陰謀論考(「陰謀論批判の批判」)その2 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和/令和4).8.21日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで陰謀論を考察する。「陰謀」とは「Conspiracy」のことで、「誰かが秘密主義的に図って悪事を働くこと」を意味する。これが「陰謀」の定義である。「陰謀論」とは、そういう陰謀の存在を指摘する論であるということになる。「revelation」(陰謀暴露論)とも云う。「陰謀」と「陰謀論」と「陰謀暴露論」はこういう関係にあることを理解しなければならない。ここでは用語として「陰謀論」を使う。 ところが、陰謀論はウヨサヨからも使われる。れんだいこも含め既に多くの識者が、ネオシオニズムの悪事的秘密結社の動きに対して陰謀論としてカテゴリー化させ言及しているのに対し、ウヨサヨは、この同じ用語を使ってネオシオニズムの悪事的秘密結社の存在及び活動を否定する為に使う。こうして、同じ陰謀論なる用語が正反対の意味で使われている。どちらが先に使い始めたのか分からないが、ケッタイナ話しである。 れんだいこの察するところ、ウヨはネオシオニズムの直接のエージェントであるからして保身的にも否定的陰謀論に向かうのを職業とするが、サヨの場合には少し手が込んでいる。あたかもマルクス主義の学徒然として、陰謀論はマルクス主義的歴史法則を弁えずに特定の陰謀集団が歴史を動かしているとするのは非マルクス主義的見方であるとして、そういう見地から陰謀論批判としての陰謀論を唱えているように見える。 ところが、そういう陰謀論批判の立場を取る連中に限って不思議というか当り前というべきか、西欧史ではユダヤ人迫害史にのみ注目し、「哀しき流浪の民ユダヤ人」に同情的になる。返す刀でナチス批判に向かい、ヒトラーを狂人と看做し、ホロコースト批判を繰り広げる。あるいはファシズム批判を常用する。日本史に目を転じては大東亜戦争批判、戦前軍部批判、天皇制批判に向かい、南京大虐殺批判、それに纏わる諸事件のフレームアップを弁舌する。興味深いことに、彼らは概ね著作権全域全方位拡大というスタンスで共通している。 こうなると、明らかに政治的意図を持って登場している訳で、陰謀論批判の社会的背景を考察せねばなるまい。そういう訳でここにサイトを設けることにした。 2006.10.29日 2009.5.21日再編集 れんだいこ拝 |
【「文系頭脳の原発批判論」その6】 |
2012年10月12日 (金)
【「文系頭脳の原発批判論」その6、国際ユダヤの悪徳商法そのものとしての原発利権を弾劾せよ れんだいこは既に脱原発に向けての論考「文系頭脳の原発批判論」を№1から5まで発信している。 れんだいこの「文系頭脳の原発批判論」 (jissen/hansenheiwaco/genshiryokuhatudenco/jicojikenco /2011sanriku/bunkeizunonogenpatuhihanron.html) |
本論考で世の迷蒙を撃ったつもりでいるが、原発利権族の蠢動が止まらない。批判の舌鋒がなお足りなかったと反省し№6を添えることにする。我々はなぜ脱原発に向かわなければならぬのか。その科学的地球環境的文明的批判は既にかなりされているので、本稿で未だ為されていないと思われる反ユダヤ主義観点を付け加えることにする。 2012年10月現在、日本政界の保守系政党と財界は、福島原発事故の後処理がままならぬ最中に於いて原発続投を掛け声している。民主党政権は「2030年脱原発」を掲げているが、脱原発に力点を置いているのか、2030年までの引き延ばしを画策しているのか態度が曖昧である。れんだいこには、引き延ばしの方に重点があるように見える。我々はそろそろ日本の政財界を覆う原発続投が何に起因するのかを問わねばならないのではなかろうか。 既に原発続投派のロジックは至るところで破綻している。原発なしに電力の安定供給が覚束ないと云うのであれば、何故にドイツでは2022年までに原発ゼロを目指すことが可能なのかを問わねばならない。