第1部第1章1の2、解放50年式典が分裂した背景

 (最新見直し2012.04.14日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「第1部第1章1の2、解放50年式典が分裂した背景」を転載しておく。

 2012.04.13日 れんだいこ拝



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『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
(15)
第1部:解放50年式典が分裂した背景
第一章:身元不明で遺骨も灰も確認できない「大量虐殺事件」 7/10

『週ポ』Bashing反撃)

美化されすぎてきた「ニュルンベルグ裁判」への重大な疑問

 ニュルンベルグ裁判の資料を図書館のコンピュータでさがしていたら、『「ニーュルンベルグ裁判」を見て』という項目がでてきた。戦争体験にこだわりつづける戦中派作家、大岡昇平が、東京新聞(61・3・5~6)によせたみじかい随想なのだが、その後、『証言その時々』という単行本におさめられている。
 大岡はまず、ニュルンベルグ裁判自体について、「映画に現われた限り、東京裁判よりはるかに公正に行われたらしいが、いずれにしても戦勝国が敗戦国を裁くのだから、公正なんてものがあるはずがない」という、一歩距離をおいた姿勢をしめす。ところが、このスタンリー・クレーマー監督作品のすじがききをおって紹介するうちに、「これは現代アメリカの一部の良心を代表した映画ということができるだろう」という評価をくだしてもいる。
 だが、当然のことながらハリウッド製フィクションの『ニュルンベルグ裁判』には、被告の拷問というシーンはまったくでてこなかった。この映画の舞台はおなじニュルンベルグ裁判所ではあるが、内容は主要な軍事法廷ではなくて継続裁判の一つである。それでも、おおくの映画ファンにとっては、ニュルンベルグ裁判の全体像の代用品になってしまっているだろう。
 偶然か、それともやはり戦後五〇年の節目を意識してであろうか、NHKの衛星放送第二の「ミッドナイト映画劇場」が、一九九四年一一月一九日と二六日に、この『ニュルンベルグ裁判』を二部にわけて放映した。この作品も、一九六一年の製作なのに『シンドラーのリスト』と同様、モノクロでドキュメンタリー・タッチをねらっていた。とりあえず実物を見ていない読者のために、このハリウッド映画の主な出演者だけを紹介しておこう。
 スペンサー・トレシー、バート・ランカスター、リチャード・ウィドマーク、マリーネ・ディートリッヒ、マキシミリアン・シェル、ジュディ・ガーランド、モンゴメリイ・クリフト。いずれもまさに堂々たる国際的な主役級の大スターである。
 さて、さきのシンプソン陸軍委員会が調査したダッハウのマルメディ裁判のさいのような拷問の事実が、これまでまったく報道されていなかったのかというと、決してそうではない。『ニュルンベルグ裁判/ナチス戦犯はいかに裁かれたか』という本がある。著者は、ドイツ人の現代史家、ウェルナー・マーザーである。こちらの日本語版「訳者あとがき」には、つぎのような、さきの大岡のとは正反対の感想がしるされている。
「私たちの東京裁判を、人種的偏見にみちた復讐裁判だとする意見があるが、ナチス第三帝国崩壊後のドイツ指導層の受けた侮辱と冷遇とつき合わせてみると、なんとマッカーサーの軍隊は『紳士的』であったことかと今さらのように驚いてしまう」
 以下、その一部を紹介しよう。
 ポーランド総督だったハンス・フランクが「受けた侮辱と冷遇」の場合は、簡単な一行の記述だけである。かれは「ミースバッハの市立刑務所に送られたが、ここで、二人の黒人アメリカ兵にサディスティックに殴打され」ている。
