第四インター系のホロコースト論考

 (最新見直し2008.9.23日)

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2007.7.2日、2007.9.30日再編修 れんだいこ拝






(私論.私見)


ナチによるジェノサイドの物質的・社会的・イデオロギー的前提条件

エルネスト・マンデル/訳 西島栄

 

【編者注】

このテキストは、1988年にブリュッセルで開かれたナチによるジェノサイドに関するシンポジウムに寄せたエルネスト・マンデルの論文である。初出は以下のフランス語文献。Yannis Thanassekos & Heinz Wismann,eds, Revision de l'Histoire: Totalitarisme, crimes et genocides nazis, Editions du Cerf, Paris, 1990, pp.169-174.

 

 1、歴史上かつてなかった希有な事件であるホロコーストを可能にしたもの、それはまず何よりも、ウルトラ人種差別イデオロギーの生物学主義的変種であり、社会ダーウィン主義の極端な形態である。この教義によれば、「人間以下の人種(Untermenschen)」が存在しており、その人種を絶滅させることは正当であり、必要でさえある。このイデオロギーを奉じる人々にとって、ユダヤ人は「駆逐すべき害虫」であり、黒人は「サル」であり、「よいインディアンは死んだインディアンだけだ」、等々となる。

 こうした極端な生物学的人種差別主義の教義は、空から降ってきたものではない。特定の人間集団を非人間的に扱うという社会的・経済的・政治的諸実践には、物質的基盤がある。その非人間的取り扱いのあまりのひどさゆえに、その行為をイデオロギー的に正当化し――彼らは人間ではないというイデオロギー――、迫害者の疾しい心と個々人の罪悪感とを「中和する」必要性(1943年10月6日のヒムラーの演説を参照せよ)がほとんど必然的に生じてくるのである。

 2、ナチによるユダヤ人の系統的な非人間化は、歴史において孤立した現象ではない。比較可能な現象がこれまで数多く起こっている。古代奴隷制、14〜17世紀における魔女狩り、アメリカ・インディアンの虐殺、黒人奴隷制、等々。これらの現象による犠牲者は、女性と子供を含めて数百万人にのぼる。これらの大量虐殺はいずれも、ホロコーストに匹敵するほどの系統的かつ全面的なレベルに達しなかったが、それは、これらの殺人者たちがナチよりも「人間的」であったからでも、慈悲深かったからでもない。それは、彼らの有していた資源とその社会的・経済的・政治的計画が、制限されたものだったからである。

 3、ナチによる絶滅計画がもっぱらユダヤ人だけに向けられていたと考えるのは正しくない。ジプシー(ロマ民族も同じぐらいの割合で虐殺された。より長期的な計画としては、ナチは中東欧で1億人もの人々――とりわけスラブ民族――を虐殺するつもりであった。この絶滅政策はユダヤ人から始まったが、その理由の一つは、「ユダヤ人の世界的陰謀」に対するヒットラーとその副官たちの病的な猜疑心にある。それと同時に、より実際的な理由のせいでもある。虐殺の時がまわってくるまで奴隷たちは働かなければならなかった(だから法務大臣シエラックは「労働を通じた死」と言ったのである)。正否はともかくとして、ナチは、他の「劣等人種」に比べてユダヤ人の方がより従順でなく、完全に運命を他人に委ねた無知な奴隷に落としめることがより困難であると信じていた。このことは、彼らの考えでは、ユダヤ人を、部分的に「開放された」村や町で殺すのではなく(これは、やがてロシア人、ポーランド人、リトアニア人、ウクライナ人を襲った運命であり、彼らはいずれも順番がくれば絶滅させられることになっていた)、強制収容所の内部で殺さなければならない(過重労働で死にいたらしめる場合も含めて)ということを意味した。

 4、ユダヤ人の人種的劣等性(「人間以下の存在」)という教義は、当時のほとんどの狂信的反ユダヤ主義者の頭の中では、「ユダヤ人の国際的陰謀」という神話――すなわち、世界的規模で権力をとって、すべての民族から「生き血を絞りとる」ことを企んでいるというもの――と結びついている。この陰謀の共同手段になっているのは、投機的大資本(銀行)やマルクス主義的社会主義(後にはボリシェヴィズム)やフリーメーソンであり、挙げ句のはてはイエズス会である!

 このような神話は、ドイツ生まれではなく、むしろロシア起源のものである(ツァーリズムの秘密警察オフラナがでっちあげた悪名高い『シオン議定書』)。19世紀の末に、この文書は、厳密な意味でのドイツよりも、フランスやイギリス、オーストリア、ハンガリー、ポーランドなどで広く流布した。ウクライナのペトリューラ[ウクライナの反革命民族主義者で、内戦期に赤軍と敵対した]は、比較的短期間のうちに10万人以上のユダヤ人を虐殺したポグロムの首謀者であるが、彼はこの神話を信じ込んでいた。もし彼に必要な物質的・技術的手段があったなら、ホロコーストを計画し実行することができただろう。このことを疑ういかなる理由もない。

 5、生物学的人種差別主義の教義は、はるかに広い文脈に位置づけることができる。反ヒューマニズム的、反進歩的、反平等主義的、反解放的教義の台頭、それは、特定の人間集団全体(「敵」)に対する最も極端で系統的な暴力を公然と賛美し、19世紀の末までに大いに広まった。第1次世界大戦の勃発(そして、より少ない程度でだが、その準備)がこの点に関して決定的な転換点となったことは、まったく争う余地はないと思われる。第1次世界大戦なしには、大衆的現象としてのヒトラーとナチズムは考えられなかっただろう。そして、第2次世界大戦なしには、アウシュヴィッツはありえなかっただろう。

 しかし、第1次世界大戦とともに始まった、ヒューマニズムと文明の危機を、実際のところ、帝国主義の危機という現象から切り離すことはおよそ不可能である。その初期の現われである植民地主義は、植民者の間での生物学的人種差別教義の誕生と密接に結びついていた(「犬と原住民、お断わり」という看板を想起せよ)。

 6、ホロコーストにはイデオロギー的根源があるだけではない。それは、一連の物質的・技術的手段なしには不可能であった。それは産業的な絶滅事業であり、日曜大工のたぐいではなかった。この点だけが、それを伝統的なポグロムから区別する。それは、チクロンB、ガス室、パイプ、焼却所、収容所の大量生産を必要とするし、鉄道の大規模利用を必要とする。これほどの規模は、18世紀および19世紀の大部分には到達不可能なものであったし、それ以前の時期にはなおさらそうであった(おそらく、これほどの事業を実行するためには数十年、あるいは数世紀すらかかっただろう)。この意味で、ホロコーストもまた、ますます人間ないしヒューマニズム的理性によるいかなる制御からも逃れていく近代産業の産物なのである(それには還元できないが、それでもやはりそうである)。すなわちそれは、手に負えないほどますます激しくなる競争によって前に駆り立てられていく資本主義的近代産業の産物なのである。それは、完璧なまでの部分的合理性と全般的非合理性との典型的な結合――ブルジョア社会に特徴的な結合――の時代における、最も極端な事例であり、その限界にまで行き着いたものである。

 7、ホロコーストのイデオロギー的、物質的・技術的前提条件と並んで、その社会的・政治的前提条件をも考察しなければならない。ホロコーストを実行するためには、数百万人もの人々の参加――その積極的ないし消極的な共犯の度合いはさまざまだが――が必要である。まず何よりも、死刑執行人、組織者、収容所の看守は言うまでもないが、政治家、銀行家、産業家、高級官僚、軍将校、外交官、法律家、教授、医者といった連中、さらには、下っ端の「歩兵」たち、すなわち小役人、「一般刑務所」の看守、鉄道労働者、等々である。

 この数百万人もの共犯者たちを注意深く検討するならば、彼らの属する民族が一様ではないことに気づくだろう。厳密な意味でのドイツ人は共犯者全体のせいぜい50〜60%しか占めていなかった。また、その非理性の度合いにもかなり違いがあることがわかる。精神病質者や狂信者は少数であった。もっとも、かなりの数の少数派であるが。しかし大多数は、従順さ、日常生活の惰性、打算からナチにつき従い(教会組織の沈黙はこの最後のカテゴリーにあてはまるだろう)、場合によっては臆病さからつき従ったのである(個々人が不服従の姿勢をとることに伴うリスクは、人間にあるまじき行為の共犯者になることに伴うリスクよりも大きいとみなされた)。

 ホロコーストが起きるのを許した要因の一つは、倫理的なものである。あるいは、そう言いたければ、行動の動機にかかわるものである。それは、メンタリティのある特殊な転換をもたらした。ホロコーストは、大規模な暴力を容認したり美化したり、あるいは崇拝したりする傾向の産物であるだけでなく、国家には個々人にどんなことでも、すなわち、倫理の根本的な原理から見て尻込みすべき――そして心の中では実際に尻込みしたであろう――行為すらさせる権限があるという教義を受け入れたことの産物でもある。

 この教義によれば、国家の権威に服従することは、どんな場合であっても、「政治的権威を損なう」よりもましであるとみなされている。この教義の極端な帰結は、保守主義者たち(アリストテレスやゲーテを含む)による次のような古典的命題の不条理さに端的に示されている。すなわち、不正に対して反逆することによって生み出される「無秩序」は常により大きな不正をもたらす、と。アウシュヴィッツ以上にひどい不正はほとんど存在しえない。大規模な不正に直面したならば、抵抗と反抗――個人的な抵抗も含むが、何よりも集団的な抵抗と反抗――を行なうことは、権利であるだけでなく、義務でもある。それはいかなる国家理由(レゾン・デター)をも越えている。これこそがホロコーストの主要な教訓である。

 8、狂信的で極端で反人間的な見解を持った少数部分、すなわち病的少数派と個人は、19世紀にも20世紀にも、もちろんそれ以前の時期にもほとんどすべての国に存在していたし、いまでも存在している。しかし、彼らは周辺的な現象でしかなく、政治的影響もわずかなものであった。彼らはドイツでも1848年から1914年までは明らかに周辺的存在であった。

