アヘン戦争とサッスーン財閥

 (最新見直し2014.06.28日)

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 2006.12.27日付「「アヘン戦争」の舞台裏アヘン王サッスーンの暗躍と上海に築かれたユダヤ人社会の実態」を転載しておく。
「アヘン戦争」の舞台裏」。 アヘン王サッスーンの暗躍と上海に築かれたユダヤ人社会の実態
第1章
「アヘン戦争」と
「サッスーン財閥」
第2章
上海に築かれたユダヤ人社会
第3章
「ジャーディン・マセソン商会」と
トーマス・グラバーの暗躍
第4章
上海のユダヤ難民を保護した日本政府
第5章
アジア地区ゲシュタポ司令官
ヨゼフ・マイジンガーの恐怖

追加1
『阿片の中国史』
追加2
「サッスーン財閥」の歴史
追加3
台湾における日本の
アヘン政策について
追加4
中国東部の「開封」に
ユダヤ人社会が築かれていた

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 ■■第1章:「アヘン戦争」と「サッスーン財閥」


●「アヘン戦争」は調べれば調べるほど、むごい戦争(汚い麻薬戦争)だったことが分かる。

 1971年に「第25回毎日出版文化賞」を受賞した陳 舜臣氏の著書『実録アヘン戦争』(中央公論新社)には、次のような言葉が書かれてある。『アヘン戦争』は、単にイギリスによるアヘン貿易強行のための中国侵略戦争以上の意味を持っている。この“西からの衝撃”によって、我々の住む東アジアの近代史の幕が切って落とされたのである」

●この「アヘン戦争」は、イギリスの「サッスーン家(財閥)」を抜きにして語ることはできない。「サッスーン」という財閥名(ファミリー)を初めて聞く人は多いと思うが、以下、詳しく紹介していきたい。
◆ ◆ ◆

「サッスーン家」は、もともとは18世紀にメソポタミアに台頭したユダヤ人の富豪家族で、トルコ治世下にあって財務大臣を務めるほどの政商であった。1792年にこの一族の子供として生まれたデビッド・サッスーンは、バグダッド(現在のイラク)で活動していたが、シルクロードの交易によってますますその富を蓄え、そこからインドへ進出(移住)した。 

デビッド・サッスーンは、1832年にインドのボンベイで「サッスーン商会」を設立し、アヘンを密売し始めた。イギリスの「東インド会社」からアヘンの専売権をとった「サッスーン商会」は、中国で売り払い、とてつもない利益を上げ、中国の銀を運び出した。(※ デビッド・サッスーンは「アヘン王」と呼ばれた。彼はイギリス紅茶の総元締めでもあり、麻薬と紅茶は、サッスーンの手の中で同時に動かされていたのである)。

 ケシ(芥子)の花。アヘンはケシの実に傷をつけ、そこからにじみ出てきた乳液から作られる薬である。昔から麻酔薬として使われてきた。
中国では清の時代に、アヘンを薬としてではなく、タバコのようにキセルを使って吸うことが流行した。アヘンは、吸い続けると中毒になり、やがて廃人になってしまうという恐ろしい薬(麻薬)である。

 1773~1842年の「三角貿易」体制。イギリスは、アジアとの貿易を行なうため、1600年に「東インド会社」を作った。アヘンを大量に送り込まれた清国では、アヘンが大流行して社会問題となった。

●やがて、清国がアヘン輸入禁止令を出したことに端を発した「アヘン戦争」(1840年)が勃発。敗れた清国は、南京条約により上海など5港の開港と香港の割譲、さらに賠償金2億1000万両を支払わされ、イギリスをはじめ列国の中国侵略の足がかりをつくることになる。その意味では、「サッスーン財閥」はヨーロッパ列国に、第一級の功績を立てさせたアヘン密売人だった。

 ■■第2章:上海に築かれたユダヤ人社会


 ●アヘン戦争以降、ユダヤ財閥たちは競って中国へ上陸していった。

 「サッスーン財閥」はロンドンに本部を置き、上海に営業所を設け、英・米・仏・独・ベルギーなどのユダヤ系商事会社、銀行を組合員に持ち、「イングランド銀行」および「香港上海銀行」を親銀行に、鉄道、運輸、鉱山、牧畜、建設、土地・為替売買、金融保証を主な営業科目として、インド、東南アジア、インドシナ、中国に投資を展開していった。

 ●1930年には、彼らの極東開発計画のため、上海に「サッスーン財閥」の本拠地を建設し、25億ドルの資本による「50年投資計画」を開始した。(毎年1億ドルの投資を25年間継続して、中国の経済と財政を完全に掌中に握り、後半期25年で、投資額の4倍の利益を搾取する、というのが当時の彼らの計算であった)。

 ●「サッスーン財閥」は、デビッド・サッスーンの死後、アルバート・サッスーン、次いでエドワード・サッスーンが相続し、三代の間に巨富を築いた。(この「サッスーン家」は「ロスチャイルド家」と血縁関係を結んでいる)。

 上の家系図は広瀬隆氏が作成したもの(『赤い楯』より)。この家系図の登場人物は、全員がユダヤ人である。二代目のアルバート・サッスーンの息子エドワード・サッスーンの妻は、アリーン・ロスチャイルドである。香港最大の銀行「香港上海銀行」のほとんどの株を握ったアーサー・サッスーンの義理の弟は、金融王ネイサン・ロスチャイルドの孫レオポルド・ロスチャイルドだった。

 ●サッスーン一族の繁栄の最盛期を具現化したエリス・ビクター・サッスーンは、不動産投資に精を出し、破綻会社の不動産を買い叩き、借金の担保の不動産を差し押さえた。そして彼は、「グローヴナー・ハウス(現・錦江飯店中楼)」、「メトロポール・ホテル(現・新城飯店)」、「キャセイ・マンション(現・錦江飯店北楼)」などを次々と建築した。中でも彼の自慢は、「東洋一のビル」と称えられた「サッスーン・ハウス(現・和平飯店)」で、サッスーン家の本拠とすべく建設したものであった。その後、貿易、運輸、各種軽工業などにも事業展開していったエリス・ビクター・サッスーンの最盛期の資産は、上海全体の20分の1もあったと言われている。彼は「東洋のモルガン」の異名を持っていた。 

 ●ちなみに、上海におけるユダヤ人口は、中東出身のスファラディ系ユダヤ人700人、欧米系のアシュケナジー系ユダヤ人4000人ほどであったが、「アヘン戦争」以来、上海港を根拠地として発展した英・米・仏国籍のスファラディ系ユダヤ人が、あらゆる点で支配的勢力を占めていた。(※ 「上海証券取引所」の所長と99人の会員の3分の1以上がスファラディ系ユダヤ人であった)。

