その9 人間家畜化牧場計画考

 更新日/2017(平成29).5.7日



【】
ジョージ・オーウェル(著)田内志文(訳)
「」(早川書房、2009年07月25日 )
ジョージ・オーウェル (George Orwell)
1903年、英国領インドのベンガルに生まれる。文学のみならず、二十世紀の思想、政治に多大。
1950年、英国の作家ジョージ・オーウェルが肺結核のためロンドンで死去した。46歳。代表作にスターリン独裁を風刺した「動物農場」や、未来小説の「1984年」など。
全体主義国家オセアニアでは、人々の行動や発言は逐一チェックされており、国家の体制に背く行動と判断されると【思考警察】に連行されることになっている。 ウィンストンは監視の目をかいくぐりながら、ジュリアと逢瀬を重ねた。禁じられているとわかっていながら。 【党中枢】の1人であるオブライエンは、自らが反逆組織【ブラザー同盟】の一員だと明かし、ウィンストンとジュリアを同盟に招き入れた。 ウィンストンとジュリアは結局、【思考警察】に捕まってしまった。
主人公ウィンストン・スミスは39歳。どちらかといえば小柄で華奢(きゃしゃ)な体つきをしたブロンドヘアの男性で、「党」に所属している。

ウィンストンが生きている全体主義国家オセアニアには、いたるところにテレスクリーンと呼ばれる、受信と発信を同時に行える長方形の金属板がしかけられている。テレスクリーンはニュースなどを流す一方で、人々の行動や発言を逐一チェックしており、国家の体制に背く行動をとっていると判断された人たちは、<思考警察>に連行されることになる。

ただ、ウィンストンの家はめずらしい間取りをしているため、テレスクリーンから姿を捕捉されない空間がある。そこで彼は、とある貧民街にあった小道具屋で手に入れた、何も書かれていない古い本に日記をつけることにした。

通常、彼のような党員の場合、普通の店に入ることは許されておらず、もし日記をつけていることが発覚すれば、死刑か最低25年の強制労働収容所送りになることはまちがいない。それでも日記を書くことを決心したのは、ある出来事がきっかけだった。

<2分間憎悪>

ウィンストンが働いているのは真理省と呼ばれる、報道・娯楽・教育・芸術を担当する省で、そのなかにある記録局が彼の職場だ。

ある日の朝、ウィンストンは<2分間憎悪>の準備をしていた。<2分間憎悪>とはオセアニアで毎日行われている行事で、すべての党員は一端作業を中断し、これに参加することが義務づけられている。<2分間憎悪>のプログラムはその日によって異なるが、おぞましく耳障りな音がテレスクリーンから響き渡り、<人民の敵>エマニュエル・ゴールドスタインの姿が映し出されるのは変わらない。

ゴールドスタインは、かつて党の信奉する<ビッグ・ブラザー>と並ぶ地位にあったにもかかわらず、反革命運動に加わった第一級反逆者だ。彼は<ブラザー同盟>と呼ばれる地下組織の指揮官と見なされており、異端の説をすべて集約した概論書の執筆者であるとも言われていた。

その日も<2分間憎悪>が始まると、抑えきれないほどの怒号があちらこちらから響き渡った。毎日あらゆる媒体でゴールドスタインへの批判を見聞きしている人々は、もはやゴールドスタインのことを考えるだけで、反射的に恐怖と怒りを感じるように訓練されていた。ウィンストン自身も、皆と一体にならずにはいられなかった。<2分間憎悪>は、本人の意志にかかわらず、顔を歪めて絶叫する狂人に変えてしまう力をもっているのだ。

だが、そうした狂乱のなか、ウィンストンはある人物と一瞬目があった。それはオブライエンという<党中枢>の一員の男だった。ウィンストンは前々から、オブライエンが政治的に正統派の人物ではないと密かに感じていた。そして彼と目があった瞬間、ウィンストンはオブライエンが自分と同じ考えをもっていると確信した。

このオブライエンとの一瞬の邂逅(かいこう)は、<ブラザー同盟>が本当にあるという希望を抱くには十分であった。

「ビッグ・ブラザーをやっつけろ」
Digital Vision./Photodisc/Thinkstock

そのときの様子を回想しながら日記を書いていたウィンストンは、自分が半ば無意識的に、「ビッグ・ブラザーをやっつけろ」と何度も書き綴ったことに気がついた。恐怖感を覚えたウィンストンは、日記をつけるのをやめてしまおうかと考えたが、結局それは無意味だと悟った。<思考警察>の前では、実際に書こうが書くのを思いとどまろうが同じことであり、遅かれ早かれ<思考犯罪>で捕まってしまうことになるからだ。

<思考警察>による逮捕はかならず夜である。

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あらすじ・内容

ディストピア小説の最高傑作。圧倒的リーダビリティの新訳決定版!

1984年、世界は〈オセアニア〉〈ユーラシア〉〈イースタシア〉という3つの国に分割統治されていた。オセアニアは、ビッグ・ブラザー率いる一党独裁制。市中に「ビッグ・ブラザーはあなたを見ている」と書かれたポスターが張られ、国民はテレスクリーンと呼ばれる装置で24時間監視されていた。党員のウィンストン・スミスは、この絶対的統治に疑念を抱き、体制の転覆をもくろむ〈ブラザー同盟〉に興味を持ちはじめていた。一方、美しい党員ジュリアと親密になり、隠れ家でひそかに逢瀬を重ねるようになる。つかの間、自由と生きる喜びを噛みしめるふたり。しかし、そこには、冷酷で絶望的な罠がしかけられていたのだった――。
全体主義が支配する近未来社会の恐怖を描いた本作品が、1949年に発表されるや、当時の東西冷戦が進む世界情勢を反映し、西側諸国で爆発的な支持を得た。1998年「英語で書かれた20世紀の小説ベスト100」に、2002年には「史上最高の文学100」に選出され、その後も、思想・芸術など数多くの分野で多大な影響を与えつづけている。


1984年
Nineteen Eighty-Four
1984first.jpg
著者 ジョージ・オーウェル
訳者
発行日
発行元
ジャンル SFディストピア
イギリスの旗 イギリス
言語 英語
前作 動物農場1945年
コード ISBN 978-4-15-120053-3
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1984年』(1984ねん、原題: Nineteen Eighty-Four)または『1984』は、1949年に刊行したイギリスの作家ジョージ・オーウェルディストピアSF小説全体主義国家によって分割統治された近未来世界の恐怖を描いている。欧米での評価が高く、思想・文学・音楽など様々な分野に今なお多大な影響を与えている近代文学傑作品の一つである。

出版当初から冷戦下の英米で爆発的に売れ、同じくオーウェルが著した『動物農場』やケストラーの『真昼の暗黒』などとともに反全体主義、反共産主義、反集産主義のバイブルとなった。政府による監視検閲権威主義を批判する西側諸国の反体制派は、好んで本作を引用している。1998年にランダム・ハウス、モダン・ライブラリーが発表した「英語で書かれた20世紀の小説ベスト100」や[1][2]2002年にノルウェー・ブック・クラブが発表した「史上最高の文学100」に選出されている[3]

作品背景[編集]

オーウェルは1944年には本作のテーマ部分を固めており、結核に苦しみながら1947年から1948年にかけて転地療養先の父祖の地スコットランドジュラ島でほとんどを執筆した[4]。病状の悪化により1947年暮れから9か月間治療に専念することになり、執筆は中断された。1948年12月4日、オーウェルはようやく『1984年』の最終稿をセッカー・アンド・ウォーバーグ社(Secker and Warburg)へ送り、同社から1949年6月8日に『1984年』が出版された[5][6]

1989年の時点で、『1984年』は65以上の言語に翻訳される成功を収めた[7]。『1984年』という題名、作中の用語や「ニュースピーク」の数々、そして著者オーウェルの名前自体が、今日では政府によるプライバシーの喪失を語る際に非常に強く結びつくようになった。「オーウェリアン(Orwellian、オーウェル的)」という形容詞は、『1984年』などでオーウェルが描いた全体主義的・管理主義的な思想や傾向や社会を指すのに使われるようになった。

当初、本作は『ヨーロッパ最後の人間(The Last Man in Europe)』と題されていた。しかし1948年10月22日付の出版者フレデリック・ウォーバーグに対する書簡で、オーウェルは題名を『ヨーロッパ最後の人間』にするか、『1984年』にするかで悩んでいると書いているが[8]、ウォーバーグは『ヨーロッパ最後の人間』という題名をもっと商業的に受ける題名に変えるよう示唆している[9]。オーウェルの題名変更の背景には、1884年に設立されたフェビアン協会の100周年の年であることを意識したという説[10]、舞台を1984年に設定しているジャック・ロンドンのディストピア小説『鉄の踵(The Iron Heel、1908年刊行)』やG.K.チェスタトンの『新ナポレオン奇譚(The Napoleon of Notting Hill、1904年刊行)』を意識したという説[11]、最初の妻アイリーン・オショーネシーの詩、『世紀の終わり、1984年(End of the Century, 1984)』からの影響があったとする説などがある[12]アンソニー・バージェスは著書『1985年(1978年刊行)』で、冷戦の進行する時代に幻滅したオーウェルが題名を執筆年の『1948年』にしようとしたという仮説を上げている。ペンギン・ブックス刊行のモダン・クラシック・エディションから出ている『1984年』の解説では、当初オーウェルが時代設定を1980年とし、その後執筆が長引くに連れて1982年に書きなおし、さらに執筆年の1948年をひっくり返した1984年へと書きなおしたとしている[13]

オーウェルは1946年のエッセイ『なぜ書くか(Why I Write)』では、1936年以来書いてきた作品のすべてにおいて、全体主義に反対しつつ民主社会主義を擁護してきたと述べている[14]。オーウェルはまた、1949年6月16日全米自動車労働組合のフランシス・ヘンソンにあてた手紙で、「ライフ」1949年7月25日号および「ニューヨーク・タイムズ・ブックレビュー」7月31日号に掲載される『1984年』からの抜粋について、次のように書いている。

わたしの最新の小説は、社会主義イギリス労働党(私はその支持者です)を攻撃することを意図したのでは決してありません。しかし共産主義ファシズムですでに部分的に実現した(…)倒錯を暴露することを意図したものです(…)。小説の舞台はイギリスに置かれていますが、これは英語を話す民族が生来的に他より優れているわけではないこと、全体主義はもし戦わなければどこにおいても勝利しうることを強調するためです[15]

しかしアメリカなどでは、一般的には反共主義のバイブルとしても扱われた。アイザック・ドイッチャーは1955年に書いた『一九八四年 - 残酷な神秘主義の産物』の中で、ニューヨークの新聞売り子に「この本を読めば、なぜボルシェヴィキの頭上に原爆を落とさなければならないかわかるよ」と『1984年』を勧められ、「それはオーウェルが死ぬ数週間前のことだった。気の毒なオーウェルよ、君は自分の本が“憎悪週間”のこれほどみごとな主題のひとつになると想像できたであろうか」と書いている[16]

あらすじ[編集]

1950年代に勃発した第三次世界大戦核戦争を経て、1984年現在、世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアの三つの超大国によって分割統治されている。さらに、間にある紛争地域をめぐって絶えず戦争が繰り返されている。本作の舞台となるオセアニアでは、思想・言語・結婚などあらゆる市民生活に統制が加えられ、物資は欠乏し、市民は常に「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビジョン、さらには町なかに仕掛けられたマイクによって屋内・屋外を問わず、ほぼすべての行動が当局によって監視されている。

オセアニアの構成地域の一つ「エアストリップ・ワン(旧英国)」の最大都市ロンドンに住む主人公ウィンストン・スミスは、真理省の下級役人として日々歴史記録の改竄作業を行っていた。物心ついたころに見た旧体制やオセアニア成立当時の記憶は、記録が絶えず改竄されるため、存在したかどうかすら定かではない。ウィンストンは、古道具屋で買ったノートに自分の考えを書いて整理するという、禁止された行為に手を染める。ある日の仕事中、抹殺されたはずの3人の人物が載った過去の新聞記事を偶然に見つけたことで、体制への疑いは確信へと変わる。

「憎悪週間」の時間に遭遇した同僚の若い女性、ジュリアから手紙による告白を受け、出会いを重ねて愛し合うようになる。古い物の残るチャリントンという老人の店(ノートを買った古道具屋)を見つけ、隠れ家としてジュリアと共に過ごした。さらに、ウィンストンが話をしたがっていた党内局の高級官僚の1人、オブライエンと出会い、現体制に疑問を持っていることを告白した。エマニュエル・ゴールドスタインが書いたとされる禁書をオブライエンより渡されて読み、体制の裏側を知るようになる。

ところが、こうした行為が思想警察であったチャリントンの密告から明るみに出て、ジュリアと一緒にウィンストンは思想警察に捕らえられ、「愛情省」で尋問と拷問を受けることになる。最終的に彼は、愛情省の「101号室」で自分の信念を徹底的に打ち砕かれ、党の思想を受け入れ、処刑される日を想って心から党を愛すようになるのであった。

なお、本編の後に『ニュースピークの諸原理』と題された作者不詳の解説文が附されており、これが標準的英語の過去形で記されていることが、主人公ウィンストン・スミスの時代より遠い未来においてこの支配体制が破られることを暗示している。筆者のジョージ・オーウェルは、この部分を修正・削除するように要請された際、「削除は許せない」と修正を拒否した[17]

登場人物[編集]

ウィンストン・スミス英語版Winston Smith
本作の主人公。39歳の男性。真理省記録局に勤務。キャサリンという妻がいるが、別居中。しばしば空想の世界に耽り、現体制の在り方に疑問を持つ。テレスクリーンから見えない物陰で密かに日記を付けており、これはイングソック下において極刑相当の「思考犯罪」行為に値する。見捨てられた存在であるプロレ達に「国を変える力がある」という考えの持ち主。ネズミが苦手。
ジュリア英語版Julia
本作のヒロイン。26歳の女性。真理省創作局に勤務。青年反セックス連盟の活動員。表面的には熱心な党員を装っているが、胸中ではウィンストンと同じく党の方針に疑問を抱いている。他方、党の情報の改竄など、自分自身にあまり関係のないことには興味がない。ウィンストンに手紙を使って告白し、監視をかいくぐって逢瀬を重ねる。
オブライエン英語版O'Brien
真理省党内局に所属する高級官僚。他の党員と違い、やや異色の雰囲気を持つ。ウィンストンの夢にたびたび現れる。秘密結社『兄弟同盟』の一員を名乗り、エマニュエル・ゴールドスタインが書いたとされる禁書をウィンストンに渡すが、実際はウィンストンとジュリアを捕らえるために接近する。人心掌握の術に長け、二重思考を巧みに使いこなす。
トム・パーソンズ(Tom Parsons
ウィンストンの隣人。真理省に勤務。肥満型だが活動的。献身的でまじめな党員。幼い息子と娘がおり、二人とも父と同じく完全に洗脳されている。
パーソンズ夫人(Mrs. Parsons
トム・パーソンズの妻。30歳くらいだが、年よりもかなり老けて見える。親を密告する機会を虎視眈々と狙っている自分の子供達に怯えている。
サイム(Syme)
ウィンストンの友人。真理省調査局に勤務。言語学者でニュースピークの開発スタッフの一人。饒舌で、また頭の回転も速い。ニュースピークの「言語の破壊」に興奮を覚え、心酔している。
チャリントン(Charrington
63歳の男性。思想警察。古い時代への愛着を持つ老人を装い、下町で古道具屋を営む。ウィンストンに禁止されたノートを売ったり、ジュリアとの密会の場所を提供したりと彼らを支えるが、後に政府へ密告する。
ビッグ・ブラザーBig Brother、偉大な兄弟)[注 1]
オセアニアの指導者。肖像では黒ひげをたくわえた温厚そうな人物として描かれている。モデルはヨシフ・スターリン
エマニュエル・ゴールドスタインEmmanuel Goldstein
かつては「ビッグ・ブラザー」と並ぶオセアニアの指導者であったが、のちに反革命活動に転じ、現在は「人民の敵」として指名手配を受けている。「兄弟同盟」と呼ばれる反政府地下組織を指揮しているとされる。党によれば、いかにも狡猾こうかつそうで山羊に似た顔立ちの老人。モデルはレフ・トロツキー。ゴールドスタインという名は、トロツキーの本名「ブロンシュテイン」のもじりである[注 2]

設定[編集]

地理[編集]

物語の舞台となる1984年は第三次世界大戦後の世界であり、オセアニア、ユーラシア、イースタシアのの3つの超大国に分割統治されている。どの大国も一党独裁体制であり、イデオロギーの実情もそれほど違いはない。

オセアニア(Oceania
1950年代の核戦争を経て誕生した国家であり、旧アメリカ合衆国をもとに、南北アメリカおよび旧イギリスアフリカ南部、オーストラリア南部(かつての英語圏を中心とする地域)を領有する。イデオロギーは「イングソック下記参照)」。
ユーラシアEurasia
旧ソ連をもとに欧州大陸からロシア極東にかけてを領有する。イデオロギーは「ネオ=ボリシェビキズム」。
イースタシア(Eastasia
中国や旧日本を中心に東アジアを領有する。イデオロギーは中国語[19]であり、通常は「死の崇拝[20](Death-Worship[21])」と訳されるが、より正確には「滅私[20](Obliteration of the Self[21]、自己滅却[22])」と呼ぶべきものとされる。

これら三大国は絶えず同盟を結んだり敵対しながら戦争を続けている。表向きは、各国とも世界支配のため他の大国を滅ぼすべく戦っているが、実態は世界を分割する3大国が結託し、労働力や資源を戦争で浪費することにより、富の増加による階級社会の不安定化や崩壊を防ぎ、支配階層が権力を半永久的に維持できるようにするために行っている「永久戦争」である。三大国はどれも戦争で滅ぼすことは不可能である[注 3]。「タンジールブラザヴィルダーウィン香港を頂点とする四辺形」と作中で形容される北アフリカから中東インド東南アジア、北オーストラリアにかけての一帯は、これら3大国が半永久的に争奪戦を繰り広げる紛争地域である。

エアストリップ・ワンAirstrip One、エアストリップ一号)は、この物語の舞台となるオセアニアの一区域。最大都市はロンドン。かつて英国とよばれた地域に相当し、ユーラシアに支配されたヨーロッパ大陸部とは断絶状態にある。エアストリップ(緊急用滑走路)の名のとおり、その主たる存在意義は、航空戦力でユーラシアに対峙・反撃する最前線基地であることと想定される。いわばオセアニアの不沈空母である。ロンドンには絶えずミサイルがどこからか着弾している。

しかし作中で描かれるこれらの戦争は、どこからか落ちてくるミサイル以外は、全てテレスクリーンを通じて国民に提供された情報によるもので、事実を確認することはできない。実際に戦争が行われているのか、また他国が存在するのか、エアストリップ・ワン以外のオセアニア領土がどうなっているのかは謎に包まれている。

政府[編集]

党は、偉大な兄弟によって率いられる唯一の政党である。偉大な兄弟は国民が敬愛すべき対象であり、町中の到る所に「偉大な兄弟があなたを見守っている(BIG BROTHER IS WATCHING YOU)」という言葉とともに彼の写真が張られている。しかし、その正体は謎に包まれており、実在するかどうかすらも定かではない。党の最大の敵は「人民の敵」エマニュエル・ゴールドスタインで、オセアニアと党を崩壊させるためのあらゆる陰謀の背後に彼がいるとされる。国民は毎日、テレスクリーンを通して彼に対する「二分間憎悪」を行い、彼に対する憎しみを駆り立てる。テレスクリーンの登場により、ほぼ全国民は党の監視下に置かれ、私的生活は存在しなくなっている[注 4]

党のイデオロギーは、「イングソックIngSocEnglish Socialism、イングランド社会主義)」と呼ばれる一種の社会主義である。核戦争後の混乱の中、社会主義革命を通じて成立したようだが、誰がどのような経緯で革命を起こしたのかは、忘却や歴史の改竄により明らかではない。ゴールドスタインの禁書によれば、そのイデオロギーの正体は「少数独裁制集産主義」とでも呼ぶべきもので、「社会主義の基礎となる原理をすべて否定し、それを社会主義の名の下におこなう」ことであるという。もとは社会主義運動の中から発したが、現在は中層階級が下層階級を味方につけて上層階級を倒す事態を永久に防ぎ、非自由と不平等を恒久的なものにすることを目的としている。

党の三つのスローガンが、至る所に表示されている。これらはゴールドスタインの禁書『寡頭制集産主義の理論と実践』の各章の題名でもある。

戦争は平和である(WAR IS PEACE
自由は屈従である(FREEDOM IS SLAVERY
無知は力である(IGNORANCE IS STRENGTH
「真理省」を描いたイラスト