 このような諸個人が数百万もの人々からの反響を得るためには、深刻な社会的危機が必要である(マルクス主義者として言うならば、深刻な社会経済的危機、生産様式の深刻な危機、権力構造の深刻な危機)。このような諸個人がごく短期間に権力獲得のチャンスを得るためには、ましてや実際に権力を獲得するためにはなおさら、それを可能にした社会的な力関係が存在しなければならない。伝統的労働者運動の弱体化(そして、より少ない程度で、伝統的ブルジョア・リベラリズムの弱体化)、富裕階級の中の最も攻撃的層の強化、中間諸階級における絶望の蔓延、階級脱落分子の数の著しい増大、等々である。ワイマール共和国の危機と、1929〜34年の経済恐慌は、明らかに1932〜33年のドイツにおいてこうした諸条件をつくりだした。

 9、ドイツの歴史の特殊性。1871年のドイツ統一以降における「権力ブロック」の特殊な性質。このブロック内部におけるプロシアのユンカーとその軍国主義的伝統の特殊な重み。他の諸国と比べての自由主義的・ヒューマニズム的伝統の相対的脆弱さ(1848年革命の敗北に由来している)。一方におけるドイツの花形産業と金融資本の強さ、他方における世界的規模でのその勢力圏分割における限られたシェア、この両者にある明白な不均衡。以上の点はいずれも、他の主要な競争相手国に比べて、ドイツ帝国主義を1890〜1945年の時期により攻撃的なものにした。この時期、ドイツの多くの「エリート」の目から見て、世界支配のための闘争は戦争と帝国主義政策を通じて遂行されるべきものだった。ドイツが獲得しようとした「帝国」――イギリスの「インド帝国」に相当するもの――は中東欧であった(後にこれは、この拠点からさらに、中東、アフリカ、南アフリカ、等々にまで広げられた)。まさにそれゆえ、ドイツの支配階級の多くは、ヒットラーを――彼が自分たちをどこに導くのかを十分に理解しないまま――進んで受け入れたのである(もっとも、1934年6月30日にはすでに、この男が道徳の最も初歩的な原則と法の支配とを喜んで蹂躙する人物であり、無慈悲な虐殺者であることは、あえて目を閉じようとする者以外のすべての人々にとって明白になっていたのだが)。

 自由主義的・ヒューマニズム的潮流と保守的・軍国主義的潮流はいずれも、1885〜90年以降、ヨーロッパ、アメリカ、日本のどのブルジョア諸階級の間にも存在していた。違いは、後者の潮流がフランスとイギリスでは少数派にとどまったのに対し、ドイツと日本では多数派の潮流になったことである(アメリカでは、この二つの潮流は1940年以降拮抗するようになった)。この違いは、民族的特殊性によってではなく、歴史的特殊性によって説明される。

 10、ホロコーストを、ブルジョア社会に存在する破壊的傾向――その根源は植民地主義と帝国主義に深く根ざしている――がこれまでで最も極端な表現をとったものとみなすなら、同じ方向性を持った別の傾向にも目を向けることができるだろう。その最も顕著な例は軍拡競争の発展傾向に見ることができる(核戦争、生物学兵器、化学戦、あるいは、ヒロシマとナガサキに落とされた原爆よりもはるかに強力ないわゆる「通常」兵器、等々)。核戦争どころか、事前に原子力発電所を撤去することなく行なわれる「通常」の世界戦争であっても、ホロコーストの悲惨さをあっというまに凌駕するだろう。このような戦争を準備している連中の完全な非合理性は、彼らの用いる言語にさえすでに感知できる。彼らが核戦争の「コストが安くつく」と言うとき、これはまさに、「できるだけ低いコストで」自殺する努力、あるいは人類全体を破滅させる努力以外の何ものも意味していない。だが、自殺にかかる「コスト」とはいったい何なのか。

 11、このようなホロコースト解釈は、人類に対するナチの犯罪を相対化することをけっして意味しない。いかに人間の歴史が恐怖に満ちていたとしても、ホロコーストは歴史上最悪の犯罪である。だが、この解釈はそれ独自の科学的価値を有している。この解釈を拒否する人は、諸事実およびその相互関係と相互連関にもとづいて、かかる解釈が誤りであることを証明しなければならない。この問題をめぐって、歴史家、社会学者、経済学者、政治学者、道徳哲学者たちの間で論争がたたかわされている。科学的な命題(仮説)を反駁できるのはただ、科学的な論拠によってだけであって、科学以外の論拠によってではない。

 ナチやドイツの軍国主義者や、さらにはドイツの「エリート」に対しいかなる譲歩も行なっていないこのホロコースト解釈は、それと同時に、ある主体的な機能をも有している。それは、人類の利益に照らしてみても有益であり必要である。この解釈は、その反対の命題に内在している知的・道徳的リスクを回避するのを可能にしてくれる。この反対命題によれば、ホロコーストは、あらゆる合理的説明を越えており、理解不能なものである。このような蒙昧主義的観点は、かなりの程度、ナチの教義がその死後に勝利を治めることを意味するのではなかろうか。なぜなら、もし歴史の道程が非合理的で全面的に理解不能なものだとすれば、人類そのものもまた非合理的で理解不能なものとなるからである。その場合には、悪の帝国は「われわれ全員の中にある」ということになろう。これは、次のように言うほとんど直接的な――下手すれば偽善的な――やり方である。すなわち、罪は、ヒットラーにあるのでも、ナチにあるのでも、また彼らが権力をとりそれを行使するのを許した連中にあるのでもなく、すべての者にあるのであり、特定の誰かに責任があるのではない、と。

 われわれとしては、歴史の真実を見極めることの方を選ぶ。「すべての者に罪がある」どころか、ドイツを含めてあらゆる地域の男女は二つの陣営のうちのどちらかを選択したのである。犯罪者およびその共犯者たちは、その犯罪に抵抗した者たちとはまったく異なる行動を選択した。最初の反ユダヤ的法律に対し抗議のストライキを敢行したアムステルダムの労働者は、SSと同じではない。自国のほとんどすべてのユダヤ人を救出したデンマークのレジスタンスは裏切り者たちと同じではない。ほとんどのイタリア系ユダヤ人を救出した多くのイタリア人民(グロテスクなまでのシニシズムをもってアイヒマンが言ったセリフによれば、「不正直な嘘つきたちの一団」)は、クロアチアのウスタシ[ナチに協力したクロアチア人ファシスト組織]と同じではない。アウシュヴィッツを解放した赤軍兵士は、ガス室を作った連中と同じではない。たしかに、両陣営の間には中間的な状況や行動が存在する。だが、二つの陣営が存在したことは経験的に立証可能である。合理的な形でホロコーストの原因を解明することによって、われわれは、この二つの行動の相違をも説明することができるのである。

 12、われわれのホロコースト解釈はまた、実践的・政治的機能をも有している。それは、われわれが実践的無能力に陥るのを防いでくれるし、こうした現象が繰り返される危険性を前にして無力感を味わうのを防いでくれる。あえてわれわれは、ホロコーストがこれまでのところ人類に対する犯罪の頂点であったと言う。しかし、だからといって、この頂点に匹敵するものやそれを凌駕するものが将来現われない保証は何もない。このことをア・プリオリに否定することは、非合理的で、政治的に無責任であるように思われる。ベルトルト・ブレヒトが言うように、「この化物を生み出した子宮はまだ豊穣」なのである。

 今日におけるネオ・ファシズムや生物学的人種差別主義と効果的に闘争するためには、昨日におけるファシズムの性質を理解しなければならない。科学的知識は、純粋にアカデミックな営為などではなく、人類が闘争し生き残るための武器でもある。この武器を用いるのを拒否することは、新しい大量虐殺者たちが再来する危険性を促進し、彼らが新たな犯罪を犯すのを許すことになるだろう。ファシズムとホロコーストの原因を説明することは、つねに再発の危険性を秘めているファシズムをはじめとする反人間的な教義や実践を、拒否し、憤激し、敵視し、全面的かつ断固として反対し、抵抗と反抗を試みるわれわれの能力を高めてくれるだろう。これこそ、政治的・道徳的健全さにとって基本的で不可欠の作業なのである。

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ホロコーストの前に立つマルクス主義者

――トロツキー、ドイッチャー、マンデル

ノーマン・ジラス/訳 西島栄

 

 まず私はここで驚くべき事実から話を始めようと思う。1938年12月、アメリカ・ユダヤ人に向けたアピールの中でレオン・トロツキーは、差し迫るユダヤ人の破局をある程度予言している。その中で彼はこう書いている。

「来たるべき世界戦争が勃発したときにユダヤ人を待ちかまえている運命について想像することは困難ではない。しかし、たとえ戦争が起こらなくても、世界的反動の次の発展段階は間違いなくユダヤ人の肉体的絶滅を意味するだろう」。

 この発言は「水晶の夜」のわずか数週間後のことであり、1939年1月30日にヒットラーが行なった有名な国会演説――その中で彼は、世界戦争の暁にはヨーロッパ・ユダヤ人を絶滅させることを「予言」した――の1ヵ月も前のことである。

 私はトロツキーの予言を驚くべき事実と呼んだ。なぜなら、あの災厄を予言することは実際には不可能であったというのが、ホロコースト文献に一般的な、そして十分根拠のある命題だからである。この災厄は、通常の経験の範囲を越えていたし、真面目な政治的計画にはほど遠く、実際、想像をはるかに越えたものだった。ついに悲劇が展開しはじめたときでさえも、ユダヤ人の身に起こっていることを知った多くの人々は、その事実を理解することができず、それが全面的なジェノサイドであるという統一した見取り図を描くことができず、信じることができなかった。そうこうしているうちに、この政策は広範囲に及ぶユダヤ人たちに適用されていったのである。そして事件後、この極悪非道な犯罪を理解するには多くの困難がともなったように思える。多少なりとも、理解と説明を越えていたように見える。このような反応の証拠は、他の誰にもまして、トロツキーの偉大な伝記作家のうちに見いだすことができる。「この破局の絶対的に唯一の点」に言及して、後にドイッチャーはこう書くのである。

