3代目ロスチャイルド・ジェームズ

 (最新見直し2006.12.21日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ロスチャイルド2世に続いて3世時代を検証しておく。この頃になるとロスチャイルド派の各国の権勢が競合しており、整合的には書けない。

 
2006.12.21日再編集 れんだいこ拝


 1837年、フランクフルト・ロスチャイルド商会が、オーガスト・ベルモント(本名アウグスト・シェーンベルク)をアメリカに派遣し、ジャクソン大統領によって潰された銀行事業の再建を開始した。彼がペリー提督の娘と結婚、その息子が元ヴァンダービルト夫人と結婚する。


【ロンドン派ロスチャイルド】
 1836年、三男のネイサン・ロスチャイルドが急死した後、ロンドン派ロスチャイルドは、ディズレイリ内閣によるスエズ運河株式の買収(1875年)に400万ポンドを融資し、政府にスエズ運河買収の資金を提供したり、第1次世界大戦の際には莫大な戦費調達と引き換えにユダヤ人国家の建国を約束させる(後のイスラエル建国につながる)など、政治にも多大な影響力を持った。戦後のユダヤ人国家建設を認めさせる(バルフォア宣言,1917)など国際政治上に大きな足跡を残した。

【3代目ロスチャイルドをジェームズが相続】

 ジェームス・ロスチャイルドは32歳のときに結婚した。ジェームスは30歳の時「男爵」の位をさずかっており、これにふさわしいユダヤ人家族をフランスに求めるのは至難のワザというものだった。非ユダヤ人との結婚は論外だった。五男五女の末っ子の点が幸いした。二男のザロモン兄とは20近く齢が離れており、その娘ベティーは芳紀19歳。身内に白羽の矢が立った。とともに以後、半世紀近くつづけられたロスチャイルド結婚方式が定まった。

 ベティーは美しく、聡明だった。やがてラフィット街のロスチャイルド邸は、パリきってのサロンになった。銀行家、工業家だけでなく、作家、詩人、画家たちが出入りした。パリ住まいの革命詩人ハインリヒ・ハイネもその一人で、フランスのブルジョワ階級を手きびしく批判する一方、べティー・ド・ロスチャイルドを讃える文をつづり、おりにつけ手紙を送っている。「男爵夫人さま、お約束したとおり、新作の書き出しをお目にかけます……」。この世の最初の読者というわけだ。文学史の有名なエピソードだが、ハイネの死後、その手元には多くの国債や鉄道株券が残されていた。新作と引き換えに、優先株をまわしてもらったのかもしれない。

 ネイサン・ロスチャイルド死後、五男のジェームズ(パリ支店)が当主をついでロスチャイルド3世となった。


 1839年、中国の清の道光帝がアヘンの禁輸を命じ、取締官に林則除を命じて広東に送り、サッスーンのアヘン2万箱を投棄させた。、これによりアヘン戦争が始まった。清は敗北し、1842年、南京条約が締結された。その結果、「清に於けるアヘン売買の合法化」を認めさせられることになった。 
 1848年、ロスチャイルド銀行以外のパリの銀行の合計資産が3億6200万フランの時代、パリのロスチャイルド分家(5つの分家のうちのひとつ)だけで6億フラン所有していたという。1925年、一族の資産は3000億ドル、45年には5000億ドルに達していたといわれ、世界の富の半分を所有していると言われる所以がここにある。ロスチャイルド家が世界最強の金融王朝であり、同家は今なおヨーロッパ最大の財閥として世界の政財界を牛耳うる地位にいる。

【3代目ロスチャイルド・ジェームズ時代】

 パリのジェームスは、当時の成長産業だった鉄道に着目し、1835年に鉄道事業に進出した。パリ~ブリュッセル間の北東鉄道を基盤に事業を拡大していった。フランスの8大鉄道で12の重役ポストを占めて鉄道王となり、「ヨーロッパの鉄道王」として支配した。