 ●直木賞受賞作家の西木正明氏が書いた、ノンフィクション小説『ルーズベルトの刺客』(新潮社)には、上海のユダヤ人が大勢登場するが、サッスーンについて次のように紹介されている。「上海屈指の豪商サッスーン一族は、18世紀初頭イラクのバグダッドに出現したスファラディ系ユダヤ人である。当時の大英帝国の東方進出に協力して、まずインドのボンベイに拠点をかまえた。やがて東インド会社が支那にアヘンの密輸を開始すると、その取引に荷担して莫大な富を蓄積した。19世紀半ばアヘン戦争に破れた清朝が上海に租界の設置を認めると、時を移さず上海に進出し、アヘンを含む物資の売買を開始した。そして、わずか1世紀足らずの間に、金融、不動産、交通、食品、重機械製造などを傘下に擁する、一大コンツェルンに成長した。その中には、金融業として『サッスーン・バンキングコーポレーション』『ファーイースタン・インベストメント・カンパニー』『ハミルトン・トラスト』、不動産では『上海プロパティーズ』『イースタン・エステート・ランド』『キャセイ・ランド』、重機械製造部門として『シャンハイ・ドックヤード』『中国公共汽車公司』『中国鋼車製造公司』、さらに食品関係では『上海碑酒公司』というビール会社などが含まれている。支那四大家族のむこうをはって、ジャーディン・マセソン、バターフィルド・スワイヤ、カドーリなどとともに『上海ユダヤ四大財閥』と呼ばれる理由はここにある。当主のビクター・サッスーンは、ようやく五十路に手がとどいたばかりの、独身の伊達男で、彼の顔写真が新聞に登場しない日はないと言ってよかった」。

 ●上海のユダヤ人富豪は、サッスーンを中心として幾つかあった。

 ◆サー・エレー・カドーリ。香港と上海の土地建物、ガス、水道、電気、電車など公共事業を経営。ローラ夫人が亡くなると、長崎出身の日本人女性(松田おけいさん)が後妻としてカドーリ家に入った(1896年)。サイラス・ハードン。イラク(バグダッド)出身の英国籍ユダヤ人。当時の上海の南京路の大通りの大部分は彼一人の所有であった。ルビー・アブラハム。ビクター・サッスーンの伯父の長男。英国籍のスファラディ系ユダヤ人。父親は上海ユダヤ教徒の治安判事を務め、英国総領事館法廷でユダヤ式判決を勝ち取った人物で、「アーロン(長老)」の敬称を受け尊敬されていた。エリス・ハイム。ルビー・アブラハムの夫人の兄。英国籍のスファラディ系ユダヤ人。「上海証券取引所」屈指の仲買人として活躍。サッスーン財閥と深い関係を結んでいた。

 ※ 追記: 

 ●ドイツのボン大学で日本現代政治史を研究し、論文「ナチズムの時代における日本帝国のユダヤ政策」で哲学博士号を取得したハインツ・E・マウル(元ドイツ連邦軍空軍将校)は、著書『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版)の中で、次のように語っている。「上海のユダヤ系の経済パイオニアは、サッスーン、カドーリ、ハードン、エズラの4家族だった。早いものは1832年からこの町で商売をしており、経済帝国を築き上げていた。その影響力は、市当局が武装した『商人部隊』の編成を外国人に認めたことでも分かり、これは1928年にイギリスをモデルとした1400人の上海自衛団に改組された。自衛団にはいわゆる『ユダヤ中隊』があり、200人から250人がこれに属していた。その後ユダヤ難民がこれに加わり強化された」。 

 ■■第3章:「ジャーディン・マセソン商会」とトーマス・グラバーの暗躍


 ●ところで、中国大陸において「サッスーン商会」と並んで二大商社の名を馳せたのは、「ジャーディン・マセソン商会」である。この会社は、イギリス系商人のウィリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンにより、1832年に中国の広州に設立された貿易商社である。設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出で、「アヘン戦争」に深く関わった。 

 ●この「ジャーディン・マセソン商会」は、日本では、幕末・明治期の重要人物であるトーマス・グラバーが長崎代理店(「グラバー商会」)を設立したことで知られている。横浜にも、1859年に英商ウィリアム・ケスウィックが支店を設立。商館は地元民から「英一番館」と呼ばれていた。

 トーマス・グラバーは、1859年に英国から上海に渡り「ジャーディン・マセソン商会」に入社。その後、開港後まもない長崎に移り、2年後に「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店として「グラバー商会」を設立。貿易業を営みながら、薩摩、長州、土佐ら討幕派を支援し、武器や弾薬を販売した。幕末維新期の日本では、多くの外国人貿易商が諸藩への洋銃売り渡しに関わっていたが、その中でも英商グラバーの販売量は突出していた。彼はのちに「三菱財閥」の岩崎家の後ろ盾となり、キリンビールや長崎造船所を作った。日本初の蒸気機関車の試走、高島炭鉱の開発など、彼が日本の近代化に果たした役割は大きかった。1908年、グラバーは「勲二等旭日重光章」という勲章を明治天皇から授けられ、この3年後(1911年)に亡くなった。墓は長崎市内にあり、邸宅跡が「グラバー園」として公開され、長崎の観光名所になっている。 

 ●ジャーディン・マセソン・グループは、今でも「マンダリン・オリエンタルホテル」を経営し、14ヶ国に26の高級ホテルを展開しており、現在もアジアを基盤に世界最大級の貿易商社として影響力を持っている。


 ■■第4章:上海のユダヤ難民を保護した日本政府


 ●上海にドイツ・オーストリア系ユダヤ人が流入したのは、ナチスがオーストリアを合併した1938年秋、イタリア商船コンテ・ビオレ号から上海に吐き出されたのが最初である。ドイツの軍靴がチェコ、ポーランドと進むにつれて、数百万のユダヤ人が世界各地に逃げ出さざるを得ない状態になった。しかし、彼らの目指すアメリカ、中南米、パレスチナなどは、入国査証の発給を非常に制限し、ほとんどシャットアウトの政策であった。英統治領パレスチナなどは、海岸に着いたユダヤ難民船に、陸上から英軍が機関銃の一斉射撃を加えるという非人道的行為まであった。

そうした中で、入国ビザなしに上陸できたのは世界で唯一、上海の共同租界、日本海軍の警備する虹口(ホンキュー)地区だけだった。海軍大佐の犬塚惟重(いぬづか これしげ)は、日本人学校校舎をユダヤ難民の宿舎にあてるなど、ユダヤ人の保護に奔走した。 

日本政府の有田外相は、ハルビンのユダヤ人指導者アブラハム・カウフマン博士を東京に呼び、「日本政府は今後ともユダヤ人を差別しない。他の外国人と同じに自由だ」と明言した。  

1939年夏までに、約2万人のユダヤ難民が上海の「日本租界」にあふれるに至った。(※ ちなみに、上海のスファラディ系ユダヤ人たちの中には、金のない貧乏なアシュケナジー系ユダヤ難民の受け入れを嫌がる者が多くいたという)。 


