第1部第1章1の1、解放50年式典が分裂した背景

 (最新見直し2012.04.14日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「第1部第1章1の1、解放50年式典が分裂した背景」を転載しておく。

 2012.04.13日 れんだいこ拝



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『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
(8)
第1部:解放50年式典が分裂した背景

『週ポ』Bashing反撃)

~「四〇〇万」が「約一五〇万」に訂正されたアウシュヴィッツ記念碑~

 一九九五年一月二六日、『マルコ』廃刊決定の直前に開かれたアウシュヴィッツ現地の解放五〇周年記念式典は、戦後史上はじめてふたつに分裂していた。なぜだろうか。
 ポーランドでの記念式典開始の前日、「ポーランド政府の姿勢にユダヤ人協会が反発するなど不協和音も顕在化」(産経95・1・25)しているというベルリン発の報道があった。「ユダヤ人の組織『国際アウシュヴィッツ委員会』のゴールドシュタイン氏が『ワレサ大統領はアウシュヴィッツ虐殺のポーランド化を狙っている』と非難」しているというのだ。
 結果として、「二十六日午後、ポーランド政府主催の式典とは別に、ユダヤ人諸団体がアウシュヴィッツ収容所と隣接するビルケナウ収容所跡で独自に式典を開いた」(毎日95・1・27夕)。だが、この記念式典の分裂の意味を深く追及した大手報道は皆無だった。
 前年の一九九四年の一二月七日にわたしは、右のユダヤ人諸団体が記念式典を行った場所を訪れていた。元ビルケナウ(アウシュヴィッツ第二キャンプ)収容所は、アウシュヴィッツ博物館があるメインキャンプの跡からは三キロほどはなれている。位置関係は前頁の地図(Web公開では省略。原本p.50)のようになっている。そのビルケナウのだだっ広い収容所跡のいちばん奥に、戦後に建造されたモニュメントとヨーロッパ各国語の記念碑がならんでいる。
 写真(1.Web公開では省略。原本p.52)がモニュメントで、写真(2.Web公開では省略。原本p.53)が英語版の記念碑である。碑文の中の「犠牲者」の数は「約一五〇万人」になっている。
「歴史の真実」と題する朝日新聞(94・5・10)のコラムでは、この間の事情を、つぎのような書きだしでつたえていた。
「ポーランド・アウシュヴィッツの元ナチス強制収容所の碑に刻まれた犠牲者の数字が、今年中にも改められる予定である」
 これまでの碑文では「ユダヤ人ら四〇〇万人の犠牲者」となっていた。それが「約一五〇万人」にあらためられた理由は、同記事によればつぎのようである。
「数年前にここの収容所博物館のポーランド人研究者が精密な論文を発表した。(中略)結論は『百十万人から、最大でも百五十万人を超えない』だった」
 つまり、碑文には論文の数字の上限が採用されたわけである。
 現地でわたしは、「大学教授のヴォランティア」と自己紹介する老人の案内役の解説を聞いた。かれが碑文の「約一五〇万人」を知らないはずはないのだが、なぜか、二度もくりかえして「一二〇万人」と説明していた。これも一応、論文の範囲内の数字である。それにしてもさしひき約三〇万人の差は、大きい。
「約一五〇万人」への改訂は、「同博物館を支える国際評議会の決定」だというのだが、なぜ「数年」もかかったのだろうか。
 わたしがその後に日本国内でえた耳情報では、つぎのような事情だった。
 この「数年」の期間もふくめて四十数回もアウシュヴィッツにかよったという日本の研究者によると、この「数年」にわたってポーランド政府はイスラエルからの厳重な抗議をうけていた。外交関係の断絶にまで発展しかねず、当局の判断はゆれにゆれつづけていたというのが真相らしかった。シオニストの妥協の条件の一部とおもわれるものは、当の朝日新聞の記事にも、つぎのようにあらわれていた。
「『四百万人』には、他の収容所の犠牲者も混じっており、従って六百万人といわれるユダヤ人犠牲者全体には変わりはない、としている」
 こうやって当面、「六〇〇万人」を維持する気なのかもしれないが、四〇〇万人から引くことの約一五〇万人、さしひき約二五〇万人の数字の員数不足は、どこの収容所で帳尻を合せるつもりなのだろうか。その説明はどこにもない。
 数字いじりだけの説明自体にも、まだまだ疑問があるが、「四〇〇万」と「一五〇万」の相違には、質的な問題がはらまれていると直感すべきだろう。また、基本的には、推定できる「移送者数」から「生存者数」をさしひくという研究の結果なのだから、犠牲者の死因までがすべて明確にされたわけではない。
 わたしは、碑文の改訂を自分の目で確認した翌日、八日の午前一〇時、アウシュヴィッツ博物館のインフォメーション窓口で、「収容所博物館のポーランド人研究者」こと、歴史部主任のフランチシェク・ピペル博士に面会を申しいれた。わたしが窓口にさしだした名刺には「フリージャーナル代表」とあるが、実態は、まったくの個人営業のフリーランスである。それでも、すぐに面会の予約ができた。一一時半に元収容所の建物の中にある研究室にきてくれというのだ。わたしはそれを、昼休みまでの三〇分は会ってくれるという意味だと解釈し、焦点をしぼったみじかい質問をいくつか用意した。
 ピペルは、わたしが最初にいきなりはなった「ポーランドとイスラエルの外交上の紛争があったと聞くが」という趣旨の直接的な質問にたいして、別によどみもせずに答えた。くわしい内部事情を語りながら、ときおり唇をうえにゆがめ、フランス人がよくやるように、両手のてのひらを広げて肩をすくめてみせた。両国政府の間にはさまったピペルらの「数年」の苦労の表現である。
 ピペルによると、数字の問題のかげにあったイスラエルの要求は、犠牲者の中のユダヤ人の比率を九〇%にせよということだった。
 ピペルの研究報告は、ドイツ語でA5判二四八ページの本にまとめられている。博物館の売店では、このドイツ語の本と一緒に、B6判六八ページの英語版抄訳を売っていたので、両方とも買った。英語版は帰国の途中で通読した。ドイツ語の方も、めくるだけはめくってみて、写真版になっている原資料の利用状況をたしかめた。概略の判断をいうと、これまでの諸説と移送者名簿などの部分的な原資料を照合しながら、結果として中間的な数字の平均を採用しているようである。何ヵ所かでは、たかい数字とひくい数字を切りすてている。いわゆる「妥当」な数字のだしかたという手法である。この問題について、こういう研究方法が正しいかどうかは、おおいに議論の余地があるところだろう。
 とくに重要なのは、従来のこの種の「ホロコースト」研究の場合と同様に、「登録されていない収容者」という数字が大量にふくまれていることである。だが、「登録されていない収容者」がいたというのは伝聞情報であって、それを裏づける物的証拠はないだ。
 ピペルは最後に、「一九四〇年から一九四五年までのアウシュヴィッツ=ビルケナウにおける犠牲者数」という一覧表を掲げているが、犠牲者の概数の一一〇万人のうち、「登録されていない収容者」は九〇万人になっている。さしひき、のこりの二〇万人のみが「登録された収容者」の中の「犠牲者」である。つまり、記録で確認できる「犠牲者」、または収容所内での死亡者の総数を、ピペルは約二〇万人と算定しているのである。
 この「約二〇万」という数字の細部の根拠は、わたしにはわからない。だが、収容所の当局が記録した死亡者の死因は、当然のことながら「虐殺」ではないはずだ。
 さらに興味深かったのは英語版抄訳のされかたであった。一九九一年にエルサレムで、『ヤド・ヴァシェム研究』誌の二一巻にのったのが、英語版の「最初の公刊」なのである。同誌の発行元の「ヤド・ヴァシェム研究所」は、イスラエル国家あげての「ホロコースト」研究の中心であり、当然のことながら、世界最大の「絶滅論」の拠点である。
 ピペルには、この問題のほかに二つの質問をした。それぞれに興味深い回答をえているが、それらはまた別の箇所で紹介したい。
 その後に発行されたフランスの名門時事報道週刊誌『レクスプレス』(本国版95・1・19/25、国際版95・1・26)のメイン記事、「アウシュヴィッツ/悪の記念」によると、「約一五〇万人」という数字への変更の決定を下したのは「ポーランド共和国大統領官房」であった。一九九五年一月二六日のアウシュヴィッツ現地での記念式典が、ポーランド政府主催とユダヤ人組織主催の二つに分裂した経過の遠因は、このあたりの事情にあるのかもしれない。
 このように、アウシュヴィッツでの犠牲者の数字に異議を提出してきたのは、決して「ホロコースト」否定または見直し論者だけではない。「アウシュヴィッツ犠牲者は80万人」(毎日93・10・14)という著作例の報道もあったが、「モスクワの国立古文書館や国家保安委員会(KGB)に保存されていた資料を十年かけて分析」(同記事)したフランス人のプレザックは、途中で意見を変えて反対側に移った「反・見直し論者」である。
 ヒトラー政権以前にドイツ国籍だったユダヤ人の国際政治学者、ウォルター・ラカーの著書、『ドイツ人』によれば、ドイツのナチ党関係の「古顔」たちは「目立たぬ場所で集会」を開き、「内部的な会報」で意見を明らかにしていた。大部分はヒトラーの「行き過ぎ」を「簡単に認め」、「ユダヤ人皆殺しは誤り」だとしていたが、数字についての見解は、つぎのようであった。
「彼らによれば、『六〇〇万人』の神話はたちの悪い嘘であって、殺されたユダヤ人の数は数十万人を超えないはずであった」

(9) 「六〇〇万人」のユダヤ人犠牲者という数字の根拠は?

