「ゲッペルス日記」検証

  更新日/2022(平成31.5.1栄和/令和4).10.29日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「アンネの日記」の捏造説が囁かれているが、「ゲッペルス日記」にも疑惑が及んでいる。「アウシュヴィッツガス室論争」に於いてガス室不存在説に傾くと、いわゆる「ナチスのユダヤ人大量虐殺説」は総崩れとなる。「ナチスのユダヤ人大量虐殺説」は単に、勝者側のユダヤが敗者側のドイツに押し付けた「勝てば官軍式プロパガンダとしての反戦平和イデオロギー」の材料として上手に駆使されているに過ぎないのではないか、という虚構論理が透けて見えてくることになる。それはさておき、「ゲッペルス日記」とは何か、これを検証する。

 2004.3.4日 れんだいこ拝


【「ゲッペルス日記」発見の経緯】
 「阿修羅ホロコースト1」の2005.3.4日付け「たけ(tk) 」氏の「『ゲッペルス日記』は?」、その他の遣り取りを参照する。

 ロシナーの翻訳による「ゲッペルス日記」(1948年、 pp.86,147-148)によれば、「ゲッペルス日記」は、その発見からして僥倖であった。次のように記されている。
 「 ゲッペルスの日記のみは、まったくの幸運でかろうじて、7000ページもの反故紙として売られてしまうところから救い出されたのだが、しかし、四散した手書き原稿に埋もれた記述のいくつかは、全体像を語っている」。

 その、「ゲッペルス日記」は、「ヒトラーのユダヤ人皆殺し政策指令」を次のように裏付けている。

 1942.2.14日:総統は、ヨーロッパのユダヤ人を情け容赦なく一掃する彼の決定を、今一度表明した。それに関して、神経質なセンチメンタリズムなどあってはならない。ユダヤ人は破滅に値するのであり、今こそその運命が彼らを襲ったのだ。彼らの絶滅は我々の敵の絶滅と同一歩調をとってなされるだろう。我々は、冷たい無慈悲さでもって、この過程を促進せねばならない。

 1942.3.27日、手続きはきわめて野蛮なものであり、ここにより正確に描写すべきではない。ユダヤ人のうち残るのは、けして多くはないだろう。概して、彼らの約60%が消され、しかるに40%のみが強制労働に使用可能だ。

(私論.私見) 「ゲッペルス日記」の胡散臭さ考

 1・僥倖によって入手され、2・「ヒトラーのユダヤ人皆殺し政策指令」が現実に存在したことが裏付けられた、という論法の構図は、どこかで聞いたことがある。れんだいこなら分かる。「ロッキード事件」で、ロッキード社の海外不正支払い明細書を記した帳簿を梱包した小包が、出所も差出人も不明のまま米上院チャーチ委員会に間違って配達された。それが決め手となって、やがて日本政府高官逮捕に繋がった、という構図と酷似している。これは「国際ユダ邪」の常套手法のような気がする。

 付言すれば、誤配達ではなかった、然るべき手順で書類が届けられたと訂正しても無駄であろう。ならば、誰がどういう意図で届けたのかの詮索に向うことになり、そうすれば背後の仕掛け勢力がよりはっきりしよう。それは却って具合が悪いから、誤配達にしているのではないのか。誤配達でないとするなら、背後の人脈を浮き上がらせて見たまえ。とくと眺めてしんぜよう。

 もとへ。となると、「ゲッペルス日記」の胡散臭さが解明されねばならないことになろう。れんだいこが気づくということは、他にも気づく人が居る蓋然性が高く、「たけ(tk) 」氏も「これの信憑性はどうなんでしょ?」と問うている。

 2005.3.4日 れんだいこ拝


【「ゲッペルス日記」の「カチンの森事件」記述考その1、「逢坂見解」】
 作家の逢坂剛氏が、1992.11月号の総合雑誌「中央公論」で、新たに「ゲッペルス日記」の「カチンの森事件」に関する記述を紹介した。「1943.9.29日付ゲッペルス日記」で、日記には次のように書かれていた。
 「遺憾ながらわれわれは、カチンの森の一件から手を引かなければならない。ボリシェビキは遅かれ早かれ、われわれが一万二千人のポーランド将校を射殺した事実をかぎつけるだろう。この一件は行くゆく、われわれにたいへんな問題を引き起こすに違いない」。

 つまり、「1943.9.29日付ゲッペルス日記」には、1・「カチンの森事件」はナチスの犯行である。2・それを隠蔽せねばならない。3・この問題は後々重大な問題になるだろうとの危惧、を書き付けており、逢坂氏がこれを紹介したことになる。「カチンの森事件犯ナチス説」を補強していることになる。この記述に関する逢坂氏の見解が肯定的なのか否定的なのか判然としないが、これを仮に「逢坂見解」とする。

