別章【戦後史の正体】

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孫崎享・氏の履歴
別章【戦後史の正体
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(私論.私見)

日本史

書名

「戦後再発見」双書1
戦後史の正体
孫崎享著

同氏は東大法学部在学中に外務公務員上級職甲種試験に合格、外務省入省。英国、ソ連、米国、イラク、カナダ勤務を経て、駐ウズベキスタン大使、国際情報局長、駐イラン大使を歴任した人物である。

定価(5% 税込)
1,575円
刊行年月日
2012/07/27
ISBN
978-4-422-30051-1
判型
四六判 188mm × 128mm
造本
並製
頁数
400頁
日本の戦後史は、アメリカからの圧力を前提に考察しなければ、その本質が見えてこない。元外務省・国際情報局長という日本のインテリジェンス(諜報)部門のトップで、「日本の外務省が生んだ唯一の国家戦略家」と呼ばれる著者が、これまでのタブーを破り、日米関係と戦後70年の真実について語る。
目次

はじめに
序章 なぜ「高校生でも読める」戦後史の本を書くのか
第一章 「終戦」から占領へ 
第二章 冷戦の始まり 
第三章 講和条約と日米安保条約
第四章 保守合同と安保改定
第五章 自民党と経済成長の時代 
第六章 冷戦終結と米国の変容 
第七章 9・11とイラク戦争後の世界
あとがき

序章 なぜ「高校生でも読める」戦後史の本を書くのか  日本の戦後史は、「米国からの圧力」を前提に考察しなければ、その本質が見えてきません
第一章 「終戦」から占領へ 
 敗戦直後の一〇年は、吉田茂の「対米追随」路線と、重光葵の「自主」路線が激しく対立した時代でした
第二章 冷戦の始まり 
 米国の世界戦略が変化し、占領政策も急転換します。日本はソ連との戦争の防波堤と位置づけられることになりました
第三章 講和条約と日米安保条約 
 独立と対米追随路線がセットでスタートし、日本の進む道が決まりました
第四章 保守合同と安保改定
 岸信介が保守勢力をまとめ、安保改定にものりだしますが、本質的な部分には手をつけられずに終わります
第五章 自民党と経済成長の時代 
  安保騒動のあと、一九六〇年代に日米関係は黄金期をむかえます。高度経済成長も始まり、安全保障の問題は棚上げされることになりました
第六章 冷戦終結と米国の変容 
  冷戦が終わり、日米関係は四〇年ぶりに一八〇度変化します。米国にとって日本は、ふたたび「最大の脅威」と位置づけられるようになりました
第七章 9・11とイラク戦争後の世界 
 唯一の超大国となったことで、米国の暴走が始まります。米国は国連を軽視して世界中に軍事力を行使するようになり、日本にその協力を求めるようになりました あとがき ≫(著者:孫崎亨『戦後史の正体』目次より転載)

護国夢想日記

日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。


テーマ:

孫崎享  新著<戦後史の正体>の紹介 (2)連載
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序章 なぜ「高校生でも読める」戦後史の本を書くのか

――日本の戦後史は、「米国からの圧力」を前提に考察しなければ、

その本質が見えてきません


 この本はもともと、出版社のかたから、

「孫崎さん。日米関係を高校生でも読めるように書いてみませんか。とくに冷戦後の日米関係を書いてほしいのです」

 と相談されてスタートしたものです。

 「高校生でも読める本」という言葉は魅力的です。高校時代、多くの人は世界の古典をひもときます。高校生は人生の最高の機微にふれる本を手にします。

 たとえば夏目漱石の『坊っちゃん』。私も大好きな小説です。痛快さのなかに、高度な文明批判もふくまれています。漱石が四〇歳のときに書いたこの小説を、高校生にすべて理解しろといってもおそらく無理でしょうが、多感な高校時代に最高の文学にふれ、人生の機微をかいま見る。これはその後の人生に、かならず大きな影響をあたえるはずです。

 同じく社会科学の分野でも、高校生の人には最高傑作にふれておいてほしいと思います。

「じゃあ、なにかいい本を紹介してほしい」

 といわれると少し迷いますが、たとえばキッシンジャーの『核兵器と外交政策』(日本外政学会、一九五八年)という本は、ぜひ図書館でさがして読んでほしいと思います。核兵器の出現によって、第二次大戦後の世界は大きく変わりました。


 そのことを知るには最高の本です。ただ残念ながら、社会科学の本には専門用語がよく出てきます。もってまわった文章も多い。わかりにくければわかりにくいほど、高級な本だというような困った常識があるようです。

 幸い、私は防衛大学校で二年生を相手に安全保障を七年間教えました。大学二年生ですから、ほとんど高校生と同じようなものです。おまけに防大生は訓練や運動で肉体的に疲労困憊しています。

 私が防衛大学校で教えはじめた一日目、生徒の三分の一はみごとに眠りはじめました。安全保障について、外交の現場で得た最高の知識を伝えようと勢いこんでいた私は、あまりの事態に驚き、生徒たちに「残念だ」といって教室から飛びだしました。


 職場放棄をしてしまったわけです。いま思うと、自分にも「坊ちゃん」的な性質があったのかもしれません。

 それから七年間の防衛大学校時代は、生徒をどう眠らせないかの工夫の連続でした。ですから私は、ほかの人よりは「高校生でもわかる本」を書く訓練をしていると思います。



 私が日米関係を真剣に学ぶきっかけとなったのは、イラク戦争です。

 二〇〇三年三月二〇日、米軍はイラク攻撃を開始し、まもなくサダム・フセイン政権を崩壊させました。しかしイラク側の抵抗はその後もつづき、米軍は結局九年近く駐留をつづけることになります。


 いまでこそ、イラク戦争は米国内できびしい評価をうけています(二〇一一年一月にCNNが行なった世論調査では、支持三三%、反対六六%)。しかし戦争開始当時の雰囲気はまったくちがっていました。国民のほとんど全員から圧倒的な支持をうけていたのです。

 二〇〇三年一二月には、自衛隊がイラクに派遣されることになりました。このとき私が非常に問題だと思ったのは、この戦争が起こった理由です。

米国がイラク戦争をはじめた理由は、

!) イラクが大量破壊兵器を大量にもっている

!) イラクは9・11米国同時多発テロを起こしたアルカイダと協力関係にある

!) いま攻撃しないとサダム・フセインはいつ世界を攻撃してくるかわからない

というものでした。

 私はその一五年ほど前の一九八六年から八九年にかけて、イラン・イラク戦争の最中にイラクに勤務しています。ですからサダム・フセインについてはかなりの知識をもっていました。二〇〇三年の段階で、イラクが大量破壊兵器を大量にもっていることなどない。アルカイダとの協力関係もない。それはイラクについて研究していた人間にはすぐにわかることです。


 しかし日本政府は「イラクが大量破壊兵器を大量にもっている」「アルカイダと協力関係にある」といって、イラク戦争に自衛隊を派遣しようとしていました。

 私は外務省時代、国際情報局長でしたし、駐イラン大使も経験しています。官僚や経済界のなかに多くの知りあいもいます。ですから、そうした人たちに対して何度も、

「米国のイラク攻撃の根拠は薄弱です。自衛隊のイラク派遣は絶対にやめたほうがいい」

と進言しました。

 数カ月して、経済官庁出身の先輩から次のようにいわれました。

「孫崎、君の言い分を経済界の人たちに話してみたよ。みな、よくわかってくれた。でも彼らは『事情はそうだろうけど、日米関係は重要だ。少々無理な話でも、協力するのが日本のためだ』という。まあ、そういうことだ。説得はあきらめたほうがいい」



