「ヴァンゼー会議メモよ、お前もか」

 (最新見直し2005.12.26日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「ホロコースト研究」に乗り出して以来、「ホロコーストの嘘」を確認する作業に忙しくなってしまった。他意無く始めた作業だったので、アンネの日記のウソゲッペルス日記のウソ」映画シンドラーのリストのウソ」と続くと、「ホロコースト神話」と位置づけた方がよさそうになる。ここで問う「『ヴァンゼー会議メモ』お前もか」もこれを裏付けることになるだろう。

 一体、日本のホロコースト研究家は、日本神話に対しては神話故に拒否するのに、「ホロコースト神話」となると何故これを後生大事にしようとするのだろう。解せないことではある。思うに、史学には、ネィティブ系とシオニズム系のものがあり、シオニズム系の観点に立って論述すれば認められ博士号など取得し易いのだろう。故に、そういう学者は、今になって「ホロコースト神話」を否定するとなると、己の学問的立身過程が否定されることになり、そういう意味からヒステリックな反応をするようになるのではなかろうか。

 しかし、それを防ぐ手立ては無かろう。研究者としての第一歩の立脚点をそのように御用化させたことにある訳だから、苦しい自己否定作業を経由せずんば救済されないだろう。現実はそのように向う者は皆無で、何とかして自己弁護に励み居直る者ばかりだから、首尾一貫してはいる。しかしこうなると、学問というものが如何に政治性を帯びているのかということに気づかされることになる。「学問」の学問性が端から否定されていることに卒倒させられるのはれんだいこだけだろうか。

 2005.3.22日 れんだいこ拝


【「ヴァンゼー会議及びハイドリヒ・メモ」考】
 「ユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)問題」を論ずる際に、それを指示したとされる「ヴァンゼー会議及びハイドリヒ・メモ問題」がある。これを吟味する。

 「ヴァンゼー会議」とは、1942.1.20日、ナチス親衛隊高官で保安警察長官(親衛隊保安本部長)であったラインハルト・ハイドリヒ(彼は同年5月にプラハで暗殺される)が、ベルリンの南西部にあるヴァンゼー街のある屋敷にナチスの高官たちを集合させ、ユダヤ人の組織的虐殺を謀議した会議のことを云う。この会議が実在したのか、はたまたデッチアゲか、仮に存在したとして云われるようなユダヤ絶滅政策が発布されたのか等々を廻って論議が起きている。

 その時の「ハイドリヒ・メモ」が残されており、それによると、「ユダヤ人問題の『最終的解決』の権限を親衛隊が全面掌握することを決定した」ことを記している。これにより後、このメモによってユダヤ人虐殺が指針されたとする重要文書となっている。その意味で「ハイドリヒ・メモ」の持つ意味は深い。

 なお、「ハイドリヒ・メモ」は、「最終的解決」の対象となるヨーロッパ・ユダヤ人の数を1100万人と見積もっており、この数字の根拠、適切さを廻っても議論を招いている。
 山崎氏は、「ヴァンゼー会議のメモ」、ヴァンゼー会議の数字ヴァンゼー会議の重要性、「1100万人のユダヤ人」で、「ヴァンゼー会議におけるハイドリヒ・メモ問題」を考察している。

 山崎氏は、批判する前の作業として、木村見解を次のように整理している。
@  会議が開かれた建物が相当な「宮殿」であったとの通説は間違いである。
A  ヒトラーも参加した上での会議であったかの通説は間違いである。
B  「ハイドリヒ・メモ」は偽造捏造文書である。以下のように論証している。
A  「シュテークリヒのメモ偽造説」を踏まえつつ、当時のヨーロッパ・ユダヤ人の数を1100万人とする見積り自体が過大であり、偽造捏造の証拠であるとしている。
B  シュテークリヒの論拠「連続番号がないかわりに、一ページ目に”D・III・29・Rs”という記号が記入されているが、ドイツの官僚機構は通常、こういう形式で記録の分類はしない」(p.261.)との指摘を受け入れて、ヴァンゼー会議の内容を記したとされている「ハイドリヒ・メモ」は偽造捏造文書であるとしている。
C  会議が存在したこと自体が疑わしい。その理由として、エッセイ集「ホロコーストの全景」の「その理由の第一は、『ヒトラーの国家では、このような重要な問題の決定を官僚の会議でおこなうことなどありえない』からであり、第二は、『虐殺は一九四一年からはじまっていた』からである」を引用し、ヴァンゼー会議の存在、ヴァンゼー・メモをユダヤ人虐殺計画の決定文書だとする見解に疑問を発している。

 山崎氏は、次のように批判している。@・Aには異議を唱えない。が、BAの人口問題につき、当時のヨーロッパ・ユダヤ人の数1100万人説を肯定する。当時そのように言説されていた資料が確認できるとして、@・ハイドリヒが別の場所で1100万人という数を挙げていること(シュテークリヒ「アウシュヴィッツ神話」(Wilhelm Staeglich, Der Auschwitz Mythos)(オンライン版で確認できる)。A・ゲッベルスの1942.3.7日の日記の当該部分「ユダヤ人問題はいまや、全ヨーロッパ規模で解決されなければならない。ヨーロッパにはいまだに、1100万人以上ものユダヤ人がいるのだ(Es gibt in Europa noch ueber 11 Millionen Juden)」、を例証として、1100万人説が存在していたことを指摘し、1100万人の中には、ナチス・ドイツが支配していない地域(イギリス、スペイン、スイス、スウェーデン等)のユダヤ人が含まれており、決してデッチアゲ数字ではないと反論している。

 BBの「ハイドリヒ・メモは偽造捏造文書である」説につき、「ハイドリヒ・メモ本物文書説」を述べ次のように補足している。「ヴァンゼー会議のメモのような重要な文書について、それを虚偽だとしている情報を自分でふりまくためには、当該の文書にあたってみるのが当然だ」として、ヴァンゼー会議の議事についてのメモのドイツ語でオンライン化されたもの、その写真版を紹介している。

