れんだいこのホロコースト論 |
更新日/2017(平成29).11.10日
(れんだいこのショートメッセージ) |
本稿は「ホロコースト論争とは」と姉妹版サイトである。 仮にナチスによるユダヤ人虐殺が史実であったとしても、イスラエル建国以降今日までネオシオニストがパレスチナで為してきた、現に為している、こたびのイラク戦争も含めての犯罪を告発せねばいかん。被害数的にも規模的にも使用残虐兵器に於いても既にもっと酷いことを為しているのではないのか。ここに目が行かないホロコースト論なぞあってたまるか。更に、ホロコーストが偽造の煽りだったとしたら一体どういうことになるのだ。 2005.12.17日 れんだいこ拝 |
Re:いろいろ云いたいことがあるんだ。 | れんだいこ | 2003/05/04 |
オレンジジュースさんちわぁ。 > 木村愛二氏の行なっている「ホロコーストはなかった」という主張に関しては、これは大きな誤りだと思います。 そんなことないよと云ってみても始まりませんのでこれについては議論を見合わせます。れんだいこが云いたいのは、ナチスによるユダヤ人虐殺が史実であろうとも、イスラエル建国以降にユダヤ人がパレスチナで為してきた、現に為している、こたびのイラク戦争も含めて、被害数的にも規模的にも既にもっと酷いことを為していると思っております。 この観点は、ナチスによるユダヤ人虐殺を指弾しないというのではなく、それを指弾する者がパレスチナのアラブの悲劇に目を遠ざけるのは不正だと云うところに力点があります。しかしそれなのに、そういうスタイルが通用しているようで解せないことです。 今仮に、アンネの日記の読書会、講演会のようなものを企画してナチスの犯罪を弾劾して回ったとして、現に為しているイスラエルの暴挙に一言も語らなかったとしたら、れんだいこはとても付き合いきれません。 丁度今日は(おっと昨日になっていた)、憲法記念日です。不戦平和を世界に宣言して50有余年、日本は稀有な立派な国家で有り得て参りました。我が国に真に有能な政治家が居たなら、肌の色からしても唯一かもしれません日本こそが陰惨すぎるパレスチナ紛争打開のイニシアチブを取る資格があるようにさえ思えます。 小泉はんも川口はんもいろいろ提言しているのですが、ブッシュはんのお先棒を担いで回るだけのエージェントしております。今は多少の経済援助ができますから迎えてくれておりますが、我が国は借金中毒症状でまもなくケイレンし始め、海外援助もできなくなるでせう。そうなると、仮にのこのこ出かけるとしたら鼻つままれてたたき出されるでせう。 あぁしかし、我が国は経済危機はものかは軍事防衛に花が咲いており、先制攻撃戦略まで飛び出しつつあります。北朝鮮問題も、当事国の韓国と一衣帯水の日本がつまはじきにされたまま中国とアメリカで話が進められており、それに対してあんじょう頼みますてなことしか云えず誰も訝らない。何でこんな世の中になってしまったんだろう、無茶苦茶や。いけねぇまた氷嚢が氷嚢が。 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その130 | れんだいこ | 2005/12/15 | ||
【アフマディネジャド大統領発言考】 2005年が暮れようとしている。今年一年の最大の出来事は何だったのだろうかと考え、れんだいこは、イランのアハマディネジャド大統領発言を画期的と認めたい。アハマディネジャド大統領発言は、「いわゆるユダヤ人問題」の核心に触れたものだが、一国の現役の最高責任者がかような発言を為し得るようになったことに驚きと潮の流れの変化を感じる。 アハマディネジャド大統領は既に、10月末、「イスラエルは地図から抹消されるべきだ」と発言している。これは、イスラエル建国史を身近に見てきた者たちの腹の底からの思いのような気がする。「2005.12.8日発言」はその理由を簡潔且つ挑発的に次のように述べている。
12.14日、イランのアフマディネジャド大統領は、新たに次のように発言した。
れんだいこは、この発言をなぜ重視するのか。それは、これは中近東の話に止まらないからである。この認識こそ、第二次世界大戦以来神話化され拵(こしら)えられたシオニズム型反戦平和思想及び運動を正面から狙撃しているのではないのか。反戦平和思想及び運動が今日ほど大事なことはない。しかしながら、手前勝手過ぎるシオニズム的なそれではなく、新たなる「反戦平和思想及び運動」の創造に於いてこそ必要なのであり、このことを問わず従来式のシオニズム的な「反戦平和思想及び運動」を呪文の如く唱えればよいというものではない。その時代はもう終わった。 アフマディネジャド大統領発言は、そういう認識の転換点ののろしとなるように思える。油断と予断は許されないが、戦後60年間世界を席巻し続けたネオシオニストが掣肘されそうな気配を感じる。悪貨が良貨を駆逐した時代が終り、良貨が悪貨を駆逐する時代に入ったとも云えよう。 歴史の弁証法はまことに味わい深い。ホロコースト派は相変わらずそれを強く主張すればするほど正義だと勘違いし続けるだろう。小ネズミはんとその一派はネオ・シオニストの軍門にくだり続ければ御身安泰と勘違いし続けるだろう。それが吉と出るか凶と出るか。れんだいこには既に自明だ。 daitoasenso/taigaishinryaku_horocoosto_isramunotaioco.htm 2005.12.15日 れんだいこ拝 |
【ホロコースト神話を如意棒に振り上げるサヨの生態考】 | |||
「阿修羅ホロコースト2」の2005.12.26日付けバルセロナより愛を込めて氏の「イラン誌(英文)ホロコースト支持者は理性的な議論と討論から逃げている」が次のように述べている。これを転載する。
2005.12.27日付け木村愛二氏の「理性的な議論と討論から逃げているのは日本の左翼も同様である」は、次のように証言している。
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れんだいこは、ホロコースト事件弾劾派の論法が南京大虐殺事件、その派生としての百人斬り事件の論法と酷似していることに胡散臭さを感じている。どちらもサヨが懇切丁寧に説教していることも共通しており不快を感じている。れんだいこは反戦平和を強く願い、その運動を支持している。しかし、既成の弾劾派の論法にはついていけない。パレスチナ紛争及びアフガン、イラン戦争に於ける米英ユ同盟の侵略行為を弾劾する反戦平和運動でないと腑に落ちない。パレスチナ紛争及びアフガン、イランのレジスタンス運動を支持し擁護する新思想を構築しなければいけないと思っている。 2005.12.26日 れんだいこ拝 |
