ホロコースト史実検証2、ガス室その他 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和/令和3).6.4日
(れんだいこのショートメッセージ) |
歴史は実証主義をベースにしなければ黒が白と言い含められたり詐術を許すことになる。ホロコースト検証には明らかにこの精神が欠けている。「5W2H」は思考の基本中の基本であるからして、当然ホロコーストにも適用されるべきであろう。シオニズムが世界を席巻しつつある時代に於いて、明らかにシオニズムに利する結論を論証も為しに押し付けられて受け入れ、その尻馬に乗って正義ぶった論を吹聴することはアホウ丸出しだろう。そういう意味で、誰しも共有できる史実確認に向かうべきだと考える。 2004年現在でも、巷間伝えられているホロコーストの伝聞を史実として確認することが民主主義と左派精神の証の如く位置づけられており、これに疑問を投げかける者には容赦ない罵声が浴びせかけられている。さほど知識を持たない者までが安易に付和雷同して、罵詈雑言の列に連なっている。 しかしれんだいこは指摘しておこう。いわゆるホロコースト論は、第二次世界大戦を「民主主義対ファシズムの闘い」として描くネオシオニズム的国際主義プロパガンダの延長のものであり、イスラエル建国を正当化させるの都合上で悲劇の民性をプロパガンダしたものであり、吟味されたものではない。ここで云う民主主義と本来の左派精神とは基本的に関係なく、ホロコースト論が親シオニズムか反シオニズムかのリトマス試験紙として使われているに過ぎない。 それをどう勘違いしてか、あたかも民主主義と左派精神の橋頭堡として「ホロコースト神話の堅塁を守り抜くことこそが民主主義者にして左派精神の証」であるかのように擬態されている。これと同じ姿勢で南京大虐殺事件が指弾され、靖国神社が弾劾されている。2006年現在、この観点が新旧左翼に共通している。 れんだいこは、この仕掛けをいったんぶち壊そうと思う。依拠すべきは史実であり、そこから汲み上げられ積み上げられた論拠によって民主主義と左派精神を証しようと思うから。リアリズムこそ基礎にすえるものであり、虚構に立った正義論は我々が選ぶ道ではない。そういう正義論は却って邪道であると確信するから。我々は、史実をもっとリアルにリアルに徹底解明されねばならない。その上で、判明する限りの史実に則り、事件を告発し続け、歴史責任として受け止めていくべきではなかろうか。現状は情緒的扇動が強すぎて、れんだいこは唱和の列に連なることができない。 2006.3.23日、再編集するに当りどっちつかずのスタンスを転換させ、「ホロコーストのウソ」を暴く視点から説くことにした。 2004.8.7日、2006.3.23日再編集 れんだいこ拝 |
【「アウシュビッツ強制収容所展示館・国立オシフィエンチム博物館」】 |
「ア ウ シ ュ ヴ ィ ッ ツ 1 」、「アウシュビッツ強制収容所」その他を参照する。 ポーランドの強制収容所跡が保存されており、現在「アウシュビッツ強制収容所展示館」となっている。収容所は二重に張り巡らされた高圧線の有刺鉄線フェンスに囲まれ、囚人を監視する為に一定の間隔で監視塔が設置され、赤レンガで築かれた28の収容棟がある。鉄道で運ばれてくる収容者を降ろした停車場から門に向うと、「働けば自由になる」という文字が掲げられている。解放から60年をへた今も当時のままに保存されている施設は、来訪者をうちのめす。展示館には、ナチスの犯行を象徴する「めがね」、「靴」、「髪の毛」、「入れ歯」、「歯ブラシ」、「義手、義足」、「洋服」等々の遺品がガラスケースの中に収納されている。何万人もの収容者の本物の髪の毛が積み上げられ、その髪の毛で織ったじゅうたんや生地も展示されている。ガス室と焼却炉も保存されており、ガス室で死のシャワーを浴びせられた囚人は隣の焼却炉で焼かれた。3台の焼却炉で一日350人が焼かれたという記録が残されている、と云う。 これを見れば。「ナチス・ドイツは廃物利用可能なありとあらゆるものを収容者から奪い、丸裸にしてガス室へ送り込んだ」様子がリアルに伝わってくる。「遺品の山は、人が人に、どこまで残虐になれるのか」を黙示している、と云う。 |