「できるかぎりすべてのユダヤ人の男、女、子供を無条件に虐殺することに注がれたナチズムの激情は、歴史家の理解を越えている。歴史家は、人間の行動の動機を明らかにし、その動機の背後にある利害を見極めようとする。だが、アウシュヴィッツの背後にある動機と利害を分析することなどできるだろうか。……ここにおいてわれわれは、今後永遠に人類を困惑させ恐怖させるであろう、人間性の堕落の恐るべき巨大な謎に直面しているのである」。

 この問題に関するトロツキーの予見をどのように説明するべきだろうか。もしかしたらそれは、ある種の偶然的で陰欝な直観だったのだろうか。それとも、その時代の現実を理解しようとして彼が獲得した何らかの知識にもとづいた仮説だったのか。私はあとで、しかるべき手順をふまえて、それが両者の中間であったという回答を提出するつもりである。しかし、この答えにたどりつくための媒介項として、同じ問題に関するエルネスト・マンデルの考えに対する批判的検討を行なう。これこそ私がここで提起したいと思っていることの主要テーマである。それと同時に、私の目的は、この批判的検討を通じて、ユダヤ人に対するナチのジェノサイドとの関係で、理論体系としてのマルクス主義に関するより一般的な反省を加えることでもある。

 この問題に関するマンデルの考えを批判的に検討する、と私は言った。それは批判的なものになるだろう、と。ただし、マンデルの初期の頃の見解よりは、より後のものに対しての方が、批判の度合いは多少弱まるだろう。なぜなら、後になるにつれてマンデルの見解には内的な発展と拡張が見られるからである。それでも、全体としては批判的なものになるだろう。

 このような批判的検討は、マンデルの業績を明らかにしそれを讃えることに捧げられた今回の会議には場違いであるように見えるかもしれない。しかし、このことについては三つのことを言わせていただきたい。

 まず第一に、ここに来ておられる他の参加者の皆さんと同じく、私は、マンデルの生涯の仕事に対して、かつても今も最大の敬意を抱いているし、このことは、今後何があろうとも変わらない。

 第二に、私はすでに、しかるべき所でマンデルに対する私自身の恩義について書き記している。とりわけ、彼の仕事は、ローザ・ルクセンブルクの思想における重要な中心点を理解する助けとなったし、社会主義的解放闘争に関する円熟した概念に関してもそうである(私がここで言っているのは、マンデルが特別にローザ・ルクセンブルクに関して書いたものだけでなく、彼のより一般的な政治的著作類のこともである)。

 第三に、マンデル自身、何らかの手心が加えられることを、すなわち、どんな問題であれ最も率直な評価に手心が加えられることを、けっして喜ばないであろう、と私は信じる。そして、率直であることが批判的であることなら、そのときには、そうあるべきである。

 ユダヤ人の悲劇を推しはかろうとするマンデルの最初の努力は、1946年の論文「第2次世界大戦直後のユダヤ人問題」である。念頭に置いてほしいのは、この論文が22才か23才のマンデルによって書かれたということ、また、1946年というその日付からみて、この破局の意味を直視することが一般にいかに困難であったか――人々はそのことに数十年以上を費やすのだ――ということである。マンデルはこの破局の恐怖を呼び起こすことから始め、ついで彼は、私がすでにアイザック・ドイッチャーの言葉を引き合いに出して例示しておいた「当惑した反応」の一種に傾いているかのような書きぶりをしている。人間の想像力ではこの経験の意味を理解することは困難である、とマンデルは書いている。ユダヤ人を襲った不幸は「不条理」であるように見える。人間の精神は、「これらの無防備な人々の虐殺を、冷厳な論理にもとづいて決定した物質的利害がありうるなどと認めることを拒否する」。

 しかしながら、これは、マンデル自身が積極的に勧める反応ではない。マンデルは、ヨーロッパ・ユダヤ人の運命を、資本主義の死の危機というより広い文脈に確固として位置づけ、また、この危機の産物である、第二次世界大戦の他の恐怖の文脈にも位置づけており、そうすることで説明可能なものになると考えている。

「彼ら
<ユダヤ人>の悲劇的運命の責任を負っているのは、そして、人類全体が陥った袋小路の責任を負っているのは、資本主義である」。

 若きマンデルはまた、連合諸国のある種の行動や態度に関連づけることによっても、ナチによるユダヤ人大量虐殺を「文脈に位置づけ(contexualize)」ている。すなわち、戦争終結の際に東ヨーロッパおよび中央ヨーロッパの一部からドイツ人少数民族を追放したこと、インド人民の惨状に見られるイギリスの残酷さ、ヒロシマへの原爆投下に示されているアメリカの残酷さ、ユダヤ人を助けようとしなかった点で資本主義秩序の全体と「世界のすべての政府」が負っている責任。そして、殺された500万人(マンデルの挙げている数字)のユダヤ人と並んで、「帝国主義戦争の犠牲者が6000万人いる」ということが言われる。こうした評価に見られる一般的な精神は、次のような定式のうちにはっきりと示されている。

「ユダヤ人に対するヒットラー帝国主義の野蛮な取り扱いは、現代帝国主義の通常の方法に見られる野蛮を発作的激発の水準にもっていったものにすぎない。ユダヤ人の悲劇は、人類の運命から切り離されてもいなければ、それと正反対のものでもなく、資本主義の没落が現在のテンポで進むかぎり、それが自分たちの未来の運命でもあることを他の民族に知らしめるものにすぎない」。

 「ショアー」の意味を評価しようとするマンデルのこの最初の試みには、私見によれば、三重の弱点がある。それは、下にかかげる三つの対極的な反対命題に分けて記述することが可能である。すなわち、ヨーロッパ・ユダヤ人の殺戮は、

 ・他の犯罪と比較可能である/特殊で、唯一のものである

 ・合理的に説明可能である/理解を越えている

 ・資本主義と帝国主義の産物である/他のいくつかの要因が結合した結果である

 さて、私は、これら三つの反対命題のそれぞれどちらか一方の極を支持することで何らかの適切な評価が可能になるとは思ってはいない。いずれの反対命題に関しても、一定の(特殊な)中間的立場が必要であろう。マンデルによるこの最初の論文の弱点は、彼がそれぞれの反対命題において前者をきわめて強く支持していることである。彼によれば、ヨーロッパ・ユダヤ人の虐殺は、帝国主義的資本主義の産物として合理的に説明可能であり、したがってそういうものとして、この社会経済構成体がもたらす他の野蛮と比較可能なのである。かくして、きわめて多くの人々が感じたし表明もしてきたような、この事件の特殊性と「とらえどころのなさ」はいずれも、取りのぞかれ、失われる。このことは、この論文の最後の方にある次のような仮説に最もよく示されている。

「アメリカのファシスト運動が、その技術的『完成度』の点で、ナチの反ユダヤ主義の蛮行を凌駕することも、ありえるどころか、蓋然的でさえある。次の十年間のうちにアメリカ合衆国でプロレタリア革命が起こらなければ、アウシュヴィッツとマイダネック[ポーランドのナチ強制収容所]の恐怖を凌駕するような、アメリカ・ユダヤ人の大量虐殺が準備されるだろう」。

 ホロコーストはここでは、現代における多かれ少なかれ通常のタイプの事件に転化されている。それがいかに恐るべきものであったとしても、はるかにひどい事件を予告するものにすぎない。そして、資本主義が生き残るかぎり、この10年ないし20年のうちにそれは現実のものとなる、というのである。

 話を先に進める前に言っておくが、私はエルネスト・マンデルがこの初期の論文に見られた三つの弱点をそのまま保持したとは思っていない(この点については、後で立ち返って、詳しく述べる)。しかし、彼が晩年に同じ主題に戻ったとき、この観点をより限定し、より豊かなものにしたとはいえ、同じ弱点が多少なりとも残っていた。

 これらの弱点が少なくとも1960年代と1970年代に入っても継続していたことは、ある種の「不在」に注意を向けることによって明らかとなる。トロツキーの論文集『ドイツにおけるファシズムとの闘争』に付した1969年の序文において、マンデルは、ホロコーストに直接言及することすらしていない。1979年に出版された著作『トロツキー――その思想のダイナミズムの研究』の該当する章(第8章)でも、同じである。「ますます昂進する野蛮」や、「広範囲にわたる人間集団」の生存と「人類の文明」そのものに対する脅威といったものに一般的に言及した箇所はいくつかある。しかし、これではほとんど沈黙しているに等しい。たしかに、マンデルが序文を付しているトロツキーの諸論文は、いわゆる「ユダヤ人問題の最終解決」が始まる以前に書かれたものであり、したがってこれらの論文について書いているマンデルの序文の中に、この問題が大きく扱われているとは誰も期待しないだろう。しかし、そうだとしても、トロツキーは、この事件の以前から――後で立ち返るが――いくつかの有名な文章の中で、勝利した国家社会主義(ナチズム)が犯すであろう極端な野蛮を予想していたのである。この事件から25年ないし35年が経って、この「極端なもの」が何であったのかを十分に知っているマンデルが、ナチズムの台頭と勝利に関するトロツキーの思想を紹介する中で、このことについて何ら直接には言及せず、ましてやそれを論じようともしなかったことは、驚くべきことではないだろうか。

 マンデルが提示しているのはファシズムの一般理論である。すなわち、その理論は労働者の運動の粉砕を中心にしており、階級や資本主義の経済危機、資本主義国家による支配のさまざまな政治的形態や方法に関するマルクス主義的諸概念によって説明されている。われわれは、マンデルがこの理論を提示するにあたって行なっている二つの特殊な主張に注目したい。

