あとがきにかえて
以上で、私の話は終わりです。ただし、この本に書いた事柄は、「ホロコースト」に関する問題点の全てを網羅していません。ですから、この本の内容が、「ホロコースト」に関して投げかけられている疑問の全てであるなどとは、決して誤解なさらないことをお願いしたいと思います。「ホロコースト」に関して再検討されなければならない問題点は膨大であり、とても、このような本の一冊や二冊で網羅し切れるような量ではありません。
また、「マルコポーロ」廃刊事件についてもこれ以上繰り返しませんが、第1章で述べたことの内、もう一度だけ強調しておきたいのは、この廃刊事件に日本の中央官庁が深く関与していたという事実です。詳しいことはお話しできませんが、中央官庁の官僚たちが明らかに職権を乱用する形で、この国の言論に介入したことは、銘記されるべきことだと思います。
言うまでもないことですが、官僚には、脅迫や圧力によって言論に介入する権限など与えられていません。いかなる問題についても、です。このような人々が日本の中央官庁に存在し、当時、事件に関与していたことは、それらの官庁にとってのみならず、わが国全体にとって恥ずべきことだったのではないでしょうか?
それから、本文中でも触れたことですが、この「マルコポーロ」の私の記事には幾つか、正しくない記述もありました。具体的には、チクロンB(英語名:サイクロンB)の物性に関して、それを加熱することが使用上、不可欠であるかのように記述したことなどがそうで、この本をお読み頂ければ分かる通り、チクロンBの使用において、加熱は重要な過程ではありますが、必要不可欠ではありません。また、このことに関連しますが、「マルコポーロ」の記事の中で私は、チクロンBの使用に際し、長時間が必要とされることをチクロンBの殺傷力が低いかのように解釈していますが、これも正しくありません。この本の本文で詳しく説明した通り、チクロンBは、猛毒である青酸ガス(HCN)を遊離し切るのに非常に長い時間を必要とします。ですから、それが、この製剤を「大量殺人」に転用することの難点であることはこの本で述べた通りですが、それを、チクロンBの殺傷力の問題と混同していたことは、当時の私の不勉強の結果であり、ここで改めて訂正させて頂きたいと思います。
この他にも、「マルコポーロ」の私の記事には、その細部に不正確な記述や舌足らずな表現があり、これを執筆した当時の自分が不勉強であったことについて、重ねて自己批判をしたいと思います。しかし、もちろん、ドイツがユダヤ人を迫害したことは明白でも、「ユダヤ人絶滅」と「ガス室」の存在に根拠と呼べるものが何もなく、これらを到底信じることができないという私の主張の大旨には、当時も今も変わりはありません。右の点を含め、「マルコポーロ」の私の記事における不正確な記述、表現等については、この本をもってお答えできるものと考えております。なお、「マルコポーロ」の私の記事におけるそうした誤り等については、「マルコポーロ」廃刊の直後に、既にパソコン通信で私の立場を明らかにし、自己批判をしていますので、それらの点にご関心のある方は、PCVAN−落丁&乱丁−の95年2月から8月までの私のMSG(交信記録)をご一読下さい。
それから、「マルコポーロ」廃刊事件の後、単行本、雑誌などに現われた反応について、一言申し上げたいと思います。先ず、はっきり申し上げると、失望させられるものが多く、特に、感情的な反発が多いことに深く失望したことを申し上げておきたいと思います。
例えば、そうした反論者の何人かは、私への批判の中で、本文中でも引用したJ・C・プレサック(Pressac)の89年及び93年の著作をしばしば引用していました。しかしながら、これらの方たちは、プレサックの著作の内容を正しく把握していないように思われます。本文中でも触れましたが、プレサックに対しては、フォーリソン、バッツ、ウェーバー、マットーニョなどの見直し論者から、既に何度も批判が加えられています。
詳細は、本文中で挙げた文献などをお読み頂きたいと思いますが、私はこれらの論文、著作によって、プレサックの主張は既に論破されていると判断しています。また、プレサックの著作には、単純な計算違いなども含めた間違いが多いことは、特に第3章注38の文献に詳細な指摘がありますので、この文献などは必ずお読み頂きたいと思います。実際、プレサックの二冊の本は現在、絶版になっていますが、見直し論者への「反論」として鳴り物入りで出版されたこの二冊の本が絶版になってしまったのは、果たして彼の著作のこうした問題と無縁なのでしょうか?
それから、こうした反論者たちの文章を読んで私が奇異に思うことの一つは、見直し論者を批判するのに、その見直し論者の文献そのものを参考文献として挙げていないことがとても多いことです。例えば、「マルコポーロ」廃刊事件後、私への批判をこめて出版された本の一つである『アウシュヴィッツとアウシュヴィッツの嘘』(ティル・バスティアン著 石田勇治・星乃治彦・芝野由和編著 白水社)を読むと、その末尾に「参考文献」のリストが載せられています。ところが、その「参考文献」の内容を見ると、何と、批判の対象である見直し論者(リビジョニスト)の文献は挙げられていないのです。この本の日本人編著者たちは、見直し論者の著作を読まずに、見直し論者を批判しているということなのでしょうか?
さらに言うなら、そうした「専門家」の中には、「論争など存在しない」と言う方がおられるようですが、これなどは、殆ど信じがたい発言です。「論争が存在しない」なら、あのプレサックは一体何のためにあんな厚い本を二冊も出版したのか、そして、彼ら自身、何故、こんなにたくさん本を出版したのか、教えて頂きたいと思うのは私だけではないはずです。
私は、彼らが固執しているものが、歴史の真実に関する彼らの信念よりも、むしろ自分たちの体面と学会の権威であるように思えるのですが、これは、門外漢の思い違いに過ぎないでしょうか?
