「ユダヤ人への迫害通説考」

 (最新見直し2008.10.25日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 2005.3.30日付け毎日新聞の「よくわかるページ」欄に「ユダヤ人への迫害」と題する解説記事が書かれている。10歳の少年の「ユダヤ人はなぜ迫害されたのですか」という質問に、布施広・論説委員が回答している。その内容が興味深いので取り上げ、ここにサイト化しておく。布施論説委員は次のように答えている。れんだいこが逐次コメントしてみる。

 2005.3.31日 れんだいこ拝


 見出し。
 「キリスト教との対立が始まり」
(私論.私見) 「キリスト教との対立が始まり」について
 「ユダヤ人への迫害」につき、見出しの「キリスト教との対立が始まり」とあるが、これは正しいだろうか。れんだいこには極めて問題ある見出しのように思える。もしこの見出しの言が正しいのなら、キリスト教発生以前には「ユダヤ人問題」が無かったということになろう。果してそうだろうか。

 西欧史に精通していないとコメントできないが、れんだいこは、「ユダヤ人問題」は既にモーゼ以前より発生しており、モーゼ指導による「出エジプト」も当時における「ユダヤ人問題」の絡みを通じて理解しなければ解けないだろうと思っている。つまり、「キリスト教との対立が始まり」なる見出しは何の根拠もない説になる。いくら子供相手の回答とはいえ見過ごせない。

 次に、いよいよ本文の検討に入る。
 「ユダヤ人迫害は偏見に基づくものです。14世紀にヨーロッパでペストが大流行した時、「ユダヤ人が井戸に毒を投げ込んだ」」という声が上がり、大勢のユダヤ人が殺されました。ユダヤ人とペストは何の関係もありません」。
(私論.私見) 「ユダヤ人迫害は偏見に基づくもの」について
 「ユダヤ人迫害は偏見に基づくものであったのかどうか」、軽々に判断できない。なぜなら、偏見に基づくものであったとする場合、迫害した側の非ユダヤ人の愚昧さを前提としているからである。果して、ユダヤ人迫害側の民はそれほど無知蒙昧の輩達であったのか。れんだいこは、それは歴史の戯画化であると思う。

 ある時代のある人々の行動が今日から見て理解できない場合、できるだけ記録を検討せねばならない。記録が散逸している場合でも極力実証的に精査せねばならない。それは何も「ユダヤ人問題」に限らないだろう。そのようにして調べていけば、「偏見に基づく行動例」は案外少なく、それなりの根拠があったことが知られる事例の方が多かろう。歴史科学はこれを証しているように思われる。

 にも拘らず、「ユダヤ人迫害」になるとなぜこうも易々と偏見説で語られるのだろう。れんだいこには解せない。14世紀の西欧でのペスト流行及び大勢の西欧人の犠牲、ユダヤ人迫害はいずれも史実である。これを語るのに、「ユダヤ人とペストは何の関係もありません」なる結論は、何も語っていないに等しい。語るべきは、「ユダヤ人が井戸に毒を投げ込んだ」」という風説が流されたとして、どういう事情からそういう風説が生まれたのか、その根拠を明かさねばなるまい。その上で、その根拠は「偏見に基づくものであった」とせねばなるまい。この肝心のところの解説抜きに結論だけ持ってくるのは如何なものだろうか。

 次。
 「なぜユダヤ人は嫌われる運命をたどったのか。これを考える上で、ユダヤ教とキリスト教の対立は見逃せません。古代ユダヤ人はイエスを救世主(キリスト)と認めず、イエスと対立して十字架を負わせたとされるからです」。
(私論.私見) 「ユダヤ教とキリスト教の対立」について
 既に述べたように、ユダヤ人が嫌われるようになった理由に「ユダヤ教とキリスト教の対立」を挙げるのは一例でしかない。そこを踏まえて、「ユダヤ教とキリスト教の対立」を見るとすれば、その対立の真因として、布施論説委員が「古代ユダヤ人はイエスを救世主(キリスト)と認めなかった」ことを指摘していることは要点を掴んでいるように思える。他にもいろいろあるが、「ユダヤ教とキリスト教の対立」は実に、イエスの神性を廻る教義的対立にこそあった。ユダヤ教義は、啓示者は認めるが人の神格化は認めない。その点で、イエスないしはその使徒たちのイエスの神格化は断じて許し難いものであった。このことは踏まえておく必要がある。よって、布施論説委員の「古代ユダヤ人はイエスを救世主(キリスト)と認めなかった」なる指摘は正しい。

 問題は、布施論説委員の次の説明即ち「イエスと対立して十字架を負わせたとされるからです」はどうであろうか。れんだいこは、間違いではないが、重要な指摘を逸しているとみなす。つまり、教義内容が許し難いという理由で、古代ユダヤ人から見て異端の者を十字架刑に処するよう働き掛けたその行為の是非が問われねばなるまい。むしろ、ここにこそ「ユダヤ教とキリスト教の対立」の原因があるというべきではなかろう。つまり、ここでははっきりと古代ユダヤ人の側よりする迫害が語られているのであり、この「ユダヤ人側よりする迫害」を踏まえないと見えるものが見えてこないであろう。