 反ユダヤ主義の週刊誌『突撃兵隊』の発行者だったユリウス・シュトライヒャーの場合には、本人の自筆の報告ものこされており、つぎのような大変にくわしい記述がある。
「シュトライヒャーがのちに主張したところによると、彼が回り道をしてニュルンベルグに連行された時、ユダヤ人たちは彼に屈辱を与え、残酷に拷問し、殴打したという。彼がニュルンベルグで、弁護人ハンス・マルクス弁護士に渡した自筆の報告には、特にこう書かれている」
 以下は、その「自筆の報告」の一部である。
「(前略)新聞記者(五分の四がユダヤ人)の前で私は嘲罵を受けました。(中略)その夜一晩、ユダヤ人から私は嘲弄された。(中略)私に残されているのはシャツとズボンだけである。おそろしく寒かった。(中略)北向き。もっと寒くなるように窓は引き開けられていた。二人の黒人が私を裸にし、シャツを二つに引き裂く。私はパンツだけになった。私は鎖でしばられているので、パンツが下がっても上げることができなかった。そして私は素っ裸にされた。四日間も! 四日目に私の体は冷えきって感覚がなくなった。もう耳も聞こえなかった。二~四時間ごとに(夜も)黒人たちが来て、一人の白人の命令のもとで私を拷問した。乳首の上を煙草の火で焼く。指で目窩を押す。眉毛や乳首から毛を引きむしる。革の鞭で性器を打つ。睾丸ははれ上がる、つばを吐きかける。″口を開け!″そして口の中につばを吐く。もう私が口を開けないでいると、木の棒でこじ開ける~~そしてつばを吐き込む。鞭で殴打。たちまち体中に血でふくれ上がった筋が走る。壁に投げつける。頭を拳固で殴打。地べたに投げつける。そして背中を鎖で打つ。黒人の足にキスすることを私が拒否すると、足で踏みつけ、鞭打ち。腐った馬鈴薯の皮を食うのを断ると、再び殴打、つば、煙草の火! 便所の小便を飲むことを拒否すると、またも拷問。毎日ユダヤ人記者が来る。裸の写真をとる! 私に古ぼけた兵隊マントをかけて嘲弄。(中略)四日間休みなくしばられたまま。大小便もできない。(後略)」
 同書のこの部分では、「こういう取り扱いを受けたのは~~記録や個人的情報によれば~~明らかにハンス・フランクとユリウス・シュトライヒャーだけだった」としているが、この判断は「明らかに」まちがいである。二度あることは三度ある。しかも、同書のなかの別の部分にさえ、これ以外の「侮辱」「強要」「殴打」「拷問」の事実が、いくつかしるされているのである。
「侮辱」については、ドイツ降伏のしりぬぐい役をつとめた臨時政府、海軍提督デーニッツの閣僚と軍首脳も例外ではなかった。船上で政府と軍の解体と逮捕の通告をうけた直後のことである。同書では、この経過を以下のようにしるしている。
「デーニッツとその随員は船を立ち去ったが、そのあとイギリス兵たちは会談の始まるはずの外務省の会議ホールに殺到した。すべてのドイツ人は真っ裸に引きむかれ、屈辱に満ちた身体検査を耐え忍ばなければならなかった。それは同時に一つ一つの部屋で、将校や秘書孃に対してさえも行われた。イギリス兵は俘虜たちから時計、指輪、その他金目のものを盗みとり、一同は両手をあげたまま中庭につれ出された。そこでは二、三〇人の新聞記者が、この「大興行」を待ち受けていて、ズボンもはいていない将官や大臣の写真をとった。「第三帝国は今日死んだ」と、一九四五年五月二十四日の『ニューヨーク・タイムズ』紙は、この下品な見世物にコメントをつけた」
 閣僚や軍首脳にたいしてさえ、こんな状況だったのだから、むしろ、侮辱と拷問をうけなかった例のほうが、めずらしかったのではないだろうか。しかもさらに、裁判のすすめかたにも重大な疑問が生じてきた。

