【太田龍追悼】

 (最新見直し2009.7..26日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 2009.5.19日、太田龍・氏は逝去した。ここに追悼しておく。

 2009.5.19日 れんだいこ拝


Re::れんだいこのカンテラ時評573 れんだいこ 2009/05/19
 【稀代の異能思想家・太田龍逝去追悼】

 ネット情報によると、稀代の異能思想家・太田龍(おおた・りゅう、本名・栗原登一)氏が2009.5.19日午前5時30分、腹膜炎のため東京都豊島区の病院で死去した(享年78歳)。れんだいこは、一瞬眼を疑った。エッエエェッと奇声を発した。まだまだ健在と思っていたが、急逝してしまった。

 2年ほど前の過日、れんだいこは、太田龍・氏とはどういう人物かとの衝動が止まらず、講演会に出向いた。二次会で挨拶し、それなりに会話を堪能させて貰った。一度きりとなってしまった。惜しいことをした。もっとお会いしていろいろ聞き出しておけば良かった。いつものことながら後で悔やむ。

 太田氏の印象は、れんだいこの期待を裏切らなかった。氏の経歴からすれば窺えるところの闘士という風情ではなく物静かで、ならば大学教授風であったかというと大学教授が阿呆に見えて来るような透徹した知性を漂わせていた。なるほどさもありなんと思った。歴史上の軍師ならこういう雰囲気かもしれないとも思った。推定するに、稀代の異能思想家だったのではあるまいか。

 履歴を素描しておく。概論は「太田龍・氏のネオ・シオニズム研究」に記す。
 (judea/hanyudayasyugico/nihonnokenkyushi/
 ootaryunokenkyuco/ootaryunokenkyuco.htm)

 1930(昭和5)年、樺太豊原町で誕生する。父方は千葉県印旛郡物井村(現在の四街道市)に代々続いた漢方医の家系。1945.10月、青年共産同盟(のちの民主青年同盟)に加盟。1947年、日本共産党に入党。1953年、離党。第四インターナショナル日本支部のための活動を始める。

 1957年、内田兄弟、黒田寛一らと共にトロツキズム系の日本革命的共産主義者同盟を結成。第四インターナショナル日本支部委員長を務める。1958年、いわゆる「革共同第一次分裂」で離党。その後「トロツキスト同志会」(トロ同)を結成。後に「国際主義共産党」(ICP)に発展解消する。追って離党する。

 1963年、ICPグループにに再び「指導者」として迎え入れられる。1964年、西京司、酒井与七らの革共同関西派と合同し第四インターを結成する。1967年、離党。第四インターBL(ボルシェビキ・レーニン)派、その大衆組織である武装蜂起準備委員会-プロレタリア軍団を結成する。

 この頃より次第にマルクス主義そのものとの決別を開始する。1970年頃、脱党。同党から死刑宣告される。竹中労、平岡正明らと3バカゲバリスタと呼ばれる仲になり「世界革命浪人」と自称する。1972年、アイヌ革命論者となり、アイヌ解放闘争へと向かう。1986年、第14回参議院選挙で、日本みどりの連合公認で比例区から出馬するが落選。1990年、第39回総選挙には地球維新党を率いて東京1区から立候補するも落選。1993年、第40回総選挙で雑民党(代表・東郷健)公認で本名の栗原登一の名で東京5区から立候補するも落選。以降は選挙に出なくなる。

 その後、歴史学の立場からのユダヤ主義批判論者になり、その第一人者として理論活動に向かう。自然食運動、家畜制度全廃を主張し始める。その後、週刊日本新聞編輯主幹として時事評論、外国文献の紹介出版、執筆活動をこなす。その他多数のエコロジー系の学会を主宰する。この間、精力的に講演を企画し弁士として活躍する。

 こういう履歴を持つ太田龍のどこが異能なのか。れんだいこが読み解くと、日本マルクス主義運動から始発してトロツキズムに転じ、やがてトロツキズムとも決別し、アイヌ解放運動から更に転じて最後にネオシオニズム批判へ至るという稀代の思想遍歴性にある。マルクス主義用語で云えば、自己否定に否定を更に重ね続けた希有な人物性にある。

 太田龍が辿り着いた歴史観の高みを今後誰が継承するのだろうか。太田龍を措いては不可能なほどに孤高の思想と眼力を備えていた。それを思うと暗然とせざるを得ない。似たようなことを説く者が居るが、ぶれており太田龍ほどには締まらない。それは恐らく透徹した歴史観との差であろう。