 また南アフリカのダイヤモンド・金鉱山に投資し、更にはロシアのバクー油田の利権を握って「ロイヤル・ダッチ・シェル」をメジャーに育て上げるなど、情報・交通・エネルギー・貴金属を中心とした実業中心の膨張を遂げていくこととなった。

 1855年、パリ万博でワインの格付けがされ、ボルドーワインが「特別優良(grand cru)」と認定されて、一躍注目をあびた。ロンドンロスチャイルド3代目の二男ナタニエルは1853年、ボルドー・メドック地区のシャトー・ムートンを手にいれボルドーに目をつけていた。フランスワインの名産地としてシャンパーニュ地方やブルゴーニュ地方、ロワール地方が有名で、南部のボルドーは一歩遅れをとっていた。ナタニエルは精力的に品質改良にとりくみ、パリ万博ではシャトー・ムートン・ロッチルドが銀賞に輝いた。

 1855年、本家のフランクフルトの長男アムシェル、ウィーン分家の二男サロモン、ナポリ分家の四男カールが相次いで亡くなった。

 1861年、スエズ運河が完成した。フランスとエジプトが運河会社の株を分け合った。

 1862年、ロスチャイルド家を訪問したナポレオン3世と金融提携をした。

 1862年には、ロスチャイルド家を訪問したナポレオン3世と金融提携をした。

 1868年、フランス・ロスチャイルド当主ジェームスは、メドック地区のシャトー・ラフィットを買い取った。ボルドーで最高の二つのワイン園がロンドンとパリのロスチャイルドの手にわたった。以来一世紀に及んで、両者は高級ワインの生産にしのぎを削ることになる。やがてシャトー・ラフィット・ロッチルドと、シャトー・ムートン・ロッチルドは最良にして最も高価なワインの代名詞になった。

 1868年、パリの五男“鉄道王”ジェームズが他界した。遺産は6億フラン以上ないし4400万ポンドだったとされる。6億フランは、フランス国内の他のすべての金融業者の資産総額より1億5000万フラン多いと推定されている。当時の純金に換算して174トンになる。4400万ポンドであればさらに多く、純金322トンになる。


 フランス・ロスチャイルドの当主ジェームスの息子の一人アンリは、医学を学んだのち、銀行業務につかず、小児医学についての論文を書き、医療器具を改良して、その生産と販売のための会社をつくった。ついで自動車と石けん工場にも手をひろげたが投資は赤字つづきだった。以降、実業から文筆に転じ、小説や戯曲を書きはじめた。劇団経営にのり出し、パリにピガル座を設立。座付き作者として、それなりの成功を収めた。彼は、文筆と劇団経営にペンネームを使い、いっさいロスチャイルド(ロッチルド)は用いなかった。


【ライオネル・ロスチャイルド時代】

 1870年に資金難にあえぐバチカンに資金援助を行うなどして取り入り、その後ロスチャイルド銀行は、ロスチャイルドの肝いりで設立されたヴァチカン銀行(正式名称は「宗教活動協会」、Instituto per le Opere di Religioni/IOR)の投資業務と資金管理を行う主力行となっている。ロスチャイルド家がカトリック教を金融支配するという事態になった。  
 ロスチャイルド商会は、1870年代頃からになって、急激に扱い高と資産とがふくらんでいった。その要因は、この頃どの国も軍備の整備と拡充に追われたことにあった。旧来の財務ではやりくりがつかず、国債や公債発行で資金を調達するようになった。ロンドン・ロスチャイルド商会は18ヶ国の債券16億ポンドを取り扱ったが、1998年時価ほぼ10兆円にも達する金額であった。彼らはロシアに君臨した女帝エカテリーナ二世の後継者であるアレクサンドルと皇帝二コライの財政も支配した。

 1875.11月、スエズ運河の収益が期待通りに上がらず財政危機に陥った。エジプトが、持ち株40万株の内の17万6602株を担保に金策に走った。フランスは、ナポレオン3世が普仏戦争に敗れ退位し、ドイツに50億フランもの賠償金を課せられており巨額のエジプトの持ち株を買い取る余裕はなかった。11.14日、イギリス首相ディズレイリは、ユダヤ人の大富豪ロスチャイルド邸で主人のライオネルと夕食をともにしていた。そこへ召使が一通の電報をもってきた。それは、エジプトのパシャがスエズ運河の株を売り出そうとしている、という極秘情報であった。値段は1億フラン (400万ポンド)だという。

