第1部第2章1の1、解放50年式典が分裂した背景

 (最新見直し2012.04.14日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「第1部第2、解放50年式典が分裂した背景」を転載しておく。

 2012.04.13日 れんだいこ拝



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『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
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第1部:解放50年式典が分裂した背景
第二章:「動機」「凶器」「現場」の説明は矛盾だらけ
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『週ポ』Bashing反撃)

「強制収容所」にはなぜ「死亡率低下」が要求されたのか

「ホロコースト」物語は、いうまでもなく第二次世界大戦中に語られはじめた
「火のないところに煙は立たない」という日本のことわざがあるが、「ホロコースト」にはいくつかの火元の事実があった。すくなくとも、ナチ党がゲルマン民族優秀説に立ち、ユダヤ人敵視政策をとっていたのは、文書にも明記された公然の事実だった。ユダヤ人にたいする暴行の数々も事実だった。「強制収容所」におくりこんだのも事実だった。ここまでの事実は外国にもかなりくわしくつたわっていた。それらの事実にくわえて、さまざまな噂がながれていた。
「ホロコースト」物語の舞台は「強制収容所」であるから、まずこの全体像から吟味をはじめよう。
 本書では「ことだまのさきはうくにニッポン」の習慣どおりの意訳で「強制収容所」、または省略してたんに「収容所」としるすが、ドイツ語の「コンツェントラチオンスラーゲル」の原意はたんに「集中宿舎」である。手元の独和辞典のこの項の日本語は意訳で「政治犯人(捕虜)収容所、(ナチスの)強制収容所」となっているが、英語では原意どおりに「コンセントレーション・キャンプ」、つまり「集中キャンプ」と訳している。本書の執筆中には、キューバからアメリカをめざす難民を、アメリカがキューバから借りたままのグアンタナモ基地に収容するという、クリントン政権の方針が発表された。米軍放送を聞いていると、これも「コンセントレーション・キャンプ」だった。キューバの難民は自由意思で出国しているわけだから、これを「強制収容所」と訳すのは無理だろう。
 ちょっと考えるだけですぐわかることだが、ナチス・ドイツ自身がみずから「強制収容所」という表現をするはずはないのだ。わたしには「強制収容」を否定する気がないし、「ネオナチかぶれ」と一緒にされても困るから、この件ではやむなく習慣にしたがって、「強制収容所」ともしるす。だが、当のナチス・ドイツの意図を正確に理解するためには、原意をも確認しておくべきだと思う。
 では、ナチス・ドイツにおける「集中宿舎」または「強制収容所」の主目的はいったい何だったのだろうか。ユダヤ人排撃とか、ゲルマン民族浄化とかの、政権維持のための国内的政策面の目的については、どこからも異論はでないだろう。そのさきの主目的の解釈をめぐって、物語のながれがちがってくる。
 わたしの解釈では「強制収容所」はまず第一に、日本式の「タコ部屋」と同質のものである。
 日本は当時、朝鮮や満州、中国大陸から東南アジア、オセアニア一帯にかけて、「ロームシャ」(労務者)の強制労働による生産力増強をはかった。ドイツは当時、日本とおなじような国家総動員体制で世界戦争をたたかっていたが、第一次大戦でまけたために旧植民地をうしなっていた。それらの旧植民地の中には、日本がもっぱらその目的のために便乗して参戦し、ドイツからうばった青島(チンタオ)やオセアニアの島々もふくまれていた。つまりドイツには開戦当時、日本が活用していたような人的資源の供給地がなかった。それにかわるものが、政治犯や数百万人のユダヤ人、捕虜、あらたな征服地の住民だった。事実、アウシュヴィッツは巨大な軍需工場だったし、最初の収容者は現地のポーランド人だった。
 アウシュヴィッツの軍需工場としての性格については、『二〇世紀の大嘘』にくわしい分析がある。ドイツは、イギリスによる経済封鎖でくるしんだ第一次世界大戦の経験をふまえて、「経済自立国家」をめざしていた。経済的な自給自足のためにとくに独自確保が必要だったのは、合成石油と合成ゴムであった。石炭からつくる合成石油の技術は完成していたが、合成ゴムは開発途上だった。アウシュヴィッツの収容所群は、この両者の生産、開発への人的資源確保を中心課題としていた。
 写真(7:Web公開では省略)は、アウシュヴィッツ=ビルケナウ複合収容所の労働力で操業していたI・G・ファルベンの工場である。この写真はアウシュヴィッツ博物館にも展示してある。
 軍需工場の「労働力」としての面から見ると、ナチス・ドイツは総力をかたむけて収容者の増加に努力している。「歴史見直し研究所」発行のリーフレット、『アウシュヴィッツ・神話と事実』では当局記録にもとづいて、最高責任者だった親衛隊総司令官ヒムラーが何度もきびしく「死亡率低下」を命令した有様を要約紹介している。ホェスの「告白」はさまざまな矛盾にみちているが、この「絶滅説」と相反するヒムラーの命令をも各所でしるしている。
 日本の研究者でも大野英二がその実証的な労作、『ナチズムと「ユダヤ人問題」』の中で、「戦争経済の再編成のさなかで最も焦眉の問題となった労働政策」を「労働総監ザウケル」がいかに遂行したかを、克明にまとめている。「ヒトラーは婦人労働の動員に反対し続けた」などという記述もある。日本の女子中学生の勤労動員などと比較しながら読むと、なるほど、なるほどと実感がわいてくる。ただし、大野はまだ「絶滅説」に疑いをいだいていない。その部分の実証はよわいし、きわめて唐突になっている。
 第二の役割は、ユダヤ人の「東方移送」にむけての中継基地である。これも政治的に重要な役割だが、それはのちにのべる。

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『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
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第1部:解放50年式典が分裂した背景
第二章:「動機」「凶器」「現場」の説明は矛盾だらけ
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『週ポ』Bashing反撃)