 Cのヴァンゼー会議の存在否定説につき、木村氏の見解は、ドイツの現代史研究家・イェケルの「ヒトラーの支配」の記述「この国家では、重要な決定が『官僚たちの』会合で下されたことなどなかった。最高の次元において、ヒトラーが単独で決定し、それを言い渡したのである」(Eberhard Jaeckel, Hitlers Herrschaft, Deutsche Verlags-Anstalt, 1986, p.105.)に基づいていると思われるとして、その解釈に次のように疑義を唱えている。 
 「ホロコーストに関する論争では、イェケルはひとつの立場を取っています。彼はヒトラーの決定権を最大限にみつもる立場におり、そこからヴァンゼー会議の重要性を相対的に低く見ているだけです。イェケルと異なる立場のホロコースト史家たちも多くおり、彼らはヴァンゼーを重んじています。アリーはそのひとりです。こうしたことを無視して、すべてのホロコースト史家たちが『認めなくなっている』かのような発言をするのは、ためにする議論でしかありません」
(私論.私見) 「重要な文書の偽書云々を云うのなら当該の文書にあたってみるべし論」考

 これもその通り。これによれば、「重要な文書について、それを虚偽だとしている情報を自分でふりまくためには、当該の文書にあたってみるのが当然だ」とする同じ論理で、「シオンの議定書」にも「当該の文書にあたってみるべし」であろう。これに対して山崎氏の見解を聞いてみたいところである。その上で、偽書かどうか精査されねばならないであろう。ところで、「シオンの議定書」偽書派は、如何なる論法でこれを偽書としているのだろう。ここでは立場が代わっているのでその論法に興味が持たれる。

 2005.2.19日 れんだいこ拝
(私論.私見) 「ヴァンゼー会議不存在説」考

 木村氏が「すべてのホロコースト史家たちが『認めなくなっている』かのような発言」をしているのかどうか分からないが、ヴァンゼー会議の存在否定説を覆すのに、ホロコースト史実派にして「ヴァンゼー会議議事録をユダヤ人絶滅計画の証拠文書の様に見なす事は間違いである」と弱弱しく疑問を投げかけているような立場のイェケル(Jaeckel)批判しただけでは何も解決しない。プレサック(Press−ac)も同じ系譜とのこと。

 ちなみに、西岡昌紀氏は、「阿修羅ホロコースト1」の2005.3.21日付投稿「仮に本物だとしても、 「ヴァンゼー会議議事録」に「ユダヤ人絶滅が決定された」と言う文言は有りません」で次のように述べている。

 仮に本物だとしても、「ヴァンゼー会議議事録」には、「ユダヤ人絶滅」が決定されたと言ふ文言は有りません。ですから、仮に本物だったとしても、この文書は、「ユダヤ人絶滅計画」の証拠などには成り得ません。

 実際、そう言う事を考えての事と思ひますが、「ユダヤ人絶滅」有った派の歴史家たちの中にも、例えば、イェッケル(Jaeckel)やプレサック(Press−ac)がそうですが、この文書を「ユダヤ人絶滅計画」の証拠文書の様に見なす事は間違いである、と言った立場の人々が複数表れて居ます。


 2005.2.19日 れんだいこ拝

【木村愛二氏の「ヴァンゼー会議録は国際検察局のケンプナーが作成の偽造文書論」考】
 木村愛二氏は、著書「アウシュヴィッツの争点」(その58)ヴァンゼー会談主催者をヒトラーにしてしまうおそまつで次のように述べている。中々の名文であるゆえ全文転載する。但し、読みやすくするため、れんだいこが任意に句読点、段落替えした。

 カットインで画面はかわって、翼をのばした鳥がふんわりと風にのって舞う湖のほとり。森のなかの白い石造りの邸宅にフォーカスイン(接近)し、おもむろに解説のセリフがはいる。「ベルリン、ヴァンゼーの宮殿。いまから五〇年あまり前、アドルフ・ヒトラーは、この建物に政府高官たちを集め、ユダヤ人問題の最終的解決を討議した」。

 この解説には、ニュルンベルグ裁判の誤りにみちた「事実認定」すら無視したあたらしい歪曲がある。せいぜい「豪邸」といえるほどの屋敷を「宮殿」とよぶだけの歪曲なら、ご愛嬌ですむ。だが、「アドルフ・ヒトラー」を主語にしたのは、完全なまちがいであり、もしかすると厚かましいまでの大衆欺瞞の情報操作のたくらみである。

 絶滅説の「事実認定」では、ヒトラーも親衛隊長のヒムラーも「ヴァンゼー会談」には参加していない。「ヴァンゼー会談」の主催者は、ゲシュタポ長官兼保安警察長官のラインハルト・ハイドリッヒだということになっている。なお、ハイドリッヒは戦争中に暗殺されているので、ニュルンベルグ裁判の当時すでに「死人に口なし」の状態であった。

 話を作品にもどすと、さきの明瞭なまちがいをふくむセリフと同時に、ヴァンゼーの邸宅の内部を移動する画面のうえに、タイプ文字の書類の文章と数表が白抜きでスーパーされる。この邸宅で「最終的解決」の「討議」がおこなわれた「事実」を、記録という「物的証拠」の存在によって強調しているわけだ。典型的なドキュメンタリー手法の画面構成である。

 その画面にあわせてセリフはつづく。「そのさいにつくられた報告文書には、ヨーロッパ各地のユダヤ人の数が、ことこまかに記載されている。その数は、あわせて一千一〇〇万人であった」。文書の中の表の最後、「11、000、000」の数字がアップで強調される。

 シオニストがもっとも強く実現をのぞんでいた構想は、旧約聖書のシオンの丘があると称するエルサレムを中心としたパレスチナでの建国だった。その目的地が一時はマダガスカルにかわり、この「会談」があったとされる時期にはロシアの占領地にかわっていた。だが、この作品では、「最終的解決」という用語の解釈をめぐって現在も継続中の論争どころか、そのような移住政策の事実経過さえ完全に抹殺されている。つまり、この作品は、みずからがテーマとして選んでいる「ユダヤ人虐殺を否定する人々」の核心的な主張どころか、絶滅論者による事実経過説明すら紹介しようとしていないのだ。

 画面の「11、000、000」という数字を印象づけるために、すこし間をおいてから、おもおもしい調子のセリフがつづく。「ナチスによるユダヤ人虐殺への道は、ここを起点としている。こののち、数百万人のユダヤ人が抹殺された。だがいま、歴史は風化の危機にさらされている」。「ユダヤ人問題の最終的解決」という表現にはここで、議論の余地なしに、「ユダヤ人虐殺」と同一のイメージがあたえられる。