【「ゲッペルス日記」の「カチンの森事件」記述考その2、「日本人民戦線見解」】
 「カチンの森事件」につき、「日本人民戦線」が、1995.1.1日論文「正統マルクス主義万歳!」で取り上げ、「逢坂見解」を支持しつつ次のように解説した。これを仮に「日本人民戦線見解」とする。
 権力が歴史をねじ曲げる実例としての「カチンの森」事件をみよ!「カチンの森」事件というものがある。一九四三年四月、ナチス・ドイツの宣伝相ゲッペルスは、ロシア共和国の主要都市スモレンスクの近郊カチンの森で約四千四百人のポーランド軍将校の虐殺死体が発見されたと発表。ロンドンにあったポーランド亡命政府は直ちに国際赤十字に調査を要求、国際問題となった。

 ドイツ政府とゲッペルスはスターリンとソ連の犯罪であると声明。ソ連政府とソビエト共産党はナチスの犯罪だと声明。国際赤十字の調査は公式には結論を出せず、第二次世界大戦史のなかでもなぞとされてきた。第二次大戦後の東西対立と冷戦、米ソ対立の時代には西側の東側非難の材料とされ、スターリン非難の材料とされつづけてきた。

 そこにフルシチョフが出現した。フルシチョフによるスターリン批判が一九五六年二月のソビエト共産党第二十回大会で飛び出し、そのなかでスターリンの独裁が糾弾され、その罪状なるものがつぎつぎにもち出されるなか、この「カチンの森」事件もまたスターリンの犯罪として定着してしまった。フルシチョフの弟子たるゴルバチョフも西側に迎合し、西側に同調してスターリンの犯罪と認めた。こうしてこの問題はフルシチョフと西側の合作によって一見落着したかのようにみえた。

 ところが歴史はまわり、時代がかわり、ソ連が崩壊し、ソビエト時代のあらゆる秘密文書が外に流れ出した一九九二年七月のはじめに、モスクワのロシア国立公文書館で、ナチス・ドイツの宣伝相であったあのゲッペルスの自筆日記が発見された。ヨゼフ・ゲッペルスこそ「カチンの森」事件を最初に世界へ向かってスターリンの犯罪だと呼びかけた張本人だった。その本人の日記に驚くべきことが記されていた。

 そのいきさつについては一九九二年十一月号の『中央公論』に作家の逢坂剛氏が書いているが、ゲッペルス日記の一九四三年九月二十九日付にはつぎのように書いてあった。
 「遺憾ながらわれわれは、カチンの森の一件から手を引かなければならない。ボリシェビキは遅かれ早かれ、われわれが一万二千人のポーランド将校を射殺した事実をかぎつけるだろう。この一件は行くゆく、われわれにたいへんな問題を引き起こすに違いない」。

 ゲッペルスは一九四三年四月段階では対外的にソビエト政府とスターリンの犯罪だと声明しつつ、同年の九月の日記には「われわれが殺した事実」を認めつつ、このことがナチスとヒトラーへはねかえってくることを心配しているのである。

 当時の戦況についてみると、ポーランド政府はロンドンに亡命しており、この政府は反ナチス、反ソビエトであり、ナチスとソビエトが共倒れになることを願っていた。しかし反ソ・反共が強かった。ポーランド内に残っていた軍と将校も反ソビエト、反共主義で、独ソ戦に関してはナチス寄りであった。

 ポーランド将校の死体が見つかったスモレンスクはヒトラーのモスクワ侵攻作戦の前哨戦として、スターリングラード、レニングラードと並ぶ三大激戦地であり、そのスモレンスク戦線は一九四一年十月にはナチスの敗戦に終わり、モスクワ攻略は失敗した。そして一九四三年一月三十一日には歴史に名高いスターリングラード攻防戦はドイツの敗北に終わり、これを機に東部戦線はナチスの総崩れとなる。つまり「カチンの森」事件は、独ソ戦の天王山という時機に発生し、ゲッペルスの日記はドイツのソビエトに対する敗北という時機に書かれているのである。そういう歴史的背景をしっかり認識してみると、この一連の事件の本質が明確になる。

 結論は明らかである。ゲッペルスが自らの日記に告白しているとおり「カチンの森」事件の犯人はまさにナチスの犯罪であった。歴史が真実を明らかにしたのである。

 この事件でもわかるとおり、歴史というものは二つの側面(ここでも哲学的弁証法が作用する)がある。第一は、歴史というものの評価は常にその時代の政治と権力が下すものであり、歴史は常にそのときの政治と権力がつくりあげるのである。日本の天皇と天皇制も政治と権力によって常に変化してきたではないか。第二は、歴史の真実というものは、四十年、七十年という、ある一定の段階を通過してこそ明らかになるのであり、問題によってはもっと先になって、人民の手によってのみ明らかになる、ということである。そして「カチンの森」事件は、まさにこの二つの側面の生きた実例であった。