「ヒトラーにたいする宣戦布告」を発表したユダヤ人国際組織

 第三は、これまでに語られることが、いちばんすくなかった要素であろう。
 アメリカの強制収容所問題については、日系アメリカ人だけが、おなじく枢軸国側だったドイツやイタリア系のアメリカ人と人種的に差別され、強制収容されたという側面がある。それは事実であり、アメリカ政府はそれをみとめて謝罪し、損害賠償に応じた。だがその一方で、日系人だけが差別待遇されても仕方ない状況を、かれらの出身国の日本がつくったという事実も確認しておく必要があるだろう。日本は、ドイツやイタリアが慎重にさけていたアメリカへの攻撃を、真珠湾基地のだまし撃ちという、もっともおろかな方法で犯してしまったのである。
 ユダヤ人の強制収容の場合には、ナチス・ドイツのユダヤ人排除政策に基本的な問題点がある。だが、強制収容以前にユダヤ人の側も、「世界ユダヤ人経済会議」とか「ユダヤ人中央委員会」とかの中間段階をへて「世界ユダヤ人評議会」を結成し、「ドイツ商品ボイコット」の運動を国際的に展開していた。
 しかも、その開始は、ヒトラーが政権についた直後の一九三三年のことである。旧帝国時代からのヒンデンブルグ大統領が存命で在職中だし、ヒトラーの足元はまだ固まっていない。だからこそ、この時とばかりに、「ドイツはこの冬に崩壊する」というアジテーションのもとに、「ドイツ商品ボイコット」運動がはじまったのである。その結果、一九三三年のドイツの輸出総額は一〇パーセント低下し、利益は前年の半分におちた。
 一九三三年三月二四日付けの『デイリー・エキスプレス』には、「世界のユダヤ人のヒトラーにたいする宣戦布告」が掲載されていた。
 ユダヤ人の指導者の目標は、このボイコット運動によってヒトラーを政権の座からひきおろすことにあった。しかし、ヒトラーは、この挑戦をのりこえてしまったのだ。結果として、両者とも宿敵の関係を強めることになった。
 このようにユダヤ人は当時、国際的にナチス・ドイツに対抗する同盟を結成して、あらゆる国のユダヤ人の仲間に共同のたたかいをよびかけていた。西欧のユダヤ人には、ユダヤ教という共通の基盤があり、国際的な連帯の伝統がある。この「国際的な連帯」の強さは、日本人と日系アメリカ人の関係の比ではない。しかも、妥協はありえなかった。
 だが、戦時の「敵国人」あつかいの「隔離」が、すなわち「絶滅」に直接つながらないことは、日系アメリカ人の場合も、ナチス・ドイツ支配下のユダヤ人の場合も、論理的には同様である。
 その一方、連合国側では、「強制収容所」の主目的は「集団的民族虐殺」にあるという解釈に立つ「反ナチ宣伝」がもっぱらおこなわれた。敵側のナチス・ドイツへの憎しみをかきたてて、味方の戦意を高揚させるための常套手段である。「虐殺」の方法については、「焼き殺している」から、つぎには「ガス・バーナーで焼き殺している」、さらには「ガス・オーヴン」という「焼却炉」または「火葬炉」の表現があらわれ、最後には「ガス室で殺されている」というように、いくつかのパターンがあったようである。
 だが、これらの宣伝の材料になったもとの情報の裏はとれていなかった。「未確認情報」であった。いわゆる「戦時宣伝」である。場合によっては「謀略宣伝」でもありうる。
 たとえば、湾岸戦争の最中にイギリスの雑誌『ニューステイツマン』(91・2・8)は、水鳥報道の直後にアメリカ軍の発表に疑問をなげかけ、「嘘、いまわしい嘘と軍事発表」と題する記事を特集した。
 その際、同誌は、「サダム・フセインの悪魔化」とおなじことを、イギリスの情報将校が第一次世界大戦中におこなったと指摘している。同誌によれば、「われわれ[イギリス人のこと]は、この種のことをほかの民族よりも上手にやるようだ」とのこと。典型的な例としてあげているのは、ドイツ人が死体から弾薬につかうグリセリンをとりだしているという、つくり話だった。偽造の「証拠写真」まであった。当時のマスメディアは一斉に、このつくり話を写真入りで報道した。ところが戦後になって、作者の情報将校自身がみずから、つくり話だった事実と同時に、偽造写真をわざわざ香港経由でながしたという経過まで告白した。イギリス政府も事実をみとめて謝罪したので、以後、意図的な「謀略宣伝」だったことが広くしられるようになった。
「ホロコースト」物語の場合にも、たんなる誤報ではなくて、最初から意識的な報道操作がおこなわれていたのである。ただし、その時点では、どこまでこのつくり話を語りつづけるのかまでは決まっていなかっただろう。まずはつくり話の火元になった材料の問題がある。