【「ホロコースト真理教」という表記について】 |
「阿修羅ホロコースト3」のはちまき伍長氏の2,006.10.23日付け投稿「アルメニア人虐殺否定禁止法とホロコースト真理教患者ロバート・フィスクの醜態」の見出しの部分の「ホロコースト真理教」という表記が気に入ったので、れんだいこは以降これを使わせていただくことにする。これほどピッタリな命名はそうあるわけではない。 2006.10.25日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№1232 投稿者:れんだいこ 投稿日:2014年 8月 4日 |
ガザホロコースト考 2014.7月、もう何度目になるのか数え切れない新たなガザホロコーストが始まり8.4日現在なお続いている。この情報を得たいが世界的に報道管制が敷かれている。日本のみならず世界でも、日本ほど酷くはないがガザホロコーストが極力スルーされている。代わりにマレーシア旅客航空機撃墜事件、ウクライナ軍事危機等々がメイン報道されている。これを伝えるニュースキャスターの表情を窺がうのに真実報道よりもニュースショーを演じている気がしてならない。 「ガザホロコースト」とは、パレスチナのガザ区に於ける、イスラエル軍によるワンサイドゲーム的な空爆及び地上戦闘によるガザ難民虐殺を云う。「ガザホロコースト」には殺し方に特徴が認められる。即ち、無慈悲に殺さねば殺したことにならないとばかりな冷酷無残な殺傷に終始していることである。もうひとつは、国際法的な安全地帯である学校、病院、教会、国連施設にわざわざの砲撃を加え非戦闘員である子供、婦女子、老人に巻き添え死を強制している。こたびの2014ガザホロコーストでは特にこれが目につく。れんだいこには、「ガザホロコースト」の一連の過程が、あたかも惨劇の祭りをしているように見えて仕方ない。そのサマは許し難いの度を超していよう。 この「惨劇の祭り」の背景にあるものを愚考してみたい。「惨劇の祭り」は彼らの歴史的伝統からもたらされているのではなかろうか。れんだいこは、「ガザホロコースト」の一部始終にイスラエル及びイスラエルを支配する国際ユダ屋に特有な「歴史的癖」を認めている。ここで云う「歴史的癖」とは「悪魔教的信念に基づく意図的故意の狂態」を云う。かれらの目線にあるのは「同胞ユダヤか敵方ゴイムか」の判別しかない。「同胞ユダヤ」となれば等級をつけ序列化して囲い込む。「敵方ゴイム」となると何の遠慮も要らない虫けら、畜生類扱いして、煮て食おうが焼いて食おうが我らの権利であるとして気ままなな意思による処断に任せ、残虐であればあるほど正義だとしている。こういう論法、行為が許されること自体信じられないが現に通用している。 こういう見立てをする国際ユダ屋が歴史の表舞台に登場する比重が強まるにつれ、人類史上に惨劇が常態化するところとなったのではないのか。それが証拠に、国際ユダ屋が歴史の表舞台に登場してきた近代以前に於いては、世界史を見渡してみても、これほど執拗な惨劇の常態化は見当たらない。同様の事例があるとすれば裏で国際ユダ屋が糸をひいているケースが多い。近代から現代までの人類史上の惨劇の主流は、彼らのドグマ的な教条に基づく非和解的絶対戦争によるものではなかろうか。 その昔、ローマ帝国がこの「国際ユダ屋の歴史的癖」に手を焼き、この連中の扱いに苦慮し、とにかく国家を持たせぬのが賢明として所払いさせた。これにより連中は長らく国家を持たぬ放浪の民となった。各国の申し合わせにより、連中の行く先々で公民権が剥奪された。何とならば、この連中に権力を持たせると人類史に災禍が及ぶことを見抜いていたからである。今にして思えば、ローマ帝国の対国際ユダ屋対策としての「国家を持たせない、所払い、公民権剥奪」は国際ユダ屋の習性を見抜いた英明な政策であったことになるのではなかろうか。 その放浪の民が国家を持とうとする悲願の末に漸くにして第二次世界大戦後に建国したのがイスラエルである。この経緯の考察は本稿では割愛する。これにより、数千年来パレスチナの地に住み続けていたアラブ人が俄かに土地を追われ難民と化した。その一部がガザに住みつきガザ難民となって今日に至っている。 興味深いことは、イスラエルの建国過程とパレスチナ難民の発生過程である。さる昔のローマ帝国の危惧した通りの「国際ユダ屋の歴史的癖」を満展開させつつ今日に至っている。国際ユダ屋が絶対権力を振るうところ決まって「残酷非道なゴイム掃討戦」が見舞われているが、これまでもそうでありこの先もそうであろう。この過程で全てが逆さまに評される。即ち正義が不正義にされ不正義が正義になる。有徳が背徳にされ背徳が有徳にされる。 こたびの「イスラエル軍によるザホロコースト」がいつ収まるのか分からない。イスラエル軍の絶対的優位が続いているように見えるが、この優勢が永遠に続くことは有り得ない。パレスチナ人の恨みが物質化される日がそう遠くない将来やって来る。この時、「国際ユダ屋の歴史的癖」とは一味違うパレスチナ人の英知による平和創出を見てみたいと思う。付言しておけば国際ユダ屋主導の平和なぞ有り得ない。彼らを憲兵にさせるのは、泥棒に権限を与えて夜回りさせる愚に似ている。強姦魔に婦女子を自宅に送らせる愚に似ている。これだけは有り得ないしあってはならない。こう例えれば分かって貰えるだろうか。歴史を紐解けば、そういうことが見えてくる。 |
れんだいこのカンテラ時評№1233 投稿者:れんだいこ 投稿日:2014年 8月22日 |
ホロコーストの原義考 ここで「ホロコースト(holocaust)の原義考」をしておく。「ホロコースト」は現在、「ナチスによるユダヤ人迫害」を指して使われている。ホロコーストの史実性詮議はさておき、ここでは何故に「ナチスによるユダヤ人迫害」にホロコーストなる概念が被せられているのか、その不自然さに対する解を求めたい。 その為にまず「ホロコーストの原義」を確認しておく。どうやら旧約聖書の創世記の章での「ユダヤ民族の直接の父祖・アブラハムとエホバ神の問答」に端を発している。それによれば、アブラハムは晩年にようやくにして初めての子としてイサクを授かっていたが、或る日、「イサクを山上の聖壇で焼き殺せ」との神示を受けた。この場合の「焼き殺せ」をホロコーストと云う。 アブラハムが逡巡したのかしなかったのかは分からないが、神の命令を絶対として指示通りにイサクを祭壇の上でホロコーストしようとした。その刹那、「待て待て、もう良い。お前の信仰の深さはよくわかった。