 だがまず、一九四二年一月二〇日に「ヴァンゼー会議」がおこなわれた証拠とされているのは、会議の決定を記録した公式文書ではなくて、一片の会議録、厳密にいえば筆者すら不明の個人的なメモにすぎないのである。しかもそのメモが本物だとしても、そこには「最終的解決」イコール「ユダヤ人の民族的絶滅」などという方針は明記されてはいない。

 さらに決定的なのは、絶滅的に立つホロコースト史家たちでさえ、もはや、ヴァンゼー・メモをユダヤ人虐殺計画の決定文書だとは認めなくなっているという、矛盾に満ちた事態である。ペイシーほかの編集による「ラウル・ヒルバーグに敬意を表して」という副題のエッセイ集『ホロコーストの全景』によれば、その理由の第一は、「ヒトラーの国家では、このような重要な問題の決定を官僚の会議でおこなうことなどはありえない」からであり、第二は、「虐殺は一九四一年からはじまっていた」からである。

 ヴァンゼー会議がおこなわれたとざれているのは、メモの日付によれば、一九四二年一月二○日である。絶滅説の物語はこのように、つぎつぎと矛盾があきらかになり、書きなおしをせまられているのである。

 木村氏は引き続き、「『会議録』は国際検察局のケンプナーが作成の『偽造文書』という説」という章を設け、で次のように述べている。

 シュテーグリッヒ判事は、このヴァンゼーの会議録を、ニュルンベルグ裁判の国際検察局のボスだったケンプナーが作成した「偽造文書」だと主張する。その理由を簡単に紹介すると、つぎのようである。

 当時のナチス・ドイツでは公式文書を作成するさい、担当官庁名いりの用箋を用い、とじこみ用の連続番号を記入し、末尾に作成担当者、または会議の参加者が肉筆でサインすることになっていた。ところがこの「ヴァンゼー文書」なるものは、官庁名がはいっていない普通の用紙にタイプされており、連続番号もサインもまったくない。そのくせ、「最高機密」というゴム印がおされているから、かえって奇妙である。連続番号がないかわりに、一ページ目に“D・・・29・Rs”という記号が記入されているが、ドイツの官僚機構は通常、こういう形式で記録の分類はしない。

 内容的に最も奇妙なのは、「東方移送」するユダヤ人のうちで「労働が可能な者」に「道路建設」をさせるという、実際にはおこなわれていない作業命令の部分である。当時のナチス・ドイツでは、アウシュヴィッツなどの軍需工場群への労働力供給が最優先課題だった。「東方移送」は鉄道を利用しており、「道路建設」の必要はなかった。

 シュテーグリッヒ判事は別の箇所で、つぎの点に注意をむけている。「いわゆるヴァンゼー文書は、アメリカのケンプナー検事が[ニュルンベルグの国際軍事裁判の]のちにおこなわれた“ヴィルヘルム通り”裁判ではじめて提出したものである」。ケンプナーは、ニュルンベルグ裁判ではアメリカのジャクソン主席検事の「準備チーム」に属していた。つまり、法廷では裏方だったのだが、その後、高級官僚を被告にした“ヴィルヘルム通り”裁判では主席検事になった。そこではじめてケンプナーが「いわゆるヴァンゼー文書」を提出したというのは、非常に興味深いことである。すでに国際軍事裁判で「ホロコースト」物語は認定されている。しかし、自分が主役の裁判となると、ケンプナーには不安がある。すでに一部から疑問がだされていたからだ。そこで、ゆらぐ屋台骨をささえるために「ニセ文書」をつくったと考えれば、納得がいく。

 わたしの考えでは、まず、「一千一〇〇万人」という数字をことさらに強調した点があやしい。すでに第一部で紹介したように、当時の統計によれば、ナチス・ドイツの支配下に入ったヨーロッパのユダヤ人の人口は、約六五〇万人だった。生きのこりと移住をさしひくと、「六〇〇万人のジェノサイド」説は成り立たない。そこで「偽造文書作成者」、ケンプナーは、征服が完了していないロシアなどのユダヤ人の人口をもくわえて、「一千一〇〇万人」のヨーロッパのユダヤ人という基礎数字のイメージをつくりだす必要があると考えたのではないだろうか。もう一つの「道路建設」作業についても、「軍需工場群への労働力供給」と「絶滅」政策の論理的矛盾をすこしでもぼかしたいと願ったものという可能性がある。

 たとえば『裁かれざるナチス』の著者、ペーター・プシビルスキは、元東ドイツの検事で最高検察庁の広報局長という立場にあった。彼の見解は、元東ドイツの公式見解だったと考えていいだろう。この本ではヨーロッパのユダヤ人を「六〇〇万人」としており、「最終的解決」「ガス室」「ニュルンベルグ」の裁判が、つぎのように簡潔に、または短絡的にむすびつけられている。

 「ヨーロッパ全域にわたる六〇〇万のユダヤ人が、この『最終的解決』の過程で駆りたてられ、ガス室に送られ、『注射によって殺され』、あるいは死にいたるまで酷使されたのである。だがニュルンベルグではそのような事実は関知しない、自分に責任はない、と主張する者ばかりだった」。

 つまり、ニュルンベルグ裁判で「最終的解決」の陰謀にくわわったと認定された被告たちは、すべて罪状を否認していたのである。だが、このデンマーク製の映像作品には、そのような疑問点はいささかも映しだされない。「ナチス」、「虐殺」、いたましい歴史的イメージの余韻をひびかせつつ、カメラはふるめかしい邸宅の内部を移動しながらゆっくりとうつしだす。


【山崎氏の「木村愛二氏のヴァンゼー会議録偽造説」批判】
 上記木村氏の「ヴァンゼー会議録偽造文書論」に対して、山崎氏が著作人と思われる『アウシュヴィッツの争点』が振りまく虚偽ヴァンゼー会議のメモで次のような批判が為されている。
 1942年1月20日、ベルリンの南西部にあるヴァンゼー街のある屋敷に、ナチスの高官たちが集合しました。会議を招集したのは、親衛隊高官で保安警察長官であったラインハルト・ハイドリヒです。このヴァンゼー会議は、ユダヤ人の組織的虐殺の過程でひとつの重要な結節点をなすもので、ホロコーストにかかわるどんな記述にも登場します。ペツォルトとシュヴァルツによるヴァンゼー会議についての特別な研究もあります(同書は目下注文中です)。

