ホロコースト史実検証4、収容所考 |
(最新見直し2014.11.04日)
【ホロコースト収容所数と稼動期間考】 | |||
「ホロコースト収容所数と稼動期間」につき知りたかったが整理されていない。これにつき、「芝健介『ホロコースト』」が次のように記している。これにコメントしておく。
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【アウシュビッツ】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「ウィキペディアのアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」その他を参照する。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アウシュヴィッツ・ビルケナウ(Auschwitz Birkenau、独語 Das Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau)。アウシュビッツ強制収容所はナチス・ドイツの強制収容所であり、ポーランド南西部に第2次世界大戦中(1940年~1945年)にドイツにより作られ、ホロコースト・大虐殺・暴力の象徴と言われている。アウシュヴィッツ第一強制収容所はドイツ占領地のポーランド南部オシフィエンチム市(ドイツ語名アウシュヴィッツ)に、アウシュヴィッツ第二強制収容所は隣接するブジェジンカ村(ドイツ語名ビルケナウ)につくられた。周辺には同様の施設が多数建設されている。1940年-1945年に存在した。
各強制収容施設の概要アウシュヴィッツ第一強制収容所(基幹収容所)
第一強制収容所正門。
1940年5月20日、ドイツ国防軍が接収したポーランド軍兵営の建物をSSが譲り受け開所。約30の施設から成る。平均して13,000~16,000人、多いときで20,000人が収容された。被収容者の内訳は、ソ連兵捕虜、ドイツ人犯罪者や同性愛者、ポーランド人政治犯が主となっている[13]。後に開所する「第二強制収容所ビルケナウ」や「第三強制収容所モノヴィッツ」を含め、アウシュヴィッツ強制収容所全体を管理する機関が置かれていた。 入り口には「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」の一文が掲げられている。「B」の文字が逆さまに見えることについて、SSの欺瞞(ぎまん)に対する作者(被収容者)のささやかな抵抗と考える向きもあるが、実際にはこの書体は当時の流行であった。10号棟には人体実験が行われたとされる実験施設が、11号棟には逃亡者や収容所内でのレジスタンス活動を行った者に対して銃殺刑を執行するための「死の壁」があり、そのほかには、裁判所、病院などがあった。収容施設は、女性専用の監房、ソ連兵捕虜専用の監房などといった具合に分けられている。また、アウシュヴィッツ最初のガス室とされる施設がつくられたが、後に強制収容所管理のための施設となった。戦後、ガス室として復元され、一般に公開されている。 アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ被収容者増を補うため、1941年10月、ブジェジンカ村に絶滅収容所として問題視される「第二強制収容所ビルケナウ」が開所。総面積は1.75平方キロメートル(東京ドーム約37個分)で、300以上の施設から成る。建設には主にソ連兵捕虜が従事したとされる。ピーク時の1944年には90,000人が収容された。そのほとんどはユダヤ人であり、このほかに主だったものとしてロマ・シンティが挙げられる。 アウシュヴィッツの象徴として映画や書籍などで見られる「強制収容所内まで延びる鉄道引込み線」は1944年5月に完成。被収容者から猟奪した品々を一時保管する倉庫や病院(人体実験の施設でもあったとされる)、防疫施設、防火用の貯水槽とされるプールがあった。ガス室は、農家を改造したものが2棟と複合施設(クレマトリウム)が4棟の計6棟があったとされるが、これらは被収容者の反乱や撤退時に行われた何かしらの証拠隠滅を目的とした破壊により原型をとどめていない。収容施設は、家族向けの監房、労働者向けの監房、女性専用の監房などに分けられており、1943年以降に建てられた南側の収容施設(全体の3分の1程度の棟数)は、湿地の上に満足な基礎工事もなく建てられており、特に粗末なつくりであったと伝えられている。ここには主に女性が収容された。 アウシュヴィッツ第三強制収容所モノヴィッツ1942年から1944年の間に、当時のドイツを代表する イーゲー・ファルベン社(化学)、クルップ社(重工業)、シーメンス社(重電産業)といった大企業の製造プラントや、近隣の炭鉱に付随する形で大小合わせて40ほどの収容施設がモノビツェ村(ドイツ語名モノヴィッツ)につくられた。これらの施設群を「第三収容所モノヴィッツ」と呼ぶ。オシフィエンチム市は鉄道の接続が良く、近郊は石炭と石灰の産出地。さらには内陸に位置することもあり、既存の生産拠点への空襲が危惧されるようになると、安い労働力と併せて注目されるようになった。なかでも最大規模であったのが、700万ライヒマルクを投資して建てられたイーゲー・ファルベン社の合成ゴム・合成石油プラント「ブナ」。同社は、1925年にドイツの化学関連企業6社が合体してできたコンツェルンであり、当時の総合化学業界としては世界を三分するうちの1社であった。また、1936年4月、ナチスによって示された国家の重要な指針をとなる「四ヵ年計画」の遂行にあたって、産業面で大きな役割を果たすなどナチスとは緊密に連携し合う関係にあった。戦後のニュルンベルク裁判では「人道に対する罪」を理由に役員や技術者など被告の24人全員が有罪となり[14]、次いで1948年の「米英占領地区の合同管理理事会」でコンツェルンの解体が決定する[15]。各プラントは連合国軍の爆撃目標とされ、さらには1945年1月の解放の後、ソ連軍によって破壊されたため現在は残っていない。 |
