【マルクス主義の眼目における国際主義の陥穽考】

【マルクス主義の眼目における国際主義の陥穽考】
 「共産党宣言」の末尾は「万国のプロレタリア団結せよ!」という呼び掛けで締め括られている。この「万国のプロレタリア団結せよ!」をどう読み取るべきか、案外と混乱している面がある。

 れんだいこ理解に拠ればこうなる。プロレタリアは「本質的に排外主義、差別主義に基づくような民族意識、国家意識を持たない。むしろ世界人民大衆との共生を志向する」。このことが、「プロレタリアは民族愛、祖国愛を持たない。持つのは国際主義のみである」と云う風にオーバー・ランして吹聴されたのが曲解の始まりであった。

 第三インターナショナルそれに続くコミンテルンの国際主義思想は、この点において錯綜している。レーニン主義の場合、非常に注意深く民族自治権問題が取り扱われていたことによりまだしもバランスが取れていたが、トロツキズムとスターリニズムになるとその理論は互いに両極化してはいるが極めて粗雑且つ奇形的な理解となる。トロツキー派は左派的に祖国を持たない国際主義化傾向を帯び、世界同時革命の夢を追う。これとは対極的にスターリン派は右派的に祖国愛路線を敷く。但し、本質的にロシア大国主義であるにも拘わらず国際主義的言辞を弄び、世界各国のマルクス主義運動を一元的に支配せんとした経緯がある。

 今日、ソ連建国革命以来百年の史的経験を踏まえて確認すべきは次のことではなかろうか。「万国のプロレタリア団結せよ!」は、世界各国の民族の尊厳、祖国愛を否定するものではない。むしろ、それらは当然の如く踏まえられるべきである。マルクス主義的プロレタリア運動は、ブルジョア民族主義、国家主義の排外主義性、差別主義性とは違って、「万国のプロレタリア団結せよ!」方向に向かう民族主義、祖国愛運動として開化するべきである。いわば相互に各民族各国家が主体的に自力更生的に共生し合うべきである。「自由・自主・自律」的諸関係の基盤の上に共存し、且つ国際主義に向かうべきである。蛇足ながら、ブルジョア政府の帝国主義的利権戦争には「自国政府の打倒それに引き続くプロレタリア政権の樹立」運動で対置して行くべきであろう。

 この理解で何ら問題無いところを、コミンテルン以降のマルクス主義運動は、レーニズムの場合はやや不分明の気もするがトロツキズムにせよスターリニズムにせよ民族意識、国家意識を持つことを排撃し、このことによって空理空論的な国際主義に道を開いてしまった。史上に現われた世界同時革命論、一国主義革命論はいずれにせよ、「マルクス主義運動における国際主義と民族主義、祖国愛主義との諸関係」の理論的切開をせぬままに吹聴され続けており、いわば理論の貧困のままに運動を担っていった、ということになる。

 当時にあっては国際事情の難解さから許されたとしても、「マルクス主義運動における国際主義と民族主義、祖国愛主義との諸関係」の理論的切開は、十年というスパン単位で検証されねばならなかった筈である。残念ながらこの理論的解明をせぬままに今日まで至って居る。こうした宿アを持つロシア型マルクス主義運動は、本来理論主義に根ざすマルクス主義の本質からすれば「負の歴史」でしかない。

 こういう理論的堕落経過を踏まえて、漫画的なあるいはのっぺらぼうな国際主義運動が破産し、その一部がシオニズムと結合した様を見て取るべきでは無かろうか。それは腐敗であってそれ以外の何ものでもないが、ネオコンを解析する場合、この観点からの考察が必要ではないかと思われる。(以下、略)
 




(私論.私見)