「少々無理な話でも、軍事面で協力するのが日本のためだ」

これは本当にそうなのだろうか。そうした疑問から、日米関係をしっかり勉強しなおそうと決めたのです。

 勉強の成果は、それから六年後に講談社現代新書『日米同盟の正体』として形になりました。防衛大学校で教える過程で、私の歴史観、安全保障観は大きく進歩したと思います。


 この本の中心的な主張は、二〇〇三年のイラク戦争は突然起こったものではなく、冷戦の崩壊までさかのぼらなければその本質が見えてこないというものです。

 本が出たのは二〇〇九年三月でしたが、同じ年の八月には総選挙が行なわれ、民主党が政権の座につきました。私の『日米同盟の正体』が出たころはすでに、おそらく民主党が次の総選挙に勝って日米関係にもなんらかの変化が生じるのではないかと考えられていました。


 それで、この本はかなりの反響をよび、平成二〇〇九年四月三日外務委員会で篠原孝議員が「『日米同盟の正体 迷走する安全保障』には立派なことが書いてある。大臣、読まれましたでしょうか。


 民主党のネクストキャビネットの大臣はもう読破されておられるんですが、本物の大臣はお読みになりましたでしょうか」という質問がされるほどでした。

 本書の編集者もこの本を読んで、同じ内容を「高校生でもわかるように、やさしくていねいに書けないか」と依頼されてきたのです。

 すでに一般向けに同じテーマで出版している私にとって、この依頼を実行するのは、そうむずかしいことではありません。しかし、私にはもう少し野心的な気もちがありました。もし、「高校生でもわかる本」を書くなら、冷戦後ではなく、第二次大戦の終了から今日までの日米関係全体を書いてみたいという気もちがあったのです。



戦後の日本外交は、米国に対する「追随」路線と「自主」路線の戦いでした



 「はじめに」のなかで書いたとおり、日米の外交におけるもっとも重要な課題は、つねに存在する米国からの圧力(これは想像以上に強力なものです)に対して、「自主」路線と「対米追随」路線のあいだでどのような選択をするかということです。そしてそれは終戦以来、ずっとつづいてきたテーマなのです。

 私が外務省にいたときも、「自主」と「対米追随」をめぐる問題に、しばしば直面しました。なかでも最大の問題は、イランの油田開発に関するものでした。

 私は一九九九年から二〇〇二年まで、駐イラン大使をつとめました。日本の大使はみな多かれ少なかれそうなのですが、とくにイラン大使の場合、もっとも頭を使ったのは米国との関係です。つまり日本がみずからの国益から判断して選択した対イラン政策と、米国の対イラン政策を、どう調和させていくかということです。

 国内に資源のない日本は、エネルギーを海外に依存しています。ですから産油国のイランと緊密な関係を確立したいというのは当然の願いです。そうした流れのなかで、イランのハタミ大統領を日本に招待するという計画がもちあがりました。


 招待を決めたのは当時の高村外務大臣です。私の役目は駐イラン大使として、その実現に向けてイラン側と折衝することでした。

 しかしその後、発案者の高村大臣が内閣改造で外務省を去ります。ここで外務省内の風向きが変わりました。米国からの圧力によって、日本はハタミ大統領を招待するような親イラン政策をとるべきではないという空気がしだいに強くなっていったのです。

 けれども私も官僚として長年仕事をしてきましたので、物事を動かすためのそれなりのノウハウをもっています。それらを総動員し、なんとかハタミ大統領の訪日にこぎつけました。このときハタミ大統領訪日の一環として、日本はイランのアザデガン油田の開発権を得ることになったのです。


 この油田の推定埋蔵量は、二六〇億バレルという世界最大規模を誇ります。非常に大きな経済上、外交上の成果でした。

しかし、イランと敵対的な関係にあった米国は、

「日本がイランと関係を緊密にするのはけしからん、アザデガン油田の開発に協力するのはやめるべきだ」

と、さらに圧力をかけてきました。日本側もなんとか圧力をかわそうと努力しましたが、結局最後は開発権を放棄することになりました。

 もし、日本がみずからの国益を中心に考えたとき、アザデガン油田の開発権を放棄するなどという選択は絶対にありえません。エネルギー政策上、のどから手が出るほどほしいものだからです。


 しかし米国からの圧力は強く、結局日本はこの貴重な権益を放棄させられてしまったのです。その後、日本が放棄したアザデガン油田の開発権は中国が手に入れました

私がかつてイランのラフサンジャニ元大統領と話をしたとき、彼が、

 「米国は馬鹿だ。日本に圧力をかければ、漁夫の利を得るのは中国とロシアだ。米国と敵対する中国とロシアの立場を強くし、逆に同盟国である日本の立場を弱めてどうするのだ」

 といっていたことがありますが、まさにその予言どおりの展開です。アザデガン油田の開発権という外交上の成功は、結局、米国の圧力の前に屈したのです。

「なぜ日本はこうも米国の圧力に弱いのだろう」

この問いは、私の外務省時代を通じて、つねにつきまとった疑問でもありました。



米国からの圧力や裏工作は、現実に存在します。

続く


「蘇れ美しい日本」  第1200号


護国夢想日記

日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。


テーマ:

孫崎享  新著<戦後史の正体>の紹介 (2)連載 NO.2




 「対米追随」路線と「自主」路線、もっと強い言葉でいえば「対米従属」路線と「自主」路線、このふたつのあいだでどのような選択をするかが、つまりは戦後の日米外交だったといえます。

 日本は一九四五年九月二日、ミズーリ号で降伏文書に署名しました。そこから「戦後」がはじまります。この戦後の最初の日から、日本は「対米追随」と「自主」のあいだで重大な選択を突きつけられたのです。

 多くの政治家が「対米追随」と「自主」のあいだで苦悩し、ときに「自主」路線を選択しました。歴史を見れば、「自主」を選択した多くの政治家や官僚は排斥されています。


 ざっとみても、重光葵、芦田均、鳩山一郎、石橋湛山、田中角栄、細川護熙、鳩山由紀夫などがいます。意外かもしれませんが、竹下登や福田康夫も、おそらく排斥されたグループに入るでしょう。外務省、大蔵省、通産省などで自主路線を追求し、米国から圧力をかけられた官僚は私の周辺にも数多くいます。

先ほど、イランのアザデガン油田の開発権についてふれました。

 このときは、なんとチェイニー副大統領(当時)自身が先頭に立ち、開発権の獲得に動いた日本人関係者をポストから排除しています。びっくりしました。CIAなどの情報機関が動くなら、ありえることだと思います。しかし副大統領自身が先頭にたって排除に動いているのです。


 それも日本の首相とか外相とかいった、自分と同じレベルの人物への圧力だけではありません。現場で動いていた人たちが、副大統領からの排斥の対象となっていたのです。

この事実を知ったとき、米国という国のすごさを感じました。

 米国は戦後ずっと世界一の国でした。表の分野、たとえば思想的にも経済的にも、高等教育についても、その素晴らしさを競いあったら、ほとんどの分野で世界一でした。しかし、諜報などの裏工作の分野、ここでも圧倒的に世界一だったのです。

 こうした話は、もちろん表に出ません。ごく一部の人間しか知りません。表に出れば、だれがもらしたかすぐにわかってしまうので、その人間に報復が加えられる可能性があります。