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『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
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第1部:解放50年式典が分裂した背景
第一章:身元不明で遺骨も灰も確認できない「大量虐殺事件」 8/10

『週ポ』Bashing反撃)

「第一級の目撃証人」、最後のアウシュヴィッツ司令官は「否認」

 元ドイツ軍の中尉で、アウシュヴィッツに勤務した経験のあるティエス・クリストファーセンが書いた『アウシュヴィッツの嘘』という衝撃的な題名のみじかい回想録が、現在のドイツでは「発売禁止」になっている。わたしの手元にあるのは英語版である。
 クリストファーセンは、この回想録の発表を決意するにさきだって、いくつかの資料を読んで問題点を確認している。回想録の冒頭部分には、それらの資料からの引用がなされているのだが、そのなかには、わたしがこの「ホロコースト」問題にとりくみはじめて以来かかえつづけてきた疑問にたいする重要な手がかりがあった。それは、いわば人類史のミッシングリンクのような、決定的な情報の欠落部分だったのである。
 わたしは、「ホロコースト」問題について、それまでは漠然とした一般的な知識しかもっていなかった。それでも、わたしなりのやりかたで資料を比較しながら読んでいると、アウシュヴィッツの「ホロコースト」物語の「立証」は、もっぱら元収容所司令官のホェスの「告白」にたよってきたことが、すぐに読みとれた。ユダヤ人側の証言もあるが、ホェスの「告白」は裁判用語でいう「敵性証人」の加害者による「自白」だから、価値がたかいとされているのだ。このホェス「告白」の信憑性がくずれれば、「ホロコースト」物語の屋台骨はグラグラとゆらぐにちがいない。だが、すでにしるしたように、ホェスがアウシュヴィッツの司令官だったのは、アウシュヴィッツ収容所が創設された一九四〇年から四三年までなのである。その後は、首都のベルリンで親衛隊の経済行政本部に配属され、政治部を担当している。収容所の直接の担当ではないのだ。
 一九四三年から翌々年のドイツが降伏する四五年までの足かけ三年、しかも、ホェス「告白」などによれば、もっとも大量にユダヤ人を「ガス室」で計画的に虐殺したとされているドイツ敗戦直前の時期の司令官は、いったいだれだったのだろうか。単数か、複数かさえもわからない。かれ、またはかれらは、いったいどういう証言をのこしているのだろうか。わたしがもとめていた未知のミッシングリンクは、その時期の元司令官だった。
 ところがこれが、なかなかでてこないのである。歴史的な記述になっている日本語の資料を何冊も読んでも、どこにもでてこない。「死んだのかな」、「自殺でもしたのかな」などという想像まで、ついついめぐらしてしまった。しかし、証言をのこさずに死んだのなら、そのことをしるしておけばいい、いや、しるしておくべきなのだ。そうすれば、前任の司令官ホェスの「告白」の位置づけが明確になる。一九四三年から四五年までの足かけ三年のアウシュヴィッツについてのホェスの「告白」は、あきらかに「伝聞」であって、本人の直接の体験ではない。なぜ当時の司令官の名がでてこないのかは、まったく不思議なことだった。
 たとえば、わたしがこの問題を『噂の真相』誌に書いて以後、ある友人が意味深長な目つきでわたしてくれた本がある。F・K・カウル著、『アウシュヴィッツの医師たち/ナチズムと医学』、発行日は一九九三年八月三〇日、日本語訳の出版元は教科書出版でも大手の三省堂である。横帯の宣伝文句には「記録を基にして事実を再現」とか、「アウシュヴィッツ強制収容所における医学的犯罪を、系統的かつ具体的に示したのは、本書が初めて」などとある。友人の意味深長な目つきは「これは手ごわいぞ」という意味だ。確かに記述の仕方はくわしい。最近の著作だけのことはある。しかし、この本でさえも、肝心の部分は例のホェスの「告白」にたよりっきりである。ホェスの経歴はくわしく書いてあるのに、かれの後継者の収容所司令官についてはまったくふれていない。
 そのうえさらに不思議だったのは、「ホロコースト」見直し論者の文章にも、このミッシングリンクがなかなかでてこないことだった。
 ところが、この奇妙なミッシングリンクが、決して歴史的な記述とはいえない回想録『アウシュヴィッツの嘘』のなかにあったのだ。この部分はみじかいので全文を紹介するが、つぎのようなものだ。
「リヒアルト・ベイアーは、アウシュヴィッツの最後の(一九四三年からの)司令官であり、それゆえにもっとも重要な目撃証人であるが、かれについてパリで発行されている週刊『リヴァロル』は、『アウシュヴィッツにいたすべての期間をとおして、ガス室を見たことはないし、そんなものが一つでも存在するなどということも知らなかった』というかれの強い主張を思いとどまらせることは、ついにできなかったとつたえている。ベイアー元司令官は、尋問のために拘留されていたが、二週間前の健康診断の結果がまったく異常なしだったにもかかわらず、一九六三年六月一七日、突然、死亡した」

