2代目ロスチャイルド・ネイサン

 (最新見直し2006.12.21日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ロスチャイルド1世に続いて2世を検証しておく。

 
2006.12.21日再編集 れんだいこ拝


【2代目ロスチャイルド・ネイサン時代】
 ロスチャイルド1世の死去後、3男のネイサンがロスチャイルド本家を相続し、ロスチャイルド2世と称されることになった。

 ロスチャイルド兄弟は相互に助け合いながら現在のロスチャイルドの基盤を築いていった。5人の息子はそれぞれをヨーロッパ列強の首都に派遣され、長男アムシェルはフランクフルト、次男サロモンはウィーン、3男ネイサンはロンドン、4男カールはナポリ、5男ジェームズはパリの各支店を担当し、その担当支店を資産相続し、ロスチャイルドの支家となった。

 彼ら5人の息子はそれぞれの国の政府と癒着して“貴族”の称号を得て、政治的にも活躍し、今日の“ロスチャイルド金権王朝”の基礎を作った。この第二世代の活躍したのが19世紀前半。孫の世代は概ね19世紀中葉から後半にかけて活動した。第二世代のロスチャイルドは、特にロンドンのネイサン(1777〜1836年、三男)とパリのジェームスが成功を収めた。
 フランクフルト、ロンドン、パリ、ウィーン、ナポリを拠点とした五人兄弟社の総資本は、イギリス・ポンドに換算すると、つぎのように増加している。1815年、13万6千ポンド。1818年、170万ポンド。1825年、400万ポンド。この十年間にロスイチャイスドの総資本が30倍にもなっていることになる。いかに急激に財をなしたかがみてとれる。その要因として、五人兄弟の財務の才とともに、情報の価値を知り、確実な情報を握っていたことが挙げられる。電話も電信もない時代、交通の要所、商業都市、政治の中心地ごとに、その地の銀行家や商人、ジャーナリストと代理人契約を結び、彼らが経済や政治にわたるニュースを送ってきた。ロスチャイルドは、それをシステムとして完成させた。1840年の記録だが、ローマ、トリノ、フィレンツェ、ミラノ、トリエステ、コンスタンチノープル、オデッサ、サンクト・ペテルブルク、ブリュッセル、アムステルダム、ニューヨーク、ボルチモア、サンフランシスコに通信局を設けていた。通常の兼務型の代理人ではなく、ロスチャイルド専任のスタッフを傭っていた。これらの諸都市と、五人兄弟のいるフランクフルト、ウィーン、ロンドン、ナポリ、パリとが結ばれていた。

【2代目ロスチャイルド・ネイサン時代、情報戦】
 いかに早く情報を送るのか。当時の伝達手段は馬車による郵便だった。ロンドンのネイサンは、ロンドン・ドーヴァー間に私用の馬車便を走らせた。夜昼とわず、またどのような天候でも休まない。海峡を専属の船が往き来する。大陸に届いた手紙や手形や書類を、ジェームスの代理人が受け取り、直ちにパリ、ウィーン、ナポリへと送った。通常は郵便馬車に託したが、急を要する場合、あるいはより重要なケースは専属の馬車を走らせる。情報が最も「高価な商品」と考えてのシステムであった。短い距離間で、とりわけ急ぐ場合は、伝書鳩を利用した。ロスチャイルドはドイツでは街道町ヘンバッハに、イギリスではケントに専用の伝書鳩飼育所をそなえていた。

【2代目ロスチャイルド・ネイサン時代、ナポレオンとの確執】
 1814.3月末、ロシア軍皇帝によってパリ市陥落。4月、ナポレオン(45歳)は退位、エルバ島に流された。代わって、ブルボン王朝ルイ18世がパリ市入城した。この資金20万ポンドを準備したのはロスチャイルド家であった。