オセアニアには単一の首都は存在しない。オセアニアの各地域の国民は他地域や他民族による支配を感じておらず、ロンドンやニューヨークなど各地方の中心都市による自治が行われていると認識している。ロンドン市内には政府省庁の入った四つのピラミッド状の建築物がそびえ立っており、4棟のそれぞれに先述の3つのスローガンが書かれている。省庁名は後述のダブルスピークにより、本来の役目とは逆の名称が付けられている[注 5]

平和省(The Ministry of Peace、ニュースピークでは Minipax
軍を統括する。オセアニアの平和のために半永久的に戦争を継続している。
豊富省(2009年新訳版では潤沢省、The Ministry of Plenty、ニュースピークでは Miniplenty
絶えず欠乏状態にある食料や物資の、配給と統制を行う。
真理省(The Ministry of Truth、ニュースピークでは Minitrue
プロパガンダに携わる。政治的文書、党組織、テレスクリーンを管理する。また、新聞などを発行しプロレフィードを供給するほか、歴史記録や新聞を党の最新の発表に基づき改竄し、常に党の言うことが正しい状態を作り出す。愛情省と共に「思想・良心の自由」に対する統制を実施。
愛情省(The Ministry of Love、ニュースピークでは Miniluv
警察権を持ち、個人の管理・観察・逮捕、反体制分子(とされた人物)に対する尋問と処分を行う。被疑者を徹底的に拷問と洗脳にかけ、最終的に党のほうが正しいと反体制思想を自分の意思で覆させ、ビッグ・ブラザーへの愛が個人の意志に優るようにし、その後処刑する[注 6]。真理省と共に「思想・良心の自由」に対する統制を実施。

国民[編集]

オセアニアの権力構造を示したピラミッド図。ビッグ・ブラザーを頂点に党内局、党外局、プロレが描かれている。

党には中枢の党内局inner party、2009年新訳では党中枢)と一般党員の党外局outer party、2009年新訳では党外郭)がある。党内局員はかつての労働者階級の作業着だったとされる黒いオーバーオールを着用し、貴族制的な支配階級(上層階級)で、世襲でなく能力によって選ばれ、テレスクリーンを消すことができる特権すらある。党外局員は青いオーバーオールを着る中間層(中層階級)で、党や政府の実務の大半をこなす官僚たちである。党の主要な監視対象は大衆ではなく上層階級に対して立ち上がる可能性のある中層階級(党局員)であり、党内局員も党外局員も反抗の意思を少しでも見せたら密告などに遭い、後述愛情省の思想警察思考警察)に連行され「蒸発(強制失踪)」してゆく。「蒸発」した人間は存在の痕跡を全て削除され(例外あり)、その者は初めからこの世に存在していなかった、ニュースピークで言う「非存在」として扱われる。

党に関わりを持たない人々はプロレ(the proles、2009年新訳ではプロールプロレタリアの略)と呼ばれ、人口の大半を占める被支配階級(下層階級)の労働者たちである。党が課す重労働が彼らを蝕み、10代から働き、早くに子供を作って、60歳までには死んでしまう。プロレフィードProlefeed、プロレの)と総称される酒、ギャンブル、スポーツ、セックスなどの娯楽は許可されているが、教育はされないため識字率も半分以下であり、彼らの住む貧民地区にはおびただしい犯罪が横行している。党はプロレ階層単独では社会を転覆させる能力のある脅威であるとは全く見ていないため、動物を放し飼いにするように接している。多くのプロレはテレスクリーンさえ持っておらず、それゆえ監視もされていない。

党外局員およびプロレの生活水準はきわめて低いが、真理省による宣伝によれば日用品などの生産は毎年驚くほど伸び続けており、1950年代の革命以前の社会は言語を絶するほどの貧しさだったという。もっとも過去の統計や過去に発表された目標数値も真理省により常に都合よく改竄され続けており、今より革命以前のほうが生活が豊かだった(あるいは現在が革命以前より貧しかった)ことを比較し証明することは不可能である。

党員において人間の性本能や愛情は抑圧され、すなわち自由恋愛は存在しない。党は神経学的に性本能を抹殺し、性行為から快楽を除去しようと試みており、党やビッグ・ブラザー以外への愛情は必要としないとしている。プロレの性に関しては放置されているが、党員の場合結婚は党への奉仕のために子供を生むための「儀礼」であり、男女間に性的欲求がある場合は結婚を許可されない。若者の間には「青年反セックス連盟」というものがあり、完全な独身主義を提唱して性を汚すキャンペーンを行っている。

ニュースピーク[編集]

ニュースピーク Newspeak、新語法)は、思考の単純化と思想犯罪の予防を目的として、英語を簡素化して成立した新語法である。語彙の量を少なくし、政治的・思想的な意味を持たないようにされ、この言語が普及した暁には反政府的な思想を書き表す方法も考える方法も存在しなくなる。

付録として作者によるニュースピークの詳細な解説が載っている[注 7]。これによるとニュースピークにはA群B群C群に分けられた語彙が存在し、A群には主に日常生活に必要な名詞や動詞が含まれ、その意味は単純なものに限定され文学や政治談議には使用しにくいもののみがイングソックによる廃棄をまぬがれる。B群には政治に使用される用語が含まれ少なからずイデオロギーを含んだ合成語が含まれる(例: goodthink(正統性)、crimethink(思想犯罪))。C群にはほかの語群の不足を補うための科学技術に関する専門用語が含まれる。

またニュースピークは現代英語を必要最小限にまで簡略化することを目指しており、現在では別々の言葉が似たような意味を持つという理由で統合され名詞や動詞の区別も接尾語により変化する。たとえばニュースピークの文法では、名詞の thought(思想[名詞])を動詞の think(考える)で代用でき、名詞の speed(速さ)に形容詞をあらわす -ful や副詞をあらわす -wise を加えることで、それぞれの品詞へ自在に変化する。bad をあらわすには good に否定の接頭語 un- をつけた ungood でこと足り、強意表現は plus-  doubleplus- といった接頭語をつけることで表現される。また、Minipax などのように略語を極端に採用しているが、これによって本来の語源を考えることなくまったく自動的に単語を話すことができる。これには、ナチスドイツやソ連が「ゲシュタポ」や「コミンテルン」などの略語を多用したことが影響している。なお、speak という単語に本来名詞としての用法はないため、「ニュースピーク」という言葉自体がニュースピークに分類される。

新語法(ニュースピーク)辞典が改定されるたびに語彙は減るとされている。それにあわせシェークスピアなどの過去の文学作品も書き改められる作業が進められている。改訂の過程で、全ての作品は政府によって都合よく書き換えられ、原形を失う。free の意味も「free from-(〜がない)」の意味しか残らず「政治的自由」や「個人的自由」の意味は消滅しているなど変化しており、原文の意味を保って自由や平等を謳う政治宣言などをニュースピークに翻訳することは不可能になる。

ダブルシンク[編集]

2 + 2 = 5」というフレーズで五カ年計画の早期達成を扇動するソ連ポスター

ダブルシンク(doublethink二重思考)は、「1人の人間が矛盾した2つの信念を同時に持ち、同時に受け入れることができる」という、オセアニア国民に要求される思考能力である。「現実認識を自己規制により操作された状態」でもある。

2足す2は5である
2 + 2 = 5Two plus two makes five)は、本作を象徴するフレーズの一つである。ウィンストンは当初、党が精神や思考、個人の経験や客観的事実まで支配するということに嫌悪を感じて(「おしまいには党が2足す2は5だと発表すれば、自分もそれを信じざるを得なくなるのだろう」)自分のノートに「自由とは、2足す2は4だと言える自由だ。それが認められるなら、他のこともすべて認められる」と書く。後に愛情省でオブライエンに二重思考の必要性を説かれ拷問を受け、最終的にはウィンストンも犯罪中止と二重思考を使い、「2足す2は5である、もしくは3にも、同時に4と5にもなりうる」ということを信じ込むことができるようになる。
過去を支配する者は未来まで支配する。現在を支配する者は過去まで支配する
政府が過去を改竄し続けているのは、党員が過去と現在を比べることを防ぐため、そして何よりも党の言うことが現実よりも正しいことを保証するためである。党員は党の主張や党の作った記録を信じなければならず、矛盾があった時は誤謬ごびゅうを見抜かないようにし(誤謬を無視するこの思考方法を「犯罪中止」という)、万一誤謬に気づいても「二重思考」で自分の記憶や精神の方を改変し、「確かに誤謬があった、しかし党の言うほうが正しいのでやはり誤謬はない」ということを認識しなければならない。
古代の専制者は命じた。汝、するなかれと。全体主義者は命じた。汝、すべしと。我々は命じる、汝、かくなり、と
オブライエンの言によれば、かつての専制国家は人々に対しさまざまなことを禁止していた。近代のソ連やナチス・ドイツなどは人々に理想を押し付けようとした。今日のオセアニアでは人々はニュースピークやダブルシンクを通じ認識が操作されるため、禁止や命令をされる前に、すでに党の理想どおりの考えを持ってしまっている。党の考えに反した者も、最終的には「自由意思」で屈服し、心から党を愛し、党に逆らったことを心から後悔しながら処刑される。

ダブルスピーク[編集]

ダブルスピークdoublespeak、二重語法)は、矛盾した二つのことを同時に言い表す表現である。『1984年』作中の例でいえば「戦争は平和である」や「真理省」のように、例えば自由や平和を表す表の意味を持つ単語で暴力的な裏の内容を表し、さらにそれを使う者が表の意味を自然に信じて自己洗脳してしまうような語法である。他者とのコミュニケーションをとることを装いながら、実際にはまったくコミュニケーションをとることを目的としていない。

ダブルスピークという用語は、実際には『1984年』に登場していないが、初版発刊後の1950年代に一般化した言葉で、しばしば『1984年』由来と考えられている。ニュースピークのB群語彙の定義におおむね影響を受けている。また、現実にある政策や婉曲話法などを批判的に言及する際に「二重語法」という言葉を使うことがある。たとえば事業の再構築を意味するリストラクチャリング(リストラ)を単に「従業員の大規模解雇」の意味に使用するなど。

出版[編集]

原書[編集]

原文は電子出版も含め全文公開されているが、詳細な解説を行った版やオーディオブックなど、英語版だけでも複数のエディションが刊行されている。またタイトルは刊行当時の「Nineteen Eighty-Four」とアラビア数字の「1984」の2種類がある。

日本語訳[編集]

題材作品[編集]

CBS版『1984年』の俳優

映画[編集]

  • 1984マイケル・アンダーソン監督 1956年(日本では劇場未公開)
    ストーリーは原作に準拠したものであるが、アメリカ公開版ではウィンストンとジュリアが拷問に最後まで屈せず、共に打倒ビッグ・ブラザーを叫んで死ぬという結末に変更された。オーウェルの遺族はこれに不満を持ち、公開差し止めを求めたという[24]
  • 1984 マイケル・ラドフォード監督・脚本 1984年
    日本の映画館で公然と上映された映画としては初めて、陰毛をぼかしていないヌードを含んでいた。また、同年に死去したリチャード・バートンの遺作ともなった。

注釈[編集]

  1. ^ 英語のBig Brotherに独裁者という意味があるのは本作に由来する。
  2. ^ ゴールドスタインの禁書「寡頭制集産主義の理論と実践」の内容は、トロツキーの『裏切られた革命』を模しているとされるが、実際はオーウェル自身の権力観を書いた随筆であるという[18]
  3. ^ オセアニアはその名の通り大洋に守られているため、ユーラシアは国土が広大であるため、イースタシアは人口が多く勤勉であるため。
  4. ^ ただし、後述するように実際に監視されているのは党員のみであり、国民の大部分を占めるプロレについては、テレスクリーンを持っていない者が多いこともあり、監視を免れている。
  5. ^ ただし党にとっては真実である。またダブルスピークを援用することにより、例えば本来の名称から惹起されうる「戦争省こそが戦争を生み出しているのではないか」といった思考を制限し、ニュースピークにより「豊富省は不要」というような趣旨の発言は自動的に「(ここは)豊富省ではない(free)」「豊富省の調子が良くない(ungood)」といった発言に変換される。
  6. ^ 処刑に際してこの手口は非常に迂遠なように思えるが、たとえばこの人物が反体制思想を著作などの形で意思を残していたとしても、洗脳により本人がそれを否定することで、より効率的に隠された遺作(反体制思想)を無力化できる。これは何よりもエマニュエル・ゴールドスタインとその異端的書物に向けられていることに注意すべきである。
  7. ^ この解説は1984年よりさらに未来の時点において書かれたという形式をとっている。通常の英語で書かれており、ニュースピークについて「オセアニアの公用語であり、元来、イングソックの要請に応えるために考案されたものであった」と過去形で書かれていることから、将来における体制の崩壊を暗示しているという見方もある。

 「恐るべき現実となりつつあるオーウェルの警告の数々」。
ジョージ・オーウェルの著作は、『1984年』『動物農場』を筆頭に、未来を怖ろしいほど言い当てている。(AFP)
ジョージ・オーウェルは、その生涯と作品の多くで複雑な人物、賛否の分かれる人物だった。『1984年』や『動物農場』といったオーウェル作品は特に、ぞっとするほど未来を言い当てている。先月、作家の没後70年を迎えた。衒いなき一個の人物として見る者、イデオロギー的な選好を論じる者がいるかと思えば、作家に成り代わり以下のような問いに答えるといった益体もない挙に出る者もいた。いわく、もし作家が今も生きていればブレグジットに賛同したか? スマホを持っていたろうか? 彼の書き残したものをいくら読んだところでこんな問いにはっきりした答えなど出るわけがない。より重要なのは、その優れた予見力以上に、オーウェルはわれわれに、人間のもつ本性と行動について鋭い、眼光紙背に徹する正確な観察を残した事実を認めることだ。これは時を超えたものだ。

オーウェルが作家生活を送っていた時期の大半は、当時世界で最も権勢を振るっていた国々に権威主義や全体主義はありふれていた。だから、こうした権力形態を不可避の結論としたのはむしろ予言というよりは彼の想像力だった。スペイン内戦、ファッショ政権下のイタリア、ナチスドイツ、スターリン治下のソ連、さらには、作家自身はその初期段階しか目にしていないが米国のマッカーシズムにいたるまで、『ビッグブラザー』の支配するディストピアを作家が描く題材には事欠かなかった。

近年は技術が進歩し、権威主義が可能となり現に力を振るうことがたやすくなった。つまりオーウェル的世界が現実のものとなった。監視と侵入の技術が進歩し、私生活などはなきがごときにまでいたっているが、これが過去志向的な勢力に力を貸している。そうしてよりリベラルで先進的な勢力をむしばみ、ときに抑圧している。監視社会は必然的に人を畏怖させる社会であり、自由な言論や議論を恐れるように人を教化していく社会だ。

オーウェルの『動物農場』にはもともと序文があった。中にこんな文がある。「自由になにがしかの意味があるならそれは、人々が聞きたがらないことを人々に伝える権利のことだ」。今の政治や社会を論じる文脈で欠けているのはまさにこれではないか。建設的かつ知見ある議論をする能力をわれわれは失いつつある。それはつまり、恐怖や偏見や先入主にもとづく感情的な口舌をあおるのではなしに、世論を形成するといったていの議論が欠けているということだ。権威主義的な体制では、言論の自由は人の幸福はおろか自由までも危殆に陥れる。民主主義社会では、公の議論の向く先はいかなるコストを払ってでも選挙で支持を得ることだ。価値観や政策の選択について建設的に熟議を重ねるという方角へは行かない。たとえそれが、最少共通項たる低俗きわまりない趣向にくみし、敵に対する不確かな真実、まったくのウソ、中傷、煽動を拡散することを意味するのであっても。長い目で見てよく考えて決定を出すためには忌憚なく議論を戦わせることが必須だが、どこにも見当たらないからかえってその不在が際立つ。
1948年に執筆されて以来、政治議論の際には長らくメルクマールとなりかつ、その妥当性とあっては時を経ていや増すばかりであるのが『1984年』であり、そこに出てきた示唆に富む革新的な単語の数々だ。ニュースピーク、ダブルシンク(二重思考)、ビッグブラザー、メモリーホール(記憶穴)、思考警察、101号室などといった単語はすでに人口に膾炙した。ソーシャルメディアだとか顔認証機能付きの監視カメラ、サイバーセキュリティといった技術により、少なくとも表面上は、社会を管理する手段はより巧妙になっている。これらは見えない全体主義の道具なのだが、われわれはうわべではそこへ参画することに消極的でない。ではあるが発言権などないも同然だ
政府や企業とデータ共有しないという選択肢はもはやありえない。なんとなれば、さもなくば公共サービスを享受できなくなり経済のシステムから放擲されるよりないからだ。データ収集にはさらに悪辣な役割もある。政治が選挙や住民投票の形で民意を歪曲したり操作したりする場合、不確かな事実やさては虚偽までもが周知活動の際には大量投与されるのだ。オーウェルの造語であるダブルシンクとニュースピークから、ダブルスピークなる新造語ができている。ダブルスピークというのは、「戦争は平和であり平和は戦争である」といったたぐいの、反対概念を同時に語る語法だ。つまり、国家が戦争に向かったり他国に干渉したりする際におのれを正当化するためにうんぬんしている、秩序の安定なり人権の促進のためだなどといった常套句に同じい。イラクやシリアでも同断であったが、実際におこなわれたのは破壊の伝播であり、大いに促進されたのは参戦国らの既得権益なり無道のイデオロギーなりであった。

『1984年』の主人公ウィンストン・スミスは真理省の検閲官だった。真理省とは、国民に十分に裏付けのある、事実に基づいた真実を提供する代わりに、見えない体制にそぐう計略をめぐらせた真実のほうを供与するという組織だ。多くの国々で最近おこなわれている選挙は、ブレグジットにともなう国民投票やその他主要な政治論争同様、作られた「真実」がベースにある。政治に関わる者の中には、国民の耳に心地よいことを語るのに長け、仮に何か信ずべきほどのことがあるにもせよ特に深く信じるほどでないことは伝えないといった者たちが登場している。ソーシャルメディアの力はこの点大きい。われわれの行動はコメントであれ検索であれ購買であれどれもみな、はるか彼方にいる者たちに分析され、検閲されることすらあるのだから。大きな力をもった勢力はわれわれが誰と通信しているかを知悉しているし、ソフトウェアはわれわれの通信内容を自由に、ときにわれわれの許可もなく、あるいはわれわれがまるで知らないうちに当局へ提出する。われわれを操作したり阻止したり罰したりするためにこうした通信内容は利用することが可能だ。

つい最近まで科学の知見を奉じ大事にしてきたこの世界は、今や「ポストトゥルース」の世界だ。オックスフォード辞典によればそれはこう定義される。「世論の形成に際し客観的事実があまり考慮されず、むしろ感情や個人的信念への訴求のほうが影響をもつような状況に関すること、あるいはそうしたこと」。公の議論では、移民、気候変動、ブレグジット、軍事力の行使、福祉社会、安全か人権かといった問題すべての土台にあるのは事実よりも思い込みや感情のほうだ。さらに政敵への攻撃を煽り立てる沙汰となると、オーウェルの「二分間憎悪」を彷彿させるが、そこかしこで見られるまでになっている。

オーウェルの残した作品が未来を見通したものだったのか、あるいは単にきわめて洞察力に富んだものであったのかとなると、いまだ議論の余地はあるはずだ。わけても21世紀は、国家が日常生活の隅々まで目を光らせ、操作し、管理していることから、ビッグブラザーの作品世界のシナリオ通りに進みつつあるのであるから。第四次産業革命はすでにそこまで来ている。『1984年』で描かれたディストピアは来たるべき権威主義を先取りしたものとなるかもしれない。その到来を避けられなければ、われわれはすべて、より大きなゲームの駒に過ぎざる者になりかねない。すなわちオーウェルの警告は恐るべき現実となるやもしれぬ。

  • ヨシ・メケルバーグ氏はリージェンツ大学ロンドン校教授(国際関係論)。国際関係論および社会科学カリキュラムの責任者を務める。また、王立国際問題研究所中東・北アフリカプログラム準フェロー。世界の紙媒体・電子媒体両方に定期的に寄稿している。ツイッター:@Ymekelberg
ラエルの民主主義的な性格そのものに根本的で有害な影響を与えるようなものも含まれている。

これらの動きは、選挙に勝てば、有権者に約束した政策を追求するだけでなく—それは完全に合法的なものだが—、物事のルールそのものを変更し、イスラエルを独裁への道へ、すべての反対者を沈黙させる道へと導くことを許されると考えている政府の未熟さ、残忍性、性急さ、貪欲さが特徴となっている。