 米国の圧力によって官僚や政治家が排斥されたケースは数多くありますが、それが表に出るのは、ほんのほんの一部にすぎないのです。

 また、こうした排斥は米国側の人間が行なうだけではありません。哀しいことですが、米国との関係を最重視する日本人のグループ、つまり戦後日本の主流派ですが、彼らが排斥に加わります。それが日本の姿です。戦後の歴史のなかで、そうした日本側の対応パターンを作ったのは、おそらく吉田茂首相でしょう。

 私は元総理クラスのかたが、ある外務省の人間について「彼は米国から嫌われている」といったのを聞く機会がありました。そうした場合、「なぜ嫌われているか」という理由についてはだれも話しませんし、問題にすることもありません。


 ただ「米国から嫌われている」というだけで、その外務官僚は重要なポストから外されるのです。それが日本の姿なのです。

 こんなこともありました。日米間で貿易摩擦が激しかった時代のことです。経済部門の官僚があるとき米国での講演で、「米国内には日本の貿易は不公平だという論がある。しかしそれはまちがいだ」といって、証拠をあげて反論しました。


 これを聞いていた米国関係者が日本の閣僚に、「彼は日米関係について、こんなけしからん発言をしている。日米関係のためにならない」と伝えました。するとすぐに閣僚から経済関係の省の官房長に対して、彼がどのような発言をしたか調査するよう依頼がきたのです。

 日米交渉の最先端で米国と交渉していた大蔵省の知人も、次のようにふり返っています。

 「アメリカと交渉をする。今度は勝てるかもしれないとがんばる。とたんにうしろから矢が飛んでくる。見ると首相官邸からだ。『もうそれ以上主張するのはやめておけ』。そんなことが何回あったかわからない」

 私は日本のなかでもっとも米国の圧力に弱い立場にいるのが首相だと思っています。首相の職責はあらゆる分野にわたっています。もちろんすみずみまで目が届くはずもないので、首相に致命的なダメージをあたえることは実はそうむずかしくないのです。


 ですから米国はできるだけ、農水省や経産省といった省にではなく、首相の下に諮問機関を作らせ、そこに権限を集中させようとします。そうすれば圧力をかける労力が少なくすむからです。

 こうした事実を現場で実際に体験していないと、「それは陰謀論だろう」などと安易にいってしまうことになります。しかし、少しでも歴史の勉強をすると、国際政治のかなりの部分が謀略によって動いていることがわかります。


 日本も戦前、中国大陸で数々の謀略をしかけていますし、米国もベトナム戦争でトンキン湾事件という謀略をしかけ、北爆の口実としたことがあきらかになっています。

 もっとひどい例としては、米国の軍部がケネディ政権時代、自国の船(傍点▲)を撃沈するなど、偽のテロ活動を行なって、それを理由にキューバへ侵攻する計画を立てていたことがわかっています(「ノースウッド作戦」)。


 ケネディ政権はこの計画を却下したので実行はされませんでしたが、当時の参謀本部議長のサインが入った本物の関連文書を、ジョージ・ワシントン大学公文書館のサイト(http://www.gwu.edu/~nsarchiv/news/20010430/ )で見ることができます。学者や評論家がそうした事実を知らないまま国際政治を語っているのは、おそらく世界で日本だけでしょう。

 次にご紹介する文章は、米国が第二次大戦後、日本と同じ敗戦国であるイタリアに対し、どのような裏工作を行なったかを、行なった本人であるCIAの元長官が書いたものです。日本の戦後史を知るうえで非常に重要な証言ですので、少し読みにくい文章ですが、がまんして読んでみてください。



元CIA長官がイタリアへの裏工作の手口を本に書きました

同じような裏工作は、当然、日本にも行なわれていたと考えられます



 米国の対外工作の中心は、みなさんもよくご存じのCIAです。その元長官であるW・E・コルビーが著書のなかで、第二次大戦後、CIAがイタリアで行なった裏工作について次のようにのべています。

 「秘密チャネルによる直接的な政治的、準軍事的援助によって『干渉』することは、数世紀にわたって国家関係の特徴となってきた。(略)各国は自衛のために武力を行使する道徳的権利をもち、その目的に必要な程度の武力行使を許されている。


 もしもそのような軍事的干渉が許されるなら、同じ状況下でそれ以下の形での干渉は正当化されよう」(『栄光の男たち――コルビー元CIA 長官回顧録』政治広報センター)

 直訳調で少しわかりにくい文章ですが、コルビーはここで、日本の評論家たちが「陰謀論だ」などといって否定する秘密チャネルでの裏工作が、はるか昔から広く行なわれてきたこと、他国の主権を侵害するそうした裏工作がなぜ道徳的に許されるかといえば、国家は自衛のためには軍事力さえ使うことを許されている、だから軍事力以下の形での干渉、つまり違法行為をともなう裏工作についても、当然許されるはずだといっているのです。

 戦後のイタリアは、いつ共産主義政権ができるかわからない状況にありました。それをふせぐためにイタリアの民主勢力に資金を渡すのは「道徳的活動」だとコルビーはいいます。そして「この種の工作を成功させるためには、資金源は米国政府という事実を秘匿する必要があった」。だから、CIAが「資金をこっそりと直接渡す」という方法を採用したと書いています。

 冷戦期にアメリカ(CIA)やソ連(KGB)がイタリアで行なっていた裏工作は、同じく日本でも行なわれていたと考えるのが常識です。


 事実、一九五〇年代から六〇年代にかけて、CIAが自民党や民社党の政治家に資金を提供していたことは、米国側の公文書によって(傍点▲)あきらかにされています。歴史を勉強していない人だけが、それを「陰謀論だ」などといって安易に否定するのです。

 「これらの活動で根本的に重要なことは秘密保持である。米国政府が支援しているとの証拠がでては絶対にいけない。そのため、金にせよ、(略)たんなるアドバイスにせよ、援助はCIAとなんの関係もなく、米国大使館とも関係のない第三者を通じて渡された」(同前)

 これが原則です。だから基本は、証拠は絶対に表に出ないのです。しかし現実には裏工作は存在する。「証拠がないからそれは陰謀論だ」などといっていては、話にならないのです。

 スパイは謎が多い人生を送ります。なにげなくコルビーをインターネットで調べてみました。水死しています。作家Z・グラントは、コルビーは殺されたといっています



 米国からの圧力とそれへの抵抗を軸に戦後史を見ると、大きな歴史の流れが見えてきます



 日本がこれから国家としての方針を決定するときも、過去の歴史において日本がどのような形で米国から圧力をかけられ、どのような形で路線選択をしてきたか、よく知っておく必要があります。とくに米国に対し「自主」路線をつらぬくことがどれほどむずかしいか、よく理解しておく必要があります。

 日本の戦後史については、いろいろと素晴らしい研究があります。

 たとえば豊下楢彦・関西学院大学教授の『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波書店)には、驚くような事実が書かれています。われわれは学校の憲法の授業で「天皇は象徴である。天皇は政治に直接関与しない」と習いました。しかし実際の歴史はちがうのです。

 戦後、昭和天皇は日米関係の基本路線を決めるうえで、もっとも重要な役割をはたしています。驚かれたでしょう。そんなことがあるはずがないだろうと思われたかもしれません。私も『昭和天皇・マッカーサー会見』を読んでびっくりしました。


 たとえば昭和天皇は「沖縄の軍事占領を無期限で継続してほしい」というメッセージを米側に伝えています。豊下教授はこうした事実をもとに、昭和天皇の政治関与を克明に実証しました。