神の命令とあらば、ようやくにして授かった一人息子さえ犠牲にするその覚悟を見届けた。もうイサクをホロコーストするには及ばない」との天の声があって、めでたしめでたしとなった云々。この神話は、神の意思が絶対であること、神の意思を第一とするのが信仰であること、この信仰者に対して神の恩寵がもたらされるとする三段論法説話になっている。 この「アブラハムとエホバ神との問答」からホロコーストが始まっている。元々は「全燔祭」と訳されている。「日の出とエルサレム神殿と燔祭(ホロコースト)」(ピーター・コノリー・パトリック・レステリーニ著「イエス・キリストの時代」(東京書籍、1989年)参照)が次のように解説している。 概要「エルサレム神殿では、日の出の時、祭儀として犠牲の燔祭が東に向けて捧げられた。聖所が東向きに建てられており、一対の幕が下がり、白い大理石の床にT字帯(月経帯)型の溝が掘られている。ちょうど聖所が太陽を出産しているようなかっこうとなっている。ユダヤ教の律法の書に従って、日の出の時、T字帯の床に犠牲の血が注がれる。血を抜いた犠牲の内臓とその脂肪を聖所の前で焼き、その煙を天に届ける。この祭儀を燔祭(ホロコースト)と云う。その祭儀は、西暦70年、神殿の聖所が焼き討ちに遭い、立て篭もっていたユダヤ人が焼き殺されるまで毎朝続けられた」。 これが「ホロコーストの原義」である。それは、「信仰の真性を証す為に人身御供(生け贄)を聖壇で焼き尽す」儀式であり、その儀式を通して共同体の意思と結束を固め、「災厄の除去、贖罪、隆盛を祈願する」祭りとなっている。特に新年祭で盛大に行われ、様々な生け贄が供犠所に捧げられる。その最大の生け贄が人間で、その究極が新婚夫婦の「初子のお供え」であったと云う。この祭り全体を総称してホロコーストと呼ぶ。 しかしながら、どう見てもこのような教義、儀式、祭りは一般的なものではない。恐らく世界中捜しても例がない。例えば日本神道と比較してみよう。日本神道では神と人とは和楽的且つ談じ合い的であり、間違っても「アブラハムとエホバ神との問答」的な厳罰的なものはない。神は人の親であって、慈悲は掛けても、親が子に過酷な命令をすることはない。これを人から見れば、神は人にとっての理想であり、人が好んでその能力にあやかりたいと思うのが神であり、その神が人に対して酷い命令をすることはない。要するに、ユダヤ教と日本神道では神と人との関係が全く逆なものになっている。 よって、日本神道の教理にはホロコースト的教義は全く見出せない。そういう意味でホロコーストはユダヤ教独特の教義であり、ユダヤ教義の異質性を象徴している。日本神道から見れば、ユダヤ教の狂気性を物語る教義が多々認められるが、ホロコースト譚もその典型的な一つであり、それでしかない。 もとへ。以上で「ホロコーストの原義」を確認できたとして、「ナチスによるユダヤ人迫害」にホロコーストの名を被せるのにはどういう理由があってのことだろうか。見てきたように普通には繋がらない。それを敢えてホロコーストと命名しているからには、然るべき理由があってのことではなかろうか。 但し、ここが曲者なのだけれども、彼らは特有の二重基準で「内向けのホロコースト」、「外向けのホロコースト」の両刀使いをしており、「内向けのホロコースト」の意味を明かさない。「内向けのホロコースト」の意味は隠したままで、「外向けのホロコースト」即ちナチス糾弾論を流布させている。そういう訳で、「内向けのホロコースト」の意味を詮索せねばならない。彼らが、「ナチスによるユダヤ人迫害」にホロコーストなる命名を宛がった理由と真意を探らねばならない。思うに、「ホロコースト」には自律的積極的肯定的宗教的な「生贄の犠牲思想」が媒介している。であるとするならば、「ナチスによるユダヤ人迫害」にどのような犠牲思想性が認められるのだろうか。こう問う人は滅法少ないであろうが重要な問いである。 参考までに確認すると、「三省堂大辞林のホロコースト」は次のように記している。「大虐殺。特にナチスによるユダヤ人の大量殺戮(さつりく)をいう」。「小学館大辞泉のホロコースト」は次のように記している。「大虐殺。とくに、ナチスによるユダヤ人の大虐殺」。他も似たり寄ったりで、原義の「ユダヤ教に基づく燔祭的意味」をすっかり外していることが分かる。これでは「ナチスによるユダヤ人迫害」にホロコーストなる命名を宛がった理由が解けない。 「ホロコースト」はユダヤ教独特の用語であり、「祭儀の際の人身御供生け贄」を指している。「ナチスホロコースト」命名者は当然その語義に基づき命名している。となると、解し方は、「ナチスホロコーストの犠牲者」を「ホロコースト的生け贄」と受け取るしかない。あるいは「ナチスホロコーストの実行者」を「報復的生け贄」にするとの意思を込めたものと受け取るしかない。これ以外の理解の仕方は難しい。 こうなると、「シオン長老の議定書」に濃厚に表れている近代シオニズムのユダヤ王国再建思想を媒介せずには解けないのではなかろうか。即ち、「ナチスホロコースト」を、彼らの世界支配計画に政治的に供えられた生贄と位置づけ、彼らのイスラエル建国運動に資せる形で利用して行くものとする。これが「ナチスホロコースト」が歴史的に持つ使命であり地位ではないのか。 こう考えると、「ナチスホロコースト」は徹頭徹尾宗教性のものであり政治主義的なものであることが分かる。然しながら、ホロコースト命名者たちは、そのシオニズム的意味を隠して単に戦後反戦平和運動の誓いの起点としてプロパガンダさせていった。これにより「ホロコーストの教訓」が戦後反戦平和運動のリトマス試験紙の役割を担うことになった。お調子乗りが、ホロコーストに纏いつく宗教的政治的意味を理解せぬまま追随し今日に至っている。南京大虐殺事件には疑義を挟むがホロコーストは絶対の真なりとして講釈する自称インテリが身近にいるが、そういうユダ邪ナイズインテリばかりが登用されている。 ここまではまだ良い。問題は、「ナチスホロコースト」が偽史であった場合にどうなるか。これにつき西岡医師が精力的に論証しているのは周知の通りである。仮に「西岡医師のホロコースト虚構説」が真ということになると、一体どういうことになるのか。話がこういう風に続いていくことになる。この辺りでいったん筆を置くことにする。 |
れんだいこのカンテラ時評№1234 投稿者:れんだいこ 投稿日:2014年 9月 3日 |