 イングランド銀行から金を出すには国会の承認が必要であった。ディズレイリはヴィクトリア女王に諮り、ニューコートのライオネル・ロスチャイルドの融資により買収に入った。、「明日までに400万ポンドを貸してください」と頼んだ。ライオネルが「担保は」と尋ねると、「イギリス政府です」と使いが答えたので、「結構です」と言って、たちまちポンと400万ポンドを揃えて17万6000株を購入し、イギリスがスエズ運河の最大株主となった。イギリスが、以後72年間にわたってスエズ運河地帯を支配下に置くことになる。(「スエズ運河の完成と買収」その他参照)

 こうして、ギリス政府が、ライオネル・ロスチャイルド資本の融資によってスエズ運河会社最大の株主となり、ロスチャイルド家はイギリス政府&ヨーロッパ王室との癒着を更に深めていった。スエズ運河の株を持つライオネル・ロスチャイルドは、初代ロスチャイルドの孫の世代にあたる。「議定書」は、ライオネルなど、孫の世代のロスチャイルドの歴史的経験を反映して居ると見る。

 ロスチャイルド家は、単なる一つのユダヤ財閥家族ではない。スプリングマイヤーが「イルミナティ悪魔の13血流」(KKベストセラーズ)で展開して居るように、ロスチャイルドは、イルミナティの約五百の家系の中核体の一つである。
 ネイサンの長男ライオネルはネイサンの死後英国政府に資金を提供してスエズ運河を買収した。ライオネルはユダヤ教徒として上院議員になるための法改正を11回提出し、遂に英国会にそれを認めさせた。英国女王はライオネルの息子ナサニエルの代になって爵位を授けた。

 1880年には世界三大ニッケル資本の1つである「ル・ニッケル(現イメルタ)」を創設し、1881年には亜鉛・鉛・石炭の発掘会社「ペナローヤ」を創設し、スペインからフランス、イタリア、ギリシア、ユーゴスラビア、北アフリカ、南アフリカまで事業を拡大している。また、1888年にはロスチャイルド資本によって世界最大のダイヤモンド・シンジケートである「デ・ビアス社」を創設し、更には南アフリカ最大の資源開発コングロマリットである「アングロ・アメリカン」=オッペンハイマー財閥と提携した。今さら言う事でもないが、つい最近まで南アフリカを騒がしていたアパルトヘイトの真犯人はロスチャイルド家の代理人たちであった。


 1882年、平等と自由を求める「ホバベイ・ジオン」や「ビールー」という団体に組織されたユダヤ移民の第一波がパレスチナに到着。


 1885年、ヴィクトリア女王が、スエズ運河で借りを作って以来の親交により、ライオネルの息子のナサニエル・ロスチャイルドにロードを与えた。ナサニエルは、上院議員となった。ヴィクトリア女王に続くエドワード7世は、引き続きロスチャイルド家への依存を強めていった。


 1891年、モスクワとペテルスブルグからユダヤ人追放。ユダヤ人モレヒバが「シオンを愛する人々」を創立。


 1892年、「シオンを愛する人々」の理論的指導者ピンスケルが「自力解放」に共鳴して、パレスチナに最初のユダヤ人コロニーを成立させる。


 1894年、フランスで“ユダヤ禍”を宣伝した「ドレフュス事件」発生。


 1896年、「ドレフュス事件」にショックを受けたテオドール・ヘルツルが『ユダヤ人国家』を出版。政治的シオニズム運動の始まり。


 1897.8月、テオドール・ヘルツル、スイスのバーゼルにて「第1回シオニスト会議」を開催。この会議で「シオニズムはユダヤ民族のためにパレスチナの地に公法で認められた郷土を建設することを目的とする」という「バーゼル綱領」が採択される。


