日露戦争にヤコブ・シフ(その陰にロスチャイルド)有り
(ロスチャイルドの代理人ヤコブ・シフ考) |
(最新見直し2006.9.26日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
日露戦争の陰にロスチャイルドの姿が見え隠れしている。ところが、肝腎のこの観点からの考察が為されているのだろうか。勿論、ロスチャイルドは陰の指南役であるから直接表に出ることはない。ニューヨークの金融家ヤコブ・シフを代理人として立ち働かせている。歴史家は、そのヤコブ・シフの動きは確認しているようであるが、ネオ・シオニズムに拝跪したテキストを読ませられているせいかロスチャイルドの意向までは読み取ろうとしていない。その分物足りなさを感じるので、れんだいこがここで検証しておくことにする。 2006.1.21日 れんだいこ拝 |
【帝政ロシアとユダヤの抗争】 | ||
太田龍氏は、著書「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」の中で、次のように記している。
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明治新政府が富国強兵化政策を推進した背後には、当時世界を席巻し始めたロスチャイルドを筆頭とする国際ユダヤ勢力の意向が働いていた可能性が強い。近代の戦争時代の始まりは、ロスチャイルドを筆頭とする国際ユダヤ=ネオ・シオニズムによって煽られ促進された形跡が認められる。これを仮にネオ・シオニズム、その主体をネオ・シオニストと命名する。これに乗せられた方にも責任があると云うべきであろうが、そういう訳で世界中が帝国主義戦争に向った。これについては別途検証することにする。 1904(明治37).2月、日露戦争が勃発した。日露戦争を極東アジアの権益を廻る抗争として極東アジアの状況からのみ解析するのは不当ではなかろうか。日露戦争の背景には、西欧に於ける帝政ロシア問題があった。むしろ、この方が真因であったのではなかろうか。日露戦争も又ネオ・シオニストに誘導された形跡があり、明治政府はこの策謀に上手く引きずり込まれたのではないのか。以下、この経緯を検証してみたい。ネット検索で出てきた「ベン・アミー・シロニー・ヘブライ大学教授、ユダヤは「反日」か「親日」か?――日露戦争とユダヤ人(上)」、「随想──世界と日本 日露戦争とヤコブ・シフ 加瀬英明(外交評論家)」その他を参照する。既成のものは貴重情報を開示しているが、れんだいこの見立てと異なるので資料としてのみいただき、れんだいこ風にアレンジする。 当時のヨーロッパ社会は数次にわたる革命の洗礼を受け、中世的封建壁が崩れ始めていた。旧権力の最後の王制が帝政ロシアであった。当然、ネオ・シオニストと帝政ロシアは対立関係にあった。なぜなら、帝政ロシアは唯一「ユダヤの陰謀」を見抜き、敵視していたからであった。この拮抗関係に於いて、ロシア皇帝は、急進主義派に度々命を狙われていた。急進主義派の皇帝暗殺は、その理論に拠るものであり、ネオ・シオニズムの指図によったものかどうかまでは分からない。 1881.3月、皇帝アレクサンドル2世が首都ペテルブルグ(後のレニングラード)のエカチェリニンスキー運河岸で爆殺された。1855年に即位し、農奴解放を行ったアレクサンドル2世の最後であった。1887.5.20日、急進主義系学生たちが、アレクサンドル3世暗殺未遂事件を起す。1891年、92年にかけて、皇太子が、中東、極東の巡遊にあたって日本にも訪れた。彼は津田巡査によって危うく殺されるという大津事件に巻き込まれている。 1894年、その皇太子が父アレクサンドル3世の後継として帝位についた。新皇帝はニコライ2世と名乗った。この日、しきたりの振る舞い酒がホデインカ原で飲ましてもらえるというので集まった何万という民衆が混乱して多数の圧死者が出た。その時間に皇帝はたまたまフランス大使館招待の舞踏会に出ていた。人民に対して冷酷であるという風評が立ったが、彼の本意でなかった。1895.10月、アレクサンドル3世死去。 ニコライ2世は、強烈な反ユダヤ主義者であった。ユダヤ人を嫌い、ロシアの災難の元凶はユダヤ人にあると見ていた。ユダヤ人を蔑称で「ジディヤ(ユダ公)」と呼ぶほどに反ユダヤ主義政策を執った。 1901年、セルジェス・ニールスによりロシア語版「シオンの議定書(プロトコール)」が世に出された。これを仮に「ニールス版シオンの議定書」とする。「ニールス版議定書」は、ユダヤが世界征服の陰謀をめぐらしていることを暴露し、最新版ユダヤ人の世界支配計画の史上初発表という史的地位を獲得している。明らかに帝政ロシアがこの出版を後押ししていた。 1903年、過ぎ越しの祭りのとき、ベッサラビアきっての都市であるキシネブにおいて、ユダヤ人に対する暴動が起った。民衆は1500件にも及ぶユダヤ人の家や店を襲って略奪し、49名の死者、数百名の負傷者を出す惨事となった。同年夏、ゴメルという町でもポグロムが起こり、8名のユダヤ人が虐殺され、多数の負傷者が出た。 1904.2月、日露戦争が起きた当時、ロシアではポグロム(ユダヤ人迫害)の嵐が吹き荒れていた。ポグロムは、ロシア政権の奨励と黙認により押し進められていた。極東の地で、その帝政ロシアに日本が開戦する事態が勃発した。ユダヤ人資産家は、帝政ロシアから資本を引揚げ、ロシアに対する態度とは対照的に日本を援助し始めた。 |
