「アンネの日記」検証

 更新日/2017.1.27日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 アンネ・フランク(Anne Frank)のホロコースト悲劇譚「アンネの日記」は、「ユダヤ人大虐殺ホロコーストを裏付けるユダヤ人少女の日記」として、戦後反戦平和運動の必読教本的地位を獲得してきた。その「アンネの日記」の真贋論争が始まっている。今や、ホロコースト悲劇譚の全てに疑惑が発生していることになる。阿修羅ホロコースト1「アンネ・フランクは、アンネの日記を書かなかった」が点火している。しかしながら、日本左派運動は相変わらず見ない振りをしているように見える。そういう作法がいつまでも続くとは思わないが、サヨ運動にはお似合いなのであろう。

 以下、分かりやすくする為、「アンネの日記」を史実書として扱う側を定説盲信派、これに疑惑する派を疑惑検証派と云うことにする。ここで、何が問われているのか、れんだいこが分かる範囲で整理してみる。思えば、「アンネの日記真贋論争」は、ホロコースト神話崩壊の「頂門の一針」、「蟻の穴より堤の崩れ」になる可能性がある。そこで、急遽サイト化する。 
 
 2004.2.24日、2006.3.4日書き直し れんだいこ拝


【「アンネの日記通説」考】
 まず、「アンネの日記通説」を概括する。 定説盲信派の元アメリカ大統領夫人エレノア・ローズヴェルトは、「アンネの日記」について次のように述べている。
 「アンネの経験が私たちすべてにとって、決してひとごとでないこと、アンネの死と全世界のことに、私たちが大きな関係をもっていることを、私はしみじみ感ずる」。

 「フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)の『アンネの日記』」は、次のように記している。
 「アンネの日記(あんねのにっき) ユダヤ人少女アンネ・フランクによる日記。戦時ドキュメント」。
 「第二次大戦の最中、ナチス・ドイツ占領下のオランダ・アムステルダム。ナチの追及をかわし、隠れ家に潜んだ8人のユダヤ人達の生活を活写したもの。執筆はドイツ秘密警察に捕まるまでのおよそ二年間に及んだ。彼女の死後、父オットー・フランクの尽力によって出版され、世界的ベストセラーになった」。
 「アンネの日記は、一少女の内的葛藤と成長を描き出した作品である。第三者に宛てた手紙を模した独特な表現スタイルは、内面の吐露をより印象深いものにする。特に際立つのが、早熟さ、そして鋭い観察力と批判精神である。それは時に、他者に対して辛辣過ぎる程ですらある。作中に、何か決定的なドラマがあるわけではない。むしろ逮捕以後の悲惨さとは対照的に、幾つかのエピソードを除いて、たわいのない日常が記録されているに過ぎない。戦争、そしてナチスの影に怯えながらも、作品全体を貫く印象は明るく、時に絶望することがあってもそれに押し潰されることはない。隠れ家という閉塞された空間の中でも、将来への希望を失うことはないのである。しかし、その将来が、無残に断ち切られることによって悲劇性が加速する。作品は、若年者が戦争、人種差別、ホロコーストなどについて考える一助となっている」。

【「アンネの日記の出版経緯」考】
 アンネの日記の出版経緯が次のように語られている。以下、「フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)の『アンネの日記』」、2006.9.18日付毎日新聞「アンネの日記焼却事件」その他を参照する。

 ドイツのフランクフルト生まれのオランダ系ユダヤ人、アンネリーゼ・マリー・フランクは、ヒトラーが政権を掌握した翌年の1934年、身の危険を感じて一家でオランダに移住した。1942年、姉マルゴーが収容所送りのリストに載せられたため、父の仕事場に設けられた隠れ家に移り住んだ。同年6.12日、アンネは、父のオットー・フランクから贈られた手帳に日記を書き始めた。こうして、架空の友人に宛てた手紙形式で、夢や恋愛、友人、家族との関係などをみずみずしい感性で書き綴った「アンネの日記」が残されることになった。日記は、逮捕される3日前で終わっている。他にも雑用紙にも記されている。

 1944.8.4日、隠れ家に潜んでいたアンネ・フランク一家他のユダヤ人8人は、密告により、ドイツ・アムステルダム駐留軍保安警察(SD)によって摘発された。逮捕収監されるまでの僅かな間に、「アンネの日記」を隠匿した。こうして戦火を免れることになった。アンネはドイツ北部のベルゲン・ベルゼン強制収容所、他の7名は各地の強制収容所に送られた。1945年1月27日、強制連行と虐殺を象徴するアウシュビッツ強制収容所が解放された。その年の3月、アンネは腸チフスで死亡し、他の者も死亡した。アンネがやっかむほど聡明だった3歳上の姉はマルゴ・フランク。姉妹は「アンネの日記」、「マルゴの日記」を遺して世を去った。「アウシュビッツ解放から1カ月後、姉妹は別の収容所で飢えと寒さに震えながら死亡した」と云う。戦後を迎えるのはアンネの父親オットー・フランクのみとなった。

 戦後、「アンネの日記」がアムステルダムに戻ったオットーに渡された。彼はこの文書を編集してまとめ、アンネやフランク一家をよく知る人のために私家版として配った。やがてこの文書の存在が広く社会に知られるようになり、周囲の声に推され、本格的な出版に踏み切ることになる。1947年、オランダのコンタクト社から初版が発売された。

 「アンネの日記」は大評判となり、世界中でベストセラーになった。翻訳された言語は55ヶ国語、出版部数は2500万部を超えるといわれ、今もなお読み継がれている。日本でも1952年に文藝春秋社から皆藤幸蔵の訳で「アンネの日記 光ほのかに」のタイトルで出版された。2004年現在、同じく文藝春秋社からは深町眞理子訳出のものがラインナップされている。

 「アンネの日記」は、オリジナル原稿(手帳と雑用紙からなる。仮にA版とする)と清書原稿(仮にB版とする)の二種類が存在する。どちらも完全な形では残っていない。オットー・フランクは、オリジナル原稿と改訂稿を相互補完する形で縮約編集した云わば私家版(仮にC版とする)を出版した。C版は、母親への中傷や性的な描写など3割程度を削除していた。

 「フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)/アンネの日記」は次のように記している。

 出版に当たっては、編集の過程で第三者によるさらなる本文の削除や訂正などがあった。削除箇所の多くは母親への辛辣な批判である。その他に第三者に関する批判(ファン・ペルス夫妻など)、若干の退屈なエピソード、性の目覚め、存命中の者のプライバシーを守るための配慮などがあった。上記のような編集が加えられたことにより、書店に並んだ日記はアンネ・フランクが書いたものと一字一句同一とはいえないが、内容は概ねアンネ・フランク自身のものと一致しており、1960年及び1981年の文書鑑定では、「これらの編集作業は日記のオリジナリティーを損なうものではない」と結論付けられた。