 19世紀になると、フランクフルトゲットー出身のロスチャイルド家がヨーロッパはおろか、アメリカ、アジアにまでまたがる諸国の政府や王侯貴族を相手とする大金融業により世界に君臨するようになる。ロスチャイルドの生家を一目見ようと多くの人々がゲットーあとを訪れ、ユーデンガッセはフランクフルトの名所となった。18世紀において、ゲットーの証人となったゲーテをはじめ、そこを訪れた多くの旅行者の記述がゲットーを嫌悪し、耐え難い生活の場とみていたのと、きわめて対照的である。

 19世紀末にはロスチャイルド家が既に「世界最大の財閥」にのし上がっていた。ハプスブルク時代に金融力によって宮廷ユダヤ人(ホフ・ユーゲン)となり、本来ならユダヤ人が絶対にもらえない「男爵位」を得たロスチャイルドは、ユダヤ金融資本のシンボルとなり、世界に散らばったユダヤ人の力が全てロスチャイルドに糾合された。このファミリーは無数に婚姻しており、当然ユダヤ教以外の人物も多数含まれる。シェークスピアにも悪く書かれた“ユダヤ商人”たちは、現在、ロスチャイルドのネットワークの中にほとんど全て取り込まれているといっても過言ではない。  ロスチャイルド家は近代・現代ビジネス史上、最も成功したファミリーである。ロスチャイルド家の存在を無視しては、20世紀も21世紀も、そして地球の戦争も平和も語ることができない。関係者によると、ロスチャイルドは自分たちが現代文明をリードしてきたという強い自負を持っており、次のように述べている。

 「我々は純粋に“ビジネス”を追求しているのであり、“国際ルール”を侵していない。先見性に優れた大胆かつ站密なビジネス戦略の積み重ねが、今日のような確固たる“資本主義的地位”を築いたのである。我々のことを悪く言う人がいるが、我々は現代文明のあらゆる分野に多大な“恩恵”をもたらし、人類全体に計り知れない貢献をし続けているのであることを忘れないでくれたまえ」。

 彼らにとってみれば、国境はないに等しい。まさしく世界をまたにかけた商売をしているのである。他方、世界中にのさばっている“死の商人(兵器商人)”の多くは、ロスチャイルド財閥と何かしらの関係を持つ者たちであることは事実である。戦争あるところにロスチャイルドの姿ありと言われている。


【ゴールドスミス家】
 ロスチャイルドはもともとゴールドスミスから派生した一族であった。ドイツ・フランクフルトのロスチャイルド家は娘ばかりとなり、1901年、男系としては断絶した。代わって元々本家筋に当たるゴールドスミス家が利権を相続してドイツを仕切ることになった。 マクシミリアン・ゴールドシュミットを輩出し隆盛を誇る事になる。

 1901年、「ユダヤ国民基金」が誕生。パレスチナの土地を買い求め、ユダヤ人移民に貸し与えた。その土地をパレスチナ人に貸与することは禁止された。


 1909年、ユダヤ人最初の町「テルアビブ」が創設される。


 1910年、最初のキブツ(共産村)である「デガニア」がガリラヤ地方にできる。


 

 1913年、ロスチャイルド派は、米国に連邦準備制度(FRB)を設立し、米国の通貨発行権と管理権を手中に収めた。FRB連邦準備銀行は100%国際金融財閥の私有銀行であり、この私有銀行が米国の財源の元になった。この私有銀行の株を米政府は一株も持つ事は許されず、米国がロスチャイルド国際金融帝国に乗っ取られたことを意味する。各国の中央銀行(日本は日銀)がこれに組み込まれることになった。日銀の株既に彼等40%手に入れている。

 今や、政府に金を貸し付け、人工的に需要を作り出す事にまで成長した。金融恐慌、不景気、飢餓、戦争、革命が創造されることになった。この発想に基づいて、中央銀行システムが創出された。

