「アンネの日記」検証 |
更新日/2017.1.27日
(れんだいこのショートメッセージ) |
アンネ・フランク(Anne Frank)のホロコースト悲劇譚「アンネの日記」は、「ユダヤ人大虐殺ホロコーストを裏付けるユダヤ人少女の日記」として、戦後反戦平和運動の必読教本的地位を獲得してきた。その「アンネの日記」の真贋論争が始まっている。今や、ホロコースト悲劇譚の全てに疑惑が発生していることになる。「阿修羅ホロコースト1」の「アンネ・フランクは、アンネの日記を書かなかった」が点火している。しかしながら、日本左派運動は相変わらず見ない振りをしているように見える。そういう作法がいつまでも続くとは思わないが、サヨ運動にはお似合いなのであろう。 以下、分かりやすくする為、「アンネの日記」を史実書として扱う側を定説盲信派、これに疑惑する派を疑惑検証派と云うことにする。ここで、何が問われているのか、れんだいこが分かる範囲で整理してみる。思えば、「アンネの日記真贋論争」は、ホロコースト神話崩壊の「頂門の一針」、「蟻の穴より堤の崩れ」になる可能性がある。そこで、急遽サイト化する。 2004.2.24日、2006.3.4日書き直し れんだいこ拝 |
【「アンネの日記通説」考】 | ||||
まず、「アンネの日記通説」を概括する。 定説盲信派の元アメリカ大統領夫人エレノア・ローズヴェルトは、「アンネの日記」について次のように述べている。
「フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)の『アンネの日記』」は、次のように記している。
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【「アンネの日記の出版経緯」考】 | |
アンネの日記の出版経緯が次のように語られている。以下、「フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)の『アンネの日記』」、2006.9.18日付毎日新聞「アンネの日記焼却事件」その他を参照する。 ドイツのフランクフルト生まれのオランダ系ユダヤ人、アンネリーゼ・マリー・フランクは、ヒトラーが政権を掌握した翌年の1934年、身の危険を感じて一家でオランダに移住した。1942年、姉マルゴーが収容所送りのリストに載せられたため、父の仕事場に設けられた隠れ家に移り住んだ。同年6.12日、アンネは、父のオットー・フランクから贈られた手帳に日記を書き始めた。こうして、架空の友人に宛てた手紙形式で、夢や恋愛、友人、家族との関係などをみずみずしい感性で書き綴った「アンネの日記」が残されることになった。日記は、逮捕される3日前で終わっている。他にも雑用紙にも記されている。 1944.8.4日、隠れ家に潜んでいたアンネ・フランク一家他のユダヤ人8人は、密告により、ドイツ・アムステルダム駐留軍保安警察(SD)によって摘発された。逮捕収監されるまでの僅かな間に、「アンネの日記」を隠匿した。こうして戦火を免れることになった。アンネはドイツ北部のベルゲン・ベルゼン強制収容所、他の7名は各地の強制収容所に送られた。1945年1月27日、強制連行と虐殺を象徴するアウシュビッツ強制収容所が解放された。その年の3月、アンネは腸チフスで死亡し、他の者も死亡した。アンネがやっかむほど聡明だった3歳上の姉はマルゴ・フランク。姉妹は「アンネの日記」、「マルゴの日記」を遺して世を去った。「アウシュビッツ解放から1カ月後、姉妹は別の収容所で飢えと寒さに震えながら死亡した」と云う。戦後を迎えるのはアンネの父親オットー・フランクのみとなった。 戦後、「アンネの日記」がアムステルダムに戻ったオットーに渡された。彼はこの文書を編集してまとめ、アンネやフランク一家をよく知る人のために私家版として配った。やがてこの文書の存在が広く社会に知られるようになり、周囲の声に推され、本格的な出版に踏み切ることになる。1947年、オランダのコンタクト社から初版が発売された。 「アンネの日記」は大評判となり、世界中でベストセラーになった。翻訳された言語は55ヶ国語、出版部数は2500万部を超えるといわれ、今もなお読み継がれている。日本でも1952年に文藝春秋社から皆藤幸蔵の訳で「アンネの日記 光ほのかに」のタイトルで出版された。2004年現在、同じく文藝春秋社からは深町眞理子訳出のものがラインナップされている。 「アンネの日記」は、オリジナル原稿(手帳と雑用紙からなる。仮にA版とする)と清書原稿(仮にB版とする)の二種類が存在する。どちらも完全な形では残っていない。オットー・フランクは、オリジナル原稿と改訂稿を相互補完する形で縮約編集した云わば私家版(仮にC版とする)を出版した。C版は、母親への中傷や性的な描写など3割程度を削除していた。 「フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)/アンネの日記」は次のように記している。
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【アンネの日記を廻る真贋論争その1、作者別人説考】 | |||||||
アンネの日記には根強い捏造偽書説がある。「ウィキペディアの『アンネの日記』」、「アンネ・フランクは、アンネの日記を書かなかった」その他を参照する。 アンネ・フランクは、1945.3月頃、ナチのユダヤ人収容所で発疹チフスに罹患して命を落としたとされている。そのアンネが書いたといわれる「アンネの日記」は戦後反戦平和運動の象徴的日記文学となって今日まで広く読み続けられている。これまでにも13歳の頃から書き始められた日記の筆力があまりに大人びていることや文章がたくみであること、筆致のすばらしさに疑問を感じる人たちがいた。アンネの日記には、フランク家で唯一生き残ったアンネの父親、オットー・フランクが「手を加えている」とか、オットーがアメリカのユダヤ人作家メイヤー・レビンに依頼して書かせたとか、偽作説がある。 デービッド・アービング氏のサイトでは、注意深くアンネの日記の真贋を論じ、次のように言い添えている。
「真贋論争その1」は、真の作者をめぐる疑惑である。これを仮に「作者別人説」とする。次のような遣り取りになっている。