 木村さんはNHKが放映した『ユダヤ人虐殺を否定する人々』という番組を取り上げ、そこでの事実誤認を攻撃します。確かにヴァンゼー会議が開かれた建物は「宮殿」ではないし(大澤武男『ユダヤ人とナチス』講談社現代新書、1991年、p.208.には建物の概観を写した写真があります)、会議にヒトラーが参加したこともありません。そのことを指摘するだけなら、どうということもないのですが、木村さんは会議が存在したこと自体が疑わしいとまでいいたてるのです。

 この点については、別に詳しく触れることにしますが、まずは小さいけれど重要な点を指摘しておきます。木村さんはヴァンゼー会議の内容を記したメモが「偽造文書」だというシュテークリヒという否定派の本を使って、こう述べています。
 「連続番号がないかわりに、一ページ目に”D・III・29・Rs”という記号が記入されているが、ドイツの官僚機構は通常、こういう形式で記録の分類はしない。」(p.261.)

 シュテークリヒの本はオンライン化がすすんでいるので、いずれ読んでみます。ここで私がいいたいのは、ヴァンゼー会議のメモのような重要な文書について、それを虚偽だとしている情報を自分でふりまくためには、当該の文書にあたってみるのが当然だ、ということです。ヴァンゼー会議の議事についてのメモは、さまざまな資料集に収録されています。ドイツ語でオンライン化されたものもあります。また、幸い現在では、その写真版がWWWに貼られてもいます。これらでチェックされれば、「D・III・29・Rs」が正確ではないことが判ります。以下にメモの表紙に押されたスタンプの部分(木村さんがいう「記号」)の写真を示しておきます。

 お判りのように、「D. g. Rs.」という記述を含んだスタンプが押されたあと、III 29・という数字が手書きで空白のところに挿入されているのです。29のつぎにある点については、それがスタンプのものなのか、手書きの一部なのかは、写真ではよく判りませんが、いずれにしても「D・III・29・Rs」ではありません。

 木村さんの本には、欧米の否定派の出版物からの安易な孫引きがたくさんあります。ジャーナリズムでいう「裏を取る」作業を放棄して、否定派の文献にばかり頼っているので、こうしたミスを犯すのです。なんどでもいいますが、何百万もの数の人々の命にかかわっていた問題です。いいかげんな資料操作はやめましょう。

 追記(3月16日)
 ようやくシュテークリヒの『アウシュヴィッツ神話』(オンライン版)の全文をコピーでき、その内容の検討に入ったところですが、「D・III・29・Rs」という誤りは、木村さんがシュテークリヒから受け継いだものであったことが、確認できました。それにしても、シュテークリヒはどうしてこんなに初歩的な読解ミスをしたのでしょうか。「g. Rs.」という略号はgeheime Reichssache、つまり、「国家最高機密」を意味します。法律家であるシュテークリヒなら、当然知っているべき記号です。


 続いて、「ヴァンゼー会議の数字」で次のように述べている。
 ヴァンゼー会議のメモには、「ヨーロッパ・ユダヤ人問題の最終解決(Endloesung)には、ほぼ1100万人のユダヤ人が関与する。これらユダヤ人は以下のように、個々の国に分布している」とあり、そのあとに長い国別のユダヤ人人口が示されています。

 さて、木村さんはこういいます。
「わたしの考えでは、まず、『一千一○○万人』という数字をことさらに強調した点があやしい。」(『争点』、p.262.)

 これはシュテークリヒがヴァンゼー・メモをニュールンベルク裁判での「ケンプナー検事」のでっちあげだといったことを受けて書かれています。さらに文章は、こうつづきます。

 「・・・当時の統計によれば、ナチス・ドイツの支配下に入ったヨーロッパのユダヤ人の人口は、約六五○万人だった。生きのこりと移住をさしひくと、『六○○万』人のジェノサイド」説は成り立たない。そこで『偽造文書作成者』、ケンプナーは、征服が完了していないロシアなどのユダヤ人の人口をもくわえて、『一千一○○万人』のヨーロッパのユダヤ人という基礎数字のイメージをつくりだす必要があると考えたのではないだろうか。」(同ページ)

 おかしなことに、ここではもう木村さんは、なんの自前の証明もせずに、シュテークリヒのメモ偽造説に賛成してしまっているのです。否定派のいうことのまったくの丸飲みです。ほかの数字についての操作については、別にやるとして、1100万人という数字だけをここで取り上げます。

 それはケンプナーの「偽造」などではありません。まったく別の資料で、ヴァンゼーの主催者であったハイドリヒが、この数字を口にしているからです。ヴァンゼー会議の直後、1942年2月4日の秘密演説で、彼は「北氷洋」(「北海」)が「1100万のヨーロッパ・ユダヤ人にとって未来の理想的な故郷に」なるだろうと述べています。この演説はチェコ語で出されたハイドリヒ研究(なぜチェコなのかはハイドリヒの職権とかかわります)にあり、幸いゲッツ・アリーが引用しています(『最終解決』法政大学出版局、p.216.)。

 「1100万人」がハイドリヒたちの認識していたヨーロッパ・ユダヤ人の数であったことには、疑問の余地がまるでありません。木村さんはちゃんと自分で調べないで、いいかげんな文書に寄り掛かり、そのうえさらに「私の考えでは」とまったくの憶測を繰り広げているだけです。もしケンプナーが生きていたら、この点だけでも木村さんを名誉毀損で訴えることができますし、確実に勝訴するでしょう。


 続いて、「ヴァンゼー会議の重要性」で次のように述べている。
 木村さんはヴァンゼー会議について、こう書いています。

 「ペイシーほかの編集による『ラウル・ヒルバーグに敬意を表して』という副題のエッセイ集『ホロコーストの全景』によれば、その理由の第一は、『ヒトラーの国家では、このような重要な問題の決定を官僚の会議でおこなうことなどありえない』からであり、第二は、『虐殺は一九四一年からはじまっていた』からである。」(『争点』、p.260.)