 第一次世界大戦(1914年)が勃発したのがFRB「連邦準備銀行」が発足した直後であり、ロシア革命(1917年)、第二次世界大戦、その後の冷戦構造、朝鮮動乱、ベトナム戦争、湾岸戦争、9.11テロから続くアフガン戦争、イラク戦争にいたるまで、全てこのシステムが可能にした物であり、原爆製造、軍産複合体、国連自体も、この私有の中央銀行の落しごである。この支配構造無しには考えられない。グローバリゼーション(国際化―帝国主義化)も、国際金融資本帝国主義の誘導である。 

 第一次世界大戦勃発の時,アメリカ人民はドイツとの戦争をのぞんでいたわけではなかった。国際的銀行家が巨万の富を手に入れるために戦争を必要とし、周到な準備に基づいて引き起こされたとも考えられる。

 1913年、イグナシアス・バラは、著書「ロスチャイルド家のロマンス」を出版し、ロスチャイルド2世がどのようにして富を築いたか明らかにした。
 1914年、ネイサン・マイアー・ド・ロスチャイルド男爵は、彼の祖父についての「ワーテルローの物語」は事実ではなく中傷であるとして、イグナシアス・バラの著書を即刻発売禁止にするよう法廷に訴え出た。1915.4.1日付けニューヨーク・タイムズは、「法廷がその物語は真実であると裁定し、ロスチャイルドの訴えを退け、彼に法廷費用の全額支払いを命じた」と報じた。同時に、「ロスチャイルドの全資産が20億ドルと推定される」と記している。

 1915年、ロード身分のナサニエルが死に、ウォルターが相続した。


 1917.11月、大英帝国がユダヤ人大富豪家のライオネル・ロスチャイルド卿に「ユダヤ国家樹立」を約束する書簡(バルフォア宣言)が取り交わされる。


 1919年、ライオネル・ロスチャイルドがエクスベリー・ガーデンと呼ばれる夢のような庭園をつくる。ライオネルは「趣味で銀行家をやっているが、本業は庭師だ」と語っている。以来そこに、代々一族が受け継いできた邸宅エクスベリー・ハウスがあり、敷地が10万坪の広大な田園に、しばしばエリザベス女王も訪れる。


 1922.7月、国際連盟(1920年1月に成立)がイギリスのパレスチナ支配を正式に承認。イギリスは全パレスチナの77%を占めるヨルダン川東岸のパレスチナを、イギリスの傀儡アブドゥラ王(現フセイン国王の祖父)に与え、トラスヨルダンと名付けた。また、イギリスはパレスチナへの移民を1年間に7万人と制限したが、これにユダヤ人は激しく反発。この移民制限が、結果的にやがて台頭してきたナチス・ドイツにユダヤ人の大量虐殺を許す原因になった。


 1929年、ユダヤ人のパレスチナ入植を進めるため、現地での警備から世界的な農業輸出、ニューヨークでの資金調達までを行なう「ユダヤ機関(JAFI)」という強力な組織が作られ、これが臨時政府として最大の役割を担うことになる。


 1933.1月、ドイツでナチスが政権を握る。


 1937年、ウォルターロスチャイルドが死亡。イギリスに於けるユダヤ王は3代目のヴィクターが就任。→イブリン


 1938.3月、ナチス・ドイツはオーストリアを併合した。ウィーンのロスチャイルド商会の当主ルイス・ロスチャイルドは、イタリアへ脱出しようとして飛行場に向ったところでナチス親衛隊SSの将校に見つけられ、自邸に連れ戻された。ゲシュタポがやってきて警察本部へ連行し、地下の留置場に投げ込まれた。かのロスチャイルド当主が牢にぶちこまれるという恥辱に遭った。ベルリンの総統室は勝利の声にあふれた。

 逮捕より1ヶ月過ぎ、ルイス・ロスチャイルドの身柄はウィーンの「メトロポール・ホテル」に移された。ナチス・ドイツは、中央ヨーロッパ最大の鉄と石炭の産地を手にするために、ロスチャイルド家所有の「ヴィトコヴィッツ製鉄所」を喉から手が出るほど欲しがっていた。ナチス№2のヘルマン・ゲーリングの使いから「ヴィトコヴィッツ製鉄所」を提供すれば身柄が釈放されるという取り引きが申し出された。ルイス・ロスチャイルドは拒否した。ナチス・ドイツは、「ヴィトコヴィッツ製鉄所」を強引に占領した。