ホロコースト日本論 2014.7月来のイスラエルによるガザホロコーストを注視し、翻って次のような気づきを得たので発表しておく。アウトライン描写ながら、れんだいこの気づきを公開しておく。 今ガザでは人の最低限生活のライフラインさえもが意図的故意に壊され、それでも逞しく生きているパレスチナ人を確認することができる。ガザホロコーストの残虐非道ぶりはめったに報道されないが、たまの報道の隙間からかく窺うべきである。 日本ではガザホロコーストを他人事と思ったり、イスラエル支持寄りの姿勢で論調する者が大多数のように思われるが、これは敗戦国現象である。即ち、去る日の第二次世界大戦に敗戦し、戦勝国側の国際ユダ屋支配秩序に馴致され飼育させられているからに過ぎない。それは丁度福島原発被災民に対する無関心と軌を一にしている。はっきり言っておく。それは滅びの道である。 思うに、日本は、ガザホロコーストと無縁であるどころか既に「西のガザ、東の日本」と位置づけられるようなホロコースト被災民仲間ではないのか。違いがあるとすれば、「西のホロコースト」がハードタイプであるのに比して、「東のホロコースト」はソフトタイプと云うことなのではないのか。こう捉えることで始めて今、現に日本で進行中のあれこれの変態事象が説明つく。 この変態事象を挙げようとすれば全分野において多重多角多面的であるのでキリがない。要するに日本が国家としても民族としても社会としても滅ぼされようとしており、あるいは溶かされようとしている。そのサマは暴力的、薬害的、中毒的、汚染的、白痴的、痴呆的、少子化的、貧困化的、多重債務化的等々あらゆる悪の仕掛けの術中に嵌められている。 政治が、これを阻止するのではなく、どんどん呼び水すべく立ち働いている。この方向に照準が合わされ、これを請け負うと誓約した政治家のみが国際ユダ屋の後押しで権力の出世階段を上り、売国狂態政治に呆けている。 こういう政治の愚劣化は1980年代初頭の中曽根政権と共に加速した。連中は口では愛国者然、民族主義者然と唱えるが、その裏で売国政治に勤しむのが特徴である。こういう政治がもう既に30年余続いている。それにしては日本丸はよくぞ持ちこたえているなと感心させられるほどの粘り強さではある。この認識が現下の日本を捉える大きな構図となるべきではなかろうか。この構図下で個々の分析をすれば良い。この逆を説く論説が現れたら大きく眉唾すればよい。 今や日本を語るのに、「西のガザ、東の日本」の位置づけでホロコーストとして見なさなければ正鵠を得ないのではないのか。そういう生体実験が続けられているのではないのか。福島原発事故対応のお粗末さは、生体実験日本の象徴なのではないのか。かく認識し、日本を見据えれば次から次へと見えてくるものがある。ここを共認識することが次の時代の政治の第一歩となるべきではないか。自公民、その亜流政治なぞ評するに足りない。 |
れんだいこのカンテラ時評№1235 投稿者:れんだいこ 投稿日:2014年 9月23日 |
なぜ日本がホロコーストされるのか考 このところホロコースト絡みの論考を連続している。筆が進まないのは扱う内容が難しいからである。新たに本稿を加える。論題は、「なぜ日本がホロコーストされるのか。これにどう処すべきか」である。先に「ホロコースト日本論」を述べたが、こう問う者は私が初めてだろう。但し、こうはっきり問わないだけで同じような思いを持つ者が居るはずであろうから、そういう人たちには興味の湧く問いであろう。本稿を読んでなおカエルのツラにションベンの者はよほどの極楽トンボであろう。 「なぜ日本がホロコーストされるのか」。結論から述べると、それは、日本が現在の国際ユダ屋の世界支配秩序を崩す可能性を持つ有力勢力の一つだからである。今や全く従順に馴致、飼育されている感のある戦後日本が何故に国際ユダ屋の世界支配秩序を崩す可能性があるのか。 これに答えられる者がいるだろうか。恐らくいない。何ゆえか。それは「れんだいこの原日本論新日本論」を媒介せずには解けないからである。それほどに「原日本論新日本論」の価値は高い。この見解は決してれんだいこ独自のものではない。有益系の学識を煎じ詰め、したたり落ちるものよりもたらされたものなので、同じような煎じ方をした者が居れば同様の見解に辿り着こう。 「これにどう処すべきか」。これを「れんだいこの原日本論新日本論」でトレースすればどう解けるのかの解を開陳する。日本がホロコーストされるべき理由は、現在の国際ユダ屋の世界支配秩序を崩す可能性を持つ有力勢力の一つだからであり、今や全く従順に馴致、飼育されている感のある日本が何故に国際ユダ屋の世界支配秩序を崩す可能性があるのかの問いに対して、れんだいこは、こう答える。 その前に諸賢の解を待ちたい。待てど暮らせどそういう解は提起されないだろうが、もったいぶることにした。なぜなら、れんだいこ自身が今、論を発酵中なので多少時間稼ぎする必要があるからである。 |
れんだいこのカンテラ時評№1236 投稿者:れんだいこ 投稿日:2014年10月 3日 |
なぜ日本がホロコーストされるのか考その2 なぜ日本がホロコーストされるのか。2014年現在の日本は、国際ユダ屋の世界支配秩序派が世界に向けて「敗戦国日本のその後を見習え」と誇るほどに全く従順に馴致、飼育されている。よって、この状態から国際ユダ屋の世界支配秩序を脅かすものが生まれる訳ではない。 問題は、日本が一見して単一民族的な天皇制国家に見えるが実は日本の政治支配構造の二重性にある。これには去る大昔の古代史上の最大政変たる国譲りが大きく関係していると見立てるのが、れんだいこ史観である。即ち、国譲りにより、それまでの支配者の原日本系が力を温存したまま野に下り、新日本系が新王朝として君臨することになった。この「手打ち」史実が日本史の根底を規定している。この史実を踏まえない歴史家が多いが、ここを踏まえないと日本史の歴史事象が理解できないだろう。 以来、日本は新日本系が支配するようになったものの、野に下った原日本派が陰に陽に新日本系王朝に影響を与え、両者の有無相通ずる了解で諸事を御している。これを逆に云えば、原日本派の意向を蹂躙することでは何事も首尾よく進展しない。そういう圧政の時期もあったが最終的に両者協調することで日本史を連綿とさせて来た。これが天皇制にも刻印されており、いつの間にか次第に原日本系の大王制と新日本系の天皇制が同衾して今日に至っている。日本はそういう意味で珍しいタイプの二重拮抗国家となっている。 れんだいこは、「原日本論新日本論」で日本史をかく紐解こうとしている。これが日本に対する正しい理解の仕方であると思っており、お陰で日本史がよく見える僥倖に浴している。中曽根式単一民族論&一元的天皇制論なぞはカンナクズ的に薄っぺら過ぎる白痴理論と考えている。 なぜ日本がホロコーストされるのかが、これに関係している。