 作品は、戦時記録文、ノン・フィクションという枠を超えた日記文学として評価できる。
なお、削除箇所については後の版で増補されており、2004年現在、原テキストに近い形で刊行されている。


【アンネの日記を廻る真贋論争その1、作者別人説考】
 アンネの日記には根強い捏造偽書説がある。ウィキペディアの『アンネの日記』アンネ・フランクは、アンネの日記を書かなかったその他を参照する。

 アンネ・フランクは、1945.3月頃、ナチのユダヤ人収容所で発疹チフスに罹患して命を落としたとされている。そのアンネが書いたといわれる「アンネの日記」は戦後反戦平和運動の象徴的日記文学となって今日まで広く読み続けられている。これまでにも13歳の頃から書き始められた日記の筆力があまりに大人びていることや文章がたくみであること、筆致のすばらしさに疑問を感じる人たちがいた。アンネの日記には、フランク家で唯一生き残ったアンネの父親、オットー・フランクが「手を加えている」とか、オットーがアメリカのユダヤ人作家メイヤー・レビンに依頼して書かせたとか、偽作説がある。

 デービッド・アービング氏のサイトでは、注意深くアンネの日記の真贋を論じ、次のように言い添えている。
 「アンネの日記が偽作であることを世に知らしめたフランスのロベール・フォーリソン教授は、不当にもホロコーストの嘘を追及する行為を禁じられ、罰金まで科せられたそうです」。

 「真贋論争その1」は、真の作者をめぐる疑惑である。これを仮に「作者別人説」とする。次のような遣り取りになっている。
 概要「アンネの日記には偽書説、捏造説があり、『アンネ・フランクの日記は、父オットーと米国の作家であるメイヤー・レヴィンが共謀してでっちあげた。その対価としてレヴィンに5万ドルが支払われた』という説がある」。

 レヴィンは、オットーとアンネの日記の関わりについて次のように記述している。
 概要「レヴィンは、アンネの日記の熱心な支持者であり、1952年、アンネの日記を原作とした戯曲の脚本を手がけたが、脚本の出来と上演権を巡って齟齬があり、これがトラブルとなって裁判に発展した」。

 これについては、次のように結論付けられた。
 「アンネ・フランクの手書きのテキストについては、1981年にオランダ国立法科学研究所において、紙質、インク、糊などに関する文書調査と筆跡鑑定が行われた。筆跡鑑定は、フランク家、知人、同級生などから提供されたサンプルを日記と比較して、視覚的特性はもちろん、加齢に伴う字体の変化、筆圧の傾向など様々な側面からアプローチが行われた。調査の全容は270頁の鑑定レポートに纏められ、結果、日記本文は1942年から1944年の間に、アンネその人によって書かれたものと結論付けられた」。

 「フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)の『アンネの日記』」は次のように述べている。
 「偽作説をとる者のほとんどが、この舞台脚色における裁判の一部を恣意的に捻じ曲げて『アンネの日記はレヴィンの創作小説である』としているに過ぎず、これはもとより信用するに値しない」。

 裁判の行方について次のように説明している。
 「1958年、ニューヨーク州最高裁で、陪審はレヴィンに対して5万ドルの損害賠償が支払われるべきとの判断を下したが、これは棄却され、翌年1万5千ドルの和解案で双方合意した。これらはあくまでも戯曲などの二次創作の権利に絡んでのものである。なお、メイヤー・レヴィンの半生については、ローレンス・グレイヴァー著『「アンネの日記」もう一つの真実』(平凡社)に詳らかである」。

【アンネの日記を廻る真贋論争その2、「ボールペン論争」考】
 「日記本文は1942年から1944年の間に、アンネその人によって書かれたものと結論付けられた」ものの、「ボールペン論争」が起っている。「真贋論争その2」は、「アンネ・フランクの手書きのテキスト」をめぐる疑惑である。

 「ボールペン論争」とは次のようなものである。
 概要「日記はボールペンで書かれており、かかる筆記具が発明されたのは(もっと慎重な者は、一般的に使われるようになったのは、と書く)1951年以降である。よって1945年に死亡したアンネ日記がボールペンで書けるわけがなく、ボールペン発明以降に第三者によって執筆されたものである」。

 1980年、ドイツでひとつの裁判が行われた。西ドイツの雑誌「デア・シュピーゲル」の伝えるところに拠ると、「アンネの日記は偽書である」と主張するエルンスト・ロエマーをアンネの父オットーが訴えた裁判であった(「アンネの父、オットーによるエルンスト・ロエマー告訴裁判」)。ドイツの捜査当局、独逸連邦犯罪調査事務局(BKA、FBIに相当)は訴えを受けて、アンネの日記の科学的分析を行った。その結果、次のことが判明した。


 「アンネの日記」(Anne Frank・原著、 深町真理子・翻訳、 文春文庫)は、次のように解説しているとのことである。
 「アンネの日記の原本は、長期に亙って全巻が発表されていなかった。しかし裁判の結果遂に第4冊目(第4章)が調査される事になった。その4冊目はボールペンで書かれていることが判明した。ところで、ボールペンが世に出て一般に使われている様になったのは1951年以降である。アンネはそれよりも遥か以前に死んでいた。つまり、アンネの生きている間には存在しなかった。第4冊目に書かれているボールペンの筆跡は第1冊目、第2冊目、第3冊目に書かれている筆跡と全く同じ物である。と云う事は、この日記はアンネ自身の手によって書かれた物ではないのではないか、との推測を成り立たせることになる」。

 これについて、定説派は次のように説明している。
「フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)の『アンネの日記』」は、「ボールペン問題」について次のように記している。
 概要「問題のボールペン・インクによる記述は、最初の文書鑑定(1960年)の折りに紛れ込んだ小さな二枚の紙片に見られるに過ぎず、日記の内容に影響を与えるものでもなければ、当然アンネ・フランクが書いたものでも、ましてやメイヤー・レヴィンが書いたものでもない。この紙片の筆跡は、ドロテア・オッケルマンのものであったことが明らかになっている。鑑定レポートは、第三者の書き込みについても分析を行ない、これらをアンネが書いたものと区別して論述している。かくて、有名な伝説も否定された(そもそも『日記』の最初の出版は1947年である)」。

 2006.9.18日付毎日新聞「アンネの日記焼却事件」は、次のように説明している。

 「76年、ドイツ北部ハンブルクで日記をニセモノとするビラを配った男性がひぼう中傷罪で罰金刑を受けた。この控訴審でハンブルク地裁は、ドイツ連邦庁に日記の鑑定を依頼した。係官はスイスで存命だった父オットー・フランクを訪ね、紙とインクを鑑定。80年、紙は当時のものと断定したものの、『後に入れられた訂正箇所の文字の一部は、戦後51年以降に販売された黒、緑、青のインクで書かれた』との見解をまとめた。これを極右が利用、『すべてウソ』との宣伝を行ってきた」。