 しかし日本の戦後史全体を、米国からの圧力とそれへの抵抗を軸に記述した本はありません。米国に対する「追随路線」と「自主路線」の対立という視点から大きな歴史の流れを見ることによって、はじめて日本人は過去の歴史を正確に理解することができ、日本の行く先も見えるようになるのだと思います。

 私は長く外務省にいたため、米国からのさまざまな圧力や、「対米追随」と「自主」というふたつの外交路線の対立について、実際に現場で体験しています。


 その大きな歴史の流れを描くことを、もしだれかがやらなければならないとすれば、勇気をもって行なうべきはおそらく外務省のOBでしょう。学者やジャーナリストの人たちは、世間で「陰謀論」といわれるような国際政治の闇の部分にふれることがほとんどないからです。

 出版社から提案をいただいたその夜、床に入ると日米関係をめぐるいくつかの場面が次々と浮かんできました。戦後の混乱のなかで、米国に毅然と立ち向かい、意見を主張した政治家たちがいました。


 重光葵、石橋湛山、芦田均、鳩山一郎などです。驚くことに多くの人の印象とは逆に、岸信介もこのなかに入ります。そして彼らの多くは、米国によって政治の表舞台から排斥されています。

 書きたいものが次々に浮かんできました。頭がさえてきます。とても眠れない。しかたがないから起きだしました。そして次のメールを出版社にあてて送りました。

「昨日お話ししてから、いろいろな構想が浮かんできました。

!) ぜひ通史として書かせてください。対米追随路線と自主路線。このふたつの糸で戦後の日米関係を書いてみたいと思います。

!) 冷戦後ではなく、一九四五年九月二日から始めたいと思います」

そして快諾をえました。

書きたいものはいっぱいあります。しかし、結果としてどういう本になるか、まだわかりません。「やってみるぞ」というのが、とりかかる前の正直な気もちです。
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「蘇れ美しい日本」   第1200号

護国夢想日記

日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。


テーマ:

孫崎享  新著<戦後史の正体>の紹介 (3)連載 その1
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第一章 「終戦」から占領へ

――敗戦直後の一〇年は、吉田茂の「対米追随」路線と、

重光葵の「自主」路線が激しく対立した時代でした

日本は降伏したのです。たんなる終戦ではありません

日本はいつ、第二次大戦を終えたのでしょう。

 こう聞くとほとんどの人が、「一九四五年八月一五日に決まってるじゃないか。いまさら、なにをいってるんだ」

とおっしゃるかもしれません。たしかに八月一五日は終戦記念日とされています。

一九四五年八月一五日正午、昭和天皇(●図版と解説?)の肉声(玉音放送)が、はじめてNHKのラジオで流れました。その内容は、

「私は世界の大勢と大日本帝国の現状にてらして、非常の措置をもって時局を収拾したいと思う。忠実で善良な国民に告ぐ。私は帝国政府に対し、米国、英国、中国、ソ連の四カ国が提示した共同声明を受け入れることを通告させた」(口語訳)

というものでした。私たち日本人の多くは、

「八月一五日にポツダム宣言(▲用語解説)を受け入れることにした。だから戦争は終わったのだ」

と思っています。しかしよく考えてみると、一方が「やめた」といったからといって、戦争が終わるというものではありません。戦っている双方が、「戦争が終わった」と確認しあう必要があるのです。

 通常、戦争は戦闘行為を停止し、休戦条約を結び、講和条約(平和条約)の交渉をして調印をするという手順をふんで、はじめて終戦となります。


 昭和天皇が「時局を収拾したい」とか、「共同声明を受け入れることにした」とのべられたのは、そうした手順の一部にしかすぎません。


  ドイツは一九四五年五月七日、降伏文書に署名し終戦をむかえました。日本も一九四五年九月二日、東京湾に停泊していた米国戦艦ミズーリ号で降伏文書に署名しています。


  それでは日本と戦った米国、英国、中国、ソ連は、どの時点を日本との戦いの終わりとみているでしょうか。私は米国や英国の外交官に友人がたくさんいます。


  彼らに「日本と連合国の戦争がいつ終わったか」と聞くと、だれも八月一五日とはいいません。かならず九月二日という答えが返ってくるのです。

 米国のトルーマン大統領(●図版と解説A)は、九月二日の降伏調印式の直後、ラジオ放送を行ない、その日を「対日戦争勝利の日」と宣言しました。そして、

 「われわれは真珠湾攻撃の日を記憶するように、この日を『報復の日』として記憶するだろう。この日からわれわれは安全な日をむかえる」

 「日本の軍閥によって犯された罪悪は、けっして償われもせず、忘れられることもないだろう」

とのべています。

 ソ連のスターリン首相も九月二日について、

 「〔かつての日露戦争は〕わが国の歴史の汚点である。わが国民は日本が敗北してこの汚点が払拭される日が訪れることを確信かつ待望したが、いまや、その日が到来した」

とのべています。

 英国のチャーチル首相も同じく、

 「本日、日本は降伏した。最後の敵はついに屈服したのである」

 「平和はふたたび世界におとずれた。この大いなる救いと慈悲に対し、神に感謝を捧げようではないか」

とのべています。



 自分に都合のよい、しかしありえない分析をして、自分の望む政策を押しとおそうとする

これが開戦時と終戦時に共通した日本の軍部の態度でした



 「終戦」までの道のりは、かなり困難なものでした。すでに一九四五年四月、終戦工作を役目とする鈴木内閣(●図版と解説?)が誕生していたのですが、軍部を中心とする強硬派とのあいだに意見の対立があったのです。


 当時、外務省条約局の課長だった下田武三(ポツダム宣言の翻訳も担当しました)は、第二次大戦の最終局面を次のようにのべています。

 「八月六日に広島に原爆が投下され、八月八日にソ連が中立条約を破って対日参戦したため、八月九日に最高戦争指導会議が開かれた。

 会議は即時和平か徹底抗戦かをめぐって意見が対立し、そのなかで長崎に二回目の原爆が落とされた。

 即時停戦を主張する鈴木首相、東郷外相と、?天皇の地位を変更しない、?本土占領は小規模、短期間とする、?武装解除は自発的に行なう、?戦犯の処分は日本側が自発的に行なう、との四条件が容れられぬかぎり戦争を継続する軍部とのあいだで意見の対立があった。

 午後の二回にわたる閣議でも、阿南陸将は『死中に活を求める戦法に出れば、完敗を喫することなく、むしろ難局を好転させる公算もありうる』と主張してゆずらなかった。

 結局天皇陛下のご聖断をあおぎ、ポツダム宣言を受諾することが決まった」(『下田武三 戦後日本外交の証言』行政問題研究所)

 では昭和天皇は、このときどのようにして阿南陸軍大臣以下の戦争継続派を説得したのでしょう。天皇の論理は次のようなものでした。

「そこで私は戦争の継続は不可と思う。

 参謀総長から聞いたことだが、犬吠岬と九十九里浜海岸との防備はまだできていないという。また陸軍大臣の話によると、関東地方の決戦師団には九月に入らぬと、武器が完備するように物が渡らぬという。

 このような状況でどうして帝都を守れるか。どうして戦争ができるのか.私には了解できない。私は外務大臣の案(ポツダム宣言受諾)に賛成するといった」(寺崎英成『昭和天皇独白録』文藝春秋)