ニュージーランドはかなり早くより脱原発国家になっており今日では脱火力さえ目指す先進エコエネ国家になり得ているが、なぜ可能なのかを問わねばならない。既に原発登場時に比してエコエネ技術の発展が目覚ましく、官民共同総力で取り組めば脱原発は案外と容易なのではなかろうか。然るに何故に執拗に原発続投が画策されているのか、これを問わねばならない。 出て来る解は、国際金融資本の圧力である。それしか考えられない。では国際融資本とは何者か。これを簡略に説明すれば要するに、近現代史を操る裏世界政府だと思えば良い。そのようなものが存在するのか、実体があるのか。こう問うこと自体が封印されている。世に云う陰謀論批判がこれを援護射撃している。しかしながら、この禁断の扉を開けて見えてくるのは然りの解である。但し、この解は論者によって色々に語られる。ここに大田龍が登場する。大田龍は丹念な歴史考証によって裏世界政府の正体を明かした。それによると、近代史に於いて西欧諸国家を金融コントロールすることで財を為したロスチャイルド系国際金融資本を頂点とする財閥及びその閨閥が裏世界政府の実体であると。本当にそのようなものが存在するのか。れんだいこは然りと答える。 日本は永らくの間、極東の小さな島国として、ロスチャイルド系国際金融資本を廻る西欧史的抗争に巻き込まれることなく経緯して来た。西欧史的な抗争の扉が最終的に開かれたのは1853年の黒船来航と翌年の日米和親条約によってであり、その後も国際金融資本特有のスティルス的間接支配により捉えにくい為に連中の策動を認め難いのであろうが、西欧史の戦争と革命の動乱史、世界分割植民地史を紐解けば一目瞭然である。極東の小さな島国の日本の常識で測っていては真相が見えないだけのことである。かく自覚せよ。 もとへ。原発は国際金融資本の生み出した発電装置であり、元々は原子爆弾に由来する。第二次世界大戦後、原発の爆発エネルギーの電力化として生み出されたものが原発である。その際頻りに平和的利用が云われたが原義は平和にあるのではない。軍事用の原子爆弾を非軍事的に利用すると云う意味での平和的利用に過ぎない。そういう意味で、便宜的用語として平和が冠せられたものに過ぎない。原発導入時、原発が果たして平和的なものであるのか、正しい冠詞であるかどうかの詮議が必要なところ、その論議は封殺された。アインシュタインを始め多くの原発学者が原爆の平和的利用はあり得ない、そもそも稼働中の危険、有害物質排出、最終核廃棄物処理の不具合を指摘し未完の科学でしかないとして強く反対したのは衆知の通りである。これらの危惧を封印して無理やりに生み出されたのが原発である。原発誕生経緯のこの不正を再確認せねばなるまい。 原発はあろうことかその後、地球環境汚染が云われ始めるや安全クリーンエネルギーとして喧伝され始めた。この時も、原発が本当に安全クリーンエネルギーなのかどうかの詮議は為されなかった。表面的な石炭、石油の化石燃料に比しての排出ガス量の比較でのみ、これを排出しない原発の優位性を誇ったものに過ぎない。学問が本来の学問であれば、化石燃料的ガスを排出しない原発固有の長所と環境を、放射能汚染し続け且つ最終核廃棄物の処理ができて居ない短所とを比較検討し、石炭、石油その他燃料との総合比較をせねばならぬところ、有利な一指標でのみ測り、安全クリーンエネルギーとして喧伝したに過ぎない。 れんだいこが注目するのは原発推進勢力のこの詭弁(きべん、sophism)である。この論法、論理はどこかで聞き覚えがある。敏(さと)い読み手は気づくであろうが、西欧圏世界でその昔にイエスが論争したパリサイ派の論法、論理そのものである。かの時、イエスは、パリサイ派の神義学の不正と虚偽を論難し抜いた。「神の名を騙りながら神を欺く不敬の輩」としてパリサイ派教義を論駁し抜いた。本稿はこれを確認するものではないので割愛するが、イエスがパリサイ派の信仰を人類の厄病神信仰、悪魔主義信仰であるとして批判したことを結論的に共有したい。 但し、イエスの論難をもってしてもパリサイ派を排撃できなかった。否排撃されたのはイエスの方であった。但し、イエスの論難は捻じ曲げられた形でキリスト教へと転化させられ、西欧諸国家はキリスト教国家として秩序形成して行くことになった。西欧史ではこの時代を中世と云う。その間、パリサイ派は雌伏を余儀なくされた。