シオニズムが生まれたのは19世紀。帝政ロシアのポグロム(ユダヤ教徒虐殺)などが影響したとされている。ちなみに、修正主義の創始者ウラジミール・ジャボチンスキーは帝政ロシアのオデッサ、また労働シオニズムの指導者デイビッド・ベングリオンは帝政ロシア領ポーランドのプロンスクで生まれている。
「ユダヤ人の国」の建設が現実味を帯びてくるのは、1917年11月にイギリス外相のアーサー・バルフォアがロスチャイルド卿に当てた書簡で「イギリス政府はパレスチナにユダヤ人の民族的郷土を設立することに賛成する」と約束してからである。
ところが、シオニストは大きな問題を抱えていた。ヨーロッパや中東で暮らす多くのユダヤ教徒はパレスチナへの移住に興味を示さなかったのである。そこで、反ユダヤ政策を押し進めていたドイツのナチス政権に接触、ユダヤ人の移送などについて話し合っている。この事実を示す文書も残っている。
調査ジャーナリストのエドウィン・ブラックによると、当時、ドイツに住むユダヤ教徒のうちでシオニズムを支持していたのは1、2パーセントにすぎなかったという。1940年代に入るとナチス政権はユダヤ人を強制収容所で組織的に殺し始めるが、この経験を経て、多くのユダヤ教徒がヨーロッパからパレスチナへ移住するようになったのだ。
第2次世界大戦中、フランクリン・ルーズベルト米大統領はナチス政権下のユダヤ教徒をアメリカやイギリス、カナダ、ラテン・アメリカへ亡命させようと計画した。この案をアメリカの「ユダヤ人指導者」に提示したところ、大反対にあったという。シオニストにしてみると、ユダヤ教徒の行き先はパレスチナでなければならなかった。
中東に住むユダヤ教徒も動こうとしなかった。例えば、その当時、イラクのバスラに住んでいた3万人のユダヤ教徒はパレスチナへ移住する気配はまったく示さなかった。こうした雰囲気を一変させたのが1941年の反ユダヤ運動とユダヤ教徒虐殺。イラク系ユダヤ教徒のジャーナリスト、ナエイム・ギラディによると、爆弾テロなどを繰り返していたのはシオニストだった。
パレスチナ和平を実現するためには、まずユダヤ教徒とシオニストとを分けて考えることからはじめるべきかもしれない。
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