 一つは、ファシズムが「地理的な境界を持たない普遍的な現象であり、すべての帝国主義諸国に根を張っている」という主張であり、「あれこれの民族的特殊性を安易に強調するような説明の試みは、まったく不適切である」というものである。あるレベルではこのような主張に異論はないが、しかしながら、それでもこれは、ドイツ国家社会主義とその政策におけるある種の特殊性に注意を向ける気をなくさせるような見解である。

 二つ目は、社会分析のマルクス主義的方法の優位性がその全体性のうちにあるという主張である。マルクス主義的方法は「社会活動のすべての諸側面を相互に結びつけ構造的に連関したものとして理解」しようとする。これは、彼の諸論文の他の所でも提起されている命題である。しかし、この序文では、この点は「最終解決」を説明する困難さに照らして検証されてはいない。

 1986年、青年の頃に書いた最初の評価から40年後にこの主題に立ち戻ったマンデルは、第2次世界大戦に関する著作の中で、この検証を果たそうとした。しかし、ここにおいても、その最初の兆候は幸先のいいものではない。ホロコーストにあてられたのはたったの3ページである。そして、文脈的に見て、それは従属的問題に位置づけられている。なぜなら、彼はこの問題について、戦争の主要舞台となった各国ごとにイデオロギーを概観する中で論じているからである。ヨーロッパ・ユダヤ人の運命はこの概観の一部として挙げられているにすぎない。

 とはいえ、そこでの議論は、1946年の論文と比べて、マンデルの見解に一定の発展があったことを示している。そこで活躍しているのはもはや、「物質的利害」や資本主義経済や危機だけではない。ホロコーストに関する彼の説明は今では、一方ではイデオロギーの特殊な形態と結びついており、他方では、資本主義的近代の諸特徴とも結びつけられている。そのイデオロギーとは人種差別主義である。マンデルは言う。これは、「制度化された植民地主義と帝国主義に先天的に結びついている」。なぜなら、特定の集団を極端な形で抑圧することを合理化し正当化するためには、これらの人々を丸ごと非人間化しないことが、これらの政治的・経済的構成体には必要だからである。この地点から、すなわち彼らを非人間化することから、彼らの生きる権利そのものを否定することまでは、ほんの短い一歩しかない。そして、人種差別イデオロギーが資本主義の全般的非合理性と結びつき、それと同時に「その『完璧なまでの』局地的合理性」――マンデルはそれを「近代産業システムの絶望的なまでの部分的合理性」と呼んでいる――と結びつくとき、このような一歩は、彼によれば、「しばしば踏み出される」のである。

 さらにマンデルは、ナチによるジェノサイドの特殊な諸結果を説明するために、いくつかの追加的な諸要因――政治的および心理学的な――を持ち込んでいる。とりわけ以下のものである。政治権力を持ったごろつきエリート、彼らが大企業と結びついて解き放った無謀な侵略政策、「それ自身の無慈悲な論理」を持った国家テロリズムの政策、公務員やその他の行政機関メンバーをはじめとする数万人もの人々の受動的共犯、そして、「無意識的な罪悪感と羞恥心の、悪臭紛々たる基層」である。これらの諸要因の重要性については後で立ち返るだろう。しかし、明らかに、この問題に関するマンデルの思考からは、今やはるかに成熟した書き手から当然期待しうるであろう内的な分化と充実とがうかがえる。にもかかわらず、主要な問題はなお未解決であると私には思えるのである。

 まず第一に、マンデルは、「ショアー」の異常性ないし特殊性にほとんど何の意味も付与していないし、明らかに、それを具体化しようとするいかなる試みもしていない。反対に、彼の強調は圧倒的に、またしても、それを当時の文脈に位置づけることに置かれており、他の歴史現象との比較可能性に置かれている。彼はわれわれに次のような諸事実を参照するよう求める。「奴隷貿易を通じた黒人の大量奴隷化と虐殺」。新大陸征服者によるインディアン絶滅。ジプシーや「一部のスラブ民族」もナチの犠牲者リストに挙げられていたという事実。数万人ものドイツ人少数民族が

T4(いわゆる「安楽死」)計画で殺された事実。満州の「731部隊」に見られる日本の暴虐――「辛うじてアウシュヴィッツにのみ一歩譲る」。ヒロシマとナガサキへの原爆投下――「極端なまでの人種差別主義から解放されるにほど遠い」人類にとっての恥辱。反ユダヤ主義を始めとするナチ的態度がドイツ以外にも広くはびこっていること。

 たしかに、マンデルはこう書いてもいる。「ホロコースト――600万人もの男、女、子供をその民族的出自だけで計画的かつ系統的に殺害したこと――は、人類の悲しむべき犯罪史においても唯一の犯罪である」。しかし、彼が書いているのはこれだけである。そして、ホロコーストが唯一のものであるとすれば、いかなる点でそうであるのかについては明らかではない。

 誤解しないでいただきたいのだが、ユダヤ人の悲劇が他の巨大な恐怖や犯罪とまったく、いかなる点でも比較できないなどと言いたいのではない。もちろん、比較は可能だ。しかし、重要なのは、問題の二つの側面にマンデルが異なった重みを与えていることなのである。すなわち、他の悲劇との比較可能性に関してはいくつものパラグラフを割き、その特殊性ないし唯一性に対してはたった一つのあいまいなセンテンスだけである。これは、今ではきわめて大量の文献の中で盛んに議論されている困難な問題である(そして、そこで論じられている他の困難な諸問題と同じく、マルクス主義者によってはあまり考察されていない問題である)。

 歴史家のイェフーダ・バウアーは、この問題に関連して、暗く不気味な風景の中にそびえたっている巨大な火山の比喩を提起している。火山は風景の一部である。しかし、それはまた、風景をバックにそびえたってもいる。マンデルは風景については多くのことを語る(「人類の悲しむべき犯罪史」)し、ホロコーストがその一部であることについても語るが、ホロコーストがそびえたっていることについてはほとんど語らない。あるいは、それがそびえたっていることについてだけは語るが、どのようにそびえたっているのかについては語らない。

 第2に、マンデルはこの著作において、社会的・政治的説明の力に極端なまでの信頼を置いている。「ホロコーストをもたらしたヒットラーの狂信的な反ユダヤ主義を、合理的説明の不可能なものとして取り扱う人々」に言及してマンデルは、「このような根本的な歴史的例外主義」は維持できるものではない、と書いている。そう言ったうえで、私がすでに要約した説明を進呈しているのである。またしても誤解を避けるために言わせていただくが、私は根元的な理解不可能性という命題にけっして組するわけではない。ユダヤ人を絶滅させようとする試みは、歴史上の事件であり、その前提条件、諸原因、諸過程は、あくまでもそれを理解しようとする観点から研究されなければならないし、そうすることは可能である。この点からすれば、いかなる疑いもなくわれわれはそれをできるだけよく理解しなければならず、そうすることで、今後、大量虐殺と恐るべき残酷さのいかなる計画に対しても、可能なかぎり抵抗できるようにしなければならない。しかしながら、アイザック・ドイッチャーから引用したような意見(そしてそれは多くの人々によって共有されている)は、この歴史的経験のうちには社会的・政治的・イデオロギー的説明の通常の形態を越えた何かが残されているという感覚を――多少の誇張があったとしても――表現しているのではないか。その残された何かとは、ドイッチャーによって、「困惑させるもの」、「人間性の堕落」と呼ばれているものであり、また別の人々が別の呼び方をしているものである。マンデルはそのようなものにいかなる正統な位置も与えなかった。このことは、私の最後の批判点に照らしてみるならばいっそう明らかとなる。

 つまり第3に、彼の分析はこの後の時期の方がはるかに複雑になっているにもかかわらず、ホロコーストは今なお彼によって資本主義の一効果として提示されていることである。すなわち、資本主義の全般的な非合理性の産物として、その部分的な(機能的な)合理性の産物として、そしてその帝国主義的形態によって生み出された人種差別イデオロギーの産物として、である。しかし、こうした説明はその目的を満足させるものではないし、この破局を近代の産物として説明することもまたそうである。いずれの説明に対しても、われわれは次のような疑問を発しても正当であるように思われる。すなわち、この事件に先立って存在した社会的条件がそれほど一般的なものであるなら、どうして、これは今までたった一度しか起こっていないのか、と(この疑問は、資本主義ないし近代の構造が説明全体の中で何ら重要な部分を占めていないという意味にとってはならない)。たしかに、マンデルは、より完璧を期そうとして、それほど特殊階級的でも、特殊資本主義的でもない諸原因(心理的および政治的な)を自らの説明に持ち込んでいる。数万人の人々の批判的判断の欠如と奴隷的共犯、無意識的な罪悪感(guilt)と羞恥心(shame)、独自のダイナミズムを持った極端な政策選択、そして、非人間化そのもの。これらは今では中心的なカテゴリーになっており、それ自体はむしろ、広く見られる一般的な人間気質であるとされている。しかし、これらはいずれも、マンデルの場合は、より一般的でより特殊歴史的でない問題を包括するべく分析の範囲を広げるものであるとは認められていない。おそらく、根拠のない純然たる「行きすぎ」として残されている何かまでは届いていない。

 このように、マンデルは自分の分析が今ではより広範囲な性格を帯びていることを認識しそこなっているのだが、このことは、彼があえて行なっている驚くべきある尊大な判断によって浮きぼりになる。ユダヤ人の破局をもたらした多様な要因――極端な人種差別主義や、機能的・産業的合理性と対になった資本主義の非合理性だけでなく、広範囲にわたった従順性、ごろつきの政治エリート、その無謀な侵略政策、独自の論理を持った国家テロリズム、そして、無意識の層にある罪悪感と羞恥心――を明らかにしていく最後の段になって、マンデルは次のように論評している。

「ホロコーストは、これらの長い因果連鎖の最後になってようやく来る。しかし、それはこの因果連鎖を通じて説明できるし、説明されなければならない。実際、この連鎖を理解した人々はそれを予測することができたのである」(強調は引用者)