 いまから思えば「死中に活を求める戦法」などありえません。日本には戦う武器がない。もし戦争をつづけていたら、第三、第四の原爆投下が起こっていたでしょう。

さらに軍部は、

!) 天皇の地位を変更しない

!) 本土占領は小規模、短期間とする

!) 武装解除は自発的に行なう

!) 戦犯の処分は日本側が自発的に行なう

の四つの条件が認められないかぎり、戦争を継続すると主張していました。では米国はこの四条件を受け入れる可能性があったでしょうか。

絶対にありません。

トルーマン大統領は日本側と停戦条件を協議するつもりはまったくありませんでした。

彼は『トルーマン回顧録』(恒文社)のなかで、

「最終目的が条件降伏という交渉で達成できるなら、戦争の必要はない」

 とのべています。戦争を開始した以上、「無条件降伏しかない」というのがトルーマン大統領の方針でした。天皇の地位についても、占領の規模や期間についても、戦犯の処分についても、もちろん協議などせずに米国が決めるつもりです。


 どう考えても日本の軍部が考える条件は達成できません。軍部は明確に負けることがわかっている戦争で、どこまで犠牲をだせば降伏するつもりだったのでしょう。

 こうした情勢判断の甘さは、日本が第二次大戦に突入する時点でも同じでした。米国の意図を客観的に把握できていないのです。

 みなさんよくご存じのように、日本の第二次大戦への突入は、真珠湾への奇襲攻撃からはじまります。ではこの攻撃に対し、連合国側は驚いたでしょうか。

まったく驚いていません。

英国のチャーチル首相は『第二次大戦回顧録』で次のように書いています。

 「真珠湾攻撃によって、われわれは戦争に勝ったのだ。〔これによって米国が参戦し〕イングランドは生きるだろう。ヒットラーの運命は決まった。日本人にいたっては微塵に砕かれるであろう。

 米国は巨大なボイラーのようなもので、その下に火がたかれると、作りだす力にはかぎりがない。満身これ感激と興奮という状況で私は床につき、救われて感謝に満ちたものだった」

つまりチャーチルは、

 「日本が真珠湾攻撃をしたから、米国は参戦するはずだ。したがって英国は救われるだろう」

 と判断しているのです。実はチャーチルやルーズベルトは、日本が真珠湾攻撃を仕かけるよう誘導していったのですが、ここではその説明は省きます。


 関心がある方は私の『日本外交―現場からの証言』(中央公論社)を読んでください(この本は第二回山本七平賞を受賞しましたが、現在は絶版になっています)。

 では、日本側が第二次大戦に踏みきるとき、どういう判断で戦争に踏みきっているでしょうか。チャーチルのように、「米国は巨大なボイラーのようなもので、その下に火がたかれると、作りだす力にはかぎりがない。日本は微塵に砕かれるであろう」という状況認識をしているでしょうか。

 まったくしていません。米国と戦うにあたって日本が立てていた「戦略」は、

 「ドイツ、イタリアと提携して、まず英国を降伏させ、米国の戦争継続の意志を失わせるようにする(傍点▲)」

 「対米宣伝と謀略を強化する。(略)米国世論に厭戦気分を誘発するようにする(傍点▲)」(大本営政府連絡会議決定、昭和一六年一一月一三日)

となっています。これが戦争直前の日本の公式の立場です。

 チャーチルがチェスの名手のように何手も先を読んでいるのに対し、日本はただ「願望」を書いています。自分に都合のよい、しかしありえない状況を想定し、それを根拠に圧倒的に強大な敵との戦争を開始したのです。

 このように日本の軍部は、開戦時に甘い見通しを立てて苦い経験をしていながら、敗戦時もまた、自分に都合のいいように情勢を判断していたのです。それで苦しむのは国民のほうですから、まったくたまったものではありません。

 そしていよいよ戦況がどうしようもなくなると、最後は「玉砕する」「自害する」。それが責任のとり方でした。阿南陸将は八月一五日、陸相官邸で自刃します。「一死をもって大罪を謝し奉る」が遺書の文句です。しかし申し訳ないが、「一死」では「大罪」をつぐなえないのです。



九月二日、日本は降伏文書に署名しました

みなさんは、この降伏文書を読んだことがありますか

「蘇れ美しい日本」1201号

護国夢想日記

日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。


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孫崎享  新著<戦後史の正体>の紹介 (3)連載 その2




九月二日、日本は降伏文書に署名しました

みなさんは、この降伏文書を読んだことがありますか



 さて、日本が終戦記念日を八月一五日とし、九月二日としていないことに、なにか意味があるのでしょうか。

 あります。それは九月二日を記念日にした場合、けっして「終戦」記念日とはならないからです。あきらかに「降伏」した日なわけですから。そう、日本は八月一五日を戦争の終わりと位置づけることで、「降伏」というきびしい現実から目をそらしつづけているのです。

「日本は負けた。無条件降伏した」

 本当はここから新しい日本をはじめるべきだったのです。しかし「降伏」ではなく「終戦」という言葉を使うことで、戦争に負けた日本のきびしい状況について、目をつぶりつづけてきた。それが日本の戦後だったといえるでしょう。

 先日、防衛大学校時代の教え子が私の家に遊びにきました。大変優秀な生徒です。自衛隊の部隊に配属されてからも順調に昇進しています。将来、制服組の幹部になりうる人材だと思います。その彼に、「君は降伏文書(▲用語解説)を読んだことあるか」と聞くと、「ありません」という返事でした。

 日本が行なった最後の戦争が、どのように終わったかを自衛官が学んでない。

 防衛大学校や幹部学校ではもちろん戦史を教えています。しかし降伏という一番きびしい現実にはふれないで戦史を教えている。これにはびっくりしました。

 スポーツでも会社経営でも、普通は敗因から学ぶ。悔しさをバネにしてがんばる。そういうきびしさが、おそらく自衛隊には組織として継承されていないのではないでしょうか。

 もっとも優秀な自衛官でさえ、降伏文書を読んだことがないのですから、普通の日本人で降伏文書に目をとおした人はほとんどいないでしょう。

 ではその降伏文書には、いったいなにが書いてあるのでしょうか。



 日本政府は「連合国最高司令官からの要求にすべてしたがう」こと

これが降伏文書の中身でした



 降伏文書には、

 「日本のすべての官庁および軍は降伏を実施するため、連合国最高司令官の出す布告、命令、指示を守る」

 「日本はポツダム宣言実施のため、連合国最高司令官に要求されたすべての命令を出し、行動をとることを約束する」

と記されています。日本政府は「連合国最高司令官からの要求にすべてしたがう」ことを約束したのです。

 第二次大戦後も日本には天皇や政府が存続しています。首相もいます。しかし天皇や首相がみずから国の方針を考え、政策を出していたわけではないのです。


 天皇と日本国政府の上に占領軍(GHQ▲用語解説)がいて、そのトップにはみなさんもよくご存じの連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー(●図版と解説?)がいました。第二次大戦後、日本は米国に完全に従属する形で新しいスタートを切ったのです。

 そうした占領期に、日本の首相として活躍したのが吉田茂です。彼の業績についてはさまざまな評価がされています。しかし吉田首相の役割は、「米国からの要求にすべてしたがう」ことにありました。


 ですから占領期に関して、吉田茂の政策が「素晴らしかった」とか「問題があった」という議論は、あまり意味がありません。吉田首相は政策を決める立場にはなかったからです。決めるのは連合国最高司令官マッカーサーでした。