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1940年1月25日 - ポーランド・オシフィエンチム市郊外の強制収容所建設を決定。
1940年5月20日 - 「アウシュヴィッツ第一強制収容所(基幹収容所)」[10]が親衛隊(SS)全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの指示により、ドイツ国防軍が接収したポーランド軍兵営の建物を利用して開所。強制収容所における画一的な管理システム、いわゆる「ダッハウモデル」を踏襲している。初代所長は、SS中佐ルドルフ・フェルディナント・ヘス。[11]ザクセンハウゼン強制収容所から移送された犯罪常習者30人が、最初の被収容者となった。 6月14日 - ポーランドの政治犯728人が到着。1941年 - 最初のガス室を備えた複合施設「クレマトリウム1」が第一強制収容所に完成。10月 - 収容者増加のため、ブジェジンカ村に大規模な「アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ」を建設。1942~1944年 - モノヴィッツ村周辺に、当時のドイツを代表する大企業の製造プラントや近隣の炭鉱に付随する形で、大小合わせて40ほどの収容施設を建設。この施設群は「アウシュヴィッツ第三強制収容所モノヴィッツ」[12]とも呼ばれる。1942年1月25日 - ヒムラーは、ドイツ国内のユダヤ人強制労働者(男性10万人・女性5万人)のアウシュヴィッツ移送を命令。1943年1~3月 - 105,000人を超えるユダヤ人が到着。 5月30日 - SS医師ヨーゼフ・メンゲレが着任。
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アウシュヴィッツ全体の警備は約6,000名のSSによって行われているにすぎず、対して被収容者は最大で14万人を数える。被収容者による「オーケストラ」が組織されていたことも事実である。強制収容所到着直後の被収容者には明るい曲を、強制労働に向かう被収容者には行進曲を奏でたとされる。オーケストラの存在は、収容所が「人道的に」運営されていると主張するための、カモフラージュの一環として行われた。多くを奪われ、失意のうちにアウシュヴィッツへ送られてきたばかりの人々にはかすかな希望を与え、日々重労働を課せられる被収容者には逆に腹立たしさを覚えさせた。SSにとっては余興でもあり、その本分は人心を巧みに利用した被収容者に対しての欺瞞と侮辱であったと言える。奏者は特別な待遇を受けることができたが(アルマ・ロゼに概要)、ゾフィア・チコビアクのように、「人々の死に自らの行為が間接的に関与していた」という思いから心に生涯にわたる傷を負った者もいた。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アウシュビッツでの死亡者数については諸説あり確定されていない。ニュルンベルク裁判は、「アウシュヴィッツで400万人が死亡した」と認定し、オシフィエンチム博物館の碑文にもそのまま「400万人」と記載されていたが、冷戦後の1995年「150万人」に改められている。また、これ以外の数値を挙げる研究家や学者もいる。 正確な人数がわからないのは、ほとんどのユダヤ人は到着したらすぐにガス室に送られ、ファイルに登録される前に殺されていったからだと説明されている。「強制収容所到着直後の選別で、70~75%がなんら記録も残されないまま即刻ガス室に送り込まれた」とされており、このため正確な総数の把握は現在にいたってもできていない。アウシュビッツの敷地内正門。「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」。実はARBEITの「B」が反対になっています。これはこのゲートを作らされた被収容者のせめてもの抵抗だったと言われている。この門をくぐった囚人たちは毎日労働に駆り出され、労働に行くとき、帰ってくるときスムーズに行進ができるように音楽隊が演奏をしていた。敷地の周りには鉄線が張り巡らされており逃げられないよう電流も流れていた。「ユダヤ人のための新しい場所がある。安住の地を与える」と言われていたから。収容所行の列車に乗る。シャワーに浴びると言われていました。使用したガスはチクロンBというものでした。元々は殺虫剤なので長く苦しんで死んでいったのです。死体は同じ建物内にある焼却炉で燃やします。
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(私論.私見)