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「どくろマーク」がえがかれた「ガス室」物語に数々の矛盾

 第一次世界大戦でもドイツは敗戦国だった。だが戦後になって、「死体からグリセリンを取りだす工場」などは、どこからも発見されなかった。つくり話の作者が告白するまでもなく、それ以前の問題として、このつくり話を維持する材料、裁判用語でいえば「物的証拠」がまるで存在しなかったのだ。
 ところが、「ホロコースト」物語の場合には、戦争末期になって「物的証拠」が発見された。すくなくとも、そう報道され、そう信じられた。連合軍が解放したナチス・ドイツの強制収容所のなかにはまず、「おびただしい死体の山」があった。本書の「はしがき」ですでにしるしたように、おもな死因は「発疹チフス」だった。だが、連合軍の兵士も同行していた報道記者も、事前の宣伝どおりの「ガス室処刑」だと思って、そう報道してしまった。しかも、「毒物」の所在を示す「どくろマーク」がついた部屋(6:同前)があり、そこにもやはり、「どくろマーク」がついた「チクロンB」のカン(8,9:同前)が、大量にのこされていたのである。
「チクロンB」のカンには、主要成分が「青酸ガス」だと明記されている。「青酸ガス」の毒性は当時も広く知られていた。第一次世界大戦では、「青酸ガス」が化学兵器としてつかわれ、以後、「毒ガス」は残虐兵器として国際的に禁止されていた。「青酸ガス」の一般的イメージは「殺人」に直結していた。だから、「チクロンB」こそが問題の「毒ガス」だと思われたのは、むしろ自然の成行きだったのかもしれない。それまでは「戦時宣伝」として「毒ガス」とか「ガス室」という言葉だけが先行していたのだが、その実物が、ついに発見されたと信じられたのだ。
 つぎに必要なのは、この「毒ガス」をユダヤ人に吸わせて殺す場所、すなわち「ガス室」だった。「どくろマーク」がついた部屋は、なぜか非常にせまかった。何人もはいれない。目標「一千一〇〇万人」、実績「六〇〇万人」と称される計画的な大量民族虐殺の現場としては、いかにも不適当だった。そこで、やはり強制収容所のなかにあった「シャワールーム」こそが、大量虐殺のための「ガス室」だということになった。
 ナチス・ドイツ、またはヒトラーが、たくみにユダヤ人をだまして、大量虐殺の現場に連れこんだのだという説明が組み立てられた。シャワーを浴びさせると称して安心させ、「シャワールーム」に偽装した「ガス室」に閉じこめてから一斉に殺したというのだ。これは実に悪魔的な大量虐殺手段である。いかにもヒトラー総統とその親衛隊にふさわしい物語だ。しかも、それを「立証」する「証言」や「告白」までが、つぎつぎにえられた。
 だが、いかにもつじつまが合っているかに見えるこの状況説明には、基本的な矛盾があった。
 だからこそ、戦後に調査が進んだ西側では、「ガス室はなかった」というのが「事実上の定説」(のちにくわしく説明)になったのである。
「チクロンB」はたしかに「青酸ガス」を発生するが、殺人用に開発された「毒ガス」ではなくて、食料倉庫などの消毒を目的に開発された「殺虫剤」だった。ドイツの軍隊でも、これを兵舎の消毒用につかっていた。
 ただし、これまでの「ホロコースト」物語には、前段階がひとつある。絶滅説によると、最初は一酸化炭素を発生する「戦車やトラックの排気」ガスによる「殺害」が「東部で実行されていた」(『遺録』)ということになっている。しかし、それでは効率が悪いので殺虫剤の「チクロンB」を転用することになったというのだが、いろいろな点で矛盾が多い説明なのだ。
「トラックのエンジンの排気」ガスによる虐殺の物語は、映画『ショア』にもふんだんにででくる。昔の8ミリフィルムを拡大したようなモノクロ画面に登場する元親衛隊員の「告白」によると、トレブリンカ収容所では「チクロンB」ではなくて「モーターの排気ガス」をつかっていたというのだ。
「排気ガス」の致死性の成分は、家庭の風呂場の不燃焼事故などでもおなじみの「一酸化炭素」である。この「排気ガス」物語の特徴は、問題のモーターが「ソ連の戦車、トラック」のディーゼル・エンジンだったとする点にある。わたしはベトナムの町中でソ連製トラックに遭遇したが、なんと、昔の蒸気機関車のように煙突からモウモウと焦げ茶色の煙を上げながら走っていた。風がほとんど吹かない土地柄なので、煙は舞いおりてくる。たまったものではなかった。
 古いディーゼル・エンジンの排気ガスは、焦げ茶色で、物凄い臭いがして、いかにも「有毒」の感じが強かった。ソ連製なら、なおさらという気がする。ところが、本書では巻末の資料に収録した研究論文、「ディーゼル・ガス室/神話のなかの神話」の存在を紹介するにとどめるが、ディーゼル・エンジンが発生する一酸化炭素は、普通のガソリン・エンジンの場合よりもすくないのだそうである。もしかすると、「俗耳にはいりやすい話」の類いなのではないだろうか。
「排気ガス」物語には、もうひとつ、「ガス・トラック」がある。ユダヤ人運搬用のトラックが、実は、「走るガス室」だったというのである。これについても、フォーリソンが序文を寄せたピエール・マレー著『問題のガス・トラック』の存在を、巻末資料で紹介するにとどめる。
「チクロンB」の場合には、なぜ、その「凶器」が収容所のなかに大量にのこされていたのだろうかという疑問がある。もしもそれがユダヤ人虐殺に使用されたものだとしたら、なぜ、ドイツ軍は「証拠湮滅」をはかららなかったのだろうか。一方では、虐殺計画は極秘だったから明確な文書証拠はのこっていないとか、すべて焼却されたとか、どこそこの「ガス室」は証拠湮滅のために破壊されたとか、むきだしでゴロゴロしていた大量の「チクロンB」のカンの数々の実態とは、まったく矛盾する説明がおこなわれているのである。これらの疑問の数々には、つぎの段階でこたえることにする。
 その前に、もう一つ、わたし自身が長年ひそかにいだきつづけてきた皮膚感覚の、下世話な疑問をも提出しておこう。率直に表現すれば「大量虐殺」の手間と費用への疑問である。
 ほとんどの大量虐殺の事例では、殺して埋めるか、川にながすか、あまり手間も費用もかけていない。日本軍の場合には、弾丸を節約するためになぐり殺したなどという話もある。一方、毒ガスを残虐兵器として禁止する国際法が成立した裏には、風向き次第で自分たちも危険にさらされるからという、使用する側の前線兵士の強い拒否反応があった。だから「ホロコースト」物語には、密閉された「ガス室」が必要だという条件がかかせなくなるのだ。しかも、完全な換気ができなければ、つぎの仕事にかかれない。そんなに危険で手間と費用がかかる方法を、なぜ選んだのだろうか。
 戦後の焼け跡の日本で、子どものころから屑鉄をひろって売ったり、家庭菜園をたがやしたりして育ったわたしの皮膚感覚には、「ガス室」による「ホロコースト」物語は、どうにもピッタリとこなかったのだ。

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「死体焼却炉」には一日一万人分を処理する能力があったのか

「ガス室」を中心とする巨大な「殺人工場」のシステムの終着駅には、さらに、「死体焼却炉」があったことになっている。
 アウシュヴィッツは、メインキャンプだけでも約二万人、ビルケナウとあわせて約二〇万人という小都市並みの人口をかかえていた。当然、ふだんでも人は死ぬし、火葬場はあった。「四〇〇万人」という数字はすでに否定されたが、ヒルバーグ説の「一〇〇万人」の場合でも、その大部分をここで殺して焼いたとなると、小規模のものではとうてい間にあわない。ホェスの「告白」では最大、一日で約一万人を「ガス室」処刑したことになっている。おおすぎるときには「野焼き」をしたことになっているが、日本の敗戦時、実際に親族の「野焼き」を経験した人の話によると、一人の死体を焼くのに半日もかかった。燃料の調達がとくに大変だったという。万人、千人、百人、いや十人単位の死体でも、「野焼き」というのは、おそらく想像を絶する困難な作業にちがいない。
 三〇〇ページをこえる英語版『アウシュヴィッツ/判事の証拠調べ』の序文によると、一九七九年に出版されたドイツ語版の場合、「初版一万部のうちのわずか七冊が売れたところで」政府にさしおさえられている。著者は、現職の判事だったヴィルヘルム・シュテーグリッヒである。クリストファーセンとおなじく元軍人で、アウシュヴィッツのそばの対空部隊勤務を体験し、当時のアウシュヴィッツ収容所を何度かおとずれている。
 シュテーグリッヒ判事は、物的証拠の一つとされてきた「トップ父子商会」の手紙の信憑性を吟味している。
 その手紙によると、トップ父子商会が納入する最新型の焼却炉の場合、「コークスを燃料とした」場合に「約一〇時間」で「約一〇から三五の死体」を焼くことができる。それ以上も可能で、連日連夜操業ができるという。シュテーグリッヒはこの説明にたいして、「現在の最新式の設備でも人間を焼くのには一時間半から二時間はかかる」という疑問をなげかけている。つまり、この手紙が偽造だという可能性がほのめかされているわけだが、かりにその最大限をとって計算すると、一日二四時間で約八四の死体を焼けることになる。だが、おなじ性能の焼却炉が一〇〇台あったとしても、一万は無理で、一日にやっと約八四〇〇の死体しか焼けない。
 性能にも疑問があるが、一〇〇台以上もの焼却炉が本当にあったのだろうか。わたしが見てきた三箇所の収容所のいずれにも、数台の焼却炉しか展示されていなかった。