 1814年、東インド会社のインド貿易独占権が廃止されると、ロスチャイルド家が利権支配するようになった。

 1814年、それまでフランクフルトで取引と財務の勉強をしてきた5人兄弟の末っ子5男ヤーコプが22歳の時、パリに赴く。当人は「ヤーコプ」の名がイヤで、なぜか「ジェームス」という英語名にした。直ちに「ロスチャイルド兄弟社」を設立し、ロンドンのロスチャイルド銀行のパリ支店として経営に当った。ヨーロッパの情勢を見越してのパリ進出だった。おりしもナポレオンが退位してルイ18世が即位した。アンシャン・レジーム(旧体制)が復活した。とはいえ、貴族と軍人はもはや名ばかりで、身分や肩書きや遺産よりも商才と金がモノをいう時代へと転換していた。

 ルイ18世をはじめ、ナポレオンに追放されていた貴族たちがもどってきた。世の中がガラリと変化していて財産の運用法がわからない。ジェームスのお里であるフランクフルトの本家は、反ナポレオンに援助をした。その一族であれば信用できる。ジェームスの銀行はいち早く財務相談の部屋を設け、時代の変化にうろたえている階層を顧客にとりこんだ。戦争つづきだったフランスの国庫は底をついていた。銀行からの投資を求めており、ジェームスの資金はロンドンが保証した。その後の二十年たらずで、フランスきっての大銀行頭取になった。

 ウィーン会議は難航した。フランスに2500フランの賠償を課したとしても、どこの国もあまりある巨大な戦争債務をかかえていたからであった。最大の債権者は、ロスチャイルド家であった。

 1815.2月、ナポレオン(46歳)は再起を誓いエルバ島を脱出、絶大な歓迎とともにパリ市に帰還した。各国は、再びロスチャイルド家に頼らざるをえなかった。各国は、新たな金貨を鋳造し、連合軍21万の集結を支援した。6月、ナポレオンは、ワーテルローに12万5千で向かう。これを阻止せんと名将ウェリントン率いるイギリス軍は、ブリュッセルの郊外のワーテルローでナポレオン軍と天下分け目の決戦を挑む。6.18日、ナポレオン軍は敗北する。8月、ナポレオンは聖ヘレナ島に流され、ここで一生を終える。

【2代目ロスチャイルド・ネイサン時代、ワーテルローでボロ儲けする】
 ネイサン・ロスチャイルド(38歳)は、この勝敗の第一報に高額の懸賞金をかけていた。そして、同日深夜、アムステルダムのロスチャイルド家代理人は、この知らせをダンケルク港に。19日午前、海賊船団はイギリスへ、そして、20日早朝、ネイサンはこれを知った。そして、ロスチャイルド2世は、ナポレオン敗退の報をいち早く知ると、6.20日、「連合国敗北、ナポレオン勝利」のニセ情報をロンドン証券取引所にタレ流し、ナポレオン復活以来値下がりが続いている政府関連証券を売り叩いた。投資家は投売りに廻った。だれもが狼狽して売りに走ったところを、翌21日、ロスチャイルドは一転して底値で買いまくった。証券取引所が午後に閉まった時、彼は取引所に上場されている全株の62%を所有していた。はたして、21日夜、ウェリントンからの正式第一報「ナポレオン敗北」という真情報が届き、翌22日、証券は暴騰、彼は300万ドルの自己資産を75億ドル、すなわち2500倍に増やした。この日、イギリスの名門の多くが破産した。逆に、ロスチャイルド家は巨万の富を築き、ロスチャイルド銀行はイギリス屈指の大銀行になり、不動の地位を得た。「連合国はワーテルローの戦いに勝ったが、実際に勝ったのはロスチャイルドだった」と云われる。