 1938.11月、ヒトラー政権による全国的組織的なユダヤ人迫害となった「水晶の夜」事件が起こった。この事件以降、ヒトラー政権によるユダヤ人迫害は本格化していった。


 1939.3.15日の早朝、ナチス・ドイツ軍はチェコに侵攻し、夕刻には首都プラハにヒトラーが入城、さらにスロバキアも保護国にした。ナチス・ドイツとルイス・ロスチャイルドの「ヴィトコヴィッツ製鉄所」をめぐる交渉は続き、「ルイス・ロスチャイルドの釈放と300万ドルの買い取り」で2ヶ月の交渉の末、遂にナチスはロスチャイルドの条件を呑んで釈放した。ルイス・ロスチャイルドは、1年以上も「メトロポール・ホテル」に起居を続け、ナチスと対等に交渉し続け釈放された。その後の大戦の勃発によって、実際にはルイス・ロスチャイルドはこの大金を受け取ることもなかったが、最後にはドイツ敗戦で製鉄所の財産は戻ってきた。


 1939年、ドイツ・フランクフルト・ロスチャイルド家の当主フランク・ゴールドスミスの屋敷にもゲシュタポ2名がやって来た。フランク・ゴールドスミスは、執事に「君たちを呼んだ覚えはないと連中に言ってやれ」。驚くことに、ゲシュタポはこの言葉を聞いて黙って帰って行った。


 1947年、ヴィクターは、父の弟のアンソニーに反逆される。これにより、イギリスのロスチャイルドは二分された。


 1940年当時のロスチャイルド一族は約5000億ドル、アメリカの全資産の2倍、全世界の富の50%を支配していたと推定されている。彼らの富は創業以来230年にわたって確実に増殖している。彼らの勢力範囲は、まずヨーロッパ、ついでアメリカ、アジア、そしてアフリカ、オーストラリアに広がり、戦争と革命、そして経済恐慌、あらゆる動乱のたびごとに膨張して現在に至っているわけだ。


 第二次世界大戦後、その勢力は衰え、かつてほどの影響力は失ったとされるが、金融をはじめ石油、鉱業、マスコミ、軍需産業など多くの企業を傘下に置いている。

 穀物等の食料から始まり、石油燃料等の資源、鉄道、通信、銀行、証券へと至り、飛行機、軍艦、兵器などの軍需産業、更に原子力へ。マスコミ、ノーーベル賞も、ソ連も中国も。世界政治。国連も。


 1949.6.30日、パリ証券取引所でこの日、リオ・チント・ジンク、ロイヤル・ダッチ・シェル、ル・ニッケル、デビアスというロスチャイルド株系4大銘柄が一斉に大暴落した。ギイ・ロスチャイルドの父にしてパリ・ロスチャイルド銀行の主だったエドゥアールの死去(享年81歳)が関係しており、彼の所有していた株価が遺産相続人にとって重大な関係を持っていた。遺産にかかる相続税のうち、エドゥアールが保有していた株への課税は、死亡時の証券の時価によって算定されることになっていた。持ち株の価値を暴落させることによって遺産相続にかかる税金が大幅に抑えられた。翌日、一族が買い戻して株価はたちまち回復した。


 1989年、1901年に閉鎖されたフランクフルト・ロスチャイルド銀行がほぼ90年ぶりにオープンし、かつてのロスチャイルド邸の敷地に隣接して、ヨーロッパ中央銀行が建てられた。


 1994.2.23日、金融帝国を築いた初代マイヤー・アムシェルの誕生250年を記念して、フランクフルトの墓地に一族80名ほどが集まり、一族の繁栄を祝した。フランス革命直後の1790年代に、マイヤーがすでに豪商として財を成した時期から数えれば、200年の歳月が過ぎ去った。