但し、したたかに歴史に生き延びた。そのパリサイ派が台頭し西欧圏で猛威を振い始めるのが近代である。この流れが現代へと続いており今日へと至っている。これを逐一論じると紙数を増すばかりなので割愛するが、要するにパリサイ派の厄病神信仰、悪魔主義信仰はロスチャイルド系国際金融資本の教義となり、ロスチャイルド系国際金融資本は、この教義を元に今も世界を造形しつつ裏世界政府となって各国を支配していると云う認識を持ちたい。国際金融資本が頭脳であり、パリサイ派の教義がイデオロギーである。 かく踏まえた次に確認せねばならないことは、原発とロスチャイルド系国際金融資本の関連性である。れんだいこは、原発はパリサイ派の厄病神信仰、悪魔主義信仰がもたらした悪魔科学の産物であると認識している。かような禁断科学に手を染めること自体がパリサイ派教義の為せる業であり、世界広しと雖もパリサイ派以外には見当たらない。パリサイ派教義の賜物としては他にも軍事科学がある。まさに軍事科学と原発科学とはパリサイ派の厄病神信仰、悪魔主義信仰がもたらした双頭の鷲である。かく認識したい。 パリサイ派、現代国際金融資本が何故に原発と軍事科学に飛びつくのか。これを興味ある論考課題である。本稿は、これを論証するものではないので結論だけ記すとすれば、要するに典型的なユダヤ商法であり、その旨味(うまみ)が手を染めさせていると云わざるを得ない。ユダヤ商法とは手っ取り早く巨額に儲け、後は野とななれ山となれで、食い散らした後は別天地で稼げば良いとする乱攫式金貨思想を得手としている。原発と軍事科学がこの商法と相性が良い。故に原発と軍事科学ほどパリサイ派、現代国際金融資本のらしさを具現するものはない。 例えばこういうことである。イージス艦1艦、原発1基の建造コストが共に約1兆円で単体として巨額である。これに一取引当たり数千億円の利権が絡んでおり、故にこれに群がることになる。それによる被害者達が発生するとして彼らは寸毫も顧慮しない。彼らの眼(まな)差しは虐待的で、ユダヤ民族以外は犬猫畜生類に等しいゴゴイムに他ならないとする選良主義、その裏返しとしての家畜主義に基づいている。要するに「神の特別の恩寵に預かる民」以外には悼みを感じないように育てられている。その根源にあるものは、一宿一飯の温情に対して義理を感じるのではなく逆に恩を仇で返す悪知恵であろう。これを幼児より仕込むと云う特殊な教育を良しとして誇っている。 れんだいこが原発に思うのは、そのような悪魔主義性である。このようなものは幾ら目先に便宜であっても利用してはいけない。このようなものが地球のあちこちに敷設されるのはまことに人類の危機であり、麻薬的薬物中毒の千倍万倍の申し合わせで警鐘乱打せねばならない代物である。2010.3.11福島原発事故は、そういうユダヤ商法に対する根本的疑義を差し挟む契機にせねばならない。これを文明史的に見れば、パリサイ派の厄病神信仰、悪魔主義信仰のもたらした双頭の鷲の片方である原発政策からの一刻も早い撤退を促すべく警告する事案となって突きつけられているということである。福島原発事故は脱原発への好機であり、日本及び世界の神々の人類への警告と拝することができる。 こう理解するのが普通ではあるまいか。これを逆に云うと、今なお原発続投、原発再開に固執する者は根深いパリサイ派信者と云うことができる。現代国際金融資本に飼いならされ、立身出世と引き換えに御用聞きが契約義務化させられている雇われに過ぎない。こういう連中との対話は徒労であるが一応はせねばなるまい。彼らが強権で原発を押し付けてくるならば力づくで放逐する以外にはない。世界からパリサイ派が放逐されれば世界は如何に平和的になれることだろうか。原発は、原発のみに止まらぬこういう文明史的設問を投げかけていると云わねばなるまい。 |
【本能寺の変のミステリーは陰謀論で解ける】 | |
2013.11.11日、「戦国期の研究を通じての陰謀論考」
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2020.9.27日、「“陰謀論”を馬鹿にしてはいけない理由」。
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(私論.私見)