しかし、ベンヤミン・ネタニヤフ首相が統轄するこの第6次政権は、気まぐれに決定を下す混沌とした政権でもある。治安部隊の他のすべての部門から独立して活動する新しい法執行機関となる国家警備隊を結成するという「決定」ほど、それを象徴するものはない。さらに恐ろしいのは、この新しい組織が実施される場合、極右のイタマル・ベングビール国家安全保障相の権限下で運営されるという事実である。

またしても、この政府の破壊的な権力奪取のための多くの「改革」と同様、この動きは連立政権の厄介者の一人を満足させるために急がされており、事実上、まさに犯罪行為に等しい。

高度に軍備を備え、安全保障への支出も世界最高レベルであるこの国で、新たな安全保障機関の必要性を疑問視し、その提案を適切に精査しようとするのは、十分な合理性がある。

しかし、政府が明らかにしようとしているのは、そのような安全保障組織を検討するための委員会を設置したということだけで、その構造や任務については言及しないというのだから、安心してはいられない。政府が急いで進めようとしているすべての計画と同様に、透明性はなく、決定はその場しのぎで行われている。この場合は、ベングビール氏をなだめ、彼の政党が司法の役割を弱めることを目的とした反民主主義的な法律の制定を一時停止することを支持するようにするためである。

国家警備隊というアイデアはイスラエルが考え出したのではないし、ベングビール氏が思いついたものでもない。2世紀以上にわたって、世界中の政府が正規の治安部隊を支援するために、主に正規軍や、時には警察の予備軍や支援部隊として、このような組織を結成してきたのである。

しかし、イスラエルにはそのような組織は必要ない。なぜなら、イスラエルには非常に活発な陸軍予備役があり、徴集兵として従軍した者や、警察部隊の一部門である国境警備隊に所属していた者を含む、さらなる従軍のために残留した者すべてで構成されているからである。この一連の出来事は、ネタニヤフ首相の判断力と首相としての適性に疑問を投げかける。

このような状況下で、イスラエルの現連立政権内の極右勢力にこのような部隊を渡す真意について、多くの人が眉をひそめ、疑惑の声を上げるのも無理はない。単に、反民主主義的な法案の進行を一時停止させることを極右に支持させるための、あけすけな代価支払いだと思える動きであろう。

この一連の出来事は、ネタニヤフ首相の判断力、首相としての適性、そして閣僚の多くが政権を担うにふさわしいかどうかについて疑問を投げかけている。

まず、首相は、争点となる法案の進行を数週間保留することを提案したヨアヴ・ガラント国防相をクビにした。その後、数万人のデモ隊が解雇に対する怒りで自発的に街頭に繰り出したため、ネタニヤフ首相はガラント氏の要求を認めたが、1週間後まで復職させなかった。しかも、ベングビール氏に一時停止を承諾させるために、首相は念願の国家警備隊を編成する約束で片を付けたのだから、どうしようもない。

国家警備隊の結成を考えるとき、そのような提案が行われている背景、誰がそれを要求しているのか、誰の権限でそれが活動することになっているのかを無視するのは全く愚かであろう。

治安部隊は左翼的で最高裁の支配下にあり、イスラエル人の安全を守る役割を果たせないと主張するのは、ベングビール氏やベザレル・スモトリッチ財務相、突飛でメシアニックな極右の仲間たちだけでなく、ネタニヤフ氏とその側近も同じである。彼らの主張は、きわめて滑稽であると同時に、非常に邪悪であるという危険な組み合わせとなっている。

これは、国家警備隊ではなく、ベングビール氏、そして彼を通じて、すでに何年も前から自らの法の執行者として活動してきた、占領地、ヨルダン川西岸の最も過激で暴力的な入植者たちに役立つ民兵を結成しようとするものである。

ネタニヤフ首相は、ただ政権存続を確実にするために、自分の意思や判断に反して連立政権の極右勢力に従わざるを得ないのだと思われたいのだが、国家警備隊の設置に関しては、必ずしもそうではない。

首相と連立政権のさらに熱心なメンバーとの間には、現実に即しているわけではないが、警察がデモ隊に甘すぎるという意見の一致があり、ベングビール氏はまさにその偽りの理由で、テルアビブ地区のアミカイ・エシェド指揮官を解任するようヤーコフ・シャブタイ警察長官に働きかけたほどだった。この企ては、ガリ・バハラフ・ミアラ司法長官の介入によって阻止された。

実は、この2週間、私自身が目撃したことだが、警察は平和的な抗議活動を促進し、過剰な武力行使はわずか数件にとどめたことを評価されるべきだろう。

しかし、アラブ人に対する人種差別の扇動、職務中の警察官の妨害、非合法テロ集団(カッハ)の支援などの罪で53回起訴され、7回有罪判決を受けたベングビール氏のような人物に民兵組織を渡すことを想像してみてほしい。

ベングビール氏の民兵が平和的なデモ参加者に対して放たれた場合の、恐ろしい結果を想像してみてほしい。彼らはイスラエルの民主主義を守るために街頭に出ているのであり、常に忠誠心を疑われるパレスチナ系イスラエル人や、ヨルダン川西岸の占領下で暮らす人々に対抗するためである。これは、彼や彼に近い人たちが以前に巻き込まれた入植者たちによる暴力を強化することになるだろう。

これらは気の滅入るような考えであり、ネタニヤフ首相は自問自答する必要がある:
これは、彼の汚職裁判で正義が行われるのを避けるために払うに値する代償なのか?その答えは、おそらく他のすべての人たちにとっては自明なことだろう。

  • ヨシ・メケルバーグ氏は 国際関係学教授、チャタムハウスMENAプログラムアソシエイトフェロー。国際的な文書メディアや電子メディアに定期的に寄稿している。ツイッター
    @YMekelberg
ネタニヤフ首相への批判を強めるバイデン大統領

たしかけている。

イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相と彼の同調者らによる反民主主義的かつ無謀な動きへの批判がいわゆる匿名の情報源ではなく、例えばジョー・バイデン米国大統領やアントニー・ブリンケン米国務長官といった人々の口から直接発せられるようになったことは新奇で歓迎すべきことだ。

米政権とイスラエル政権の意見の不一致は前例の無いことではない。これまでの重大局面として、1956年のスエズ危機後のドワイト・D・アイゼンハワー米大統領によるシナイ半島からのイスラエルの撤退の要請、あるいは、1978年にエジプトとの和平合意に必要な譲歩をイスラエルのメナヘム・ベギン首相に求めたジミー・カーター米大統領のそこはかとない圧力、1991年にマドリッド平和会議に注力していた米政権によるイスラエルが新たな入植地の建設を中断しなければ財政的な制裁を加えるという脅迫を挙げることができる。こうした局面のすべてで、他の場合と同様、イスラエルはこの緊密な同盟の上級メンバー国の意向に従って行動の修正を行ってきた。

とはいえ、こうした局面のいずれにおいても、米政権は両国間の絆を疑問視することはなかった。すべての場合において、米政権はイスラエルとの意見の不一致は友好国間のものであることを明確にしていた。しかし、現在、イスラエルの司法を弱体化しようという動きに対して、バイデン大統領と米政権の非常に高いレベルの人々がこの政策が現実となった場合には両国間の関係の本質そのものを疑問視すると言い出すほどの明確な非難を行っている。これは、米国の姿勢の根本的な変化である。イスラエルの自由民主主義的な性質を損なおうとする試みについて、これら2つの同盟国の関係に亀裂が広がっていることを象徴的に表しているのが、不賛成の頻度とその原因、そして不賛成を示すために使用される語彙である。さらには、ネタニヤフ首相と彼の政権に対する米国の批判は、いわゆる司法改革に対するイスラエル全国での抗議行動が勢い付くにつれて、一層大胆になっているように見受けられる。これは、イスラエルの抗議行動者たちにとって、自国の民主主義を守るためのもっともな奮闘を継続する上で、追い風になるに違いない。

ネタニヤフ首相は40年以上にわたってバイデン大統領と知己であること、そしてこの現在の米政権の指導者がイスラエルに長年にわたって友好的であることに言及し続けている。この2点は紛れもない事実だ。しかし、ネタニヤフ首相が最近述べることは何事であれ鵜呑みにするわけにはいかない。これら2つの事実は、むしろ、民主主義国家としてのイスラエルの未来についてバイデン大統領が非常に深く懸念している理由を示している。バイデン大統領は、ネタニヤフ首相個人にも、また、彼の政府が進めようとしている法案の裏にある動機にも不信感を持っている。両首脳は、先月、電話会談を行った。その際、バイデン大統領は、ネタニヤフ首相に対して計画中の司法改革についての妥協点を探すことを勧めた。しかし、ネタニヤフ首相は、助言を聞き入れることなく、法案の成立過程を数週間停止することを提案した防衛相の解任を不用意に発表した。その結果、数万人が街頭での抗議活動を展開する事態が招かれてしまった。この経緯は、ネタニヤフ首相は、権力の座に留まるためであれば、イスラエルの治安を脅かし、イスラエルの利益のみならず中東地域の米国の利益すらも危険にさらす心づもりでいることを明確に表している。

バイデン大統領は、ネタニヤフ首相個人にも、また、彼の政府が進めようとしている法案の裏にある動機にも不信感を持っている。

ヨシ・メケルバーグ

こうした無責任な振る舞いを続けるネタニヤフ首相は、両国の密接な関係のおかげで、米国ほどイスラエルに強い影響を及ぼし得る国は無いという事実を無視しているかのようである。

さらには、バイデン政権には、イスラエルの民主主義体制の維持のために、米国の影響力を行使しイスラエルに圧力をかける用意があることが明らかになった。

ネタニヤフ首相をホワイトハウスに招待するかについて最近質問されたバイデン大統領は、「当面はしない」と簡潔かつ決然とした返答をし、イスラエル政権への不満を示した。

この返答はネタニヤフ首相に対する明確かつ公然たる外交的な痛撃であっただけでなく、イスラエルで展開している状況に対する米国の姿勢と、ネタニヤフ首相を「喜んで」歓待しつつイスラエル政府が選択した反民主主義的な進路に口先だけの非難めいた言辞を弄するヨーロッパの一部の指導者たちの姿勢の間の大きな相違を浮彫りにすることにもなった。そうしたヨーロッパの指導者たちがネタニヤフ首相を公邸で迎える事は、ネタニヤフ首相の行動に対する彼らの懸念の表明の影響力を低減させる。そのような歓待は、イスラエルの民主主義を損なったり、イスラエルによる占領を定着させたりするためにネタニヤフ政権が何をしようとも、イスラエルは西欧民主主義世界の一部であり続け、それに伴う利点は享受し続けるが果たすべき義務はないというイスラエルの右派の御伽噺の下支えになってしまうのだ。

外交においては、体裁は修辞と同等かそれ以上の力を持ち得る。また、イスラエルのある元高官が私に言ったことだが、世界がイスラエルについて何を言い何を考えようとも、礼儀正しく受け流されるのが関の山で気に留められることは無い。しかし、イスラエルがその安全保障と繁栄を依存している米政権相手ではそうはいかない。米政権に対して、「余計なお世話だ」とイスラエルの内政への口出しを控えるようにという趣旨の軽率な発言をするイスラエルの右派もいるが、あるイスラエルの政治家が述べたように、米国の膨大な軍事的、経済的、政治的な支援を享受しておきながらそれらを都合良く無視する事は、危険を覚悟で米政権を無視することに等しいのだ。さらには、米国は、イスラエルにとって最大かつ最有力な支援母体であるユダヤ人コミュニティを擁している。その大多数は米民主党に投票する。長年にわたって米国のユダヤ人コミュニティが大規模な支援をイスラエルに対して継続してきた理由は、イスラエルの民主主義的な性質である。それには、多様なユダヤ教をイスラエルが受容してきたことも含まれている。しかし、救世主を信奉する極右政権の手によりイスラエルの民主主義的な性質は現在危機に瀕している。そして、それに伴って、イスラエルと米国のユダヤ人たちとの絆も台無しになりかけているのだ。

先月開催された米国の現政権の取り組みである第2回年次民主主義サミットに向けて、バイデン大統領は、「米国内外で民主的なガバナンスを強化するための奮闘は私たちの時代を特徴づける挑戦です。それは、人々の人々のための人々による、透明性があり、説明責任を果たす政府こそが永続的な平和と繁栄、そして人間の尊厳を実現する最善の方法であり続けているからなのです」と主張した。ここで疑問が生じる。人々の意思を無視し、占領下で生活するパレスチナ人からすべてを奪い続けるイスラエル政権の反民主主義的な政策にバイデン大統領のように懸念を表明しつつ、他方ではイスラエルを依然として優遇し続けることを米国はいつまで続けられるのだろうか?

イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相は今、かつてないほど危険な存在

「政治において1週間は長い」という言葉は、イギリスのハロルド・ウィルソン元首相の名言として広く知られている。イスラエルの政治では、1週間が永遠のように感じられ、最近では、誰をもハラハラさせる長丁場のどちらに転ぶかわからない非常に不安なドラマになっている。

考えようによっては、一方では、自由民主主義国家としてのイスラエル、さらには民主主義国家としてのイスラエルの将来に重大な懸念を抱く理由がある。その一方で、慎重な楽観論にも理由がある。というのも、これまで沈黙を守ってきた民主化推進勢力が、初めて日和見主義を捨て、数週間前から全国各地の街頭に出て、ネタニヤフ政権による司法の独立への攻撃に抗議する声を上げているからだ。

この司法クーデターで最も物議を醸しているのは、ベンヤミン・ネタニヤフ首相を収賄、詐欺、背任の容疑による汚職裁判から「救出」しようとする恥知らずで無茶な試みである。あたかも裁判が外国部隊によって行われ、彼を誘拐して見せしめ裁判の犠牲にしようとしており、この国の正当な法的手続きによって実施されていないかのようである。

ネタニヤフ首相は、またしても無駄で無益な海外旅行とリシ・スナク英国首相とのおざなりな会談のためにロンドンを訪れる前夜に—イスラエルの納税者の負担で妻とまた豪華な週末を楽しむための旅行だったが—同盟者の助けを借りて、高官として不適格とされないように自分を守る法律を可決した。夜盗のように、しかし早朝に、クネセトの120人の議員のうち61人が、またもやネタニヤフ首相の指紋がついた法律に賛成の投票をした。この法律は、司法長官がネタニヤフ首相を首相として不適格であると宣言するのを事実上阻止するものだった。

ネタニヤフ首相が、他の数名の閣僚とともに、国を率いるどころか公職に就くのにも不適格であることをさらに証明する必要があるとすれば、この数週間は十分すぎるほどの証拠を提供している。汚職裁判の被告が国を動かしているという考え自体が、非常に不安を引き起こす。多くの人の目には、裁判が進行している間、彼は役職にとどまる資格がないと映る。裁判所が評決を下すまで、ネタニヤフはいかなる権力の座からも、ましてや裁判の結果に影響を与えるような活動からも一時的に退けられるべきだと考えるのは妥当だろう。ところが、極右・宗教の連立政権の追い風を受け、政府の中枢での腐敗を常態化させようとする法案を強引に進めようとしている。

彼は、政府の中枢で腐敗を常態化しようとする法案を推し進めている。

ヨシ・メケルバーグ

この極端な反民主主義的な法案の制定に向けて真っすぐに突き進むことを遅らせたのは、業界首脳の声や予備役の兵役拒否などの抗議運動によるネタニヤフ連立政権への圧力のためである。しかし、先月可決された政府基本法を改正する法律により、首相が不適格とされるのは、首相自身がその役割を果たすために肉体的または精神的に不適格であると宣言するか、閣僚の4分の3に支持されて内閣が健康上の問題で不適格であると宣言した場合のみである。

こうして、大胆にもイスラエルの議員たちは、司法制度の変更に関与することを禁じた2020年のネタニヤフ首相との署名協定にある、首相の役割と裁判の被告としての立場との間に利害関係がある場合、司法長官がネタニヤフ首相の職務不適格を宣言するということを事実上阻止している。これは、彼が署名しただけでなく、高裁の承認印も得た協定である。その内容は、彼が 「裁判官任命委員会の活動に関する事項、および最高裁判所とエルサレム地方裁判所の裁判官に関するすべての事項への関与を避けなければならない」というもの。

この合意は不意に生まれたものではなく、ネタニヤフ首相自身が刑事責任で裁かれている事実を考えれば、完全に理にかなっている。

当然のことながら、最高裁判所への請願が直ちに出され、最高裁判所長官はネタニヤフ首相に対し、この利益相反をどう回避するのか説明するよう要求している。このような憲法上爆弾的なものを投下し、自分が舵を取る限り、メシア的独裁政権への道を整える反民主主義的な法案が止むことはないと示した数時間後、ネタニヤフ首相は、ロンドンでの休暇に飛び立ったが、その週末には何千人もの抗議者たちに迎えられることになった。

司法制度を解体し、その権限の大半を簒奪しようとする政府の計画の最初の動きであり、全読会を経る最初のこの法案は、ネタニヤフ首相とその連立政権の本音を露呈している。彼らは自分たちを法の上に置きたいだけでなく、自分たちが法であると宣言することを目指している。

当然のことながら、このことは街頭で抗議する人々をさらに激怒させている。新法の内容もさることながら、その大胆さから、この国の短い歴史の中で最も危険で悪意ある政府を阻止できるのは、絶え間ない抗議と市民的不服従によってのみだということが、これまで以上にはっきりとしてきたのだ。

もう、戦線は引かれており、ネタニヤフ首相が自分のために国の利益を犠牲にする用意があることを疑う人はいない。彼は今、司法取引を持ちかけられたときに署名しなかったことを後悔しているかもしれないし、少なくともそうすべきなのだが、今さら言っても仕方がない。政敵を煽り、暴力やひょっとすると流血につながるかもしれないということを承知で、自分の支持者とそれに反対する人々との物理的な衝突をあらゆる手段と目的で奨励したことは、彼が訴えられている汚職犯罪よりも悪い罪である。

国防相の解任に伴う反発の後の、法案を一時停止するという彼の決断は、国民的対話のために誠実に行われたものではなく、むしろ反対派を鎮めるための彼の策略のひとつに過ぎなかった。もしデモ参加者がこれ以上このような欺瞞に引っかかって行動を停止すれば、イスラエルの政治を操る名人は、メシア主義の右派連合パートナーからの圧力の下で、確信からではなく有罪判決への恐怖からイスラエルの民主主義を解体し続けることになるかもしれない。

震災の悲劇と人類の力

スモトリッチ氏の新たな役割、イスラエルを併合に近づける

宗教シオニズム党の指導者たちが、連立交渉に準備不足で臨んだことに異論を挟む者はいないはずだ。彼らは自分たちが何を望んでいるのか、恐ろしいほどよくわかっており、西岸地区を併合し、その過程でパレスチナ人に対するユダヤ人入植者の優位を確立することによって、イスラエルとパレスチナ人の対立に対する二国家共存の解決策に終止符を打つという彼らの望みを容易にする条件を、強い信念をもって要求してきた。

この党を構成する派閥の代表者たちは、自分たちの歪んだイデオロギーに最も適した省庁、立法、政策を選んだが、ベンヤミン・ネタニヤフ氏が汚職裁判に直面し、連立を組む他に選択肢がなく、最も弱い立場にいたことをよく認識していたのだ。だから、彼らは自分たちの要求(以前は夢物語でしかなかった要求)を彼に無理やりにでもすべて受け入れるようさせてきた。ネタニヤフ首相は、政府内のこうした超国家主義的なメシア信仰の宗教勢力に全面的に譲歩することが、パレスチナ人や地域、イスラエルの最も親しい同盟国との関係にとっていかに破壊的であるかを十分に理解しているのだが。

彼の失策の中から最も害のあるものを選び出すのは簡単ではないが、ベザレル・スモトリッチ氏を財務省へ任命しただけでなく、国防省の大臣としてヨルダン川西岸地区の民政や、パレスチナ人との調整を担当させたことは、最も有害なことの一つである。

スモトリッチ氏はこの役割の中で、民政局とCOGATと呼ばれる占領地政府活動調整官組織の両方に対する全権を与えられている。このことがいかに無責任で有害であるかを十分に理解するには、ヨルダン川西岸におけるイスラエルの民政局とCOGATの役割と責任の両方を掘り下げ、スモトリッチが何者でどんなイデオロギーを代表しているかを理解する必要がある。