ベイアーとヒムラーの不審な死にかたは、たんなる偶然の一致か

『リヴァロル』は国会図書館でも日仏会館でもそなえていない。フランスのフォーリソンに国際電話をかけて、問題の『リヴァロル』のコピーを持っているかと聞いてみた。するとフォーリソンは言下に、『リヴァロル』の原文コーピーは持っていないが、『リヴァロル』の記事自体は簡単な報道だから重要ではないと断言した。さらに、シュテーグリッヒの本は原資料にもとづいているが、それを読んだかと聞きかえしてきた。
 シュテーグリッヒ判事の著書『アウシュヴィッツ/判事の証拠調べ』(日本語訳なし)のなかには、本文で三カ所、注で二カ所、計五カ所のベイアーについての記述がある。
 最初は、ホェスの後任者についての簡単な記述である。それによると、ホェスの直後の後任者はアルトゥール・リーブヘンシェルで、そのまた後任者がリヒアルト・ベイアーという順序になっている。ベイアーの名前のあとには、つぎのようなカッコ入りの文章がつづいている。
「(拘留中のベイアーが死んだのは、一九六三~一九六五年のフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判の開始の直前だったために、さまざまな憶測をかきたてたが、そのときにアウシュヴィッツについてのもっとも重要な目撃証人は永遠に沈黙させられたのである)」
 この部分の資料としては、三つのドイツ語の文献の存在がしめされている。これらをもとにしたシュテーグリッヒの記述は、各箇所の合計で三ページ分になる。
 要約紹介すると、まず、ベイアーは一九六〇年一二月にハンブルグで逮捕された。そのちかくで材木の切りだしの仕事にやとわれていたというから、戦後の一五年間以上も森林地帯に身を隠していたらしい。ニュルンベルグ裁判にはかけられていない。そのために無視されやすかったとも考えられるが、それだけでは説明しきれない問題点がおおい。
 第一の問題点は、アメリカの戦争避難民委員会(WRB)の報告の仕方にある。この報告は、ニュルンベルグ裁判における検察側の告発の下敷きとなったものだが、ホェスの後任の二人の司令官については、なぜか、まったくふれていない。一九四四年、つまり、ベイアーが身を隠す前の現役司令官時代に作成された報告だということになっているが、それがまずあやしい。
 第二の問題点は、ベイアーの死因である。直後に「毒殺」を疑う声がでているのに、当局は解剖による検死をおこなわず、火葬を強行している。
 第三の問題点は、ホェス「告白」、およびホェスとベイアー、そのほかの責任者の上下関係からでてくる。
 もしも「ホロコースト」物語が本当だとすれば、最高の地位の命令者はヒトラー総統であろう(ゲーリングだという説もあるが、否認したまま死刑を宣告され、絞首刑の執行直前に自殺)。だが、虐殺を実行する組織は親衛隊だから、その総司令官のヒムラーも知っていなければならない。もしもヒムラーから、最終期には傍系となる政治部のホェスをとおして命令が極秘に伝達されたと仮定しても、現場の収容所司令官をぬきにして命令が実行されるはずはない。その一人だったはずの最後のアウシュヴィッツ司令官が、ベイアーである。つまり、ホェスのほかに最低限、ヒトラー(またはゲーリング)、ヒムラー、ベイアーは、極秘計画を知っていなければならない。
 ところが、ヒトラーは愛人と一緒に自殺してしまった。ヒムラーも「自殺」とされており、ベイアーも「不審の死」をとげたのである。ヒムラーの場合は、イギリス軍に尋問されている最中に、「一人で部屋にいた時、カプセル入りの毒を飲んで死んだ」とされている。結果として「死人に口なし」となった。
 以上のように消去法で考えてみると、「ホロコースト」計画が本当なら絶対に知っていなければならないヒムラーとベイアーが、なぜかともに、不審な死にかたをしている。そして、最終期には傍系で、すくなくとも一九四三年から四五年のことは、知らなくてもいいはずのホェスの「告白」のみが生きのこっていることになるのだ。
 ベイアーというミッシングリンクの意味について、わたしはとりあえず、つぎのような問題点を設定してみた。。
(1)リヒアルト・ベイアーはもともと、議論の余地なしに、アウシュヴィッツ収容所についての第一級の目撃証人である。同時に、もしも収容所における犯罪的事実が立証された場合には、現地の最高責任者として、実行犯の最高刑を課せられるべき立場にあった。
(2)「ガス室を見たことはないし、そんなものが一つでも存在するなどということも知らなかった」というベイアーの主張が、そのまま被告側の供述として一九六三~一九六五年のフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判に提出されたならば、検察側は、それをくずすための反証となる証言や物的証拠をそろえなければならなかったはずだ。
(3)もともと、ニュルンベルグ裁判の中心となった国際軍事裁判の法廷では、ゲーリングをはじめとするナチス・ドイツの首脳陣が、ニュアンスに相違はあっても一様に、絶滅政策を知らなかったと主張していた。それなのに、ホェスの「告白」のみが実地検証抜きに採用されたわけである。だが、ベイアーの否認は、被告の首脳陣の否認よりも格段に直接的であり、ホェスの「告白」を足元からくつがえす効果をもっていた。
(4)以上のような裁判上の不備をおぎうためにこそ、一九六三~一九六五年のフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判が設定されたはずであるが、なぜかその開始直前に、ベイアーは急死した。結果として、「アウシュヴィッツについてのもっとも重要な目撃証人は永遠に沈黙させられ」たのである。
 以上のような決定的に重要な問題点の材料を、クリストファーセンの回想録やシュテーグリッヒの著作は指摘していることになる。
 なお、その後、一九九二年発行の『アンネ・フランクはなぜ殺されたか』の巻末一覧に、「リヒアルト・ベア」がふくまれているのを発見したが、その説明の「アウシュヴィッツ第一収容所長」は舌たらずである。ベイアー(ベア)は、その地位からアウシュヴィッツ全体の司令官に昇格している。しかも、それ以外の記述は「一九六三年、裁判の前に自殺」だけである。