 1999.1.1日、統一通貨ユーロ誕生の日を迎える。


 「我々は純粋に“ビジネス”を追求しているのであり、“国際ルール”を侵していない。先見性に優れた大胆かつ站密なビジネス戦略の積み重ねが、今日のような確固たる“資本主義的地位”を築いたのである。我々のことを悪く言う人がいるが、我々は現代文明のあらゆる分野に多大な“恩恵”をもたらし、人類全体に計り知れない貢献をし続けているのであることを忘れないでくれたまえ」。

 20世紀末期を迎えている今、ロスチャイルド財閥はもはや単なる一財閥ではなくなった。現在、パリ分家とロンドン分家を双頭とするロスチャイルド財閥は、金融と情報という21世紀の主要メディアを支配し、また、そのあり余る力をアフリカ大陸をはじめ、全世界の金やダイヤモンドやウランをはじめとする地下資源の確保に注ぎ込む、巨大な先端企業連合体でもある。

 この間、五つのロスチャイルド家の内二つは姿を消している。長男アムシェルには子供がなく、ドイツ・フランクフルトのロスチャイルド家はナポリのヴィルヘルムとマイヤーが管理したが、両人とも娘しかいなかった(ヴィルヘルムは3人、マイヤーが7人!)のでその死とともに整理・清算した。イタリアのロスチャイルド家もカールの長男アドルフに子がなく、弟たちも上記の状態だったので閉鎖せざるを得なかった。この結果一族は英国、オーストリア、フランスに残っている。


【ギイ・ロスチャイルド】
 フランス家当主 男爵。1909年生まれ。戦時中はドゴールの密使をつとめたが、49年に父の死後パリ・ロスチャイルド銀行の資本金の半分を握って頭取就任。ニューヨーク・ロスチャイルド証券会長、メリル・リンチの中核細胞となったニューコート証券社長、日本に進出したファイヴ・アローズ証券会長、リオ・チント・ジンク重役を歴任して全世界のウラン・カルテルの頂点に立つ。ギイの2人目の妻マリーエレーヌは、直系のロスチャイルド一族。彼女の祖母エレーヌ・ロスチャイルド。

【エドマンド・ロスチャイルド】
 ジェイコブの父ヴィクターの再従弟。1916年生まれ。ロンドン・ロスチャイルド銀行会長(70~75年)、重役(75年以後)として中心的に活動。タバコ会社のダンヒルとロスマンズのほか、アライアンス保険の重役をつとめ、ウラン・カルテルを形成したカナダ開発の中核として、ブリンコ副社長、ファイブ・アローズ証券の重役を歴任。

 娘のシャーロットは1955年生まれで、自称オペラ歌手。


 ◆交友録◆ エドモンド・ロスチャイルド」を転載しておく。
 彼に会った頃、日本では田中角栄が首相に就任して話題になっていた。「人間の価値はその人が何を考え、何をしようとしているかで決まる。生まれや出身校ではないんだ。」生まれたときからロスチャイルド家の当主を定められていた彼にとって『今太閤』と騒がれていた田中角栄の天衣無縫な生き方は憧れでさえあった。当時彼はシェル石油の会長職を退き、英ヒース首相の命によりシンクタンクを任されていた。

  「家なんて体を横たえる所があれば十分だ。邸宅?持っていても荷が重い。政府に任せた方が賢明だよ」27冊の美術書にもなっているロスチャイルド家の邸宅や財宝も、彼の心のよりどころには決してなりえないようだった。            
 人生で最も感動的だった瞬間は、ヒットラーが自殺し、服毒自殺に備えて持っていたモルヒネのカプセルをトイレに流したとき、と答えた彼を前にして、私は初めてユダヤ人というものをはっきりと意識した。ユダヤとは何なのか。国籍なのか民族なのか宗教なのか。

  それから後、世界各国をまわるうちに闇の権力が厳然として存在することを確信するに至った私は、その代名詞としてロスチャイルドの名が上がってくることにいまひとつ腑に落ちないものを感じていた。「本当の黒幕は他にいるのではないか。」