 あぁ惜しい。今更ながら悔やむ。しかしながら78歳とならば致し方あるまい。よってもう悔やまない。我々が太田龍・氏によって敷かれた道を違うことなく耕して行く以外あるまい。微力ながら、れんだいこも後追いしようと思う。龍氏よ冥福せよ、合唱。

 2009.5.19日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評584 れんだいこ 2009/06/26
 【太田龍追悼の偲ぶ会参列記】

 2009.6.23日、太田龍追悼の偲ぶ会が行われた。これに参加したれんだいこの記憶が定かなうちに感想を記しておく。6.15デー集会への参加を見合わせ、この偲ぶ会に参列することにした。

 会は、JR総武線「市ヶ谷」のアルカディア市ヶ谷(旧・私学会館)で、夕刻6時半より男女半々約二百名の参加で執り行われた。太田龍と生前に交流があった多士済々が集ったもので、数十名単位で若い方も居られたように思うが、れんだいこのように後半期の繋がりだけで参加した者は少なかったのかも知れない。

 日本左派運動系譜の元同志、運動仲間の参加は極めて少なかったような気がする。もう十年ほど前になるか、ブントの創設者・島氏の葬式と比べて際立つ差のように思われる。あの時はいろんな党派から駆けつけていた。日本左派運動において未だに太田龍のネオシオニズム批判論が異形なものであり、受け入れられていないことが分かる。それを踏まえれば、太田龍晩年のネオシオニズム批判論の一点に於いて集った左右、宗教者、老若混淆の集いであったということになる。

 司会者により会式が進行し始めた。太田龍仲間の者には挨拶の要なしほどの知友であったのであろうが、サムイを着た洒脱な人の好さそうな方だったが、自己紹介の挨拶がなかったのがずっと気になった。成甲書房の貢献大なることを評価していた。代表者がどういう人なのか確かめたかったのだが分らなかった。あるいはスピーチの一人に居たのかも知れない。

 1分間の黙祷の後、奥さんが生前の最後の様子を語った。それによると本年初めより手のむくみが始まりペンを持つのが支障となった、病院に罹ったが長期入院安静治療を宣告されることを恐れ診療中の隙を見て抜け出した、その後ショウガ湿布療法によりやや回復に向かったものの介護の世話が大変だった、最後には肺にも水が溜まり呼吸困難に陥った云々ということだった。

 次にビデオ映像が流された。文京区の喫茶ペガサスでの執筆の様子、ありし日のインタビュー時の受け答え、デービッド・アイクのネオシオニスト爬虫類説に対する太田氏の真意の弁舌、夫婦の住まい等が映し出された。清貧過ぎるとも云える生活ぶりが伝えられた。機械の調子が悪く音声が途切れていたことと、後ろの席の方で私語が喧しく聞き取れなかった。静粛さにはほど遠かった。この後、献杯に移った。一段落した後、よほど近しかった者から順に挨拶が始まった。約十人ほどがスピーチした。その内容を個々に記すのは大変なので、特に印象深かった下りを記しておく。

 神道研究家の山蔭氏は、ネオシオニズム批判論での見解の一致と若干の相違、ごく最近のユダヤ教ラビ一行による信州上諏訪大社の伝統行事に対する並々ならぬ関心ぶりを紹介していた。れんだいこは山蔭氏の著書を愛読しており、山蔭氏と太田龍の交友関係を初めて知り得心させられるところとなった。大山倍達氏の娘さんが、太田龍の肉食禁止運動に関するエピソードを語った。これも妙な繋がりで得心させられるところとなった。順不同かも知れないが、同時通訳家の某氏が、太田龍の「睨んで解する太田龍的英語能力」の凄さを語った。某ジャーナリストが何やら語り、最後に般若心経を唱えた。神道家が祝詞をアレンジして太田龍を称えた。日本赤軍活動家の某氏がアイヌ解放闘争時のエピソードを語った。台湾の将経国氏の誘拐作戦の突如中止の裏話を披露していた。太田龍に評価された若き某著作者、「天皇とロナりザ」の執筆者・鬼塚氏、元CIAと称する某氏らが次々とそれぞれの太田龍論を語った。