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【アンネの日記を廻る真贋論争その2、「ボールペン論争」考】 | ||||||||
「日記本文は1942年から1944年の間に、アンネその人によって書かれたものと結論付けられた」ものの、「ボールペン論争」が起っている。「真贋論争その2」は、「アンネ・フランクの手書きのテキスト」をめぐる疑惑である。 「ボールペン論争」とは次のようなものである。
1980年、ドイツでひとつの裁判が行われた。西ドイツの雑誌「デア・シュピーゲル」の伝えるところに拠ると、「アンネの日記は偽書である」と主張するエルンスト・ロエマーをアンネの父オットーが訴えた裁判であった(「アンネの父、オットーによるエルンスト・ロエマー告訴裁判」)。ドイツの捜査当局、独逸連邦犯罪調査事務局(BKA、FBIに相当)は訴えを受けて、アンネの日記の科学的分析を行った。その結果、次のことが判明した。 「アンネの日記」(Anne Frank・原著、 深町真理子・翻訳、 文春文庫)は、次のように解説しているとのことである。
これについて、定説派は次のように説明している。「フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)の『アンネの日記』」は、「ボールペン問題」について次のように記している。
2006.9.18日付毎日新聞「アンネの日記焼却事件」は、次のように説明している。
これにつき、「アンネ・フランクは、アンネの日記を書かなかった」は、「フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)の『アンネの日記』」の「アンネ・フランクのボールペン書き論争」に関する記述を次のように批判している。
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【アンネの日記を廻る真贋論争その3、「筆跡論争」考】 | ||||||||||||||
「アンネ・フランク直筆の手紙」が発見された。次のような筆跡論争が起り衝撃が走った。
この問題に対して、「フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)の『アンネの日記』」執筆者は、「アンネの新手紙発見に伴うアンネの日記真贋論争」についての次のように記している。
「アンネ・フランクは、アンネの日記を書かなかった」は、次のように批判している。
「アンネ・フランクは、アンネの日記を書かなかった」は、アンネ・フランクの発見された直筆の手紙と「アンネの日記」を写真で比較し、れんだいこ風に要約すると、概要次のように述べている。
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【「デヴィッド・アーヴィング氏の法廷証言」】 | |||
木村愛二氏の「阿修羅ホロコースト2」での2006.2.11日付投稿「『アンネ・フランクの日記』偽作説関連情報」は次のように記している。
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【「アンネの日記は逆にホロコーストを否定している」考】 | ||
木村愛二氏の「阿修羅ホロコースト1」での2005.2.24日付投稿「アンネ・フランクがもっとも有名な発疹チフス患者で断じて虐殺ではない!」は、「アンネの日記は逆にホロコーストを否定している」と主張し、次のように記している。
(http://www.jca.apc.org/~altmedka/aus-42.html、『アウシュヴィッツの争点』第5章:未解明だった「チクロンB」と「ガス室」の関係がもっとも有名な「発疹チフス」患者)
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【定説盲信派・大越哲仁氏の「回想のアンネ・フランク・ハウス」考】 | ||||||||||||
定説盲信派の大越哲仁氏の「回想のアンネ・フランク・ハウス 異質な人々に対する寛容の大切さについて〜」という小論考がサイトアップされている。大越氏は、この小論考の中で、定説盲信派の立場から宇野正美氏の諸言説を批判的に取り上げている。れんだいこは、宇野正美氏の諸言説の方に注目している。以下、「れんだいこのアンネの日記検証」サイト内容に関連する下りを抜き出し検証する。
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【アンネの父親オットー氏の手紙公開される】 | |
2007.1.25日付の「アンネの父親の手紙発見―米=家族救う必死の思いにじむ (AFP=時事)」を転載しておく。
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アンネの父親のオットー氏の手紙が公開された。1980年に死去した同氏は真実を墓場へ持っていった。その手紙が公開されたのは遅まきながらも了とすべきだろう。れんだいこは、そのことよりも、「タイム誌によると、オットー氏の手紙は2年前に発見されたが、著作権や法的問題への懸念から、存在が伏せられていたという」とあるところに注目する。まことに、著作権はこういう風に真実を知らしめない為の方便で使われていることに注目すべきだろう。 2007.1.26日 れんだいこ拝 |
【日共のアンネの日記に見せるネオシオニズム盲従性考】 | |||
2007.2.28日付け赤旗の「『アンネの日記』焼却事件 独で裁判始まる 失業の克服 ネオナチ根絶へ課題」を転載しておく。日共がいかに露骨にネオシオニズムと親和し配下として蠢いているか判明しよう。貴重資料として保存しておく。
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「阿修羅ホロコースト4」の木村愛二氏の2007.2.8日付け投稿「英文記事:Re: 『アンネの日記』焼却事件」を転載しておく。 |
【五十嵐仁の「アンネの日記」に見せるネオシオニズム盲従性考】 | |||||
「五十嵐仁の転成仁語」の2014.2.26日付けブログ「ネオ・ナチ化する醜い日本と日本人」を転載しコメントしておく。
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(私論.私見)