「太田龍のアイヌ革命論」考

 (最新見直し2010.05.05日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、太田龍思想の重要な転換となったアイヌ革命論を検証しておく。

 2010.05.05日 れんだいこ拝



【朝日新聞記事「思想家・太田竜氏の「革命」一代  妄想家か、辺境の擁護者か」】
 2009.7.23日付け朝日新聞夕刊の「思想家・太田竜氏の「革命」一代  妄想家か、辺境の擁護者か」を転載しておく。

 5月19日に78歳で亡くなった思想家・太田竜氏は、その振幅の大きい活動で人々を戸惑わせてきた。新左翼の革命理論家から、「ユダヤの支配」を糾弾し、「爬虫(はちゅう)類的異星人が地球を支配している」と説いた陰謀論者へ。変転を突き動かしたものは「妄想」か、それとも「辺境」への視点だったのだろうか。

 10代から左翼運動に身を投じた太田氏は1957年、革命的共産主義者同盟結成に参加する。中核派、革マル派などの前身である。その後、第4インターナショナル日本支部委員長に、さらに分派し、それも脱退した。創設した組織を次々と割っては新組織を立ち上げ、主張はそのたびに過激に先鋭になった。

 70年頃からは琉球、アイヌといった「辺境」に着目し独自の革命論を追究し始めた。三菱重工ビル爆破事件を起こした東アジア反日武装戦線にも思想的影響を与え、70年代半ばに、マルクス主義は「帝国主義美化の反革命的思想体系である」として決別。80年代には自然食やエコロジー運動に傾倒し、参院選や都知事選に出馬。90年代以降の著作は、陰謀論や国粋主義の立場のもので占められていた。

 めまぐるしい思想遍歴。太田氏とともにアイヌ像損壊事件で指名手配されたこともある元日本赤軍の足立正生氏は「あいつほど、組織を作っては壊し、決別を繰り返してきたやつはいない」と振り返る。教育学者の五十嵐良雄氏も突然「おまえは反革命だ。今後一切の関係を絶つ」と絶縁された。しかし五十嵐氏は「琉球もアイヌも、存在はしているが問題として認識されていなかった。彼は問題を発見する天才だった」と太田氏をなお評価する。

 一方、陰謀論やオカルトに詳しい作家の唐沢俊一氏は「常に新しいことを言わねばならぬという強迫観念があったのでは」とみる。新左翼時代から、誰も取り上げない問題を理論化し先端を切り開いてきた自負が強く、過激さを追求していった結果が「陰謀論」だったというのだ。第4インター時代の元同志も、立川米軍基地襲撃など極端に過激な方針を指揮した太田氏は、当時から「壮大なる妄想家」だったと回想する。

 代表的著作に『辺境最深部に向って退却せよ!』がある。見方を変えれば、正統マルクス主義から「辺境」をめざし、さらに動物実験反対、家畜制度全廃論など、常に代弁者のいない弱者へと寄り添おうとした点で、軌跡は一貫していたとも言える。

 70年代から交友を続けた新右翼の鈴木邦男氏は「日本の左翼を作った人で、しかもそこに満足せず、変化し続けた。中途半端な僕のずるさをしかられているみたいで恥ずかしい」としのんだ。


【「太田龍のアイヌ革命論」考】
 2010.5月連休時、れんだいこは、太田竜・著「アイヌ革命論 ユーカラ世界への退却」(新泉社、1973.12.16日初版)を手にし読了した。この著作の重要性は、その内容にあるのではない。「太田龍」の思想遍歴途上の重要な質的転換期の内面心理とその理論状況を知ることにある。70年安保闘争後、太田龍は「アイヌ革命論 ユーカラ世界への退却」を唱え始めた。

 このことの意味は、太田龍が、それまで心血注ぎこんでいたマルクス主義からの決別的萌芽期に佇み始めたことを示すところに見て取れる。太田龍はやがて更に飛翔する。いわゆるエコロジー運動、自然食運動、家畜制度全廃運動、動物実験全面廃止運動を土台とする天寿学体系構築に着手し始め、同時期の日本原住民史論、世界原住民史論を経て、その次の段階としてネオシオニズム批判に達することになる。これが、太田龍理論の到達点となった。尤も、太田龍自身はネオシオニズムとは述べていない。ユダヤ主義ないしはロスチャイルド金融帝国と云いなしている。れんだいこがネオシオニズムと云い換えている。

 太田龍の後半生がここに到達したことにより、残された仕事はそのプロパガンダ、その見地よりする歴史の再検証運動となった。太田龍は、既成市井の歴史学に代わる真正歴史学の創造に向かう途次、その途上で逝去した。「真正歴史学の創造」について、早くも1973年末著作の本書時点で次のように述べている。
 「1952年6月に、私は、根本的な誤謬を犯した。すなわち、日本歴史の領域に於いてスターリニズム理論を転覆するという作業を媒介とすること(その時、私には、そうした仕事がどうしようもなく迂遠に見えた。後回しにしても良いと判断した)なしに、国際トロツキストとしての闘争を日本の地で開始した、というこの誤謬を。よろしい。過ちは改めなければならない。日本歴史を、学者、専門家(一見、いかに左翼的、革命的な姿をとろうとも)委ねておくことはできないのだ」。
 「日本歴史は、日本による蝦夷、アイヌ征服の歴史として、日本に対する蝦夷、アイヌの抵抗と独立の闘いの歴史として、書き換えられねばならない」。