 一九四五年九月二日、東京湾に停泊していた米国戦艦ミズーリ号で降伏文書への調印式が行なわれました。ミズーリ号を調印の場にするというのは、トルーマン大統領自身が決めていた計画です。いったいなぜか。答えは、

 「日本の首都から見えるところで、日本人に敗北の印象を印象づけるために、(略)米艦隊のなかでもっとも強力な軍艦の上で行なう」(『トルーマン回顧録』)

 というのが、戦艦ミズーリ号が選ばれた理由でした。このとき日本政府は、鈴木貫太郎内閣が八月一七日に総辞職したことをうけ、東久邇宮 稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう)(●図版と解説?)を首相とする史上唯一の皇族内閣が誕生していました。


 関係者は、みな調印式で屈辱的な降伏文書に署名しなければならないことを知っています。ですからできればその役割を担いたくない。みな、逃げます。梅津美治郎参謀総長は「降伏文書に署名するくらいなら自決する」とまでいったそうです。

 しかし結局、当時外務大臣だった重光葵(まもる)(●図版と解説?-2)と梅津参謀総長が全権代表になり、調印することになりました。このとき随員として参加した加瀬俊一(としかず)(開戦時の外相秘書官兼北米担当課長)は、出発の際、母親から「降伏の団に加わるように育てたつもりはない」といわれたそうです。

この調印式について、重光外務大臣は次のような句をのこしています。



神国の 栄え行くなる一里塚 ならぬ堪忍する日の来りぬ

願わくば、御国の末の栄え行き 我名さげすむ人の多きを

 

 重光にしてみれば、他の人たちと同じく、降伏という屈辱的な任務にはつきたくない。「連合国最高司令官に要求されるいっさいの命令を出し、行動をとることを約束する」なんていう文章に署名したくはない。屈辱そのものだからです。それがひとつ目の句の「ならぬ堪忍」の意味です。

ふたつ目の句の意味は、

 「降伏文書に署名することで、自分を軽蔑する人が数多く出るだろう。しかし、将来日本が栄えるための捨て石が必要なら、あえて自分がその捨て石になろうではないか」

というものです。

 日本は一九四五年九月二日降伏しました。「米国のいうことにはなんでもしたがいます」というのが条件です。それが、一九四五年九月二日から一九五一年九月八日(日本時間九日)のサンフランシスコ講和条約までの日本の姿なのです。

 事実、一九四五年九月二日、日本は降伏文書に署名した直後、降伏とはなにを意味するかというきびしい現実を思い知らされることになります。



「日本を米軍の軍事管理のもとにおき、公用語を英語とする」

「米軍に対する違反は軍事裁判で処分する」

「通貨を米軍の軍票とする」というのが、最初の布告案でした

 

 一九四五年九月二日午前九時、降伏文書の署名式が始まり、九時二〇分、マッカーサー元帥は調印式の終了を告げました。

 米軍の司令部はこの時点でまだ横浜に置かれています。当初日本政府は、できれば米軍を東京に入れたくない、横浜ですべての交渉をしたいと思っていました。まだ占領の怖さを甘くみていたのです。外務官僚の鈴木九萬(ただかつ)が公使となり、米軍との折衝にあたっていました。

 同じ九月二日の午後四時、参謀次長マーシャル少将が鈴木公使に自分のところに来るよう求めます。ここでマーシャル少将はおどろくべき命令を鈴木公使にのべたのです。

 「実は明朝一〇時に三カ条の布告〔=三布告〕を交付する予定だ。非公式に文書を事前にわたすので、公表の手つづきを至急とるように」

この三布告には、すごい内容が書いてありました。



布告第一:日本全域の住民は、連合国最高司令官の軍事管理のもとにおく。行政、立法、司法のいっさいの機能は最高司令官の権力のもとに行使される。英語を公用語とする。

布告第二:米側に対する違反は米国の軍事裁判で処罰する。

布告第三:米国軍票を法定通貨とする。



 お金は米軍が印刷した紙幣(軍票)、裁判権の米軍、公用語は英語ですから、ほとんど軍事植民地です。マーシャル少将は鈴木公使に「米国は三億円に相当する軍票B円を各部隊に配付してある」といって、十銭から百円までの七種?の見本を示しました。


 米国製の紙幣を翌日から使う準備を整えていたのです。(鈴木九萬監修『日本外交史26 終戦から講和まで』鹿島研究所出版会)

この情報はただちに横浜から東京に伝えられました。

 日本全国の住民を「連合国最高司令官の軍事管理のもとにおく」ということですから、軍による直接支配(直接軍政)そのものです。


 日本政府はもちろん強いショックをうけます。緊急の閣議が夜遅く開かれました。結局、終戦連絡事務局(▲用語解説)の岡崎勝男長官が交渉のため、横浜に送られることになります。

このときの模様を岡崎自身が本のなかに書いています。

 「東久邇宮〔首相〕から『岡崎、ご苦労だけれども、すぐ行ってもらいたい』というツルのひと声で、はなはだ自信はなかったけれども、横浜に行かざるをえなくなった。司令部のある横浜税関についたのは一二時もかなりすぎた深夜であった。(略)

 それでサザーランド参謀総長に会おうと宿舎のニューグランドホテルに出かけた。宿帳で調べると三百十何号室に参謀長がいるらしい。寝室の蚊帳のなかにひとり寝ている。これが参謀長にちがいないと思い、寝室に入ってその人を起こした。


 眠そうな様子をしているのを無理に引っ張りだして、応接間につれてきて話をはじめると、その男が『おまえはだれに話しているのだ』という。

 よくみると参謀長ではない。まったく別の人間だった。その男は眠いせいもあってえらく怒った。『日本人のくせに、こんな真夜中に起こして、ピストルで撃たれても仕方がない』とおどかされた。


 だがいろいろ事情を話すとそこはアメリカ人で、今度は人の迷惑もかまわずいたるところに電話をかけ、結局マーシャル少将がつかまった。そしてマーシャル少将は布告の時間を延期することを約束してくれた。

 東京に戻ったのは午前五時である。重光さんは寝ないで私の帰りを待っていてくれた」(霞関会『劇的外交』成甲書房)



折衝の もし成らざれば死するとも われ帰らじと誓いて出でぬ



 報告を聞いた重光は、せっかくマーシャル少将が延期してくれるといっても、マッカーサーが「やっぱりすぐに布告を出せ」といったら元も子もないから、「これからふたりでもう一度横浜に行って、マッカーサーに直接交渉してみよう」と岡崎にいいます。


 この時点でマッカーサーは、天皇、首相、両院議長以外には絶対会わないという方針を立てていたのですが、重光は日本の閣僚として初めて、マッカーサーと会見することに成功します。

 「九月三日午前八時ごろ、横浜税関に到着して、マッカーサーを待ちぶせすることになった。このときマッカーサー元帥は非常に機嫌がよくて、重光さんの話をじっと聞き入って、ややしばらく考えたうえ、『日本側のいうことはよくわかった。この布告は自分の権限で全部とりやめることにする』とはっきりいってくれた」(同前)

 重光はこのとき、どのような言葉でマッカーサーを説得したか。著書『昭和の動乱』(中央公論社)のなかに次のように書いています。(口語訳で紹介します)

 「ポツダム宣言は、あきらかに日本政府の存在を前提としており、日本政府の代わりに米軍が軍政をしくというようなことを想定していません。(略)