戦時経済とまっこうから矛盾する「死体焼却」の大量な燃料浪費

 いちばん有力な反論は、もっと規模のおおきな矛盾に着目したものである。
『アウシュヴィッツの嘘』の序文を書いた弁護士、レーダーは、「ナチ・ハンター」を自称するオーストリアうまれのユダヤ人、サイモン・ウィゼンタール(ドイツ語の発音ではジモン・ヴィゼンタール)が弁護士会にだした抗議への反論のなかで、つぎのように指摘していた。
「“貴方がたの”統計で行方不明だとされているユダヤ人は、ガスを吸わされ、焼かれた」のだというのですが、「技術的な観点から見ると、その誤りはあきらかだということを理解していただきたいのです」。なぜならば、「戦争中にドイツが支配していたすべての地域のどこにも、そんなにおおくの人体を焼くのに十分な燃料はありませんでした」。
「六〇〇万人」という数字への疑問はすでに紹介したが、もっともすくない数字では「二〇万人」説から「一〇万人」説まである。この場合には自然死説である。ただし、「二〇万人」は、日本の広島に落とされた原爆による死者の数の規模だから、そんなにすくない数字とはいえない。そのほか、「七〇万人」説、「一〇〇万人」前後説など、さまざまに説はわかれている。だが、たとえ一桁ちがったとしても、通常の死者だけでも相当に増加していた時期に、それだけ余分の死体を焼く燃料を特別に調達できたものであろうか。
 とくに、ガソリンは決定的に重要な軍需物資であった。日本では、松の木の根をほって、「松根油」という代用品までつくったほどだ。石炭の液体化の研究もしている。当時のドイツも日本とおなじく、国家総動員の戦時経済体制だった。しかも、問題のアウシュヴィッツでは、石炭から「合成石油」をつくっていた。燃料の統計や配給などの記録から、「大量虐殺の死体焼却」という物語の、燃料供給の面での矛盾を証明できるではないだろうか。コークスの場合には、品質にもよるが総重量の五~一五%の「灰分」が残っているはずだ。

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「ロシア人が許可しない」という理由、いや、口実で実地検証なし

 以上の「凶器」と「犯行現場」の問題にくわえて、さらに決定的なのは、現場での実地検証をまったくおこなわなかったという、おどろくべき手ぬき裁判の実態である。
 第二次世界大戦終了後の一〇年間、ソ連は、アウシュヴィッツへの立ちいりを全面的に禁止していた。これだけ重大な、しかも、人類史はじまって以来ともいうべき一〇〇万人規模の大量殺人事件の告発だというのに、ニュルンベルグ裁判では、実地検証なしの判決をくだしていたのだ。証拠は「チクロンB」「自白」「陳述」だけである。
 シュテーグリッヒ判事は、「西側同盟国がアウシュヴィッツ地域をまったく調査しなかった」理由について、「鉄のカーテン」を基本的な背景事情としてあげながらも、同時に、「部分的にはその理由で、部分的には別の理由で」という微妙な留保的表現をくわえている。「別の理由」をわたしなりにハッキリいえば、本式の調査をする気がなかったということにつきるのではなかろうか。たとえば『二〇世紀の大嘘』によると、当時のダッハウに一七カ月滞在したアメリカ戦争局の弁護士、ステファン・F・ピンターは、一九五九年になって、つぎのような弁解の文章を発表している。
「アウシュヴィッツにはガス室があるといわれたが、そこはロシア占領地域のなかだったし、ロシア人が許可しないという理由で、われわれは調査を禁じられていた」
 シュテーグリッヒ判事も、このピンターの説明を『アウシュヴィッツ/判事の証拠調べ』で再引用し、この「ロシア人が許可しない」という状況説明に「かなりの不明確さがある」と指摘している。さらに別の箇所では、「カティンの森」で大量のポーランド将校の死体を発見した際のナチス・ドイツの態度を、ソ連の態度と対比し、その矛盾を鋭く指摘している。
「アウシュヴィッツについてのソ連の政策とは対照的に、ドイツ政府は、この犯罪の現場検証を世界中のジャーナリストや専門家がおこなえるようにし、写真撮影をゆるした。なぜソ連は、アウシュヴィッツの事件でおなじようにしなかったのか」
 もう一方の西側諸国も決して真剣に、ロシア側に立ちいり調査の許可をもとめたわけではない。アウシュヴィッツ神話の維持は、東西双方が必要とする陰微な共同作業だったからではなかろうか。また、国際軍事法廷という形式から考えれば、担当法廷の裁判長名で実地検証の命令がだされてしかるべきところだったが、その作業どころか議論の形跡もまったくない。