 私はこの部分を読んで「あれっ」と思いました。というのは「ヒトラーの国家では云々」という引用箇所をどこかで読んでいた記憶があったからです。「ペイシーほかの編集による」本は Pacy, James S./Wertheiner, Alan P. ed.: Perspective on the Holocaust, Westview Press, 1995.だそうです。調べてみるとPacy, James S./Alan P. Wertheimer (eds.), Perspectives on the Holocaust: Essays in Honor of Raul Hilberg, Westview Press, 1995. のようです。残念なことに同書は絶版(out of print)でした。目下、探してもらっています。しかし、幸いなことに、私がよく使うAmazon.comというオンライン書店は、この本の書評をいくつか掲載しています。それを読んでどこで読んだかを思い出しました。書評のひとつには、つぎのようにあります。

  "The book contains all seven of the presentations delivered at the conference by Yehuda Bauere, Christopher Browning, Claude Lanzmann, Alvin Rosenfeld, Richard Rubenstein, George Steiner, and Herman Wouk, and four other essays by Peter Hayes, Eberhard Jackel, John Roth, and Robert Wolfe. "

 実物がまだないので、まちがっていたらおわびして訂正しますが、この本に収録されたエベルハルト・イェケル(Eberhard Jaeckel)が先の引用箇所の著者だと思います。

 イェケルはドイツの現代史研究家で、『ヒトラーのヨーロッパにおけるフランス』とか『ヒトラーの支配』といった著書を持っています。さらに、『第二次世界大戦におけるユダヤ人殺害』という本の編者のひとりでもあります。そして重要なのは、ホロコーストに関する論争の当事者のひとりでもあることです。この論争は1941年冬に開始されたユダヤ人たちの組織的絶滅政策が、ナチス(ヒトラー)の一貫した反ユダヤ人意図の実現であったか、それとも状況に規定された非意図的な決定であったかをめぐって争われているものです。『第二次世界大戦におけるユダヤ人殺害』は、この論争を集めたものです。

 さて、イェケルは『ヒトラーの支配』において、こう書いています。

 「この国家では、重要な決定が[官僚たちの]会合で下されたことなどなかった。最高の次元において、ヒトラーが単独で決定し、それを言い渡したのである。」(Eberhard Jaeckel, Hitlers Herrschaft, Deutsche Verlags-Anstalt, 1986, p.105.)

 これは論争のなかでもよく引き合いに出される箇所です。ゲッツ・アリーの幸い翻訳された名著『最終解決』(法政大学出版局、1998年、p.303.)でも引用されています。これが木村さんの引用であることは確かだと思います。

 しかし、イェケルの見解を、木村さんのように

 「さらに決定的なのは、絶滅的[この的は説の誤植でしょう]に立つホロコースト史家たちでさえ、もはや、ヴァンゼー・メモをユダヤ人虐殺計画の決定文書だとは認めなくなっている」(p.260.)

 というように使うわけには絶対にいきません。ホロコーストに関する論争では、イェケルはひとつの立場を取っています。彼はヒトラーの決定権を最大限にみつもる立場におり、そこからヴァンゼー会議の重要性を相対的に低く見ているだけです。イェケルと異なる立場の「ホロコースト史家たち」も多くおり、彼らはヴァンゼーを重んじています。アリーはそのひとりです。こうしたことを無視して、すべての「ホロコースト史家たち」が「認めなくなっている」かのような発言をするのは、ためにする議論でしかありません。


(私論.私見) 【れんだいこの「山崎氏による木村愛二氏のヴァンゼー会議録偽造説批判」の批判】

 山崎氏の木村見解批判を検証する。果して、山崎氏は、論争として正面から議論に挑んでいるだろうか。ヴァンゼー会議のメモの一文は、「木村愛二氏のヴァンゼー会議録偽造説」の揚げ足取り的批判でしかないように思われる。

 木村氏は、「ヴァンゼー会議録としてのハイドリヒ・メモ」が当時のナチス・ドイツの公式文書の体裁を採っていない故に偽造ないし捏造の可能性を指摘している。もし、これを誤りとして批判するのなら、「ハイドリヒ・メモ」の公式文書ぶりを強調するのでなければならない。ならば、1・担当官庁名いりの用箋を用いる。2・とじこみ用の連続番号を記入する。3・末尾に作成担当者、または会議の参加者が肉筆でサインするという三要件を踏まえない公式文書の存在を論うべきだろう。

 山崎氏は、木村氏の所説の中の「連続番号がないかわりに、一ページ目に“D・・・29・Rs”という記号が記入されている」を槍玉に上げ、「D・III・29・Rs」と記されていると看做すのは正確ではないと云う。正確には、「『D. g. Rs.』という記述を含んだスタンプが押されたあと、『III 29・』という数字が手書きで空白のところに挿入されているのであって、『D・III・29・Rs』と記されているのではない」という。

 何のことは無い、本筋から離れたところの重箱の隅を突くような話ではないか。問われているのは、「ハイドリヒ・メモの公式文書能力」である。それを否定する者の見解を否定するのなら、「ハイドリヒ・メモの公式文書能力」を証するべきではないのか。その上で、「D・III・29・Rs問題」を云うのなら分かるが、何とも肩透かしなことである。

 ヴァンゼー会議の数字の一文も似たり寄ったりである。木村氏は、「西欧における当時のユダヤ人実数100万人説を否定し、約650万にだったと考えられる」と述べている。山崎氏は、僅かにハイドリヒの「ヴァンゼー会議の直後、1942年2月4日の秘密演説」での発言をダシしながら「1100万人がハイドリヒたちの認識していたヨーロッパ・ユダヤ人の数であったことには、疑問の余地がまるでありません」と言い返しているだけである。

 これについては、「ホロコーストは戦後のユダヤ特権を享受するための捏造神話」アドルフ・ヒットラーはイスラエル建国の父その他は次のように記している。

 戦前1900万人いた世界のユダヤ人が、戦中、欧州で600万人虐殺されたのに、戦後5年ったら1850万人に回復している? ユダヤ人は戦後、気が狂ったように子作りに励んだのでしょうか? ユダヤ人はハツカネズミだとでもいうのでしょうか? 人口増加率の高いインドでもせいぜい1.5%だから、ユダヤ人も戦後同じペースでせっせと励んだとしても、600万人虐殺が本当なら、1950年でせいぜい1400万人にしかならない筈です。(逆に戦後、ユダヤ人口は増えているとするデータすらあります。−参考EF。実際に収容所で死んだユダヤ人は、15万から30万だったろうと結論付けています。)

 「600万人」が嘘だということです。こんな初歩的な嘘にも気づかず、必死に否定論に対抗している「肯定論者」の方の素性に大いに興味が持たれます。なにか、ユダヤ勢力と特別の利害関係でもあるのでしょうか?