 以来、この道を継承する者は多い。これが太田龍史学の功績であろう。但し、学派として形成されてはいない。各自がそれぞれの身の丈に応じて太田龍史学を横目に睨みながら営為している状況にあると云えよう。惜しむらくは、太田龍ほどにネオシオニズムの歴史的研究に向かう者は居ないことであろう。れんだいこが引き受けたいが、残念ながら薄学非才であり、この法灯を引き継ぐには至れない。

 もとへ。この経緯の端緒に立ったのが、「70年安保闘争直後の太田龍」であり、その時の彼がアイヌ革命論から始まったと云う点で、それを示す文献として本書に格別な意義を見て取ることができる。その本を手にし、漸く読了する機会を得た。まことに僥倖な「2010.5月連休」となった。

 以上が「アイヌ革命論 ユーカラ世界への退却」評論の総論であり、以下は解説である。解説は総論以上の意義を持たないが、太田龍がマルクス主義からの決別を如何に為し遂げつつあったのかを知る上で重要である。未だマルクス主義を客観化し得ぬままの空理空論を唱え、右派は右派なりの左派は左派なりの百年一日の理論のまま論客風を装って駄弁している連中には「お気に召さない旅」になろう。これを、れんだいこが解説する。

 太田龍は恐らく「70年安保闘争の不発」を見て取った。それを誰よりも厳しく感じ取り、それまでのマルクス主義的「抵抗」闘争に限界を見てとったのではなかろうか。従来式マルクス主義運動史の破産として歴史的に深刻に受け止め、次なる理論展望の旅に出た。この旅は、去る日のスターリニズム式マルクス主義からトロツキズム式マルクス主義への転換の旅に続く「大いなる転換」となる。これを、マルクス主義に於ける最も純粋系のマルクス主義運動としてのトロツキズム型マルクス主義を最も精力的に追及した結果の転換として見れば、非常に重要な意味を持つ。

 太田龍は、後年はっきりさせることになるが、「マルクス主義に於ける最も純粋系のマルクス主義運動としてのトロツキズム型マルクス主義」に没頭することにより、それがネオシオニズム配下の鬼子的運動に過ぎないことを見てとった。後に、トロツキズム型マルクス主義からネオコン式ネオシオニズムが生みだされることを思えば、この危険を逸早く嗅ぎ取っていたことになる。太田龍はトロツキズム型マルクス主義最も深く純粋に掘り下げたことにより、これと逸早く訣別したと云うことになろうか。

 太田龍の左派魂の彷徨は続く。ならばとして、トロツキズム型マルクス主義に代わる真の闘う理論の模索に向かうことになった。スターリニズム式マルクス主義の否定によるトロツキズム式マルクス主義の称賛、トロツキズム式マルクス主義の否定による日本型革命理論としてのアイヌ革命論の創造へと繋がった。この辺りが凡俗の転向者とは違うところである。思えば、太田龍の思考スタイルは常に「より真実の真に闘う武器となる闘争理論獲得へ向けての彷徨」にあり、これこそ太田龍理論の本質つまり一貫して流れる赤い糸の筋道であったように思われる。結果的にネオシオニズム批判に終着するが、その一里塚がアイヌ革命論であり、ここより新たな太田龍が創造されたと云う意味で注目される。

 太田龍精神及び理論史を紐解くとき、アイヌ革命論を避けては語れない。こう意義づける必要があるように思われる。ならば、「太田龍式アイヌ革命論」とはどういうものか。これを簡単にスケッチしておく。

 太田龍は次のように述べている。
 「私自身について、自己批判しなければならぬ。1952年3月、私が日本共産党及び国際スターリニズム陣営と決裂して、日本トロツキストの運動を開始した時、私は、アイヌ民族について右の如き日本スターリニスト陣営の常識的前提に疑いを持たず、それを破壊しなかった。私が、それに根本的な疑問を提出するまでに、15年を必要とした。更に、単なる疑問から、この常識そのものの転覆、日本民族→日本国を滅亡させる根源的革命の原点としての、アイヌ共和国独立の目標の確定までに、4年を必要とした」。