 他にも発言した人がいたかも知れない。瞬く間に予定時間が過ぎてしまった。最後に、どうしても一言したいと強引に登場した人が強烈な批判を放った。どうやらデービッド・アイクのネオシオニスト爬虫類説に対する太田氏の賛意が気に入らないらしい。奥さんに対して何人目の彼女だとか、子供がいるのかどうなのかとか詰問していた。どこにでも居るお騒がせ馬鹿と考えるべきか。

 定刻時間の9時を過ぎ閉会となった。二次会の発表もなかったので、ロビーの喫煙ルームで暫く様子を見た後お暇した。れんだいこより若いがなかなか知的に鋭そうな人と隣り合わせになり、声を掛けようとしたが切り出せずに立ち去ることにした。エレベーターの中で若い中年の女性から声をかけられた。聞くと、太田龍の身内ということだった。「栗原家は酒とタバコがダメな医者の血筋」ということを手短に教えてもらった。もっと聞きたくなり、少しお茶でもしませんかと誘ったら、家に帰らなければならないのでと断られた。女性としての用心もあるのだろう、残念だったが仕方ない。その後一人で、近くの居酒屋で偲ぶ会の延長を続け余韻を反芻した。

 纏めてみれば以上のような偲ぶ会だった。何がどうと云われると締まりがない会だったが、来てよかったと思った。敢えて言えば、企画事務局の打ち合わせ不足、根回しのなさが物足りなかったかも知れない。しかし、太田龍の破天荒な人生を意義づける為に敢えて成り行き任せにしたのかも知れない。公安筋に対する警戒という意味でもベターだったのかも知れない。れんだいこのスピーチの出番はなかったが、雰囲気からしてそれで良いのだが、それしても二次会辺りでは語ってみたかった気がしないでもない。何とならば太田龍のネオシオニズム論の高みをもう少し共認したかった気がするから。そういう意味で心残りな惜しい気がする。

 偲ぶ会を追想しながら今思うに、太田龍こそ「明日のジョー」ではなかったか。田宮高麿の逸話で語られることが多いが、太田龍こそ燃え尽きてリングのコーナーに腰かけたまま白い灰になり幻影だけ残して去った。そんな気がする。まだまだやることは多く構想も豊かだったのであろうが、人生はそんなものかも知れない。この法灯を誰が継ぐのか、それが問われているように思う。

 翌日、雨降りの中、靖国通り方面の神田に繰り出した。三省堂に行き、田舎の書店では目にしなかった荒岱介氏の「新左翼とは何だったのか」他四、五冊買った。東京駅八重洲北口の囲碁センターに行き2局打って新幹線に乗った。車内で「新左翼とは何だったのか」を読了した。日本左派運動ハウツーものの良書であったが、太田龍史観が皆無なことに改めて気づかされた。龍の到達した高みをどう展開するのか、れんだいこの使命は大きいと思った。

 2009.6.26日 れんだいこ拝
 補足。主催は成甲書房。司会は太田竜をプロデュースして売り出した出版仕掛け人の一人守屋汎氏。スピーチは、元日本赤軍にして若松孝二監督のプロダクションに加わっている足立正生(あだちまさお)。アイヌ民族の英雄シャクシャインの銅像の台座を破壊した事件で、太田氏と行動を共にしていたのが足立氏。この銅像の何が問題だったかというと、当時北海道の政治家だった町村金吾氏の名前が寄贈者として銅像の台座に入っていたこと。アイヌ側としては、勝手に非アイヌ(シャモというらしい)が、アイヌの英雄を政治利用していると見える。それで台座を破壊して町村の名前を消そうとしたとのこと。コンノケンイチ氏、元映像プロデューサーの高橋五郎氏、鬼塚英昭氏、新右翼の鈴木邦男氏、英語教育評論家で武道家の松本道弘氏ら。電報やメールでの追悼文にジョン・コールマン。フルフォード氏のブログの文章が紹介されていた。つえをついて登場した高橋五郎氏。(「いろんな人がやってきた『太田龍さんを送る会』」参照)

【朝日新聞記事「思想家・太田竜氏の「革命」一代  妄想家か、辺境の擁護者か」】
 2009.7.23日付け朝日新聞夕刊の「思想家・太田竜氏の「革命」一代  妄想家か、辺境の擁護者か」を転載しておく。
 5月19日に78歳で亡くなった思想家・太田竜氏は、その振幅の大きい活動で人々を戸惑わせてきた。新左翼の革命理論家から、「ユダヤの支配」を糾弾し、「爬虫(はちゅう)類的異星人が地球を支配している」と説いた陰謀論者へ。変転を突き動かしたものは「妄想」か、それとも「辺境」への視点だったのだろうか。

