダヤプロトコール」、「阿修羅♪プロトコール」を参照する。「プロトコール」がいつごろ書かれたものか定かでない。次の事例が知られている。
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これによれば、ユダヤ教徒は、キリスト教徒の迫害に抗する為に、1・偽装転向する。2・商人になる。3・医師、薬剤師になる。4・キリスト教の神父になる。5・弁護士ならびに法律家となるよう指示されている。これが、1492年時点の指針である。この指針によってかどうかはともかく、ユダヤ教徒に商人、医師、薬剤師、弁護士、法律家が多いことは事実である。 2006.6.5日 れんだいこ拝 |
【1773年、「ロスチャイルド(初代)主宰秘密会議】 | |
「太田龍の時事寸評」の「フランス革命の真相に迫る気運を醸成せよ」は、「シオンの議定書」の誕生過程を次のように述べている。引用元は、ユースタス・マリンズ著「民間が所有する中央銀行」。原文は、1958年、ウイリアム・G・CARR(W・G・カー)著の「PAWNS IN THE GAME」(ポーンズ・イン・ザ・ゲーム、将棋の駒)(成甲書房、2005.1.25日初版)。これをれんだいこ風にまとめる。 著者W・G・カー(1895~1959年)の履歴は次の通り。
1773年(フランス革命が起きる16年前)、マイヤー・ロスチャイルド(初代)は、弱冠30歳で、12名の国際ユダヤの巨頭を招いて、フランクフルトで秘密重要会議を開いた。ロスチャイルドは、その会議で、英国のピューリタン革命を検証し、これを教訓化させ、フランス革命を勝利的に導くよう指針させた。その上で、「フリーメーソンに代わるより生硬な」、全世界に対する支配権を手中に収めるための「世界革命運動」の創出について述べ、その為の「二十五項目の行動計画書」を打ち出した。これが「シオンの議定書」の原型となった。(「二十五項目の行動計画書」の概要が、「裏の世界史」P102~110に記されている) この時、「世界革命運動」を実行するための地下秘密組織イルミナティ(Illuminati)の創設が決定され、改宗ユダヤ人にしてイエズス会士にしてインゴシュタット大学法学部長アダム・ヴァイスハウプト(1748~1811、当時26歳)がイルミナティ責任者として選抜された。 |
【「ロスチャイルド(初代)の『二十五項目の行動計画書』」考】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
この時の「二十五項目の行動計画書」とは次の通り(「世界革命行動計画」、「目覚めよ日本!、日本の未来: 「ユダヤシオン長老議定書」から学べ!」その他参照)。マイヤー・ロスチャイルド(初代)の独演を筆記するという体裁となっている。
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【1776年、イルミナティ創設者のヴァイスハウプトが「シオン長老の議定書」を策定する】 | |
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「W・G・カーの指摘」によれば、マイヤー・ロスチャイルド(初代)が「二十五項目の行動計画書」を講演し、これが下敷きとなってイルミナティの創始者ヴァイスハウプトにより後に「シオンの議定書」として纏められたことになる。「シオンの議定書」は確かに講演口調であるからして、これは貴重な指摘であるように思われる。してみれば、「シオンの議定書」の原作者はマイヤー・ロスチャイルド(初代)と云う事になる。これについては、「イルミナティ考」の「イルミナティの歴史」で検証した。 2006.6.5日 れんだいこ拝 |
【「第一回シオニスト会議プロトコール」考】 |
「第一回シオニスト会議プロトコール」は、1897.8.29日から31日にかけてスイスのバーゼルで開かれた第一回シオニスト会議の席上、ユダヤ人の秘密結社ブネイ・ブリスのメンバーであるアッシャー・キンズバークが読み上げた「シオン二十四人の長老」の決議文で、もとの原稿は近代シオニズムの父デオドール・ヘルツル博士が書いたものとされる。 |
【「三百人評議委員会」との繫がり考】 | |
太田龍・氏の「縄文日本文明1万5千年史序論」は次のように記している。
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【「シオンの議定書」の底本考】 | ||||||||||||||||||
四天王延孝・氏著、太田龍・氏解説の「シオン長老の議定書」は、「猶太(ユダヤ)の思想と運動」の項で、「シオンの議定書」の底本について極めて重要な経緯を記している。それによると、ユースタス・マリンズの「カナンの呪い」文中に次のように書かれている、と云う。これをれんだいこ風に整理してみる。