 もしポツダム宣言を誠実に実行しようとするなら、日本政府によって占領政策を行なうことが賢明だと考えます。


 もしそうでなく、占領軍が軍政をしいて直接に行政を行なおうとするなら、それはポツダム宣言には書かれていないことを行なうことになり、混乱を引き起こす可能性があります」

 重光はまず、今回計画された三布告は、日本と連合国が合意したポツダム宣言とは異なっているという原則論をのべています。


 そのうえで、もしも条文にはない措置をとるなら、それは混乱を引き起こす可能性があるとして、三布告を撤回することが結局は米国の利益になると説いています。素晴らしい交渉能力です。

 ただ、重光もこの交渉に成算ありと思ってのぞんでいるわけではありません。重光がこのときの気持ちを託してよんだ歌を『続 重光葵手記』(続 重光葵手記)に書いています。



 折衝の もし成らざれば死するとも われ帰らじと誓いて出でぬ



 もし、この三布告を撤回させることができなければ、「死んでも帰らないぞ」という決死の覚悟でのぞんでいたわけです。

 しかし、この交渉はけっしてやさしい交渉ではありませんでした。というのも日本占領の最高責任者であるトルーマン大統領は、次のように考えていたからです。

 「占領を、その条項の駆け引きから始めるわけにいかない。われわれは勝利者であり、日本は敗北者である。彼らは、無条件降伏は交渉をするものではないことを知らねばならない」(『トルーマン回顧録』)

 つまり「米国の指令は絶対である。交渉の余地はまったくない」ということです。

 さらに重光は、わずか一〇数時間前に彼自身が、「日本政府はポツダム宣言の誠実な実行のため、連合国最高司令官からの要求にすべてしたがう」という降伏文書に調印しているのです。そう約束した本人が、米国が計画した三布告を撤回させようとしているのです。

 このとき重光に「米国に追随すればよい」という気もちはまったくありません。自分が正しいと思うことだけを堂々と主張しています。「死んでも帰らない」という思いを胸に抱いているのです。

 彼は昭和のはじめ、中国との停戦交渉を行なっている時期に、上海での天長節式典でテロに会い、右足を切断しています。そういう人ですから、この交渉には大変な気迫がこもっていたと思います。

 それは岡崎勝男についても同じです。彼は夜中の一二時すぎに米軍の高官の部屋に忍びこんで寝ている人間を起こしています。敗戦国の人間が占領軍高官の部屋に忍びこんだのですから、たしかに射殺されてもおかしくなかったでしょう。



 しょせん日本民族とは、自分の信念をもたず、強者に追随して自己保身をはかろうとする

三等、四等民族なのか 

「蘇れ美しい日本」  第1201号  続く



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孫崎享  新著<戦後史の正体>の紹介 (3)連載  その3


しょせん日本民族とは、自分の信念をもたず、強者に追随して自己保身をはかろうとする

三等、四等民族なのか 



 九月二日の降伏文書への署名のあと、米国はすぐに日本側との接触を開始します。マッカーサーの副官マッシバー大佐が、交渉の窓口である鈴木公使の相手として、連絡役に指名されました。

 このとき、米国はなにを一番重要と思っていたでしょうか。それは戦争犯罪人の処理でした。鈴木公使がマッシバーに会うと、米国は戦犯の問題を日本の予想以上に重視し、いそいで手をつけようとしていることがわかります。

九月一〇日、マッシバー大佐は鈴木公使に次のように打ちあけます。

「戦犯については、戦争の計画、準備、開始および遂行の責任者、ならびに戦争法規違反の現地責任者および直接下手人がふくまれる」

 日本側としても、「戦争法規に違反した現地責任者や実行者」が罪に問われることは予想していたと思います。しかし、「戦争の計画、準備、開始および遂行の責任者」となると、戦前の閣僚はみな対象になる可能性が出てきます。

 さあ、大変です。戦犯になれば銃殺される可能性すらあるのです。

 その結果、多くの人がなんとか戦犯になるのを逃れようと、米軍と接触しはじめます。「自分は罪がない」という人もいれば、「罪があるのは別の人間だ」といって罪を逃れようとする人も出てきます。


敗戦時に外務大臣だった重光には、この時期の日本人が占領軍にどのようにすりよっていったかがよく見えました。『続 重光葵手記』には次のように書かれています。(口語訳で紹介します)

「戦争犯罪人の逮捕問題が発生してから、政界、財界などの旧勢力の不安や動揺は極限に達し、とくに閣内にいた東久邇宮首相や近衛大臣などは、あらゆる方面に手をつくして、責任を免れようと焦り、いらだつようになった」

「最上級の幹部たちが、ひんぱんにマッカーサーのもとを訪れるようになり、みな自分の立場の安全をはかろうとしている」

「最近の朝日新聞をはじめとする各新聞のこびへつらいぶりは、本当に嘆かわしいことだ」

「どれも理性を喪失した占領軍に対するこびへつらいであり、口にするのもはばかられるほどだ」

「幣原新内閣は昭和二〇年一〇月九日成立した。その計画は吉田外務大臣が行なった。吉田外務大臣は、いちいちマッカーサー総司令部の意向を確かめ、人選を行なった。残念なことに、日本の政府はついに傀儡政権となってしまった」

 最後の組閣に関する記述はとくに重大です。重光は、東久邇宮内閣の総辞職を受けて成立した●幣原新内閣(●図版と解説?)の人選は、自分の次に外務大臣のポストについた吉田茂が「いちいちマッカーサー総司令部の意向を確かめて」行なった。その結果、「残念なことに、日本の政府はついに傀儡政権となってしまった」といっているのです。

この重光の評価は正しいのでしょうか。それとも自分が外務大臣の職を追われたあと、その座についた吉田への反感にすぎないのでしょうか。

当時の新聞を見てみましょう。一九四五年一〇月七日、読売新聞は、重光の見解と同じ内容の記事を書いています。

「後継内閣の首班としては端的にいって、『アメリカをよく理解し、進んでアメリカの対日政策にしたがって行こうとする熱意ある人』という要請が大きく浮かび上がったのである。

〔首相の人選は〕木戸内府、近衛公、吉田外相を中心に進められた。

吉田外相がマッカーサー司令部にサザーランド参謀長を訪問するなど、米軍司令部の内意が確かめられていた」

 このように対米従属路線が露骨に出ています。「進んで米国の対日政策にしたがって行こうとする熱意ある人」が首相の条件です。そして吉田茂が米側との窓口になっています。

 吉田茂がこうして米側にすり寄っていたのは占領初期だけではありません。その後の首相在任期間を通じて一貫した行動です。

その吉田がとくに頼りにしていた人物に、マッカーサーの情報参謀であるウィロビーがいました。

ウィロビーは著書『知られざる日本占領 ウィロビー回顧録』(番町書房)のなかで、吉田とどのような形で接触していたかを、犬丸徹三・帝国ホテル社長の談話を引用する形で書いています。自分の本のなかで、自分の行動を第三者の引用で書いているのです。おそらく機密漏洩になるのを避けるためでしょう。

「ウィロビーはたいへんな吉田びいきだったねえ。

帝国ホテルのウィロビーの部屋へ、吉田さんは裏庭から忍ぶようにしてやって来たりしたよ。裏階段を登ってくる吉田さんとバッタリということが何度もあったな。(略)