 つまり、概要「戦後のユダヤ人人口数からして、もし600万人が虐殺されていたなら辻褄が合わない」なる見解が出されているところである。もう少し、反論するならそれに耐え得るものを対置せねばなるまい。よって、「もしケンプナーが生きていたら、この点だけでも木村さんを名誉毀損で訴えることができますし、確実に勝訴するでしょう」などは余計な話であろう。

 ヴァンゼー会議の重要性の一文もさっぱり要領を得ない。「ホロコースト論争」を廻ってのドイツの現代史研究家イェケルの言説に対して、木村氏が、概要「ホロコースト史実派の史家たちでさえ、ヴァンゼー・メモをユダヤ人虐殺計画の決定文書だとは認めなくなっている」と紹介しているのに対して、これを否定し、「彼はヒトラーの決定権を最大限にみつもる立場におり、そこからヴァンゼー会議の重要性を相対的に低く見ているだけです」との解釈を示している。

 と言いながら、「イェケルと異なる立場の『ホロコースト史家たち』も多くおり、彼らはヴァンゼーを重んじています。アリーはそのひとりです。こうしたことを無視して、すべての『ホロコースト史家たち』が『認めなくなっている』かのような発言をするのは、ためにする議論でしかありません」とも書き付けている。

 ところで、概要「木村氏が、すべての『ホロコースト史家たち』が『認めなくなっている』かのような発言をしている」とあるが、ここに掲載した一文の該当箇所は、「絶滅説に立つホロコースト史家たちでさえ、もはや、ヴァンゼー・メモをユダヤ人虐殺計画の決定文書だとは認めなくなっている」の件である。

 この文章を「すべての『ホロコースト史家たち』が『認めなくなっている』かのような発言」と解釈するのは「趣旨不改変の原則」に反するのではなかろうか。それとも別章から取り寄せたのだろうか。それにしても、「すべての」なる語句を意図的に挿入しているのは、批判し易いように改竄する性悪論法のような気がしてならない。

 知識的には、「ホロコースト論争」を廻ってのドイツの現代史研究家イェケルの位置を概要次のように述べているところが参考になった。イェケルは、1・ホロコースト史実派であり、2・1941年冬に開始されたユダヤ人たちの組織的絶滅政策が、ナチス(ヒトラー)の一貫した反ユダヤ人意図の実現であったか、それとも状況に規定された非意図的な決定であったかをめぐって、後者側に立つことを明らかにしている云々。

 しかし、れんだいこは知識は貰うが、判断まで共有しようとは思わない。

 2005.3.22日 れんだいこ拝


【「ソフィア先生の逆転裁判2」】
 「ヴァンゼー会議問題」に対して、ソフィア先生の逆転裁判2が、「ユダヤの嘘を暴いてドイツの無罪を勝ち取れ」の副題を付けて上記の木村氏見解と『アウシュヴィッツの争点』が振りまく虚偽氏の見解を俎上に乗せて多角的に研究している。これは膨大なので、れんだいこが意訳要約紹介する。

 
「Subject:23、ラインハルト作戦を決定したヴァンゼー会議」と題して、これを裁判形式で再現解明せんとしている。重複しているところを割愛し、参考になるところを取り入れる。
 「ヴァンゼー会議」というのは1942年1月20日、ドイツ・ベルリン郊外ヴァンゼー・高級住宅街(Am Grosen Wannsee56-58) にあるヴァンゼー会議館で行われた会議のことだ。ヴァンゼーの位置はベルリン中央のツォー駅からSバーン(近距離都市鉄道)で30分ほど。ポツダム駅からベルリン市中心方向へSバーンで一駅がヴァンゼー。駅から記念館までは巡回バス114で、「ヴァンゼー会議記念館(Haus der Wanseekonferenz, Gedenkstatte Wanseekonferenz)」停留所にて下車。

 この記念館は、ユダヤ人富豪の別荘だった時期もあり、周辺一帯はいまでも保養地・閑静な高級住宅街として、著名な地域でもある。記念館のすぐ近くはヨット・ハーバーになっていて、ヨットなどで楽しむ人々が多い。ヴァンゼー会議の行われた部屋は観光名所になっていて、自由に見学することができる。

 1942年当時、総統として絶対的な権力を握っていたヒトラーは「ユダヤ人問題」の速やかな解決を願っていた。そこでヘルマン・ゲーリング国家元帥の指示を受けたラインハルト・ハイドリヒ国家保安部長官はこの日、国家のおもだった代表者15人をヴァンゼーに召集した。SSゲシュタポ長官ハインリヒ・ミュラー 、党代表クロプファー、内閣官房クリツィンガー、人種と移住担当ホフマンSS中将、東欧占領区担当ライブラント、マイヤー博士、内務省ウィルヘルム・ストゥッカート、外務担当ルター、4年計画局長エリッヒ・ノイマン、ラトヴィアSS副指揮官ルドルフ・ランゲ少佐、ポーランド総督府次官ジョセフ・ビュラー、総督府付SSションガース大佐、司法省ローランド・フライスラー 、SSユダヤ人問題担当カール・アドルフ・アイヒマン中佐、そして主催者である保安警察長官ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ長官だ。

 ハイドリヒに召集された参加者15人のうち8人は博士号を取得した超エリートだった。この会議には、ドイツ第三帝国の主要国家官庁の次官クラスが参加した。したがって、「次官会議」とも称される。一時間半の会議で当時全ヨーロッパ、ロシア地域に居住していた1100万のユダヤ人の「最終解決」が公式に決議された。そしてこのヴァンゼー会議によって「ラインハルト作戦」が決定された。