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『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
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第1部:解放50年式典が分裂した背景
第一章:身元不明で遺骨も灰も確認できない「大量虐殺事件」 9/10

 ニュルンベルグ裁判の全体像についても、決定的な見なおしが必要であろう。
 ナチス・ドイツの首脳部を裁いた主要法廷の国際軍事裁判について『東京裁判ハンドブック』では、東京裁判(正式には極東国際軍事裁判)と比較して、つぎのように評価している。
「判決が急がれたこともあり、膨大な証拠資料となった文書の山を前にして、ナチ体制の実態についての理解・認識が、裁判官側さらには検察官側でさえ必ずしも十分なものとはいえなかった」
『六〇〇万人は本当に死んだか』では、ニュルンベルグ裁判を「歴史上もっとも恥ずべき法の名による茶番狂言」と手きびしく断定している。これは決して、かたよった批判だとはきめつけがたい。
 なぜならウィーバーの論文、「ニュルンベルグ裁判とホロコースト」によると、当時のアメリカの議会でも、「ニュルンベルグ裁判は、この歴史のページをわれわれが永遠に恥としなければならないほどアングロ・サクソンの正義の原則に反しており、不愉快きわまりない。……ニュルンベルグの茶番狂言は復讐政策の最悪の表現だ」という発言があった。「共和党の良心」として広くしられたタフト上院議員も、「勝者による復讐裁判」では正義の実現は不可能だと指摘していた。長年のソ連大使としても国際的に知られる外交官で歴史家のジョージ・F・ケナンも当時、ニュルンベルグ裁判の企画全体を、「ぞっとする」とか「あざけりの的」という表現をもちいて非難していた。
 注目すべきことには、その当時、ユダヤ人のなかにもおなじ警告を発していた法律家がいた。ニューヨーク大学教授のミルトン・R・コンヴィッツは、ニュルンベルグ裁判が「もっとも原則的な法的手続きのおおくを無視している」として、つぎのように論じていた。
「われわれのナチスにたいする政策は、国際法とも、わが国の外交政策とも矛盾する。……ニュルンベルグ裁判は、人類が何千年もかかってきずきあげてきた正義についての基本的な概念にたいして、現実的な脅威をなしている」
 すでに指摘したように日本のいわゆる平和主義者には一般的に、日本の戦争犯罪を裁いた東京裁判(極東軍事裁判)が不完全だったことの反省から、必要以上にニュルンベルグ裁判を美化してきた傾向がある。それは、ニュルンベルグ裁判がドイツの戦争責任を、日本のそれ以上にきびしく追及したという点だけに着目した評価だった。しかし、犯罪者にきびしいのはそれなりに結構だが、やってもいない犯罪を拷問で白状させたりするのは、一種の司法犯罪であり、法の権威をたかめるどころか、かえってあらたな無秩序の土台を提供することにつながりかねない。
 ウィーバーは『ホロコースト/双方の言い分を聞こう』の中で、つぎの点を指摘している。
「ホロコースト物語がこれだけ長つづきした主要な理由の一つは、諸強国の政府が[イスラエルと]同様に、その物語の維持に利益を見いだしていたことにある。第二次世界大戦に勝利した諸強国--アメリカ、ソ連、イギリス--にとっては、かれらが撃ちやぶったヒトラーの政権をできるかぎり否定的にえがきだすほうが有利だった。ヒトラーの政権が、より凶悪で、より悪魔的に見えれば見えるほど、それに応じて連合国の主張が、より高貴な、より正当化されたものと見なされるのである」
 ニュルンベルグ裁判の基本構造の土台には、やはり、「諸強国の政府」の「利益」があった。おおきくいえば戦後の全世界の勢力範囲あらそいという「利益」追求が先行した仕事だったからこそ、裁判のあり方にも欠陥が生じたのだ。
 細部の問題点をあげれば本当にきりがない。『二〇世紀の大嘘』では、つぎのように要約している。
「おおくの事件では、“被告弁護人”がドイツ語を話せず法的資格のないアメリカ人だった。法廷には資格のある通訳が配置されていなかった。“検察当局”もまた法的資格をかいていたし、一〇人のアメリカ軍人で構成する“裁判官”も同様だった。一人だけ法的資格のある裁判官がいたが、その裁判官が証拠の認定にあたえる影響力は一番よわかった」