●「世界ユダヤ人会議」のユダヤ問題研究所副所長を務め、リトアニアと日本でユダヤ難民の救出に尽力したゾラフ・バルハフティクは、著書『日本に来たユダヤ難民』(原書房)の中で、次のように述べている。 「1941年時点で、上海のユダヤ人社会はよく組織されていた。スファラディ系社会とアシュケナジー系社会があった。前者は、19世紀にバグダッドから移住してきたユダヤ人たちで、なかにはイギリス国籍を取得している人すらあった。代表格が、いろいろな事業を経営するサッスーン家だった。そのほかハルドン家やアブラハムズ家も有名で、助けが必要なイラク出身のユダヤ人移民に、支援の手を差し伸べていた。サッスーン家の家長ビクター・サッスーン(ユダヤ人)は、上海の大立者であり、極東で一、二を競う大富豪であった。経済、政治力の影響力は相当なものであったようだ。ビクター・サッスーンは、家の伝統に従って同胞のために尽くした。しかし、上海の中国住民に対する貢献はもっと大きかった。売春婦の収容施設に多額の金を使ったし、市街電車の路線延長も彼の功績である。 〈中略〉革命やポグロムが発生するたびに、ユダヤ人が満洲へ流出し、そこから国際都市上海へ向かった。ロシア系ユダヤ難民は上海に根をおろし、貿易商となった。 〈中略〉当時ドイツ系ユダヤ人社会もあった。かなり大きく、その数約1万5000人。上海へは入国ビザの必要がないので、ユダヤ人が続々と流れてきた。上海は1939年の中頃までユダヤ人を無制限に受け入れた。しかしその後は、居留が厳しく制限されるようになった。 〈中略〉スファラディ系とアシュケナジー系で構成される『上海ユダヤ人委員会』は、アメリカを本拠地とするジョイントの資金援助を受けながら、日本租界の虹口(ホンキュー)地区を中心とするホステルへ難民を収容した」。

 ●当時、上海には多種多様のユダヤ人組織が存在し、様々な活動を展開していたが、参考までに、代表的なユダヤ人組織(+人物)を幾つか挙げておきたい。


「上海ユダヤ人協会」 E・ニッシム会長。英国籍のスファラディ系ユダヤ人。共同租界の北京路に「大商事会社」を経営。「上海ユダヤ人協会」の会員は約800人で、ほぼ全員がスファラディ系ユダヤ人。「上海シオニスト協会」 P・トーパス会長。シベリア出身のアシュケナジー系ユダヤ人。貿易会社を経営。この「上海シオニスト協会」は1903年に設立され、会員は約3000人で、パレスチナ移住者を募集していた。機関紙『イスラエルズ・メッセンジャー』は、約1000部が購読され、海外にも発送され、東アジアのシオニズム運動の貴重な声として世界にその存在を誇示するとともに、イギリスと東アジアを結ぶ架け橋としての役割を果たした。「ブナイ・ブリス」 カムメルリング会長。ルーマニア出身のアシュケナジー系ユダヤ人。「香港・上海ホテル」の株主。シオニスト右派に属していた。「ブリス・トランペルダー」 R・ビトカー会長。ポーランド出身のアシュケナジー系ユダヤ人。この組織は、青年を対象にした民族主義的シオニスト・グループだった。「上海ヘブライ救援協会」 I・ローゼンツヴァイク博士(会長)。ロシア系ユダヤ人で、アシュケナジー系ユダヤ難民への救援を目的としていた。「ヘブライ・エンバンクメント・ハウス」 。テーク夫人(幹事)。有力ブローカーであるスファラディ系ユダヤ人テークの妻。貧しいユダヤ難民に宿舎を提供していた。「ヨーロッパ移民委員会」「ドイツ移民委員会」両者とも同じ委員会に属す。委員はM・スピールマン(議長)、D・アブラハム、J・ホルツェル、エリス・ハイムなど。M・スピールマンはオランダ市民であるが、実際はロシア生まれのユダヤ人で若い時オランダ領インドに移り、そこで市民権を得て、1917年に上海に移住。この委員会に属する秘匿団体として「政治運営委員会」があり、コミンテルンおよび国民党当局と密接な連絡を保っていた。この部の責任者はレーヴェンベルク博士(ドイツ系ユダヤ人)で、弁護士を職とし、共産党に属していたが、ドイツで3年間収容所に入れられ、脱走してオランダへ、さらに上海に移った。

「上海ユダヤ人クラブ」 (米国デラウェア州法人)。1923年に設立され、何回か解散したが日華事変開始直後、当地の合衆国総領事館に登録した。会員は約400人。名誉会長ブロック、会長ポリャコフ他役員の多くはロシア系ユダヤ人で、このクラブはソ連の木材公社とも取り引きがあった。


 ■■第5章:アジア地区ゲシュタポ司令官 ヨゼフ・マイジンガーの恐怖


 ●ナチス・ドイツは、上海のユダヤ難民に対する日本政府の「寛容な政策」を不愉快に思っていた。そのため、彼らは上海のユダヤ難民の取り扱いについて、日本政府に圧力をかけていた。 

 ●1942年7月、ナチス親衛隊(SS)長官ハインリッヒ・ヒムラーの命令で、東京のアジア地区ゲシュタポ司令官ヨゼフ・マイジンガーが、上海に出張し、日本に対して次のような3つの提案を示している。


<上海のユダヤ人処理の方法>

【1】 黄浦江に廃船が数隻ある。それにユダヤ人を乗せ、東シナ海に引きだし、放置し、全員餓死したところで日本海軍が撃沈する。

【2】 郊外の岩塩鉱山で使役し、疲労死させる。

【3】 お勧めは、揚子江河口に収容所を作り、全員を放り込み、種々の生体医学実験に使う。 

 ●この反ユダヤ的な提案は、陸軍大佐の安江仙弘経由で東京の松岡洋右に伝えられたが、この提案は実現しなかった。

 安江仙弘(やすえ のりひろ)。陸軍最大の「ユダヤ問題専門家」。1938年、大連特務機関長に就任すると、大陸におけるユダヤ人の権益擁護に務め、ユダヤ人たちから絶大な信頼と感謝を受けた。 

 ●歴史研究家のハインツ・E・マウルは、戦時中の日本の対ユダヤ人政策について次のように述べている。「当時2600人を数えた在日ドイツ人の中には116人のユダヤ人がいた。日本人はユダヤ系の学者、芸術家、教育者に高い敬意を払ったその中には、音楽家で教育者のレオニード・クロイツァー、ピアニストのレオ・シロタ、指揮者のヨゼフ・ローゼンシュトックとクラウス・プリングスハイム、哲学者のカール・レヴィット、経済学者のクルト・ジンガー、物理学者のルイス・フーゴー・フランクなどがいる。日本政府は、ドイツ大使館の激しい抗議にもかかわらず、これらのユダヤ人をドイツ人同様に遇した。1941年末、ドイツ大使館は日本政府に対して、外国に居住する全てのユダヤ人は無国籍とされ、今後いかなる保護も与えられないと通告した。そして在日ユダヤ人を解職するよう要求したが、日本の外務省は無視した。かくして少数ながら戦争終了まで日本で安全に暮らしたユダヤ人がいたのである」。レオ・シロタ。ユダヤ人ピアニストのレオ・シロタは1929年に来日してから15年間日本に留まり、演奏家ならびに教育者として活動を続けた。 

 ●『日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ』の著者である山本尚志氏は、本の中で次のように述べている。「ほとんど所持金もなく行き先のあてもなく来日したユダヤ難民に、日本の人々は温かく接したユダヤの子供に食料を贈った日本人もいた。物資の入手には配給券が必要だったが、商店に配給券を持たないで難民が現れると、店員は自分の配給券を犠牲にして物資を売った。官憲すらユダヤ難民に便宜をはかった。 〈中略〉日本人はユダヤ難民を好意的に扱ったのである」。
「1930年代に、ドイツでは急速にユダヤ系音楽家が排除されていった。圧迫されたユダヤ系の音楽家にとって、希望の地のひとつが極東の日本だった。 〈中略〉ナチス・ドイツ政府は、日本で活躍するユダヤ系音楽家に不信の目を向けた。 〈中略〉 在日ドイツ大使館はひそかにシロタを含むユダヤ系音楽家のリストを作成して、日本からユダヤ系音楽家を排除、代わりにドイツ人音楽家を就職させる陰謀を繰り返した。 〈中略〉しかし日本側は、このようなナチスの圧力を事実上無視した 〈中略〉 第二次世界大戦が始まっても、東京でユダヤ系音楽家がソリストや指揮者、音楽学校の教授として活躍する状況は変わらなかった。日本ではユダヤ系音楽家の作品も演奏されていたのであり、これはドイツやドイツ占領下の諸国では許されないことだった」。