 これにつき、「アンネ・フランクは、アンネの日記を書かなかった」は、「フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)の『アンネの日記』」の「アンネ・フランクのボールペン書き論争」に関する記述を次のように批判している。
 意訳概要「ドイツの裁判では、そんな小さな紙切れ二枚の鑑定などしていない。第四章全部が、ボールペンで書かれていると鑑定している。『小さな紙切れ二枚の鑑定』はすり替えである」
 概要「そもそもウィキペディアの記述は出典が明らかでない。ネット上で類似の情報を探しても何も引っ掛かってこない。『81年にオランダ国立法科学研究所において、紙質、インク、糊などに関する文書調査と筆跡鑑定が行われ、結果、42年から44年の間に、本人が書いたものと結論付けられた』というのも、出典不明である。つまり、便所の落書きと同じで根拠がない」。
(私論.私見) 「アンネの日記を廻る真贋論争」における「フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)」記述の公正さについて
 同じ問題に対して、「アンネ・フランクは、アンネの日記を書かなかった」「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」の記述は明らかに真反対である。れんだいこは、「アンネ・フランクは、アンネの日記を書かなかった」の方が正しく記していると思っている。こうなると、「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」の真価、政治主義が問われることになる。あまりにも親シオニズム論調で学術界を席巻しつつあるのではなかろうか。これも手の込んだ洗脳刷り込みかもしれない。

 2004.2.24日 れんだいこ拝

【アンネの日記を廻る真贋論争その3、「筆跡論争」考】

 「アンネ・フランク直筆の手紙」が発見された。次のような筆跡論争が起り衝撃が走った。

 「1988年、アンネがアメリカの友人に送った手紙が新たに発見された。その筆跡が明らかに日記の大人びたそれと異なっていたことから、真贋論争が再燃している」

 この問題に対して、「フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)の『アンネの日記』」執筆者は、「アンネの新手紙発見に伴うアンネの日記真贋論争」についての次のように記している。

 「筆跡の調査は、1960年と1981年の鑑定と同様に所定の手続きに基づき、政治的に中立な専門家によってなされるべき性質のものである。縮小写真を見比べて直感的に判断するのは鑑定とはいえない」。
(私論.私見) 「アンネの日記を廻る真贋論争」における「フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)の『アンネの日記』」執筆者の論法について
 末尾の「政治的に中立な専門家によってなされるべき性質のものである。縮小写真を見比べて直感的に判断するのは鑑定とはいえない」は、臭い書き方だ。その論法によれば、どのような証拠が出されても専門家の手に委ねなければならないことになる。仮に、その説法に従ったとしても、専門家が専門家としての見識を発揮すればともかく丸め込まれていたらどうするのだ。よくある話ではないか。

 つまり、「フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)の『アンネの日記』」執筆者は、権力的御用理論を振りまいていることになる。シオニズム御用系は、いつでもどこでもこういう無茶苦茶な論法、詭弁を常套する。それに丸め込まれる者も居るには居るが。れんだいこは、学問的な粉飾の裏側に透けて見える粗雑な論法に、到底納得できない。
 

 2005.2.24日 れんだいこ拝

 「アンネ・フランクは、アンネの日記を書かなかった」は、次のように批判している。
 概要「(そういう)態度は問題である。筆跡が違うなら書いた人物が違うということです。単純なことです。なぜ、このように苦し紛れの偽作説否定をするのか、ユダヤとの関係を疑ってしまいます」。
(私論.私見) 「アンネの新手紙発見に伴うアンネの日記真贋論争」について
 「アンネ・フランクは、アンネの日記を書かなかった」氏の「筆跡が違うなら書いた人物が違うということです。単純なことです」の観点が真っ当だろう。

 いずれにせよ、「アンネの父、オットーによるエルンスト・ロエマー告訴裁判の衝撃」同様に、「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」の真価、政治主義が問われることになる。こうなると、戦後の反戦平和運動総体の再検証から始めねばならないことになるのではなかろうか。

 直ちに為すべきことは、2005年現在進行中の米英ユ同盟による狂信的自由拡大強権戦争政策に対して、断固たる反戦平和闘争で対抗することである。ユダヤ人の歴史的悲劇に耽溺し、米英ユ同盟の蛮行を許容し、イスラム急進派のテロ糾弾の列に唱和するという構図から一刻も早く抜け出さねばならないのではなかろうか。

 2005.2.25日 れんだいこ拝

 「アンネ・フランクは、アンネの日記を書かなかった」は、アンネ・フランクの発見された直筆の手紙と「アンネの日記」を写真で比較し、れんだいこ風に要約すると、概要次のように述べている。
 アンネ・フランクは実在した。このことに異論はない。問題は、「アンネの日記」は、本当にアンネ・フランクが書いたものなのか、そこが問題である。1988年、アンネがアメリカの友人に送った1942.10.10日付の手紙が発見され、その筆跡と公刊されている「アンネの日記」の筆跡とが違うことが露見した。次の通りである。
 【アンネの自筆の手紙の拡大写真】  【アンネの日記の筆跡】

 つまり、「新手紙の発見」によって、「アンネの日記」はアンネ・フランクが書いたものではない。第三者の書き手によって創作的に捏造された可能性が高まったことになる。結論的に云えば、アンネの日記は、シオニズム側の政治的意図によりプロパガンダされている可能性がある。
(私論.私見) 「アンネの新手紙発見に伴うアンネの日記真贋論争」について
 この問いかけの構図が正しいとするなら、これは由々しきことではなかろうか。

【「デヴィッド・アーヴィング氏の法廷証言」】
 木村愛二氏の「阿修羅ホロコースト2」での2006.2.11日付投稿「『アンネ・フランクの日記』偽作説関連情報」は次のように記している。

 http://www.jca.apc.org/~altmedka/nise-19.html
 『偽イスラエル政治神話』(その19)2章:20世紀の諸神話(その7)2節:ニュルンベルグの正義の神話(その4)

 [芸術作品による歴史的事実の歪曲]
 [中略]これらの荒唐無稽な文学神殿の中心に祭り上げられているのは、世界的なベストセラーになっている『アンネ・フランクの日記』である。この非常に感動的な物語は、現実に取って替わり、ついには、神話を歴史に変装させる。

 イギリスの歴史家、デヴィッド・アーヴィングは、一九八八年四月二五日と二六日のトロント裁判に出廷し、アンネ・フランクの“日記”に関して、つぎのように証言した。
 「アンネ・フランクの父親は、私との何度かの手紙のやりとりを経て、ついに、“日記”の手稿を専門的な研究所の鑑定に委ねることに同意した。私は、偽造の疑いが掛けれている文書については、いつも、こういう要求をしている」(トロント裁判記録)。