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れんだいこが疑問なことは、「アウシュビッツ強制収容所展示館」において、政治が人に為した残酷さを二度と繰り返してはならないと呼びかけているユダヤの人々が、何ゆえに2005年現在でもアラブの民に同様のあるいはそれ以上とも思える強権政治ー軍事を強制しているのかである。今現在進行中の「グァンタナモ刑務所、アブグレイブ刑務所、ファルージャでの蛮行」を見よ。 これらの惨劇はたまたまの間違いなのか。種々考えると、「アウシュビッツ強制収容所展示館プロパガンダ」そのものにウソがあるのではなかろうか。史上、最も残忍なテロルと虐待を弄び、それをも科学し続けてきたのはサタン論理に染まった歴史的ユダヤの原理派側なのではなかろうか。こういうことを考えるのが思想というものだろう。 「アウシュビッツ強制収容所展示館」の語り部が、イスラエルのパレスチナでの悪業について、ネオコンのアフガン、イラクでの悪業について黙するとしたら、現実にそうなっている場合が多いのだが、何やら底が浅く見えてきて仕方ない。こう考えるのはれんだいこ一人であろうか。 それと、だいたいアウシュビッツ強制収容所のガス室と焼却炉の処刑システムが出来過ぎではなかろうか。今日でさえ死体焼却は汚臭を放つ。当時の囚人はその汚臭の中でシャワーを浴びせられるガス室に従順に向ったということになるが、ユダヤ人の知性はそれほど愚昧な訳が無かろう。云えば云うほど語るに落ちる話ではないか。これについてホロコースト論者の説明を求めたい。 一体、一日何人の死体焼却されたのかについても諸説有り過ぎで、「3台の焼却炉で一日350人が焼かれた」から「2千の死体が12時間かかって5つのかまどで焼却された」まで幅広い。現物の「アウシュビッツ強制収容所展示館」があって何故に諸説分かれるのであろうか。責任ある検証が為されていないということを示しているのではなかろうか。 2005.1.30日、2006.3.23日再編集 れんだいこ拝 |
【通説「アウシュビッツ論」について】 |
「ア ウ シ ュ ヴ ィ ッ ツ 1」、「ヒトラーの対米宣戦とホロコースト」その他を参照する。それによると、「通説アウシュビッツの大虐殺」は次のような手順で遂行されたようである。 |
1939年、ポーランドを占領したドイツは、クラクフに作戦司令部を置いた。クラクフは、国内の鉄道の分岐点として、また、全ヨーロッパの鉄道の拠点として、地の利を得ている。これに目をつけたナチスは、1940年、クラクフから50数キロメートル離れたポーランドとチェコの国境に近いオシフィエンチム村(ポーランド地名)に、強制収容所を建設した。ここには元々ポーランドの監獄があり、戦争前にはポーランド軍の基地であったので広大な跡地が使え、収容所の増設や隔離に好都合だった。また、人口密集地から遠く離れているので、強制収容所の情報が、外部に漏れる心配がなかった。 アウシュヴィッツ強制収容所は、初めはポーランド人の政治犯を収容する目的だったが、次第に、ユダヤ人やロマ人などの劣等民族の絶滅作戦を展開する場所となり、また、ソ連の共産主義者、占領下の国々の反ナチス活動家、同性愛者、etcを捕らえ、収容する場所となって、拡張されていった。 1942年、アウシュヴィッツが手狭になって、3キロメートル離れたビルケナウ(ポーランド名はブジェジンカ)村に、アウシュヴィッツ第2収容所として、それまでの10倍の規模の強制収容所を建設した。こうして、アウシュヴィッツは、集団虐殺を工業化!するシステムを持つ場所となった。ドイツの敗北が色濃くなった1945.1月、強制収容所を破壊する暇もなく、ドイツ軍は撤退したので、その姿が白日の下に暴かれ、ナチスの罪状をあるがままに、世界に知らせることになった。現在、「アウシュヴィッツ強制収容所」は「国立オシフィエンチム博物館」となってユダヤ人虐殺を物語る歴史的記念館として保存されている。 ユダヤ人の大虐殺は如何なる手順で実行されたのか、これを見ておく。ユダヤ人はゲットーからの立ち退きを迫られ、集団で家畜用の貨物列車に乗せられて各地の強制収容所に送られた。輸送を担当したのはドイツ国有鉄道で、乗車運賃も決まっており一人あたり4kmで4ペニヒだった。 収容所入り口のゲートには、「ARBEIT MACHT FREI 働けば自由になる」と標語されていた。このゲートをくぐった人は凡そ150万人とも、200万人ともいわれ、ビルケナウを加えると400万人になるという。