 ナポレオンのロシア遠征、諸国民解放戦争、ナポレオン退位、ウィーン会談、ワーテルローの戦いなど、ヨーロッパは激動のさなかだった。どの国も軍備拡充に大わらわで、喉から手が出るほど金が要る。国債、公債、手形、証券が乱れとんだ。ヨーロッパ金融の中心であるロンドンの“シティー”にあって、ネイサン・ロスチャイルドには並外れて有利な点があった。フランクフルトの兄のほか、ウィーン、ナポリ、つづいてパリに兄弟が散って、刻々と情報が入ってくる。やりとりの手紙はドイツ語だが、ヘブライ語の文字を使って書いた。秘密を保持できる。専門に伝書鳩を飼育していて、至急のときは鳩を飛ばせた。十九世紀初頭のメイル便というものだった。ワーテルローの戦いでは、いち早くイギリス軍の勝利を知り、直ちにフランを売ってポンドを買った。

 1813年、イグナシアス・バラは、著書「ロスチャイルド家のロマンス」を出版し、ロスチャイルド2世がどのようにして富を築いたか明らかにした。

 1814年、ネイサン・マイアー・ド・ロスチャイルド男爵は、彼の祖父についての「ワーテルローの物語」は事実ではなく中傷であるとして、イグナシアス・バラの著書を即刻発売禁止にするよう法廷に訴え出た。1915.4.1日付けニューヨーク・タイムズは、「法廷がその物語は真実であると裁定し、ロスチャイルドの訴えを退け、彼に法廷費用の全額支払いを命じた」と報じた。この時、「ロスチャイルドの全資産が20億ドルと推定される」と記されている。

【2代目ロスチャイルド・ネイサン時代、賠償金でも両稼ぎする】
 ナポレオンがイギリス軍に大敗したことにより、敗戦国フランスはイギリスとその同盟国に総額は7億フランの賠償金を支払わされる事になった。1817〜18年、フランス・ロスチャイルド商会代表・ロスチャイルド兄弟の末弟のジェームズ・ロスチャイルドが、この支払いを公債として引き受けた。ジェームズは、この公債を売却して得た金を投資家の貸し付けに流用しながら、年間50%の利息を稼いだと云われている。

 ロスチャイルド一族の資本が巨大化したのはこの時代で、1815年当時、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オーストリアのロスチャイルド商会の総資産は333万フラン、3年後には4200万フラン、10年後には1億1840万フランまでふくれあがったと云われている。当時、パリのラフィット銀行の総資産が700万フラン、ナポレオンが設立した発券銀行であるフランス銀行の総資産が6000万フランとされた時代であることからすると、ロスチャイルド一族の資産がいかに桁外れに大きくなったかが分かる。

 ロスチャイルドが動き、全世界から資金が集められ、まず胴元が利益を懐に入れた。それと共に地球上のパンカーは整理統合され、最終的に三財閥ロスチャイルド、モルガン、ロックフェラーに集約される金融集団となる。

【2代目ロスチャイルド・ネイサン時代、ウィーン会議の攻防】
 1814.9月、翌年6月まで続くことになるウィーン会議がオーストリア帝国のウィーンで開かれた。混乱した西欧秩序の回復が目的とされたが、参加各国の思惑の相違で紛糾し「会議は踊る」と評された。ロスチャイルド家は、スイスの永世中立宣言を成功裡に導いた。ロスチャイルド家は、世界政府樹立構想を画策したが、ロシア皇帝アレクサンドル1世が阻んだ。ネイサンはこれに立腹し、「自分か自分の子孫が皇帝アレクサンドル1世の一族とその子孫全員を滅ぼしてやる」と誓ったと伝えられている。これがロシア革命の伏線となる。

【2代目ロスチャイルド・ネイサン時代、アーヘン会議の攻防】
 ナポレオンが去った後のヨーロッパ再建のために公債が新たに発行されることになり、その最終的な配分のためにアーヘン会議が開かれた。会場は上流社会と新興ロスチャイルドとの対決の場となったが、会議に出慣れぬサロモンとカルマン兄弟は見向きもされなかった。ところが突然フランス政府債をはじめとして他の公債も一斉に下落した。会議の優雅な音楽は止んだ。ロスチャイルド商会が莫大な資産をもって予め買い進めていたものをここで冷酷無残に大量の売りに出たのだ。会議を支配していた旧世界の勢力はロスチャイルドの威力を思い知らされた。予定していた公債発行は中止された。サロモンとカルマンは丁重に迎え入れられ、ヨーロッパ財界にロスチャイルド家の地位が確立された。