 彼が鑑定のために“日記”の手稿を引き渡した研究所は、ドイツのヴィスバーデンにある警察の刑事犯に関する研究所である。鑑定の結論によると、アンネ・フランクの“日記”の一部はボールペンで書かれていたが、アンネ・フランクが死んだのは一九四五年だったのに、ボールペンが市販されるようになったのは一九五一年以後なのである[訳注の追加]。

 訳注の追加:私自身が1998年1月にパリでガロディ裁判の際に会い、かなりの会話の時間をも得たフランスの文書鑑定家、元ソルボンヌ大学教授、ホロコースト見直し論の中心人物、ロベール・フォーリソンは、アンネ・フランクがアメリカのペンフレンドに出した葉書(LIFE誌の表紙)の文字と、“日記”の文字とが、まったく異なる点に注目している。実物の比較の映像は、私が発行している『歴史見直しジャーナル』23号(1998.11.25)にも収録した。興味のある方にはE-mail申込で実費頒布する。

 デヴィッド・アーヴィングは、さらに続ける。
 「私の個人的な結論によると、アンネ・フランクの“日記”の大部分は、確実に一二歳のユダヤ人の少女によって書かれたものである。原文は、少女が集中収容所でチフスに罹って悲劇的な死を迎えたのちに、父親のオットー・フランクの手に入った。父親か、もしくは私が知らない別の人物が、その“日記”に添削をしたりして売り物になるような形式を与え、それが父親とアンネ・フランク財団に富をもたらした。しかし、原文に変更が加えられた以上、この本には、歴史的な記録としての価値は、まったくない」。

 フォーリソンは、アーヴィングを軽率と批判するが、「“日記”の大部分は、確実に一二歳のユダヤ人の少女によって書かれたものである」という主張に反対なのであろう。「アンネ・フランクがアメリカのペンフレンドに出した葉書(LIFE誌の表紙)の文字と、“日記”の文字とが、まったく異なる」ことは一目瞭然である。子供っぽい丸文字と、書き慣れた斜めの筆記体である。 ただし、アンネ・フランク財団は、同一人物でも字体が変わると称して、「専門家」の鑑定報告を発表している。


【「アンネの日記は逆にホロコーストを否定している」考】
 木村愛二氏の「阿修羅ホロコースト1」での2005.2.24日付投稿「アンネ・フランクがもっとも有名な発疹チフス患者で断じて虐殺ではない!」は、「アンネの日記は逆にホロコーストを否定している」と主張し、次のように記している。

 http://www.jca.apc.org/~altmedka/aus-42.html、『アウシュヴィッツの争点』第5章:未解明だった「チクロンB」と「ガス室」の関係がもっとも有名な「発疹チフス」患者)

 以下は、ホロコースト狂信者が好きな似非紳士、朝日新聞社発行の雑誌、『アエラ』の記事の紹介である。

 裁判では、この種の証拠を、「敵性証拠」と言う。相手方は、自分が出した資料なのだから、反論する余地が無くなるのである。
 
「『アウシュヴィッツの争点』(その42)アンネ・フランクがもっとも有名な「発疹チフス」患者

 当時大流行した「チフス」、正確には「発疹チフス」によるユダヤ人の死者として世界中でもっとも有名なのは、アンネ・フランクである。彼女はソ連軍の侵攻直前にアウシュヴィッツからベルゲン・ベルゼンに移送された。つぎに紹介する『アエラ』の描写を借りれば、「チフスにかかって、そこで死んだ」のである。

 アンネの最後については、おりよく『アエラ』(94・8・29)が組んだ戦後五〇年特集「アンネ・フランクは償われたか」に最新情報がのっていた。この特集は残念ながら、「ホロコースト」物語そのものを信ずる立場で書かれているが、あえてその部分もふくめて紹介しよう。

 「……アンネに墓はない。…………ドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所に逆送され、チフスにかかって、そこで死んだ。収容所が英軍に解放される約二ヵ月前、一九四五年三月だった。……入り口の資料センターの歴史家トーマス・ニーエさん(三七)は、『アンネがどの棟にいたか、正確にはわかっていない。アンネが死んだ三月、チフス感染で一万八千人が死んだ。死者は合計五万人、解放時の生存者は六万人だった』 映写室で、解放直後に英軍が撮影した8ミリを見た。目を覆う惨状だった。死体が地上いたるところに散乱し、囚人棟の間に山積みされている。このドイツ内陸の収容所は、アウシュヴィッツのような『絶滅』用ではなかった。焼却炉は一つしかなかった。死体を処理しきれなかったのだ。英軍のブルドーザーが死体を数十体ずつ押して、大きな穴に落としてゆく。アンネもその一つだったのだろう。……」。

 この「英軍が撮影した8ミリ」の話はぜひ覚えておいてほしい。「英軍のブルドーザーが死体を数十体ずつ押して、大きな穴に落としてゆく」のだ。「『絶滅』用」の収容所ではなかったのだから、死者の死因は「ガス室処刑」ではない。だが、このあまりにも有名なフィルムのシーンは、突如、「ホロコースト」物語の動かしがたい物的証拠であるかのように、無言でインサートされることがおおい。その歴史的状況どころか、死者の死因、撮影者やブルドーザーの運転者の国籍など、なんらの説明もないのだ。さきに紹介したハリウッド映画『ニュルンベルグ裁判』でも、検事が法廷で上映する記録フィルムのなかに、このシーンがあった。リチャード・ウィドマーク扮する検事は、イギリス軍の作業であるとはいったが、「チフス」にはふれなかった。

 さて、アンネとオットーのことにもどるが、この有名なフランク家の父親と末娘の運命は、当時のドイツ支配下にあったユダヤ人一家のひとつの典型なのである。一家の四人がアウシュヴィッツに強制収容された。アンネの母親はアウシュヴィッツで死んだ。しかし、ほかの三人はまだ生きのこっていた。アンネと姉のマルゴーはアウシュヴィッツからドイツの西側のベルゲン・ベルゼンに移送され、そこで「発疹チフス」におかされて死んだ。オーットーはアウシュヴィッツで「発疹チフス」にかかって入院し、回復し、一九八〇年にスイスのバーゼルで死ぬまで、九一歳の寿命をまっとうしたのである。

 もう一度いう。フランク家の四人がアウシュヴィッツに強制収容された。そのことはたしかに悲惨な経験ではあるが、ともかく三人はアウシュヴィッツでは死なずに生きのこっていたのである。フランク家の姉妹がソ連軍の侵攻前にドイツ国内に移送された事実も、注目に値する。『アウシュヴィッツ収容所/所長ルドルフ・ヘスの告白遺録』の解説によれば、これらの国内移送は、ベルゲン・ベルゼンが「疾病抑留者の受入収容所に指定」されたためである。その結果、それまでは一万五千人のところに五万人をつめこむという超過密状態となり、この状態がチフスの流行に拍車をかけたとされている。