 「ラインハルト作戦」とは、ナチスの掌握する領土全体にわたって存在するユダヤ人を絶滅に追い込む計画のことで、この計画を遂行するために三大絶滅収容所(トレブリンカ、ソビブル、ベウジェツ)が設置された。このヴァンゼー会議は ユダヤ人の組織的虐殺の過程でひとつの重要な結節点をなすもので、ホロコーストにかかわるどんな記述にも登場する。つい最近は映画にもなったほど有名な会議だ」。

 「ヴァンゼー文書」は調べれば調べるほど怪しい文書だ。先ほどの形式が違うという点以外にも、その内容自体に問題がある。「ヴァンゼー文書」には「ユダヤ人の労働可能なものに「道路建設」をさせる」という作業命令があるが、このような命令は実際には実行されていない。ドイツ軍の主な輸送手段は鉄道だから、そもそも道路建設なんてものは必要ない。ただでさえ労働力不足なのに意味のない道路なんぞ作る余裕はないぜ」。
 「1941年6月、ドイツ軍はソ連に侵攻して大きく占領地を広げたが、そのために鉄道車両不足に悩まされていた。そのため、ヴァンゼー会議が行われたとされる1942年から1943年の間の鉄道車両の生産量は急増している。ヴァンゼー会議の結果、鉄道レール・鉄道車両の増産が決定されたならば話はわかるが、「道路建設」の命令は実際のドイツ軍の動きと矛盾している」。 「この「ヴァンゼー文書」は作者、作成年代、作成場所が判明しない。。つまり歴史学からの基本からすれば、「ヴァンゼー文書」は第四次史料に当たる。よって検察の提出した証拠には証拠能力がない」。
 ヴァンゼー会議の存在を裏付けている資料は検察側の出した第四次史料だけです。反論として、「ユダヤ人絶滅計画のように、表に出たら困ってしまうようなものを示した書類を残すほどナチはバカではないということだ。そこでナチスは重要書類を燃やしたからである」。しかし、この理屈は正当だろうか。
 「ヴァンゼー会議でラインハルト作戦が決定された」という説を否定する人間がもう少しいてもいいような気がしますが」。 「いますよ。1992年、イスラエルの「ホロコースト」専門家イェフダ・バウアーは、古くからあるこの神話を「馬鹿話」と書いてます。イェフダ・バウアーはイスラエル・ヘブライ大学教授であり、エルサレムのヤッド・ヴァシェム(Yad Vashem )記念館の主任歴史学者でもあります。ヤッド・ヴァシェム記念館はイスラエルの国立ホロコースト博物館で、そこの主任歴史学者が検察の主張を「馬鹿話」と書いているんです。これはイスラエルの見解と受け取っていいのではないでしょうか?」。 「政府が公式に発表したのでないのでは、そういうわけにもいかないでしょう。しかし、イスラエル国立ホロコースト博物館の主任歴史学者が言ってるなら、それに近い見解と考えてもいいかもしれませんね」

 参考資料として、ロベール・フォーリソン氏の「ガス室問題に関するプレサックへの回答」(Robert Faurisson, Answer to Jean-Claude Pressac on the Problem of the Gas chambers、Two further comments on my answer to Jean-Claude Pressac、アドレス:ttp://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/faurisson_05.htm)が紹介されている。それには次のような記述が為されている。
 何十年ものあいだ、いわゆるユダヤ人の「ホロコースト」についての歴史家たちは、1942年1月20日、ベルリンのヴァンゼー会議で、ドイツ人はヨーロッパ・ユダヤ人の物理的絶滅を決定したと繰り返し論じてきた。1984年になってはじめて、絶滅論者がシュトゥットガルトでの大会に集まって、この説を静かに放棄した(Eberhard Jackel and Jurgen Rohwer, Der Mord an den Juden im Zweiten Weltkrieg, DVA, 1985, p. 67)。

 1992年になってはじめて、イェルサレム大学教授で、イスラエルの「ホロコースト専門家」の中心人物であるイェフダ・バウアーが、この説は「馬鹿げて」いるとおおやけに声明した (The Canadian Jewish News, 30 January 1992; cf. as well, "Wannsee: 'Une histoire inepte'", R.H.R. no. 6, May 1992, pp. 157-158)。プレサックは、新しい定説にしたがって、次のように記している。

 「1月20日、『ヴァンゼー会議』と呼ばれる会議がベルリンで開かれた。ユダヤ人を東部地区に移送するという作戦が計画され、そこでは、労働によって幾分かのユダヤ人が『自然に』清算される可能性が含まれていたとしても、工業的な大量清算について語った者は誰もいなかった。この会議に続く日々、週、アウシュヴィッツ建設局は、工業的な大量清算という目的のための施設を計画することを要請する呼び出し、電報、書簡をまったく受け取っていない。」(35頁)

※ 原文を読むと「イェルサレム大学教授」の部分は「the University of Jerusalem」となっているが、イェルサレム大学は「al-Quds University」なので、「イェルサレムの大学教授」と訳すべきと思われる。ヘブライ大学(The Hebrew University of Jerusalem)はイェルサレムにあるからである。(原文アドレス:ttp://vho.org/GB/Books/anf/Faurisson1.html)

 It was not until 1992 that Yehuda Bauer, Professor at the University of Jerusalem and a leading Israeli "Holocaust specialist", declared publicly that this thesis was "silly" (The Canadian Jewish News, 30 January 1992; cf. as well, "Wannsee: 'Une histoire inepte'", R.H.R. no. 6, May 1992, pp. 157-158). In conformance with the new official version, Pressac writes:


 参考資料として、木村愛二著「偽イスラエル政治神話(その16)」(アドレス:ttp://www.jca.apc.org/~altmedka/nise-16.html)を紹介している。次のように書かれている。
 一九四二年一月二〇日に開かれたヴァンゼー会議は、三分の一世紀にもわたって、そこでヨーロッパのユダヤ人の“絶滅”が決定されたと称されてきたのだが、一九八四年以後には、“見直し論者”の最も残忍な敵の文章の中ですら、その姿を消してしまった。この点に関しては、彼ら自身も同じく、彼らの歴史の“見直し”をせざるを得なくなっている。なぜならば、一九八四年五月に開かれたストゥットガルト会議で、この“解釈”が、明確に放棄されたからである(『第二次世界大戦の期間に置けるユダヤ人の殺害』)。