 会議後オーストリア帝国の実力者メッテルニヒ公はロスチャイルド家から90万グルデンの融資をあおぎ、5人兄弟およびその子孫は男女を問わず男爵の爵位に叙せられた。既に申請されたものの一時は系譜紋章院によって大部分が遠慮なく切り捨てられていたロスチャイルド家の豪華な紋章のデザインが復活・公認された。黒鷲とヒョウと獅子と5本の矢をもつ腕である。

【2代目ロスチャイルド・ネイサン時代、イングランド銀行を支配下に置く】
 1815年、ロスチャイルド家はイングランド銀行を支配下に置き、英国の通貨発行権と管理権を手中に収めた。ネイサンは次のように述べている。
 「イングランドの玉座に坐って、日の没することなき帝国を統治する王が誰でも構わない。所詮傀儡に過ぎない。イギリスの貨幣供給を掌握する者が大英帝国を支配するのだ。イギリスの貨幣供給を掌握しているのは、この私だ」。

【2代目ロスチャイルド・ネイサン時代、アメリカの貨幣供給を支配する】
 1816年、アメリカ連邦議会で、ロスチャイルド家が牛耳る別の中央銀行を認可する法案が成立した。これにより、ロスチャイルド家が再びアメリカの貨幣供給を支配するようになる。この銀行は、第二合衆国銀行と云われ、20年間の設立許可が与えられた。

 1820年代、大国のほとんどの大蔵大臣がロスチャイルド5人兄弟に買収され、公債を発行して国が借金をつくっては、その2倍近い金をロスチャイルド商会に支払う利回り200%取引きが横行した。相争うイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オーストリアの5ヶ国の対立構造のあいだを巧みに泳ぎ回り、両者に投資してトータルでプラスにするという手法で、利益を一手に独占した。


 1822年、5人兄弟がハプスブルグ家のオーストリア皇帝から男爵位を授与された。ネイサンは拒んだ。


 当時のヨーロッパ諸国のすべてがロスチャイルド商会をあてにするようになり、ヨーロッパ全土の王室がロスチャイルド家に金を無心していた。こうした状況から、当時の資産は天文学的だったことが分る。5つのロスチャイルド商会の資産総額は1815年の333万フラン(13万6千ポンド)が、3年後には4200万フラン(170万ポンド)となり、10年後の1825年には1億1840万フラン(1400万ポンド)に膨れあがった。この額は自己資本だけの控えめな計算で、実際は1億6500万フランを超えていた。10年間になんと30倍という巨富を積み上げたことになる。

 このうちパリ・ロスチャイルド商会の推定資産3700万フランという金額は、とてつもなく大きかった。パリ第二位のラフィット銀行がようやく700万フラン、ヨーロッパの王者ナポレオンが設立した発券銀行であるフランス銀行でさえ資金6000万フランの時代だから、ロスチャイルド商会の総資産を1億6500万フランとすれば、フランス銀行三つ分近くの資金を持っていたことになる。


【米国大統領ジャクソンとの反目】
 ロスチャイルド家の操作する第二合衆国銀行の収奪政策に堪りかね、これに反対する人々がテネシー州選出の上院議員アンドリュー。ジャクソンを大統領候補に指名、ロスチャイルド家と対立した。ジャクソンは大統領選で勝利し、就任するや否や連邦政府雇用者1万1千人のうちロスチャイルド派の2千名の解雇に着手した。

1830  デービッド・サッスーンが中国、香港地域のアヘン貿易独占を認可され、その利益がロスチャイルド家とイギリス王室にもたらされることになる。

【市民革命の背後にロスチャイルド有り】
 1830年、フランスのパリ7月革命。国王派と反政府派の衝突が市民革命へとひろがった。市民蜂起とパリ支配てより臨時政府が樹立され、ブルボン家国王が退位させられ、「市民王」ルイ・フィリップが即位した。