即ち、紀元3世紀中頃、原日本系出雲王朝の最後の政体としての邪馬台国が滅ぼされて後、新日本系がその後の日本を支配することになったが、その支配がまもなく破綻する。このまま行くと日本は国際ユダ屋支配の植民地にされる。しかしこうなると、かって野に下った原日本派が黙っていられない。国譲りの際の取り決めに「善政誓約事項」がある。それが破綻した以上、原日本派が復権し再び英明な政治に転換させ日本を御して行く以外にない。近未来の日本はこのどちらかに向かわざるを得ない。今は、そのせめぎあいの時代である。 仮に、原日本派政治が復権したとしたら、原日本派の能力が素晴らしく高いものであり、それが自ずと国際ユダ屋の世界支配秩序と対立し、その秩序を打ち壊す勢力となる可能性がある。それ故に日本が警戒されている。分かり易く云えば、国際ユダ屋は日本のこの潜在能力を恐れている。原日本派が国際ユダ屋と対立しているあらゆる勢力と提携することが、彼らから見た最悪夢である。この事態を避ける為に、いっそのこと「日本を双葉の芽のうちにホロコーストせよ」指令が下されている。あらゆる日本研究を総動員して日本という国と民族と社会の破壊、解体、溶解、骨なし化を企図している。簡単に言えば、こういう図式となっている。 こう知ったからには既に半分が解答されている。後の半分は、日本側の実践的な対応である。これが我々に問われている政治能力である。以下、目下の自公民政治の愚劣さを確認したいが、これを割愛し、国際ユダ屋の恐れる日本思想と国際ユダ屋思想の根本的対立の位相を確認することにする。 |
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れんだいこのカンテラ時評№1238 投稿者:れんだいこ 投稿日:2014年10月12日 |
なぜ日本がホロコーストされるのか考その4 本来はそろそろ日本思想と国際ユダ邪が奉ずるネオシオニズム思想との違いに入るべきだが、これはかなり高度で難解と云うこともあり、もう少し回り道しておく。要するにもったいぶりながら時間稼ぎしている訳である。 日本思想のネオシオニズム思想との出会いは戦国時代であった。丁度、種子島への鉄砲伝来時期とバテレン布教開始時期が符合している。通説は、1543年(天文12)年辺りにポルトガルの商船が暴風雨にあって種子島へ漂着し鉄砲を売りつけたのが伝来史であるとされている。しかし、鉄砲伝来時期とバテレン布教開始時期が妙に符合していることを考慮し、バテレンが日本攻略術の一環として鉄砲を伝来させたと読みたい。こういうところは表に出てこないので推理能力を働かせる以外にない。 バテレンが来襲するところ追って必ず王殺しが始まっているのが世界史の通例である。そういう目で見ると、バテレン来日以来の王殺し、寺社焼き討ちも疑わねばならない。「れんだいこのイエズス会考、ネオシオニズム系宗教結社考」で述べたが、1565(永禄8)年の13代足利将軍・義輝殺し(永禄の変)。1567(永禄10)年の東大寺大仏殿焼失。1571(元亀2)年の比叡山延暦寺を焼き討ち。1582(天正10)年の織田信長殺し(本能寺の変)。通説は、これらの事変の背後にバテレンの差し金を読まないが何とも味気ない。こういうところは表に出てこないので推理能力を働かせる以外にない。 それはともかく、この時期、バテレンが次から次へと上陸し日本のキリスト教化を図った。このバテレンと云うのはキリスト教信徒団体を装っているが当時の国際ユダ邪の回し者である。その証拠が限りなく残されているので間違いない。以下、本稿ではバテレン教と表記する。バテレンによるバテレン教化は世界各地で首尾よく成功したのに日本では失敗した。これをどう読むべきか。具体的には織田信長の晩年のバテレン教離れ、豊臣秀吉のバテレン追放令、徳川家康のバテレン教禁教と鎖国により実現した訳であるが、時の権力者をしてそのように采配せしめたのが日本思想であり、日本思想こそが撃退したと読みたい。 これにつき、1587(天正15)年の「豊臣秀吉の伴天連(ばてれん)追放令」で法理を確認する。追放令の直接的契機は、バテレン勢力に日本国乗っ取りの兆しがあり、これを認めたからである。秀吉が九州最後の大大名・島津氏攻めの為に博多に下った時、日本イエズス会・準管区長に新任したコエリヨが南蛮式軍艦に乗って大提督のような格好をして出迎えた。コェリョは大砲などの武器を見せ、スペイン艦隊が自分の指揮下にあるごとく誇示した。且つ九州を一巡する間にバテレン教大名によって無数の神社やお寺が焼かれているのを確認した。秀吉は九州平定直後、バテレン追放令を発布しバテレン勢力の掃討に乗り出した。 バテレン追放令の法理を確認する。一つは、「植民地政策の尖兵として宣教師の布教が為されている」とする「日本国乗っ取りの危惧」であった。後に判明するところ真に英明な判断であった。次に、バテレン教がバテレン教以外を邪教とし排斥し、各地の神社仏閣を破壊し神官、僧侶らを迫害していることを咎め、「バテレン教の唯我独尊的独善ぶりは、神国日本の祖法である宗教各派の平和的共存政策を否定する邪教である。バテレン教が神社仏閣を打ち壊すのは不届きであり今後はきつく処罰する。教会に領地を寄進してはならない」として排斥している。これも又真に見識の高い判断であった。 三つ目は、日本人男女を南蛮に売り渡す人身売買(奴隷売買)を禁止した。当時、「鉄砲火薬」と引き換えに日本人数十万人が奴隷売買され世界各地へ売られていた。これは余り知られていないが史実のようである。これにつき天正遣欧使節の次のような証言が遺されている。概要「どこへ行っても日本人奴隷が目につく。首を鎖でつながれ、我々をみて哀れみを訴える眼ざしは辛くてならぬ。日本の娘らが秘所をまるだしにつながれ弄ばれている。血と言語を同じうする日本人を家畜のように安い値で手放すわが民族への怒りに燃え立たざるを得なかった」。これも又首肯できるものであろう。四つ目は、肉食禁止令の系譜からのものであった。「宣教師達は牛馬を食べることを好む。それは日本の祖法に抵触している」。秀吉は、「馬や牛は労働力として活用するものであり食べるものではない」と批判している。これも又首肯できるものであろう。 れんだいこは、これらの論理論法に注目している。見てきたようにバテレン教を正確に解析し、今日にも通用する見識でもってバテレン教を邪教と断罪し排斥している。この見識の拠って来る淵源に日本思想があるのではなかろうか。この日本思想は西欧被れ派に云われるような未開野蛮なものではなく西欧思想の一歩先を行っているのではなかろうか。かの時に確固として確立されていた日本思想のお陰で、日本は西欧列強の植民地支配の餌食にされずに済んだのではなかろうか。興味深いことに、隣の韓国では相当なキリスト教化が進んでいると聞かされているが、日本は今日まで世界各国の中でユダヤ-キリスト教がこれほど育ちにくい国はないとされる栄誉に与っている。これのお陰を日本思想に求めるのが、れんだいこ史観である。 |