「原状保存」どころか部屋の壁はブチぬき、煙突は建てなおし

 現在の日本の通常の刑事裁判に例をとれば、簡単な殺人事件でさえ被告の自白だけで判決をくだすわけにはいかない。「凶器」と「犯行現場」の自白があっても、その現場で「犯行の再現」をさせたりして、可能性を確認する。
 アウシュヴィッツIには現在、「犯行現場」の「ガス室」だとして観光客が案内される半地下風の部屋がある。
 シュテーグリッヒの著書『アウシュヴィッツ/判事の証拠調べ』によれば、最近の観光客が案内される「ガス室」が「つくり直されたものでしかないことを発見」したのは、フランスのフォーリソンである。隣室の焼却炉も、屋外の巨大な煙突も、戦後にポーランド政府が設置したものである。シュテーグリッヒはそれらを、「アウシュヴィッツ博物館の観光客には、もちろんのこと知らされてはいない重大な事実」と表現している。シュテーグリッヒの著書の末尾には、以上の設備の現状の写真が収録されている。
 わたしの撮影技術でも写真(11:Web公開では省略)のような状況で、改造の跡はだれの目にもあきらかである。
「シャワールームの偽装」の痕跡もない。天井には空気ぬきのような穴(写真11:同前)があいているが、これはたしか、NHK3チャンネルの深夜劇場で放映した古いモノクロ映画で見た記憶がある。ドイツ兵がこれとおなじ形の穴から「チクロンB」のカンをほうりこむのだ。この穴もシュテーグリッヒによれば「あきらかに戦後につくられたもの」である。しかも、おどろいたことに、半分は「木製」である。これは致命的なことで、「チクロンB」の主成分の青酸ガスは、木材に浸透し、通過してしまうのである。
 ところがもし、以上の疑問点のすべてを無視するとしても、被告が「チクロンB」をカンごとほうりこむという映画そのままの「犯行の再現」をおこなったとすれば、それだけで「疑わしきは無罪」とせざるをえないのである。なぜなら、「チクロンB」から青酸ガスを発生させるためには、カンから青酸ガスを吸着した木片などの「チップ」をだす必要がある。逆にいうと、「チップ」をカンのなかにもどしてフタをしてしまえば、青酸ガスの発生をとめることができる。「絶滅説」の「証言」によると、ユダヤ人たちは生命の危険を感じてドアに体当たりまでしたはずだから、必死で、なげこまれたカンからこぼれたはずの「チップ」をひろって元に戻したにちがいない。だから犯人は、「チップ」だけを「ガス室」の内部にいれなければならなかったのである。
 以上のような「凶器」と「殺害現場」についての数々の疑問については、すでにカナダで係争中のツンデル裁判で、「ロイヒター報告」と題する「はじめての科学的、法医学的調査」の報告と鑑定証言がおこわれている。アウシュヴィッツの実地検証が、半世紀をへたいま実現しているのだが、その調査報告については、のちにまとめて紹介する。
 ここでは、さらにもう一つ疑問を提出しておこう。
「ガス室」で殺したはずの大量の死体を、天を焦がすほどの煙を上げながら燃やしたはずの焼却炉のうえには、高い煙突が立っていたことになっている。たしかに現在もたかい煙突(写真12:同前)が立っている。しかし、シュテーグリッヒの指摘のとおりで、裏側にまわって見ると写真(12:同前)のように、なぜか煙突だけが地面から直接立っているのだ。下部は焼却炉につながっていない。
 要するにすべて、観光名所用の模造品、または撮影用のオープンセットでしかないのだが、まったくのフィクションの小説を商品化した熱海の「お宮の松」とおなじ次元で論ずるわけにはいかない。こちらは歴史的「事実」の偽造であるし、あまりにも政治的性格のちがいがありすぎるのである。
 しかも、現地では、現在も各所で改造工事がつづいていた。
 うかつなことに帰国してから知人と話しているうちに思いだしたのだが、「ドイツが新たに4億円拠出発表/アウシュヴィッツ強制収容所修復」(毎日94・11・9夕)というみじかい記事が、わたしの「ホロコースト」ファイルのなかにもあった。
 記事中にはより正確に「新たに六百八十万マルク(約四億四千万円)を拠出」とある。しかも、「過去の分と合わせ、ドイツ政府の拠出額は一千万マルク(約六億四千万円」であり、「民放の呼び掛けに応じ、民間からの寄付金がこれまでに約二千万マルク(約十二億八千万円)に上っている」というのだから、さしひき、過去には合計約二億円だった拠出額が、民間の寄付もあわせて今回一挙に約一七億二〇〇〇万円以上になる計算だ。これはまた、かつてない大工事の資金である。さらにこれは、「(一九九五年)一月の五十周年」を意識しての修復資金拠出なのである。
 もしかすると「復元」と称して、これまでよりもはるかに精巧な歴史偽造が進行する可能性がある。それがふたたび、「アウシュヴィッツ博物館の観光客には、もちろんのこと知らされてはいない重大な事実」にならないように、おおいに危惧して見まもるべきであろう。
 煙突については『シンドラーのリスト』で、モノクロ画面の中で強調したい部分に色をつけるという特殊効果がつかわれていた。映画のアウシュヴィッツの茶色のたかい煙突からは、ゆらめく黄色と赤の炎をまきこんで、真っ黒の煙がゴウゴウと不吉な音を立てて舞いあがっていた。あの煙突はハリウッドのオープンセットであろう。たかい煙突からモクモクと煙が天にあがる場面は、いわばこの種の映画の「決まりシーン」である。「煙突の煙」も水戸黄門の「葵のご紋」である。
 ところが『アウシュヴィッツ・神話と事実』によれば、一九七二年にアメリカの中央情報局(CIA)が情報公開した資料の中に、米軍の飛行機がアウシュヴィッツの上空で撮影した航空写真が何枚もあった。戦争末期の一九四四年、まさに「大量虐殺」と「死体焼却」の真っ最中だったはずの頃の「ことなる時期」に、何度も上空を飛んで撮影したものだ。だがそのどれにも、「まったく煙が写っていない」のである。
 おなじく一九四四年の一月から一二月までアウシュヴィッツで勤務した体験にもとづいて『アウシュヴィッツの嘘』を執筆した元ドイツ軍中尉、ティエス・クリストファーセンは、当時もつたわっていた「虐殺」と「焼却」の噂を母親から聞いた。そこで、真相を確かめるために「収容所全体を歩きまわって、すべてのかまどや煙突を調べたが、なにも発見できなかった」と回想している。

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『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
(24)
第1部:解放50年式典が分裂した背景
第二章:「動機」「凶器」「現場」の説明は矛盾だらけ
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『週ポ』Bashing反撃)