そのうち、生きてこの場所から自由になったのは、ビルケナウと合わせて、数千人だったとか。ゲートを入った70〜80%人は、働く前に死へ直行した。こうしてアウシュヴィッツに到着した日が人生の終わりになった人は、1日7千人〜1万人にも上ったという。 「トランクなどのわずかな荷物を抱えてユダヤ人が送られてくる。持った人々は、ホームに立つSS(ナチスの親衛)隊員と医者の判断で、健康な働ける人は「左」へ、老人・妊婦・子ども・乳飲み子を抱える女性は「右」へ、次々に振り分けられ選別された。選別を担当した医師の一人メンゲレ博士の選別の仕方は、オーケストラを指揮する指揮者のようだったと云われている。 右へ向かったグループは虐殺コースに入る。「長い旅でたいへんでしたね。シャワーを浴びて、さっぱりしましょう」と促され、「浴場」ないしは「シャワー室」の掲示のある場所に向かい、裸にさせられた。「シャワーを浴びる間、荷物は預かってあげましょう」、「長旅でお疲れでしょうからお子さんを保育園にお預けなさい」と親切に!言われ、1度に250人が入る大浴場へ導かれた。扉の錠がかけられると、5度Cで気化するチクロンBが、天井の穴から注ぎ込まれ、15分後には窒息して死亡した。毒ガスによる殺害は、最初のうち車の排気ガスを使用して行われたが、後に殺虫剤として使われていたチクロンBが、最も効力を持っているとして使われ始めたという。 30分後には死体が運び出され、次のシャワーを浴びる人が入ってくるという流れ作業が続いた。死者からは、金歯を抜き、髪の毛を切り、指輪や耳飾りを剥ぎ取る作業が、同じ収容者たちによっておこなわれたという。預けられた子供達の多くは人体実験の被害者となっていったともいう。 一方、左に振り分けられた人は労働コースに入る。「囚人番号のついた囚人服に着替えさせられた。後には、アウシュヴィッツだけだったが、囚人番号は腕の入れ墨になっていく。囚人服には、政治犯には赤、凶悪犯罪者は緑、男色家はピンク、淫売婦は黒、聖職者は紫、ユダヤ人は、ダビデの星(後には、3角の上に黄色の筋をつけたもの)、ポーランド人はP、ロシア人はRの印をつけて、区別された。 なお、このようにナチスは組織的にユダヤ人殺戮を行いましたが、個人的な犯罪に対しては厳格であった。ブーフェンバルト強制収容所司令官だったカール・コッホは、個人的にユダヤ人を殺害した罪で絞首刑に処せられている。 |
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「ホロコースト通説」は、凡そ以上の物語となるが、既に述べたように毎日毎日死体が焼かれ続けている状況下では有り得ないことと受け取るのが常識ではなかろうか。れんだいこは、「作られたウソ」とみなしたい。 2006.3.23日 れんだいこ拝 |
【通説「ガス室存在裏づけ文書」について】 | |
ダッハウのガス室について、その存在を裏付ける文書証拠も発見されている。ダッハウで被拘禁者を材料に行われた人体実験の責任者として知られる
Sigmund Rascher博士が、1942.8.9日にヒムラーに宛てて送った手紙。
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これに対して、ガス室自体が存在しなかったという「ガス室作り話説」がある。それによると、600万どころか100万人ですら処理できる設備など、すべての収容所のどこを探してもなかった、と云う。「死体の焼却炉」についても、ガス室で殺したユダヤ人を大量に処分できるようなものではなかった
。大量虐殺が事実であると印象付けるために、焼却炉をことさら強調して幻惑しているに過ぎない、と云う。 収容所で死んだ人は、蔓延した伝染病が原因の疫病死だった。アンネ・フランクも、発疹チフスで死んだと云う。
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【「アウシュビッツ強制収容所での体験証言による処刑システム通説」】 | |||||||||||||||||||||||||||||||
「ヴィクトール,E,フランクル著/霜山徳爾/訳『夜と霧』−ドイツ強制収容所の体験記録」(みすず書房、1961年初版)に、ホロコースト現場の生々しい様子が次のように記述されている。ちなみに、著者のフランクル(1905〜97)はユダヤ人の精神医ということである。
