ホロコースト史実検証3、パレスチナ強制移住説

 (最新見直し2006.8.7日) 

 「ナチスの蛮行としてのユダヤ人ホロコースト600万人説」の虚構が暴かれつつある。真実は、西欧各国居住ユダヤ人のパレスチナへの強制移送であり、ナチスがそれに協力して立ち退きを煽り、各地の強制収用所に中継させていた可能性が出てきている。その強制収用所に於ける病死、労働等が戦後になって不当にプロパガンダされ、「ナチスの蛮行としてのユダヤ人ホロコースト600万人説」へと教本化されていった気配が濃厚である。

 「イスラエルの正体(桜井ジャーナル)」は次のように記している。

 シオニズムが生まれたのは19世紀。帝政ロシアのポグロム(ユダヤ教徒虐殺)などが影響したとされている。ちなみに、修正主義の創始者ウラジミール・ジャボチンスキーは帝政ロシアのオデッサ、また労働シオニズムの指導者デイビッド・ベングリオンは帝政ロシア領ポーランドのプロンスクで生まれている。

 「ユダヤ人の国」の建設が現実味を帯びてくるのは、1917年11月にイギリス外相のアーサー・バルフォアがロスチャイルド卿に当てた書簡で「イギリス政府はパレスチナにユダヤ人の民族的郷土を設立することに賛成する」と約束してからである。

 ところが、シオニストは大きな問題を抱えていた。ヨーロッパや中東で暮らす多くのユダヤ教徒はパレスチナへの移住に興味を示さなかったのである。そこで、反ユダヤ政策を押し進めていたドイツのナチス政権に接触、ユダヤ人の移送などについて話し合っている。この事実を示す文書も残っている。

 調査ジャーナリストのエドウィン・ブラックによると、当時、ドイツに住むユダヤ教徒のうちでシオニズムを支持していたのは1、2パーセントにすぎなかったという。1940年代に入るとナチス政権はユダヤ人を強制収容所で組織的に殺し始めるが、この経験を経て、多くのユダヤ教徒がヨーロッパからパレスチナへ移住するようになったのだ。

 第2次世界大戦中、フランクリン・ルーズベルト米大統領はナチス政権下のユダヤ教徒をアメリカやイギリス、カナダ、ラテン・アメリカへ亡命させようと計画した。この案をアメリカの「ユダヤ人指導者」に提示したところ、大反対にあったという。シオニストにしてみると、ユダヤ教徒の行き先はパレスチナでなければならなかった。

 中東に住むユダヤ教徒も動こうとしなかった。例えば、その当時、イラクのバスラに住んでいた3万人のユダヤ教徒はパレスチナへ移住する気配はまったく示さなかった。こうした雰囲気を一変させたのが1941年の反ユダヤ運動とユダヤ教徒虐殺。イラク系ユダヤ教徒のジャーナリスト、ナエイム・ギラディによると、爆弾テロなどを繰り返していたのはシオニストだった。

 パレスチナ和平を実現するためには、まずユダヤ教徒とシオニストとを分けて考えることからはじめるべきかもしれない。

(私論.私見)

 これが実相とすると、「ナチスの蛮行としてのユダヤ人ホロコースト600万人説」の片棒担いできた反戦平和論者は何と皮相的な連中だろうか、ということになる。つまり、作り話しに乗せられ易い元々オツムが弱い連中なのかもしれない。れんだいこは、理論的研鑽の積み重ねとしてこの地平まできたが、それはごく普通のオツムでありさえすればそうなるだけのことであろう。問題は、頑としてこの地平にまで辿り着きたくないという非学問的な自称知識人が多過ぎるというだけのことであろう。

 2006.8.7日 れんだいこ拝


 この問題につき、西岡論文「南京とアウシュビッツ、『マルコポーロ事件』、ナチ『ガス室』はなかった」は次のように述べている。
 ナチスがその政策においてユダヤ人に不当な差別を加え、様々な圧迫を加えたことは紛れもな い事実である。そして、アメリカとの戦争に突入した後、ドイツ本国及びドイツの支配下に置か れたヨーロッパ諸国ではユダヤ人に対する圧迫が強まり、ユダヤ人を強制収容所に収容する政策 が全ヨーロッパ的規模で開始された。この点について、従来の説明は大筋で正しい。
 しかし、ヒトラー及びナチスの指導部は、収容したユダヤ人達の「絶滅」を計画したことなど ー度もなかった。ナチス指導部が計画したことは、強制収容所に収容したユダヤ人達を戦後、ソ 連領内などの「東方地域」に強制移住させることであった。彼らは、このユダヤ人強制移住計画をユダヤ人問題の「最終的解決」と名付け、東部戦線でソ連を打倒した後、実行するつもりでいた。
 ナチスドイツが、アウシュヴィッツなど、ポーランド領内に建設した強制収容所は、戦後ドイ ツがソ連を打倒、占領した後に実行する「最終的解決」のためのユダヤ人強制移住計画の準備施設であった。すなわち、ナチスドイツは、アワシュヴィッツをはじめとするポーランド領内の収 容所に収容したユダヤ人達を戦争中は労働力として利用し、戦後、ドイツがソ連に勝利した暁には、ソ連領内ほかの「東方地域」に強制移住させる計画であった。従って、この計画とは両立し 得ない「ユダヤ人絶滅」などをドイツ政府が計画、実行したことは、一度もなかった。
 ところが、ソ連戦線でドイツが敗退した結果、「ユダヤ人強制移住計画」は頓挫する。そして、 戦争末期の混乱の結果、ユダヤ人達がいた収容所の衛生状態が悪化し、チフス等の疾病の爆発的 発生が起きた。その結果、多くの罪のないユダヤ人達が収容所内で死亡した。
 戦後、それらの収容所で病死したユダヤ人らの死体を撮影した連合軍は、そうした病死者達の 死体を「ガス室」の犠牲者であるかのように発表した。
(私論.私見)

 これが実相とすると、ナチスのユダヤ人迫害に伴う強制収容所は存在したが、それは「ユダヤ人強制移住計画」の一環としてのものであり、600万人にも及ぶ大ガス殺執行のものではなかった、ということになる。これが案外史実なのではなかろうか。戦後の反戦平和運動は、ネオ・シオニストが拵えた捏造事件に振り回され過ぎてきたのではなかろうか。よしんば反戦平和に利益があろうとも、史実に基づかなければフィクション運動であり、それは有害ではなかろうか。

 2006.8.7日 れんだいこ拝





(私論.私見)