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『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
(9)
第1部:解放50年式典が分裂した背景
第一章:身元不明で遺骨も灰も確認できない「大量虐殺事件」 1/10

『週ポ』Bashing反撃)

「六〇〇万人」のユダヤ人犠牲者という数字の根拠は?

「ホロコースト」物語をひとつの犯罪事件の告発として考えると、その第一の特徴は、「死体なき大量殺人事件」だということになる。もっとも典型的な「ガス室」における「計画的大量虐殺」の場合の「死体処理」についての説明は、つぎの順序である。
(1)「ガス室」で殺した。
(2)「焼却炉」(火葬場)で焼いた。
(3)焼け残りの骨を「骨粉製造機」にかけるなどして「灰」にした。
(4)その「灰」を「川、森林原野、畑」に撒いた。
 結果として「死体がない」ので、「ホロコースト」物語の映像としては常に「チフス患者の死体」が死因の説明なしにつかわれている。これをまず訂正しなければ、絶滅説は、「最初から嘘ばかり」という非難をまぬかれることはできない。
 通常の殺人事件の場合ならば、たとえ被疑者の自白があっても、「灰」の実物の存在まで突き止めなくては有罪にはできないだろう。しかし、ニュルンベルグ裁判では、まったく実地検証をしていない。「川」にながした分は無理だろうが、「森林原野、畑」の分は、当時でも現在でも検証が可能なはずだ。
 つぎに問題になっているのは、「六〇〇万人」のユダヤ人犠牲者という、最大の数字の根拠である。映画『シンドラーのリスト』の最後の画面にも、この数字がはいっていた。
 公式の認定という意味では、この数字を確認したのはニュルンベルグ裁判の判決であるが、ニュルンベルグ裁判と総称されている一連の軍事裁判には、いくつかの段階と種類のちがいがある。
 いちばんの中心は、一九四五年から四六年にかけて、アメリカ、ソ連、イギリス、フランスの各国政府が共同でおこなった「国際軍事裁判」である。この裁判では、ナチス・ドイツの首脳が、各種の既存国際法による戦争犯罪にくわえて、あらたに提起された「平和に対する罪」および「人道」についても有罪を宣告された。つづいておなじくニュルンベルグで、アメリカ政府が独自の軍事裁判をおこなった。アメリカ政府は別途、ダッハウ元収容所でも軍事裁判をおこなっている。イギリスも独自にリューネブルグとハンブルグで同様の裁判をおこなった。以後、西ドイツ、イスラエル、アメリカが、それぞれ「ホロコースト」関連の裁判をつづけており、一九六三年から一九六五年にかけても、フランクフルトでアウシュヴィッツ裁判が行われた。
「六〇〇万人」の認定は、いちばんの中心で、しかもいちばん最初のニュルンベルグ国際軍事裁判でおこなわれたまま、その後、変更されていない。
 わたしの手元には、『六〇〇万人は本当に死んだか/最後の真実』(以下、『六〇〇万人は本当に死んだか』)と題するA4判で二八ページの英文パンフレットがある。この題名の論文では、ヒトラー台頭時代のヨーロッパのユダヤ人の人口統計、その後の支配拡大をふくめた地域からの移住数、移民数、戦後の人口統計などを総合した計算をしめして、「六〇〇万人」の数字はまったくの虚構だと主張している。
 第二次世界大戦の前後という時期だから、統計資料は完全ではありえないが、おおすじを推定するだけの材料は十分にある。まず世界中のユダヤ人の人口についての統計から見てみよう。
『世界年鑑』の一九三八年版の統計では、一六、五八八、二五九人である。これを約一六六〇万人としておこう。
 一方、『ニューヨーク・タイムズ』の一九四八年二月二二日号によると、最小で一五〇〇万人、最大で一八〇〇万人となっている。
 最大値の場合には、一九三九年から四五年までつづいた第二次世界大戦を間にはさむ一〇年間に、ユダヤ人の世界全体での人口は約一四〇万人ふえていることになる。
『チェンバーズ百科事典』の一九三九年の統計によれば、「ナチ・ヨーロッパ」[ナチス・ドイツの支配下にはいったヨーロッパ]のユダヤ人の人口は、六五〇万人だった。「六〇〇万人」が本当に虐殺されたとすれば、そのほとんどにあたる。
 ところがまず、中立国スイスの統計によると、一九三三年から四五年にかけて、一五〇万人のユダヤ人が、イギリス、スウェーデン、スペイン、ポルトガル、オーストリア、中国、インド、パレスチナ、アメリカに移住している。そのほかの移住の数字をあわせて計算すると、ヨーロッパのユダヤ人の人口は約五〇〇万人に減少していることになる。そのうち、ポーランドなどからソ連に移住したのが約一五五万人、連合国側と中立国で生きのこっていたのが四〇万人以上である。
 結局、ナチス・ドイツの支配下にのこっていたのは約三〇〇万人あまりにしかならない。しかも、その全部が収容所にはいっていたわけではない。
 ユダヤ人の国際組織の推定によると、「ナチの地獄を生きのびた」ユダヤ人の数は、一、五五九、六〇〇人となっていた。これを約一五六万人としてみよう。ナチス・ドイツの支配下で減少したユダヤ人の人口の総数は、約一五〇万人以下となる。
『六〇〇万人は本当に死んだか』が採用した以上のような数字は、移住などの減少をすべて控え目に計算したものである。
『二〇世紀の大嘘』では、さらにくわしい統計資料をもとに論じているが、おおすじの結論は同様である。しかも、のちに紹介するカナダのツンデルが、一九九四年の末にわたしあての航空便でおくってきた「自由放送」の録音テープによると、その後さらに「ホロコーストの生きのこり」の数はふえつづけている。イスラエルとドイツがむすんだ協定で補償金がでるので、「ユダヤ人であることを隠してくらしていた」などといって、つぎつぎになのりでる生存者がいるのだ。その数を合計すると、一九九四年現在で、「ホロコーストの生きのこり」は約三四二万五千人までふえた。なんと、さきにしめした『六〇〇万人は本当に死んだか』による計算、「ナチス・ドイツの支配下にのこっていたのは約三〇〇万人あまり」を、完全にうわまわってしまうのである。
 しかし、この時期にユダヤ人の人口が増加したというのは、やはり信じがたい。もともと、ユダヤ人独自の戸籍登録簿などはなかったのだから、戦前の統計数字も推定にすぎない。ヨーロッパ全体で数十万単位の誤差は、あって当然と考えるべきだろう。

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『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
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第1部:解放50年式典が分裂した背景
第一章:身元不明で遺骨も灰も確認できない「大量虐殺事件」 2/10