 「レオ・シロタは、日本人のユダヤ人問題に対する立場を次のように説明していた。『日本人は世界事情に詳しく、ユダヤ人問題にも大きな関心を寄せているため日本在住のユダヤ人に対して寛容で、差別することも、自由を奪ったりすることも全くありません。その良い例として、このような事実があります。日本の大学には多くの外国人教授がいますが、その中でもドイツからのユダヤ人が多いことです。ヒトラー政権時代にドイツで教授職を剥奪されたユダヤ人に対し、日本政府は彼らの契約期間を延長しました。最近では東京音楽学校の学長がさらに2人のユダヤ人教授を雇用しました』 シロタは日本のユダヤ人政策無知の産物でなく、世界事情の理解の結果と考えていたのである。 〈中略〉 シロタの観察によれば、日本ユダヤ人たちは特定の宗教を信じて共通の文化的背景をもってはいるけれども、とくに差別されることも社会集団を形成することもない、普通の外国人として生活していた。当時の日本におけるユダヤ人問題を考える際に、シロタの言葉は、知的で日本社会によく溶け込んだ同時代のユダヤ人の証言として重視されていい。日本では、ユダヤ人は自分がユダヤ人であることをとりたてて意識しないでも生きていくことができたのだった」。 

 
(左)『日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ』。山本尚志著(毎日新聞社)。(右)はシロタ夫妻と娘のベアテ。↑20世紀初頭のウィーンで「リストが墓からよみがえった」と称えられた天才ピアニストのレオ・シロタ。世界に名を馳せた巨匠がなぜ、1930年代から終戦という激動期に日本で活躍したのか。シロタの波乱の生涯を追いながら、昭和史に新たな視点を投じる力作である。
 

ところで、大戦中、上海で過ごしたユダヤ難民たちは、戦後、ナチス・ドイツによる虐殺と、それを看過したキリスト教ヨーロッパ社会の実態を知り、ナチス・ドイツと軍事同盟下にあった日本が、ユダヤ人の保護政策をとってくれたことを感謝している。 ユダヤ難民だったヒルダ・ラバウという女性は1991年に、日本の占領者がユダヤ人のために安全な地を確保してくれた、と深い感謝の気持ちを表わす詩を作り、「ヨーロッパで皆殺しになった人々を思えば、上海は楽園でした」と語っている。また、天津のユダヤ人も戦後の1946年9月、「世界ユダヤ人会議」に対し、「自分たちは日本の占領下で迫害を受けることもなく、日本側はユダヤ人、特にヨーロッパからの難民には友好的でした」と報告している。(※ 「世界ユダヤ人会議」の調査では、終戦当時、中国全体のユダヤ人人口は2万5600人で、上海の他に、ハルビン、天津、青島、大連、奉天、北京、漢口にユダヤ人が存在していたという)。 

 ●ちなみに、戦時下を上海で過ごしたユダヤ人の中で、その後最も数奇で劇的な運命を辿った男がいる。 その男の名はマイケル・ブルメンソール。ドイツで生まれた彼は幼少期にナチに追われ、家族とともに船に乗って上海まで逃げ、日本租界で8年過ごした。戦後、アメリカに渡ったブルメンソールは、勉学に励み、プリンストン大学で経済学博士号を取得した後、ケネディ、ジョンソン両政権の通商副代表となった。そしてカーター大統領の下、民主党政権が成立すると、遂に財務長官まで昇り詰めたのである。(皮肉なことに、彼は日本では、為替相場に口先介入し初めて円高を誘導し、日本経済を苦しめた財務長官として知られている……)。マイケル・ブルメンソール。ドイツ生まれのユダヤ人で、戦時下を上海で過ごし、戦後渡米。カーター政権で財務長官を務めた。円高誘導を仕掛け、日本経済を苦しめた。─ 完 ─ 

■■追加情報: 『阿片の中国史』


●中国人の父と日本人の母を持つ譚ろ美さん(ノンフィクション作家)が、「アヘン戦争」についての本を出した。本のタイトルは『阿片の中国史』(新潮社)である。●彼女は「アヘン戦争」について、この本の「序章」の中で次のように書いている。「中国の近代は阿片(アヘン)戦争という理不尽な外圧で幕を開けた。4隻の黒船が近代を告げた日本とは大きな違いだ。この欧米列強との出会いの差が、その後の両国がたどった道の隔たりであり、消すことのできない大きなしこりを残した原因にもなっているにちがいない。阿片という『麻薬』によって、めちゃくちゃに引っかき回された国が、中国以外にあっただろうか? 一国まるごと“阿片漬け”にされた国は、中国だけなのだ

●この本は「アヘン戦争」の実態だけでなく、20世紀後半の中国共産党とアヘンの知られざる関係についてや、アヘンと「サッスーン家」の関係についても詳しく言及されており、なかなか面白い本である。参考までに、この本の中から、興味深い部分をピックアップしておきたいと思う。

以下、抜粋。

※ 「香港上海銀行(HSBC)」の画像とキャプションは、当館が独自に追加


◆ ◆ ◆


ひなびた漁村だった上海は、南京条約による開港で、一夜にして大都会になった。 〈中略〉欧米の阿片(アヘン)商人たちを中心に外国人定住者が増え、外国租界は異国情緒にあふれた町になったのだ。 〈中略〉上海が開港したばかりの1842年の人口は20万人だったが、1900年前後には100万人になり、1930年までに300万人に膨れ上がった。イギリスその他の国からなる共同租界では、90%が中国国内の移住者で占められ、フランス租界の人口も5万人から45万人へと爆発的に増えた。


1837年、中国には外国の商社が39社あり、その中で「ジャーディン・マセソン商会」は最大の規模を誇ったが、これと並んで二大商社の名を馳せたのは、上海に拠点を置いた「サッスーン商会」である。21世紀を生きる女性たちにとって、サッスーンと聞いてすぐに思い浮かぶのは、ヘアースタイルの「サッスーン・カット」ではないだろうか。サッスーン社の社長はビダル・サッスーンといい、美容院で販売されている高級シャンプーなどの商品も幅広く生産している。(※ ビダル・サッスーンはロンドン生まれのユダヤ人)。このサッスーン氏と同じ一族かどうかわからないが、「サッスーン商会」を創業したデビッド・サッスーンは、イギリスのユダヤ系名門の出身で、もとはバグダッドの豪商だったが、1830年にバグダッドの総督がユダヤ人を追放したため、ペルシアへ逃れた。