 ここで言われているのは、われわれが最初に紹介したトロツキーの予言のことであるが、これは、私に言わせれば、マンデルのアプローチに見られる総合化の野望が行きすぎて不条理に陥ったものである。すなわち、あらゆる要因を一個の統一した鎖の一部として取り扱うことによって、かえって説明の中に不統一で異質な要素を「復活」させておきながら、その次には、トロツキーの1938年の予言が、鎖の中の個々のすべてのとそれらの結びつきを実際に予見することができたことにもとづいていたと想像しているのである。私はこのような主張を真面目に受け取ることはできない。ユダヤ人を襲った災厄が最初におぼろげに姿を現し、その後現実のものになったときでさえ、そのような災厄に対して、一般に人々は準備ができていなかったし、なかなか信じようとしなかったという当時の状況を想起するならば、とくにそう言える。トロツキーは、これほど多くのことをあらかじめ理解することができるような超人である必要はない。われわれはむしろ、彼の言っていることがもっと漠然とした見通しのようなものであったことに目をやるべきである。言うまでもなく、それと同時に彼が、資本主義的危機の深刻な危険性や、それがもたらす典型的な対立、そしてそれが育むであろう新しい醜悪な形態に関するマルクス主義的知識を有していたことも、このような予言を可能にしたのであるが。

 「もっと漠然とした見通しのようなもの」と言うことで私が暗示していることは、エルネスト・マンデル自身がトロツキーについて述べていること――より早期のものとより後年のもの――の中にも見いだすことができる。より早期の、すでに触れたトロツキーに関する著作の中で、マンデルはこう書いている。トロツキーは、「強力な力を持った不合理な考え、気分、情熱といったものが、ブルジョア社会のかなりの部分において、前資本主義時代から受け継がれて生き残っている」こと、そして、人種差別主義は植民地的帝国主義の時代に典型的なイデオロギーであるが、それは「前ブルジョア・イデオロギーの遺物」と結びついていることを理解していた、と。

 後年、『オルタナティヴとしてのトロツキー』(初版ドイツ語版は1992年出版)の中で、彼はこの最後の点を繰り返しており、さらにこう言っている。トロツキーは、ファシストのイデオロギーと支配を、「前資本主義的な反動と蒙昧主義の再発」であるとともに、近代化に向けた遅ればせのキャッチアップの形態であるとみなしていた、と。

 皆さんの多くは、マンデルがここで挙げている有名な文章についてはよく知っておられるだろう。その文章とは、とりわけ、1933年の論文「国家社会主義とは何か」からの文章である。その中でトロツキーは、ナチのイデオロギーを、19世紀と20世紀における合理主義と唯物論に対する反動とみなすとともに、労働者階級の脅威に対する資本主義の防衛にポグロム的な反ユダヤ主義を融合させたものとみなしている。彼は続けてこう述べている。「社会の深淵」が開け放たれ、「暗闇、無知、残忍さの……無尽蔵の貯え」があふれ出した。社会が「正常な発展」を経ているときには民族の有機体から排泄物として取りのぞかれるべきものが、「今や喉からほとばしり出ている。資本主義社会は消化されなかった野蛮を吐き出しつつある。このようなものが国家社会主義の生理学である」。

 これは嫌悪をもよおすイメージであるが、それなりに予言的なイメージにもなっている。消化されなかった野蛮。この暗闇の最終結果は、実際のところ無尽蔵であった。トロツキーは後に、戦争に関する第4インターナショナルの宣言において、ファシズムは「帝国主義の文化を化学的に純粋蒸留したもの」であり、ナチのプロパガンダと信仰における人種的テーマのうちに不変の要素として反ユダヤ主義が内包されている、と述べるだろう。

 さて、ユダヤ人問題に関するトロツキーの思考の発展を鮮やかに分析したエンツォ・トラヴェルソは、その発展の軌跡をおおむね次のように言い表わしている。反ユダヤ主義は当初トロツキーによって、死滅しつつある封建的なものの残存物とみなされていたが、後には、資本主義的危機と近代主義的野蛮の徴候としてその意義が評価されるようになっていった。トラヴェルソは同じくこう提起する。ナチ・イデオロギーにおける反ユダヤ主義は、当初トロツキーによって近代に対する蒙昧主義的反動の一部とみなされていたが、後には、現代資本主義と帝国主義の真の表現であると理解されるようになった、と。こうした解釈には明白な文献上の根拠があるとはいえ、それでも私自身は、トラヴェルソがトロツキーの思考における変化を強調することによって、新旧のイデオロギー形態の結合(マンデルの引用した定式のいくつかが示しているようなそれ)の重要性を看過しているような気がする。この、前近代的形態と近代的形態との連続性――したがってまた、このような結合への配慮――は2つの論点を通じて浮きぼりにすることができるかもしれない。

 まず第一に、「非人間化(dehumanization)」というカテゴリーがマンデルの説明において核心的位置に来るようになったことに注意しよう。疑いもなく、キリスト教的な反ユダヤ主義というより古い形態と、ナチに見られるその人種的な変種との間には発展がある。しかしながら、ユダヤ人が、彼ら自身が先に啓示していた宗教上の真理を拒否する者とみなされ、神殺しの輩であり、ある種の悪魔的勢力とみなされるのか、それともむしろ生物学的に劣った存在とみなされるのか、という違いはあるにせよ、いずれにしても、ユダヤ人は、すぐれて人間的な領域の周辺に位置づけられるか、あるいはそこから排除され、この人間的なものと結びついた互恵的な道徳的配慮から排除されている。ナチの一般的な態度は、この点では明らかに混成的であり、積年のキリスト教的偏見に依拠しつつ、それにエセ科学的人種理論を結びつけている。より一般的な言い方をすれば、2000年もの間絶えることなく憎悪され誹謗されてきたこの特定の民族以外に、何らかの民族が一つの大陸全体にわたって残虐に扱われ、あれほどまでに易々と苦悩の中に見捨てられるようなことがあるとはとうてい信じがたい、ということである。他の集団を何らかの点で自分を脅かす異人種として固定化することで心理的な距離感をつくり出すことは、いずれにせよ、古くからある象徴操作である。それは歴史を越えた次元を有している。

 同様に、マンデルをはじめとするマルクス主義者によって(意識的かどうかはともかく)使われている「野蛮」というカテゴリーの内容も、すぐれて普遍的なものであり、本質的に人類学的なものであると私は思う。このカテゴリーは、次のような現象を漠然と指すのに用いられている。すなわち、執拗で非理性的な憎悪、極端で病的な暴力、残酷行為に喜びを感じること、大きな苦痛に対する無関心、等々。これらはいずれも資本主義に特有なものではない。

 

マンデルのホロコースト認識においてこれらのカテゴリーが中心的位置を占めているがゆえに、資本主義の社会的・経済的およびイデオロギー的形態による説明だけでは、真にその認識を満足させることはできないのである。この点を敷衍するために、この問題を把握しようとする彼の最後の、そして最も進んだ試みを検討することにしよう。私が言っているのは、1990年の論文「ナチによるジェノサイドの物質的・社会的・イデオロギー的前提条件」である(この論文を議論するにあたって私は、マンデルが『第二次世界大戦の意味』のドイツ語版のために書いた補遺をも補足的に参考にする。このドイツ語版が出版されたのは、この論文発表のちょうど1年後である。この補遺の大部分は、この論文の命題をそのまま再現している。だが一つの興味深い点において両者は異なっており、この差異については後で、結論のところで述べる予定である)。

 この論文におけるマンデルのアプローチの中心的要素と弱点は、これまでのものと基本的に変わっていない。しかし、それにもかかわらずそれは、マンデルの思考におけるさらなる発展を示している。なぜなら、これまでの説明を補強する追加的な要因が加えられているからである。この論文の二つの特徴を順に検討しよう。

 この論文でも、ホロコーストの唯一性に関してはたった二つの短いフレーズがあるだけである。マンデルはそれについて「歴史上かつてなかった希有な事件」と語り、その中で「歴史上最悪の犯罪」が犯されたと言うにとどまっている。こうした判断の理由は詳しく述べられないままに終わっている。その一方で、物質的なものを「文脈に位置づける」作業はむしろより充実したものとなっている。読者は実にさまざまなものを参照するよう注意される。古代社会における奴隷制、中世の魔女狩り、アメリカ先住民の運命、黒人奴隷制、そして、第二次世界大戦における、ジプシー、ポーランド人、ロシア人の虐殺。そして、犠牲者一般としてであれ、あるいはナチの犠牲者としてであれ、いずれにせよユダヤ人ははるかに大きな犠牲者集団の一部である、と。だが、真面目な人々の中に、このような注意がわざわざ必要な人がいるだろうか。

 そして、またしてもマンデルは、ホロコーストが理解不能であるとする「蒙昧主義的」見解を(いかなる留保もなく)拒否する。この点に関して彼が行なっている主張を簡単に振り返っておこう。彼自身の説明の主要な点は以前と同じである。すなわち、ホロコーストは、「ブルジョア社会において存在している破壊的傾向がこれまでで最も極端な表現をとったもの」として理解可能である。それは、生物学的人種差別主義そのものの産物であり、他の人々を系統的に非人間化することを必要とする社会的・経済的諸実践から生じている。そしてそれは、「ブルジョア社会に特徴的な、完璧なまでの部分的合理性と全般的非合理性との典型的な結合」と関連しており、一般には、帝国主義の危機、特殊には、当該民族地域(この場合はドイツ)の深刻な社会的・政治的危機の状況において生じる。

 以上のことはすべて重要なことであるが、このことと、それが意図している目的を十分に果たしているかどうかとは別問題である。そして果たしてはいないのである。どうしてそうなのかについて、マンデルがこの論文で持ち込んでいる――ことのついでにそうしているだけの場合もあるが――追加的諸要因、すなわち心理学的、倫理的、経験的な諸要因を見ることから検討を始めよう。