「ホロコーストの生きのこり」については、朝日新聞の特集記事、「問われる戦後補償、下」(93・11・14)にも数字がしるされている。「連邦補償法」の対象が「二二〇万件」、「16カ国との包括補償協定」の対象者が「二〇万人」である。「連邦補償法」の対象については、おなじ朝日新聞社がその後に発行した『アエラ』(94・8・29)で、「約二百万人」(件)になっている。さしひき「二〇万件」または「二〇万人」の数字の差がある。おおざっぱな話だが、「件」と「人」とは、おなじものらしい。そうだとすると、「二二〇万」と「約二〇万」を足して「約二四〇万」人と考えていいのだろう。
 そのほかに「州による補償」などの、対象人員数がしるされていない部分がある。『アエラ』のほうには、一九九三年の暮れにドイツが、「新設したロシア基金に四億マルク(約二百六十億円)、ベラルーシ(白ロシア)とウクライナ基金にそれぞれ三億マルクずつ払い込んだ」とある。これも補償の対象人員はわからないが、ツンデルの「もう一つの自由の声放送」によると、旧ソ連でナチス・ドイツに占領された地域にすんでいたユダヤ人には、移住の際に補助金がでているそうである。旧ソ連からは、湾岸戦争後に大量のユダヤ人がイスラエルに移住した。ツンデルの三四二万五千人という数字には、これらのすべての補償の対象人員がふくまれているらしい。「いちばん重要なことは、メディアが総計数字を隠蔽していることだ」というのがツンデルの主張である。
 たとえば朝日新聞は、一九九五年の元旦から「深き淵より/ドイツ発日本」と題する連載特集記事をくんだ。この年は、ドイツにとっても日本にとっても、「戦後五〇年」だからである。
 その第一回の記事には、「約六百万のユダヤ人を虐殺した『ホロコースト』は、生存者四十万人に深い傷を残している」とあった。「約六百万」のほうは情報源がわかっているから、別におどろくことはない。だが、「生存者四十万人」の根拠はいったい何だろうか。早速、電話でたしかめてみた。さいわい、執筆者担当者本人に聞くことができたが、イスラエルの国立ヤド・ヴァシェム博物館が発表している数字そのままなのだそうである。いかにもすくないし、さきにあげた朝日新聞の報道とも矛盾する。それらの疑問点をただしたところ、執筆を担当した記者自身がデータの錯綜ぶりになやんでいるい。
 連載の第二回では、「六百万ものユダヤ人を虐殺したというが、数はもっと少なかったはずだ」という発言者不明のコメントをのせている。これでバランスをとっているのだろう。「発言者不明」にした理由はあきらかにドイツの刑法改正にある。ドイツではいま、この種の発言をしたことが発覚すれば、「最高禁固五年」の刑に問われるのである。
 ポール・ラッシニエの著書『ヨーロッパのユダヤ人のドラマ』(『ホロコースト物語とユリシーズの嘘』所収)では、ホロコースト史家として著名なユダヤ人のラウル・ヒルバーグの研究を紹介しつつ批判しているが、ヒルバーグ説では戦前のヨーロッパのユダヤ人の人口は「九一九万人」になっている。その内の「三〇二万人」がロシアにいたことになっているので、それを差し引くと「六一七万人」にしかならない。
 最近の著作の例で見ると、『中東軍事紛争史・・』の「一九四〇年頃におけるユダヤ人分布」(出所「ユダヤ年鑑」)では、「ヨーロッパ」のユダヤ人が「九八九万五〇〇〇人」になっている。ヒルバーグの計算よりも八〇万五〇〇〇人おおいが、国別の明細はしるされてない。
 戦争中のソ連やアメリカへの移住の数字については、これまた諸説あるようだ。国境線の長い超大国の場合、普段でも違法移民をふせぐのはむずかしい。戦時の避難民の流入に関しての調査は、さらに困難なのではないだろうか。
 このような過去の人口統計についての議論も、オープンに展開してもらいたいものである。たとえば、本書の巻末に収録した『東ヨーロッパのユダヤ人社会の分解』などは、三二九ページのほとんどすべてが人口統計資料の分析に当られている。
 この問題についても、専門家集団による綿密な国際的共同作業の実現を期待したい。
 では逆に、「六〇〇万人」という数字はどういう根拠で計算されたものだったのだろうか。
 そのこたえの一つは、大型パンフレット『移送協定とボイコット熱1933』のなかの「“六〇〇万”は早くも一九三六年に」という項目にしるされていた。これによると、ハイム・ヴァイツマン(英語読みはワイズマン)が、一九三六年一二月二五日にエルサレムでおこなった演説のなかですでに、つぎのように「六〇〇万人」という表現をしていた。
「六〇〇万人のユダヤ人が、かれらを必要としない地域[ヨーロッパのこと]におしいっていると非難されている」
 ヴァイツマンは、この発言の当時、世界シオニスト機構の議長であリ、一九四八年にはイスラエルの初代大統領に就任した。文脈から判断すると、ヴァイツマンは「六〇〇万人」をヨーロッパのユダヤ人全部の数字としてつかっている。
 さらに戦後の一九四五年、ヴァイツマンは、ときのイギリス首相ベヴィンと会談した。『ユダヤ人問題とシオニズムの歴史』では、その会談の内容の一部を、ヴァイツマンが一九四五年にアトランティック市でおこなった演説を報道した『JTAビュレティン』(45・12・23)からの引用によって、つぎのように紹介している。
「ベヴィンがユダヤ人はあまりに先頭に立とうと努めすぎると非難した時、ワイズマンは、六〇〇万人の大虐殺の後で、生き残った人々がユダヤ人の郷土の避難場所を求め、一〇万人の移民許可を要求したとしても、それは多大なことであろうか、と尋ねたのである」
 これらの文脈の「六〇〇万人」は、さきにあげた「ナチス・ドイツ時代のヨーロッパにおける一九三九年のユダヤ人の人口」の「六五〇万人」とほぼ匹敵する。ヴァイツマンらにとって「六〇〇万人」という数字は、「ヨーロッパのユダヤ人の総人口」の意味だったと考えれば、それなりに計算のすじがとおる。
 日本でも、むかしはよく「一億の民」という表現がつかわれていた。
「六〇〇万人の大虐殺」はもともと、単純に「皆殺し」の意味だったのではないだろうか。そうだとすれば、数字の議論そのものがむなしくなるような話である。
 ラッシニエは『ヨーロッパのユダヤ人のドラマ』(前出)の冒頭で、ヒルバーグの数字の自己矛盾をいくつか指摘している。それによるとヒルバーグは、ユダヤ人犠牲者の総数を「六〇〇万人」ではなくて、「五一〇万人」にしたり、「五四〇万七五〇〇人」にしたりしている。内訳は、「ガス室」によるものが、アウシュヴィッツで「一〇〇万人」、より「設備の悪い」他の収容所で「九五万人」、小計で「一九五万人」になる。「アインザッツグルッペン」(親衛隊員で編成された東部戦線の遊撃分隊)によるものが「一四〇万人」、のこりがさらに「能率の悪い」収容所での数字だが、これが「一七五万人」になったり、「二〇六万九五〇〇人」になったりしているというのだ。
 いずれにしても、これらの数字は、ニュルンベルグ裁判の主要法廷、国際軍事裁判で「六〇〇万人」の概数が認定された以後の試算によるものである。ただし、『ロイヒター報告』の指摘によると、そこで提出されていた証拠「L・022」では、一九四二年四月から四四年四月までの間に、ビルケナウだけでも「一七六万五〇〇〇人」の「ガス殺人」がおこなわれたという主張になっていた。ヒルバーグによるアウシュヴィッツの「一〇〇万人」は、この証拠「L・022」以下である。

(11) 「約一五〇万」は元収容所司令官ホェス「告白」の範囲内

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第1部:解放50年式典が分裂した背景
第一章:身元不明で遺骨も灰も確認できない「大量虐殺事件」 3/10

 アウシュヴィッツの「四〇〇万人」という数字について、朝日新聞は、つぎのようにしるしている。
「収容所を解放したソ連軍の特別調査委員会が元ナチ親衛隊員らの尋問をもとにまとめた数字で、戦犯裁判などでもおおむね妥当とされてきた」
 だがもともと、この「四〇〇万人」説についても最初から疑問があった。
 とくに重要なのは、「元ナチ親衛隊員」の中でも最高の地位にあった元収容所司令官の「ルドルフ・ヘスの告白」とされるものが、五つもあり、それがくるくるかわっていたことだ。この「ヘス」(Hoss)[oは上に2つの丸い点が付くオー・ウムラウト]は、ナチス・ドイツ副総統でイギリスにパラシュート落下して和平工作を試みたルドルフ・ヘス(Hess)と、従来の慣行の日本語表記ではおなじになっているが、まったくの別人である。しかも、「へ」に当たる母音がeとo(オー・ウムラウト、「オ」と「エ」の中間音、英語ではoeとも表記する)でちがっており、日本語では「ホェス」または「ヘォス」の表記がただしい。以下では「ホェス」と表記する。また、本書では副総統のルドルフ・ヘスにはふれないので、以下で登場する引用文中の「ヘス」はすべて、「元収容所司令官のホェス」である。ホェスは、ソ連軍ではなくてイギリス軍に逮捕された。、ホェスがアウシュヴィッツ収容所の司令官だったのは、本格的な収容所建設がはじまった一九四〇年から四三年までの三年間である。
 前掲の朝日新聞報道をさらにくわしくしたのが、『週刊金曜日』(94・7・15)の見ひらき二ページの記事、「アウシュヴィッツの犠牲者数の変遷」である。この記事では、さきの「精密な論文」について、「収容所博物館歴史部主任F・ピペル博士により、一九九〇年七月に発表されたもの」としている。「数年」を正確にかぞえると、一九九四年の碑文の数字訂正決定までに「四年」が経過していることになる。さらに同記事はホェスが、ソ連軍が「四〇〇万人」説をだした調査の直後の、一九四六年四月一五日にニュルンベルグ裁判で証言した内容を、つぎのように要約して紹介している。
「アウシュヴィッツにおいては二五〇万人がガス室で殺され、そのほか五〇万人が飢えと病気で死亡した」
 ホェスは、その後、「犠牲者の総数は一一三万人であったと前の証言を訂正」したりしている。だから、「精密な論文」以後の「四年」間のゆれの結末の約一五〇万人は、ホェス「告白」のゆれの範囲内にとどまっていることになる。
 ホェス「告白」は、ニュルンベルグ裁判の判決でも最大の根拠となったが、その最大の数値がもともと「二五〇万」だった。だから、ソ連発表の「四〇〇万」は最初からあやしい数字だったのだ。これまでアウシュヴィッツはソ連の勢力範囲にあったから、その数字のままだったにすぎないのである。
 見直し論者から提出されている疑問は数字だけの問題にとどまらない。ホェスらの「元ナチ親衛隊員らの尋問」によってえられた「証言」、「告白」についての決定的な問題点は、それが連合軍兵士による「すさまじいまでの″拷問″」の結果だったということだ。