れんだいこのカンテラ時評№1239 投稿者:れんだいこ 投稿日:2014年10月19日 |
なぜ日本がホロコーストされるのか考その5 本稿で、日本思想と国際ユダ屋が奉ずるネオシオニズム思想の違いを確認する。ここで云う日本思想とは日本思想一般ではなく、「れんだいこの原日本論新日本論」で云うところの「原日本の日本思想」のことである。同様にネオシオニズム思想とはユダヤ教内タルムード派、即ち「パリサイ派のネオシオニズム思想」のことである。まずは論ずる対象をこう確定させておく。この両者は思想の根本の型が違う。しかも凹凸的なほどに対極的に異なっている。これほどの違いを踏まえれば日ユ同祖論などあり得るはずがない。どうしても親しく関係づけたいなら、真逆な故に矯正的に補うことができる間柄であるぐらいのことは言えそうである。 この問題は非常に興味深いテーマなのだが、今のところこのように問う例はないようである。試しにネット検索してみれば良い。れんだいこの問いぐらいしか出てこないであろう。これは、こういう観点からの問いかけがなされないよう誘導されているか抑圧されていることを意味している。そういう意味で先達の労作から学ぶ機会はない、手探りで解を見出さなければならない。以下記すが、その内容につき今後更に精度を上げて行きたい。 本稿では日本思想とネオシオニズム思想の最も端的な違いを確認する。それは多神教と一神教の差に見える論理構造にあると思われる。これを根本解としたい。次稿ではやや具体的に見ていくことにするが、ここでは根本解のみを採り上げる。根本解は全体を総合的に把握する為に抽象的な解になる。抽象的に述べると普通は分かり難いのだが、時には却って分かり易いと云うこともあろう。 さて結論である。日本思想とネオシオニズム思想の差は多神教と一神教の違いに見える論理構造の差であり、それはカオスとロゴスの差である。カオス論理式は絶対的真理なるものを予定しないので当然の如くに諸理論が共存する。更に云えば共存しつつ競り合いしつつ共生する。新たな理論に対しても登場させ易いようにオープン&アバウトな柔構造にしている。WHYと問い真理を求めるよりもHOWTOと問い機能を解析し、これにより得る知見を役立てようとする。これを仮に「悟る系」と命名しておく。 これに対してロゴス論理式は逆に絶対的真理なるものを求めることこそ命とするので、我こそが真理なりとして互いに排他的な論旨を組み立てる。他の理論に対する唯我独尊的優位を誇り易いクローズド&生硬な剛構造にしている。HOWTOと問い機能を解析するよりもWHYと問い真理を求め、これにより得る知見を役立てようとする。これを仮に「発見系」と命名しておく。 要するに両者は逆さまな関係になっている。日本思想は前者、ネオシオニズム思想は後者のものである。この差は丁度、新生児臀部の母斑の如くにDNAにまで沁み渡っているのではなかろうか。人は、この母斑思想に基づきながら思索しているのではなかろうか。両派の対立が何時頃より発生したものかは分からないが今後も永遠に続くように思われる。どちらもが正か邪か簡単には裁断できないが敢えて判定すれば、真理教条棒を振り回すネオシオニズム思想よりも、そういうものを振り回さない日本思想の方が実は英明で深いのではなかろうか。 なるほどネオシオニズム思想の真理探究エネルギーには感服させられる。だがしかし、膨大な学的体系を構築して見出した真理に対して、彼らは、その真理を相対化すれば良いものを絶対化する癖がある。これにより別の教条を持つ思想と出会うや融通がきかない。互いから学ぶことをしないで己の正義を主張し合うことになる。これに対し日本思想はそういう真理論に耽らない、絶対的真理なるものを弄ばない。むしろ、真理論に拘泥して真理ならざる真理を無理やりに見出して、それへの恭順を説く思想を暗愚として忌避している。そういう分別、弁えを持っているので、対象の真理論ではなく機能論の探求に向かう。絶対的な真理教条をもたないことによる融通無碍の柔軟さがある。 両者にはそういう違いがある。この気づきが何故に重要なのか。それは、先の「なぜ日本がホロコーストされるのか考その3」で述べたように、思想デザインが事物発生の原基ではないかと思っているからである。この原基はレールのようなもので、レールが変われば運ばれる先が変わることになる。故に政治、経済、文化、諸芸、学問、精神、規律、その他諸々が異なるようになる。これにより所作が違うことになる。こうして思想上のロゴス派とカオス派の違いがあらゆるところへ波及しているように思われる。そういう訳で、「社会の根本は思想闘争の歴史である」とでも云えるような思想こそが社会の根本的な規定をしているのではなかろうかと考えている。 本来は、この違いをもっと重視すべきところ、されていない。今や次第にネオシオニズム思想の方が主流化しつつあるように見える。これは、現代文明がネオシオニズム思想の威勢に押されていることによると思っている。本来は日本思想の方の威勢が押すべきではなかろうかと思っている。これは歴史に委ねるしか方法がない。 |
れんだいこのカンテラ時評№1240 投稿者:れんだいこ 投稿日:2014年10月25日 |
なぜ日本がホロコーストされるのか考その6 日本思想とネオシオニズム思想の違いが最も端的に集約されているのが天地創造譚である。思想上は天地創造譚こそ万物発生のルーツであるから、これを重視する必要がある。確認するに両者の天地創造譚に於いて、その際の神の規定がまるで違う。 日本思想は「HOWTO哲学」を基調とする機能論から、それぞれの機能を持つ八百万(やおよろづ)神々の御業(みわざ)を媒介させつつ天地創造を説いている。その最高神は慈母的である。ネオシオニズム思想は「WHY哲学」を基調とする真理論から、絶対的な権能を持つ唯一神の御業を媒介させつつ天地創造を説いている。その神は厳父的である。この辺りについては既に「"http://08120715.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-f236.html" "ホロコーストの原義考」で「要するに、ユダヤ教と日本神道では神と人との関係が全く逆なものになっている」と述べているところである。 