 まず第一に、他の人々を迫害することを合理化する非人間的な人種差別イデオロギーとの関連では、このような迫害の結果、「迫害者の疚しい心と個々人の罪悪感とを『中和する』」必要が生じると述べている。しかし、これ以上の突っ込んだ議論はない。第二に、「ユダヤ人から始まった」ナチによる絶滅政策との関連では、「『ユダヤ人の陰謀』に対するヒットラーとその副官たちの病的猜疑心」を原因の一つとして挙げている。第三に、マンデルはことのついでに第一次世界大戦にも言及しており、この事件なしには大衆的現象としてのナチズムは考えられない、としている。

 すでに言及したドイツ語版『第二次世界大戦』の補遺の中で、マンデルは同じ論点をより詳しく扱い、次のように述べている。

「<1914年の>排外主義的熱狂……、無意味な大量虐殺と無差別破壊の容認は、現代史における大きな転換点をなしている。これは野蛮に向けての最初の決定的な一歩であった」。

 ここには重要な洞察があるのではないだろうか。こうした示唆は思弁的なものかもしれない。だが、大量死が残したこの心の傷、長期にわたる空前の規模の無意味な虐殺、一世代の意識に与えたその恐るべき影響、これらがその後のジェノサイドにとっての「道徳的」基礎を準備するのに一役買ったと言えるのではなかろうか。

 それはともかくとして、マンデルは、ユダヤ人の悲劇の理由として、第四の、そしておそらくはこの脈絡においては最も決定的なものに、すなわち「倫理的なもの」にも取り組んでいる。数百万人ものヨーロッパ人の共犯と従順さ――日常生活の惰性のゆえか、利己的な計算のゆえか、臆病のゆえかは別にして――、普通の人々が「倫理の根本的な原理」よりも国家の権威を受け入れてしまったこと、がそれである。この問題に関して彼はこう結論づける。

「大規模な不正に直面したならば、抵抗と反抗――個人的な抵抗も含むが、何よりも集団的な抵抗と反抗――を行なうことは権利であるだけでなく、義務でもある。……これこそがホロコーストの主要な教訓である」。

 以上のような問題に触れる中で、エルネスト・マンデルは、ホロコーストに関するより広い史料的、社会心理学的、その他の文献を取り入れており、それに加えて、もちろんのこと、そこに加えるのが最もふさわしいマルクス主義を加味している。彼はさらに人間の理解の別の次元をも、理解することの困難さとともに取り入れている。あらゆるものを説明に生かそうとするのがマンデルの一般的な傾向であるとはいえ、「資本主義の危機」型の説明の枠内で、はたして、以上に列挙した諸要素をそう簡単に生かすことができるのか疑問である。

 そこで、この点を考えてみよう。まず、「疚しさと罪悪感」であるが、まったく普通の経験に照らしてみて、それが生み出す行動のいくつかについて考えてみよう。病的な猜疑心や、それが生み出すものについて考えてみよう。大量死や、その経験にかかわった人々、それが長期にわたって及ぼす影響を感情的に処理しなければならなかった人々のことを考えてみよう。道徳的臆病さ、あるいは単なる道徳的「逸脱」について、あるいは、悪事を知りながらそれに反対することができなかったことについて、そのような悪とともに心おきなく生きていくさまざまな方法について、考えてみよう。われわれは、いわば人間精神の「下層土」に届き始める。すると、われわれが、ドイッチャーの言う「人間性の堕落」からそれほど隔たっていないことがわかる。しかし、ドイッチャーにとって、このことは今だに困惑させるものであるが、マンデルにとっては、どうやら、いっさいが明らかなことであるようだ。前者の見解は、多くの人々にとってより説得力があるように見える。すなわち、ある種の極限状態、「ユダヤ人問題の最終解決」が想定する世界――このような限界に行きつくならば、そして実際にそれを実施する所まで行きつくならば、それは日常のあらゆる限界を越えているのであり、そこにあるのは、歴史的な認識や社会科学的な説明ではとらえきれない何かなのである。たしかに、この事件のあらゆる諸条件、諸要因、それに一役買った諸原因を列挙することは可能である。だがそれでも、これらの条件・要因・原因は、他ならぬあのことを生み出すのには十分ではない。したがって、それ自体としては、それらのものはちっともあのことを説明しないのである。

 特別に影響力のある声がすでにこうした趣旨のことを論じている。私が言っているのはプリモ・レヴィのことである。レヴィは、一般に受け入れられている説明では満足できなかったと書いている。

「それらは還元的である。それらは、説明を必要としているその当の事実と釣り合ってもいなければ、比例してもいない。……歴史上唯一と思えるような制御不能な狂気の一般的雰囲気があったのだという印象をどうしても拭えない」

 

レヴィにとって、多様な要因によって説明することは必要なことであるが、それらはまた不足してもいる。彼は言う。「理解できないと告白する」歴史家の自己卑下、――これほどの激烈な憎悪を理解することができないと告白する歴史家の自己卑下を、私は好ましく思う、と。それは――とレヴィは書いている――「ファシズムという恐るべき幹から派生した毒の果物であるが、ファシズムそのものの外部にあり、それを越えている」。

 

「ナチによるジェノサイドの物質的・社会的・イデオロギー的前提条件」という論文の中で、マンデルは、このような見解を次のような論拠でもって受け流している。つまり、このような見解は、全体としての人類に対する犯罪の責任を一般化しており、事実上すべての者を非難し、特定の誰かを、ヒットラーをもナチをもその支持者たちをも、まったく非難していない、と。しかし、私に言わせれば、これは明らかに「不合理な推論(non sequitur)」であり、縷々述べるほどの価値はない。ユダヤ人を襲った災厄についてすべてを理解できるわけではないという考えは、けっして、無実と犯罪との間にいかなる差異も見いだすことはできないということを意味するものではない。

 さてここでトロツキーによる1938年の驚くべき予言に立ち返って、再び尋ねよう。この予言は何にもとづいていたのか、と。疑いもなく、一般にファシズムの、特殊にはドイツ国家社会主義の危険性に対する彼のマルクス主義的理解は、この予言に一定関与している。しかし、そのこと自体は、彼があのような極端な事態を予言させるのに十分なものではない。私としては、ここには純然たる直観の要素があったと示唆したい。この直観は、トロツキーのより広い人間的感受性から発したものであり、それを通して彼は、「制御不能な狂気」、激烈な憎悪、あらゆる限界の超越について知っていたのである。この種の「より広い感受性」の証拠は、たくさん引用することができる。これこそ――彼に対する多くの中傷屋にもかかわらず――、トロツキーを力強く創造的なマルクス主義知識人にしたものなのである。しかし、ここではたった1つの該当箇所を引用するにとどめたい。この文章には以前1度、注意を向ける機会をもったことがある。

 それは、彼の著作『1905年』でポグロムを説明した箇所である。ポグロムは、この年の失敗したロシア革命に挿入されたエピソードである。ポグロムを構成している要素を叙述する中で、トロツキー――マルクス主義者――は、その政治的背景と群衆のいくつかの社会的要素の両方も素描している。そしてこう書いている。「この徒党は、ウォッカと血の匂いに酔い痴れて街中を練り歩く」。血の匂いに酔い痴れる。この場合にあてはまる特殊マルクス主義的なカテゴリーとはいったい何だろうか。トロツキーは言う。

「あらゆることが彼<徒党の一味>には許されている。何でもできる。富と名誉、生と死も、すべて思いのままだ。一度やってみたい。だから、老婆をピアノと一緒に3階の窓から放り出す。乳児の頭を椅子でたたきつぶす。群衆の見ている前で少女を強姦する。生きた人間の体に釘を打ち込む、等々。家族全員を皆殺しにする。家に石油をかけて、火事を起こす。そして誰かが家から飛びだしてくれば、棒で殴って止めをさす。熱に浮かされ、アルコールと狂暴さで正気を失った脳から生まれる蛮行と妄想が何であれ、彼にはその前で立ち止まる必要性は何もない。彼には何でもできるし、何でもやるのだ……」。

 そしてトロツキーは続ける。

「血にまみれ、焼けただれ、狂乱状態にたたき込まれた犠牲者たちは、救いを求めてなおも悪夢の中をさまよっていた。ある者は、すでに死んだ者たちから血だらけの上着を剥いでそれをまとい、死体の群れの中に何日も横たわる。またある者は、将校や警察官や掠奪者の前にひざまづいて両手をさしのべ、塵あくたの中を這いずり、軍靴に接吻して、慈悲を請う。それに対して、酒気を帯びた高笑いだけが答える。『おまえらは自由を望んでいただろう。見ろ、これがそれだ』」。

 この最後の嘲笑の言葉についてトロツキーは言う。「ポグロム政策の悪魔的倫理はまさにこの言葉のうちに言い尽されている」。そして再び繰り返す。「彼には何でもできるし、何でもやるのだ」。

 1938年のはるか以前にトロツキーはすでに、深淵の奥底を見ていたのである。限界なくやりたい放題やりたいという心情、他人に無慈悲な権力を行使する時に人々が感じる興奮、他人を貶めることで得られる自己の「完全性」の感覚――これらの行為をするときに感じられる「恐怖」と「快楽」。この二つは、すでに絶滅行為であったもののうちに内在する「死のカップル」である。トロツキーはまた、人間の自由が持つより恐ろしい顔――別のよりよい顔から自覚的に背けられた顔――の一つをも見ていた。これらすべてのうちに、トロツキーは、後にショアーのうちに再現されることになるものの一部を見ていたのである。その中には、還元不能な「選択」という要素も含まれている。この種の選択の前提条件やそれを取り巻く文脈は、常に探求し記述することができるし、そうしなければならない。だが、結局のところ、それはあいかわらずそのままである。すなわち、それはあくまでも未決定の、「選択」なのである。