弁護団が記録を利用できず、被告に有利な証拠が突然「消滅」

 被告側の弁護人は、しかも、裁判にはかかせない証拠の利用について、はなはだしく不利な立場におかれていた。
 すでに紹介ずみの『ニュルンベルグ裁判』という本は、決して「ホロコースト」物語批判を目的として書かれたものではないが、そこにも事実の一端がしるされている。この本では、まず、連合軍が総力をあげてドイツの文書を押収し、「記録センター」に集中した状況をえがく。ところが法廷での実情は、つぎのように大変不公平なものであった。
「かくて検察側は、記録と記録保管所を自由に使えたわけであるが、これらについて弁護側のほうは、そんなものが存在することすら知りもしなかった。[中略]検察側はニュルンベルグでは(弁護団とは反対に)いつでも自分たちが必要と認めたものは、あらゆるところから手に入れることができたのである。ところが弁護団が見ることができるのは、無数の詳細なデータ、関連書類のうち[中略]、たいてい、有罪証拠物件だけで、多くはまったく知らないものばかりだった。これに反し、検察側はそれらを記録として証明できるのであった。被告側に有利な資料を探し出す可能性は、弁護団には皆無だった。
 弁護団が、検察側の引用する記録を見せてほしいと要求しても、その記録が「消滅している」ことも、珍しくなかった。[中略]規約によれば、「重大な」箇所だけ翻訳すればよいことになっていて、(中略)テキストのひどい意味変更、歪曲、誤解が審理の際に生ずることも珍しくなかった。[中略]
 連合国側に場合によっては不利となり、一方被告側の罪を軽減するのに適当と思える数千の記録は、突然姿を消してしまった。[中略]すでに一九四五年の時点で、記録が押収されたり、弁護団の手から取り上げられたり、あるいは盗まれたりしたという事実には、無数の証拠がある。[中略]
 弁護団の証人や援助者は、ときどきころあいをみて、また執拗に脅迫を受けたりして、強引に出廷させてもらえなかったり、あるいは出廷させられることも珍しくなく、さらには自分たちの声明を検閲されたり、押収されたりしたうえで、検察側の証人にされたりした。一九五六年五月になってやっと刑務所入りをしたオズワルド・ポールは、アメリカおよびイギリス役人から尋問を受ける際、椅子に縛りつけられ、意識を失うほど殴りつけられ、足を踏まれ、ついにワルター・フンクの有罪を証明するものを文書で出すと約束するまで虐待された」
 ドイツ人の法律家の場合には、そのうえに、ニュルンベルグ裁判が採用した英米式の訴訟手続きに不慣れだった。審理のすすめかたについて弁護団が抗議したときのジャクソン首席検事の「言い草」は、「数人の弁護人は元ナチスでありました」というものだった。結果として、そのさい、裁判長は弁護団の抗議を却下した。
『六〇〇万人は本当に死んだか』では、ニュルンベルグ裁判を「歴史上もっとも恥ずべき法の名による茶番狂言」と断定した理由をたくさんあげているが、そのなかでも、もっとも決定的とおもえるものは、つぎのような法廷の内部の構成員による告発であろう。
「ニュルンベルグ裁判の背景的事実を暴露したのは、その法廷の一つの首席裁判官だったアメリカ人の裁判官、ウェナストラム判事だった。かれは訴訟手続きの進行状況に愛想をつかして辞任し、アメリカに飛行機でもどったが、置き土産として、裁判にたいするかれの異議を逐一箇条書きでしるした声明を『シカゴ・トリビューン』紙上で発表した」
 法廷構成の欠陥は早くも、当のニュールンベルグ裁判の進行中にも専門家から指摘され、メディア報道にもあらわれていたのだ。「正義は否定された」と主張するウェナストラム判事の「異議」は、いかにも判事らしい慎重な表現になっている。「箇条書き」の異議のなかから、もっとも核心的な法廷の構成の適格性にたいする疑問を要約すると、つぎのようである。
一、「国際検察局」のアメリカ人スタッフが「個人的な野心や復讐心のみによって動く」
一、「ニュルンベルグ裁判の法廷構成員の九〇%は、政治的または人種的な立場から、訴訟事件を利用しようする偏見にみちた人々だった」
一、「検察当局はあきらかに、どうすれば軍事法廷のすべての管理的地位を、帰化証明がきわめてあたらしい“アメリカ人”によって占めることができるかを心得ていた」し、それらの「“アメリカ人”」が「被告人たちにたいする敵意にみちた雰囲気をつくりだした」