【ヤコブ・シフの履歴】 |
ちなみに、シフの履歴は次の通り。1847年、ドイツフランクフルト街のロスチャイルド家の屋敷の中で生まれた。この出自がシフの生涯の履歴を決定しており、「シフは生まれてから死ぬまでロスチャイルドの従僕として働く」ことになる。代々ラビの家系で、父は銀行員、幼少より伝統的なユダヤ式宗教教育を受けた。1867年、18歳前後の頃、虎の子の500ドルを手にニューヨークに到着したユダヤ人であり、まず銀行で出納係として働いた。28歳の時、クーンとローブという二人のユダヤ人の共同経営者が創立した「クーン・ローブ商会」に就職した。10年後の1875年、ソロモン・ローブの娘と結婚し、以降才覚を表し1885年、38歳の時、「クーン・ローブ商会」の社長に就任した。ロスチャイルドの資金提供により「クーン・ローブ商会」の経営権を手に入れたとも云われており、いずれにせよロスチャイルド配下の金融投資家であった。主として全米の鉄道建設に投資して巨利を得た。ニューヨークのペンシルベニア中央駅もハドソン川地下横断トンネルもシフの手によるものだった。その他電信会社、ゴム産業、食品加工の分野も手掛けていた。 |
【日本の資金調達にヤコブ・シフの果たした役割】 |
開戦が避けられない状況になると、日本は急いで戦費を調達しなければならなかった。
日本は日露戦争に踏み切ったものの、戦争遂行戦費が不足していた。開戦の前年の12月には、日本銀行には円も含めて、正貨が1億6796万円(1170万英ポンド)しかなかった。日本は何とかして、海外で戦費を募らなければならなかった。 その調達任務に就いたのが日本銀行の副総裁だった高橋是清であった。高橋は、誰の入れ智恵か自明であるが、外貨建て国債の発行を企図し、それを売り込む使命を帯びて米欧へ向った。日本の第1回目の戦時国債として、1億円(1千万ポンド)を調達する任務を帯びていた。「2月、戦費調達のため、日本銀行総裁・高橋是清が欧米へ派遣され、イギリスでロスチャイルド財閥から、アメリカでクーン・ロエブ財閥から支援を受け、戦費19億円のうち8億円を調達した」と記されているが、案外これが実際であったのかも知れない。 伝えられるエピソードは次のようなものである。高橋はまずアメリカに乗り込んだ。しかし、高橋の訪米は徒労に終わった。当時のアメリカ金融筋は、圧倒的な軍事力を持つ帝政ロシアに極東の小国日本が勝つことが万に一つもありえないと判断し、日本に対する資金の貸付や日本の国債を購入することに二の足を踏んでいた。日本に対する融資は焦げ付く惧れが高く、危険度が高かった。 高橋は深い失意を味わって、次の目的地であったイギリスへ向かった。ロンドンに一カ月以上も滞在し精力的に走りまわった。日英同盟の誼もあり、イギリスの銀行団から500万ポンドの日本国債を引き受けてもらう約束をとりつけた。だが、まだ半分足りなかった。高橋の奔走は続いた。4月の或る日、高橋はイギリスの銀行家の友人が催した晩餐会に招かれた。その席上で、隣に座ったのがアメリカ・ニューヨークで活動する「クーン・ローブ商会」の経営者であるユダヤ人金融家ヤコブ・ヘンリー・シフ(以下、単にシフと記す)だった。 晩餐会で、隣同士になったシフは多くの質問をし、高橋は一つ一つ丁寧に答えた。その遣り取りを通じて、 シフの率いる「クーン・ローブ商会」が残りの500万ポンドを引き受けてくれることになった。高橋は愁眉を開いた。この経緯が、「ユダヤ人金融業者ヤコブ・シフが日露戦争当時、財政難に苦しむ日本政府の発行した国債を一手に引き受けて、日本の窮状を救った話は有名である」と評される元一日の逸話となっている。れんだいこには出来すぎの話であるように思われる。実際には、シフは、晩餐会で隣同士になろうがなるまいが、ロスチャイルドの意向に従い、日本の公債1億円(1千万ポンド)を米国と英国で500万ポンドづつ引き受けるよう立ち働く代理人として登場していた、と考えるべきであろう。 この時点かその後かは不明であるが、シフは、「全米ユダヤ人協会」の会長を務めている。