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【「木村愛二氏のアウシュビッツ強制収容所での体験証言批判」考】 | |||
「アウシュヴィッツの争点」(1995年)の著者、「偽イスラエル政治神話」の訳者でもある木村愛二氏は、「V.E.フランクル/著/霜山徳爾/訳『夜と霧』−ドイツ強制収容所の体験記録」に対して、「アウシュヴィッツの争点、第6章:減少する一方のガス室」の中で種々疑問を提起している。れんだいこの理解の及ぶところ次のような話になる。 木村氏は「ガス室」の存在について疑義を呈している。アウシュヴィッツなどのナチスの捕虜収容所でも大流行した発疹チフス対策として設置された「消毒室」を「ガス室」として喧伝していった経過があるのではないかという。ユダヤ人を大量に強制移送したドイツ軍は、かれらを収容所にいれる前に、それまで着ていた衣服を全部ぬがせ、シラミの卵がうえつけられている可能性のたかい髪を刈り、シャワーを浴びさせた。衣服は別室にまとめ、殺虫剤チクロンBで薫蒸することよってシラミを駆除した。チクロンBと薫蒸室には、毒物の危険を知らせるために、どくろマークがつけられた、という。従って、概要「ガス室殺人は存在せず、それは発疹チフス対策としての消毒であった」と主張している。これは卓見かも知れない。 木村氏は、「衣服や髪の毛の山」とか、「どくろマーク」つきの「チクロンB」とか、おなじく「どくろマーク」つきの部屋とかが、そのまま強制収容所にのこされていた謎を解明する。それらの遺留品や設備はこれまですべて「ホロコースト」の物的証拠だと主張され、世界中の「ホロコースト記念展」などで写真や実物の展示までされてきたが、本当にそれだけの凶悪な犯罪の物的証拠ならば、なぜドイツ軍は、日本軍の七三一細菌部隊がそうしたように、撤退にさいしてそれらを破壊または焼却しようとしなかったのだろうか。この破壊作業は、要塞なみに頑丈につくられた鉄筋コンクリートの建物を相手にした七三一部隊の場合よりも、はるかに容易だったはずである、と疑問を投げかけている。これも卓見かも知れない。 木村氏は、仮に「ガス室」だったとしても、「ロイヒター報告」の「最大に見積もっても10万人そこそこを殺すのがやっとだろう」との見解を支持している。ニュルンベルグ裁判の証拠「L・022」で主張された2年間で「176万5000人」の10分1にもならない、と云う。これも卓見のような気がする。 木村氏は、以上を踏まえて次のように述べている。
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【「バルセロナより愛を込めて氏の毒ガス伝説批判」考】 | ||
バルセロナより愛を込めて氏は、「阿修羅ホロコースト2」で、2006.3.4日付投稿「アウシュビッツ・ガス室伝説の化学的および毒物学的不可能性(Rense.com)」で次のように述べている。これを転載する。
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【「西岡昌紀氏の指摘」について】 | ||||||||||||
西岡昌紀氏は、「阿修羅ホロコースト1」の中で次のように指摘している。
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「★阿修羅♪ > ホロコースト6」の2015.2.7日付投稿「ディーゼル・エンジンの一酸化炭素でガス 室を作れるか?−−「ホロコースト」の教義の科学的不合理」で次のように記している。
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【マウトハウゼン収容所でも「ガス室」の大嘘?】 | ||||
「云われるところの毒ガス致死に対する疑問」は既に多くの方から指摘されている。以下、2005.5.9日、バルセロナより愛を込めて氏が「阿修羅ホロコースト2」に「マウトハウゼン収容所でも「ガス室」の大嘘?」を参照し、れんだいこ風に整理してみる。 「ナチ収容所で死んだ5000人のスペイン人たち(エル・ムンドより)」は、「マウトハウゼン強制収容所」について次のように述べている。
木村愛二氏は、サイト「憎まれ愚痴」の「ホロコースト神話一覧」の「 シオニスト『ガス室』謀略の周辺事態、『私にガス室を見せるか描くかせよ』」の中で次のように述べている。