 旧体制によって業務を拡大してきたジェームス・ロスチャイルドは、この時38歳、雲行きが怪しくなった。パリに引きつづき、ブリュッセルで革命が起き、ベルギーが独立を宣言した。フランスが武力で鎮圧に出ると、どの国も予測して、反フランス同盟に動き出した。そのさなかにジェームスがウィーンの兄ザロモンに送った至急便が残されている。
 「戦争を見越して相場が過熱しているが、開戦には至るまい。「確信をもっていえますが、反フランスは成立しないでしょう」。政府筋とのコネをきかせてだろう。ジェームス・ロスチャイルドは首相の交代、および和平派の新首相が、ウィーンの宰相メッテルニッヒとともに調停に乗り出すことを知っていた。「ロスチャイルド兄弟社は、戦争のためには一文も出さない」。

 ロンドンとパリとウィーンで、いっせいにその旨の声明が出された。首相や大臣に耳打ちするかたちで伝えられ、決して大っぴらにいわれたわけではないが、そのためよけいに美しく潤色されてマスコミにひろがった。1830.12月の日付で、オーストリアの外交官が日記に書いている。
 「いまや情報が人を動かす。ロスチャイルドの言葉は内閣よりも強力である」。

 1831年、ロンドン列強会議で、ベルギーの独立と中立が承認された。ベルギーは直ちに国づくりにとりかかり、ヨーロッパで最初の国営鉄道を設立。大工事のための国債が、優先してロスチャイルド銀行にわりあてられた。

【2代目ロスチャイルド・ネイサン時代、ジャクソン大統領との死闘】
 1832年、アメリカの第二合衆国銀行が許可期限り4年早く認可更新を議会に申請した。議会は応じたが、ジャクソン大統領はこの法案に対し拒否権を行使した。7月、議会はジャクソン大統領の法案拒否を覆すことに失敗した。ジャクソン大統領は二期目に挑み、ロスチャイルド家の後押しする共和党上院議員・ヘンリー・クレイを打ち破って再選された。

 1833年、ジャクソン大統領は、政府の預金を、ロスチャイルド家の支配する第二合衆国銀行から、それぞれ独立した銀行家達が運営する銀行に預け換えた。

 1835.1.30日、ジャクソン大統領は暗殺事件に見舞われたが、奇跡的な不発で命拾いした。この年、ジャクソン大統領は、国債を完済した。これにより、ジャクソン大統領は、負債を完済したただ一人の大統領となった。

 1836年、ジャクソン大統領は、第二合衆国銀行の認可の更新を認めず、ロスチャイルド家の中央銀行をアメリカから締め出した。

【2代目ロスチャイルド・ネイサン時代、急死】
 1836.7.28日、三男のネイサン・ロスチャイルドが急死した(享年58歳)。

 会葬者に絹のハンカチが配られた。円柱の前にシルクハットとガウン姿、腹をつき出して立っている男の姿が描かれていた。1814年から35年まで、午後3時半から4時半、いつもこのいで立ちのネイサンが、証券取引所の隅に立ち、商談をまとめ、指示を出していた。「柱の前のネイサン」が“シティー”の名物となる間に、「ロスチャイルドとその兄弟社」は、ヨーロッパ市場で押しもおされもせぬ大銀行に育っていった。

 ロンドンのロスチャイルドは、ネーサン死後も、ディズレイリ内閣によるスエズ運河株式の買収(1875年)に400万ポンドを融資し、政府にスエズ運河買収の資金を提供したり、第1次世界大戦の際には莫大な戦費調達と引き換えにユダヤ人国家の建国を約束させる(後のイスラエル建国につながる)など、政治にも多大な影響力を持った。戦後のユダヤ人国家建設を認めさせる(バルフォア宣言,1917)など国際政治上に大きな足跡を残した。





(私論.私見)