(12)ホェスを「拷問」した英国籍ユダヤ人軍曹の確信犯的「自慢」

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第一章:身元不明で遺骨も灰も確認できない「大量虐殺事件」 4/10

『週ポ』Bashing反撃)

ホェスを「拷問」した英国籍ユダヤ人軍曹の確信犯的「自慢」

 フランスの歴史家フォーリソンは、「イギリスはどうやってルドルフ・ホェスの告白をえたか」(『歴史見直しジャーナル』86~87冬)という題名の論文で、くわしい分析をしている。
 ホェスは最後にポーランドのクラコウで裁判にかけられ、一九四七年四月一七日にアウシュヴィッツ収容所内(写真3,4.Web では省略)で処刑されたが、その死の直前に書いたとされている「回想録」には、つぎのような部分がある。
「わたしは一九四六年三月一一日に逮捕された。[中略]わたしにたいする最初の尋問における証言は、わたしをなぐってえたものである。わたしはサインはしたが、そこになにが書かれてあるのかは知らない。アルコールと鞭でわたしはまいってしまった。鞭はわたしのものだが、偶然、妻の荷物のなかにはいっていた。それは馬にふれたことすらなく、ましてや収容者にむけられたことなど、まったくなかったというのに」
 わたしの手元には、フォーリソンが引用した英語の原文のとおりの『アウシュヴィッツの司令官/ルドルフ・ホェスの自伝』の英語版のコピーがある。この箇所は、日本の研究者にとって重大な問題をはらんでいる。
 なぜなら、日本語訳の『アウシュヴィッツ収容所/所長ルドルフ・ヘスの告白遺録』でも、イギリス軍による最初の尋問について、「調書に署名はしたものの、それに何と書いてあるか私は知らない」となっている。だがなぜか、「わたしをなぐってえたもの」という決定的な箇所に相当する部分がかけているのだ。しかも、「私の最初の取り調べがはじめられた」の前に、「決定的な証拠にもとづいて」という英語版にはない字句がくわわっている。
 訳者の序文には「全訳」とあるが、そうだとすればその元のドイツ語の原文があやしい。決定的な部分の削除と追加による情報操作の疑いがある。「歴史見直し研究所」でウィーバーに質問したところ、その版は手元にないがドイツ語のテキストには問題がおおいということだった。この件はまだ追跡調査が必要である。
 日本語訳の『アウシュヴィッツ収容所/所長ルドルフ・ヘスの告白遺録』には、この直後に、つぎのような英語版と基本的に一致する部分がある。
「数日後、私は、英軍占領地中央取調機関のある、ウェーゼル河畔ミンデンに送られた。そこでも、私は、英軍首席検察官(陸軍少佐)にいっそういためつけられた。刑務所も、この扱いに応じたものだった」
 文中の「いっそういためつけられた」は、私の訳では、「さらに乱暴なとりあつかいをうけた」である。この部分の「さらに」は、さきの部分の「証言はわたしをなぐってえたもの」の内の「なぐって」がなければ意味をなさない。また、「検察官」の仕事なのだから、「乱暴なとりあつかい」の目的は、それで尋問の効果をあげて、ねらいどおりの「証言」をえること以外にはないはずである。
 フォーリソンの前記論文では、ホェスの手記の公開の仕方自体をも問題にしている。それによると、公開は「やっと11年後」であり、西ドイツ(当時)国立現代史研究所のマーティン・ブロシャット所長の編集の仕方は、「学問的方法を無視」したものである。
 ホェスの尋問調書の一つは英語でタイプされており、下部にホェスのサインがある。本人の母国語のドイツ語でないだけでも大いに偽造の疑いがあるが、ホェスの尋問にあたったイギリス軍の尋問者自身が、のちに拷問の事実をみとめている。
 ホェスを逮捕し、尋問したイギリス軍の軍曹、バーナード・クラークは、イギリス国籍のユダヤ人だった。わたしはさきに紹介したフォーリソンの論文、「いかにしてイギリスはルドルフ・ホェスの告白をえたか」によって、その拷問の経過を知った。出典は一九八三年に発表された『死の軍団』という本で、著者、ルパート・バトラーはクラークとインタヴューしている。『死の軍団』はすでに絶版で入手は不可能だが、これも「歴史見直し研究所」のウィーバーにたのんでおいたら、帰国してから該当部分のコピーをおくってくれた。表紙の部分を見ると、カナダのトロント州、オンタリオ地方裁判所のゴム印がおされていて、名前や日付などが手がきでしるされている。のちにくわしく紹介する「ツンデル裁判」の書証のコピーであった。
 ルパート・バトラーによると、クラークには拷問について「なんら後悔をしめさない。それどころか正反対に、“ナチ”を拷問したことについてかなり自慢した」という。いわゆる確信犯である。
 クラークが目的とした「すじのとおった供述」をえるまでには「三日間の拷問が必要だった」。ホェスが調書にサインした時刻は午前二時三〇分だった。バトラーは、「尋問でもっともくるしんだのは捕虜ではなくてバーナード・クラークのほうだった」という奇妙な書きかたをしている。その理由は、クラーク自身の言葉としてしるされているが、つぎのようである。
「逮捕の前には、わたしの髪の毛は真っ黒だった。その三日後には突然、まんなかに白いすじがあらわれた」
 クラーク軍曹はまた、一農夫の姿で身をひそめていたホェスの捜査にあたって、ホェスの妻を子供からひきはなして尋問したが、そのさいには暴力は「まったく必要ではなかった」。決め手は、あれこれと長いなだめすかしの最後に、つぎのようにどなりつけたセリフだった。
「白状しないと、おまえらをロシア軍にひきわたす。やつらはおまえを銃殺隊のまえにひっぱりだす。息子はシベリア送りになるぞ」
 三日間のホェスの尋問にあたって、クラークが、どういうおどしのセリフをつかったかはさだかでない。だが、ホェスの妻を最後におとした「息子はシベリアおくりになるぞ」という自慢の台詞をクラークが遠慮してつかわなかったという状況は、想像するほうが困難である。しかも、この「シベリアおくり」または「ロシア軍にひきわたす」というおどし文句は、クラーク軍曹の独自の思いつきではなかった可能性が非常にたかいのである。
 ニュルンベルグ裁判についての最新の総合的な研究として見のがせないのは、『歴史見直しジャーナル』(92夏)に編集長のマーク・ウィーバーがみずから執筆した五六ページの大論文、「“戦争犯罪”裁判は絶滅政策を立証したか?/ニュルンベルグ裁判とホロコースト」(以下では「ニュルンベルグ裁判とホロコースト」に省略)である。
 ウィーバーによれば、ニュルンベルグ裁判で死刑を宣告された元労働大臣ザウケルは、「妻と子どもをソ連にひきわたす」とおどかされて「罪の告白」に署名をし、のちにそのおどしをうけた事実を公表した。国際検察局のボスのケンプナー検事は、元ドイツ外務省高官のガウスから同僚を告発する証言をひきだすために、「ソ連にひきわたして絞首刑にさせる」というおどし文句をつかっていた。
 シュテークリッヒ判事の『アウシュヴィッツ/判事の証拠調べ』にも、バッツ博士の『二〇世紀の大嘘』にも、やはり、おなじ「おどし文句」の指摘がある。
 イギリス軍による拷問の事実についても、ウィーバーは二例を紹介している。一例は、アウシュヴィッツ時代のホェスの副官で、その後、ビルケナウ(アウシュヴィッツ第二収容所)の司令官、ベルゲン・ベルゼン収容所司令官などを歴任したヨーゼフ・クラマーにたいしての拷問である。もう一つの例は、収容所全体の管理責任者で、親衛隊の経営管理本部長だったオズヴァルド・ポールにたいする拷問である。ポールはイギリス軍に逮捕された際、椅子にしばりつけられて失神するまでなぐられ、歯を二本うしなった。

(13) シンプソン陸軍委員会が報告した「特高」顔まけの「拷問」の数々

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『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
(13)
第1部:解放50年式典が分裂した背景
第一章:身元不明で遺骨も灰も確認できない「大量虐殺事件」 5/10