木村氏の阿修羅投稿「ブッシュらの修正主義者呼ばわり以後に牢屋入り覚悟で戦う事例続発し反撃の好機」(http://www.asyura.com/0306/war36/msg/487.html)は次のように述べている。
はちまき伍長氏の2005.5.10日付け「第二ロイヒター報告」(http://www.asyura2.com/0505/holocaust2/msg/108.html)は、「歴史的修正主義研究会のサイトにある試訳:第二ロイヒター報告(ダッハウ、マウトハウゼン、ハルトハイム調査報告書、フォーリソンの序文つき)」( http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/leuchter_02.htm)の次の一節を紹介している。
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Re:れんだいこのカンテラ時評その110 | れんだいこ | 2005/10/10 | ||||||||||||||||||||||||
【ネオ・シオニズムの「ホロコースト・プロパガンダ」考】 「ホロコーストの史的真実」を廻って、「ガス室論争」はかなり為されている。ところが「死体焼却論争」はあまりお目にかかれない。そういう中で、木村愛二氏の季刊誌「真相の深層春号」の「ホロコーストは真実か、虚構か?」(イラク共産党カーデル派のヌーリー・ムラーディー氏著、斎藤力二郎氏訳)が貴重な見解を披瀝している。これを検証する。 イラク共産党カーデル派とは、現在イラク暫定政権に参加しているイラク共産党とは袂を分かつ別党である。各国各地の共産党は日共もそうであるが、今やネオ・シオニズムに取り込まれている。イラク共産党カーデル派は、そういう仕掛けを拒否して反占領姿勢を鮮明にしている良質な党である。そのイデオローグであるムラーディー博士は次のように云う。 ヒットラーが600万人のユダヤ人をガス炉で焼却したというこの事件が起きた時期は、第二次世界大戦(1939ー1945年)の最初の3年間とされている。このような大規模で恐るべき犯罪行為は、以下どちかの可能性がなければ起こりえなかったであろう。 1、どのような形にせよ、世界中がこの犯罪行為に加担したか。 2、加担者の誰かがこの物語を創作し、これを事実として世界中に宣伝したか。 どちらかである。どちらの可能性がより高いのであろうか? ムラーディー博士はこのように問いかけ、「ホロコーストの各要素を見てみよう」と述べて、概要以下のように主張している。(れんだいこ風に意訳している)
(れんだいこの私論.私見) れんだいこは思う。ムラーディー氏の検証にはなかなか説得力がある。れんだいこもホロコースト物語のウソにうすうす気づき始めているが、新観点で補強されたことになる。未だに尻馬に乗り正義ぶる手合いが後を絶たないので貝にならざるを得ないが、いずれ決着付けねばならない。戦後左派運動は、新旧左翼を問わずその反戦平和運動理論を再検証すべきではないのか。「作られた常識」なら覆さねばなるまい。こういう理論的営為をおろそかにしてはなるまい。 2005.10.10日 れんだいこ拝 |
【ホロコースト考最新見解】 | ||||||||||||||||
「ヘブライの館2」の「公式に否定された絶滅収容所『ダッハウ収容所』」は「ホロコースト考最新見解」として注目される(「阿修羅ホロコースト2」の救国の草莽の志士氏の2006.2.12日付け投稿「公式に否定された絶滅収容所 投稿者
鉄人 氏が雑談版に投稿していた語源の代名詞「ダッハウ収容所」の真相 転載」)。これを転載しておく。
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「阿修羅ホロコースト2」の西岡昌紀氏の2006.2.12日付け投稿「フランツ・ブラーハ(Franz Blaha)の「証言」は何だったのか?」は次のようにコメントしている。
「★阿修羅♪ > ホロコースト6」の西岡昌紀氏の2011.5.1日付け投稿「(書評)シュロモ ヴェネツィア著『私はガス室の「特殊任務」をしていた』」は次のようにコメントしている。
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(私論.私見)