まず、民生局とCOGATという用語は、最近の変更まで国防省の下にあった組織に当たるもので、西岸地区のパレスチナ人とユダヤ人に関する民間の問題を担当する軍事組織であるため、誤解を招く恐れがある。実質的には、55年以上にわたる軍事占領を促進するためのイスラエル国防軍の支隊である。ユダヤ人入植者にとっては、それらは彼らの存在感を強固にするが、パレスチナ人にとっては、イスラエルの軍隊を後ろ盾とする支配の道具である。

これらの政府機関は、土地管理、建築許可と建設、環境問題、その他ヨルダン川西岸に住むすべての人々の日常生活に影響を与える多くの自治体内の問題などに対して、ほぼ全権を握っているのである。さらに、COGATは労働許可証やその他のライセンスを管理しており、イスラエルは移動の自由というか、その欠如をコントロールし、イスラエル国内で生計のために働くことを許可したり禁止したりすることができるのである。

新政府の焦点は、パレスチナ人の家であれ、違法なユダヤ人居留地であれ、家屋取り壊しに関するこれらの組織の権限であることは間違いないだろう。そして、スモトリッチ氏がどの家を取り壊し、どの家を建てたいかは、かなり明らかである。

しかし、行政の仕組みを変えるだけでなく、誰にその責任を負わせるかということも問題である。スモトリッチ氏は、彼の名誉のために言えば、自分の意見を隠すような人ではない。そのため、なぜ彼の政治学が彼をこの仕事に最もふさわしくない人物にしているのかを示してきた。最初から、暴力の拡大、入植地拡大へのブレーキの解除、パレスチナ人の人権、市民権、政治的権利へのさらなる制限、あるいはそのすべてを意図していたなら話は別だが。

確かに、スモトリッチ氏は、そこに住むパレスチナ人に市民権を与えずにヨルダン川西岸地区全体を併合しようとする人々の中で最も強硬な人物の一人であり、これはアパルトヘイト体制を正式に制定するとしか言いようのない動きだ。

2005年には、イスラエルの公安庁シン・ベットの監視下に置かれ、イスラエルのガザ撤退をめぐる市民的不服従を組織した疑いで逮捕もされたが、不起訴処分となった。彼は主にアラブ人に対する人種差別的な態度で知られており、その典型的な例として、産科病棟でユダヤ人とアラブ人の母親を分けるよう要求し、非常に偏見に満ちたツイッターの暴言の中で、「あと20年もすれば自分の子供を殺すかもしれない赤ちゃんを産んだばかりの人の隣に、私の妻が寝たくないと思うのは当然だ」と発言していた。最近では、新政府は特定の人権団体に対して「行動を起こす」必要があると発言し、これらの団体を「イスラエル国家の存亡に関わる脅威」とレッテルを貼っている。

民政局やCOGATが占領下のヨルダン川西岸に住む人々に及ぼすことのできる力の結果は、その担当者の性格や、状況の悪化や紛争の激化の危険を考えると、自明となりつつある。これまで何度か、スモトリッチ氏に会い、その人柄や政治を理解しようとした人たちから、「政治的な脚光を浴びない彼は、ずっと現実的で理性的だ」と言われたことがあった。彼の極めてタカ派的で人種差別的なイデオロギーが本物か、日和見的なものかはあまり重要ではなく、本当に重要なのは、彼が公の場でどのように発言し、行動し、現場の状況にどのような影響を与えるかだ、というのが私の考えであった。

彼は産科病棟でユダヤ人とアラブ人の母親を分離するよう求めるなど、アラブ人に対する人種差別的な態度でよく知られている。

ヨシ・メケルバーグ

例えば、イスラエルの完全な支配下にあるエリアCで、すでに立ち退きの危機にさらされているパレスチナ人コミュニティの家を取り壊したり、入植者の入植地を合法化して地元のパレスチナ人との摩擦を増やしたり、治安部隊に圧力をかけて入植者の暴力やその他の違法行為に目をつぶらせたりすることを決めでもすれば、彼の任命はとんでもないことだろう。

スモトリッチ氏の任命で最も気になるのは、イタマル・ベングビール氏の国家安全保障相就任と同様、彼らの総合的な計算では、広範囲にわたるパレスチナ人との対立と流血が必ずしも最悪のシナリオではない、ということであろう。彼らの最良のシナリオは、パレスチナ人が屈服し、イスラエルの新政権のもとで、併合の進展が早まり権利が剥奪されるのが新しい現実であると受け入れることである。

しかし、彼らの政策が武力衝突につながれば、イスラエルは不相応な軍事力を行使することになる。彼らは、それによってパレスチナ人を屈服させる決定的な軍事的結果を期待している。その可能性こそが、何よりもまず、パレスチナ人に対して、そればかりかイスラエル自身と地域の安定に対して、スモトリッチとベングビール氏を邪悪で危険な存在にしている。

イスラエル新政権、早くもパレスチナ人に挑発的施策

発足後2週間で、イスラエルの新政権はとてつもないスピードでスケジュールをこなしている。まるで自ら短命に終わると予期しているか、あるいは国に修復不能な分裂をもたらし、民主主義システムを破壊してパレスチナ人と対決したいという欲求に取りつかれているかのようである。

この政権は民主主義システム、とりわけ高等裁判所を執拗に攻撃している。政府に反対する野党の政治家と市民団体、マイノリティへの攻撃も続いている。その結果、イスラエルの民主主義は名ばかりのものになる可能性がある。

先週、連立政権のあるメンバーが野党のリーダー、ヤイール・ラピードとベニー・ガンツの両氏の逮捕を示唆したが、その罪状といえばその人物の反民主主義的な空想の中で作り上げられたものなのだ。この発言の背後には、新政権の政策に反対する人々の間に恐怖を広め、パレスチナ人は良くても二級市民であると法的に規定しようという企図が見え隠れする。

被占領地域に暮らすパレスチナ人に関しては、彼らが国家樹立への望みを少しでも表明することへの恐怖を植え付け、違法な占領軍に抵抗することなど夢にも思わないように仕向けることが狙いである。

パレスチナ市民に対して抑圧的で過酷な政策を課すという新政権の方針は次から次へと明らかになっている。先週はイスラエル当局が、リヤード・アル・マーリキー・パレスチナ外務・移民庁長官の移動許可証を取り消すという近視眼的な暴挙に出た。これはパレスチナ自治政府が国連に対し、イスラエルによるパレスチナ領土の占領の法的影響に関する国際刑事裁判所(ICJ)の意見表明を求めたことへの報復措置である。

この馬鹿げた決定を下した者たちは一瞬でも立ち止まり、明らかに保安上の脅威ではないアル・マーリキー氏から移動の自由の権利を奪う行為は、パレスチナ人との間の合意違反であるだけでなく、占領がもたらす違法な結果の証拠をまた1つ増やすことにしかならないと考えなかったのだろうか。

さらに、占領の問題をICJに委託するという決定はパレスチナ自治政府によるものではなく、国連総会で87か国の支持を得て行われたものだ。反対したのはわずか26か国であった。新政権も、国連でこの案に賛成票を投じた国の外相や国民に入国を禁じることなどしないだろう。

だが、発足したばかりのネタニヤフ政権が国連の決定にパレスチナ自治政府が関与したことへの報復として見せた暴挙はこれにとどまらない。イスラエルの治安担当閣議は占領されたヨルダン川西岸地区のCエリアでパレスチナ人による建設計画を凍結した。この場所ではイスラエル側が治安および市民生活のすべてを管理している。また、イスラエルは自治政府から武装派組織やその家族に支払われた金銭を相殺するとして、自治政府に代わって徴収した税金約4,000万ドルをパレスチナ自治政府へ送金することを拒んでいる。

いつの日か、エルサレムの西側と東側それぞれの両国の大使館でイスラエルとパレスチナの国旗が風を受けてはためき、2つの国家が平和に共存できる時が来ることを願うばかりである。

ヨシ・メケルバーグ

占領に関しては、イスラエルがパレスチナ人に期待するのは、自分たちの気まぐれに全面的に従うこと以外に何もないようだ。しかも、国際社会のほぼすべてが現在の状況は違法だと認識しているにもかかわらず、現連立政権の閣僚の大半は、そもそも占領など起きていないという立場を取っている。

現状を打破し、パレスチナ民族の自決を可能にするような和平プロセスもまた存在せず、したがってその復活もありえない。もしパレスチナ市民の代表者がこの袋小路を脱しようと国際社会に訴えようなどとすれば、処罰を受けることになる。

さらに悪いことに、パレスチナ人が武力闘争に訴えようとすれば(実際、イスラエルの占領に再び力で抵抗しようといういう動きは支持を集めつつある)、イスラエルの治安部隊によって武装派だけでなく、無辜の市民までがこれまで以上に過酷な報復を受けるだろう。

この傾向を反映する出来事がある。あるイスラエル人ジャーナリストがイスラエルの治安部隊に抵抗して武器を取るパレスチナ人に共感を表明すると、警察に呼ばれ尋問を受けた。確かに賛否両論を呼び起こす意見ではあるが、民主主義社会において表明することが違法に当たるようなものではない。暴力を奨励しているわけでもなく、政治的地平を取り払って冷静に考えれば、暴力的な事態になる可能性が高いと考えられるというだけの話だ。

残念ながら、この争いにおいては、いずれの側でも相手方に死と悲惨さをもたらす人々が英雄とされ、平和を求める人々は裏切り者というレッテルを貼られる。

イスラエルの人々にとって、パレスチナ自治政府が受刑者の家族の面倒を見ることや、イスラエル市民を殺害したり大怪我を負わせたりした者が称えられることは気分を害する行為かもしれない。とりわけ犠牲者の家族には苦痛である。

だがそれと同じように、多くの同胞を殺したイスラエル治安部隊員が英雄と称賛され、時には勲章を授けられ、イスラエル国家から給与その他の恩恵を受けるのを見ることは、パレスチナの人々にとって苦痛なのだ。

2つの民族間のこの紛争では、平和と共存、融和ではなく、互いの血を流す行為が神聖なものとされている。イスラエル新政権の行動は、この流れをさらに強化するだけである。

同様に愚かしいのは、イスラエルがパレスチナの国旗に対して取っている態度である。超国家主義者として知られる新政権のイタマル・ベングビール国家安全保障相は就任後すぐ、公の場からすべてのパレスチナ国旗を撤去するよう命じた。

無知と頑迷さをあらわにして、ベングビール氏はパレスチナ国旗の掲揚は「テロ行為の支持」を意味すると主張した。誰か占領地域に住むベングビール氏に(ちなみに氏はテロ組織支援については一家言あるはずである。その罪で2007年に有罪判決を受けているのだから)教えてやってはどうだろう、イスラエル国旗を含む他の旗と同様に、パレスチナ国旗はパレスチナの人々が1つの民族であり、自決の権利を持っていることを表す象徴であると。もっとも、これは悲しいことに未だ実現されてはいないが。

さらに、1993年のオスロ協定調印以来、ネタニヤフ氏を含むイスラエル右派の指導者たちは多くの場面でパレスチナ国旗とともに写真に収まってきた。いつの日か、エルサレムの西側と東側それぞれの両国の大使館でイスラエルとパレスチナの国旗が風を受けてはためき、2つの国家が平和に共存できる時が来ることを願うばかりである。

今のところ、この夢は幻であり、ベングビール氏とその盟友が幅を利かせる政権下では、パレスチナ人を劣った存在として扱い、何の罰も受けずに彼らを虐待する挑発的で過酷な施策が規範としてとどまるだろう。

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20 Dec 2022 01:12:30 GMT9

一見、11月の選挙前にネタニヤフ首相を唯一の首相候補者として表明した各政党で過半数を確保したことを考えれば、今頃ベンヤミン・ネタニヤフ首相が比較的安定したイスラエル新政権を発足していてもおかしくはなかった。

しかし、ネタヤニフ首相は組閣に向けてすでに28日間を費やしているにもかかわらず、先週、イツハク・ヘルツォグ大統領に組閣期限の10日間延長を要請せざるを得なかった。イスラエルの政治では連立を組むのに数週間、あるいは数ヶ月かかることは珍しくない。というのも各政党は支持者に報いるべく貴重な大臣のポストや予算、職の獲得を目指すわけで、首相指名を受けたネタヤニフ氏と同氏の政党はそれらをめぐり同時並行で多くの政党と交渉しなければならないからだ。

だが今回は事態をもっと複雑にする問題がある。連立政権の一員になるだろう極右勢力がこの国の民主主義的性格やリベラルな理想を弱体化させ、良識ある統治や説明責任を損なう法案を露骨に要求しているのだ。

ネタニヤフ首相にとって悲劇的ともいえる皮肉は自身のライバルによる政権樹立阻止に向けて極右勢力を正当化するためにでき得る限りのことをしたことだ。今ネタヤニフ首相はこれら過激主義者たちと実際に権力を共有することに不安を感じている。極右以外にも2つの超正統派政党が連立政権に加わる状況で、彼らが大きな力を振るうことになるのだ。

ネタニヤフ首相に多少なりの同情を感じたとしても、この状況はすべて同氏の自業自得なのだということを忘れてはならない。自身に対する汚職裁判において正義から逃れようとする執拗で不謹慎な試みを続ける中でイスラエル政治における極右宗教勢力の最も極端な形態を正当化し、その過程で前政権と特にそのアラブ・パレスチナ人メンバーに対する有害な主張と扇動を広めたのだ。そして今になって自身の政権の組閣に当たり、自分が作り出してしまった怪物に依存していることに気づいたのだ。

宗教シオニスト党の指導陣の一部は長年、在野にあったが今やキングメーカーだ。彼らはこの機会を一切無駄にすることなく自分たちが管掌する省庁から最大限の譲歩を引き出し、政府の政策に最大限の影響を及ぼし、そうすることで彼らが描く不愉快なイメージに沿ってイスラエルの性質や将来を再構築しようとするつもりだ。

彼らは汚職裁判の被告であるネタニヤフ首相がいかに脆弱な存在であるかを良く理解しており、信頼もしていない。そうしたリーダーの一人、ベザレル・スモトリッチ氏は少し前にネタニヤフ首相を批判して、いつも「白々しい嘘」をつくと非難した記録がある。従ってネタヤニフ政権に参加するにあたり、自分たちの意が通るように最大限を尽くそうとするのだ。

ネタヤニフ首相はイスラエル政治における極右宗教勢力の最も極端な形態を正当化した

ヨシ・メケルバーグ

しかし、ネタニヤフ首相の問題はこうした過激派政党に限ったことではない。首相はまた、自身のリクード党員を処遇する必要がある。党員が忠誠への報いとして自分のエゴを満たす仕事に就こうとして列をなしているのだ。よりリベラルな右派の伝統に属する者や自分の意見を表明する勇気ある者を首相はすべて党から追い出し、自分に媚びへつらう者だけの集団にしてしまったのだ。

もしネタニヤフ首相が政界に留まることに固執していなければ割と早く中道右派の政権が成立していたかもしれない。野党にはイデオロギー的に以前のリクードに近い政党や政治家がおり、リクードが別のリーダーを選んでいたら、その多くが連立政権に参加していただろう。しかし彼らは、ネタニヤフ首相が収賄、詐欺、背任容疑で裁判を受けている間はネタニヤフ政権の一員となることを拒否している。

さらにイスラエルの中道右派の政党は、恥ずかしげもなく人種差別、女性差別、同性愛嫌悪を行い、国の民主的基盤を破壊し、パレスチナ人との紛争に火をつけることに夢中な宗教シオニスト政党と権力を共にすることはないだろう。

かつてのネタニヤフ首相であれば、こうした要素を正当化することは決してなかっただろうし、間違いなくこうした勢力と権力を共にすることはなかっただろう。しかし、彼はいつでも権力追求のためなら何でもありの強い日和見主義者だったし、金銭問題やその他の汚職疑惑に関する警察の捜査を受けて、その傾向はさらに強まった。

自分が起訴され、複雑で疑わしい内政上や家族絡みの疑惑もあったことが、首相が民主的なフェアプレーの枠内で活動することを放棄し、裁判を妨害して無期限に権力の座にとどまろうとする分水嶺となった。

しかし、このときルールを弄び目的のためには手段を選ばない首相のやり口を新たな政治パートナーが学び、首相が彼らの要求をほぼすべて受け入れる中で、彼らが権力への欲望を着実に高めていることに首相は気付いていなかった。

このパラダイムシフトの一環でネタニヤフ首相は自身の政治的パートナーがゲームのルール内で権力を追求するだけでなく、ゲーム自体も変えてしまおうとしていることを見逃しているか、あるいはもはや気にも留めていないかもしれない。

まだ組閣は済んでいないが今週、この新たな連立政権の一員が目指す憲法上の激変の最初の兆しが明らかになった。リクードの党員から新たな国会(クネセト)議長を選出した数時間後、次期連合の内定メンバーは数件の予備法案の提出に乗り出した。その多くは論争を呼ぶもので、連立政権の編成を睨みその候補を利するものだ。

物議を醸す各法案の一つでイスラエルの民主主義の存続とパレスチナ人の安全と幸福を願うすべての者が懸案すべきものに、オツマ・イェフディート党の党首イタマル・ベン・グヴィル氏が内定済みの国家安全保証省大臣の権限拡大を狙う法案がある。同氏は人種差別やテロリズム扇動で有罪判決を受けており、過去にはパレスチナ人追放を要求したこともある。

これだけで足りなければもう一つ、イスラエルの憲法とも言える基本法の改正を目指す法案がある。この改正はセファルディ派シャス党のリーダーのアリエ・デライ氏の大臣、それも非常に高い地位への指名を可能とするものだ。同氏は今年の初め頃に税法違反で執行猶予の宣告を受けているにもかかわらずだ。

これは徐々に司法や裁判のシステムを政治家の意向次第で自由にできるものにしようとする試みの始まりに過ぎず、今回の場合は犯罪歴があり、おそらく先々もっとひどい悪事を働くだろう人物の取り扱いが対象だ。

連立交渉は合意に向けて進んではいるが、その進め方や連立政権の組閣メンバーの経歴、メンバー同士の不信感、膨れ上がったエゴの存在などからたとえ政権が発足してもすぐに亀裂が入り始めると思われる。

その間、野党、市民社会、一般市民は民主主義制度を守り、良い統治のために立ち上がり、政府の責任を追及する準備を整え、その意志を持つべきだ。

ネタニヤフ首相の極右政権で試される米・イスラエル関係

先週、米国のアントニー・ブリンケン国務長官が、平和派でリベラルなユダヤ系米国人組織Jストリートで行った演説は、先月のイスラエル総選挙後にバイデン政権が直面しているジレンマが要約されたものだった。

ユダヤ人国家であるイスラエルが誕生して以来75年近くにわたり、両国は共通の利益と価値観に基づき、国際政治において最も強力な同盟関係を築き上げてきた。

長年にわたる厳しい試練にもかかわらず、この同盟は一度も疑問視されたことがない。

1967年以来、米国はイスラエルの政治的・軍事的同盟国であり、イスラエルの安全と福祉を確保する最善の方法について断続的に両国間で意見の相違があるにもかかわらず、比類のない財政支援でサポートしてきた。

イスラエルが外交よりも軍事力や占領地の保持を重視するのに対し、米国の歴代政権は、イスラエルの長期的な生き残りと繁栄、および中東における米国の利益の維持のためには、イスラエル・パレスチナ紛争の外交的解決と、周辺地域とのイスラエルの相違の解決が必要であると認識しているのである。

イスラエルの新政権が、前政権とは全く逸脱した政策をとるというのは、全くもって不誠実なことであろう。

実のところ、それらの政策はイスラエル、そして米国の過去の政権が下した誤った判断の産物である。

イスラエルの入植地建設は50年近く前に始まり、あらゆるイスラエル政府の下で拡大し、占領下で過酷な手段もとられてきた。

歴代の米国政権は、入植地に反対し、二国家共存案を支持することに非常に消極的であった。

しかし、イスラエルは常に民主主義への取り組みに苦しんでいたにもかかわらず、米国社会のさまざまな層と価値観の共通性、強い親和性を十分に有していたのである。

イスラエルは地域の軍事大国、そして経済大国へと発展し、1979年のイラン革命後、米国が同盟国からイランを失い、地域で過激派が台頭する中、イスラエルと米国の絆は共通の利害関係の上に築かれた。

しかし、米国はこれまでずっと、グリーンライン内に住むイスラエルのアラブ系市民には民主主義の地位が完全には与えられておらず、ヨルダン川西岸で占領下にあり、またはガザで軟禁されている人々にはなおさら与えられていない事実を無視してきた。