 イギリス軍のクラーク軍曹によるホェス拷問の事実が活字になったのは、一九八三年になってからのようである。だが、アメリカ軍兵士の拷問による「証言」強要の数々の事実は、アメリカ軍自身によって調査され、一九四九年には一般むけの新聞紙上で暴露されていた。
 事実を公表したのはエドワード・ファン・ローデン判事である。ローデン判事は、アメリカ軍がダッハウ収容所でおこなった軍事裁判の経過を再検討するために任命した「シンプソン陸軍委員会」のメンバーだった。「シンプソン陸軍委員会」の同趣旨の調査報告はアメリカ上院でも発表され、一般公開の議事録にも明記されている。わたしは、日本の国会図書館で、いとも簡単に該当箇所を発見した。A3判で二五ページ分のコピーを手元に持っている。一般向けの新聞による暴露報道は、『六〇〇万人は本当に死んだか』によると、一九四九年一月九日付けのワシントンの日刊紙『デイリー・ニューズ』と、同年同月二三日付けのイギリス紙『サンデイ・ピクトリアル』でおこなわれている。
「自白」や「証言」を強要するためには、あらゆる手段がもちいられている。三ヵ月から五ヵ月の独房監禁。食料の減量。ニセ裁判で死刑を宣告したのちに署名すれば減刑という取り引き。ニセ牧師による説得と取り引き。火のついたマッチで身体をあぶる。頭や顔を歯や顎がくだけるまでなぐる。睾丸をける、などなどの暴力行使。
 そのもっとも強烈な告発はつぎのようなものである。
「われわれが調査した一九三九例のうち、二例をのぞいて、すべてのドイツ人が睾丸をけられ、治療が不可能な状態にあった」
 ただし、この引用文中の「一九三九例」に関しては「一三九」とする資料もあるので、これも「歴史見直し研究所」のウィーバーに質問したところ、かれもこの数字には確信はなくて、「一九三九」の方がミスプリではないかというだけだった。これも追跡調査が必要である。
 さらには、拷問にたえきれずに死による逃避をえらぶ自殺者もでた。
「一八歳の被告の一人は、毎日のようになぐられ、読みあげられたとおりの陳述を書いた。六〇ページになったところで、この少年は独房に監禁された。早朝、ちかくの房にいたドイツ人は、かれが、“もうこれ以上の嘘はいわない”とつぶやくのを聞いた。その後、ニセの陳述を仕上げるために彼をつれだしにきた看守は、このドイツ人の少年が独房の梁で首をつっているのを発見した。だが、サインをするのを逃れるために首をつったドイツ人の少年の陳述は、ほかの被告の裁判につかわれ、証拠として採用された」
 以上の報告は、念のためにくりかえすが、アメリカの上院の議事録にしるされ、一般公開されているのである。しかも、調査対象となったアメリカ軍の尋問チームについては、つぎのような事実さえ上院で報告されていたのだ。
「尋問チームのうちの何人かは、非常にあたらしいアメリカ市民~~ヒトラー時代のドイツからの避難民~~であって、被告たちに憎しみをいだいているので、被告たちから証言をひきだす目的で軍にやとわれていた。だからこそ、その中の一人は、そういう告白が必要だったならば、どの被告が相手だろうと、アブラハム・リンカーン殺害の告白だってさせることができたと語っている」
 シンプソン陸軍委員会の調査はダッハウでおこなわれたマルメディ事件の裁判を中心にしている。いちばんの中心になったニュルンベルグ裁判(国際軍事法廷)の被告のとりあつかいについては、同種の組織的な調査はないようだ。だが、つねに裁判進行の中心にすわっていたのは、アメリカ軍の戦争犯罪局であり、スタッフは共通していた。アメリカ人のバッツ博士は『二〇世紀の大嘘』の中で、ダッハウの実例を指摘したのちに、「ニュルンベルグ裁判でも証言を獲得するための強制はおこなわれた」と主張している。そのうちのイギリス軍がおこなった数例については、すでに紹介したところである。
 しかし、このすさまじいまでの「復讐」の仕組みと「拷問」の事実が、なぜ、これまでのアウシュヴィッツやニュルンベルグ裁判の報道や、研究、文学などの中にあらわれなかったのであろうか。ここでもまた、大手メディアが報道しないことよるブラックアウトという、実に単純で消極的な情報操作が、みごとな効果を発揮しているのである。

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ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
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『週ポ』Bashing反撃)

猛将パットンが箝口令をしいた親衛隊員への集団「リンチ処刑」

 この拷問の事実を資料で裏づけようと努力をしているおりもおり、アメリカ兵が無抵抗状態のドイツ軍の親衛隊員の捕虜を、大量に虐殺していたことがわかった。しかもその場所は、「シンプソン陸軍委員会」が、その中心的な調査対象としてとりあげていたダッハウ収容所であった。
 なぜダッハウでドイツ軍捕虜の虐殺事件が発生したのかというと、それには一つの有力な原因が考えられる。ここを解放したアメリカの第七軍団は、有名な「バルジの戦い」でドイツ軍の戦車部隊によって中央をやぶられて苦戦しただけでなく、そのさいに、「マルメディ事件」とよばれる虐殺事件で大量の犠牲者をだしていた。その報復をもとめる戦場心理が、大量虐殺と、それにひきつづく拷問への起爆材の一つとなったのではないかと推測できるのである。
 一九九四年八月二〇日の午後六時から、テレビ朝日が放映した『ザ・スクープ』の新聞テレビ欄での紹介は、「秘話!封印された日系米兵のナチ収容所解放▽裏で親衛隊処刑」であった。
 日系米兵の苦労話は省略する。その最後の活躍がフランス国境に近いナチ収容所、ダッハウの解放である。ところがなぜか「ダッハウについてしゃべるな」という箝口令がしかれ、この活躍はこれまで「秘話」になっていた。箝口令の理由の一つが「裏で親衛隊処刑」であった。ただし、「処刑」をしたのは日系米兵ではなくて、戦車軍団で有名な猛将パットンがひきいる普通の白人中心の部隊だった。日系米兵の活躍が「秘話」になっていたのは、どうやら、その不始末な残虐行為の隠蔽工作のまきぞえらしいのである。たまたま直後に現場のメイン・キャンプをおとずれて慘劇の跡を見てしまった日系米兵の一人は、「事実をしゃべると軍法会議だ」とおどかされたという。
 事実が世間にあきらかになったのは、問題の軍団の医療部隊に所属していた軍医、ハロルド・A・ビュークナー大佐の著書『復讐者の一時間』によってである。
 わたしは、ウィーバーがもっていたその本の実物を、「歴史見直し研究所」で見せてもらった。ウィーバーは、この本と虐殺事件のことを『歴史見直しジャーナル』(93・5/6)に書いていたのである。
 ダッハウ収容所を解放した直後、捕虜になったドイツ人の中から親衛隊員だけが別あつかいにされ、石炭置き場の前に整列させられた。責任者だった中尉が「見張れ。逃がすな。逃げようとしたり動いたら撃て」と命令して現場をはなれたのち、親衛隊員の何人かが身体を動かした。するとだれかが「撃て!」とさけび、一斉にライフルと機関銃が火をふいた。『ザ・スクープ』の解説は「乱射」と表現している。ビュークナー大佐の著書には現場の写真も何枚かのっている。一斉射撃でもたおれず、両手を頭のうえにあげて立っている親衛隊員も何人かのこっている(写真[5].Webでは省略)。そのときに死んだ親衛隊員の数は一〇〇人とも、七〇人か六〇人とも、いまも生存しているアメリカ側の隊員の記憶に相違がある。
 さらにその後、二回目の事件がおきた。『ザ・スクープ』の解説どおりにしるすと、「インデアン」の中尉が、今度は一人で三四六人の親衛隊員を機関銃で撃ち殺した。
 アメリカの第七軍団では、この二つの事件をただちに調査し、軍法会議で裁くことにした。だが、軍団長のパットン将軍は、その調査報告書をやぶりすて、箝口令をしいたのである。
 アメリカの国立公文書館には、「極秘」と書かれた調査報告書が保管されていた。「主題」は「ダッハウのドイツ人看守にたいする誤ったとりあつかいの告発についての調査」となっている。大量虐殺の事実をうたがいもなく証明する裏づけがのこっていたのだ。
 この「誤ったとりあつかい」の大量リンチ処刑事件は、当時のアメリカ兵のドイツ兵、とりわけ親衛隊員にたいする気分と対応を象徴するものである。
 というのは、ダッハウ収容所に「ガス室」がなかったということは、すでに一九六〇年頃には定説になった。だが、アメリカ兵たちはダッハウで大量の死体(死因のほとんどはチフスだったが)の山を発見し、それが噂で聞いていた「ガス室」での処刑者にちがいないと信じた。しかも、実は、チフス菌を媒介するシラミを退治するための消毒室(写真[6].Webでは省略)だったのだが、「ガス室」の実物まで発見したと思いこんでしまったのである。ドイツの親衛隊員は、かれらアメリカ兵にとって、まさに殺してもあきたりない「悪魔の化身」だった。取材にあたった『ザ・スクープ』の担当者の感触では、「親衛隊員がおそろしかった」という米兵の実情もあったようだ。
「拷問」は、この大量のリンチ処刑の業火の焼け跡にひきつづいておきた「誤ったとりあつかい」でもあろう。だが、こちらにはもう一つの裏話がある。
 前項で紹介したアメリカの上院の議事録で、「非常にあたらしいアメリカ市民~~ヒトラー時代のドイツからの避難民」と表現されていた人々は、具体的に何者だったのだろうか。『六〇〇万人は本当に死んだか』では、この尋問と法廷での検事役をつとめた「″アメリカ人″」の氏名、シューマッカーとか、ローゼンフェルドとかを列挙し、「読者には、かれらが(中略)、この尋問を担当してはならないはずのユダヤ人であることが、即座におわかりになるであろう」と指摘している。この事情は、のちに紹介するニュルンベルグ裁判全体の状況の縮図である。ナチ党の圧迫から逃れてアメリカに亡命したばかりの「新参」のアメリカ人が、被告のドイツ人捕虜を尋問し、告発していたのである。これだけでも、「中立性」を旨とする裁判の原則に反している。まさに「復讐」そのものだったのだ。しかも「拷問」は、「ホロコースト」物語の立証のための、もっとも有効な手段であった。
 ところで、「ホロコースト」物語は当時すでに戦争宣伝としてひろく普及していた。「物的証拠」の発見はハイライトの大ニュースだったはずだ。そうだとすると第七軍団の広報機関は、このトピック・ニュースを記者団に発表すると同時に、大量リンチ処刑事件という、これも大スキャンダルの隠蔽工作に必死の努力をはらっていたことになる。この両者の関係はどうだったのだろうかという、あたらしい疑問がうかんできた。
 このアメリカ軍の「ダッハウの大量虐殺」事件の隠蔽工作は、もしかすると、ソ連軍の「カティンの森」事件の場合と同様に、ナチス・ドイツの過度の「悪魔化」への動機の一部をなしていたのかもしれないのである。
 この疑問はさらにニュルンベル裁判の全体像にもおよぶ。