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「シオンの議定書」にはこうした経緯がある。太田龍・氏は、「このマリンズの叙述には『シオン長老の議定書』の『偽書説』を木っ端微塵に粉砕する理論と論証の全てが集約されている」と賛じている。れんだいこ読むところ、ユースタス・マリンズの説明は腑に落ちるものがある。してみれば、「マキャべりとモンテスキューの地獄における対話」を原本とすることで偽書説を構築している偽書派の説は底の浅いことが判明する。 ちなみに、太田龍・氏は、2006.2.3日付け読売新聞の波津博明氏の「ハマスの原理主義綱領」の見出しの小論に於ける「シオンの議定書は、帝政ロシアが作成したといわれる偽書」説に対し、2006.2.6日付け「時事評論、シオニストユダヤの手先、反イスラムサタニスト売国奴讀賣新聞を告発する」で次のように批判している。
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【フランスで密かに紹介される】 | |
「『シオン賢人議定書』談録裁講」は次のように記している。
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【「ニールス入手プロトコール」の入手経緯】 (「ユダヤプロトコール」、「阿修羅♪プロトコール」参照) |
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1901年、セルジェス・ニールスによりロシア語版「シオンの議定書(プロトコール)」が世に出されるが、いかにしてそのプロトールが広く知られるに至ったかの「入手物語」は極めて興味深い。次のように認(したた)められている。
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【「ニールス版議定書」の出版経緯】 | |||
「ユダヤプロトコール」、「阿修羅♪プロトコール」、「シオン長老の議定書の背景-創られた予言と警告の書-」その他を参照する。
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【ニールス版「プロトコール」の命がけの経緯考】 | |
愛宕北山氏は、1938(昭和13).1月の「シオンの議定書付録」の中で、当時の経緯を次のように解説している。
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【「プロトコール」のロシアからの頒布経緯】 | |
2006.9.3日再編集 れんだいこ拝 |
【「プロトコール」の英訳経緯】 | |
「阿修羅♪プロトコール」を参照する。ロシア語訳「シオンの議定書」の英訳に向ったビクター・E・マースデン( Victor E Marsden)のその後には壮絶なドラマが待ち受けていた。次のように書かれている。
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【日本語訳の経緯】 | ||
議定書の日本への最初の紹介は、大正8、9年、久保田栄吉・氏のロシア語からの訳本を嚆矢とする。 酒井勝軍・氏が、「日猶同祖論」を繰り広げながら、議定書も紹介するという流れもある。 1918年、日本政府のシベリア出兵が、帝政ロシアの反ユダヤ政策を知らしめることになる。共に共産主義と戦った白ロシア反革命軍の一兵卒に至るまで配布されていた「シオンの議定書」が日本軍部の目にとまり、これを研究していくことになる。白ロシア反革命軍は、「国家を持たないユダヤ人は、世界制覇を狙っている、その為の金融資本の支配であり、共産主義革命なのだ」と示唆した。 犬塚惟重海軍大佐、安江仙弘(のりひろ)大佐を中心に陸海軍で「ユダヤ(陰謀)研究」が盛んになり、石原莞爾らと昵懇であった安江大佐は「シオンの議定書」の翻訳、出版を行うに至る。しかし軍のみならず外務省をも巻き込んでの「ユダヤ(陰謀)研究」は、目立った成果を挙げ得なかった。 大正末年から昭和20年敗戦前までユダヤ・フリーメーソン批判が展開されていくことになる。 1934年から40年頃にかけて、ヨーロッパのユダヤ人を満州に移住させ、世界の金融を握る米英のユダヤ資本を投資させその開発に利用するという秘密計画「河豚(フグ)計画」が、日本政府一部上層部によって企画立案される。 「河豚(フグ)計画」の名前は、「シオンの議定書」の翻訳者でもある犬塚惟重海軍大佐の次の言に由来する。
つまり、「危険だがうまいフグ=ユダヤ」観から命名されたことになる。 1934年、外務省から、「ドイツ系ユダヤ人五万人の満州移住計画について」が発表される。これがいわゆる「河豚計画」の始動となったが、流れは次第に日米開戦に向かい、それと共に「河豚(フグ)計画」は雲散霧消していくことになる。(マービン・トケイヤー、メアリ・シュオーツ著「河豚計画」、1979年、日本ブリタニカ) 1938(昭和13).1月、某帝国大学助教授の愛岩北山氏が、光明思想普及会の「いのち」に「シオンの議定書」を完訳掲載、解説付きで発表した。 同年12.25日、久保田栄吉氏が「世界転覆の大陰謀ユダヤ議定書」(エス・ニールス著、破邪顕正社、167P)を出版している。次のように解説している。
1941(昭和16)年、陸軍中将・四王天延孝・氏が、フランス文三種、英語訳、ロシア語訳、邦文訳を参照しつつ「猶太思想及運動」を発行した。四王天・氏は、陸軍きっての反ユダヤ主義者として名を馳せることになる。 |