折から戦争状態にあったペルシアでは、特産品の阿片の取引が止まり、値がつかない状態になっていたので、サッスーンは底値で買い入れ、生産中の阿片も予約購入した阿片が収穫される頃、戦争が終わり、阿片の値段は再び高騰して、サッスーンは巨額の利益を手にした。その資金を元手に「サッスーン商会」を創設したという。勿論、取引商品は主として阿片であった。やがてイギリスがインドに設立した「東インド会社」で営業許可を得た「サッスーン商会」はボンベイに拠点を据えて阿片貿易に乗り出し、香港にも開店して「沙遜(サッスーン)洋行」と名乗った。


◆サッスーン家の、優れた部分もご紹介しておこう。イギリスのサッスーン家は慈善事業でよく知られ、ユダヤ人救済運動にも貢献している。3人の息子たちはイギリス社交界の名士になり、孫のエドワード・サッスーンは政治家である。その息子のフィリップ・サッスーンは空軍次官だったが、美術品の収集家として名が通っている。サッスーン家の傍系にはヘブライ語文書の収集家のフローラ、詩人で小説家のジークフリード、実業家のビクターなどもいて、多士済々で華麗な一族である。


◆阿片売買のために、上海へ先陣を切って乗り込んだのも「サッスーン洋行(沙遜洋行)」だった。1845年、上海の目抜き通り(現在の江西路と九江路の交差点)に支店を開いた。当初、上海の阿片貿易の20%を占めるほどの大取引に携わり、人手が足りずに14人もの親族を呼び寄せ、業務拡大した。

1864年、創業者のデビッド・サッスーンが亡くなると、「サッスーン洋行」は長男が引き継ぎ、次いで次男が独立して「新サッスーン洋行」を開業した。新旧の「サッスーン洋行」は、互いに協力しながら、インドのケシ畑の“青田買い”をしたり、独占買い付けをしたりしながら、アジア全域に幅広いネットワークを築いた。 〈中略〉1870年代には、「サッスーン洋行」はインドの阿片貿易の70%をコントロールするまでに成長するのである。


「ジャーディン・マセソン商会」「サッスーン洋行」──。この2つの巨大商社を筆頭にして、その後も続々と貿易商社が進出してきた。「デント商会(宝順洋行)」、「ギブ・リビングストン商会(仁記洋行)」、「ラッセル商会(旗昌洋行)」などのイギリスとアメリカの商社がいる一方、中小の地元商社やアジアからの商社などが雨後の竹の子のように増え続けた。不確実な数字だが、外国の商社は1837年に39社だったものが、20年後には約300社に増え、1903年には、なんと600社以上にものぼったという


◆欧米の商社が業務を拡大し、取引金額が増えるに従い、なにより頭を悩ませたのは資金の安全な輸送方法だった。イギリス流の解釈では、「イギリスが中国から資金を取り戻す」ための安全で迅速な手段が必要とされたのである。よいアイデアはすぐに浮かんだ。銀行の設立である。1865年3月、「サッスーン洋行」、「ジャーディン・マセソン商会」、「デント商会」らは15人の代表発起人を決め、資本金500万ドルを投じて香港に「香港上海銀行(HSBC)」を設立した。サッスーン・グループのアーサー・サッスーンら8人が理事会役員に就任し、1ヶ月後には上海で営業を開始した。「香港上海銀行」の最大の業務は、阿片貿易で儲けた資金を安全かつ迅速にイギリス本国へ送金することであった。


1865年に、ロスチャイルド一族のメンバーであるイギリス系ユダヤ人のアーサー・サッスーン卿によって香港で創設され、 1ヶ月後に上海で営業を開始した「香港上海銀行(HSBC)」。この銀行の設立当初の最大の業務は、アヘン貿易で儲けた 資金を、安全かつ迅速にイギリス本国へ送金することであった。この銀行は、第二次世界大戦前、上海のバンド地区を中国大陸の本拠としていたが、1949年の中国共産党政権成立後の1955年に、本社ビルを共産党政権に引き渡した。その後、中国各地の支店は次々に閉鎖された。しかし現在、この「香港上海銀行」は、英国ロンドンに本拠を置く世界最大級の銀行金融グループに成長している。ヨーロッパとアジア太平洋地域、アメリカを中心に世界76ヶ国に9500を超える支店網をもち、28万人の従業員が働き、ロンドン、香港、ニューヨーク、パリ、バミューダの証券取引所に上場している。時価総額規模では、アメリカの「シティグループ」、「バンク・オブ・アメリカ」に次ぎ世界第3位(ヨーロッパでは第1位)である。現在、香港の「中国銀行」及び「スタンダード・チャータード銀行」とともに香港ドルを発券している。

 ◆1860年代から70年代にかけて、彼ら(ユダヤ系の「サッスーン洋行」など)を通して中国へ輸出されたインド産阿片は、毎年平均で8万3000箱にのぼった。一箱は約60kg。国内生産の阿片が増加するにつれて、外国阿片は少しずつ減少していくが、ピークの1880年代には10万5507箱が輸出され、上海には年2万2000箱が送り込まれた。上海の町には、阿片の濃い煙が充満した。阿片は街のいたるところで合法的に売られ、客はいつでも手軽に買うことができた。


◆時代の流れが変わったのは、1906年のことだった。アメリカの宣教師たちが阿片生産の禁止を国際世論に広く呼びかけると、国際的に阿片貿易への非難の声が高まった。清朝政府は、「イギリスがもし輸出を削減するなら、中国も阿片の生産と喫煙を禁止するしと発表。イギリスも、「10年禁絶を目標に毎年段階的に削減していく意向がある」と応じ、翌年には「中英禁煙協約」が交わされた。1911年、ハーグで「国際阿片会議」が開かれ、世界の潮流は阿片の輸出禁止と生産禁止という明るい未来へ向かって、栄えある第一歩を踏み出した。いや、踏み出そうとした。ところが、そうなっては都合の悪い人たちがいたのである。


外国商社は色めきたった。10年という期間を限定されたことで、今のうちに儲けるだけ儲けておこうと考えた。「サッスーン洋行」ら上海の阿片商社は即座に「洋薬公所」を結成すると、上海の輸入阿片の総量をコントロールする一方、潮州商人と協定を結んだ「洋薬公所」といえば聞こえはよいが、つまり「阿片商人の大連合会」である。外国人貿易商たちはペルシア産とインド産阿片の独占輸出体制を築き、流通ルートは潮州商人一本に絞られた。無論、阿片の価格は急騰した。最高値のときには、なんと銀の7倍まで跳ね上がったというから、驚くほかはない。


◆阿片商人の悪辣さはこれに止まらない。10年の期限が近づくと、「洋薬公所」は関係ルートを使って時の政権、北京政府と交渉し、残りの阿片を全部買い取らせることに成功した。1919年、北京政府は阿片を購入後、公開処分した。こうして世界が監視する中で、中国の「阿片禁止令」は着々と執行されることになった。このまま順調にいけば、もしかしたら中国からも地球上からも阿片は一掃され、クリーンで美しい世界が訪れたかもしれない。だが、事態はそうはならなかった。禁令とは、すなわち商売繁盛だ──。 〈中略〉アメリカで1920年に制定された「禁酒法」が、この言葉を生んだのだ。政府が酒類の醸造と販売を禁止したことで、シカゴを縄張りにしたアル・カポネのギャング団が密造酒を裏取引し、暗黒街の犯罪が急上昇してしまったのである。時期も同じ1920年、中国では阿片が禁止され、同じような事態が生じていた。阿片の密輸に火がつき、以前よりもかえって大量の阿片が出回る事態になったのだ