ネオシオニズムは、これを如何にも思弁的に説く。この思弁能力によって他の思想よりも高位の理知思想であると自負する。返す刀で日本思想を低位なシャーマニズム(Shamanism)レベルのものと評している。しかしこういう仕分けこそがネオシオニズム優位の結論をもたらすヤラセ問答に過ぎないからしてナンセンスなものでしかない。 実際には両者共に理知能力、思弁能力、シャーマニズム能力を備えている。ネオシオニズムはより多く語ることに意義を見出し、文書にする作法がある。日本思想の方は逆に感得を重視させているので少なく語ることに意義を見出し、文字で説き明かすことを危ぶみ不立文字に憧れている。そういう差があるが、その差でもって中身の判定にまでは及ぶべきでないと考える。 ここまではまだ良い。問題は、天地創造譚から導き出される被創造物の諸々の関係にある。これは次のような構造になっている。即ちまずは「神と人との関係」が基準になり、それが「人と人の関係」に適用される。次に「人と人の関係」が基準になり「人と他の生物との関係」に適用される。最後に、これらが基準になり「人類と自然との関係」に適用される。これが両者ではどうなっているのだろうか。 日本思想では、「神と人との関係」では人類は神の氏子であり、「人と人の関係」では氏子間は一列平等である。仮に現実の社会にどんな階級、階層が生まれようとも思想原理的には一列平等を旨として関係づけられている。「人と他の生物との関係」は生態系を乱さない捕食関係、用役関係を保つ。「人類と自然との関係」も然りで互いに調和的に関わっている。自然の恵みを享受し、自然の摂理を聞き分け、それに合わせて御す賢明さを求めている。 然るにネオシオニズムでは全てが逆である。「神と人との関係」では人類は神の氏子であるとしても、「人と人の関係」では氏子間は平等ではない。創造主の意志だとしてユダヤ人が選民特権を享受しており、他の民族はユダヤ人の家畜類的ゴイムと位置づけられている。ユダヤ人が創造主の意志により世界の民を支配する権利を得ており義務を負っていると云う。この傲慢な思想を「ユダヤ選民主義」と云う。 このことを、ユダヤ聖書が神の御言葉として次のように記している(「ウィキペディア選民としてのユダヤ人」参照)。「今、もしあなたがたが、本当に私の声に聞き従い、私の契約を守るなら、あなたがたは全ての国々の民の中にあって私の宝となる。全世界は私のものだから。あなたは私にとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジプト記19章5、66節)。「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも多かったからではない。事実、あなたがたは全ての国の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主はあなたがたを愛された。また、あなたがたの先祖達に誓われた誓いを守られた」(申命記7章7、8節)。 ユダヤ人は、この独特の選民主義によりユダヤ人に都合の良い論理を振り回すことになる。「人と人の関係」では弱肉強食型競争論、「人と他の生物との関係」では収奪的捕食関係論、「人類と自然との関係」では人類による自然支配論を編み出している。ユダヤ聖書は、神の御言葉として次のように記している。「生めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」。この神言の「生めよ、増えよ、地に満ちよ」は良いとしても、「地を従わせよ、生き物をすべて支配せよ」とする必要がどこにあるのだろう。 れんだいこが見立てるところ、ネオシオニズムのこの奇矯な選民思想が全ての悪事の始まりのように思える。この選民主義が独善主義と排他主義、排外主義を生み、それに基づく支配思想、征服思想を生んでいる。それが人に対しても民族に対しても社会に対しても国家に対しても自然に対しても向かう。その完成態が、イスラエルの民を指導民族とする秩序であり、これこそ創造主に命じられた正義であるとして、その為の永続革命に向かう。 かの時、出エジプトを成功させた霊能指導者モーゼが、ユダヤ選民主義の行き過ぎた独善主義を避けるべく「十戒」を授け、思想に重石をつけてユダヤ教に平衡感覚をもたらした。ユダヤ教がこの戒律を踏まえる限り思想にブレーキが掛かり平穏化する。問題はモーゼ戒律を外したときのユダヤ教である。興味深いことは、ネオシオニズムはユダヤ教内の反モーゼ主義派であり、そういう意味での原理主義である。このユダヤ教原理主義に悪魔主義(サタニズム)が加わるとどうなるのか。ネオシオニズムの怖さ危うさがこの辺りにある。 |
れんだいこのカンテラ時評№1241 投稿者:れんだいこ 投稿日:2014年10月30日 |
なぜ日本がホロコーストされるのか考その7 ところで、ネオシオニズムは究極無神論であると云うことに同意いただけるだろうか。正確には、神の立場に金貨が座っている訳で、そういう意味では金貨が神であるとする金貨信仰と云えよう。古代宗教の一つに拝火教と云うのがある。これに倣えばネオシオニズムは拝金教である。この拝金主義が桁違いの蓄財主義、資本主義を生んでいると見なしたい。 現代世界を資本主義体制と判じ、且つこれを歴史法則とみなすのが歴史学や社会科学の教説であるが、れんだいこ史観は異説を持っている。資本主義は歴史法則ではなくて、近代のネオシオニズムが人為的に強制的に持ち込んで出来上がっている体制でしかないのではなかろうかと。人類史の歩みは別に成立し得たところ無理やりに変質せしめられているのではなかろうかと。 もとへ。ネオシオニズムは金貨こそが万能であり信仰の目標である。確かに金の力で市場の殆どのものが買える訳だから間違いと云う訳ではない。しかしながら、世の諸価値には金では解決できないものもある訳で、しかも大事なものほどそうである訳で、彼らが拝金教を信奉するのは勝手だとしても、彼らがそういう拝金教を他人様に押し付けようとし、従わない者に対する生殺与奪権を持っているとするなら大問題であろう。世界を拝金教ワンワールド秩序に拵えようとするのは無用な軋轢を生むだけであろう。 そういう意味で、日本思想が対比的なほどに拝金教に被れていないところに値打ちが認められる。日本思想が仮に金権に被れるにしても金貨を自己目的化する訳ではない。ネオシオニズムのように手段と目的を逆転させてまでひたすらに拝金教に凝り被れるものではない。同様に、世界の民に於いては金貨信仰に同意したり酔える者はそう多くはない。大概は日本思想の如くに金貨至上主義を排斥する。 