あのころは、みんな政治家は米大使館(マッカーサーの宿舎)には行かず、ウィロビーのところで総理大臣になったり、あそこで組閣したりだった」

 では吉田首相がひと目をはばかって会いに行っていたウィロビーとは、どういう人物だったのでしょうか。

ウィロビーはGHQ(連合国総司令部)では参謀第2部(G2)の部長として諜報・保安・検閲を担当しました。日本の政治改革を担当した民政局(GS:ガヴァメント・セクションのことです)の局長ホイットニー、次長ケーディスと共に、占領政策を牛耳った人物です。

諜報担当というのは、つまり非合法手段の担当ということです。

終戦時の参謀次長であった河辺虎四郎が、戦後このウィロビーのもとで働きます。また生物化学兵器の研究を行なっていた七三一部隊は、戦争犯罪に問わないことを条件に米国側への情報提供を行なったといわれていますが、そこにはウィロビーの関与があったとされています。またウィロビーは引退後、スペインに渡り独裁者フランコの顧問になっています。

つまり、彼は徹底した裏工作のエキスパートなのです。そのウィロビーのもとに首相が裏庭からこっそり通ってきて、組閣をした。ときには次期首相の人選までした。それが占領期の日本の本当の姿なのです。


一般にイメージされている吉田首相の傲慢で人をくったような、占領軍とも対等にわたりあったという姿は、神話にすぎません。もう戦後七〇年近くたつのですから、そろそろ私たちはこうした真実にきちんと向きあわなければなりません。


そして占領期だけでなく、占領終結後もそうした構造が温存されたのではないかという当然の疑惑にも、向き合う必要があるのです。なにしろ占領が終わってから三年近く、この同じ吉田首相が政権の座にあって組閣をしていたわけですから。

 もちろん、このころ米国にすりよったのは、軍人や政治家や官僚だけではありませんでした。重光が「朝日新聞をはじめとする各新聞のこびへつらいぶりは、本当に嘆かわしいことだ」とのべているように、報道機関を含め、オールジャパンで米国にすりよっていたのです。

さらに重光は「天皇陛下も、責任がないということをご自分で語られることはすべきではない」と天皇陛下周辺の動きも批判しています。



内務省警備局長は、米軍用に慰安施設まで作ったのです



 重光は「占領軍に対するこびへつらい」を激しく批判しました。それは政治の世界だけではないのです。次の半藤一利著『昭和史』(平凡社)の記述には驚かされました。

「進駐軍にサービスするための『特殊慰安施設』が作られ、すぐ『慰安婦募集』がされました。いいですか、終戦の三日目ですよ」

「内務省の橋本警備局長が一八日、各府県の長官〔県知事〕に占領軍のためのサービスガールを集めたいと指令をあたえました」

「池田さん〔当時大蔵官僚でのちに首相になる池田勇人〕の『いくら必要か』という質問に野本さん(特殊慰安施設協会副理事長)が『一億円ぐらい』と答えると、池田さんは『一億円で純潔が守られるのなら安い』といわれた」

「慰安施設は二七日には大森で開業し、一三六〇名の慰安婦がそろっていたと記録に残っています」

  内務省の警備局長といえば、治安分野の最高責任者です。その人が売春の先頭にたっている。しかも駐留軍兵士のために。

  歴史上、敗戦国は多々あります。占領軍のための慰安婦が町に出没することはある。慰安施設が作られることもあります。しかし、警備局長やのちの首相という国家の中核をなす人間が、率先して占領軍のために慰安施設を作る国という国があったでしょうか。



こうした状況について、重光は次のように書いています。(口語訳で紹介します)

「結局、日本民族とは、自分の信念をもたず、強者に追随して自己保身をはかろうとする三等、四等民族に堕落してしまったのではないか」(『続 重光葵日記』)

「節操もなく、自主性もない日本民族は、過去においても中国文明や欧米文化の洗礼を受け、漂流していた。そうして今日においては敵国からの指導に甘んじるだけでなく、これに追随して歓迎し、マッカーサーをまるで神様のようにあつかっている。その態度は皇室から庶民にいたるまで同じだ」(同前)

「はたして日本民族は、自分の信念をもたず、支配的な勢力や風潮に迎合して自己保身をはかろうとする性質をもち、自主独立の気概もなく、強い者にただ追随していくだけの浮草のような民族なのだろうか。いや、そんなことは信じられない。

いかに気もちが変化しても先が見通せなくても、結局は日本民族三千年の歴史と伝統が物をいうはずだ。かならず日本人本来の自尊心が出てくると思う」(同前)

重光はここで、いつかかならず日本人本来の「自尊心」が出てくると思うと期待しています。

では、日本はいま、そうした本来の自尊心をとりもどした時代に入ったでしょうか。残念ながら、入っていません。逆に終戦直後には、まだ重光のような人物がわずかながら日本の社会に存在していました。


今日、日本の政治家で重光のような矜持をもつ人はいるでしょうか。おそらくいないでしょう。事態は終戦直後よりも、はるかに悪くなっているのです
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≪あとがき
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。最後は駆け足になりましたが、私が外交の現場で体験した事実をもとに、日本の戦後七〇年間をふり返ってみました。「高校生にも読めるように」との依頼でしたので、できるだけわかりやすく書いたつもりですが、内容に関してはいっさい手加減せず、自分のもっている知識をすべてつめこんだつもりです。
 よく歴史とは、国家や社会、人間についての実験室のようなものだといわれます。私たちは人間の関わる分野について、ビーカーやフラスコを振って実験することはできません。その代わりに歴史の世界に入りこみ、さまざまな試行錯誤を体験する。そのことで今日の課題を知り、明日にそなえることができるのです。
 私自身、四〇年近くを外交官としてすごしましたが、本当の外交をしようと思ったら、必ず歴史を勉強する必要が出てきます。相手国とのあいだに横たわる問題を共同で解決し、友好関係を維持する。または敵対関係のなかでなんとか妥協点を見いだし、最悪の事態を回避する。どちらの場合も、本当に必要なものは情報です。そのなかでもいちばん基礎となる本質的な情報をあたえてくれるのが、歴史の研究なのです。
  『戦後史の正体』を書いたことで、私が確認できた重要なポイントは次の三点です。
①米国の対日政策は、あくまでも米国の利益のためにあります。日本の利益とつねに一致しているわけではありません。 ②米国の対日政策は、米国の環境の変化によって大きく変わります。
 代表的なのは占領時代です。当初、米国は日本を二度と戦争のできない国にすることを目的に、きわめて懲罰的な政策をとっていました。しかし冷戦が起こると、日本を共産主義に対する防波堤にすることを考え、優遇し始めます。このとき対日政策は一八〇度変化しました。 そして多くの日本人は気づいていませんが、米国の対日政策はいまから二〇年前、ふたたび一八〇度変化したのです。
③米国は自分の利益にもとづいて日本にさまざまな要求をします。それに立ち向かうのは大変なことです。しかし冷戦期のように、とにかく米国のいうことを聞いていれば大丈夫だという時代はすでに二〇年前に終わっています。どんなに困難でも、日本のゆずれない国益については主張し、米国の理解を得る必要があります。
 もうひとつ、今回、日本の戦後史を勉強し直して、うれしい発見がありました。私が思ったよりもはるかに多く、米国に対して堂々と物をいった首相たち、政治家たち、官僚たちがいたことです。これはうれしい驚きでした。ただそうした首相や政治家たちは、数は多いのですが、在任期間が短く、学者からもマスコミからも大きくとりあげられることがないのです。
 ここで戦後の首相たちを「自主」と「対米追随」という観点から分類してみたいと思います。……≫(著者:孫崎亨『戦後史の正体』の“あとがき”抜粋)