「復元」「改造」「偽造」「捏造」、戦後五〇年の記念の軌跡

 アウシュヴィッツIの「ガス室」については、問題の『マルコ』発売の直後になされた国際報道が、見直しの議論の進行状況と同時に、日本国内での「解放五〇周年に取り上げたこと自体が暴挙」といった類いの議論のお粗末さを見事に裏づけてくれた。
「アウシュヴィッツIのたったひとつの火葬場Iが、いちばんはっきりした実例だ。(中略)そこにあるものはすべて捏造(または“ウソ”)だ」
 すでに内容の一部を紹介した『レクスプレス』(国際版95・1・26、本国版1・19/25)のメイン掲載記事、「悪の記念/五〇年後のアウシュヴィッツ」の一節である。文中の拙訳「捏造」に当たる原語はfauxである。手元の仏日辞典の訳語は、つぎの順序でならんでいる。
「虚偽、錯誤、邪(よこしま)、模造、偽造、贋造」
 日本語で簡単にいえば「ウソ」なのだが、日常つかわれる言葉の意味は非常にあいまいにある。ウソはウソでも、以上のうちの「模造、偽造、贋造」は、すべて元になる「本物」の存在を前提にしている。「贋造紙幣」などが典型である。だから、これらの訳語を採用すると、どこかにまだ「本物のガス室」あることを意味しかねない。手元の国語辞典の「捏造」の説明は、つぎのようである。
「本当はない事をあるかのように偽って作り上げること。でっちあげ」
 わたし自身は、この訳がいちばん実態に近いと思っている。しかし、わたしのこの訳に原文の執筆者のエリク・コナンが賛成するかどうかは断言できないので、一応、もっとも素朴な“ウソ”の訳例をも添えておいた。コナンの文章には、微妙に文学的な表現がちりばめられているからだ。なぜ「微妙に文学的」になるかというと、それには深い歴史的な事情がある。
『レクスプレス』は、フランスのジャーナリズムを代表する時事報道専門週刊誌で、オーナーはユダヤ人である。わたしは国際版発売以前に、フランスの代表的な「ホロコースト見直し論者」で歴史家のロベール・フォーリソン博士からの緊急ファックスで、この記事の掲載を知らされた。フォーリソンの注意書きによれば、執筆者のエリク・コナンは、「反・見直し論に生涯をささげてきたジャーナリストで歴史家」である。当の「ガス室」が、戦争中の防空壕を戦後に改造したものであることを、フォーリソンが最初に指摘したのは一九七六年のことである。コナンは、さきに引用した一節、「そこにあるのはすべて捏造だ」の直後に、フォーリソンの指摘の経過をしるしている。以後、足掛け一九年になる。「反・見直し論」のコナンが、論敵のフォーリソンの長年の主張に「微妙に文学的」な表現で同意したことになる。フォーリソンはただちに、このコナンの論文にたいする評価をまとめており、そのコピーもわたしの手元にとどいているが、その紹介は別の機会にゆずりたい。
 一方、こちらもすでに紹介済みのデイヴィッド・コールは、ホロコースト見直し論者の立場で、アメリカのネットワークの人気ショー、『ドナヒュー・ショー』(94・3・14)『シックスティ・ミニッツ』(94・3・20)に出演して論争している。『歴史見直しジャーナル』(94・5/6)によると、コールはこのほかにも『モンテル・ウィリアムズ・ショー』と『モートン・ダウニー・ショー』にでており、『ドナヒュー・ショー』(94・3・14)でコールと同席していた「ホロコースト」見直し論者のブラッドレイ・スミスは、CBSの『四八時間』にも出演している。
『マルコ』の公称二五万部、実売一〇万部などはおよびもつかない数千万のマンモス視聴者の目の前で、かれらは激しい議論を展開しているのである。『ドナヒュー・ショー』では、マイダネク収容所の「ガス室」と称されてきた「シャワールーム」の矛盾に満ちた映像を公開し、キャスターのドナヒューに「あなたは本当にコロンボ刑事みたいですね」といわしめている。その映像は、「ガス室」のドアが「内開き」または「内閉じ」だということを示している。つまり、トイレや風呂のドアと同じ構造なのだ。これでは「(外から)閉じ込めて毒ガスで殺す」ことなどは不可能である。わたしはこの『ドナヒュー・ショー』などのビデオを航空便で受け取ってハイライトの日本語版を制作し、『マルコ』廃刊にさいしての二度の記者会見で上映した。だが、こちらもやはり「マスコミ・ブラックアウト」の目に会っている。
 国際的な報道状況の常識的事実は、この『レクスプレス』『ドナヒュー・ショー』『シックスティ・ミニッツ』などによって象徴されている。デイヴィッド・コールの映像によるアピールには、別に新しい発見があったわけではない。フォーリソンらが早くから指摘しつづけていた問題点だ。だが、新技術のビデオは、従来の活字メディアだけによる論争の域をはるかに越えた大衆的討論を発展させるきっかけになった。ブラッドレイ・スミスは、ワシントンの「ホロコースト」博物館には「殺人用のガス室についてのいかなる証拠も、ドイツのジェノサイド“計画”によって殺されたという、たったひとりについての証拠さえない」と主張して、「ホロコースト」に関する公開討論を呼びかける広告を全米の一六の大学新聞に掲載した。『ドナヒュー・ショー』で当時のローパー世論調査を紹介しているが、それによると、二二%のアメリカ人が「ホロコーストはなかった可能性がある」、一二%が「わからない」と答えていた。
 コールの映像による活動は、さきの『レクスプレス』にも「アメリカの否定論者がガス室でビデオ撮影をした」という表現で記録されている。これもやはり著名なアメリカの時事報道誌『ニューヨーカー』(93、15号)の長文記事「悪の証拠」には、デイヴィッド・コールの映像活動の具体的内容について、実名入りの三分の一ページほどの記述がある。
 以上の、この項でふれたアウシュヴィッツIの「ガス室」と、マイダネク収容所の「ガス室」こそが、現存のたったふたつの「ガス室」なのである。商品にたとえれば、銀座の有名デパートのショーウインドーに飾ってある見本が「でっちあげ」とか「デタラメ」とかいわれだしたような事態なのだ。
 このほかに見物できるものは、アウシュヴィッツ第二収容所のビルケナウにある「破壊されたガス室」跡、または「火葬場」の瓦礫の山しかない。しかも、そんなに大規模なももではない。こちらについても、絶滅説の論者の間にさえ、最初から「ガス室」として建設されたという説と、改造説のふたつがある。いわば検事側の主張が分裂しているのだ。「生き残り証人」を自称する作家などによると、「千人」とか「二千人」を一度に殺して、焼いて、灰にする「オートメ工場」のような巨大な「ガス室」があったというのだが、その物的証拠は一度たりともしめされたことがない。広島や長崎の実情がしめすように、原爆でさえもコンクリートの建物を完全には消滅させることはできなかった。証拠湮滅のために、「巨大なガス殺人工場」がまったくなんの痕跡ものこさずに消滅したなどということは、にわかには信じがたい。
 問題は、やはり、実地検証の有無に帰着する。人類数千年の法の実践の歴史を無視することは、いかなる場合でもゆるしてはならないのだ。