 トロツキーが1938年にユダヤ人の肉体的絶滅を予言したとき、彼の精神的過程の中に、ポグロムについて書いた以前の叙述から派生している何らかの直接的な流れが存在していたかどうか、それはもちろんわからない。私は単に仮説として提起しているにすぎない。その予言が、資本主義ないしファシズムに関する彼のマルクス主義的理論把握から生じているのと同じぐらい、かつて彼が物語った情景がその予兆となっているような認識のひらめきから生じているのではないか、そこから、ナチズムの究極的な蛮行に関する彼の予測が来ているのではないか、という仮説である。いずれにせよ、彼がそこで書いていることは、後に他の人々がショアーそのものについて思いをめぐらせたときに提起することになるテーマを先取りしている。ここでは、そのうちの2人だけを紹介しておく。

 サウル・フリードランダーは、ナチの指導部とその支持者の一部にはっきりと見られたある感情について書いている。それは、「真に歴史的な何か、歴史を越えた真に例外的な何かをやり遂げようとする」感情である。それは、たとえば、「投入部隊(Einsatzgruppen)

<ユダヤ人の大量銃殺に従事していた部隊>の指揮官たちの一部に見られた、あくまでも自分の任務に固執する姿勢」のうちに表現されていた。

 この論点を発展させて、フリードランダーは次のように語る。反ユダヤ主義のイデオロギーと官僚制のダイナミズムという要素はたしかに否定しがたい説明的重要性を持っているが、しかしこのことを越えて、「独立した心理的要素が残されており、

<これは>歴史家をはねつけているように見える」。フリードランダーは言う――それは、「巨大なスケールで殺人を犯したいという押さえられない欲望であり、それはある種の途方もない歓喜によって突き動かされていた……」。そして、まさにこの点なのである。このような歓喜のともなうこの点こそ、「われわれの理解が自己了解の水準に達するのを妨げ続けている」のである。
「歴史家は『外部』からこの現象を分析する。しかし、……彼の感じる不安は、知的な研究と、直観的把握を妨げているものとの間に調和性が欠如していることから来ている…」。

 フリードランダーは、このような歓喜の情を、SS将校が集まった前でヒムラーが行なった悪名高い演説のうちに見いだしている。その中で、このナチ指導者は、ユダヤ人殲滅という任務を将校たちががやり遂げたことの偉大さを誉め讃えている。これと同じものは、大量虐殺の現場にいた人々の証言の中に繰り返し見いだすことができる。

 歓喜と、殺人への欲望。たとえば、ポーランドに配属されユダヤ人の逮捕と銃殺のために選抜されたあるドイツ予備警察大隊は、ベルリンから来た慰問団の興行を楽しんでいた。

「この慰問団のメンバーたちは、……銃殺を待っているユダヤ人がいることを耳にした。彼らは頼んだ。実際、強く請い願いさえしたのだ。ユダヤ人の処刑に参加させてくれるようにと」。

 さらに、

「国境警備警察部隊(Grenzpolizeikommissariat)のメンバーは、少数の例外をのぞいて、大いに喜んでユダヤ人の銃殺に参加した。彼らは大いに楽しんだのだ! それによって気分が高揚しなかったものは誰もいなかった」「たいてい、新しい将校の中には誇大妄想狂になる人間が少数いたが、彼らは実際この任務に心から没頭した」「われわれの前で多くの兵士と市民が堤防を築いているその背後で……処刑が一定の間隔をおいて執行されていた」「海軍部隊から来た何人かの海兵隊員が通過した。……街でいつもユダヤ人の処刑が行なわれていることを聞きつけて、ぜひ自分の目で見てみたいと言ってきた。……処刑場には、海軍や国鉄から来た数十人ものドイツ人の観客が押しかけた」。「いま起こっていることに精神的に対処できなくて、泣いているSD隊員たちもいた。その一方で、自分がいったい何人殺したかをしっかり記録表につけている連中もいた」。

 ザクセン刑務所で投獄されていたあるノルウェー人は、飢えた数百人のユダヤ人を警棒で好き放題なぐり回っている若いドイツ人の一団について書いている。

「この殴打の行為に彼らはすっかり酔い痴れ、ますます残忍さに拍車がかかった。……彼らは生きた悪魔であり、恍惚感に浸って、夢中になっていた。……ユダヤ人が倒れこむまで殴りつづけ、倒れると踏みつけて、蹴りあげた。血が口や耳や傷口から流れでた。少し休憩が必要になるときまって彼らは、哄笑しニヤニヤしている仲間の方を勝ち誇ったように向いて笑い返し、持っている警棒を軽快かつ楽しそうに頭の上で振り回すのであった。それから、再び獲物に飛びかかるのである」。

 評論家のジョージ・スタイナーは、フリードランダーと同じく、さまざまな分野の実証研究がこの歴史的経験を説明してきたことの重要性を認めつつも、これらの研究はそれでもやはり、解き放たれた憎悪の激しさを推し測ることができないし、ナチがその虐殺目的を嬉々として追求したその極端なまでの徹底ぶりを説明することができない、と示唆している。スタイナーは、証明できないと自ら認めているある命題の中で、次のように論じている。ナチによって主導されたユダヤ人迫害の過程の中で解き放たれたあらゆる激怒をユダヤ人が自らに招き寄せてしまったのは、もしかしたら彼らが一神教の、「果てしなく、倫理的に強制的な神」の発明者であったからかもしれない。スタイナーが「完璧であれという脅迫」と呼ぶものを代表していたユダヤ人は、おそらく、ユダヤ的伝統に体現されている倫理的要求の望ましさが迫害者によってもある程度認識されていたからこそ、かえってより激しい憎悪を招いたのではないか。

 この命題はすなわち、罪悪感が外部に向けられたということであり、よりよい世界への希望を妨害する存在とみなされた人々に怒りが集中されたということである。それはすでにマンデルとトロツキーの書いたもののなかに垣間見られたものを思い起させる。すなわち、前者は「疾しい心」を暗示し、後者によって描かれていた情景は、自由が解放ではなく、残酷で、放埒で、破壊的であるというものであった。スタイナーの命題は証明不可能かもしれないし、「非人間化と悪魔扱い」という他のより一般的な比喩と明らかに齟齬をきたしているかもしれない。だが、この破局の膨大な年代記にこれほどまでに普遍的に存在している情景――すなわち、標的にされた犠牲者の無知と弱さと捨てきれない希望と「理性的な観点から考えようとする」傾向につけこむ時の、迫害者たちの断固たる意志、ほとんど歓喜とも言える感情――を思い知らされるとき、この命題の持つ一定の重みを拒否することは困難だと思えるのである。

 この反ユダヤ感情の源が何であれ(そしておそらくそれは多様であるだろうが)、ホロコーストの証言と史料に広く目を通した人ならば、フリードランダーとスタイナーがそれぞれの言い方で語っていることに気づかないことはけっしてありえない。すなわち、残酷な欲望と異常な歓喜の情にも、あるいは罪なき者を襲うことで生み出される――そしておそらくは必要とされる――感情的興奮にも、気づかないわけにはいかないのだ。しかしながら、このような特徴は、別の系列の言説による一連の理論的文献では曖昧にされている。その一つは「悪の陳腐さ」という議論であり、もともとハンナ・アーレントに起因しているが、それ以降、非常に広く見られるものである。もう一つは――しばしば第一のものと関連しているが――近代に関するより広い議論であり、これは多くのさまざまな論者の著作のうちに見いだすことができる。

 これらの議論はどちらも、ナチによるジェノサイドを理解するうえで重要なことを指摘している。簡単に言うと、最初の議論は、心理学的観点からして、迫害者が総じて正常であるという事実に注意を向ける。すなわち、人類の他の部分と彼らとの親近性、彼らのほとんどは普通の人々であって、モンスターでもないし、とりわけ野獣でもないということである。第二の議論は、特殊近代的な構造と資源(社会的、組織的、技術的なそれ)に注意を向ける。このような構造と資源なしには、この種のタイプと規模の事業――ヨーロッパ中から600万人もの人間をかき集め、国境を越えて移送し、全員を殺害するという事業、しかも、それを4年たらずの間に、秘密裏に遂行すること――は、たとえ実際に不可能ではないにせよ、はるかに困難であったろう。しかし、こうした議論がいかに適切だとしても、あまりにも一面的に強調されるならば、「規則正しい官僚的な虐殺」という構図が提示されることになってしまう。このような構図にあっては、われわれがこれまで見てきた他の諸側面のいくつか――象徴的、感情的な側面、および、人間の破壊的な能力と想像力の野放図な「戯れ」にかかわる側面――がほとんど脇に追いやられてしまう。ここで問題になっているのは、近代ではない。資本主義でもない。問題になっているのは人間性なのである。

 これは、マルクス主義者がこれまでしばしば直面するのを避けてきた問題であるが、――今や彼に立ち返るが――エルネスト・マンデルはこの問題に何の困難性も感じなかったにちがいない。1980年の論文「人間は人間にとって最高の存在である」の中で、マンデルは、人類学的に恒常的な性質が存在すると書いている。そのような恒常的なものの一つは、自由への渇望であり、不正と抑圧に対する「押さえることのできない反抗の火花」である。しかし、それと同時に、同族中心主義(tribalism)と破壊に向けた衝動もまた 「人間の奥深くに根ざしている」ことをマンデルは認めている。

 この後者の衝動によって生み出される極悪非道さに直面して、前者の衝動によって代表される人間性のよりよい側面は、おそらく途方に暮れる。どのように理解していいかわからなくなるのだ。これこそ、ドイッチャーやレヴィやフリードランダーがみな、それぞれ独自のアクセントで語っていることである。人間はその経験が広がるのと同じ規模で困難を経験するが、それはいいことである。もしそうすることをいっさいやめてしまうべきだとすれば、われわれはいっさいを失うだろう。これこそ、根本的な悪の持つ恐ろしさの意味――心理学的というよりも倫理的な意味――なのである。 

 *  *  *

 最後に私は、マンデルが『第二次世界大戦』ドイツ語版に付した補遺の中で、以前に自分が述べてきたことをより詳しく展開しなければならないと彼が感じた点について、記しておきたい。それは、ユダヤ人を襲った災厄の唯一性という問題である。この点に関して強調点に一定の変化が生じていることを確認して結論としたい。