必然的に、極右が支配するイスラエル政府は、直ちに両国間の価値観や利害の共通性について疑問を投げかけることになる。

バイデン政権は、より内省的で批判的な同盟国となり、反民主的で人種差別的、同性愛嫌悪的、女性差別的な要素を含み、パレスチナ人だけでなく、ハラム・シャリーフ(神殿の丘)の現状に疑問を投げかけようとする周りのイスラム世界との対立に躍起になっているイスラエル政府から距離を置くことが賢明であると言えるだろう。

ブリンケン氏がJストリートの会議でイスラエルの政治情勢について政権の見解を述べたことは、それ自体、米国がユダヤ社会のリベラルな要素、特にJストリートにおいては、二国家共存案に強くコミットする同組織に味方しているという力強いメッセージであったと言える。

しかし、少なくとも現時点ではもはや実行不可能と多くの人が主張する二国家共存案の原則への支持と、和平交渉再開に向けた米国のイニシアチブに踏み切る用意があることとを混同しないようにしたいものだ。

イスラエルの有権者が徹底した右派政権を選択し、パレスチナ人が分裂し、パレスチナ人の指導者たちがますます権威主義的になり、米国政権と国際社会がイスラエル・パレスチナ紛争に関心を持たないか、紛争を復活させても無駄骨を折るだけだと考えている現状では、いかなるイスラエル・パレスチナ間の和平合意も夢物語でしかない。

ネタニヤフ首相の唯一の目的は、同首相の汚職裁判を妨害することであり、それによって極右が同首相を人質にするための扉を開いてしまったのである。

ヨシ・メケルバーグ

しかし、米国政府では、イスラエルの新政権が再びパレスチナとの全面的な敵対関係に火をつけることを、心から懸念している。

これにより多くの犠牲者が生じ、今後の和平合意をより困難なものにすると同時に、ユダヤ人国家と他のアラブ諸国との関係が不安定なものになるだろう。

イスラエルの新政権が再びパレスチナとの全面的な敵対関係に火をつけることは米国が外交関係を結んでいる国々も含むため、米国と他の中東諸国との関係に影響をもたらし、イスラエルとの対立を余儀なくされることになる。

ブリンケン氏は、イスラエルの新政権に対する米政権の姿勢を予断することなく、同国の有権者の自由で民主的な決定を批判することはもとより、干渉していると見なされないように配慮した。

イスラエル政府は、「個々の人格よりも、追求する政策によって判断される」という同氏の主張は、新政権への判断を急がず、むしろ猶予期間を設けるというものであった。

イスラエル国民の民意を尊重することは、その結果を受け入れることと同義ではない。

米国政権にとっては、イスラエル政府との関係の基盤が損なわれた場合、その関係を見直すことが不可欠である。

現在の連立政権樹立のための交渉からこれまでに出てきたことを見ると、イスラエルの民主主義・多元的共存・パレスチナ人との関係に対する危害という点で、まさにその通りのことが起こっているのである。

現時点では、ブリンケン氏の演説で明らかになったように、バイデン政権は、両国関係のあらゆる領域でイスラエルへのコミットメントを公言しながら、同時にネタニヤフ新政権との対立が不可避と思われることへの懸念も示している。

米国のイスラエルとの友好関係やコミットメントを疑問視する人はいない。

外国との最も重要な関係に影響をもたらし、国益を損なう可能性のあるうかつな態度を示しているのは、ネタニヤフ首相とそのパートナーになりうる人物である。

ネタニヤフ首相の唯一の目的は、同首相の汚職裁判を妨害することであり、それによって極右が同首相を人質にするための扉を開いてしまったのである。

もし世界に、過激派であるイスラエル政府による被害を食い止めるか、少なくとも軽減する力を持つ国があるとすれば、それは米国である。

二国間の関係は多重構造の性質を持っているため、一方の行動が他方に影響を及ぼすことを意味する。

しかし同時に、最新型の兵器や先端技術の供給と融資、国連安全保障理事会や国際司法裁判所などの国際機関における米国のイスラエル擁護など、米国政府が提供するほぼ白紙委任状に近い支援は、イスラエルの民主主義の意味を失わせ、将来の平和への希望を損ない、国際法や条約に違反し、その過程で米国の利益も損ねるような措置をイスラエルに思いとどまらせる力を持つことを意味する。

米国はあまりにも長い間、イスラエルとの無条件の同盟国であるだけでなく、米国が反対している政策そのもののイネーブラーでもあった。

現在の状況は、この同盟から完全に撤退するわけではなく、イスラエルが真の、しかしより重要な同盟国から恩恵を受けられる、より特別なパートナーシップに転換する機会なのかもしれない。

海上国境画定の合意はイスラエルとレバノンの無秩序な関係において、真に歴史的瞬間となった

イスラエルとレバノン両国のメディアの見出しが、まるで提携して書かれたかのように一致しているのは稀である。主に不和と対立を中心とする二国間関係が、長い間争われてきた海上国境線の画定について合意に達した結果、今回の奇跡に近い合意となった。

珍しく相互の調和を示しながら、イスラエルのラピード首相とレバノンのアウン大統領は、米国のバイデン大統領とともに、今回の画期的な成果に非常に満足していることを表明した。

この合意に関する報道、それに対する分析、そして政治的な方面からの大半の反応を最も特徴づけているのは、「歴史的」という言葉の使用であり、それは真実とさほどかけ離れていない。

この協定が歴史的なものであるのは、数十年に及び、手に負えなくなる可能性もあった紛争を最終的に解決したことだけでなく、まだ表向きは戦争状態にある両国間の合意であり、単なる国境線の画定を超えて、資源共有のための合意と同等かそれ以上に重要なものを示している点であろう。

今回の合意が両国の要求を満たしているという主張については、やや複雑な問題であり、特に両国の指導者が置かれている脆弱で敵対的な政治環境を考えると、相手国に譲歩しすぎていると思われないようにする必要性を反映しているといえるだろう。

11月1日にラピード氏が緻密なバランスの取れた選挙で有権者に向き合うことを考えると、特にデリケートな時期である。一方、アウン氏の大統領任期は今月末で終了するが、後継者はまだ決まっていない。

ラピード氏は選挙前に大きな成果を示したいと考えていたが、その一方でアウン氏は、ここ数カ月で可能性が増していたイスラエルとヒズボラとの戦争の再開を回避し、カナ・ガス田からの資源という形で、低迷する国内経済に明るい展望を示すことができると考えていたという議論も起こりうる。

この合意の重要性は、その具体的な範囲に留まらない。海上の国境をめぐる長年にわたる摩擦の原因を解決することで、両国は国内の困難や両国関係の困難な歴史をはさておき、国益を優先させるために必要な外交の柔軟性を示したのだ。

さらに、公式の外交ルートや直接交渉がない中で長年の紛争を解決するには、積極的な仲介者が必要であり、今回の場合は、つい先週イスラエルがレバノンとの国境で軍事的プレゼンスを高めたという最近の打撃にもかかわらず、米国が合意の意欲がある両国をゴール地点に導くために必要な決断力を示したのだ。この措置は予防的なものだったかもしれないが、それ以上に、イスラエルは協定が決裂し、宿敵ヒズボラが軍事的対決を試みた場合に備えて準備していることをレバノンに知らしめたのだろう。

国内での可決という最後のハードルさえクリアしさえすれば、双方が今回の合意に満足するのは当然である。

ヨシ・メケルバーグ

海上国境紛争には長い歴史があるが、近年の海上国境周辺のガス田の探査は、一方では、それぞれの経済的利益を最大化する目的で国境の画定をめぐって両国が競うきっかけとなり、他方では、海中に隠された数十億ドルの資源でイスラエルとレバノン双方が経済を活性化し、かつ軍事衝突を回避するための合意の成立を後押しするものとなっている。

東地中海のガス田の開発は、過去数カ月間にロシアがエネルギー市場に与えた圧力を緩和し、長期的に見れば、さらにロシアを弱体化させることにつながるため、米国にとっては現在の世界的なエネルギー危機が交渉を早める動機となった。

イスラエル領海内に全体が収まっているカリシュ・ガス田に隣接しているカナ・ガス田は、稼働開始後、すぐにではないにせよレバノン政府に多額の収入をもたらし、低迷するレバノン経済にとって大きな収入源となるであろう。それ故に、ヒズボラに対する中央政府の立場が強化されることが期待されている。これはレバノン政府にとってだけでなく、もはやヒズボラからもイランにいて金で人を使うヒズボラの黒幕からも解放され、富裕な隣国を迎えることで利益が得られるイスラエルにとっても朗報である。

しかし、遺憾ながら、今回の海事紛争の解決はイスラエルとレバノンの間に存在する戦争状態を終わらせるものではなく、イスラエル・レバノン国境のブルーラインを踏み越えた関係の正常化には程遠いものであった。その代わり、国交がないため、一方はレバノンと米国、もう一方はイスラエルと米国という2つの別々の協定を米国と結ぶという形で解決することとなる。しかし、このような状況にもかかわらず、この合意は重要であり、事実、この合意がなされた厳しい状況を考慮すれば、楽観視できる材料である。

この合意は、両国において概ね肯定的に受け止められたが、合意そのものよりも、合意を表明した人々に対する反対意見もあった。

カリシュ・ガス田に向けてドローンを放った上に、数カ月にわたって脅迫的な言葉を用いてきたヒズボラのハッサン・ナスラッラー師は、ここ最近はイスラエルに対する脅迫的なレトリックを和らげ、慎重に、そして不承不承に、今回の合意を歓迎している。

国境を隔てた向こう側では、イスラエルの野党指導者であるベンヤミン・ネタニヤフ氏が、保留中の合意を非難し、同氏特有の痛烈なスタイルで、かつ主張の中身は全く伴わずに、政府はイスラエルに帰属する主要な戦略資産を明け渡すことになると主張した。さらに、同氏は来月の総選挙後に連立政権の樹立に成功した場合、この合意を廃止すると脅した。

しかし、これはこけおどしであり、同氏の行政の記録は、同氏の吠え声が同氏の噛みつきよりもずっとひどいことを示している。しかし、これは同氏が選挙に勝つためにどこまでする用意があるかを示す悲しい証言であり、この場合は、同氏はナスラッラー師よりも極端で危険であるという印象がある。

良好な合意とは、利益が費用を上回り、双方が頂点に立ったことを主張できるような譲歩で成り立つ、まさに今回の状態であるため、国内での批准という最後のハードルさえクリアすれば、双方が合意に満足するのは当然である。

これは緊張関係を緩和し、軍事的対立の可能性を減らし、イスラエルとレバノン双方に経済的利益を確保する合意である。これは、あまりにも長い間、不要かつ非常に有害な紛争と流血の道を歩んできた領国にとって、本当に素晴らしい偉業である。

イスラエルは核取引の大きなジレンマに直面している

米国とイランはゆっくりと、確実に、しかし確信や達成感、満足感はほとんどないまま、正式には「包括的共同行動計画」として知られている2015年の核合意を新しくした形での合意の可能性に向かって、ますます近づきつつある。

1年半近い交渉の末、ワシントンとテヘランはEUの草案を熟考しているが、これは合意案の特定の側面に対する双方の不安だけでなく、何よりも両者の信頼関係が完全に欠如していることを反映している。

一方、イスラエルの政治・安全保障関係者は、こうした動きを大きな懸念と疑念を持って見守っている。このような合意を完全に回避することが可能かどうか、あるいはその影響をどのように抑えるのが最善かについては意見が分かれるかもしれないが、今回の合意はイスラエルの国益を損ない、地域と世界の安定を脅かすだけだという点では広く意見が一致している。

イスラエルでは、合意の可能性が高まり、実現に近づくにつれ、それを声高に拒否する動きが強まる。これは提案された協定が提示する根本的な、そしておそらく解決不可能なジレンマを反映している。それは主に、イランが核軍事力を獲得するのを阻止することに主眼が置かれているが、テヘランによって行われるその他の不安定化を図る活動を阻止することには主眼が置かれていないということである。

これは確実とは言い難いが、復活した協定が少なくともその期間中はイランの核軍事力獲得への歩みを止めると仮定するならば、これには代償が伴う。イランに課せられている現在の制裁が解除され、政府の財源と、おそらくイスラム革命防衛隊の財源が満たされる。そうなれば、テヘランの政権は地域破壊的な政策を継続できるだけでなく、より強力にそれを行うことができるようになる。

新たな合意が成立するかどうかにかかわらず、イスラエルとイランの敵対関係は中東政治の不変の特徴であり続けるだろう。

ヨシ・メケルバーグ

さらに、イラン政府は、主に石油とガスの輸出によって得られる余剰資金の一部を、同国が直面している悲惨な経済状況の改善、ひいては社会不安の抑制に活用できるため、政権支配を強化・長期化させることができるようになる。

一方、2018年にドナルド・トランプ大統領が当初の核合意から離脱し、厳しい制裁を再強化してから経過した4年間は、イラン当局の核開発を止めることも、国内の不安を抑えることもできていない。実際はまったく逆で、イランはこれまで以上に核爆弾制作に近づいている。

イスラエルの強い追い風を受けたトランプ大統領の協定離脱の決断は、イランの核開発計画をさらに意欲的に継続させることに成功しただけの失策であったという点では広く意見が一致しているが、だからといってこのことは、現在審議中の新たな協定が、イランがイスラエルとより広い地域の安全保障にもたらす課題に対する答えであると、イスラエルの意思決定者を必ずしも納得させるものではない。

この懸念は核軍拡競争にとどまらず、シリアやイエメンでのイランの存在、レバノンでシーア派に支援されるヒズボラ、ガザでの過激派組織への支援に端を発している。

このため、イスラエルは苦境に立たされている。さらに複雑なことに、2015年の包括的共同行動計画(JCPOA)調印時にイスラエルの首相であり、当時のオバマ米大統領とこの問題で対立したくてたまらず、その過程で両国の特別な関係を危険にさらす覚悟があったベンヤミン・ネタニヤフ氏とは異なり、現首相のヤイール・ラピード氏は、米国とイスラエルの関係を悪化させるようなリスクは冒さないだろう。

イスラエルの利害を調整する上で、米国と協力し、両国関係の長期的なダメージを回避するための取り組みは、当然のことながら最優先事項であり続けるはずだ。だからといってそれは、イスラエルの高官が核取引の結果について深い懸念を表明し、核取引を放棄しないまでも、少なくともその条件を厳しくするようワシントンを説得しようとすることを妨げるものではない。

核取引に対するイスラエルの批判者の中で最も率直なのは、モサドのデビッド・バルネア長官である。 彼は、「結局、これは嘘に基づいた協定になるだろう」と言ったと伝えられている。その主な理由は、イランが最近、国連の核監視機関である国際原子力機関(IAEA)が、イランの未申告研究施設で見つかった人工ウラン粒子に関する3年間の調査を終了しない限り、新たな協定を結ぶことを拒否したからだ。この発見が確かならば、イランの最終目的は依然として核能力の開発であるという評価が強まるだろう。

バルネア氏の考えでは、もし協定が締結されれば、調査は立ち消えになるか、あるいは不正行為があったと結論づけられたとしても、米国が再び協定から離脱することにはつながらないだろう。

こうした懸念から、ベニー・ガンツ国防相は、米国の国家安全保障顧問のジェイク・サリバン氏との会談のためにワシントンへ急行することを決定し、イランの核開発プログラムに関して、いかなる協定とも別に一種の保険証券と抑止力として、米国は実行可能な軍事的選択を保持しなければならないというメッセージを伝えると、後にラピード氏も繰り返した。

スイスを訪問したイスラエルのイツハク・ヘルツォグ大統領は、現在の役割はほとんど儀礼的なものであるものの、イランの過去の核合意での義務違反に関する調査の継続を求める声に彼の意見を付け加えた。このことは、これがイスラエルの社会と政治においてほぼ普遍的な総意が存在する話題であることを示唆している。

このように核協定の復活を阻止するための外交努力を重ねているが、大統領選挙キャンペーン中にそのような戦略的行動を約束したバイデン政権が署名に踏み切れば、イスラエルによってそれが行われるのを阻止される可能性はほとんどないことをイスラエルの意思決定者たちはよく理解している。

イスラエルに残された道は、特にワシントンとの間で、イランの核開発や周辺国などでの敵対的活動を封じ込めるための秘密作戦を継続できるような合意を形成することである。

また、イスラエルはおそらくイランの核施設に対する査察を強化するよう国際社会に圧力をかけ続け、自らも軍事オプションの開発を続けるだろう。これは最後の手段であるばかりか、良くても成功率が極めて低く、特に少なくとも暗黙の国際的合意なしに実行された場合、その可能性は低く、おそらく非現実的であるとわかっているからである。

イランのイブラヒム・ライシ大統領が、イスラエルが自国の核施設を攻撃した場合破壊すると脅したのは、テヘランである種のパニックが起こっていることを示しているか、あるいは、制裁解除と引き換えに支持されていない譲歩をする用意があるという国内批判から政権を守ろうとする有権者管理の試みや、イスラエルに対する好戦的な言葉は常に都合のよい目くらましになるという認識を示唆しているかもしれない。

しかし、新たな合意が成立するかどうかにかかわらず、イスラエルとイランの敵対関係は中東政治の不変の特徴であり続け、さまざまな分野で低強度の対立が起こり、手に負えなくなる恐れのある段階的拡大の真のリスクも存在する。

イスラエルのパレスチナ系市民は投票することで変化を起こせる

17 Aug 2022 02:08:24 GMT9

イスラエルのパレスチナ人はクネセトの選挙のたびに大きなジレンマに悩む。投票すべきか、それとも棄権すべきか?

投票することは選挙結果に影響を与え、自分たちを代表する者を選ぶという全ての市民が持つ基本的な権利を行使することに他ならない。だが過去75年間にあった24回の選挙で投票してきてもパレスチナ系市民の地位向上や社会・経済の発展になんの効果もなかった。

興味深いことに、パレスチナ系政党が史上初の連立政権入りを果たしたにも関わらず、今年11月の総選挙はパレスチナ系有権者の投票率が40%を割り込むだろうとの低い数字が予測されている。これは逆説的だがパレスチナ系政党が連立政権入りしたせいかもしれない。

イスラエルのコメンテーター、ハニン・マジャドリ氏は今年の11月の選挙にパレスチナ系有権者は何も期待していないと指摘する。なぜならアラブ系政党はパレスチナ系有権者に何の便益ももたらさないし、パレスチナ系有権者はクネセトに自分たちを代表する者が増えても自分たちの地位や生活の質が向上するとは思わなくなっているからだ。これはある意味本質を突いているのかもしれない。しかし民主主義のプロセスを放棄してしまうのではなく、目的意識を持ち、支援政党が議席数を増やすことを望み、選挙に参加することが重要だ。

歴史的に見てもイスラエルにおけるパレスチナ系有権者の投票率はユダヤ人の投票率に比べて非常に低い。例えば、前回の総選挙では国民全体の投票率は67.4%だったがパレスチナ系有権者の投票率は44.6%にとどまった。この国の民主主義プロセス全体に対する不信感の表れとして理解できるものの憂慮すべきことだ。

例外的な選挙となった2020年の総選挙では、すべてのパレスチナ政党が候補者を一本化して史上最多となる15議席を獲得した。有権者が高く評価していたのは明らかだったが、この共闘体制はイデオロギーや個人的な相違から瓦解してしまった。続いて行われた昨年の選挙では各政党がバラバラに参戦し、投票率が下がり、獲得議席も10議席にとどまった。

イスラエルのパレスチナ系有権者が自分たちの代議員を選ぶ権利を行使することに熱意が低く無関心であることを責めるのは間違いだ。イスラエルがシオニストとユダヤ人を中心とする国家として誕生して以来、パレスチナ系市民は社会的、政治的な言論から疎外されてきた。しかし、だからこそ政治を放ったらかしにしてパレスチナ系市民を国の言論から完全に排除しようとする人々の好きにさせてはいけないのだ。なぜならベンジャミン・ネタニヤフ元首相や極右政党による組閣を阻止できるのは高い投票率、おそらくパレスチナ系有権者にとって過去最高となる投票率だけだからだ。

政治を放ったらかしにしてパレスチナ系市民を国の言論から完全に排除しようとする人たちの好きにさせてはいけない。

ヨシ・メケルバーグ

アラブ系政党やより進歩的なシオニストグループの支持に回ることは、パレスチナ系市民があらゆる分野で完全な平等を享受するという望ましい効果をすぐに実現するものではないが、その目標への重要な一歩となるだろうし、同時に、公然たる人種差別主義者を登用する政権というはるかに悪い選択肢を阻止することにもなる。「政治とは可能性の芸術である」というのは使い古された言い回しかもしれないが、この状況にまさにぴったりだ。