 一九九二年には、イェフーダ・バウアーが、『カナディアン・ジューイッシュ・ニューズ』の一月三〇日号で、従来のようなヴァンゼー会議の解釈は“馬鹿気ている”(silly)と書いた。最後には、反見直し論者の正統派歴史家の一番最近のスポークスマン、薬剤師のジャン=クロード・プレサックが、この正統派の新しい見直しを追認した。彼は、一九九三年に出版した著書、『アウシュヴィッツの火葬場』の中で、つぎのように記している。
 《ヴァンゼーの名で知られる会議は一月二〇日にベルリンで開かれた。もしも、ユダヤ人の東部への“追放”という行為が、労働による“自然”の消去を呼び寄せる計画だったとしても、誰一人として、そこでは工業的な消去については語っていない。その後の数日または数週間にわたって、アウシュヴィッツの所長は、会議の終りに採用が決まった装置の研究を要請するような電話も、電報も、手紙も、何一つ受けとっていない》

 参考資料として「MYRTOS Home Page - 月刊ミルトス2000年4月号」が紹介されている。英国の歴史学者デヴィット・アーヴィングがなかなかうまいことを言っている。1991年のカナダのカルガリーでの講演で、「にせホロコースト生存者その他うそつき協会(Association of Spurious Survivors of the Holocaust and Other Liars)」、略して『ASSHOLS(クソったれ)』を設立した」と述べ、反シオニズム派の聴衆を喜ばせた。彼はこの言葉を「うまい表現だ」と称賛した。あまりよい趣味ではないと私が反論すると、彼は言い返した。「あまりよい趣味ではないユダヤ人はたくさんいるし、彼らはあまりよい趣味ではない手段を使う。金はそこに流れ、彼らはそれを繰り返す。それが欲張りなユダヤ人という認識を生んでいるのだ」。

 注目すべきは、ユダヤ人の絶滅決定がなされたのは、1942年1月20日のベルリンのヴァンゼー会議であったという古くからのおとぎ話を支持しているける研究者は誰もいないということである。1992年、イスラエルの「ホロコースト」専門家バウアーは、古くからあるこの神話を「馬鹿話」とあざけった。

 デビット・アーヴィングは、アメリカのジョージア州アトランタのエモリー大学で現代ユダヤ教およびホロコースト研究の教授をつとめるデボラ・リップスタット(ユダヤ人女性)を相手どり、一九九四年の著書「ホロコースト否定論――激化する真実と記憶に対する攻撃(Denying the Holocaust: the Growing Assault on Truth and Memory)」のなかで、ホロコースト否定者の烙印を押されたことに対する訴訟を起こした。

 これに対して、 「もしもアーヴィングが勝訴したら、すべてのホロコースト否定者にとっての認可証になるだろう」。サウサンプトン大学のユダヤ史教授であり、ホロコーストの記録保管では最も古く、評価の高い公文書館の一つであるロンドンのウィーナー図書館館長をつとめるデヴィッド・カサラニは言う。「フランスのル・ペンやオーストリアのハイダーなど、ナチの残虐行為はできるだけ小さなものとして、ヒトラーの名誉を回復したいと思っている人たちにとっては、助けとも励みともなろう」。エルサレムのヤッド・ヴァシェム・ホロコースト記念館の主任歴史学者イェフダ・バウアーは、「アラブ世界は、アーヴィングが勝てば、ユダヤ人を打ち負かしたと大いに喜び、満足するだろう。すでに反ユダヤ人の題材が数多く、エジプト、シリア、ヨルダンの出版物に現れている。この三つの国は私たちにとってきわめて重要であり、なかには平和条約を結んでいる国もある。非常に恐ろしいことだ」。

 2000.4.11日、英国高等法院で判決が言い渡されアーヴィングは敗訴した。アーヴィングは判決文の中で、彼は「イデオロギー上の理由から、永続的かつ故意に、歴史的証拠をねじまげ、操作している」と指摘された、とのことである。


【「歴史資料の史料考」】
 小林よしのり著「戦争論2」のP314を参照する。
 歴史学の基本は「史料批判」にあり、歴史資料の信憑性を検証することにある。事件発生当時、発生場所で当事者が作成したもの、これを「一次史料」という。事件から時間が経過した後に、当時者が作成した回想などが、「第二次史料」。そして「第一次史料」、「第二次史料」を基に作成したものが、「第三次史料」ろ。史料価値があるのは、ここまで。作者、作成年代、作成場所が判明しないものは「第四次史料」。何のために作られたのかわからないものを「第五次史料」といわれ、史料価値は、ゼロと見なされる。

【逆証「ドイツ人ホロコーストを煽る諸論」考】
 1942年、これこそ本物の意味での“ジェノサイド”を煽る本、アメリカのユダヤ人、テオドール・カウフマン著「ドイツ人は消滅すべきだ」が発表された。その主要な主張はこうだ。
 「ドイツ人は、反ナチであろうと共産主義者であろうと、たとえユダヤ人が好きであろうとも、生きる価値がない》。カウフマンの結論はこうだ。《戦後に二万人の医者を動員して、一日に一人で二五人づつのドイツ人の男女に不毛化手術を行えば、三か月で子供を作れるドイツ人が一人もいなくなり、以後、六〇年でドイツ人種は完全に絶滅する」。

 ヒトラーは、すべてのラディオ放送局で、この本の抜粋を読み上げさせている。テオドール・カウフマン著「ドイツ人は消滅すべきだ」は逆に、反ユダヤ主義を養う上で格好の拾い物となった。

 もう一つの同じ扱いを受けた本がある。1944年、ソ連の作家、イリア・エレンブルグの著書「赤軍への訴え」が刊行されている。次のように記している。
  「殺せ! 殺せ! ドイツ人の中には、生きている者の中にも、これから生まれてくる者の中にも、無実の者はいない! 同志スターリンの命令を実行し、穴に隠れた野獣のファシストを、撃滅し続けろ! ドイツ女の高慢さを、暴力で打ち砕け! 彼らを正当な戦利品として取り扱え! 奪え! 殺せ! 殺せ! 勇敢な赤軍の兵士たちよ、君達の止むに止まれぬ攻撃によって」。

 これって何なんだろう。




(私論.私見)