 これまで、少なくとも1946年の最初の論文以来、マンデルは、ホロコーストが希有なものであると特徴づけながらも(しかも、些末な個別的意味においてではなく、われわれが見てきたような、希有な犯罪性、最悪のものという意味で)、そう考えた理由については明示していない。それゆえ、これまで見てきた諸文献においてわれわれは、その理由らしきものを推測するために、どんなわずかな示唆にも頼らざるをえなかった。たとえば、『第2次世界大戦の意味』と論文

「ナチによるジェノサイドの……」の両方において、マンデルは虐殺の体系的な性格に言及している。また、別の部分でマンデルは、この「体系性」が二つの特徴を明らかにしているのではないかと示唆している。その特徴とは、この問題をめぐる議論で共通して指摘されるものであり、簡潔な名称をつけて言い表わすなら、「近代性」と「意図の包括性」と言うべきものである。

 マンデルはこう書いている。それ以前の虐殺の実行者たちが、今回の虐殺の実行者たちよりも人間性において優るものではない。ただ、「彼ら

[以前の実行者たち]の社会経済的・政治的計画と彼らの有していた資源とが、より制限されていた」だけのことである、と。またマンデルは、ユダヤ人が「もっぱら」その人種的出自だけで殺されたことにも触れている。とすると、マンデルがヨーロッパ・ユダヤ人に対するこの犯罪を道徳的に画期的なものとみなしたのは、彼らの殺害に近代的方法が適用されたことと、彼ら全員を抹殺しようとした点でナチの意図がトータルなものであったことの両方を理由にしているのだろうか。

 どうやらそうだったようだ。マンデルがこのドイツ語版補遺の中でより明快かつ具体的に押し出しているのは、まさにこのことである。彼は、この犯罪が、「犠牲者の出自とされているものを唯一の理由」にして600万にもの人々を「系統的に、入念な計画にもとづいて、急速に産業化されたやり方で」殺害した事件として記述することから議論を始めており、続けて、一種の「近代性」命題――マルクス主義的色彩の強いそれ――を提出している。これは、一方では、ジェノサイドの技術的・行政的・分業的諸側面と、その、鉄道や化学産業や建設産業への依存を強調するとともに、他方では、「支配階級の『基本的な道徳的価値観』」の演じた役割を主張する。その価値観とは、国家への従順性、愛国主義、民族主義、体制順応主義という広く浸透したメンタリティである。このような組織構造と、受動的な服従を生み出したこのような態度こそが、マンデルによれば決定的なのである。それは、狂信的な反ユダヤ主義と等しく、何らかの「道徳的ニヒリズム」をはるかに越えるものである。

 さて、ここにいくつかの難しく不愉快な問題が存在する。すなわち、これらの特徴――それぞれで考えてもいいし、すべて合わせてもいいが――がどうしてホロコーストを他と違って特別に悪いものとして区別することになるのか、という問題である。さまざまな悪の規範的な比較に関する問題については、とりあえず置いておこう。この問題については別の機会に論じるとしよう。しかしながら、興味深いのは、この特殊なテキストにおいて、まさにこの文脈において、マンデルがついに、ホロコーストが希有なものであるという見解をより詳しく展開しようとしていることである(以前なら、マンデルの強調点は、他の歴史的経験との比較可能性の方にずっと強く置かれていた)。どうしてだろうか。当然のことながら、確実な答えを出すのは困難であるが、私はあえて、このテキストを取り巻く状況が重要な意味を持っていると言いたい。つまり、この補遺が、昨今の「歴史家論争(Historikerstreit)」の渦中にあるドイツの読者に向けたものだということ、エルンスト・ノルテとその明らかに弁護論的な傾向を取り扱っていることである。

 率直に語るようにするべきだろう。この弁護論の中には、私がマンデルを批判したのと形式的に類似した観点が見られる。私が言っているのは、ノルテが、ナチの特殊で前例のない性格を簡単に認めながらも、ナチを熱心に「文脈に位置づけ」ていることである。彼の主張はこうだ。ナチは、ベトナムにおけるアメリカの戦争や、ベトナムによるカンボジア侵攻や、ベトナムからのボート・ピープルの脱出――「水上のホロコースト」――、カンボジアの大虐殺、イラン革命後に起きた弾圧、ソ連のアフガニスタン侵攻、そして何よりも、富農撲滅と強制収容所、こういったものと同じ現代史に属している。こうした背景をふまえて、ノルテは主張する。第三帝国は「それが今なお置かれている孤立から抜け出させるべきである」。こうした観点は、いま問題になっている論争において、ホロコーストの「相対化」と呼ばれるようになった。そしてマンデル自身も、ノルテの観点を問題にする際にそう呼んでいる。彼(マンデル)はこの時点でさえ、ホロコーストが歴史的により一般的な傾向の極端な産物であると主張している。しかし、彼はどうやら、ユダヤ人の運命の特殊性により大きな強調点を置くことで議論のバランスをとる必要を認識したようである。

 この問題に関してはとりわけ、いかなる誤解もないようにしたい。私は形式的な類似性について語っている。だが、形式的に似ているこの二つの観点に同じ道徳的意義を与えるべきではない。方やドイツの保守的歴史家であり、方やユダヤ人のマルクス主義革命家である。両者のそれぞれの強調点の動機となっているものは、同じではない。前者の場合にもっぱら動機として働いているのは、ドイツ現代史のアイデンティティを「ノーマライズ(普通扱い)」することに関心を抱いている民族的自己中心主義(particularism)である。それに対し、後者の根底にあるのはおそらく正反対のものであって、ユダヤ人の悲劇を強調しすぎることで他の民族の苦しみを過小評価することになるのを警戒している、社会主義的で――そしてある意味では――ユダヤ人的な普遍主義(universalism)であろう。

 それは、社会主義の古くからある物語である。それは、マンデルにとって非常に重要であった一人物によって表明されていた。彼にとってその人は多くの点で重要であったが、とりわけ、資本主義的野蛮に対する最も明晰な警告の声を上げていた点で重要である。第一次世界大戦中、監獄の中からローザ・ルクセンブルクは、友人のマチルデ・ヴルムに宛ててこう書いている。

「あなたは、ユダヤ人のこの特別の苦悩なるものをどうなさるおつもりですか? プツマヨ
[南米アマゾン河流域の一地域]のゴム農園の哀れな犠牲者も、ヨーロッパ人によってその肉体を売り買いされているアフリカの黒人も、私にとっては同じぐらい身近に感じます。トゥロータのカラハリ戦役[プロシアの軍人ロタール・トゥロータは1904〜1906年、ドイツ領南アフリカに起こった先住民反乱をカラハリ砂漠で全滅させた]に関する参謀本部の報告書に載っている言葉を覚えているでしょうか。『そして、死者たちの臨終のあえぎや、渇きで死んでいくものの狂気の叫びが、しだいに消えていって、永遠の崇高な静けさが訪れた』。おお、かくも多くの叫び声が聞き届けられることなく消えていったこの『永遠の崇高な静けさ』よ。それが私の中であまりにも強く鳴り響いているので、私はユダヤ人ゲットーのための特別の場所を自分の心の片隅に設けることはできません。雲と小鳥と人間の涙のあるところなら世界のどこであれ、それがわが故郷なのです」。

 社会主義の古くからある物語であり、左翼のユダヤ人の古くからある物語である。そしてローザ・ルクセンブルクのこれらの言葉はすばらしいし、忘れるべきでも、否定されるべきものでもない。今日においてはとくにそうだ。だが、20世紀の後半においては、これらの言葉が以前ほど適切なものではないこともまた、事実である。ユダヤ人の社会主義者は、ユダヤ民族の悲劇のための特別の場所を彼ないし彼女の心の片隅に設けてしかるべきである。自民族の受けた苦しみのためのいかなる特別な場所も奪い取られた普遍主義的倫理は、この悲劇に不注意であるかぎりますます説得力を失うだろう。それについてどのように考えるのであれ、ショアーの場所――比較可能かつ唯一のそれ――を評価するときには、いずれにせよバランスが求められるのである。

 さてここで、私自身がアンバランスを犯す危険性を避けるために、最後の注意をしておきたい。ユダヤ人問題について書くとき、マンデルもトロツキーも、社会主義の達成なくしてはその十分な解決はありえないと論じた。これまで述べてきたいっさいのことから、私がこのような定式に欠陥があるとみなしていることが、おわかりになると思う。それにもかかわらず、それはある種の真理をも宿している。いわゆるユダヤ人問題を他の極端な迫害と抑圧の例に一般化するならば、マンデル、トロツキー、ローザ・ルクセンブルクの政治的伝統によってかくも頻繁に見いだされてきたような結びつき、すなわち資本主義と野蛮との結びつきを、簡単に捨て去ってしまうわけにはいかない。資本主義は、数百万の人々にとって――現代自由主義の自信に満ちた態度にもかかわらず――極端な欠乏と抑圧の条件を構造的に生み出す社会経済秩序であり、そこにおいて憎悪は、ますます蓄積され、悪化し、噴出するよう仕向けられている。しかも、それは、あたかも「相互無関心の契約」をしているとしか言いようがないような道徳的態度を育む。このようなもとでは、ある人々が恐るべき危険性や困難な状況にさらされていても、その状況が他の人々をわずらわせるものとみなされないかぎり、そのまま放っておかれる。

 資本主義的な社会関係と価値観は、必ずしもすべての悪に責任があるのではないにせよ、その責任の大きな一端を負っている。それに対して社会主義は、別の、道徳的に普遍なものへの希望を体現している。すなわち――ここで再び、マンデルの言う「ホロコーストの主要な教訓」に立ち返ることになるのだが――、十分多くの人々が、道徳的に我慢できないことにもはや我慢しなくなり、ついにこのユダヤ人問題が根本的に減じられうるようになるだろう、という希望である。そしてまさにこうした展望こそが、何らかの特殊な問題においてバランスを欠いていようがいまいが、マンデルがその生涯を捧げたものなのである。

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