もしパレスチナ系有権者の投票率がユダヤ人の投票率と同じになれば、次期クネセトのパレスチナ系代議員は現在の10議席から最大で16議席に大きく増える可能性がある。そうなればユダヤ人とアラブ人の共存に反対する政権の誕生を阻止するだけでなく、次期政権にパレスチナ系代議員の入閣が必要となるだろう。

イスラエルのパレスチナ系マイノリティーの地位をより早く、より根本的に変えるという期待があったのに、その短い任期内で実現に向けてあまり進展しなかったという指摘は退陣する政権に対する当然の批判と言える。さらに言えば、国民一人一人がお互いを尊重しあい、尊厳や普遍的な人権と政治的権利に則った社会への待望と期待も、現在はむしろユートピアの夢のように見えてしまう。

パレスチナ系コミュニティーの町や都市への予算配分が遅れ、住宅、計画、建設における深刻な危機の解決やコミュニティ内の犯罪減少については上辺だけの対応だったにせよ、この政権はアラブ・パレスチナ系政党とイスラム系政党が政権入りしたことによって、より良い、より平等な社会を築くために最も重要な心理的・実際的障害の一つを取り去ったのだ。

これは旅の終わりではなくイスラエル社会の残念な現状における重要な第一歩であり、退陣するナフタリ・ベネット首相とヤイール・ラピード外相が率いる連立政権のハイライトの一つとして証明された。この躍進はラアム党、特にマンスール・アッバス党首の建設的で責任ある取り組みにより他の連立パートナー間の小競り合いを幾度となく収めてきたおかげだと言っても差し支えないだろう。しかしこの政権は多数派が史上最小で、政権内の駆け引きが止むことがなく、そして史上最弱の野党連合政権だったことは記憶に留めておくのに値する。

パレスチナ系の政治や、同じくイスラエルのシオニスト政党とユダヤ人政党を特徴づけている分極化、断片化、不安定化がイスラエルのパレスチナ系市民が果たすべき、あるいは果たしうる役割を妨げているとは必ずしも言えないのだ。むしろ、投票しても自分たちにとって好ましい変化は起きやしないとの不信感が問題だ。パレスチナ系市民が潜在的パワーを発揮するのに複数の政党が候補者を一本化する必要はない。コミュニティの多様性を体現する政党がいくつ存在しても構わない。だが、それらの政党が一定数得票するには、投票して彼らを信任することがイスラエルの政治に影響を与え、パレスチナ系市民が政府や社会においてユダヤ人と対等なパートナーになることにつながるのだと支持者に納得させる必要がある。

ユダヤ系とパレスチナ系で政党が分断しているのではなく、両方のコミュニティが両者の利益のために支援する政党がたくさん存在するのが少なくとも一部の人にとって理想的な状況だろう。人口の約20%を占めるパレスチナ系マイノリティーが、ユダヤ人と同じ権利と利益を享受できるイスラエルの国家アイデンティティを築くことに集中する必要がある。パレスチナ系マイノリティーが多数投票することは、この願いを実現するための重要な一歩だ。

ガザでの衝突は現在のところ収束、だが…

先週末、イスラエルとイスラム聖戦の間で起きた衝突が、「たった」3日間の戦闘の後に停戦が発表されて終結した時、ほっと安堵のため息をつきたい誘惑に駆られた人もいたかもしれない。

だが、長期的な解決策が見いだされない以上、この停戦もまた脆いものだ。今回のようにきわめて限定的な対立(ここ約1年ではこれら敵対する二者間のもっとも激しい衝突ではあったが)でさえ、民間人や子供15人を含む、少なくとも44人のパレスチナ人の犠牲者を出している。

双方とも、早期の段階で勝利宣言を出した。もっとも、少なくとも1,100発のロケット弾をイスラエルに撃ち込みながら、大きな痛手を負ったのはイスラム聖戦の側で、この戦闘で最高位の軍事指導者を失っている。この間、ハマスは国内における政治的ライバルの被った被害に、さほどの同情は示さなかったようだ。

いつものことながら、この暴力の悪循環の最大の被害者はパレスチナの一般市民、とりわけガザ地区の住民であり、次いでガザとの国境近く、あるいはイスラム聖戦のロケット弾の射程範囲内に住むイスラエル人である。しかし、より大局的に見ると、今回の暴力はそれ以上に、イスラエルとパレスチナの平和と共存の可能性にダメージを与えたのだ。

合意に達する可能性はもちろんのこと、和平プロセスにいかなる進展の見込みもない状態で、イスラエルによる苛烈な占領と封鎖がいわばなし崩し的に維持され、ますます深くガザとヨルダン川西岸地区に根を下ろしつつあり、出口は見えない。

イスラエルの人権団体、ブレーキング・ザ・サイレンスがまとめたイスラエル治安部隊の兵士たちの新たな憂慮すべき証言によれば、「官僚主義的暴力と抑圧」と呼ばれるものが日々パレスチナの人々を苦しめており、これによって占領者がパレスチナ市民を虐待している事実が浮き彫りになった。

これは、イスラエル当局が占領に際して起きるあらゆる抑圧行為について主張しているような治安維持、あるいはテロとの闘いといったものではなく、占領者が占領下で生きる人々の生活を全面的に支配しようとする陳腐な欲求によるものだ。

このような支配によって、人々は常に不安な状態に置かれ、何をすべきで何が許されているのだろうかと問うようになる。そしてついには、軍事・文民を問わず統治機構に完全に依存するようになる。これらの統治者は、ペンを走らせたり、手を一振りしたりするだけで人々の生活を一変させるような決定を下せるからだ。移動の自由や就職の権利、医療サービスを受ける権利、病気や死に瀕した親族を見舞う権利への制限を緩和することも、逆にこれらすべての権利を否定することも可能なのだ。

イスラエルの行政当局は、公式に占領地域で市民行政を「良き統治と公共の秩序の必要性に鑑みて住民の幸福と利益のため、および公共サービスの提供と運営のため」行うという任務を与えられている。

この暴力の悪循環の最大の被害者はパレスチナの一般市民、とりわけガザ地区の住民だ。

ヨシ・メケルバーグ

だが現実には、ブレーキング・ザ・サイレンスが収集した元兵士たちの証言によれば、行政当局が住民の幸福を保証するという理念は、踏みにじられている。行政局は治安部隊の意向を受けて、パレスチナの土地と人々を完全に支配するために動いている。そのために許可制度が乱用され、パレスチナ市民は入植者も含めたイスラエル人が享受しているすべての権利を行使するために、一つ一つ許可を取らなければならない。たまたま占領下のパレスチナ人として生まれたという偶然が、このような違いを生むのだ。

本来合法的な活動を制限することには、無論実際的な利点もあるが、この許可制度には、心理的側面もある。この制度に現れているのは挑発を避けようともしない態度であり、パレスチナ住民を支配しようという意図である。

パレスチナの人々はいかなる理由であれ、イスラエルに入るために許可を取らなければならない。許可の大半は却下されるのだが、ヨルダン川西岸地区やガザよりも多くの職があって給与も高いイスラエルで仕事をするにも、家族に会いに行くにも、ガザと西岸地区を行き来するにも、イスラエル国内で移動するにも、治療を受けるにも、すべて許可が必要なのだ。

パレスチナ人の大半は、聖地で礼拝することも、ビーチで楽しく一日を過ごすことも禁じられている。馬鹿げた話だが、パレスチナ人が自分の土地を耕す、あるいは自宅に行くのにさえ許可が要る場合があるのだ。

例えば、イスラエル軍のある元下士官は、農民たちが自分の育てたオリーブの収穫を禁止されたという話を伝えている。別のケースでは、イスラエル側の分離壁のそば、イスラエル入植地に近い辺鄙な場所に住んでいたニジャムという名のパレスチナ人は、自宅に入るために、指令室に電話して分離壁のゲートを開けてもらう必要があった。彼は自宅に出入りするにも、ゲートの開閉を担当する兵士たちのなすがままであった。

このような状況は、決して珍しいものではない。若い兵士や役人たちは、何が許可されて何がそうでないかを、自由に解釈して決めるという絶大な権限を与えられている。自分の信念に基づいて方針を決定することは「最高司令部の意向」なのであり、あるいは単なる気まぐれで決めてしまってもよい。
似たような事例が、別のイスラエルの人権団体、ギシャによっても報告されている。ギシャはガザ地区に住むパレスチナ人の移動の自由を保護することを使命としている。

ガザ地区の住民の大半は難民に分類されるが、戦争や破壊の影響、失業、貧困に苦しみ、基本的なサービスさえ受けることができない。それに加えて、移動の許可を得られるのはごく一部のみで、「例外的な人道上の事由」がある場合である。許可が与えられるのは限られた数の業者やビジネスパーソンで、最近になってイスラエルの農業や建築現場で働く肉体労働者がこれに加えられた。これはイスラエル経済とガザ住民双方を利する措置である。

この差別的なシステムのもとでは、しばしば規則さえ無視され、理由の説明もなく申請の大半は却下され、時には許可証を持つ人が検問所で越境を拒否されることさえある。これは、人々の運命をそうできるからという理由だけででたらめなやり方で決めてしまう、完全に恣意的な行動だとしか言いようがない。

上に挙げたのは、偶発的事例でも珍しい話でもない。不条理さの度合いに差こそあれ、これらすべての例は、何らかの形で一般のパレスチナ市民に、家族を食べさせたり、自分の土地を耕したり、定期の通院や緊急の治療のために病院へ行ったりすることができようができまいが、一方的に指図するという効果を持つ。

交渉のための政治的地平が存在しないため、日常的な困難と、イスラエルの兵士や役人との絶え間ない摩擦によって、イスラエルへの怒りは高まり、200万人のパレスチナ人は絶望に追いやられている。

絶望による服従と従順さ、これこそがイスラエル当局が達成したいと望んでいるものだ。きわめて非道徳的なだけでなく、長期的には、平和的共存の可能性を破壊し、憎悪の高まりと、それに続くさらなる戦争と流血しか招かないだろう。

重大な試練に直面する米国の民主主義

ドナルド・トランプ前米大統領とその支持者は、2020年の大統領選挙で最初の投票が行われるずっと前から2年近くにわたり、選挙が民主党によって不正操作されるだろうと主張していたが、ジョー・バイデン氏に敗れると完全にタガが外れた。

今後、米国で民主主義が生き残るためには、2020年の大統領選挙の健全性が疑いなく確立され、それによって2021年1月6日の暴動を起こした群衆を積極的に扇動した者の責任が立証されることが必要不可欠だ。

つまり、あの運命の日の出来事に対して(また、トランプと支持者が流布させている、不正な選挙プロセスに負けたという物語に対して)下院特別委員会が現在行っている調査は、米国の民主主義にとっておそらくウォーターゲート事件以来最も重大な危機の中で、米国の未来にとって極めて重要だということだ。

国会議事堂への暴力的で極端な襲撃につながった出来事についての真実の解明は、決して人々を分裂させる問題ではなく、民主主義システムの健全性と存続を望む全ての議員が本能的かつ即座に要求すべきことであったはずである。

大半の共和党議員が調査に反対したという事実そのものが示唆しているのは、民主主義制度に対する米国史上最悪の攻撃とトランプ氏の行動との間の関係について隠し事があるか、あるいは、トランプ氏にかけられた魔法が解けるのを共和党とその議員たちが非常に恐れているか、そのどちらかだ。

しかし、先週の公聴会の初日に提示された内容は、米国民だけでなく、まだ米国を自由世界のリーダーとして見ている(あるいはリーダーとしての役割を取り戻して欲しいと思っている)人々も懸念すべきものだ。

トランプ氏に最も近い側近や補佐官からの証言に次ぐ証言が示したのは、トランプ氏の周辺の人々が二つの陣営に分かれているという事実だ。一つの陣営は、常識と健全性を持ち、選挙の夜に、その時点では結果は全く明確でないし、また何らかの傾向が現れているとすればそれはバイデン氏の勝利を示すものだという明白な理由で、早期に勝利宣言しないようトランプ氏に助言する勇気があった人々だ。

ルドルフ・ジュリアーニ氏が率いるもう一方の陣営は、バイデン氏に勝ったと宣言するようトランプ氏に促した。その主張が、良くて時期尚早、最悪の場合は意図的な虚偽であること、またそれが、バイデン氏を勝たせるために「大規模な不正」が行われたという捏造を強化することを知っていながらだ。

調査委員会の任務は、トランプ氏が何度も繰り返すこの全くの嘘と、それに異議を唱える人を標的とした絶え間ない扇動が、国会議事堂襲撃という冒涜行為の引き金となったかどうかを調べることだ。

西海岸と東海岸に住む進歩的でリベラル志向の国民が大切にしている価値観と、主に中央部に住む保守的な勢力が推進する価値観との間に、長年にわたって大きな断絶が生じている。

保守派は、社会経済的に置き去りにされていると感じており、自分たちの生活様式が脅威に晒されていると思っている。また同じくらい重要なのは、全ての権力の中枢を支配していると彼らが見ている経済的・知的エリートによって見下されていると感じていることだ。このことが、トランプ流ポピュリズムの大きな温床を作り出し、イデオロギー的実質を欠いたそれが、特に世界的に不透明な時代において、何百万人もの人々の不安と感情を操作することに成功している。

トランプ氏の側近らの証言を放送するという、議事堂襲撃事件調査委員会の決定は、賢明で必要な措置だった。

ヨシ・メケルバーグ

しかし、トランプ氏は依然として共和党内と支持者の間で大きな力を持っており、今年行われる中間選挙の候補者の選出に対して大きな影響力を持つのみならず、同氏自身が2024年の大統領選挙に出馬する意向である可能性が高いため、1月6日の暴動に関する今回の調査で同氏の真意が明らかにされなければならない。

トランプ氏の側近らによる証言を放送し、国民にそれを聞きその是非を自分で判断する機会を与えるという特別委員会の決定は、賢明で必要な措置だった。バイデン氏の当選の合法性を疑う虚偽の主張がどのようにしてなされることになったのかを国民は聞く必要がある。

不正選挙という神話を破壊すれば、米国史上の暗黒の章を終わらせることができるかもしれない。より重要なのは、常に目指してきた「丘の上の町」として尊敬されたいのであれば、米国は今回のようなことを全て過去のものとして、空想ではなく現実に基づいた言説に、真の実質を伴った文明的かつ建設的な国民的議論に立ち戻らなければならないということだ。

ホメシュの違法入植者たちは、イスラエルの法律を全面的に受け入れなければならない

17年前の夏、イスラエルは軍の撤退計画(ガザ地区等撤退)を実行に移した。多くの人は、ガザ地区からのユダヤ人入植地の撤去をこの撤退計画と結びつけて考える。しかし忘れられた事実のひとつとして、アリエル・シャロン首相率いる当時の政府は、ある種の試験観測のように、ヨルダン川西岸地区における4つの入植地の撤去も決定したことがあげられる。これは、シャロン氏が病気により政治生命を絶たれなければ、実現したかもしれないことの前触れであったはずだ。それは、ヨルダン川西岸地区を一方的に切り離してそこに住みついた何万人ものイスラエル人入植者、特に孤立した入植地やパレスチナ人の居住地に近接する入植地を立ち退かせるというものである。シャロン氏の死によってこの選択肢はなくなり、その結果は歴史が証明しているとおりだ。

ヨルダン川西岸地区北部のホメシュは、2005年にイスラエル国防軍(IDF)が立ち退かせた入植地の一つである。しかしそれ以来、超国家主義の宗教的ユダヤ人入植者たちが繰り返し再建と再定住を試みており、イスラエル政府はこの私有地に入り込む過激派に対して無力さと弱さを示してきた。

当時、たまたま私は、ほんの数カ月前には不可能と思われていたパレスチナ占領地からのユダヤ人入植地の撤去を世界に報告するためにガザに降り立った国際報道陣の一員として、ガザと、ヨルダン川西岸地区にある4つの入植地の撤去を目の当たりにした。IDFは、この作戦の一方的な性質の論理には大いに疑問が残るとしても、印象的な効率でこれを実行した。

私たちが真夜中に到着してから翌日イスラエル兵によってすべての入植者が撤去されるまでの間、ガザ地区からの撤退は死傷者が出ることもなく、大きな事件もなく進んだ。しかしホメシュからの撤退は最も印象的な出来事であった。それは、入植者たちが兵士や報道陣に対して使った卑劣で脅迫的な言葉である。この入植地に関する限り、まだ最後の言葉が語られていないという印象を強く抱いた。

入植者たちは、法律やそれを執行する人々に対して、まったく敬意を払っていなかった。彼らは、有刺鉄線で囲まれた屋根の上にバリケードを築いて、最後の抵抗に出る決意を固めていた。

彼らは、他の入植地からの援軍とともに、イスラエル政府や国内外の人々に、自分たちの避難が恒久的なものであることを受け入れるつもりはないことを知らせたがっていた。

イスラエル社会の一部には――もはや不可欠な存在ではないにせよ――イスラエル国家の権威を認めず、それが自分たちの目的に適い、違法な入植地建設活動を促進しない限り、受け入れることができないという人々がいるという印象を私は強く持って、その場を後にした。その代わりに、彼らの指針はラビや宗教的な書物から得ており、それらは、この土地に対する神聖な権利が彼らにあると信じ込ませている。

ある種の人々の中には、自分たち適用されるいかなる法律も認めない者がいるが、それにもかかわらず、彼らは明白な法的影響を受けることはない。

ヨシ・メケルバーグ

したがって、彼らに関する限り、国家が制定した法律は彼らには適用されない。メシアニックで超国家主義的な入植者たちのこの態度は、パレスチナ人に対する見方にも反映されている。パレスチナ人は何世紀にもわたってこの土地に住んでいるにもかかわらず、せいぜい許容すべき客人としか、彼らは認識していないのだ。そして、この自分たちの優位性を強調するために、彼らは常に隣人であるパレスチナ人に嫌がらせをし、彼らの家や土地においても、できる限り居心地が悪くなるように仕向けているのだ。

先月末、イスラエル政府の弁護士は高等法院に対し、ホメシュに再定住した人々は立ち退かなければならないと述べた。これは、その土地を所有する近隣のブルカ村のパレスチナ人が、1978年にホメシュが建設されて以来、そしてその後ユダヤ人住民が立ち退いた後も、その土地へのアクセスを拒否されていることを理由に提出した嘆願書を受けてのものであった。しかし、これらの弁護士がこの土地の最高裁判所に対して明言しなかったこと――そして、裁判官からもそうするよう促されなかったと考えられること――がある。それは、入植者の立ち退きのスケジュールであった。その代わり、裁判所は政府から、そのようなタイムラインを議論するために「毎週状況評価」を行うと伝えられた。

言い換えれば、再撤退は実現しないだろうという、正義と常識の双方を無視した結末である。ホメシュは違法な「アウトポスト(政府が承認していない入植地)」として、特に極端なケースである。国際法がすべての入植地を禁止しているだけでなく、すべてのイスラエル政府がアウトポストを(政治的圧力に屈して考えを変えるまでは)違法とみなしているのである。ホメシュの場合、彼らは、ユダヤ人はそこに住んではならないとする極めて特殊な離脱法にも違反している存在なのだ。この入植地は、1978年にパレスチナ人から土地を奪って生まれた罪深いものである。撤退の決定以来、入植者の中には、自分たち適用されるいかなる法律も認めない者がいるが、それにもかかわらず、彼らは明白な法的影響を受けることはない。

イスラエル人とパレスチナ人が聖地で平和に暮らすことを願う者にとって、入植地が平和と共存の大きな障害であることは間違いない。それは、これらのアウトポストや非合法コミュニティの居住者によって意図的に引き起こされる、パレスチナ人との日々の摩擦の大きな一因なのである。しかし、ホメシュのような場所における法律違反者は、さらなる危険性をはらんでいる。彼らは国家と法体系全体を損ない、すでにイスラエルの司法制度の弱体化を引き起こしている。

皮肉なことに、彼らは犯罪行為をしているにもかかわらず、違反のたびに訴追され、処罰されるのではなく、代わりに治安部隊の保護を享受しているのだ。同様に懸念されるのは、心ない議員たちがホメシュを訪れ、立ち退きに抵抗するよう住民を励ますことで、彼らを積極的に支援していることである。悪党と議員の間に、これほどの不穏な関係があるだろうか。もし前者が法の裁きから逃れることができるのであれば、後者はその特権的な地位に値しないし、間違いなく国民の信頼も得られない。

ホメシュのイスラエル人入植者を排除することは、法と秩序を回復する行為であり、土地を奪われたパレスチナ人のために遅ればせながら正義を確保することになる。それは、パレスチナとイスラエルの両社会にとって害となる入植者たちに対して、イスラエル政府がその権威を主張するための最初の、そして歓迎すべき一歩となり得るのである。