そのシフの力によって、シフは全世界に散ったユダヤ人やニューヨークのあらゆる銀行に日本の戦時国債を買うように呼びかけ、説得し、日本政府が日露戦争中に海外で発行した戦時国債のおよそ半分をユダヤ金融資本が引き受けることになった。主にロックフェラー・スタンダード石油財閥が後押しする「ロックフェラー一般教育委員会」が出資した。 日本は、シフの奔走によってアメリカやヨーロッパから約2億ドルの資金調達に成功し、船や武器、また必要な装備を調えることができた。つまり、国際ユダヤの援助がなかったとすれば日本は勝つことができなかった、と云われているほど貴重な援助であった。いずれにせよ、「シフは日本が国運を賭けて戦った日露戦争に当たって、大きな役割を果たした」。 日本政府は、計4回ポンド建外債を発行し、調達総額は戦費の70%に相当する8200万ポンド(4億1千万ドル)になった。当時の公債の金利相場は2%であったが、初期の2回分の金利は6%、後2回は、1905年元旦の旅順陥落、奉天の戦いの勝利、そして日本海海戦の勝利を受け、それぞれ3000万ポンドを4.5%の金利で引受けられ、ロンドンとパリのロスチャイルド家が発行団に名を連ねている。 |
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四王天延孝氏は、1941年、「ユダヤ思想及び運動」を著し、日露戦争について次のように述べている。
鬼塚英昭氏の「20世紀のファウスト」3Pは、次のように記している。
日本政府は外債募集に成功したが、その裏に帝政ロシアを「憎き敵」と見なしていたロスチャイルドを筆頭とするユダヤ人資産家の意志が働いていたことを当然見て取るべきであろう。高橋は自伝のなかで、賢くも次のように述べている。
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【その後のヤコブ・シフの動き】 | ||
日本が戦勝国になったことにより、ヤコブ・シフは結果的に利益を得ることができた。それは、高橋に援助を約束した時点では考えられなかった結果であった。 シフは日露戦争が日本の勝利によって終わった翌年の1906年に、日本政府に招待され来日した。この時、明治天皇は宮中で午餐会を催し、それまでに既に瑞宝章を授与していたが新たに最高勲章の旭日章を贈っている。日本銀行は、シフを後楽園に招待し、第一銀行頭取・渋沢栄一、東京市長・尾崎行雄、政治家・大隈重信らが盛大な晩餐会を開催した。 他方、ロシアは、シフが日本に援助したことを許さなかった。1911年、ロシアの大蔵大臣はアメリカの報道機関に対して、次のように述べている。
ヤコブ・シフは、日露戦争後も引き続き帝政ロシア打倒に立ち働いた。「クーン・ローブ商会」から2000万ドルもの巨費を「ロシア革命」に提供したばかりか、革命後のスターリンによる「第1次5ヵ年計画」も支援していたといわれている。但し、大恐慌後は、彼の「クーン・ローブ商会」は支配力を次第に失い、現在は同じドイツ・ユダヤ系の投資銀行「リーマン・ブラザーズ社」と合併している。 「ユダヤ人はお金持ち?」で次のように評されている。
凡庸すぎる解説ではあるが、「シフは、ロシアで迫害されるユダヤ人を救うため、ユダヤ人弾圧国家であったロシアと戦う日本に同調したのです」は貴重な指摘であるように思われる。 風説として次のように云われている。このクーン・ローブ商会が19世紀の後半から20世紀の初頭にかけて、ウォール・ストリートでモルガン商会と対決すること多かった。その後の変遷に於いて、クーン・ローブ商会ーロックフェラー財閥、モルガン商会ーロスチャイルド財閥とが結びついていた。つまり、「ロックフェラー 対ロスチャイルドの、アメリカ金融界における代理戦争が、クーン・ローブ商会 対モルガン商会の対立」という構図を生み出した。 1920.9月、シフは逝去した(享年73歳)。 |
【昭和天皇のヤコブ・シフ、チャールズ・ロスチャイルド卿への褒章】 | |
昭和天皇は、1966(昭和41)年、イスラエルのモシェ・バルトゥール氏は駐日大使として赴任し、着任してすぐに、皇居において信任状の奉呈式が行なわれた。次のように伝えられている。
なお、1973年にはロンドンロスチャイルド家のチャールズ卿に勲一等瑞宝章が贈られている。日露はじめ、第2次大戦後の日本開発銀行の起債を引き受けてくれた事に関する、ロスチャイルド家に対する謝意を表したことになる。 1977年、「クーン・ローブ商会」は、投資銀行として有名なリーマン・ブラザーズ社と合併した。 |
【ジョージ・ケナン】 |
ジョージ・ケナンが、シフの個人代理人として暗躍した。ケナンが日本への融資の蔭の主役であり、日露戦争後、日本政府から従軍記章と瑞宝章を贈られている。ケナンは、日露戦争で日本の為に働いたのみならず、シフの代理人としてロシア革命の資金及び武器援助に重要な役割を果たした。 |
(私論.私見)