 興味深いことは、トロツキズム型マルクス主義の母班を引きずっていることであろう。彼は云う。世界ソビエト社会主義共和国創造の一環としての日本型革命としてアイヌ革命論を位置づけよと。更に、アイヌ革命論に至る理由として、古代史上のアイヌ社会にこそ原始共産制社会があると仮託させ(「原始共産制への断固たる復帰の原則を1967年以降堅持」とある)、搾取者の文明を土台とする世界観とは別個の世界観を抱く確固たる自由人たるアイヌ人と仮託させ、この源基をこそ革命理論の拠点にせよと。この理論構造は、太田龍が引き続きマルクス主義的理論構図下にあることを示唆していよう。

 原始共産制社会的アイヌ社会の称揚論につい次のように述べている。
 「1971年。私は確信をもっていう。潮流は変化した、と。日本の帝国支配者に対する千数百年にわたる奴隷の反逆の革命思想は、今、ついに真の根底にまで達した。即ち、北辺のアイヌ同胞の闘争を跳躍台として、原始共産制の自己主張、その復権という地点にまで達した」。

 太田龍は、ここに革命の故郷があるとして、「辺境最深部に向かって退却せよ」と呼号し始め、、革命主体としてのアイヌ革命論を主張し、アイヌ民族抵抗史の称賛に向かい始める。この時の太田龍の眼には、アイヌはアメリカンインディアンと同格に置かれていた。このことを次のように述べている。
 「私は、1967年秋、以下ディアンを南北カメ理化革命の根源的主体として確認した上で、はじめて、日本帝国を転覆する革命の原点も同じくアイヌ部族のうちに存在するに違いない、と推論した。1968年から1970年まで、私は足踏みしていた」。

 しかし、 革命原点としてアイヌを見染めて以来の太田龍は、「日本的なるものの発見とその旅立ち」でもあった。このことを次のように述べている。
 「私は『日本的なるもの』の発見に向かって旅立ちを、目的意識的に始めた。私は確信している。この道の彼方にこそ、日本帝国転覆する思想の原点が在ることを。それを媒介することなき『国際主義』に、私は一切の価値を認めないことにした」。

 太田龍はこうして、この道を定向進化し始め、ネオシオニズム批判へと辿り着くことになる。それは同時に、マルクス主義的理論構図との決別の道となった。

 その端緒がアイヌ革命論となったと云う意味で、アイヌ革命論には格別の重要性があると云わざるを得ない。但し、その中身はさほど重要なものではない。歴史上のアイヌ抵抗史を革命論的に位置づけ、和人側の同和政策を批判し、これに呼応したアイヌ革命裏切り派を弾劾し、アイヌ革命論を構築し進撃せよと云うメッセージ以上のものではない。尤も、それ以下のものではない。アイヌ革命論構築に至らない既成のアイヌ研究史家の偽善批判の舌鋒には相変わらずの鋭さを見て取ることができる。

 但し、れんだいこは、その太田龍がやがてアイヌ革命論から転じて、ネオシオニズム批判に向かった経緯こそが知りたい。どういう脈絡でネオシオニズム批判に繋がったのかを知りたい。本書では、まだその経緯は見えてこない。れんだいこの太田龍追跡の旅はまだ続くことになる。

 2010.5.4日 れんだいこ拝





(私論.私見)第2部「辺境の最深部に向って退却せよ!」第21節。

世界革命浪人(ゲバリスタ)は、次のような方法で、日帝を消耗させたいと考える。
すなわち、まず第一に、日本国と大韓民国を衝突させること。日本国軍隊と韓国の軍隊を戦争させること。
この消耗戦を長期戦に持ち込み、日本に、すくなくとも一千億ドルを支出させること。
すくなくとも、十万の日本軍将兵を、韓国の戦場で殺すこと。
この日韓(韓日)戦争こそ、二十五年の間、アメリカの傘の下で、他国人民の無数の凶死のかげで、
もっぱら甘い汁を独占して、みにくく肥え太ってきた日本を包囲し、まるはだかにひんむいてしまう
世界計画の第一号である。韓国軍隊六十万人は、実にたのもしい「反日」軍である。この軍の一部
「親日」指導層を一掃せよ。日帝に買収されている一部将官を一掃せよ。世界ソビエト社会主義共和国
が発動する日帝打倒の革命戦争のもっとも近い同盟者・同盟軍。これこそ韓国軍である。
第二に、琉球共和国は独立を宣言し、米帝国主義、日本(やまと)征服者に対して戦線を布告しなければならない。
第三に、日本北辺の地に、アイヌ同胞(ウタリ)は和人(シャモ)に対して反逆ののろしを上げるであろう。
「北方領土返還」などという、この東京・和人征服者の思い上がった要求に対して、アイヌ同胞は、
北海道、千島、樺太に、アイヌ・ソビエト共和国独立でこたえるであろう。北海道に侵入し、
アイヌ同胞を主体的能動的に絶滅してきた北海道五百万人和人の群れは、ネズミのように叩き殺して
しまわなければならない。北海道の和人諸君。私のことばが、異様に聞えるか?心の奥深くで、アイヌ同胞は、
幾百年となく、はるかに激烈、強烈な呪殺の思いをたぎらせていたのである。