 10代から左翼運動に身を投じた太田氏は1957年、革命的共産主義者同盟結成に参加する。中核派、革マル派などの前身である。その後、第4インターナショナル日本支部委員長に、さらに分派し、それも脱退した。創設した組織を次々と割っては新組織を立ち上げ、主張はそのたびに過激に先鋭になった。

 70年頃からは琉球、アイヌといった「辺境」に着目し独自の革命論を追究し始めた。三菱重工ビル爆破事件を起こした東アジア反日武装戦線にも思想的影響を与え、70年代半ばに、マルクス主義は「帝国主義美化の反革命的思想体系である」として決別。80年代には自然食やエコロジー運動に傾倒し、参院選や都知事選に出馬。90年代以降の著作は、陰謀論や国粋主義の立場のもので占められていた。

 めまぐるしい思想遍歴。太田氏とともにアイヌ像損壊事件で指名手配されたこともある元日本赤軍の足立正生氏は「あいつほど、組織を作っては壊し、決別を繰り返してきたやつはいない」と振り返る。教育学者の五十嵐良雄氏も突然「おまえは反革命だ。今後一切の関係を絶つ」と絶縁された。しかし五十嵐氏は「琉球もアイヌも、存在はしているが問題として認識されていなかった。彼は問題を発見する天才だった」と太田氏をなお評価する。

 一方、陰謀論やオカルトに詳しい作家の唐沢俊一氏は「常に新しいことを言わねばならぬという強迫観念があったのでは」とみる。新左翼時代から、誰も取り上げない問題を理論化し先端を切り開いてきた自負が強く、過激さを追求していった結果が「陰謀論」だったというのだ。第4インター時代の元同志も、立川米軍基地襲撃など極端に過激な方針を指揮した太田氏は、当時から「壮大なる妄想家」だったと回想する。

 代表的著作に『辺境最深部に向って退却せよ!』がある。見方を変えれば、正統マルクス主義から「辺境」をめざし、さらに動物実験反対、家畜制度全廃論など、常に代弁者のいない弱者へと寄り添おうとした点で、軌跡は一貫していたとも言える。

 70年代から交友を続けた新右翼の鈴木邦男氏は「日本の左翼を作った人で、しかもそこに満足せず、変化し続けた。中途半端な僕のずるさをしかられているみたいで恥ずかしい」としのんだ。


【「太田龍氏を送る会」考】
 「期待はずれだった太田龍氏を送る会」。
 この五月十九日に来世へ旅立った太田龍氏を送る会(偲ぶ会)は、六月二十三日アルカディア市ヶ谷において行われた。

 案内を見ると「荒々しく賑々しく次世界へ送り出す会を開催したいと思います」とあったので、真剣な有志は、永遠の革命家太田龍らしく、これから太田龍の志を継いでの、運動の展開や指針を皆で喧々諤々と論じ合う場があると、期待して会場に臨んだものであった。しかし会の進行は期待に反して、最初から最後まで、太田龍とのごく一部のあるいはわずか一時期の繋がりを針小棒大に自慢して、我こそは太田龍と・・・と太田龍を自分の売り込みに使うのが見え透いた者たちの自己自慢に終始して、非常に期待はずれ、消化不良の会であった。太田龍に全く相応しくない太田龍生前の言動とはかけ離れた、正反対の式次第であった。世間一般の凡人の偲ぶ会となんら変わらなかった。  

 しかしよくよく考えてみると、太田龍は不世出の革命家でも、その式次第を運営したのは凡人の集まりである。その凡人に革命家らしい送る会の構成を求めたほうが、ないものねだりであったわけだと今は気がついている。そして太田龍亡き後の、日本におけるこの運動の展開の難しさと直面している我々は、真に太田龍の偉大さを感じている次第である。しかしだからといって、手をこまねいて見ていられる状況ではない。また第三者として傍観していられる状況でもない。