無責任なイスラエルとパレスチナの政治家たちが炎上を煽っている

イスラエルとハマスのガザ紛争が勃発して1年が経った。この戦争は、東エルサレムやイスラエル国内でのアラブ人とユダヤ人の激しい衝突に始まり、甚大な被害をもたらした。

そして今、このような事態の拡大を誰も望んでおらず、殺戮の連鎖を繰り返すことで利益を得る側はない。しかし、大規模な暴力行為が再び起こる寸前に居ながら、明らかに歯止めをかけようとしない両者を私たちは再び目の当たりにしている。

アル・ハラム・アル・シャリフでの緊張の高まりと衝突など、昨年春の事件との類似点はあるものの、パレスチナ人による主にイスラエル市民への攻撃の波には自然発生的な要素も強く、これまでに19人が死亡し、多くの人が負傷している。イスラエル治安部隊が、暴力の増加に応じてヨルダン川西岸での作戦を強化した結果、アルジャジーラの有名記者、シリーン・アブアクラ氏が今週射殺された悲劇を含め、少なくとも26人のパレスチナ人が死亡している。

攻撃の実行犯のほとんどは、よく知られたパレスチナ人組織には属していない。それは例えば、ハマスがイスラエル人の殺害を積極的に開始したというよりも、むしろ事後その行為を認め、無益にもそれを支持しているのである。この場合、同団体の指導者は、戦略的な目的もなく、イスラエルとの激しい対立に引きずり込まれる可能性があり、またその逆もありうる。

このようなイスラエルとパレスチナの現状、そして外交的・政治的な和平の地平が見えない中で、事態の進展は、ラマッラーとガザそれぞれにいるイスラエルやパレスチナの指導者たちによってではなく、事件によって左右されている。指導者たちは、必ずしも自分たちが始めたわけではない事件に反応しているが、彼らは依然として、両国民の間に平和というより、むしろ暴力を助長しているこの状況に責任を負うべき主体である。

その結果として、まとまりのない様々な原因が現在の一触即発の状況であり、彼らを当惑させ、奈落の底から引き戻す代わりに、新たな血が流れる可能性のある対立に導く大きな力に呑み込まれてしまっている。

イスラエルは、特定の集団が背後にいるわけではなく、無作為に発生したテロの波のようなものが今後も続くと想定している。治安部隊には、攻撃のあった直後にその犯人を殺すか、捕らえるか以外に解決策はない。攻撃を防ぐのに十分な情報がない場合は、ヨルダン川西岸とガザのパレスチナ人に対して、過剰な武力行使と集団全体に罰を与えることによって、ある程度の抑止力を取り戻し、さらに恐怖でもって彼らを抑え込もうとしている。

また、ここ数週間の暴力行為の増加は、聖なる月であるラマダンに関連しており、それが終わった今、事態は落ち着くだろうという、必ずしも証明されているわけではない希望もある。

根本的な原因は、何よりもまずパレスチナの占領と、パレスチナ人が置かれている政治的・経済的状況の悪化にある。

ヨシ・メケルバーグ

記念日や祝日は政治的暴力行為の一因かもしれないが、根本的な原因は何よりもまず、パレスチナの占領と、イスラエル国内にいるパレスチナ人を含む、パレスチナ人が置かれている政治的・経済的状況の悪化であり、悲劇的なことに、それが暴力に訴える動機にもなっている。何よりも、これは、受け入れがたい状況で生きることを強いられている、多くのパレスチナ人の絶望の度合いを示している。

双方の指導者が事態を沈静化させる必要があるにもかかわらず、無責任な政治家たちはかえってその炎を煽り、政治的な緊張を高めている。ハマスとその指導者ヤヒヤ・シンワール氏は、イスラエル人を無差別に殺害する人々を受け入れ、称賛し、ハマスをイスラエルに対する武装闘争の最前線に位置づけるために、これらの行為に対するある種の責任を取っている。

そうすることで、シンワール氏は、イスラエルとの国境沿いにある比較的平和な場所や、イスラエルがガザとの間の物資や人の移動、海へのアクセスに関する制限を一部緩和したことによる、不十分ではあるものの大きく改善したそれらの権利を危険にさらしているのである。

アル・ハラム・アル・シャリフの不安定な状況を利用し、「シオニストがモスクを破壊しようとしている日がいくつかあるため、アルアクサ・モスクを守るための戦いはラマダン月以降に始まる」と述べたことは、今の状況を煽るだけでなく、ガザに対処する唯一の方法は、経済的に締め上げることだと考えるイスラエルの人々の思う壺である。また、イスラエルがシンワール氏自身を直接標的にする可能性も指摘されており、それは当然、イスラエルとハマスの本格的な対立につながるだけである。

テロに対する、ある程度の抑止力を回復するための明確な目標地点がないため、イスラエル当局は闇雲に攻撃を続けている。彼らは武力行使だけでなく、集団的懲罰といった旧態依然とした手法に頼っており、それらは状況を悪化させ、パレスチナ人の不快感や怒りをさらに増幅させ、さらなる暴力を引き起こすに違いない。結局のところ、1967年以来、その占領の性質そのものが本質的に暴力的であり、暴力を生み続けるイスラエル人とパレスチナ人の関係の枠組みを作り上げてきたのである。

イスラエルの町や都市に入り込み、無差別に人々を殺すことは決して正当化されず、パレスチナ人の大義のためにもならない。それどころか、憎しみと恐怖を与え、この紛争における過激主義者の目標を支持する人々に力を与えるため、両国民の平和、共存、和解に反対する人々にのみ役立つものである。

しかし、現在進行中の占領の特質も、その過酷さゆえにまったく同じことを行っている。イスラエル国防軍がパレスチナ人の労働許可を取り消したり、ガザへの横断路を閉鎖したりする行為は、占領や封鎖の下で暮らす人々の貧困と多岐にわたる悲惨さを確実に悪化させる集団懲罰行為であり、それではテロ行為を防ぐことは一件もできないだろう。テロリストの家族の家を取り壊すことは、正義でもなければ抑止力でもない。それは、正当な法的手続きを経ずに行う無実の人々への罰であり、イスラエルに対する武装闘争に加わるための勧誘にしかならないだろう。

来月、ジョー・バイデン米大統領がイスラエルを訪問する予定だが、イスラエル政府関係者の同伴なしに、東エルサレムも訪問するのではないかと言われている。そう期待したい。世界的な混乱のさなかにあって、自由世界のリーダーが聖地を訪れる時間を見つけたなら、その旅を有意義なものにしなければならない。

何よりもまず、イスラエルとパレスチナの市民一人ひとりの安全と幸福、そして人権と政治的権利を保障する、公平かつ公正な和平の実現に向けた米国の取り組みとリーダーシップを示す必要がある。そうでなければ、終わりのない戦争と人命の損失への道はほぼ確実に用意されている。

「二国家解決」に至る道は1つではない

イスラエル人とパレスチナ人の間には、二国家解決に基づく和平合意は過去のものであるという、ある種のコンセンサスがある。

1995年にイスラエルのイツハク・ラビン首相がユダヤ人過激派に暗殺され、2000年代初頭の第二次インティファーダでは数千人の命が奪われた。オスロ合意後に両者の間に築かれたわずかな信頼を破壊したこれらの行為によって、その可能性は失われたとする見方が主流である。

この主張には多くの真実がある。しかし、1993年のオスロ合意の根底には、――明確には表現されてはいないものの――その最終目標は、両民族が明確な国境によって分けられたそれぞれの主権国家に住むという、双方の民族的願望を実現することであるという仮定もある。この目標は今になってみれば、分離による平和共存が大きく強調されたものである。

二国間解決の運命に対する絶望感の多くは、その実現に至るあらゆる道が模索され、この紛争は単に解決不可能であるとする、誤った情報に由来している。さらに、1世紀近い流血の歴史が、根強い不信感や憎しみさえを生みだした。そして両者は必然的に、しかし誤った方向に、平和とは和解や平和的共存よりも、分離にあると考えるようになったのである。イスラエル人とアラブ人が共有するこの聖地の領土はごくわずかであるにもかかわらず、である。

今まで、この地域に戦争や紛争が発生しないことを保証できるのは、2つの民族の完全な分離だけだと考えられてきた。それは、1937年に英国のピール委員会が提出した最初の分割案から、1947年の国連の分割計画、そしてその後の二国家という概念に基づいた合意をもたらすための外交的関与にまで至る。

確かに、分割や分離は、それがたとえ望まれないものだとしても、総人口が今よりはるかに少なく(1947年当時は現在の10分の1)、農業、貿易、軽工業が主な職業であったときには、より現実的なものであった。

その後、戦争によって両者の関係は変化し、互いの政治状況もまた劇的に変化した。グローバル経済によって新たな機会が生まれ、人口全体は増加し、その人口動態も大きく変わった。その結果、イスラエル人とパレスチナ人の関係はより複雑になり、この2つの民族は物理的に分離されていなければ共存できない、という考えは否定された。

そのため、近年、イスラエルとパレスチナの思想家たちの間では、完全な分離に基づくのではなく、両民族の価値観と現場の事実を反映した二国間解決のパラダイムを構築することに関心が高まっている。

イスラエル・パレスチナ連邦は、おそらく今最も有望な提案であり、広く検討され、議論されるに値する。

ヨシ・メケルバーグ

アメリカのマサチューセッツ州より小さな領土に、1300万人以上の人々が暮らしている。イスラエルでは、人口の5分の1がパレスチナのアラブ人で、60万人のユダヤ人がヨルダン川西岸地区に住んでいる。国際法に違反しているが、彼らの大半が境界(グリーンライン)を超えてイスラエル側に戻るという実現可能な見通しはない。したがって、二つの主権国家の実現と保証として、「独立して共に生きる」ためのより複雑な方式が必要となるのだ。

それゆえ、イスラエル・パレスチナ連邦(連合体)の構想は、疑惑と懐疑の念を抱きつつも、支持を集めているのである。

連邦制の推進者は、物理的な安全保障の壁や疑惑の壁の向こう側で生活をする必要なしに、両民族の民族的願望を実現する方法としての連邦制を想像している。このようなイスラエル・パレスチナ共存のビジョンは、最も重要で、同様に議論を呼ぶ相違点に対処しない限り、永続的な解決はあり得ないことは周知の事実である。

主権国家間には物理的な国境が依然として不可欠である。しかし同時に、市民の幸福を確保するためには、ゼロサムゲーム的なアプローチではなく、開かれた国境を維持し、安全性を損なうことなく関係者全員に利益をもたらすアプローチへと移行することが必要であるという認識が示されている。

連合体としての取り決めは、2つの国家が平和に暮らしながら、両国の国家と国民の幸福にとって重要なさまざまな問題について緊密な関係を築くための恒久的な状態の確保、あるいはその促進剤になるかもしれない。

エルサレムを物理的に分割することなく、イスラエルとパレスチナの首都とする包括的な枠組みを作ることで、双方はエルサレムで国家の望みを実現することができる。さらに、移動と雇用の面で住民に制約を与えることはなく、安全と繁栄を促進するシナリオとなるであろう。

同様に、ヨルダン川西岸地区からのユダヤ人入植者の立ち退きという難問も、連合体であれば合意された数のパレスチナ難民がイスラエルに居住することが可能になり、実質的に解決することができるだろう。

ヨルダン川西岸地区のユダヤ人入植者と、イスラエルに住むパレスチナ難民が、それぞれパレスチナとイスラエルに居住し、自国の市民権を持つことになったとしても、イスラエルのユダヤ人は人口バランスの変化に疑念を抱くかもしれない。一方、パレスチナ人は、入植者コミュニティの中の過激派がこのような合意を台無しにし、暴力的にパレスチナ国家を故意に弱体化させるのではないかと懸念しているであろう。

両国民の間に存在する深い不信感を考慮すれば、連合体による解決は、現実的な要素と同様、紛争の心理に対処し、多くの説得を必要とするだろう。しかしこれは、エルサレム、難民、国境、安全保障、入植地など、イスラエル・パレスチナ紛争の最も困難な局面を解決する上で、いかに創造的、合理的、有益な方法を挙げたとしても同様に、必要なことである。

とはいえ、現在の対立を考えれば、この選択肢を検討しないのは完全に不合理である。これは、この国に蔓延する敵意を終わらせるだけでなく、人と物の自由な移動による経済的利益を享受し、パレスチナ人が、一人当たりの国内総生産が5万ドルに達した国の隣に住むという利益を得られるようにするための可能性でもあるのだ。

イスラエル・パレスチナ連邦は、両民族の関係に影響を及ぼしているすべての病を解決する「銀の弾丸」ではないかもしれない。しかし、この紛争でよく使われる本物の弾丸よりは間違いなく、ましであろう。

その可能性を見いだせる者にとっての課題がある。それが一国解決への道でもなければ、少なくともどちらかが将来の連邦を放棄することにつながる、対立する二つの政権間の不安定な二国間解決でもないことを、多くの人々に納得させることである。

この提案は、細かい点への配慮と、相互不信を克服する困難な作業が必要だろう。ただ、おそらく現時点ではテーブル上にある最も有望な選択肢であり、広く検討され、議論されるに値するものであろう。

イスラエルとイランの秘密の戦争、「荒唐無稽な否認」の段階に入る

20 Mar 2022 05:03:27 GMT9
20 Mar 2022 05:03:27 GMT9

当然のことながら、世界の目はウクライナでの戦争に向けられているが、同時にイスラエルとイランの対立も激化している。

先週、イランのイスラム革命防衛隊が、イラクのクルド人自治区の都市エルビルにある、彼らがイスラエルの「戦略拠点」であると主張するものを狙ってミサイル攻撃を行ったことがさらなる証拠であり、このことは悲惨な結果をもたらす可能性がある。

その理由は、攻撃そのものだけでなく、イランが公然と攻撃の責任を認めたという事実だ。これは、少なくとも一部のイランの意思決定者の間での心の変化を意味するかもしれない。彼らは、テヘランは関与していないという一見もっともらしい否認ができる攻撃に限定しておくのではなく、イスラエルと直接対決する準備ができている状態にある。

エルビルの標的を攻撃したイランのミサイル連射の後に、イランが支援するヒズボラとつながっているレバノンのテレビニュースチャンネル「アル・マヤディーン」は、イランの行動は、当初関係があると考えられていた、イスラエルが行ったと考えられている前の週のシリアでのイスラム革命防衛隊のメンバー2人の殺害とは関係がなく、代わりに、これもイスラエルによるものだとされている、イラン西部ケルマンシャー近くのドローン部隊に重大な損害を与えた2月のドローン攻撃への報復であると発表した。

いくつかの報道によると、この攻撃で数百機のドローンが破壊されたと考えられている。これはおそらく、イランの軍事能力と同じくらいイランの誇りを傷つけ、注目を集めたイランの主要な核科学者数人の暗殺、シリアでのイスラエルの絶え間ない空爆、執拗なサイバー攻撃、そして核開発に関する文書が盗まれ、イスラエルの手に渡るという経験をした後のイランの不安感と傷つきやすさに拍車をかけたのだろう。

これまでのところ、両国間の対立では、罵詈雑言が飛び交う外交上の小競り合いと、奇妙な例外を除いて「一見もっともらしい否認」の範囲に留まる実際の攻撃を、かなり明確に切り離されてきた。

しかし、イランが、イラクのクルド人自治区にあるイスラエルの治安・諜報本部であると主張するものを攻撃し、直ちにその責任を認めることは、これまでのしきたりから逸脱している。これは 、これからの敵対行為 がより頻繁になり、勝ち誇った声明を伴うことを示唆するものであり、対立のさらなる激化を招くだけであろう。

軍事作戦が、それ自体誤算のないわけではない安全保障上の懸念に左右されるだけでなく、さらに悪いことには、他の国内の政治的配慮に影響され、あるいはそれを上回り、傷ついたプライドにまみれたプロパガンダ戦争に取って代わってしまうという真の危険がある。

エルビルでの出来事は、地域内外で利害が衝突するこれら2つの主要な敵対国間の戦争に別の階層を加える。イランの核開発を阻止することは、イスラエルだけの最優先事項ではなく、地域全体やその他の国々によってコンセンサスが得られている目標である。イランの好戦的な現政権が核軍事力の開発を進めれば、すでに進めている地域の不安定化政策をさらに推し進めるために、同政権がこの力を利用するだろうというのが一般的な見方である。

イスラエルとイランの全面的な戦いにおいて、クルディスタンは地理的にも政治的にもかけがえのない味方だ。

ヨッシ・メケルベルク

この数週間、私たちは、ロシアのおかげで、ある政府が完全に自分勝手に行動し、戦争法や国際人道法などの確立された国際的な行動基準を無視し、在来型兵器を使用して他国を侵略し、同時に、民間人を無慈悲に標的にして殺害するなどの、ロシアによる極めて残虐な行為で主権が侵害されている国を助けるための介入を抑止するために保有する核兵器を使用すると脅すことの影響について厳しい教訓を学んだ。

核武装したイランが同じ戦略をとらないと誰が保証できるだろうか。主に抑止力や最後の手段としての武器が、在来型兵器による大規模な残虐行為を可能にすることが証明された。従って、イランがそのような能力を獲得するのを阻止しようとする努力には、非常に強力な正当性がある。

イスラエルのイラク・クルド人自治区への進出は、イラン封じ込めのための全体戦略の一環である。各種報道によれば、イスラエルとイラクのクルド人自治区の結びつきは今に始まったことではなく、サダム・フセイン以後の時代には、政治・軍事・経済面での強い結びつきがさらに強化されてきたという。

2003年の戦争直後からイスラエルは情報収集に積極的に関与する一方、クルド人部隊の訓練やイラクのクルド人の独立要求を支援していたことが報じられている。両国の間には、共通の戦略的協力と民族自決権のために長い間闘ってきた2つの国の気持ちが純粋に一致していることが混在し、さらに、小さな少数民族であるが故の強い親近感も存在しているのだ。

昨年、エルビルで開かれた会議には、300人以上のイラク人と多くのイスラエル人が出席し、イラクとイスラエルの国交正常化を要求した。イスラエルとイランの全面的な戦いにおいて、クルディスタンは地理的にも政治的にもかけがえのない味方だ。

イスラエルと同国の湾岸協力会議の同盟国が心配すべきは、先月のケルマンシャーへの攻撃の主な要因となった、イランの増加の一途をたどるドローン使用だ。イランは、サウジアラムコの石油施設に対する攻撃のように、ほとんどの場合、代理人を使って攻撃を行うことを好み、イエメンのフーシ派やイラクとシリアのシーア派民兵にドローンを供給している。

ある仮説は、イランがドローンの機能を開発するのは、イスラエル空軍がイランやヒズボラの標的に対してほぼ自由に行動しているシリア上空で長年証明されているように、イスラエルとの対決において空中での劣勢を補うためであると説明する。

イスラエルとイランは、すでに不安定な関係の中で最も不安定な局面を迎えている。同時に、2015年のイランとの核協定の復活に向けたウィーンでの交渉が重要な局面を迎えているが、ロシアに課せられた経済制裁の結果、交渉はより複雑になってきている。

イランと新たな合意に達するかどうかにかかわらず、イスラエルとイランの敵対関係はこの地域の主要な特徴の一つであり続け、協定に署名しようとしまいと、イランはなんとしても核軍事能力を開発しようとしているとイスラエルは断固として主張しつづけるだろう。

さらに、イランがシリアや代理人を通じてレバノンに持つ影響力やガザでのハマスへの支援は、現在進行中のドローン戦争、サイバー攻撃、その他の秘密作戦が継続し、ケルマンシャーとエルビルでの事件によって証明されたように、おそらく激化することを意味する。

ネタニヤフ氏の政治生命は刻一刻と過ぎ去ろうとしている

イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ前首相の政治生命は今頃はもう歴史に封印されているはずだった。しかし必死に、痛ましいほどに、それでいてどこか気持ちを込めていない様子で、ネタニヤフ氏は12年以上続けていた職に復帰するという淡い希望に依然としてすがりついている。

先週可決した2年度分の予算案が、その僅かな希望へのさらなる打撃となり、有望な役職に復帰できる見込みさえも遠い彼方の可能性でしかなくなった。ただし、だからと言って、ネタニヤフ氏が悲鳴を上げながら政界から追い出されて、もはやイスラエルの民主制や社会にダメージを与えられなくなったということにはならない。