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美化されすぎてきた「ニュルンベルグ裁判」への重大な疑問

 ニュルンベルグ裁判の資料を図書館のコンピュータでさがしていたら、『「ニーュルンベルグ裁判」を見て』という項目がでてきた。戦争体験にこだわりつづける戦中派作家、大岡昇平が、東京新聞(61・3・5~6)によせたみじかい随想なのだが、その後、『証言その時々』という単行本におさめられている。
 大岡はまず、ニュルンベルグ裁判自体について、「映画に現われた限り、東京裁判よりはるかに公正に行われたらしいが、いずれにしても戦勝国が敗戦国を裁くのだから、公正なんてものがあるはずがない」という、一歩距離をおいた姿勢をしめす。ところが、このスタンリー・クレーマー監督作品のすじがききをおって紹介するうちに、「これは現代アメリカの一部の良心を代表した映画ということができるだろう」という評価をくだしてもいる。
 だが、当然のことながらハリウッド製フィクションの『ニュルンベルグ裁判』には、被告の拷問というシーンはまったくでてこなかった。この映画の舞台はおなじニュルンベルグ裁判所ではあるが、内容は主要な軍事法廷ではなくて継続裁判の一つである。それでも、おおくの映画ファンにとっては、ニュルンベルグ裁判の全体像の代用品になってしまっているだろう。
 偶然か、それともやはり戦後五〇年の節目を意識してであろうか、NHKの衛星放送第二の「ミッドナイト映画劇場」が、一九九四年一一月一九日と二六日に、この『ニュルンベルグ裁判』を二部にわけて放映した。この作品も、一九六一年の製作なのに『シンドラーのリスト』と同様、モノクロでドキュメンタリー・タッチをねらっていた。とりあえず実物を見ていない読者のために、このハリウッド映画の主な出演者だけを紹介しておこう。
 スペンサー・トレシー、バート・ランカスター、リチャード・ウィドマーク、マリーネ・ディートリッヒ、マキシミリアン・シェル、ジュディ・ガーランド、モンゴメリイ・クリフト。いずれもまさに堂々たる国際的な主役級の大スターである。
 さて、さきのシンプソン陸軍委員会が調査したダッハウのマルメディ裁判のさいのような拷問の事実が、これまでまったく報道されていなかったのかというと、決してそうではない。『ニュルンベルグ裁判/ナチス戦犯はいかに裁かれたか』という本がある。著者は、ドイツ人の現代史家、ウェルナー・マーザーである。こちらの日本語版「訳者あとがき」には、つぎのような、さきの大岡のとは正反対の感想がしるされている。
「私たちの東京裁判を、人種的偏見にみちた復讐裁判だとする意見があるが、ナチス第三帝国崩壊後のドイツ指導層の受けた侮辱と冷遇とつき合わせてみると、なんとマッカーサーの軍隊は『紳士的』であったことかと今さらのように驚いてしまう」
 以下、その一部を紹介しよう。
 ポーランド総督だったハンス・フランクが「受けた侮辱と冷遇」の場合は、簡単な一行の記述だけである。かれは「ミースバッハの市立刑務所に送られたが、ここで、二人の黒人アメリカ兵にサディスティックに殴打され」ている。
 反ユダヤ主義の週刊誌『突撃兵隊』の発行者だったユリウス・シュトライヒャーの場合には、本人の自筆の報告ものこされており、つぎのような大変にくわしい記述がある。
「シュトライヒャーがのちに主張したところによると、彼が回り道をしてニュルンベルグに連行された時、ユダヤ人たちは彼に屈辱を与え、残酷に拷問し、殴打したという。彼がニュルンベルグで、弁護人ハンス・マルクス弁護士に渡した自筆の報告には、特にこう書かれている」
 以下は、その「自筆の報告」の一部である。
「(前略)新聞記者(五分の四がユダヤ人)の前で私は嘲罵を受けました。(中略)その夜一晩、ユダヤ人から私は嘲弄された。(中略)私に残されているのはシャツとズボンだけである。おそろしく寒かった。(中略)北向き。もっと寒くなるように窓は引き開けられていた。二人の黒人が私を裸にし、シャツを二つに引き裂く。私はパンツだけになった。私は鎖でしばられているので、パンツが下がっても上げることができなかった。そして私は素っ裸にされた。四日間も! 四日目に私の体は冷えきって感覚がなくなった。もう耳も聞こえなかった。二~四時間ごとに(夜も)黒人たちが来て、一人の白人の命令のもとで私を拷問した。乳首の上を煙草の火で焼く。指で目窩を押す。眉毛や乳首から毛を引きむしる。革の鞭で性器を打つ。睾丸ははれ上がる、つばを吐きかける。″口を開け!″そして口の中につばを吐く。もう私が口を開けないでいると、木の棒でこじ開ける~~そしてつばを吐き込む。鞭で殴打。たちまち体中に血でふくれ上がった筋が走る。壁に投げつける。頭を拳固で殴打。地べたに投げつける。そして背中を鎖で打つ。黒人の足にキスすることを私が拒否すると、足で踏みつけ、鞭打ち。腐った馬鈴薯の皮を食うのを断ると、再び殴打、つば、煙草の火! 便所の小便を飲むことを拒否すると、またも拷問。毎日ユダヤ人記者が来る。裸の写真をとる! 私に古ぼけた兵隊マントをかけて嘲弄。(中略)四日間休みなくしばられたまま。大小便もできない。(後略)」
 同書のこの部分では、「こういう取り扱いを受けたのは~~記録や個人的情報によれば~~明らかにハンス・フランクとユリウス・シュトライヒャーだけだった」としているが、この判断は「明らかに」まちがいである。二度あることは三度ある。しかも、同書のなかの別の部分にさえ、これ以外の「侮辱」「強要」「殴打」「拷問」の事実が、いくつかしるされているのである。
「侮辱」については、ドイツ降伏のしりぬぐい役をつとめた臨時政府、海軍提督デーニッツの閣僚と軍首脳も例外ではなかった。船上で政府と軍の解体と逮捕の通告をうけた直後のことである。同書では、この経過を以下のようにしるしている。
「デーニッツとその随員は船を立ち去ったが、そのあとイギリス兵たちは会談の始まるはずの外務省の会議ホールに殺到した。すべてのドイツ人は真っ裸に引きむかれ、屈辱に満ちた身体検査を耐え忍ばなければならなかった。それは同時に一つ一つの部屋で、将校や秘書孃に対してさえも行われた。イギリス兵は俘虜たちから時計、指輪、その他金目のものを盗みとり、一同は両手をあげたまま中庭につれ出された。そこでは二、三〇人の新聞記者が、この「大興行」を待ち受けていて、ズボンもはいていない将官や大臣の写真をとった。「第三帝国は今日死んだ」と、一九四五年五月二十四日の『ニューヨーク・タイムズ』紙は、この下品な見世物にコメントをつけた」
 閣僚や軍首脳にたいしてさえ、こんな状況だったのだから、むしろ、侮辱と拷問をうけなかった例のほうが、めずらしかったのではないだろうか。しかもさらに、裁判のすすめかたにも重大な疑問が生じてきた。