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『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
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『週ポ』Bashing反撃)

エルサレムで戦死した将軍は戦争犯罪局の「狂信的シオニスト」

 わたしは可能なかぎり原資料を確認したかったので、「歴史見直し研究所」訪問の帰途、ロサンゼルスの市立図書館に立ちよって、ウェナストラム判事の「置き土産」がのっているはずの新聞を探し、マイクロフィルムからコピーをとってきた。
 通信社は『シカゴ・トリビューン・プレス・サーヴィス』だが、掲載紙は『シカゴ・デイリー・トリビューン』(48・2・23)だった。たしかに『六〇〇万人は本当に死んだか』が引用したとおりの記事があったが、やはり原資料を探してみて良かったと思ったのは、追加の関連記事まで発見できたことだ。しかもその「判事は攻撃(非難)された」という追加記事の書きだしが、つぎのようで興味深々なのである。
「シカゴ・トリビューンの発信記事が発行されるより前に、テルフォード・テイラー准将からのしっぺい返しがあったので、アメリカ軍による報道通信の無線盗聴があきらかになった。わが通信員は六〇日間におなじ経験を二度あじわっている」
「テイラー准将」は国際検察局のトップである。しかし、トップが孤独に趣味の盗聴をするわけはないので、配下のスタッフの構成が気になってくる。
 これにも絶好の材料がある。さきのようにウェナストラム判事が「慎重な表現」で告発した法廷の構成の実態を、おなじくニュルンベルグ裁判に参加したアメリカ人の弁護士、アール・キャロルは、より具体的に報告している。キャロルの報告を『六〇〇万人は本当に死んだか』から要約紹介すると、つぎのようになる。
一、国際検察局のスタッフの六〇%は、ヒトラーによる人種法公布以後にドイツをはなれたドイツ国籍のユダヤ人だった。
一、ニュルンベルグ裁判でやとわれたアメリカ人のうち、実際にアメリカでうまれたものは一〇%以下だった。
一、戦争犯罪法廷のトップはテイラー将軍[ジャクソン主席検事の次席から後任へ昇格]だが、その背後の国際検察局のボスは、元ドイツ国籍のユダヤ人移民、ロバート・M・ケンプナー[ジャクソン主席検事の下では準備チームに参加]だった。
 ケンプナーは、ヒトラーからドイツの市民権を剥奪されたのちにアメリカにわたったのだが、元プロイセン州の公務員という経歴の持ち主だった。バッツは『二〇世紀の大嘘』で九ページをさいて、ケンプナーの経歴とニュルンベルグ裁判における役割を紹介している。ケンプナーは一八九九年うまれでプロイセン州の内務官僚となり、一九二八年から一九三三まではプロイセン警察に上級検事として配属され、とくに当時台頭中のナチ党の調査にあたっていた。シュテーグリッヒ判事はバッツの長文の記述の存在を紹介しながら、「ケンプナーは証言を強要するこで悪名たかかった」としるしている。
 ドイツ語が母国語で、ドイツの官僚組織ばかりかナチ党の内情にもつうじていたケンプナーが、国際検察局の実務部門をにぎるのは当然の帰結だった。ジャクソン主席検事は舞台上の花形役者であり、法律とは無縁のテイラー准将は実際には飾りものでしかなかった。
 では、ケンプナー以下のユダヤ人スタッフの採用を決定したのは、いったいだれだったのであろうか。『二〇世紀の大嘘』によると、これもテイラー将軍ではなくて、アメリカ軍の戦争犯罪局が人事採用の権限を一手ににぎっていた。当時の戦争犯罪局長として「占領下のドイツで“アメリカの政策決定権をにぎるナンバースリー”」とよばれたのは、ウェストポイント陸軍士官学校出身でユダヤ人のデイヴィッド・マーカス大佐だった。