 太田龍を送る会は消化不良の期待外れであったが、もはや超人太田龍のいない今、凡人である我々が力を併せて真剣に立ち向かわなければならない時に来ている。太田龍の後ろ姿を追いかけながらも、それぞれが自立して信念に基づいて太田龍の志の一灯を灯していこうではないか。
 平成二十一年十月吉日 九条一成 / 四王天兼続 / 香具屋妃芽

【「太田龍のアイヌ革命論」考】
 こういう折の2010.5月連休時、れんだいこは、太田竜・著「アイヌ革命論 ユーカラ世界への退却」を手にし読了した。この著作の重要性は、その内容にあるのではない。「太田龍」の思想遍歴途上の重要な質的転換期の内面心理とその理論状況を知ることにある。70年安保闘争後、太田龍は「アイヌ革命論 ユーカラ世界への退却」を唱え始めた。

 このことの意味は、太田龍が、それまで心血注ぎこんでいたマルクス主義からの決別的萌芽期に佇み始めたことを示すところに見て取れる。太田龍はやがて更に飛翔する。いわゆるエコロジー運動、自然食運動、家畜制度全廃運動、動物実験全面廃止運動を土台とする天寿学体系構築に着手し始め、同時期の日本原住民史論、世界原住民史論を経て、その次の段階としてネオシオニズム批判に達することになる。これが、太田龍理論の到達点となった。尤も、太田龍自身はネオシオニズムとは述べていない。ユダヤ主義ないしはロスチャイルド金融帝国と云いなしている。れんだいこがネオシオニズムと云い換えている。

 太田龍の後半生がここに到達したことにより、残された仕事はそのプロパガンダ、その見地よりする歴史の再検証運動となった。太田龍は、既成市井の歴史学に代わる真正歴史学の創造に向かう途次、その途上で逝去した。以来、この道を継承する者は多い。これが太田龍史学の功績であろう。但し、学派として形成されてはいない。各自がそれぞれの身の丈に応じて太田龍史学を横目に睨みながら営為している状況にあると云えよう。惜しむらくは、太田龍ほどにネオシオニズムの歴史的研究に向かう者は居ないことであろう。れんだいこが引き受けたいが、残念ながら薄学非才であり、この法灯を引き継ぐには至れない。

 もとへ。この経緯の端緒に立ったのが、「70年安保闘争直後の太田龍」であり、その時の彼がアイヌ革命論から始まったと云う点で、それを示す文献として本書に格別な意義を見て取ることができる。その本を手にし、漸く読了する機会を得た。まことに僥倖な「2010.5月連休」となった。

 以上が「アイヌ革命論 ユーカラ世界への退却」評論の総論であり、以下は解説である。解説は総論以上の意義を持たないが、太田龍がマルクス主義からの決別を如何に為し遂げつつあったのかを知る上で重要である。未だマルクス主義を客観化し得ぬままの空理空論を唱え、右派は右派なりの左派は左派なりの百年一日の理論のまま論客風を装って駄弁している連中には「お気に召さない旅」になろう。これを、れんだいこが解説する。

 太田龍は恐らく「70年安保闘争の不発」を見て取った。それを誰よりも厳しく感じ取り、それまでのマルクス主義的「抵抗」闘争に限界を見てとめたのではなかろうか。従来式マルクス主義運動史の破産として歴史的に深刻に受け止め、次なる理論展望の旅に出た。この旅は、去る日のスターリニズム式マルクス主義からトロツキズム式マルクス主義への転換の旅に続く「大いなる転換」となる。これを、マルクス主義に於ける最も純粋系のマルクス主義運動としてのトロツキズム型マルクス主義を最も精力的に追及した結果の転換として見れば、非常に重要な意味を持つ。

 太田龍は、後年はっきりさせることになるが、「マルクス主義に於ける最も純粋系のマルクス主義運動としてのトロツキズム型マルクス主義」に没頭することにより、それがネオシオニズム配下の鬼子的運動に過ぎないことを見てとった。後に、トロツキズム型マルクス主義からネオコン式ネオシオニズムが生みだされることを思えば、この危険を逸早く嗅ぎ取っていたことになる。太田龍はトロツキズム型マルクス主義最も深く純粋に掘り下げたことにより、これと逸早く訣別したと云うことになろうか。