日本思想では宵越しの金を残さずの江戸っ子気質が賛美されている。「立って半畳、寝て一畳」と云う精神もある。損得から云えば得にならない親兄弟の面倒を見る精神もある。こういう精神をネオシオニズムと比較考量した場合、劣っていたり間違っているとするのは勝手な見立てだろう。 そういう人生観のみならず労働観も際立って相違している。ネオシオニズムに於いては労働は基本的には苦役な罰的苦痛のものである。これはどうもユダヤ教聖書(キリスト教に於ける旧約聖書)の「創世記」 の記述に影響されているようである。それによれば、エデンの園に於いて禁断の果実を食べたアダムとイブに対し、神は罰としてアダムには労働の苦痛をイブには出産の苦痛を与えることになった。英語の 「ビジネス(仕事)」 の語源は 「ビッジー(忙しい)」 であり、また 「レイバー(労働)」 の語源は 「難儀」 であり、フランス語の 「トラバーユ(働く)」はラテン語の 「トリパーリアーレ(拷問する)」 が語源であると云う。こういう労働観を持つネオシオニズムに於いては、若い時に早く荒稼ぎし、蓄財し、早くリタイアして労働から解放され、余生をバカンス的に楽しむのを良しとするようになる。 日本思想はその真逆の労働観に立っている。労働できるのは健康な証拠であり、そういう健康を授けてくださる神に御礼を込めて健康な限り働く。「(我が働きで)傍々(はたはた)の者を楽にさせるので傍楽(はたらく)と云う。これが働きの本当の意味である」と云う御言葉もある。そこまで思わなくても、労働することによって却って生き生きとなり、そういう労働をできるだけ長く続けることを願っている。一攫千金型ではなくまじめにこつこつと働き、細々と長く給金を貰う作風を確立している。 そういう意味で労働が生甲斐であり御用務めである。報酬は相手様のお役に立ってのものであり、人を泣かせて苦しめて我さえ良ければ式の蓄財とは無縁である。日本思想の元々の労働観はかようなものである。かって、我が社会にこういう労働観があったとするのが、れんだいこ史観である。こう捉えないと日本文化、伝統の巧みの技が理解できないからである。 こういうことも確認しておきたかった。本稿がそういう役目を果たすことになった。さて、長々と続いているので、そろそろ締め括りに向かおうと思う。 |
れんだいこのカンテラ時評№1242 投稿者:れんだいこ 投稿日:2014年11月 2日 |
なぜ日本がホロコーストされるのか考その8 日本思想では労働を好感度的に受け止めているのに対し、ネオシオニズムでは本質的に苦痛なものとして観念化していることを確認した。次に見るべきは、日本思想では概ね生活と仕事が一体であるのに対し、ネオシオニズムのそれは労働を自由抑圧としか捉えていないように思われることであろう。 マルクス主義的搾取理論も、この系の労働嫌悪観から生まれている気がしてならない。これについては別途考究してみたい。もとへ。この種の労働嫌悪観から奴隷制度が生まれているのではなかろうか。つまり、自分の苦役労働を避けるための代替労働として奴隷が生まれ、これが制度発生の要因になっているのではなかろうか。 そういう風に考えると、東洋圏からは奴隷制度が生まれていないことが首肯できることになる。東洋圏でも貴賎の差、身分の差は生み出しているが、西欧的な露骨なほどまでの奴隷制、階級差別、階層差別、人種差別は生み出していない。それらはネオシオニズム的思想土壌から生まれているのではなかろうか。なぜなら、奴隷制、階級差別、階層差別、人種差別は選民思想を媒介にせずんば生まれないからである。 その他、日本思想は***、ネオシオニズム思想は***と色々に指摘できよう。要は日本思想と国際ユダ屋が奉ずるネオシオニズム思想とはこれほどに内実が違うと云うことが分かれば良い。最後をれんだいこ的関心ならではの識別をして締め括ることにする。誰か一人でも得心してくれたら本望である。 ネオシオニズムでは個と個が良い意味では自律、悪い意味では対立している。その様は決して手放しで礼賛するには及ばないものである。これに対し、日本思想は逆に共同体一員思想に馴染み深く互いに助け合い、分かち合おうとしている。その分、個の自律を弱めてはいる。物事は一長一短が背中合わせなので良いとこ取りはできない。ネオシオニズムは共同体からの自律を求めて自由に憧れる。日本思想ではそれほど自由に憧れない。むしろ自ずと共同体内化する方向に歩み、共同体内での報恩感謝、義理人情に注意を払う。これも大きな違いだろう。 両者の闘争観、戦争観も違う。ネオシオニズムは相手の絶滅を期して殺し合いなぶりあいイジメ合う。勝者は敗者を殺すか奴隷化する。中途半端な手加減が一番悪いとしている。日本思想は逆である。あらかたの勝負がついたところで手打ちし、勝者は敗者の生息を許す。ネオシオニズムは恨みを歴史に刻み報復戦を聖戦化させる。日本思想では怨恨を水に流すことを尊ぶ。 ネオシオニズムは、「過ちては認めるなかれ」、「人の過ちには謝罪と賠償を要求し、手前の過ちには言葉巧みに言い逃れるべし」と教え訴訟社会に誘導する。東洋では「過ちては改むるに憚ること勿れ」との教えがあり、日本思想では潔い精神を高潔としている。こういう相違が文化にも出てくる。例えば服装の違いも興味深い。細々とは述べないが洋装と和装の様は何から何まで対比的である。和装が洋装に劣っているなどと云うことは断じてない。和風建築技術、土木技術も然りで西欧に劣っているなどと云うことは断じてない。 最後に次のことを指摘しておく。ネオシオニズム思想の特殊的に複雑なところは、その二面性二枚舌性にある。連中は、手前達の共同体内部に向けては血統主義、同族主義、民族主義、愛国心を説く。ところが、外部向けには平気で逆の主義を説く。血統主義、同族主義、地縁主義に対して封建的と批判し、民族主義、愛国心に対しては代わりに国際主義を勧める。 国際法に対してもそうである。イスラエルのガザ攻撃を見よ。手前らは不都合な時には国際法なぞどこ吹く風で縛られない。その癖、都合の良い時には国際法を持ち出して相手を咎める。ご都合主義、得手勝手主義の極みと云うべきだろう。これらは本音と建前の乖離とするより二重基準(ダブルスタンダード)論理論法として見据えた方が良い。ネオシオニズムほど酷い使い分けはないと思う。 以上、もう少し愚考し続けたいがここで小休止させる。結論として、これほどに真逆な関係にある日本思想とネオシオニズム思想であるからして日ユ同祖論など有り得ないと知るべきであろう。本稿シリーズがこのことを様々に述べ今後の議論の際の一助としたことが誉れである。 |
(私論.私見)