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揚げ足取り論評の数々、「ガス室」と「気化穴」のすり替え

「マルコ報道」では様々な揚げ足取り論評が現われた。本書ではとうていすべての反論を盛りきれないので、それは続編に予定している。
 一応の概略だけを指摘しておくと、それらの揚げ足取り論評のほとんどは、西岡が引用した資料に直接当たっていないという特徴をそなえている。中心的な論点は「ガス室」の調査をしたアメリカ人、フレッド・ロイヒターの技術者としての資格についての疑問だが、そのタネ本はほとんど『ホロコースト否定論』(DENYING THE HOLOCAUST )のみである。原文を一読すればすぐにわかるが、ロイヒターの調査結果に基づく基本的主張についての議論ではまったくない。法廷技術のひとつに、証人の信憑性を問う反対尋問がある。証言の基本を覆せない場合に、他の要素への疑問をかきたてて裁判官や陪審員の心証をぐらつかせるのだ。ロイヒターはボストン大学卒の文学士だが、化学の学士ではない。本人が実際に行っていた業務内容は、コーディネーターである。「ガス室」で採取したサンプルの分析も、大学の専門的研究者に依頼している。それをいかにも違法操業であるかのように言い立てて、調査結果に疑いを持たせるといった手法なのだ。その後の第三者による追試の結果もあるが、それはのちにのべる。
 もうひとつだけ、早目に批判しておきたいのは、『宝島30』(95・4)に掲載された「無邪気なホロコースト・リビジョニスト」のつぎの部分である。
「『ガス室』(Vergasungskeller)」は時宜に即して完成(中略)」と書かれた文書(中略)の話を西岡氏にしたところ(中略)、彼は『知らなかった』と答えた」
 第一の問題点は、用語の誤解または曲解である。ユダヤ人虐殺物語の「ガス室」の用語は「Gaskammer」であって、「Vergasungskeller」の方は、火葬場の燃焼温度を上げるための「気化室」または「気化穴」とでもいうべき構造のことだ。『宝島30』の記事の執筆者は、この単語を含む文書に関するドイツでの報道を小耳にはさんで、いかにも新しい発見のように書いているが、バッツ博士の著書、『二〇世紀の大嘘』およびシュテーグリッヒ判事の著書、『アウシュヴィッツ/判事の証拠調べ』(手元の英語版は90年改訂増補)ですでに、言葉のすり替えが論破しつくされている。最近の報道は単なる蒸し返しにすぎない。
 第二の問題点は記述のごまかしである。一読してすぐにわたしは西岡に電話でたずねた。西岡はシュテーグリッヒの著書を読んでいる。『宝島30』の記述のように「知らない」と答えるはずがない。するとやはり西岡は「取材では『Vergasungskeller』という言葉はでなかった。単に『新しい文書発見』と聞いたので、それは知らないといっただけだ」というのだ。
「マルコ報道」では、既成の公式的ないしは常識的歴史観を、葵の御紋よろしくふりかざす笠にかかった物言いが目立った。しかし、その間にかえって以上のような、見直し論に有利な材料がつぎつぎとふえ、揚げ足取りのお粗末さがますますあらわになってきたのである。

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イスラエルの公式機関でさえ「信用できない」証言が半分以上