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安江仙弘の履歴 1888.1.12日、安江仙政の長男として秋田県秋田市の平田篤胤の生家で生れる。京華中学校、陸軍中央幼年学校を経て、1909.5月、陸軍士官学校(21期)を卒業する。同期に石原莞爾、樋口季一郎等がいる。1918年、シベリア出兵に参戦する。この時、グリゴリー・セミョーノフなど白衛隊軍の将校から『シオン賢者の議定書』を受け取る。帰国後、1924年、包荒子のペンネームで「世界革命之裏面」を著し、『シオン賢者の議定書』全文を日本に紹介した。1927年、ユダヤ研究を命じられ、酒井勝軍を英語通訳として伴い、パレスチナ、エジプト、欧州を視察する。以降、急速に親ユダヤ的傾向を強める。在郷軍人会本部の依頼で書かれた「猶太の人々」(1934)の結論には安江のユダヤ観が次のように披瀝されている。
1935.2月、ハルビンで極東ユダヤ人会議の議長カウフマン博士及び幹部たちとの協議の結果、日本民族とユダヤ民族間の親善実行団体として「世界民族文化協会」が創立された。安江は自ら会長となり、医学博士の磯部検三を顧問とし、在満ユダヤ人の保護に尽力した。1938(昭和13).1.21日付で関東軍司部で策定された「現下ニ於ケル対猶太民族施策要領」は、「満州国開発に際し外資導入に専念するの余り、ユダヤ資金を迎合的に投下せしむるが如き態度は厳に之を抑制す」と記している。河豚計画を海軍の犬塚惟重と共に構想している。犬塚は、1938(昭和13).10月の講演で、「ユダヤ人の咽喉を扼し徹底的に之を圧服するを要す。即ち日本側が厳然実力を振い得る今日確固たる自信と強烈なる意気込みとを以て彼等を牽制圧服し、我國に依存するの必須なる所以を了解せしめ、他面その馴致工作を実施するを適当とす」と述べている。 1945.8.23日、大連でソ連軍に逮捕され、1950.8.14日、ハバロフスク収容所で病死した。安江は、「日本をこのようにしてしまったのは、我々年配の者達の責任だ。俺はその責任を取る。ソ連が入って来たら拘引されるだろう。俺は逃げも隠れもしない」 と言い残して凍土に没した。在満時代にユダヤ人保護のために奔走した安江に深い恩義を感じていたミハエル・コーガンは、安江がハバロフスクの捕虜収容所で亡くなった後、葬儀が挙げられていないことを心配し、1954(昭和29)年、「在日ユダヤ協会で一切の費用を持つから好きなようにやって下さい」 と申し出た。『シオン賢者の議定書』の翻訳者として、安江を嫌っていたユダヤ学者、アブラハム・小辻でさえ、その回想録『東京からエルサレムへ』(1975)において、「大連特務機関は、安江大佐によって率いられていた。満州の事業に親しみを寄せるユダヤ人たちは、安江に恩義を感じ、実際安江が多くの点でユダヤ人を助力したのはまったくの真実である」 と認めざるを得なかった。安江の葬儀には、イスラエル公使やユダヤ人協会会長も出席し、在満時代のユダヤ人保護の尽力に謝意を示した。満州ユダヤ人社会の指導者であったアブラハム・カウフマン博士は、安江に信頼を寄せ、その回想録『キャンプの医師』(Camp Doctor, 1973)には、敗戦後同じくシベリアの強制収容所に捕らわていた日本の軍民に同情の念はあっても、日本人への怨嗟の言葉一つなかった。そのため、カウフマンは、ユダヤ人社会から「対日協力者」のレッテルが貼られたが、それも意に介さなかった。戦後、樋口季一郎とともに、イスラエルの「ゴールデン・ブック」に「偉大なる人道主義者」として名前が刻印された。 |
【ヘンリー・フォードのユダヤ研究】 | |||||||||
1920年、 世界的自動車メーカーのフォード社の創始者にして「自動車王」と称されていたヘンリー・フォードは、国際ユダヤの陰謀に対する警告運動を開始した。フォードは、巨額の私財を投じてネオ・シオニズム批判運動を行った。対戦前にドイツを訪問して、ヒトラーと親交し、最高勲章を授けられている。 独立系新聞「ディアボーン・インディペンデント」に「国際ユダヤ人」に関する連載を始め、その中で「シオン長老の議定書」も取り上げていた。秋には「国際ユダヤ人」として発売した。この本はアメリカ国内で約五十万部を売り上げ、さらに十六国語に翻訳された。ここでプロトコルは世界的にその存在を知られるようになる。だが7年後、周囲の抗議や訴訟などで遂にフォードは内容を否定し、本の回収に同意する。 太田龍解説「シオン長老の議定書」は次のように記している。
1921(大正10).2.17日号「ニューヨーク・ワールド」に次のようなヘンリー・フォードと記者質問記事が掲載されている。
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【ヒトラーの反ユダヤ論】 | ||||
ヒトラーは、次のように評している。(「『シオン賢人議定書』談録裁講」)
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「シオンの議定書」を偽書と云おうが云うまいが、「シオンの議定書出版弾圧史」は否定すべくもない。判明する奇妙なことは、世の自由主義者、社会主義者、マルクス主義者が、ユダヤ人の不幸な歴史には過度に同情的ながら、ユダヤ人側からのかような弾圧には過度に盲目になることである。何かおかしいのではないのか。れんだいこはそう問いたい。 2006.9.3日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)