クネセト(イスラエル国会)で国家予算案が可決されたのは2018年以降ではこれが初めてのことだ。3日間のマラソンと780票という驚異的な投票総数を経てのことだった。イスラエルの政治は複雑で、予算審議は通常、野党が質問をするチャンスとなっている。問われるのは政府の思想的な方向性だけではなく、持久力や耐久力も問われることとなる。ナフタリ・ベネット首相が率いる現在の政権は8つの政党が連立を組むという異例の形になっており、61〜59議席というごく僅かの過半数しか確保しておらず、思想的な共通性や統一性はほとんど、あるいは全くない。

従って政権の存在は小さな、あるいは小さいとさえ言えない奇跡に他ならないと考えなければならない。それには理由がある。言うなればネタニヤフ氏こそが理由である。現在の政権が発足した日、ネタニヤフ氏は復帰を約束した。何が政権をまとめる力になっているかと言えば、野党を率いる前首相が何らかの形でその約束を果たしてしまうのではないかという深い懸念である。その約束によって、ネタニヤフ氏は現在の政権をまとめる接着剤になっているのだ。

ネタニヤフ氏にとっても他の多くの人々にとっても意外なことに、現在の政権は予想以上にうまく機能しており、イスラエルの政治舞台の至るところに散りばめられている地雷を避ける方法を見出している。ネタニヤフ氏が周辺にいる限り、この連立政権のメンバーは自分たち同士の違いを乗り越えようという意欲を持つことができる。意見の不一致を解決しないまま取り繕う必要性を常に抱えているのではあるが。イスラエルでは予算審議が政府に対する信任投票の性質を持っており、連立内の全派閥を満足させるには政治的駆け引きの名人芸が求められる。それが先週可決したということは政権の弾力性を示すものであり、少なくとも今のところは、イスラエルが真にポスト・ネタニヤフ時代に入ったことの兆候である。

ネタニヤフ氏は政治キャリアの黄昏時にいる。同時に、汚職裁判で有罪判決を受けて投獄される可能性から逃れようと足掻いている。

ヨシ・メケルバーグ

その日の終わり、ネタニヤフ氏は予算の件にはほとんど興味を持っていなかった。予算は良い統治には不可欠の道具なのだが、氏は政権を不安定にすることの方に関心を寄せていた。ネタニヤフ氏の世界では何もかも自分を中心に回っており、現在の連立政権はベネット氏がネタニヤフ氏の支持者を騙して結成されたことになっている。詐欺、収賄、背任という3件の裁判の被告となっている本人によれば、支持者らは現在の首相であるベネット氏がネタニヤフ氏と共に連立を組むだろうと信じてベネット氏に投票したのだと言う。

現実はこうである。ネタニヤフ氏は予算案の可決を避けることで長年に渡って自分の地位を乱用していたのだ。それにより支配力を得て、連立パートナーが自分に依存するよう仕向けていたのである。ネタニヤフ氏は自分の権勢を長引かせるために政治システムを操作することにかけては膨大な経験があり、権力から、特に予算の担当から外されれば自分の立場が弱まることを、おそらく誰よりも理解していることだろう。そしてイスラエルの運転席から遠ざけられている期間が長引けば長引くほど、こうした情勢が正常化していくということを。

ネタニヤフ氏は政治キャリアの黄昏時にいる。同時に、汚職裁判で有罪判決を受けて投獄される可能性から逃れようと足掻いている。ネタニヤフ氏のわざとらしい言動は哀れなものとなっているが、イスラエルの脆弱で不安定な土台そのものを弱体化させようとし続けてきた人物に同情するのは難しい。ネタニヤフ氏は引き続き首相と呼ばれることを求めているが、米国とは違って、イスラエルでは前首相やその他の高官経験者は辞任すれば肩書きを失うことになっている。ネタニヤフ氏は民主的に選ばれてクネセトの支持を得ている政府を悪質に煽動し、その正統性に異議を唱え続けている。これは、その後暗殺されたイツハク・ラビン首相を攻撃した手法と類似している。イツハク・ラビン氏の唯一の「罪」はパレスチナとの和平の道に乗り出したことである。

それだけではない。ネタニヤフ氏の活動に関する警察の捜査は5年間に渡る緻密なものであり、起訴に至る前に検察庁によって丹念に検証されたにもかかわらず、ネタニヤフ氏とその政治グループはイスラエルの法執行機関をしつこく追い回している。彼の政治グループの者たちはネタニヤフ氏がいなければ自分たちの政治的未来がないことを分かっているからだ。彼らは法律制度を脅し、司法を確実に遂行するという役割から遠ざけ、出来ればネタニヤフ氏の裁判も一緒に放棄させようとしているのである。

イスラエル政界の不思議な方法で、ネタニヤフ氏は連立政権の最高の財産となっている。ネタニヤフ氏がリクードの党首を長く続けるほど、首相の役割をナフタリ・ベネット氏からヤイール・ラピード氏へ任期の途中で交代しつつ、政府が任期を満了できる可能性が高くなる。前回の選挙後、政治思想やリクードの将来的な政権復帰に関して純粋な想いを持って退陣したのであれば、ネタニヤフ氏は直ちに政界を去り、別の人物に指導者の座を譲っていた筈である。しかしそれはネタニヤフ氏の性格には合わない。ネタニヤフ氏は自分以外の誰も自分の能力に見合う者はおらず、後任に相応しくないと考えているのだ。しかし、既に党内に対抗馬が1人いる。前クネセト議長ユーリ・エーデルシュタイン氏である。エーデルシュタイン氏がリクードにおけるネタニヤフ氏の指導力に異議を唱えているのだ。党内に次のような懸念がある。自分たちのリーダーに異議を唱えるのを遅らせれば遅らせるほど、リクードはもはや国家を運営できないという事が常識になっていくのではないか、その結果、野党の立場に長く閉じ込められることになるのではないか。こうした懸念が、組織の内部でネタニヤフ氏の反対派を促進することになるだろう。

予算案の可決が、こうした軌道の第一歩となった。これがネタニヤフ氏の凋落となる可能性がある。ネタニヤフ氏が自分自身の中に品位と高潔さの痕跡を見出すことがなければ(おそらく見出すことはないだろうが)、氏を辞めさせたがっている人々が彼を追い出すだろう。もしくはネタニヤフ氏は徐々に影の薄い存在になっていくことだろう。しかもリクードの多くの党員が、裁判で有罪になる前にネタニヤフ氏に辞めてもらいたがっている。党の評判にこれ以上傷をつけたくないのである。ネタニヤフ氏がこれを認めているか否かにかかわらず、氏が政界から立ち去る時を告げる時計の針の音は、ますます大きく早くなっている。

9.11米国同時多発テロから得た教訓・・・そして得られなかった教訓
12 Sep 2021 11:09:42 GMT9

冷戦後の米国政治や国際情勢において、9.11米国同時多発テロほど注目すべき分岐点はない。純粋にその非道さからも、その後を決定づける瞬間であった。また、現代のメディアも相まって、外国の組織によって米国内で引き起こされた最も致命的なテロ攻撃の日を、何度も何度も追体験することができたという点からもそうであった。

3機の航空機がニューヨークとワシントンの政治経済の中心地に墜落し、4機目がペンシルバニア州の田舎に墜落するという恐怖は、この悲劇の様子をテレビ放送で見ていた人々にとって、極度の脆弱さと恐怖を感じさせるものであり、怒りと多くの人にとっては復讐心が入り混じったものとなった。アルカイダのメンバーである19人の自爆テロリストは、米国と米国民を盲目的に憎み、2,977人の米国民の命を奪っただけでなく、全米の国民の精神をも変えてしまった。

同時多発テロから20年を迎える今年は、米国がアフガニスタンから早急撤退した日を記念する日に向けた始まりでもある。この2つの出来事は、今後永久にリンクし続けることになる。9月11日が米国社会にもたらした衝撃がどれほど辛いものであったかは、いくら強調してもしすぎることはない。そして、ユナイテッド航空93便の乗客の勇気ある行動が、4機目の航空機がホワイトハウスや連邦議会議事堂に墜落するのを確実に防いだ、という感情的な衝撃がこれに加わった。しかし、このような理解可能な様々な感情が、同時多発テロ後の意思決定プロセスを支配すべきでなかったのだ。ブッシュ大統領の下で、米国の指導者らは一連のパンドラの箱を開けることでこのテロ攻撃に対処した。同種のさらなるテロを回避できたものの、その対処の結果として、米国の性質そのものが変化し、民主主義の基盤が損なわれ、世界との関係や、脅威となる非国家主体に対処する米国独自のアプローチも変化した。

多くの国がそうであるように、米国も他国からの脅威に対処するために、意識的にも軍事的にも備えている。アルカイダのようなテロ組織に所属し、航空機を墜落させることだけを目的として、自分の命を惜しまずに航空機の操縦を学ぶハイジャック犯らは、西洋諸国の考え方では乗り越えられない挑戦であった。不幸にも、非常に見当違いの『テロとの戦い』という言葉が使われるようになったことにより、特定の非常に確立された国家のような標的という誤った印象を与えてしまった。しかし、当時必要とされたのは通常の戦争ではなく、限られた能力しか持たない非国家主体に対する対反乱作戦であった。その敵は、その歪んだイデオロギーと悪意のある意図によって被害をもたらすことが可能であったとしても、軍事的にも心理戦及びイデオロギー戦の観点からも、より複雑で選択的なアプローチを必要とする敵であったのだ。

不幸にも、非常に見当違いの『テロとの戦い』という言葉が使われるようになったことにより、特定された国家的な標的という誤った印象を与えてしまった。しかし、当時必要とされたのは通常の戦争ではなく、限られた能力しか持たない非国家主体に対する対反乱作戦であった。
 
ヨシ・メケルバーグ

テロ行為に走る過激派グループは、その人数も能力も限られている。しかし、彼らのその熱意と無差別な手法、そして社会の相当数の層からの共感と支持を得ることにより、彼らは脅威と化しているのだ。ほとんどの場合、このような過激派グループは実存的な脅威をもたらさない。彼らが引き起こすことができる過剰な反応が、彼らを実際よりも大きな存在であるかのように見せている。アフガニスタンなどにおけるアルカイダの存在を根絶したいという人々の願いは、合理的な反応であった。しかし、民主主義を広めるという大義を掲げて行われた米国によるアフガニスタンへの全面的な侵攻は、20年に及ぶ国家建設の失敗に終わった。米国だけでも毎日何千人もの命が犠牲となり、何億ドルもの予算が費やされ、屈辱的の内に終わり、国際的な信頼性を完全に失った。そして同時に、米国によるアフガニスタン侵攻は、それまでいかなるテロリスト集団が引き起こしたものよりも大きな損失を米国に与えた。

2003年に米国がイラクに侵攻してサダム・フセインを追放したのも、『テロとの戦い』がその理由の一つだった。その主張は、イラクの核開発を阻止するために軍隊を派遣したという言い訳と同じくらい欠陥があり、根拠のないものだった。しかし、これらの正当化の理由は、当時のワシントンに漂っていた雰囲気を反映したものだった。そしてその結果、米国を北大西洋条約機構(NATO)条約の第5条を発動させることとなった。同条は冷戦時代にソ連の軍事力を抑止することを目的としたものであり、非正規軍に対処するためのものではない。

アルカイダやその関連組織との戦いは、外国の軍隊との戦いというよりも、心の問題であり、資源の大半はそこに向けられるべきだったのだ。9.11の同時多発テロ以降の戦争では、8兆ドル以上の予算が費やされ、何十万人もの人々が犠牲になったと言われている。しかし、過激なイスラム主義組織の基盤となっている西洋諸国に対する恨みは消えておらず、ダーイシュはその最も悲惨な恨みが顕著に現れた一つに過ぎない。また、グアンタナモ収容所などで行われている強制連行、適正手続きの欠如、収容者の非人道的な扱い、そして拷問や、超法規的殺人、占領などは、世界のイスラム教徒の欧米諸国に対する怒りをさらに高めた。

その過程で、愛国者法の場合と同様に、米国自身の民主主義的な価値観が損なわれ、人種差別的なイスラム恐怖症というパンドラの箱が明けられたのだ。20年前の同時多発テロ事件以来、米国には反イスラム的な感情が蔓延している。地域社会を分裂させることを目的とした政治家によって、その感情が扇動され、皮肉にも利用されてる。これは米国とヨーロッパの社会情勢および政治情勢を形成する一部の要素であり、重要な要素でもある。対テロリズムと対反乱プログラムは、重要な役割を担っている。しかし、それらは、それら対抗する人々を内部から強化することで補完してこそ、効果を発揮することができる。そしてその人々とは、過激派への恐怖と、穏健なイスラム諸国やイスラム教の運動との真の対話を構築するのではなく、自分たちの意志や生き方を押し付けようとする米国への不信感との間に挟まれている大多数のイスラム教徒である。

もし、9.11以降の戦争に費やされた資源のほんの一部が、これらの国々のコミュニティとの橋渡しや、国連の「ミレニアム開発目標」とその後継である「持続可能な開発目標」の達成に向けて使われていたとしたら、どれだけの爆弾やミサイルを使っても達成できないほど、米国の安全保障に貢献していたことになっていただろう。

アフガニスタンからの米軍撤退が議論を呼んだように、これは9.11の同時多発テロの残虐行為に対する米国主導の対応を再評価する機会でもあるかもしれない。米国の歴史や、米国内における寛容さ、国外における米国の関与とリーダーシップから鑑みると、米国の輝かしい時代とは到底言えない。しかし、軍事的な同盟関係だけでなく、国内外のイスラム教徒とのパートナーシップや対話を構築するには良い時期なのかもしれない。

イランとイスラエルがじりじりと深淵に近づいていく

18 Apr 2021 02:04:41 GMT9

ヨッシ・メケルバーグ

イスラエルとイランが裏舞台では戦争状態にあるということはもはや周知の事実であり、両国の間では常に喧嘩腰の言葉のやり取りが交わされている。実際その対立抗争はこの数ヶ月でエスカレートしている。彼らの敵対関係は闇の中から明るみへと姿を現し、一見 もっともらしく否認をするそぶりも余裕ももはやかなぐり捨て、ジリジリと際限のない対立激化への道を辿りつつある。互いの間の溝は深まるばかりであり、ますます直接的な衝突へと向かいつつある。

イスラエルとイランの間に起きている最近の好戦的行動からすると、さらに多くのより危険なエスカレーションは避けがたい様相を呈している。この二国の現在の関係を極めて危険な状態にしているものは、性質こそ異なるが、イランとイスラエルの政治制度が共に脆弱で、慢性的な内紛にあえいでいるという現実だ。そのことによって彼らは挑戦的な外交政策を志向する傾向にあり、結果的に誤算を招くリスクがより大きくなっている。 

先週の謎に満ちた爆発事件は停電を引き起こしてナタンズのウラン濃縮施設に損害を与えた。イスラエルの官僚たちの反応を耳にすると、その真相がなんとなく見えてくるのだが、一方イランのジャヴァド・ザリフ外相をはじめとする官僚たちは、この事件を「核テロリズム」だとした。この一件は、公海におけるイスラエルとイランの船舶に対する継続的な攻撃合戦、主要施設へのサイバー攻撃、イラン最高峰の核科学者と見なされていたモフセン・ファクリザデ氏の殺害でピークに達したイラン科学者の暗殺に続くものとなった。状況を変えつつあるのは、「言葉の戦争」から「戦争の言葉」への急激かつ公然たるエスカレーションで、双方とも自らの挑戦的行動に対する責任をとる準備はあると平然と言ってのける。

20年以上の間、イスラエルはイランが核軍事力を拡大することを阻止するための果てしない外交的・軍事的キャンペーンを続けてきたが、その一方で軍事作戦となると曖昧な姿勢を示していた。そのアプローチが次第に薄れていき、この変化が戦略的理由によるものなのか、むしろベンジャミン・ネタニヤフ首相が現在直面している国内政治および法的窮状や、米国政府が包括的共同作業計画(JCPOA)核合意に復帰する意向を示していることと関係があるのか、様々な思惑が取りざたされている。

イランとイスラエルのライバル関係は、1979年以降中東政治における永久不変の特色となっている。核能力の獲得はイランの呈する驚異の一面に過ぎず、シリアでバッシャール・アサド殺人政権に加担する強力かつ明白なイランの存在は、目と鼻の先にあるゴラン高原のイスラエル占領地区にとって気が気ではない。また、イスラム教シーア派と同盟関係にあるイスラエルの宿敵ヒズボラが、非常に高性能のロケットやミサイルなどの兵器で武装しており、さらにパレスチナの過激派グループへも支援している。これらによってイスラエル国内では、イランがイスラエルの死活に関わる脅威を呈していること、あるいは少なくともイスラエルが直面する最も深刻な戦略的課題であるということが、非常に広範にわたるコンセンサスとなっている。しかしこうした状況には外交ツールを複数組み合わせた慎重な対応が要求される。現在イスラエルは、イランが先週の攻撃のみならずイランへもたらした公然の屈辱から報復行動に出てくるように仕向けているのだ。

ネタニヤフ首相の不正問題は、長い間彼の政治的判断を曇らせている。そして彼は最も激しく声高なJCPO反対論者でもある。また、似た者同士だった前米国大統領の4年任期が幕を閉じた後、新バイデン政権のイラン核合意復帰への前向きな姿勢を見て、この動きを覆すため、これまで以上に攻撃的な方策をとるようになった。JCPOAをめぐる米国とイランの間の間接交渉がウィーンで再開されたのと時期を同じくして、ナタンズ施設への攻撃が起きたことは、とても偶然とは思えない。さらに、その爆発はロイド・オースティン米国防長官のイスラエル訪問中に起きている。はそのワシントンは攻撃への一切の関与を否定しているが、そうした上位高官の訪問中にこの事件が起きたことには、米国が絡んでいることを匂わせるものがあり、イスラエルと米国の緊密な同盟関係において、イスラエルは必ずしも自国より強大な同盟者の言うことに追随するわけではないというメッセージを発信したことになる。

 

状況を変えつつあるのは、「言葉の戦争」から「戦争の言葉」への急激かつ公然たるエスカレーションだ。

ヨッシ・メケルバーグ

2015年の核合意は当初から完璧にはほど遠いものであったことは概ね同意されている。しかし、全関係者にその規約を確実に準拠させるような改善が施されるなら、国際関係が急速に悪化するよりは望ましいと言える。「イランがウランをこれまでで最高の60%に濃縮開始、またもやJCPOA違反」という発表があったが、先週の爆発事件に対抗するイランのこの挑戦的な反応は、彼らがそう簡単には屈しないということを知らしめようとしているものだ。大統領選挙までわずか2ヶ月というプレッシャーから柔軟性を示すといった可能性は、さらに考えにくい。

これは、イランに脆弱さがないという意味ではなく、国際コミュニティは別の方策に出る前に、交渉の場で彼らの虚勢を試す必要があるということを意味する。イランの外交政策には根深い被害者意識、被害妄想、好戦的気質が織り交ざっている。しかし、結局考えられるのは、外交努力の成果が上がらないのではなく、イラン政府がアメとムチの組み合わせを提示された時に論理的に考えることができないのだ。

イスラエルの政治を襲った異例の状況の中で、ネタニヤフ首相は法相の指名を阻止しており、アヴィチャイ・マンデルブリット司法長官によると、極めて緊急な議題についてでなければ、またリクード党と「青と白」連合の二大党派から同数の閣僚によって構成されない限り、特別安全保障内閣を召集する可能性はないという。このことによって極めて危うい状況が生まれることになる。つまり、主な敵国と敵対した場合に、機能する安保内閣が存在せず、ベニー・ガンツ国防相とガビ・アシュケナージ外相というイスラエル国防軍の元指導者たち両方が、意思決定プロセスから外れることになるのだ。

一方、不正裁判の窮地にどっぷり浸かっている首相は、最大の国家利害に関わる問題を緊急事態にしてしまうことに自分個人の利害が絡んでいるため、自分がトップに立つもう一つの連立政権の結成を強引に行うことで、首相が事実上その問題に関する唯一の意思決定機関となる。すべての関連有力団体たちは細分化され、クネセトの監督も無い。

イランが核軍事力を拡大させないようにすべきなのは言うまでもない。イランの核武装は中東を一層不安定化させ、中東の他の地域における破壊行動や国際交渉経路の妨害を増大させることになる。しかし、イランを思いとどまらせることと、イランに恥をかかせることは全く別物だ。後者は、イランを崖っぷちへ追い詰めるというリスクがあり、イランの指導者たちのさらに過激で敵対的要素にますますパワーを与えることになってしまう。

ヨッシ・メケルバーグは国際関係の教授で、チャタム・ハウスのMENA プログラムの研究員。彼は国際的な
出版・電子メディアに定期的に寄稿している。




(私論.私見)