 アンネ・フランクも、もしかするとすでにアウシュヴィッツでチフスにかかっていて、「疾病抑留者」として移送されたのかもしれない。だがなぜ、「絶滅」する予定の「疾病」ユダヤ人を手間ひまかけて「ドイツ国内に移送」したのだろうか。ここにも「絶滅説」の巨大な矛盾がある


【定説盲信派・大越哲仁氏の「回想のアンネ・フランク・ハウス」考】
 定説盲信派の大越哲仁氏の「回想のアンネ・フランク・ハウス 異質な人々に対する寛容の大切さについて〜」という小論考がサイトアップされている。大越氏は、この小論考の中で、定説盲信派の立場から宇野正美氏の諸言説を批判的に取り上げている。れんだいこは、宇野正美氏の諸言説の方に注目している。以下、「れんだいこのアンネの日記検証」サイト内容に関連する下りを抜き出し検証する。

 アンネのこの「日記文学」の意義について的確に指摘したのは、夫の逝去後に熱心に平和運動を展開したエレノア・ローズヴェルト、元アメリカ大統領夫人である。 彼女は、アンネの日記のアメリカ版の序文で、それを次のように綴っている。

 「アンネの日記のうちで、最も人の心を打つ特筆すべきものは、彼女自身の描写である。アンネは、その情熱、機知、英知および豊かな情操によって、感受性が非常に強く、利口な思春期の子供なら書くだろうと思われる両親との関係、自意識の発達、成人の問題を書き、かつ考えた。

 これは異常な状況の下に暮らした少女の思想であり、意見である。したがって、彼女の日記は、私たち自身や、私たちの子供について、私たちに多くの事を教えてくれる。またそれゆえに、アンネの経験が私たちすべてにとって、決してひとごとでないこと、アンネの死と全世界のことに、私たちが大きな関係をもっていることを、私はしみじみ感ずるのである。

 アンネの日記は、彼女のりっぱな精神と、これまで平和のために努力し、また現在努力している人々の精神をたたえるにふさわしい記念碑である。本書は私たちに豊かな、そして有益な経験を与えてくれる」(皆藤幸蔵訳、文春文庫『アンネの日記』、1972年版より。なお、現在の文春文庫版では、このエレノアの序文は収録されていない。)

(私論.私見) 大越哲仁氏の「元アメリカ大統領夫人・エレノア・ローズヴェルトのアンネの日記評の取り上げ方」について
 大越哲仁氏は、元アメリカ大統領夫人・エレノア・ローズヴェルトを「夫の逝去後に熱心に平和運動を展開した」人として紹介し、彼女のアンネの日記評を好意的に取り上げている。臭い話ではある。

 2006.3.4日 れんだいこ拝
 ナチスはいったい、どのくらいのユダヤ人を虐殺したのであろうか。ニュルンベルグ国際軍事裁判所では、その数をおよそ600万人とし、うち400万人は殲滅施設で殺されたと判断している(藤田九一『戦争犯罪とは何か』岩波新書)。

 しかし、反ユダヤ主義的な本では、その数を否定して、場合によっては一桁少ない数を指摘するのである。宇野正美氏の『ユダヤと闘って世界が見えた』という著書があるが、この本では、氏は600万人虐殺説を否定して、次のように述べるすなわち、

 「第二次世界大戦中にヨーロッパ全体で六百万人のユダヤ人が殺されたといいますけど、私(宇野氏)はアウシュヴィツ収容所に二回も行って火葬場も調べましたけど、ここで数年間で四百万人殺されたのなら、あの火葬場では一日五千人から六千人殺さないとダメだけど、物理的にそれは不可能なの。本当はせいぜい四十万人という説もありますよ」。

 同書の別な箇所では、「アウシュヴィツに連行されたユダヤ人らの数を少なくとも百三十万人と推定することができる。うち二十二万三千人が生き延びたか、他の収容所へ移送されたため、犠牲者は最低百十万人、多くても百五十万人と結論づけられる」というポーランドの新聞記事を紹介する。

 しかし、宇野氏の議論は論理が成り立たない。すなわち、彼は、ヨーロッパでの600万人虐殺説に対して、アウシュビッツ収容所だけの知見でそれを否定しているからである。

 実際のナチスは、アウシュビッツ以外に、トレブリンカ、ヘウムノ、ソビボル、マイダネク、ベウゼッツの5カ所の絶滅収容所をつくり、全部で6カ所でユダヤ人の物理的抹殺を行ったのである(アウシュビッツでさえ、本来の収容所に加えて、ビルケナウ、モノビッツという2カ所の収容所があり、つごう3カ所の収容所で構成されていた)。アウシュビッツが有名になったのは、ほかのほとんどすべてがナチスによって完全に破壊、証拠隠滅されたのに対して、そこだけが撤収時に破壊されなかったことによる。第一、ニュルンベルグ裁判所が犠牲者数を600万人と判断したのは、ヒトラーからのこの計画を指示されていた当事者アドルフ・アイヒマンの証言によるのである。

(私論.私見) 大越哲仁氏の「ホロコースト600万人説支持」について
 大越哲仁氏は、「ホロコースト600万人説支持」の立場から宇野正美氏の疑問を否定している。ここでは、逆に、宇野正美氏の「ホロコースト600万人説疑問」を知ることが為になる。

 2006.3.4日 れんだいこ拝

 宇野氏はまた同書で、アウシュヴィツでは毒ガスでユダヤ人が殺されたのではなく、飢えや病気で死んだとして、次のように述べる。

 「(アウシュヴィツでユダヤ人が死んだ原因は)飢えと病気、特にチフスです。写真で紹介されている死体も餓死しているか、腸チフスで死んだ人の写真です。だから痩せているわけね。ガスで殺された人の写真をドイツが出したためしはないんです。実際にはないから出せない」。

 しかし、本当は、ナチスは徹底的に証拠を隠したから写真がほとんど無いのである。

 ユダヤ系フランス人ジャーナリストのクロード・ランズマンは、1985年にナチスによるユダヤ人大虐殺を扱った映画『ショア(ヘブライ語でのホロコーストの意)』を制作したが、その映画では、過去の記録映像を使わず、収容所から生還したユダヤ人や、収容所の元ナチス親衛隊員、ユダヤ人がガス室に送られる前に髪を切った元理髪師など探しだし、説得し、彼らの言葉や、さらにはその長い沈黙を記録した。彼らの「記憶が回帰する瞬間の微妙な表情を撮影したフィルム」は150時間に上り、それを9時間半に編集して映画は完成したという。