 そして何より大切なことは、ナチスとゲッペルス、それと同盟した西側ブルジョア政府が、そしてこれに連合したフルシチョフ、ゴルバチョフ、エリツィンや、これらと同盟した背教と裏切り、敗北と転向の反マルクス主義者、反共と反社会主義のブルジョア転落者たちが叫ぶ「スターリンの虐殺」というあのスローガンの欺まん性がみごとに暴かれたことにある。

 そしてもう一つの決定的なことは、一事が万事であり、フルシチョフが言い出したスターリン批判のあれこれもまた同じように、とうの昔から西側ブルジョアジーが言っていたことを、さも一大発見のごとく、一九五六年の二月に、改めて内外に発表した一大キャンペーン、しかもフルシチョフにとっては西側ブルジョアジーに屈服する証としてもち出した手形だったということ、ここにスターリン批判のもっている歴史性と階級的性格があった、ということである。

(私論.私見) 「日本人民戦線見解」考
 これによると、「正統マルクス主義万歳!」は、「1943.9.29日付ゲッペルス日記」の記述を本物と認め、この記述に従って、「カチンの森事件」をドイツナチスの犯行としていることになる。それは、世のスターリニズム批判に対するスターリン評価側からの反論を企図している。同サイトは、「権力が歴史をねじ曲げる実例としての『カチンの森』事件をみよ!」として、ドイツナチスの犯行説を主張している訳であるが、もしこの見解が間違っていたなら、同党の面目丸潰れの構図となる。

【「ゲッペルス日記」の「カチンの森事件」記述考その2、「ソフィア先生の逆転裁判2見解」】

 「ソフィア先生の逆転裁判2〜ユダヤの嘘を暴いてドイツの無罪を勝ち取れ〜」は、「カチンの森事件」はドイツナチスの犯行ではない、スターリンの指導するソ連軍の仕業である、とする立場から種々考察している。これを仮に「ソフィア先生の逆転裁判2見解」とする。次のような記述を紹介している。

 参考資料:SANSPO_COM 2004/7/14
 第2次世界大戦中の1943年4月、ソ連西部(現ロシア)スモレンスク郊外のカチンの森で、ソ連に抑留されていたポーランド人将校ら約4000人の虐殺体が見つかった同事件は、長くナチス・ドイツの犯行とされてきたが、90年、当時のソ連のゴルバチョフ政権がソ連秘密警察の犯行だったことを認めた。

 1989年、ソビエト連邦の学者たちはヨセフ・スターリンが虐殺を命令したことを明らかにした。そして1990年、ミハイル・ゴルバチョフはカチンと同じような埋葬のあとが見つかったメドノエ(Mednoe)とピャチハキ(Pyatikhatki)を含めてソ連の内務人民委員部(NKVD)がポーランド人を処刑したことを認めた。

 1992年、ソビエト連邦崩壊後のロシア政府は最高機密文書の第一号から公開した。その中には西ウクライナ、ベラルーシの本当の囚人や各野営地にいるポーランド人25,700人を射殺するというスターリンの署名入りの計画書やソ連の政治局が出した1940年3月5日の射殺命令や21,857人のポーランド人の処刑が実行され、彼らの個人資料を廃棄する計画があることなどが書かれたニキータ・フルシチョフあての文書も含まれている。

(私論.私見) 「ソフィア先生の逆転裁判2見解」考
 1990年、当時のソ連のゴルバチョフ政権が、「カチンの森事件」につき、ナチス・ドイツの犯行ではなくソ連秘密警察の犯行だったことを認めた。こうなると、「ゲッペルス日記」、「逢坂見解」、「日本人民戦線見解」がいずれも否定されることになる。こうなると、「正統マルクス主義万歳!」が「権力が歴史をねじ曲げる実例としての『カチンの森』事件をみよ!」と前置きして縷々述べた見解が滑稽なことになる。「ソフィア先生の逆転裁判2」は、同じ言葉でもって見解を逆転させている。

 「日本人民戦線見解」と「ソフィア先生の逆転裁判2見解」のどちらが正しいのだろうか。問題は、れんだいこから見て、ソフィア先生の逆転裁判2見解」の言説に軍配が上がりそうなことにある。ということは、「日本人民戦線見解」がとんだ恥を晒したことになる。同党は先だって、立花隆の言説を持ち上げ(採録したいがどこへ秘蔵されているのだろう、検索できない)、れんだいこを仰天させたが、あちこちで観点の歪みを晒していることになる。

 同党の宮顕批判、その対極としての徳球擁護の観点を高く評価しているれんだいことしては拍子抜けさせられる。それは、日本左派運動の低水準を証左しているのではなかろうか。左派戦線のこうした理論的混乱を解きほぐさねば一歩も前進し得ない、れんだいこはそう思う。

 2005.3.5日 れんだいこ拝




(私論.私見)