その他、マスコミ全体に対して私が問いたい事は、この問題に限らず、アカデミズムを検証、批判することを何故ためらうのか、という疑問です。ジャーナリズムとアカデミズムは、本来お互いを検証すべきなのに、特にジャーナリズムの側には、そんな精神が全く見られません。それどころか、大学の先生のコメントさえ引用すれば、それで事実の検証は事足りるとでもいうような、官僚的というか、安易極まりない態度が、朝日新聞や毎日新聞をはじめとする新聞、雑誌、それにテレビ等には満ち満ちています。この問題が露呈していることの一つは、日本の文科系アカデミズムが戦後、半世紀もの間、彼ら自身による検証を行なわず、ただ、ドイツなどで出された体制的出版物を翻訳してきただけだったという現実なのですが、こういうことを指摘し、批判するのは、ジャーナリストたちの仕事の一つではないのでしょうか?私が会ったジャーナリストたちの多くは、このような自覚そのものが全くないのです。
こうしたことの一方で、私は、ご批判を下さった方たちに、直接に、或いは出版社、雑誌編集部などを通じて、直接お会いし、意見を交換することを申し入れてきました。しかしながら、数度に渡る私のそうした申し入れは、私が極めて丁重にそうした申し入れを行なったにも拘らず、何故か全て拒絶されたことを読者の皆さんに報告しておきたいと思います。
その一方で、「マルコポーロ」廃刊事件の前後に、私にご教示を下さり、或いは励ましを与えて下さった多くの方には、ここで改めて、深謝の気持ちを表させて頂きたいと思います。特に、ジャーナリストの木村愛二氏からは、多々ご教示を頂いたのみならず、本文中で使用した資料の一部の提供をして頂いております。記して感謝したいと思います。
また、ユダヤ人でありながら、「ガス室」神話に疑問を投じ続けるアメリカの見直し論者デイビッド・コウル(David
Cole)氏は、「マルコポーロ」廃刊事件の直後、自費で来日して、私を支援して下さいました。氏のご好意と友情には、感謝してもし切れません。
それから、「マルコポーロ」廃刊事件の後、それまで、その著作のみを通して知っていたフランスの見直し論者フォーリソン教授とは、国際電話を通して、度々お話をさせて頂く機会を得ることができました。その際、フォーリソン教授は、私の質問一つ一つに本当に丁寧に答えて下さいましたし、特に、絶版で入手できなかったプレサックの93年の著作を郵送して下さいました。このことについて、記して感謝の気持ちを表させて頂きます。
さらに、この本の執筆に際しては、前述のフォーリソン教授の他、アメリカの見直し論者であるマーク・ウェーバー氏にも、国際電話による電話取材を何度もさせて頂きました。その際、ウェーバー氏は、私の長時間の質問に丁寧に答え、特に、自身の論文に関する私の質問に対しては、後日、引用した資料のコピーを郵送して下さいました。私は、氏のこうした公正な態度に敬意を表したいと思います。また、私は、ウェーバー氏に対し、しばしば重箱の隅をつつくような質問をし、その際には、今にして思えば非礼な点もあったと思いますが、氏がそれらの全てに答え、このような態度で応じて下さったことに、心からの感謝を表したいと思います。そして、氏がプレサックの89年の著作を貸与して下さったことについて、そのご厚意に深く感謝したいと思います。
その他にも、日本国内で、「マルコポーロ」廃刊事件前に、この問題に関する研究会を開くことにご援助下さったA先生、化学兵器の権威として多々ご助言を下さったB先生、中東問題について種々ご教示下さったC先生、D先生、「マルコポーロ」廃刊事件後、精神的支援を与えて下さったジャーナリストのEさんなど、私にご教示、或いは励ましを下さった方々は、数え切れません。本来なら、それらの方々全ての名前を挙げ、感謝の気持ちを表させて頂きたいのですが、この問題についてはかえってご迷惑をお掛けする可能性があるので、あえて匿名とさせて頂く非礼をお許し頂きたいと思います。特に、「マルコポーロ」廃刊事件後も私を励まし続けて下さった、文芸春秋社内の心ある編集者の方たちには、心からの感謝と友情を表したいと思います。そして、花田紀凱「マルコポーロ」編集長(当時)には、同誌廃刊事件当時のご心労に対し改めてお見舞い申し上げるとともに、今後の益々のご発展をお祈りさせて頂きたいと思います。
この本の執筆に使用した資料は各章末尾の参照文献に明示してありますが、技術的理由から、完全な資料リストにすることはできませんでした。この点は、読者にお詫びしておきたいと思います。
最後に、この問題に関心を持った全ての方に、読んで頂きたい本があります。それは、ジャーナリストの木村愛二氏が既に発表している『アウシュヴィッツの争点』(リベルタ出版)という本です。この本には、私のこの本には書かれていない多くのことが述べられています。そして、私がこの本を書いている現時点では、「ホロコースト」見直し論の立場で書かれた、私のこの本以外の唯一の日本語の研究書ですので、本書を読まれた読者の方は必ず、この本を合わせてお読み頂きたいと思います。[この本は現在、入手しにくいかも知れませんので、リベルタ出版(電話03−3293−2923)に直接、購入をお申込みになることをお勧め致します]
西岡昌紀−− (全巻終はり)
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)295〜302ページより)
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