 当時、この映画のNHKでの放映を実現するために努力した柏倉康夫氏は、パリにランズマンを訪ね、また来日したランズマンと対談した。氏がランズマンに、なぜこの映画では過去の記録映像を使わなかったのか尋ねると、氏は次のように答えたという。

 「皆が知っている強制収容所と違って、ヨーロッパ中から連れてこられたユダヤ人がガス室で殺された絶滅収容所の様子を移した写真は、ナチスが撮った、たった一枚の写真以外には存在しないこと、そしてそれ以上に、この映画の狙いが、私たちの記憶の底に意識的に眠り込まされている体験的事実を意識の上に浮かび上がらせて、それを証言として積み重ねることにあった」。

 「ユダヤ人絶滅政策は、その肉体を抹殺するだけでなく、そうした事実の痕跡すらも抹消してしまうという、その徹底性にこそ本質があった。殺戮の証拠がないことは、事実がなかったことを意味しない。証拠をすべて隠滅すること、それが絶滅計画の核心だった」。

 柏倉氏は、この返答を聞いて、ランズマンの映画の制作手法は、映像イコール過去の記録という単純な考え方への強力な反証であると述べる(柏倉康夫『情報化社会研究』)。写真がないから虐殺がないなどという論法は成り立たないのである。

(私論.私見) 大越哲仁氏の「ホロコースト写真がないのはナチスが徹底的に証拠を隠滅したから説」について
 大越哲仁氏は、「ホロコースト写真がないのはナチスが徹底的に証拠を隠滅したから説」の立場から宇野正美氏の疑問を否定している。ここでは、逆に、宇野正美氏が「ホロコーストが実際には発生していないから写真もない」説を主張していることを知ることが為になる。

 2006.3.4日 れんだいこ拝

 宇野氏はさらにまた、前掲書で、「有名な『アンネの日記』。あれだって本当にあの少女が書いたのかどうかも疑わしい。調べてみると矛盾点がいっぱいでてきてるんですよ」と『アンネの日記』を偽造物と指摘している。

 実は、『アンネの日記』を偽物とする主張は、1950年代から、ナチスを擁護する団体などによってしばしば為されてきた。しかし、1958年に始まったローラー・スティーロの裁判でアンネの筆跡鑑定が行われて日記が本物だと認定されている。しかし、この裁判が調停の形で集結したこともあって、アンネの日記に対する非難者はその後も、お互いの主張をうまく引用しながら攻撃を続けた。

 1980年にオットーが亡くなり、遺言によってアンネの日記とほかの遺稿がすべてオランダ政府に寄贈されたたため、アンネの日記の完全版を出版する企画がなされ、それを機に、アンネの筆跡・紙・インク・糊等がすべて厳密な筆跡鑑定と科学的調査を受けた。そのすべての結果において、日記は本物であることが証明されたのである。

 したがって、宇野氏が上記の著作を著したときには、既にアンネの日記は本物であると証明されていたのであって、氏の発言はそれを知らないで為されたものであれば極めて迂闊であり、知っていても故意にそれを隠していたのであれば相当な悪意があると非難されてもしかたがない。

(私論.私見) 大越哲仁氏の「アンネの日記本物説」について
 大越哲仁氏は、「アンネの日記本物説」の立場から宇野正美氏の疑問を否定している。ここでは、逆に、宇野正美氏が「アンネの日記偽書説」を主張していることを知ることが為になる。しかしそれにしても、「シオンの議定書」の場合は様々な理由をつけて偽書と云い、アンネの日記の場合は様々な理由をつけて本物と云う。ロジックに一貫性があるのならまだしもご都合主義に流れているとしたらこれも臭い話だ。

 2006.3.4日 れんだいこ拝

【アンネの父親オットー氏の手紙公開される】
 2007.1.25日付の「アンネの父親の手紙発見―米=家族救う必死の思いにじむ (AFP=時事)」を転載しておく。

 「アンネ」の父親の手紙発見―米=家族救う必死の思いにじむ (AFP=時事)

 【ワシントン25日】ナチス・ドイツのユダヤ人迫害から逃れるための隠れ家生活をつづった「アンネの日記」で知られるアンネ・フランクの父親、オットー・フランク氏(1980年死去)が41年に書いた手紙が米国で見つかり、2月14日に公開されることになった。米誌タイムが25日報じた。≪写真は12歳当時のアンネ・フランク≫

 手紙は80通ほどあり、ナチス・ドイツによって占領されたオランダ・アムステルダムからアンネら家族を脱出させるため、スペインへの脱出ルートを探ったり、出国ビザや、米国ないしキューバに渡るための助力を得ようとするなど、オットー氏の必死の思いが伝わってくる。しかし、こうした努力はすべて無駄に終わり、一家はアムステルダムの隠れ家での潜伏生活に入ったという。

 一家は2年間の潜伏後、事情を知る者の裏切りでドイツ当局に見つかり、強制収容所に送られた。アンネや姉のマルゴー、2人の母親エーディットは収容所で死亡。生き延びたオットー氏は解放されてアムステルダムに戻り、手元に戻ってきた娘の日記を「アンネの日記」として出版。同書は世界中でベストセラーとなり、59年には映画化もされた。

 タイム誌によると、オットー氏の手紙は2年前に発見されたが、著作権や法的問題への懸念から、存在が伏せられていたという。

(私論.私見) 大越哲仁氏の「アンネの日記本物説」について
 アンネの父親のオットー氏の手紙が公開された。1980年に死去した同氏は真実を墓場へ持っていった。その手紙が公開されたのは遅まきながらも了とすべきだろう。れんだいこは、そのことよりも、「タイム誌によると、オットー氏の手紙は2年前に発見されたが、著作権や法的問題への懸念から、存在が伏せられていたという」とあるところに注目する。まことに、著作権はこういう風に真実を知らしめない為の方便で使われていることに注目すべきだろう。

 2007.1.26日 れんだいこ拝

【日共のアンネの日記に見せるネオシオニズム盲従性考】
 2007.2.28日付け赤旗の「『アンネの日記』焼却事件 独で裁判始まる 失業の克服 ネオナチ根絶へ課題」を転載しておく。日共がいかに露骨にネオシオニズムと親和し配下として蠢いているか判明しよう。貴重資料として保存しておく。

 【ベルリン=中村美弥子】第二次大戦中ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害の犠牲になったアンネ・フランクの『アンネの日記』を燃やしたとして、扇動罪などの罪で起訴された男性七人の公判が二十六日、ドイツ東部ザクセン・アンハルト州のマクデブルク裁判所で始まりました。

 ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の事実を否定するネオナチによる犯罪の増加が深刻化する中で昨年六月に起きたこの日記焼却事件は、ドイツ社会に衝撃と動揺を広げました。深刻な失業問題などの社会的背景が指摘されている事件だけに、今後の裁判の進展が注目されています。

 起訴されたのはマクデブルク近郊のプレツェン村に住む二十四歳から二十九歳までの男性。扇動罪、死者冒涜(ぼうとく)の容疑で逮捕されました。ドイツでは、ホロコーストを否定すると刑事罰に問われ、有罪となれば最高で五年の懲役刑となります。

 男性らは昨年六月二十四日にプレツェン村で開かれた夏祭り会場で、米国国旗とともに『アンネの日記』をキャンプファイアーに投げ入れました。その際、「すべてウソだ」と叫んだといいます。

 裁判で被告の一人は罪を認めた上で、「ドイツ史の悪の一章から自らを解放するため」の行為だったと主張しました。これに対し、検察側は、被告は日記を燃やすことでナチ思想を美化することが目的だったと指摘。「アンネ・フランクのみならず、強制収容所で殺された何百万人ものユダヤ人を愚弄(ぐろう)したことになる」と反論しました。

 アンネ・フランクが独占領下のオランダ・アムステルダムでの隠れ家生活をつづった『アンネの日記』は、世界中で読まれています。その日記の焼却事件は、ナチ政権下の一九三三年にナチ支持者がユダヤ系や共産主義的な書物を焼き捨てた焚書(ふんしょ)を連想させるものでした。

 この事件は同時に、ザクセン・アンハルト州をはじめ経済が停滞した旧東ドイツ地域が直面している問題も浮き彫りにしました。深刻な失業や貧困がネオナチ拡大の土壌になっているとされ、これらの州ではネオナチ根絶が大きな課題となっています。

(私論.私見)   日共のアンネの日記論について
 何気ない「アンネの日記焼却事件裁判」報道であると読み流す者もいるだろうが、そういう者は自身も又ネオシオニズムに盲従していることを知らなければならない。この記事は、次の点で留意を要する。一つは、アンネ・フランクの「アンネの日記」の信憑性が問題になりつつある今日において、日共が何の疑問もなくこれをアンネの自筆実書としていることにある。「アンネ・フランクが独占領下のオランダ・アムステルダムでの隠れ家生活をつづった『アンネの日記』は、世界中で読まれています」と記しており、現下日共党中央の親ネオシオニズムぶりを示して余りあろう。決して我々が期待する左派見解ではなく、親ネオシオニズム・テキストに従うサヨ見解とみなすべきである。

 次に、現下欧州で反ユダヤ主義運動を試みる者は厳しく取り締まられている状況においてこれを是としている姿勢である。「ドイツでは、ホロコーストを否定すると刑事罰に問われ、有罪となれば最高で五年の懲役刑となります」を当然視して紹介している。日共の変態性はこういうところにも現れており、この異常な取締りにエールを贈っていることが判明する。欧州に於ける反ユダヤ主義、他方のナチス礼賛に対する過度とも云える取締りと制裁は、それ自身が政治問題であるのに、平然と追認している。それは、戦前の治安維持法下で思想統制され弾圧された党史の歴史的意義を汚していよう。日共は、1955年の六全協での野坂−宮顕指導部の登場以来、こういう真反対の運動に手を染めるようになった。ロッキード事件では、冤罪の可能性のある角栄を容疑者どころか犯人扱いして政界追放を叫ぶ様を見てきたところである。

 日共はむしろ逆に、「その日記の焼却事件は、ナチ政権下の一九三三年にナチ支持者がユダヤ系や共産主義的な書物を焼き捨てた焚書(ふんしょ)を連想させるものでした」と述べている。これほど馬鹿げた話はなかろう。「欧州に於ける反ユダヤ主義、他方のナチス礼賛に対する過度とも云える取締りと制裁」こそが焚書であろうが。卑小なものを大きく取り上げ、重大なことを矮小化させる変態をみてとることができよう。我々は、事態を逆さまに説く詭弁に騙されてはいけない。

 結論として、「これらの州ではネオナチ根絶が大きな課題となっています」と述べ、同調している。粉砕阻止用語を極力戒め、常に反対表現を好むかの穏和な日共が、こういう問題では「根絶」を支持している。根絶は、ファシストの常套用語であり、暴力的急進主義用語であるが、日共はネオシオニズムに敵対する者に対しては平然と「根絶」を支持している。ネオシオニズム配下の日共党中央の危険なファシスト振りを漏らしていることになる。

 以上から判明することは、現下日共党中央の親ネオシオニズムぶりである。気になってそういう目で検証して行けば、何と日共は何から何までネオシオニズム・テキストに全面追随していることが分かる。こうなると、日共はいっそのこと正体通りに日本ネオシオニズム党ないしはネオシオニズム党日本支部とでも名称変更すれば良い。断じて我々の知る共産党ではない。

 その日共党中央が悪冶の限りを働いている。日本政治の左傾化を押し止め、政府自民党のネオシオニズム化を「左」から裏支えしている。れんだいこが、宮顕−不破−志位系党中央の追放を唱える所以がここにある。宮顕論、不破論をサイトアップして久しいが反応が弱過ぎる。結局、批判する連中も批判しているように見えて同じ穴のムジナということか。そういうことになる。

 2007.3.3日 れんだいこ拝
 阿修羅ホロコースト4」の木村愛二氏の2007.2.8日付け投稿「英文記事:Re: 『アンネの日記』焼却事件」を転載しておく。

 http://www.allheadlinenews.com/articles/7006580545
 Six On Trial For Burning Ann Frank's Diary
 February 26, 2007 9:56 p.m. EST
 Megan Shannon - All Headline News Staff Writer

 (AHN) - Six people are on trial in Germany for burning copies of The Diary of Ann Frank.


 One suspect admitted to burning the book during his trial. All six defendants are charged with inciting racial hatred and disparaging the dead. This trial adds to a fear building in Germany that Neo-Nazism is growing in the country.

 According to prosecutors, Lars Konrad of East Germany threw the novel into a bon fire during a party in June 2006.

 According to the court, burning the book supports Nazism. Any denial of the Holocaust or acts of racial hatred can cost an offender up to five years in prison.

 The diary was found after World War II. The author, Ann Frank, died in the Bergen-Belsen concentration camp in 1945. She wrote in her diary about her experience hiding from persecution with her family in Amsterdam. She died just before her 16th birthday.

 Konrad's attorney argued that he was showing distain for that time in German history by burning the book. But prosecutors argued that the bon fire was meant to mock those in the concentration camps, including Ann Frank.