 太田龍の左派魂の彷徨は続く。ならばとして、トロツキズム型マルクス主義に代わる真の闘う理論の模索に向かうことになった。スターリニズム式マルクス主義の否定によるトロツキズム式マルクス主義の称賛、トロツキズム式マルクス主義の否定による日本型革命理論としてのアイヌ革命論の創造へと繋がった。この辺りが凡俗の転向者とは違うところである。思えば、太田龍の思考スタイルは常に「より真実の真に闘う武器となる闘争理論獲得へ向けての彷徨」にあり、これこそ太田龍理論の本質つまり一貫して流れる赤い糸の筋道であったように思われる。結果的にネオシオニズム批判に終着するが、その一里塚がアイヌ革命論であり、ここより新たな太田龍が創造されたと云う意味で注目される。

 太田龍精神及び理論史を紐解くとき、アイヌ革命論を避けては語れない。こう意義づける必要があるように思われる。ならば、「太田龍式アイヌ革命論」とはどういうものか。これを簡単にスケッチしておく。興味深いことは、トロツキズム型マルクス主義の母班を引きずっていることであろう。彼は云う。世界ソビエト社会主義共和国創造の一環としての日本型革命としてアイヌ革命論を位置づけよと。更に、アイヌ革命論に至る理由として、古代史上のアイヌ社会にこそ原始共産制社会があると仮託させ、この源基をこそ革命理論の拠点にせよと。この理論構造は、太田龍が引き続きマルクス主義的理論構図下にあることを示唆していよう。

 太田龍は、ここに革命の故郷があるとして、「辺境最深部に向かって退却せよ」と呼号し始め、、革命主体としてのアイヌ革命論を主張し、アイヌ民族抵抗史の称賛に向かい始める。しかしこれは、「日本的なるものの発見とその旅立ち」でもあった。太田龍はその後、この道を定向進化し始め、ネオシオニズム批判へと辿り着くことになる。それは同時に、マルクス主義的理論構図との決別の道となった。

 その端緒がアイヌ革命論となったと云う意味で、アイヌ革命論には格別の重要性があると云わざるを得ない。但し、その中身はさほど重要なものではない。歴史上のアイヌ抵抗史を革命論的に位置づけ、和人側の同和政策を批判し、これに呼応したアイヌ革命裏切り派を弾劾し、アイヌ革命論を構築し進撃せよと云うメッセージ以上のものではない。尤も、それ以下のものではない。アイヌ革命論構築に至らない既成のアイヌ研究史家の偽善批判の舌鋒には相変わらずの鋭さを見て取ることができる。

 但し、れんだいこは、その太田龍がやがてアイヌ革命論から転じて、ネオシオニズム批判に向かった経緯こそが知りたい。どういう脈絡でネオシオニズム批判に繋がったのかを知りたい。本書では、まだその経緯は見えてこない。れんだいこの太田龍追跡の旅はまだ続くことになる。

 2010.5.4日 れんだいこ拝

【永遠の革命家 太田龍・追憶集 ~辺境最深部から出撃せよ!】
 「永遠の革命家 太田龍・追憶集 ~辺境最深部から出撃せよ!」(柏艪舎、2016/7/8)の『永遠の革命家 太田龍・追憶集』―発刊のことば 『太田龍追憶集』刊行委員 高橋俊夫」。
 この『太田龍・追憶集』を、今は亡き栗原千鶴子様へ献げます。 栗原千鶴子様は、太田龍氏の妻であり、彼の現実・日常生活を支えた大黒柱であり、共に活動を担った同志でした。生前千鶴子様は、私にこう言っていました。 「……太田を忘れずにいて頂くことが、何よりの支援になります」と。 『太田龍・追憶集』の刊行は、戦後の左翼運動史、思想史のみならず、尖鋭にして正しき陰謀史観の構築において、太田龍氏が果たした功績を顕彰することにあります。太田龍氏の人となりや、未完の思想を後世に伝え、それを継承、発展させることの重要性を強く認識したからです。 ご多忙中にもかかわらず、多くの皆様に追憶文を寄稿して頂いたことは望外の喜びです。この序文を通して深くお礼を申し上げます。また、立場上などで、今書くことができなかった皆様にも、苦渋を強いてしまったことについてお詫び申し上げます。 七回忌となる今年は、「一般社団法人太田龍記念会」が発足されます。これを足がかりに、未完の書籍などを公表していく所存です。 最後に、栗原千鶴子様御存命中に本書を刊行できなかったことは、誠に悔やまれます。 二〇一五年五月十九日





(私論.私見)