映画「シンドラーのリスト」考

 (最新見直し2005.12.26日)

【映画「シンドラーのリスト」のあらすじ】
 トーマス・キニーリーの「シンドラーズ・リスト─1200人のユダヤ人を救ったドイツ人」が、「E・T・」、「ジョーズ」、「未知との遭遇」、「インディ・ジョーンズ」、「カラーパープル」、「ジュラシック・パーク」の名作で知られるスティーヴン・スピルバーグ(Steven Spielberg )氏監督兼製作で映画化され、1993年度の第66回アカデミー賞で最優秀作品賞・監督賞ほか7部門を受賞した。スピルバーグは46歳のユダヤ人で、これを十年前から企画していたと云う。

 リーアム ・ニーソンが主人公シンドラーを、映画「ガンジー」でガンジーを演じきったベン・キングズレーがシンドラーの片腕として活躍するユダヤ人イツァーク・シュテルン役を演じ、「第二次大戦下、ナチス党員でもあったドイツの一介の実業家が時代のこの渦に巻き込まれ、次第にナチズムの反ユダヤ主義ホロコーストに怒りを持ち始め、大戦末期の頃遂に1千名を超えるユダヤ人を救出する。この一連の経過をドキュメンタリー風に描いている大作」と評されている反ナチズム反ファシズム作品(アメリカ作品モノクロ3時間15分)。

 時代は、第二次世界大戦突入時。1939.9月、ドイツ軍がポーランド南部の都市クラクフに侵攻し、2ヶ月でポーランドを制圧する。1941.3.20日、ドイツは、全ユダヤ人を壁に囲まれたゲットー内に押し込める政策を採用した。次に、1943.2月、ゲットーが解体され、ユダヤ人たちはドイツ・ポーランド各地の強制収容所(ナチスは“集中収容所”と呼んでいた)に送られることになる。そのうち1万人以上のユダヤ人がクラクフに運ばれ、ウィスク川の南岸、壁に囲まれた0.24平方キロの狭い地域へ押し込まれた。強制収容所は、ユダヤ人の絶滅を究極の目的とする“絶滅収容所”と、彼らの労働力を無償で利用しようとする“強制労働収容所”の二種類あった。アウシュヴィッツは、「その両方の機能を兼ね備えた巨大複合収容所」であった。

 物語は、ナチス党員でもあるドイツ人実業家オスカー・シンドラーが一旗揚げようとして、ドイツ支配下のポーランド南西部の古都クラクフにやって来るところから始まる。彼は、軍に取り入り、ユダヤ人所有の工場を安く手に入れ、ゲットーに隔離されているユダヤ人たちを格安の労働力として使い、軍用ホーロー容器の大量生産を始め、全てが順調に推移し莫大な財産を手に入れる。

 しかし、有頂天のシンドラーが目にしたのはナチズムの反ユダヤ主義の嵐であり、シンドラーは憂鬱であった。ユダヤ人がゲットーから追い立てられ、収容所送りにされる経緯は悲惨であった。ユダヤ人は家畜のように追い立てられ、抵抗する者、隠れようとする者、病人など、罪もない人々が次々と虫けらのように虐殺されていた。病院では医師が患者に劇薬を飲ませ安楽死させていた。シンドラーはこの現場を目撃し胸を痛める。映画では、「ナチスのユダヤ人迫害の模様が鬼気迫る筆致でリアルに描かれている」。シンドラーの目に赤いコートを着た少女の放心が映し出される。

  シンドラーは次第にナチズムに嫌悪を覚えていく。やがて、ナチスにうわべは従順をよそおいながらも敢然と挑戦し始める。1944年、ソ連軍の反撃が始まる。ある日、シンドラーは空から灰が降り注ぐのを見る。それは、プワシュフ収容所ですでに殺され埋められていたユダヤ人の死体が掘り起こされ、焼却される灰だった。運ばれる遺体の中にはあの赤い服の女の子の姿もあった。ポーランドのプワシュフ収容所は、内部にさまざまな工場をもつ強制労働収容所であったが、虐殺は日常茶飯事のように行われていた。

 ナチスは、ソ連軍の進撃にともない、証拠隠滅のため収容所の閉鎖を決定する。残るは絶滅収容所アウシュヴィッツのみだった。シンドラーは最後の賭けに出る。ゲートに掛け合い、多額のカネにものをいわせて、彼らを自分の生まれ故郷であるチェコスロヴァキアのブリンリッツへ連れていくことを承知させる。シュテルンとともに彼は1千名を超えるユダヤ人のリストを作る。このリストが映画の題名となり「シンドラーのリスト」として象徴されている。

 こうして、リストに載ったユダヤ人たちは、貨車に乗せられてブリンリッツに向かう。ところが、女性の乗った貨車だけは、手違いからなんとアウシュヴィッツに着いてしまう。ここでもシンドラーは収容所長にワイロを送ることによって彼女らを連れ戻す。シンドラーはこうして、数百万マルクのカネを使ってユダヤ人約1200名を救いだした。

 1945年、ドイツが無条件降伏。ユダヤ人は解放された。自由の身になったユダヤ人たちは、金歯を加工して作った指輪を立ち去るシンドラーに贈る。アーモン ・ゲートは処刑される。ユダヤ人たちの感謝の念と涙に見送られながら、″戦犯″であるシンドラーは彼らに別れを告げる。その後のシンドラーは結婚にも事業にも失敗するが、1958年イスラエルで“正義の人”に選ばれ、イェルサレムのホロコースト記念館の前の“正義の大通り”に植樹する。

 ほぼ以上のようなストーリーとなっている、とのことである。

【映画「シンドラーのリスト」の原作者トーマス・キニーリ氏の南京大虐殺事件発言】
 南京大虐殺は事実 「シンドラーのリスト」原作者
 反ファシズム作品として知られる映画「シンドラーのリスト」の原作者トーマス・キニーリ氏が 8 日、北京大学で「オーストラリア文学と世界」と題し、講演を行った。 講演終了後、キニーリ氏は報道陣に囲まれ、記者の質問に答えた。
  第 2 次大戦時の中国の歴史を学んだことがあるか。
 学んだだけでなく、中国を侵略した日本軍による南京大虐殺について資料を作成した事がある。
 現在、日本の一部政治団体が南京大虐殺を否認しているが。
 南京大虐殺は争えない事実だ。 日本人の一部は犠牲者数にこだわっているが、何の意義もないことだ。
 日本政府は今も過去を反省していないが。
 理解できない。ドイツの大統領は、ナチスの迫害を受けたユダヤ人に跪いて謝罪した。 英国のブレア首相はアイルランド人に謝罪した。なぜ日本人にはできないのか。日本政府は中国人民に対し、過去の罪行を心から謝罪するべきだ。




(私論.私見)