「マルコ報道」では「生き証人」へのインタヴューの必要性を力説している例がおおかった。それはそれで結構なのである。そういう努力は今後も続ける必要があるだろう。
 ただし、「ガス室」の存在を肯定する「生き証人」の証言、または被告の「自白」ないし「告白」の類いは、すでに出尽くしている。むしろ必要なのは、その内容の再検討なのではないだろうか。「生き証人」の受け止め方についても、一部の文章に見られる論理的な混乱を指摘しないわけにはいかない。一部の文章では、収容所体験の事実と、「ガス室」の存在の肯定とが混同されている。実際には、収容所体験が事実であっても、「ガス室」についての「証言」部分は伝聞の場合がおおいのだ。
 さらに、くれぐれも注意してほしいのは、「ガス室」を見なかったとか「ガス室」はなかったと証言しているユダヤ人の「生き証人」が、意外におおいという事実である。また、「ガス室」の存在を否定する発言をした「生き証人」は、ユダヤ人だけではない。「ホロコースト」見直し論の父といわれるフランス人のポール・ラッシニエも、ナチス・ドイツ収容所の「生き残り」なのである。ドイツ人の「証言」例についてはのちにくわしく紹介するが、この場合には逆に、大変な社会的圧迫を覚悟してのうえでの発言である。その覚悟の重みも考えてほしい。
 しかも、問題の「生き証人」の証言については、イスラエル政府の公式機関としてホロコーストに関する世界で最高権威の扱いをうけ、最大の資料収集をしている「ヤド・ヴァシェム」でさえ、つぎのような判断を下しているのである。
 すでに紹介ずみのウィーバーの論文「ニュルンベルグ裁判とホロコースト」には、何人かのユダヤ人の歴史家が、「ホロコースト」目撃証人の「嘘」の理由やその「病的傾向」を分析している事例をあげている。なかでも決定的に重要な部分を訳出すると、つぎのようである。
「イスラエル政府のホロコースト・センター、ヤド・ヴァシェムの公文書館長、サミュエル・クラコウスキは一九八六年に、保管している二万件のユダヤ人“生存者”の“証言”のうち、一万件以上は“信用できない”ことを確言した。クラコウスキの言によれば、おおくの生存者が“歴史の一部”となることを願っており、想像力をほしいままに走らせている。“おおくの人は、かれらが残虐行為を目撃したと称する場所にいたことがなく、または、友人や通りすがりの見知らぬ他人から聞いた二次的な情報にたよっている”。クラコウスキの確言によると、ヤド・ヴァシェムが保管している多くの証言記録は、場所や日時についての専門的な歴史家の鑑定を通過することができず、不正確であることが証明された」
 では、のこりの「一万件」以下の“証言”は、はたして「信用できる」のだろうか。それらは「場所や時間」についての」鑑定を通過したのかもしれない。だが、その“証言”の内容のすべてまでは保証できないだろう。そこで「ガス室」を見たという部分があったとしても、その物的証拠を示しているわけではないのである。
「ホロコースト見直し論の父」とよばれるフランスの歴史家、故ポール・ラッシニエには『ユリシーズの嘘』という著書がある。ユリシーズは古代ギリシャの伝説の英雄で、ギリシャ語ではオデュッセウスである。木馬のエピソードで有名なトロイヤ戦争からの帰国のさい、オデュッセウスがのった船が嵐で漂流し、以後、一〇年の放浪の旅をする。ホメーロスの長編序事詩『オデュッセイア』は、その苦難の帰国物語である。ジョイスの長編小説『ユリシーズ』は『オデュッセイア』を下敷きにしている。ラッシニエの『ユリシーズの嘘』では、『オデュッセイア』に見られる苦難の経験の誇張をナチス・ドイツの収容所の経験者の誇大な「告発」にあてはめて、「ユリシーズ・コンプレックス」とよんだ(シュテーグリッヒ判事の著書の英語版では「オデュッセウス・コンプレックス」になっている)。ラッシニエ自身、レジスタンス活動でゲシュタポに逮捕され、二年間のナチ収容所での生活を経験しているが、戦後の地道な追跡調査によって、「ガス室」物語がすべて伝聞にすぎないことを確かめたのである。
 やはりフランス人でラッシニエの業績をひきつぐフォーリソンは、『著名な偽りの目撃証人/エリー・ウィーゼル』で、一九八六年のノーベル平和賞受賞者を「偽りの目撃証人」として告発する。なぜならば、「ホロコースト」を目撃したと自称するユダヤ人のエリー・ウィーゼルが「自分のアウシュヴィッツとブッヘンヴァルドでの経験をえがいた[初期の]自伝的な著作ではガス室にまったくふれていない」、つまり目撃していないからだというのである。
 被告側のドイツ人にたいする「拷問」の事実については、すでに簡略に紹介したとおりである。
 拷問によらない「らしい」積極的な「告白」と称されるものもある。「クルト・ゲルシュタインの告白」と通称されているものがそれである。ゲルシュタインは、なんと、「ナチ党の野蛮な行為を世界に知らせるために」親衛隊員になり、「世界にそれをつたえるために」フランス軍に投降したと「告白」していた。フランスで「戦争犯罪人」として拘留されている間に、独房で首をつって死んでいるのを発見されたが、それまでの拘留期間中に六種類の「告白」をのこした。
 たとえば数ある「ホロコースト」物語の中でも、もっとも著名なベストセラーであり、いまもなおロングセラーの『夜と霧/ドイツ強制収容所の体験記録』(以下『夜と霧』)の日本語版では、写真版用の厚紙製の特別な一ページに、この「告白」の一部を収録している。
 ゲルシュタインは、「ガス室」処刑に実際にたずさわったと称し、その一部始終を「死体からの金歯の抜き取り」にいたるまで微に入り細をうがって「告白」している。だが、もっとも重要なことは、このゲルシュタインの「告白」が、すでにその欠陥ぶりをくわしく紹介した「[ニュルンベルグ]国際軍事裁判の証拠としてさえ採用されなかった」(『アウシュヴィッツ/判事の証拠調べ』)という事実なのである。明白な誤りや数多い矛盾、本人の経歴の不確かさなどが、審判担当者をためらわせた理由であろう。ところが、この「告白」が一九六一年にイスラエルでおこわれたアイヒマン裁判で採用されたため、以後、おおくの著作で本物であるかのように引用されることとなった。「ホロコースト」物語には、テキスト・クリティークが不十分なものがおおいが、「クルト・ゲルシュタインの告白」などは、さしずめその最右翼であろう。
 一九九四末、ロサンゼルスの「歴史見直し研究所」から持ち帰った資料の中には、その名もズバリ、『クルト・ゲルシュタインの告白』というA5判で三一八ページの単行本がある。フランスの研究者、アンリ・ロックの同名の著作の英語訳である。タイプ文字と手書き文字の手稿の写真版で、それぞれの「告白」の相違を比較検討できるようになっている。六種類の「告白」の一つにはことなる版があるので、これを三つにわけると、合計八種類になる。この八種類の「告白」の矛盾を細部で比較検討するための横長の表が、一一ページ分もおりこまれている。かなりの労作だが著者紹介記事によると、農業技術者だったロックは、フォーリソンの仕事に刺激をうけて研究をはじめ、この著作のもとになった論文でナント大学から博士号をうけた。ところがロックは、なんと[ダジャレをとばす場合ではないが]、「フランスの大学の約八世紀にわたる歴史の中で、政府によって博士号を“とりあげられた”最初の男になった」のである。博士号授与が一九八六年、一九八九年現在で六九歳としるされているから、『クルト・ゲルシュタインの告白』は、六六歳という高齢で完成した地道そのものの実証的研究である。
 さきにも「ニセ証人」の「笑い話」を紹介したが、ゲルシュタインは決して、「特殊な例外」ではない。シュテーグリッヒはいかにも判事らしく、同様の矛盾をたくさんふくむ「告白」「報告」「体験記録」の数々の細部を比較検討している。ゲルシュタインは、とりわけ傑出していただけなのではないだろうか。
 わたしは、『マルコ』廃刊事件の際の記者会見で、アメリカ映画『一二人の怒れる男』の例を引いた。あの映画では、目撃証人の証言だけで判断すれば、プエルト・リコ系の浅黒い少年が父親殺しで有罪になるところだった。しかし、一二人の陪審員のなかでたったひとり、ヘンリー・フォンダ扮する白人の陪審員が有罪の決定に賛成しなかった。以後、一昼夜の激論のすえ、目撃証言の矛盾があきらかになり、少年は無罪となる。日本でもおおくの冤罪事件で、目撃証人の証言があやまりだったことが、のちの上訴や再審で証明されている。それほどに、目撃証人の証言というものは、誤りがおおいものなのである。
 しかも、「ホロコースト」物語の場合にはとくに、いわゆる「生き証人」としてマスメディアで扱われてきた人々のほとんどすべてが、イスラエル建国支持者である。いわばヴォランティアの広報係りのようなところがある。かれらの「証言」の背後には、いわゆる国家忠誠心に類する感情による「合理化」がひそんでいるのではなだろうか。パレスチナ分割決議をめぐる中東戦争はあくまでも停戦状態なのであって、まだ継続中なのだから、その意味では、戦時宣伝の時代は終了していないのだ。すくなくとも、そういう状況への論理的な疑いをいだいて、内容をds再検討する必要があるのではないだろうか。
 日本の国会でも、おおくの汚職事件の関係者が企業忠誠心をわずかなよりどころにして、あれだけいけしゃあしゃあと、だれの目にも明らかな嘘をつき通している。それにくらべれば、たしかに歴史的な犠牲者でもあるユダヤ人たちが、国家、民族、または宗派への忠誠心から、自分の実際の記憶に他人からの伝聞などをまじえて誇大に物語ってしまうことは、むしろ自然の気持ちの発露なのかもしれないのだ。
 さて、このように、疑いをいだきはじめてみれば、これまでのすべての説明が矛盾だらけであることが、つぎつぎにわかってくる。以上の第1部では、殺人事件ではもっとも基本的な捜査の条件であるはずの「死体そのもの」、「死体の数」、「死体の身元」、「殺人の動機」、「凶器」、「殺害現場」などが、まるで不明確だという材料を列挙してみた。材料はおどろくほどおおい。つぎの第2部では最大の争点である「チクロンB」と「ガス室」の関係にせまる前提条件として、以上のあらすじの背景と細部を、さらにくわしく調べなおし、論じなおしてみたい。
 だが、そのほかの疑問をもふくめて、その真相の究明よりも以前に「発言の禁止」がでてくるところに、「ホロコースト」物語に特有の奇妙さがある。物語の背景には、いまなおつづく国際政治上の重大問題がひそんでいるからだ。





(私論.私見)