◆当時上海に滞在していたフランス人弁護士リュッフェの試算によると、1920年代後半の全中国の阿片消費量は、毎年7億元にのぼったという。「中華国民禁毒会」の集計ではさらに多く、毎年10億元を消費し、そのうち国産阿片は8億元、外国阿片は2億元であったという。また、上海の阿片貿易による収益は毎年4000万元以上、あるいは7、8000万元から1億元にものぼると推測される。なにしろ密輸だから正確な統計はないが、阿片の消費量が、膨大なものであったことは間違いないだろう。

以上、譚ろ美著『阿片の中国史』(新潮社)より

■■追加情報 2: 「サッスーン財閥」の歴史


●「日本上海史研究会」が1997年に出した『上海人物誌』(東方書店)には、「サッスーン財閥」の歴史について詳しい説明が載っている。少し長くなるが、参考までに抜粋しておきたい。 

■エトランゼの上海


上海は清朝がイギリスとの「アヘン戦争」に敗れた結果結ばれた「南京条約」により、1843年11月開港した。上海はイギリスによって、イギリスのために開港され、イギリスの中国市場支配の拠点となった。これは動かしがたい事実である。


◆自由貿易による世界市場を展開するにあたって、19世紀半ばのイギリスは、シンガポール以東の西太平洋地域においては、各地域の政治経済の中心地に近く、かつほとんど無人の地に良港を獲得し貿易拠点とする戦略を取っていた。シンガポールに加え、香港・上海・横浜などはみなこの戦略に合致する港である。

旧イギリス租界の正面に位置する外灘の建築列のファサードには、現在でも上海がイギリスを始めとする列強の中国市場支配の拠点となってきた歴史が色濃く刻み付けられている。しかし人々がそれを「偽りの正面」と呼ぶように、上海を単に国際貿易の要という意味で外から眺めた場合においてさえもその奥にひしめくものに気付かされる。 〈中略〉


◆イギリス勢力が東アジア海域に進出した18世紀末にその貿易の中心となっていたのは、「イギリス東インド会社」というより会社によってライセンスを付与された地方貿易商人であり、彼らが従事したのは、イギリスとアジアとの貿易というより「アジア間貿易」であった。さらにこの時期にはイギリスによるアヘン三角貿易によって「アジア間貿易」が拡大せしめられていた。

 ■アジアの都市・上海


 ◆この「アジア間貿易」自体は、ヨーロッパの大航海者が参入する以前から、「海のシルクロード」として、また中国を中心とする朝貢貿易のネットワークとして存在しており、そこは日本と琉球・中国・東南アジアやインド・イスラム圏の商人たちが活躍する舞台であった。最近「海のシルクロード」と呼ばれるようになったインド洋・南海交易圏には、航海・造船技術の点でも中国より先進的な海洋民が活躍しており、8世紀以降はイスラム化され、ダウ船と呼ばれる三角帆の構造船が航海の主役となっていた。そこにはイスラム教徒だけでなく、アラブ圏のユダヤ人やアルメニア人も含まれていた。たとえばインド洋・南海交易圏において最大の商品であった胡椒(こしょう)の産地に隣接する積出港であるインドのコーチンには、紀元1世紀以来ユダヤ人貿易商が住み着き、今世紀半ばに至るまでコーチンの胡椒貿易を独占した。現在もコーチンで胡椒の取引を行なう市場は「ジュー・タウン」(ジューはユダヤ人の意)と呼ばれている。


 ◆「サッスーン財閥」は、上海開港後にいわば二番手として登場したイギリス商社で、イギリスの支配する開港場上海の代表とも目されるが、その実、サッスーンは二代のうちにアラブ圏のユダヤ人からイギリス紳士へと変身を遂げたユダヤ商人であって、アヘン三角貿易の申し子ともいうべき存在である。イギリス紳士とはいいながら、その存立の基盤の一方はユダヤ人のネットワークに置いており、いわば「海のシルクロード」を舞台とするアジア人の商人という性格を持ち続けていた。イギリスのアジア市場展開の一面はサッスーンの活動を通じてより明らかとなろう。 

 ■「海のシルクロード」とユダヤ人サッスーン

 ◆上海外灘のウォーターフロントでもっとも目立つ建物といえば、旧香港上海銀行(上海本店)と並んで、現在和平飯店北楼として使われている旧サッスーン・ハウスであろう。私は1970年代末の最初の訪中のときに和平飯店に滞在して旧名がキャセイホテルだということを聞き、その後の滞在の間にこのホテルがイギリスのユダヤ人財閥によって建てられたことを知った。そのユダヤ人財閥はサッスーンといい、ジャーディン・マセソン、バターフィールド&スワイヤー、英米タバコと並ぶ上海のイギリス系四大財閥の一つであった。「サッスーン財閥」はイギリスでもロスチャイルドと並び称されるユダヤ人大財閥であったが、いろいろな点でロスチャイルドとは対照的であった。何よりも、ロスチャイルド家がドイツのフランクフルト出身のヨーロッパのユダヤ人であったのに対し、サッスーン家はアジアのユダヤ人、「海のシルクロード」で活躍するユダヤ人であった点である。


 ◆「陸のシルクロード」も「海のシルクロード」も古くからユダヤ人の生活舞台であり、8世紀から12世紀にかけてこれらの地域がイスラム世界に包摂されるようになっても、引き続き活動の場を広げていった。もともとイスラム世界には「ユダヤ人」という考え方はなく、「啓典の民」ユダヤ教徒として、自治が認められ、各都市で一定の役割を与えられるようになっていた。


 ◆サッスーン家の祖先も、代々、イスラム帝国の都であったバグダッドの名族で、オスマン帝国の支配下では、オスマン帝国によって任じられたバグダッドの「ヴァリ」と呼ばれる地方長官のもとで、主席財政官の地位を与えられ、ユダヤの「族長(シェイク)」とみなされていた。ところが18世紀後半になると、バグダッドではユダヤ教徒に対する圧迫が強まり、19世紀前半には当主のサッスーン・ベン・サリは一時族長の地位を追われた。1826年、サリの子デビッド・サッスーン(1792~1864年)が族長の地位を引き継いだが、彼は「ヴァリ」の迫害に抗議したため身に危険が迫ってきた。1829年、デビッドは老父を伴い、夜陰に乗じてバグダッドを脱出し、バスラに移住した。バスラは別の「ヴァリ」が統治していたが、ここもサッスーンにとって安住の地ではなく、間もなくシャトルアラブ川(チグリス川とユーフラテス川が合流した川)の対岸、ペルシアのブシェルヘと再度移住した。ブシェルは当時ペルシアにおける「イギリス東インド会社」の拠点となっており、インドヘの道が開かれていた。 

 ◆1832年、デビッドは商用でインドのボンベイ(現在のムンバイ)を訪れ、イギリスの勢力を目のあたりにした。熟慮の末、同年デビッドはサッスーン家を挙げてボンベイに移住を果たした。当時のボンベイは人口20万、ユダヤ人も2200人を数えた。この頃ボンベイは発展の時期を迎えていた。産業革命後、イギリスのランカシャ綿製品がインドに流入し、「東インド会社」の貿易独占も廃止され、ビジネスチャンスが広がっていた。ボンベイに来たデビッドは、1832年に「サッスーン商会」を設立し、ボンベイで本格的に活動を開始した。これが「サッスーン財閥」の始まりである。