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「第一級の目撃証人」、最後のアウシュヴィッツ司令官は「否認」

 元ドイツ軍の中尉で、アウシュヴィッツに勤務した経験のあるティエス・クリストファーセンが書いた『アウシュヴィッツの嘘』という衝撃的な題名のみじかい回想録が、現在のドイツでは「発売禁止」になっている。わたしの手元にあるのは英語版である。
 クリストファーセンは、この回想録の発表を決意するにさきだって、いくつかの資料を読んで問題点を確認している。回想録の冒頭部分には、それらの資料からの引用がなされているのだが、そのなかには、わたしがこの「ホロコースト」問題にとりくみはじめて以来かかえつづけてきた疑問にたいする重要な手がかりがあった。それは、いわば人類史のミッシングリンクのような、決定的な情報の欠落部分だったのである。
 わたしは、「ホロコースト」問題について、それまでは漠然とした一般的な知識しかもっていなかった。それでも、わたしなりのやりかたで資料を比較しながら読んでいると、アウシュヴィッツの「ホロコースト」物語の「立証」は、もっぱら元収容所司令官のホェスの「告白」にたよってきたことが、すぐに読みとれた。ユダヤ人側の証言もあるが、ホェスの「告白」は裁判用語でいう「敵性証人」の加害者による「自白」だから、価値がたかいとされているのだ。このホェス「告白」の信憑性がくずれれば、「ホロコースト」物語の屋台骨はグラグラとゆらぐにちがいない。だが、すでにしるしたように、ホェスがアウシュヴィッツの司令官だったのは、アウシュヴィッツ収容所が創設された一九四〇年から四三年までなのである。その後は、首都のベルリンで親衛隊の経済行政本部に配属され、政治部を担当している。収容所の直接の担当ではないのだ。
 一九四三年から翌々年のドイツが降伏する四五年までの足かけ三年、しかも、ホェス「告白」などによれば、もっとも大量にユダヤ人を「ガス室」で計画的に虐殺したとされているドイツ敗戦直前の時期の司令官は、いったいだれだったのだろうか。単数か、複数かさえもわからない。かれ、またはかれらは、いったいどういう証言をのこしているのだろうか。わたしがもとめていた未知のミッシングリンクは、その時期の元司令官だった。
 ところがこれが、なかなかでてこないのである。歴史的な記述になっている日本語の資料を何冊も読んでも、どこにもでてこない。「死んだのかな」、「自殺でもしたのかな」などという想像まで、ついついめぐらしてしまった。しかし、証言をのこさずに死んだのなら、そのことをしるしておけばいい、いや、しるしておくべきなのだ。そうすれば、前任の司令官ホェスの「告白」の位置づけが明確になる。一九四三年から四五年までの足かけ三年のアウシュヴィッツについてのホェスの「告白」は、あきらかに「伝聞」であって、本人の直接の体験ではない。なぜ当時の司令官の名がでてこないのかは、まったく不思議なことだった。
 たとえば、わたしがこの問題を『噂の真相』誌に書いて以後、ある友人が意味深長な目つきでわたしてくれた本がある。F・K・カウル著、『アウシュヴィッツの医師たち/ナチズムと医学』、発行日は一九九三年八月三〇日、日本語訳の出版元は教科書出版でも大手の三省堂である。横帯の宣伝文句には「記録を基にして事実を再現」とか、「アウシュヴィッツ強制収容所における医学的犯罪を、系統的かつ具体的に示したのは、本書が初めて」などとある。友人の意味深長な目つきは「これは手ごわいぞ」という意味だ。確かに記述の仕方はくわしい。最近の著作だけのことはある。しかし、この本でさえも、肝心の部分は例のホェスの「告白」にたよりっきりである。ホェスの経歴はくわしく書いてあるのに、かれの後継者の収容所司令官についてはまったくふれていない。
 そのうえさらに不思議だったのは、「ホロコースト」見直し論者の文章にも、このミッシングリンクがなかなかでてこないことだった。
 ところが、この奇妙なミッシングリンクが、決して歴史的な記述とはいえない回想録『アウシュヴィッツの嘘』のなかにあったのだ。この部分はみじかいので全文を紹介するが、つぎのようなものだ。
「リヒアルト・ベイアーは、アウシュヴィッツの最後の(一九四三年からの)司令官であり、それゆえにもっとも重要な目撃証人であるが、かれについてパリで発行されている週刊『リヴァロル』は、『アウシュヴィッツにいたすべての期間をとおして、ガス室を見たことはないし、そんなものが一つでも存在するなどということも知らなかった』というかれの強い主張を思いとどまらせることは、ついにできなかったとつたえている。ベイアー元司令官は、尋問のために拘留されていたが、二週間前の健康診断の結果がまったく異常なしだったにもかかわらず、一九六三年六月一七日、突然、死亡した」

ベイアーとヒムラーの不審な死にかたは、たんなる偶然の一致か

『リヴァロル』は国会図書館でも日仏会館でもそなえていない。フランスのフォーリソンに国際電話をかけて、問題の『リヴァロル』のコピーを持っているかと聞いてみた。するとフォーリソンは言下に、『リヴァロル』の原文コーピーは持っていないが、『リヴァロル』の記事自体は簡単な報道だから重要ではないと断言した。さらに、シュテーグリッヒの本は原資料にもとづいているが、それを読んだかと聞きかえしてきた。
 シュテーグリッヒ判事の著書『アウシュヴィッツ/判事の証拠調べ』(日本語訳なし)のなかには、本文で三カ所、注で二カ所、計五カ所のベイアーについての記述がある。
 最初は、ホェスの後任者についての簡単な記述である。それによると、ホェスの直後の後任者はアルトゥール・リーブヘンシェルで、そのまた後任者がリヒアルト・ベイアーという順序になっている。ベイアーの名前のあとには、つぎのようなカッコ入りの文章がつづいている。
「(拘留中のベイアーが死んだのは、一九六三~一九六五年のフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判の開始の直前だったために、さまざまな憶測をかきたてたが、そのときにアウシュヴィッツについてのもっとも重要な目撃証人は永遠に沈黙させられたのである)」
 この部分の資料としては、三つのドイツ語の文献の存在がしめされている。これらをもとにしたシュテーグリッヒの記述は、各箇所の合計で三ページ分になる。
 要約紹介すると、まず、ベイアーは一九六〇年一二月にハンブルグで逮捕された。そのちかくで材木の切りだしの仕事にやとわれていたというから、戦後の一五年間以上も森林地帯に身を隠していたらしい。ニュルンベルグ裁判にはかけられていない。そのために無視されやすかったとも考えられるが、それだけでは説明しきれない問題点がおおい。
 第一の問題点は、アメリカの戦争避難民委員会(WRB)の報告の仕方にある。この報告は、ニュルンベルグ裁判における検察側の告発の下敷きとなったものだが、ホェスの後任の二人の司令官については、なぜか、まったくふれていない。一九四四年、つまり、ベイアーが身を隠す前の現役司令官時代に作成された報告だということになっているが、それがまずあやしい。
 第二の問題点は、ベイアーの死因である。直後に「毒殺」を疑う声がでているのに、当局は解剖による検死をおこなわず、火葬を強行している。
 第三の問題点は、ホェス「告白」、およびホェスとベイアー、そのほかの責任者の上下関係からでてくる。
 もしも「ホロコースト」物語が本当だとすれば、最高の地位の命令者はヒトラー総統であろう(ゲーリングだという説もあるが、否認したまま死刑を宣告され、絞首刑の執行直前に自殺)。だが、虐殺を実行する組織は親衛隊だから、その総司令官のヒムラーも知っていなければならない。もしもヒムラーから、最終期には傍系となる政治部のホェスをとおして命令が極秘に伝達されたと仮定しても、現場の収容所司令官をぬきにして命令が実行されるはずはない。その一人だったはずの最後のアウシュヴィッツ司令官が、ベイアーである。つまり、ホェスのほかに最低限、ヒトラー(またはゲーリング)、ヒムラー、ベイアーは、極秘計画を知っていなければならない。
 ところが、ヒトラーは愛人と一緒に自殺してしまった。ヒムラーも「自殺」とされており、ベイアーも「不審の死」をとげたのである。ヒムラーの場合は、イギリス軍に尋問されている最中に、「一人で部屋にいた時、カプセル入りの毒を飲んで死んだ」とされている。結果として「死人に口なし」となった。
 以上のように消去法で考えてみると、「ホロコースト」計画が本当なら絶対に知っていなければならないヒムラーとベイアーが、なぜかともに、不審な死にかたをしている。そして、最終期には傍系で、すくなくとも一九四三年から四五年のことは、知らなくてもいいはずのホェスの「告白」のみが生きのこっていることになるのだ。
 ベイアーというミッシングリンクの意味について、わたしはとりあえず、つぎのような問題点を設定してみた。。
(1)リヒアルト・ベイアーはもともと、議論の余地なしに、アウシュヴィッツ収容所についての第一級の目撃証人である。同時に、もしも収容所における犯罪的事実が立証された場合には、現地の最高責任者として、実行犯の最高刑を課せられるべき立場にあった。
(2)「ガス室を見たことはないし、そんなものが一つでも存在するなどということも知らなかった」というベイアーの主張が、そのまま被告側の供述として一九六三~一九六五年のフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判に提出されたならば、検察側は、それをくずすための反証となる証言や物的証拠をそろえなければならなかったはずだ。
(3)もともと、ニュルンベルグ裁判の中心となった国際軍事裁判の法廷では、ゲーリングをはじめとするナチス・ドイツの首脳陣が、ニュアンスに相違はあっても一様に、絶滅政策を知らなかったと主張していた。それなのに、ホェスの「告白」のみが実地検証抜きに採用されたわけである。だが、ベイアーの否認は、被告の首脳陣の否認よりも格段に直接的であり、ホェスの「告白」を足元からくつがえす効果をもっていた。
(4)以上のような裁判上の不備をおぎうためにこそ、一九六三~一九六五年のフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判が設定されたはずであるが、なぜかその開始直前に、ベイアーは急死した。結果として、「アウシュヴィッツについてのもっとも重要な目撃証人は永遠に沈黙させられ」たのである。
 以上のような決定的に重要な問題点の材料を、クリストファーセンの回想録やシュテーグリッヒの著作は指摘していることになる。
 なお、その後、一九九二年発行の『アンネ・フランクはなぜ殺されたか』の巻末一覧に、「リヒアルト・ベア」がふくまれているのを発見したが、その説明の「アウシュヴィッツ第一収容所長」は舌たらずである。ベイアー(ベア)は、その地位からアウシュヴィッツ全体の司令官に昇格している。しかも、それ以外の記述は「一九六三年、裁判の前に自殺」だけである。