 マーカスは、その後、ミッキー・ストーンという変名をつかって、イスラエル軍の将軍としてエルサレム方面軍の最高指揮官をつとめたが、アラブ側との戦闘中に戦死したために身元があきらかになり、おおいにアメリカのメディアをにぎわしたようだ。横大見出しは、「聖書の時代以来イスラエル軍の将軍の位をはじめてえた軍人」というものだったらしい。バッツ博士は、マーカスを「狂信的シオニスト」と形容している。つまり、その後にも問題をのこす「二重の忠誠心」の先駆者といえるほどの、アメリカ国籍のユダヤ人シオニストの大先輩であった。
「ニュルンベルグ裁判とホロコースト」によると、マーカスとともにニュルンベルグ裁判の企画の中心的な役割をはたしたマレイ・バーネイズ中佐も、ユダヤ人だった。ニューヨークで成功した弁護士出身のバーネイズは、アメリカ軍の首脳を説得して、敗残のドイツの指導者を裁くという企画をうけいれさせた。
 以上のことからあきらかなように、ニュルンベルグ裁判では、「自分自身がかかわる事件については、だれも審判の席に座ることはできない」という基本的な法的原則は、まったく無視されていた。もともと世間一般に、ニュルンベルグ裁判についても東京裁判についても、「勝者が敗者を裁く」という法廷の構成にたいする疑問が提出されていた。ところがここでは、それより数段うえの、または、これ以上の可能性が考えられないほどの「復讐」の場としての、法廷の構成の仕方への疑問が提出されているのだ。
「復讐」はまた、あらたな「復讐」をよぶ。現在台頭中のドイツのネオナチなどは、さしずめ、ニュルンベルグ裁判の基本的欠陥が必然的にうみおとした「鬼っ子」というべきであろう。
 ところで、以上のようなニュルンベルグ裁判の企画全体を知ったうえでならば、ニセ証人、ニセ証拠がふんだんにあらわれたという主張を紹介しても、もはや、いささかもおどろく理由はないであろう。ウィーバーは「ニュルンベルグ裁判とホロコースト」で、矛盾だらけで「偽造」があきらかな文書がたくさんあり、すでに裁判当時に法廷で疑問がだされていたという事実を列挙している。有給のニセ証人もたくさんいた。ここでは、そのもっとも典型的な例だけを訳出しておこう。
「ダッハウでの裁判の進行中におきた悲喜劇的な小事件が[ニュルンベルグ裁判]全体の雰囲気を示唆してくれる。アメリカの検事、ジョセフ・キルシュバウムは、アインシュタインという名のユダヤ人の証人を法廷につれてきて、被告のメンツェルがアインシュタインの兄弟を殺したという証言をさせようとした。ところがなんと、その当の兄弟[つまり、生きている実物]が法廷のなかにすわっているのを、被告が発見して指さしてしまったので、あわてふためいたキルシュバウムは、証人をつぎのように怒鳴りつけたのである。
『兄弟を法廷につれこむなんて馬鹿なことをしやがって、これでどうやれば、この豚を絞首台においあげられるっていうんだ』」

 以上、本章では、殺人事件ならまず最初に発見されなければならない「死体」の存在への疑問から出発して、いわば「死体なき殺人事件」を事実だと判定した法廷への疑問におよんだ。
 本章の最初に指摘したように、「ホロコースト」物語の説明では、「死体」は焼かれ、「遺骨」はくだかれて「灰」と一緒に埋められたことになっている。「それだけの灰は発見されていない」という疑問も早くからだされている。マイダネク収容所跡には、「犠牲者の灰」を収めたという説明板のある記念のドームがあるが、その「灰塚」の規模では、せいぜい数百人から数千人分であろう。病死などの自然死だけでも、それだけの数字になるはずだ。





(私論.私見)