 ◆この頃、イギリス綿製品がインドヘ、インドのアヘンが中国へ流入するという「アジア三角貿易」が形成されてきていた。このルートに乗って「サッスーン商会」はイギリスにも支店を開設し、ランカシャ綿の輸入などにあたるほか、後述のように「アヘン貿易」に従事した。また、1861年アメリカで南北戦争が起こってアメリカ綿花の取引が途絶すると、「インド綿花」を輸出して巨利を上げた。

 ◆デビッドは1864年に死去したが、「サッスーン商会」は綿花ブーム後の不況をも乗りきり、2代目アルバート・サッスーンのもとで発展を続けた。 

 ■「アヘン王」デビッド・サッスーン


 ◆デビッド・サッスーンは1854年にイギリス国籍を取得したが、アラブ化したユダヤ人として終生アラブ風の習慣を改めることはなかった。彼はアラビア語・ヘブライ語・ペルシア語・トルコ語、後にはヒンドスタン語をも解したが、英語を習得することはなかった。

 ◆デビッド・サッスーンはイギリスの世界市場展開に伴ってアジア市場に参入したかに見えるが、事実は逆であることは、彼自身の生活態度に現れている。すでに大航海の初発、すなわち15世紀末のヴァスコ・ダ・ガマの「インド航路発見」のとき、インドでガマを迎えたのはハンガリーから来たユダヤ人であった。デビッドがバグダッドを脱出してボンベイで成功を収めることができたのも、インド洋交易圏に広がるユダヤ人のネットワークを通じたからであった。そしてイギリスがアジア市場に進出してきたのも、大航海以前に既にアジアに存在していた、中国からインドを経てアラビア世界にいたる交易圏を前提にしていたのであった。 

 ◆デビッドはビジネスで成功すると、同胞のユダヤ人への恩を忘れなかった。彼は私財を惜しげもなく慈善事業に投じた。特に、1861年、バグダッドにユダヤ教に基づく学校「タルムード・トラー」を設立し、後継の養成に資したことの意義は大きい。

「サッスーン商会」の幹部職員はこのユダヤ学校からリクルートされることになったのであり、「サッスーン財閥」が「イギリス帝国主義の尖兵」という姿の奥に「海のシルクロードのユダヤ商人」という原籍を持っていたことは、その活動の最後に至るまで見出すことができる。

 ◆ボンベイの「サッスーン商会」は2代目アルバート・サッスーンのもとで工業投資に力を入れるようになった。1885年以後、「サッスーン商会」は7つの紡績工場、1つの毛織物工場を持ち、インド工業化に大きな役割を果たした企業の1つと評価されるようになった。インドでサッスーンが産業資本の性格を持つという事実は、上海におけるサッスーンの活動とは好対照をなすといえよう。またアルバートは親子二代にわたる多大な慈善事業が評価されて、1872年、ナイトに叙せられた。この地位は上海のサッスーン家にも引き継がれていくことになる。 

 ■上海と「新サッスーン商会」


 ◆デビッドがアジア三角貿易展開のため東アジアを重視したのは当然である。彼が華南の商業圏に参入したことは、「サッスーン商会」のターニング・ポイントとなった。「南京条約」(アヘン戦争に敗北した清朝が南京でイギリスと結んだ条約)締結後の1844年、デビッドは次男のイリアス・サッスーンを広東に派遣した。次いでイリアスは香港に移動し、1845年には上海支店を開き、後には日本の横浜・長崎そのほかの都市にも支店網を広げた。そして上海が「サッスーン商会」第2の拠点となった。ところで、中国におけるユダヤ人の足跡も、イギリスの世界市場展開を遥かにさかのぼる。イリアスも、1844年に中国に来たとき、10世紀から存在した開封のユダヤ人について聞いたはずである。彼らは完全に中国人に同化しながら清代にまで生き延び、1652年にはシナゴーグ(ユダヤ教会堂)を再建していた。


 ◆イリアスの弟アーサー・サッスーンは1865年、「香港上海銀行(HSBC)」の設立にも参加し、中国での活動の地歩を固めた。しかしデビッドの死後、「サッスーン商会」の管理権はユダヤの慣習に従って長子アルバートが継承したので、イリアスは1872年、別会社として「新サッスーン商会」を設立した。上海の「サッスーン商会」の活動は、この新会社が中心となった。 

 ◆「新サッスーン商会」の活動は次の三期に分けられるとされる。第一期は1872~1880年、「アヘン貿易」を中心とする時期。第二期は1880~1920年、イリアスの子ヤコブとエドワードの時代で、不動産投資に精力が注がれた。第三期は1920年以後、エドワードの子ビクターが不動産だけでなく、各種の企業にも盛んに投資し、上海の産業を独占していった時期である。

 ◆19世紀の新旧「サッスーン商会」の営業は、何といっても「アヘン輸入」が中心である。この点は、ほかの外国商社と比較しても際立っている。開港間もない1851年、上海に入港した外国商社の船のうち、ジャーディン・マセソン、デント、ラッセルの3大商社のうち、イギリス系の前3社はいずれもアヘン輸入を大宗としたが、サッスーンの船2隻に至ってはアヘンのみを搬入し、空船でインドに帰っている。1870~1880年代にはインドアヘン輸入の70%はサッスーンが独占した。サッスーンの強さは、他社とは違い、アヘンをインドの産地で直接買い付けたことにあった。 

 ◆デビッドの孫ヤコブ・サッスーンの代になると、アヘンは輸入品目首位の座を綿製品に譲り、国際的にもイギリス国内でもアヘン禁止の声が高まり、1908年には「中英禁煙協約」が締結された。それでもサッスーンがアヘン取引にこだわったことは、1920年代の「新サッスーン商会」の文書からも明らかである。アヘン禁止による価格の上昇が巨利をもたらしたからである。 

 ■「アヘン王」から「不動産王」へ

 ◆「サッスーン財閥」はアヘンで儲けた金を土地の買い占めに回したと非難されるが、20世紀にはアヘンなどの商業に加えて不動産も主要業務となる。サッスーンが1877年、最初に手に入れた土地は、あの和平飯店の土地、サッスーンの活動拠点となる「サッスーン・ハウス」の土地であった。「新サッスーン商会」が不動産事業に乗りだしたのは、上海共同租界当局の工部局が財政需要の増大から土地捐をしばしば引き上げたため、地価が不断に上昇し、土地投資が有利となったためである。「サッスーン財閥」はユダヤ人の不動産王サイラス・ハードンから上海の繁華街南京路の不動産を入手したのを始め、さまざまな手段を用いて不動産を取得し、また建物の賃貸業務などで利潤を上げた。1941年までに上海に建てられた26棟の10階以上の高層建築のうち、6棟が「サッスーン財閥」の所有であった。「サッスーン財閥」は1926年に「キャセイ不動産」を設立したのを始め、たくさんの子会社や関連企業を設立して業務を拡大し、上海の「不動産王」となった。 