  ある日彼は私を自宅に招いてくれた。自らモーツァルトや ショパンを奏でた彼は、自分が実はちょっとした科学者で、ケンブリッジ大学には自分の開発した計器が今も残っている ことを嬉々として話してくれた。それはまるで、ロスチャイルドではない、自分自身の純粋なアイデンティティを主張しているかのようだった。

  あれから長い時が流れた。昨年彼から届いた手紙には、病身をおしてペンを走らせたであろう頼りなげなサインが記さ れていた。操り人形になることを拒んで自殺したとされる息子、世界の富の半分を所有したと言われる財産。激動の人生を生きてきた彼の目には一体今何が映っているのだろう。 いつか再び彼に会う日、輪廻転生の話が彼の心を光に解き放してくれることを信じている。

【レオポルド・ロスチャイルド】

 エドマンドの弟。1927年生まれ。ロンドン・ロスチャイルド銀行重役、サン・アライランス保険重役のほか、70~83年にイングランド銀行理事を歴任して、サッチャー首相の経済政策について事実上の支配者となる。


【イヴリン・ロスチャイルド】

 エドマンドの従弟。1931年生まれ。99年現在、ロンドン・ロスチャイルド銀行会長として、毎朝、全世界の金価格を決定。ニューコート・セキュリティーズ社長、デビアス重役、ファイブ・アローズ証券重役、パリ・ロスチャイルド銀行重役、金塊業者ジョンソン・マッセイ大株主、経済紙〝エコノミスト〟会長など、数多の金融機関と企業幹部を兼務。1982.3.1日、国籍をスイスに移し、以後しばしばチューリッヒのロスチャイルド銀行が関与したと噂されるインサイダー取引き事件で疑惑が浮上。


【ジェイコブ・ロスチャイルド男爵】 

 イギリス家当主。1936年生まれ。80年以後のファイブ・アローズ証券会長。J・ロスチャイルド・ホールディングス社長。ロスチャイルド投資信託(RIT)キャピタル・パートナーズ会長として、ジョージ・ソロスらの金価格操作やヨーロッパ各国の企業買収、CIAレポートなどに暗躍。


【ダヴィッド・ロスチャイルド】

 ギイの息子。1942年生まれ。92年以来ロンドン・ロスチャイルド銀行副会長。ロスチャイルド・ヨーロッパ社長、ロスチャイルド・カナダ会長、ジュネーヴのバンジャマン&エドモン・ロスチャイルド・ホールディング顧問など兼務。


【エマ・ロスチャイルド】

 ジェイコブの妹。1948年生まれ。ストックホルムのオロフ・パルメ記念財団理事。


【アムシェル・ロスチャイルド】
 ジェイコブの異母弟。1955年生まれ。世界一の酒造業者ギネス家の令嬢アニタ・ギネスと結婚し、ロンドン・ロスチャイルド銀行の資産運用会社ロスチャイルド・アセット・マネージメント会長として、世界貿易の背後で大掛かりな投資活動を展開していたが、1996.7.8日に謎の自殺を遂げた。

【バンジャマン・ロスチャイルド】
 ギイの再従弟エドモンの息子。1963年生まれ。1926年生まれの父エドモン・ロスチャイルドは1997年に死去した。バンジャマンは、パリ・ロスチャイルド家の数えきれぬ遺産一切を相続し、デビアスの支配権も握る。ナポレオン三世が愛人のために建てたパリのシャンゼリゼの大邸宅に住む。ミュージック・ホールのダンサーだった妻ナディーヌはしばしば来日して有名。デビアス重役のほか、ロスチャイルド財閥の持ち株会社である北部会社、世界一の観光会社である地中海クラブ、イスラエル・ジェネラル銀行、フランスのスーパーなど数多くの大会社で重役を兼ね、フランスの長者番付の常連となる。ジュネーヴのバンジャマン&エドモン・ロスチャイルド銀行会長のほか、チューリッヒのロスチャイルド銀行重役もつとめる。






(私論.私見)