【五十嵐仁の「アンネの日記」に見せるネオシオニズム盲従性考】
 「五十嵐仁の転成仁語」の2014.2.26日付けブログ「ネオ・ナチ化する醜い日本と日本人」を転載しコメントしておく。
 「『アンネの日記』関連の書籍だけではありませんでした。被害を受けた本はアウシュビッツ強制収容所に収容された女の子について書かれた『ハンナのかばん』や、第2次世界大戦中、多くのユダヤ人にビザを発行して命を救った日本の外交官、杉原千畝の伝記など、少なくとも80種類に上るといいます。このような破損行為は、ユダヤ人を敵視し、彼らに対する迫害を肯定しているように見えます。日本社会にネオ・ナチのような価値観が浸透し、ユダヤ人に対する迫害を支持する日本人が行動を起こしたということなのでしょうか。

 もしそうだとすれば、何という醜い国になってしまったのでしょうか。この日本は……。気にくわないからといって、片っ端から本を引き裂いて破損するような行為は、ナチスによる焚書の現代版にほかなりません。麻生副総理が勧めたように、「ナチスの手口を学んだ」やり方だと言うべきでしょうか。朝鮮の人々に向けられていたヘイト・スピーチやヘイト・デモの鉾先が、ユダヤの人々に向けられたということなのかもしれません。特定の民族に対する憎しみと排除という点で、両者には大きな共通点があるように思われます。

 私はかつて地球を一周する旅の途中、オランダのアムステルダムで「アンネの家」に立ち寄りました。その隠れ家の秘密の部屋も見たことがあります。そのとき、「このような所で、人目を盗んで生活することを強いられるなんて」と、強い憤りを覚えたものです。そのアンネの苦労や哀しみへの想像力を持たず、迫害されたユダヤの人々の苦難や怒りをあざ笑うような蛮行が繰り返されていたことになります。とても1人の気まぐれによる所業とは思えません。「はだしのゲン」に対する攻撃や排斥と同様の組織的な悪意を感じてしまいます。

 誰が、どのような意図で行ったのかは不明ですが、このような愚行は二度と繰り返されてはなりません。それが今日、このような形で生じ、その背景となる社会的雰囲気が生み出されたのも、安倍首相の右翼的で拝外主義的な言説の影響であると考えるのは私だけでしょうか」。
(私論.私見) 五十嵐仁の「アンネの日記の破損事件批判」考
 れんだいこのカンテラ時評bP213  投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 2月27日
 五十嵐仁の「アンネの日記の破損事件批判」考

 2014年2月、東京、横浜等の公立図書館で「アンネの日記」やホロコーストに関する本などが破られているのが相次いで見つかると云う事件が報道された。2.20日、ユダヤ系団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」が、「衝撃と深い懸念」を表明、捜査と実行者の特定を求める声明を発表した。この事件に関連して、五十嵐仁が、「五十嵐仁の転成仁語」の2014.2.26日付けブログ「ネオ・ナチ化する醜い日本と日本人」で興味深い発言をしている。これを確認しておく。

 五十嵐氏は、被害本について次のように述べている。「『アンネの日記』関連の書籍だけではありませんでした。被害を受けた本はアウシュビッツ強制収容所に収容された女の子について書かれた『ハンナのかばん』や、第2次世界大戦中、多くのユダヤ人にビザを発行して命を救った日本の外交官、杉原千畝の伝記など、少なくとも80種類に上るといいます」。この事件を仮に「アンネの日記他関連書籍破損事件」と命名する。この指摘は事実関係のもので首肯するしかない。この行為に対して次のように批判している。「このような破損行為は、ユダヤ人を敵視し、彼らに対する迫害を肯定しているように見えます。日本社会にネオ・ナチのような価値観が浸透し、ユダヤ人に対する迫害を支持する日本人が行動を起こしたということなのでしょうか」。ここまではまだしも良い。

 問題は続いて次のように述べているところにある。「気にくわないからといって、片っ端から本を引き裂いて破損するような行為は、ナチスによる焚書の現代版にほかなりません」。これは一見、正論のように思える。だがしかし、「ナチスによる焚書」の代わりに今度は「戦勝国側によるナチス関連書籍の封書」が常態化している目下の現実に対する不言及なままの「ナチスによる焚書批判」は片手落ちと云うべきではなかろうか。

 今や「全世界反ユダヤ主義監視法」なるものが敷かれており、「ヒットラー及びナチスタブー」はドイツ本国だけのことではない。どこまで本当のことか分からないが、ドイツでは飼い犬にヒトラー及びナチス関連の命名をしただけで検束されると云う。日本では理解し難いが西欧諸国ではこの風潮が「戦後の常識」となっている。五十嵐氏が、よく知られたこれらの事象に対しても批判の舌鋒を鋭くし、その返す刀で「アンネの日記他関連書籍破損事件」に対し、思想及び学問の自由の見地から独立覇気の論を述べるのなら言うことはない。五十嵐氏は、れんだいこの知る限り、そういう意味での学問の自由論者ではない。

 ブログは(中略)続いて次のように述べている。「私はかつて地球を一周する旅の途中、オランダのアムステルダムで『アンネの家』に立ち寄りました。その隠れ家の秘密の部屋も見たことがあります。そのとき、『このような所で、人目を盗んで生活することを強いられるなんて』と、強い憤りを覚えたものです」。これによると、五十嵐氏は「アンネの家」に立ち寄ったこと、アンネらが隠れ家的生活を強いられていたことに対し「強い憤りを覚えた」ことを明らかにしている。このこと自体は結構なことで何の問題もない。ここでは記されていないがホロコースト記念館に立ち寄ろうとも、そのこと自体は結構なことで何の問題もない。「地球を一周する旅」を羨ましく思い、どういう旅だったのか気になるぐらいのことでしかない。

 問題は、五十嵐氏が、ユダヤ人のみならず世界で不自由や困難を強いられている諸民族全ての「民」に対して、同じような眼差しを持っているのかどうかにある。現代史の問題は、かって流浪の民と呼ばれたユダヤ人が世界史上かってない権力を得ており、そのことにより従来にない形の抑圧支配体制を全世界的に敷いているところにある。それは一般的なユダヤ人と云う範疇で語らないほうが良い。そういう意味で、れんだいこは国際金融資本帝国主義ないしはネオシオニズムと云う表現で対自化させている。最近になって単に「国際ユダ邪」(邪←屋)と命名している。この「国際ユダ邪」の仕掛ける様々な狡知との闘いの必要性を指摘している。

 このセンテンスで五十嵐仁の転成仁語」の2014.2.26日付けブログ「ネオ・ナチ化する醜い日本と日本人を読む時、「国際ユダ屋」に受け狙いのお調子者的な、ユダヤ系団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」の「衝撃と深い懸念表明」と軌を一にする「アンネの日記他関連書籍破損事件批判弁」でしかないように聞こえてしまう。よって結びはこうなる。「もしそうだとすれば、何という醜い国になってしまったのでしょうか」。





(私論.私見)