 ◆上海を代表するユダヤ人不動産王にあって、サッスーンとハードンは対照的である。

 ハードンはサッスーンと同じくバグダッド(現イラク)に生まれたユダヤ人だが、サッスーンのようなユダヤ名族ではなく、5歳でボンベイに移住し、1873年にサッスーンで働いていた父の友人を頼って香港から上海に来たときは無一物であった。彼は上海の「サッスーン商会」に雇われ、1886年には「新サッスーン商会」に移った。そして1901年に独立し、不動産業に乗りだした。サッスーンがイギリスの爵位を得てイギリス上流階級入りを果たし、ロスチャイルドとも姻戚関係を結んだのに対し、ハードンは租界の範囲において1887年にフランス租界公董局董事となり、1898年には共同租界工部局董事になるほか、さらに中国そのものに同化していった。この点では、彼の中国人の妻・羅迦陵(らかりょう)の影響が大きい。彼女の影響でハードンは篤く仏教に帰依し、1904年には「ハードン花園」を建造して中国の人士と交際するサロンとした。その中には清朝の皇族から革命派の人物までが含まれる。しかしサッスーンは武器売却先の軍閥など取引相手を除いて、租界の外の中国人とは交わらず、盛んに行なった慈善事業の対象も、中国ではなく、世界のユダヤ同胞が中心であった。 

 ■「上海キング」ビクター・サッスーン

ビクター・サッスーンは1924年、父エドワードの死により爵位と「新サッスーン商会」の経営を引き継いだ。彼はケンブリッジのトリニティ・カレッジ出身の完全なイギリス紳士であり、若くから航空マニアで、第一次世界大戦中にはイギリスの航空隊に加わって負傷した。 

◆彼が上海に君臨したことを象徴する建物がかの「サッスーン・ハウス」である。このビルはパーマー&ターナーの設計で、1929年に完成した。ヨーロッパ式に数えて10階建(日米式では中2階を含めて12階)で、4階から上はホテル、10階は彼自身の住居にあてられた。彼はまた上海西郊の虹橋路に買弁の名義で別荘を営んだ(現在の龍柏賓館)。さらに、租界の治外法権を利用して中国側の建築計画にも干渉した。1934年、「サッスーン・ハウス」の並びに中国銀行のビルが建ったが、当初の計画ではマンハッタン風の34階建の摩天楼になるはずであった。ところがサッスーンはロンドンで訴訟を起こし、自己のビルより30cm低い中国風の屋根を持つ現在の建物に計画変更させてしまったのである。  

「サッスーン財閥」は、産業資本・金融資本としての地歩をも固めた。

インドの「サッスーン商会」と比べると、上海に中心を置く「新サッスーン商会」は後までも「アヘン貿易」にこだわり、工業投資はあまり活発ではなかったが、この状況を変えたのが、1923年の安利洋行買収であった。安利洋行の前身はドイツ系の瑞記洋行で、第一次世界大戦後は共同経営者であったイギリス籍ユダヤ人のアーノルド兄弟が安利洋行として復業した。アーノルドは上海共同租界の工部局董事や総董を歴任する一方、紡績・造船などさまざまな企業を興していた。ところが1923年の不況時には経営不振に陥り、サッスーンの買収に帰した。業績不振の企業やその不動産を乗っ取るのはサッスーンの常套手段であった。間もなくサッスーンは経営陣からアーノルド兄弟を駆逐し、すべてを自己の支配下に置いた。この結果「サッスーン財閥」は、紡績・機械・造船・木材のほかバス会社(中国公共汽車公司)をも傘下に置いた「サッスーン財閥」はまた1930年、香港に「新サッスーン銀行」を設立し、上海・ロンドンなどに支店を開設するほか、いくつも投資会社を設立して金融力により上海の産業を支配した。 〈中略〉

◆第二次世界大戦後、租界が回収され、中国の民族意識が高まると、上海はもはや冒険家の楽園ではなくなった。上海のサッスーン財閥直属企業はすべて香港に移り、上海には支社のみを残して業務を大幅に縮小した。そして1948年には第二次撤退を断行し、不動産を一斉に投げ売りし、バハマに移転した。残った不動産も1958年に至り最終的に中国に接収され、「サッスーン財閥」は中国から姿を消した。時は移って現在、かつて上海最大のイギリス財閥であった「ジャーディン・マセソン商会」は香港からバミューダに本社を移す一方、再び中国との関係を深めている。この動きと比べると、興味深い。 

◆史上イギリス資本の世界市場展開、イギリス帝国主義のアジア支配と呼ばれている事態も、事実に即していえば、まずアジア市場を開拓したのはもともとこの海域でアヘン密売をしていた地方貿易商人のジャーディンやマセソンであった。さらにさかのぼると、イスラム圏からインド圏を経て東アジアに至る海域にはイスラム商人やユダヤ人・アルメニア人などが活躍していた。サッスーンもこのルートに乗って中国に至ったのである。さらに開封のユダヤ人やサイラス・ハードンのように終着点の中国に安住の地を見出す人々(ユダヤ人)もいた。これからの世界に占めるアジアの力量を考えると、アジアの海から世界を見る視角も意味を持ってくるといえよう。

 以上、日本上海史研究会[編] 『上海人物誌』(東方書店)より


 

 ■■追加情報 3: 台湾における日本のアヘン政策について

 ●19世紀末、「日清戦争」に敗北した清国は下関条約により、台湾及び澎湖諸島を日本に割譲したが、台湾における日本のアヘン政策については、次のような情報がある。参考までに紹介しておきたい。

 「日清戦争後の下関の談判において、清国の全権李鴻章は、『アヘンには貴国もきっと手を焼きますぞ』と捨てぜりふを残していったそうな。当時16万9千人もいたアヘン中毒患者の問題を日本がどう処理するか、世界各国も注目していた。『わが国に伝播したらなんとする。吸引するものは厳罰に処すべし。輸入や販売を行なう者についても同様だ。従わないものは台湾から追い出せ。中国大陸に強制送還せよ。』 このような『厳禁説』がさかんに唱えられたが、後藤新平は、『これでは各地に反乱が起き、何千人の兵士や警官が犠牲になるかわからない』と反対して、『漸禁説』をとった。『まず中毒にかかっているものだけに免許を与え、特許店舗でのみ吸引を認める。新たな吸引者は絶対に認めない。アヘンは政府の専売とし、その収入を台湾における各種衛生事業施設の資金に充当する。』 アヘンを政府の専売とするという破天荒なアイデアであったが、後藤新平の読み通り、大きな混乱もなしに、アヘン中毒患者は次第に漸減して、日本敗戦時には皆無となっていた」。


後藤新平。明治・大正時代の政治家。台湾総督府民政長官。初代満鉄総裁。後藤新平はアヘンの性急な禁止には賛成せず、アヘンに高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに、吸引を免許制として、次第に吸引者を減らしていく方法を採用した。この方法は成功して、アヘン患者は徐々に減少した。

 ※ 参考リンク: 人物探訪: 台湾の「育ての親」、後藤新平
 http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog145.html
 

■■追加情報 4: 中国東部の「開封」にユダヤ人社会が築かれていた


●13世紀のころ、北京にやってきたマルコ・ポーロは『東方見聞録』の中で、「中国東部の開封には大いに栄えているユダヤ人社会が存在していると聞いた」と記している。 

この「開封(かいほう)」は中国で最も歴史が古い都市の一つであり、850年前の北宋時代に首都になった。(当時100万人の国際都市だった)。






(私論.私見)