 イエスが十字架を背負わされたのはその結果でしかない。重要なことは、迫害側に廻っているユダヤ人の史実を見て取ることであろう。

 次。
 「イスラエル・ヘブライ大学のベン・アミー・シロニー教授によると、ユダヤ人は『キリストを殺し、その福音を拒否した』(「ユダヤ人と日本人」)とみなされました。ユダヤ人は神の怒りに触れたのであり、彼らを懲罰するのは神の意思に叶う、という危険な考え方がキリスト教社会にできていったのです」。
(私論.私見) 「布施論説委員によるキリスト教の危険な考え方」について
 布施論説委員はここで明らかにすり替えをしている。シロニー教授の言を引用しつつ、「ユダヤ人は神の怒りに触れたのであり、彼らを懲罰するのは神の意思に叶う、という危険な考え方がキリスト教社会にできていった」と誘導している。これは論理のレトリックであろう。イエス教義がキリスト教に転嫁し、そのキリスト教がイエスを神格化したのは事実である。しかし、キリスト教が、ユダヤ人を懲罰するのは神の意思に叶うとしたのかどうか。そういう過激教義を持つ派が生み出されたとすればそれは特殊例であり、主団体たるカソリックまでがそのような教義を形成したのかどうか。

 中世キリスト教全盛時代の「ユダヤ人迫害」をキリスト教の教義に求め、世俗的な面での対立のあれこれが「ユダヤ人迫害」を生んでいたことを踏まえない観点は、かなり意図的に歪められたそれこそ「危険な考え方」ではなかろうか。これは、布施論説委員の見識に関わる問題である。

 次。
 「一方で、シェークスピアの『ベニスの商人』に登場する高利貸しのシャイロックのように、ユダヤ人はずる賢いというイメージが広がりました。20世紀初頭には、ユダヤ人が世界支配をたくらんでいるとする『シオン長老の議定書』というにせの文書が流され、日本でも広く読まれて政府の対外政策に微妙な影響を与えました」。
(私論.私見) 「ユダヤ人のずる賢いというイメージ」について
 布施論説委員はここで、「ユダヤ人のずる賢いというイメージ」について語っている。ここでも明らかにすり替えをしている。続いて、「『シオン長老の議定書』というにせの文書」こ言及することにより、「ユダヤ人のずる賢いというイメージ」はウソとのイメージを与えている。布施論説委員が為さねばならぬことは、「ユダヤ人のずる賢いというイメージ」に根拠があるのかないのかの解明であるのに、それに触れぬまま間接的話法で否定せんとしている。しかしそれは卑怯姑息な遣り方だろう。
(私論.私見) 「シオン長老の議定書」について
 布施論説委員はここで唐突に「シオン長老の議定書」を持ち出し、「にせの文書」という解説を付している。布施論説委員が「シオン長老の議定書」を持ち出した真意は不明であるが、「にせの文書」ということをわざわざ言いたかった為であろうか。しかしながら、「シオン長老の議定書」がなぜ「にせの文書」なのかという説明はない。単に結論を書き付けているだけである。「シオン長老の議定書」の真偽はとかく論議の為されている問題であり、にも拘わらずかような一方的判断を持ち出すこの論法は公平ではなく、解説としては行き過ぎではなかろうか。

 次。
 「にせものが出回るのは、一面でユダヤ人へのねたみがあるからです。活路を求めるユダヤ人は、主に金融業など経済分野で力をつけました。近代以降のヨーロッパやアメリカにはユダヤ系の財閥や大企業が少なく有りません」。
(私論.私見) 「ユダヤ人へのねたみ」について
 布施論説委員はここで唐突に「ユダヤ人の経済活動の成功に対するねたみ」について語っている。その真意は分からない。

 次。
 「第二次大戦前後、ナチスは600万人以上ともされるユダヤ人を虐殺しました(ホロコースト)。ヒトラーがユダヤ人を憎んだ理由は良く分かりません。しかし、神に選ばれたという『選民意識』を持つユダヤ人が、芸術・科学分野でも逸材を輸出していることに対して、彼が危機感を持っていたのは確かでしょう」
(私論.私見) 「ナチスとホロコースト」について
 布施論説委員はここで「ナチスとホロコースト」について語っている。ヒトラーがユダヤ人を憎んだ理由は良く分からないとしつつ、「ねたみと危機感」を思わせぶりに指摘している。且つ「神に選ばれたという『選民意識』を持つユダヤ人が、芸術・科学分野でも逸材を輸出している」とも語っている。この説明によれば、ユダヤ人の選民意識には十分根拠があるということになろう。とてもではないが変な解説ではある。

(私論.私見) 【「ユダヤ人への迫害」に関する毎日新聞解説記事考】
 毎日新聞社が、「ユダヤ人への迫害」についての解説記事を掲載した姿勢は評価できる。問題は中身だ。布施論説委員の解説は決して普通のものではない。結論として、新聞社はいつからこんなに偏ったシオニズム御用系の解説記事を許すようになったのだろう。れんだいこは、知力の衰えを感ずる。マジ恐ろしい時代に入ったことが分かる。

 2005.3.31日 れんだいこ拝


【ユダヤ人同情論のその一、祖国を持たない悲哀論考】
 ユダヤ人の悲劇を、国の無い故の迫害であり悲劇であったとしてイスラエル建国を支持する論調がある。それはそれで構わないが、実際にどういう汚い手を使ってイスラエル建国に向ったのかだ。この考察抜きにイスラエル建国を支持することはアラブの民の怒りを買うだけだろう。

 問題は、イスラエル建国に見せたシオニストの筆舌尽くし難き乱暴狼藉ぶりである。それを知れば「祖国を持たない悲哀論」の容貌が変じ、「何故この国の民がかの時に所払いさせられ、以降国を持つことを許されなかったのか」の問いへと転じることになる。実に「ユダヤ人問題」は数千年の歴史の重みの中で考えねばならないことで、東洋の日本の我々の単純な同情論で解決できるようなものではない。そのことを知るべきだろう。


 2005.4.4日 れんだいこ拝




(私論.私見)