『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
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第1部:解放50年式典が分裂した背景
第一章:身元不明で遺骨も灰も確認できない「大量虐殺事件」 9/10

 ニュルンベルグ裁判の全体像についても、決定的な見なおしが必要であろう。
 ナチス・ドイツの首脳部を裁いた主要法廷の国際軍事裁判について『東京裁判ハンドブック』では、東京裁判(正式には極東国際軍事裁判)と比較して、つぎのように評価している。
「判決が急がれたこともあり、膨大な証拠資料となった文書の山を前にして、ナチ体制の実態についての理解・認識が、裁判官側さらには検察官側でさえ必ずしも十分なものとはいえなかった」
『六〇〇万人は本当に死んだか』では、ニュルンベルグ裁判を「歴史上もっとも恥ずべき法の名による茶番狂言」と手きびしく断定している。これは決して、かたよった批判だとはきめつけがたい。
 なぜならウィーバーの論文、「ニュルンベルグ裁判とホロコースト」によると、当時のアメリカの議会でも、「ニュルンベルグ裁判は、この歴史のページをわれわれが永遠に恥としなければならないほどアングロ・サクソンの正義の原則に反しており、不愉快きわまりない。……ニュルンベルグの茶番狂言は復讐政策の最悪の表現だ」という発言があった。「共和党の良心」として広くしられたタフト上院議員も、「勝者による復讐裁判」では正義の実現は不可能だと指摘していた。長年のソ連大使としても国際的に知られる外交官で歴史家のジョージ・F・ケナンも当時、ニュルンベルグ裁判の企画全体を、「ぞっとする」とか「あざけりの的」という表現をもちいて非難していた。
 注目すべきことには、その当時、ユダヤ人のなかにもおなじ警告を発していた法律家がいた。ニューヨーク大学教授のミルトン・R・コンヴィッツは、ニュルンベルグ裁判が「もっとも原則的な法的手続きのおおくを無視している」として、つぎのように論じていた。
「われわれのナチスにたいする政策は、国際法とも、わが国の外交政策とも矛盾する。……ニュルンベルグ裁判は、人類が何千年もかかってきずきあげてきた正義についての基本的な概念にたいして、現実的な脅威をなしている」
 すでに指摘したように日本のいわゆる平和主義者には一般的に、日本の戦争犯罪を裁いた東京裁判(極東軍事裁判)が不完全だったことの反省から、必要以上にニュルンベルグ裁判を美化してきた傾向がある。それは、ニュルンベルグ裁判がドイツの戦争責任を、日本のそれ以上にきびしく追及したという点だけに着目した評価だった。しかし、犯罪者にきびしいのはそれなりに結構だが、やってもいない犯罪を拷問で白状させたりするのは、一種の司法犯罪であり、法の権威をたかめるどころか、かえってあらたな無秩序の土台を提供することにつながりかねない。
 ウィーバーは『ホロコースト/双方の言い分を聞こう』の中で、つぎの点を指摘している。
「ホロコースト物語がこれだけ長つづきした主要な理由の一つは、諸強国の政府が[イスラエルと]同様に、その物語の維持に利益を見いだしていたことにある。第二次世界大戦に勝利した諸強国--アメリカ、ソ連、イギリス--にとっては、かれらが撃ちやぶったヒトラーの政権をできるかぎり否定的にえがきだすほうが有利だった。ヒトラーの政権が、より凶悪で、より悪魔的に見えれば見えるほど、それに応じて連合国の主張が、より高貴な、より正当化されたものと見なされるのである」
 ニュルンベルグ裁判の基本構造の土台には、やはり、「諸強国の政府」の「利益」があった。おおきくいえば戦後の全世界の勢力範囲あらそいという「利益」追求が先行した仕事だったからこそ、裁判のあり方にも欠陥が生じたのだ。
 細部の問題点をあげれば本当にきりがない。『二〇世紀の大嘘』では、つぎのように要約している。
「おおくの事件では、“被告弁護人”がドイツ語を話せず法的資格のないアメリカ人だった。法廷には資格のある通訳が配置されていなかった。“検察当局”もまた法的資格をかいていたし、一〇人のアメリカ軍人で構成する“裁判官”も同様だった。一人だけ法的資格のある裁判官がいたが、その裁判官が証拠の認定にあたえる影響力は一番よわかった」

弁護団が記録を利用できず、被告に有利な証拠が突然「消滅」

 被告側の弁護人は、しかも、裁判にはかかせない証拠の利用について、はなはだしく不利な立場におかれていた。
 すでに紹介ずみの『ニュルンベルグ裁判』という本は、決して「ホロコースト」物語批判を目的として書かれたものではないが、そこにも事実の一端がしるされている。この本では、まず、連合軍が総力をあげてドイツの文書を押収し、「記録センター」に集中した状況をえがく。ところが法廷での実情は、つぎのように大変不公平なものであった。
「かくて検察側は、記録と記録保管所を自由に使えたわけであるが、これらについて弁護側のほうは、そんなものが存在することすら知りもしなかった。[中略]検察側はニュルンベルグでは(弁護団とは反対に)いつでも自分たちが必要と認めたものは、あらゆるところから手に入れることができたのである。ところが弁護団が見ることができるのは、無数の詳細なデータ、関連書類のうち[中略]、たいてい、有罪証拠物件だけで、多くはまったく知らないものばかりだった。これに反し、検察側はそれらを記録として証明できるのであった。被告側に有利な資料を探し出す可能性は、弁護団には皆無だった。
 弁護団が、検察側の引用する記録を見せてほしいと要求しても、その記録が「消滅している」ことも、珍しくなかった。[中略]規約によれば、「重大な」箇所だけ翻訳すればよいことになっていて、(中略)テキストのひどい意味変更、歪曲、誤解が審理の際に生ずることも珍しくなかった。[中略]
 連合国側に場合によっては不利となり、一方被告側の罪を軽減するのに適当と思える数千の記録は、突然姿を消してしまった。[中略]すでに一九四五年の時点で、記録が押収されたり、弁護団の手から取り上げられたり、あるいは盗まれたりしたという事実には、無数の証拠がある。[中略]
 弁護団の証人や援助者は、ときどきころあいをみて、また執拗に脅迫を受けたりして、強引に出廷させてもらえなかったり、あるいは出廷させられることも珍しくなく、さらには自分たちの声明を検閲されたり、押収されたりしたうえで、検察側の証人にされたりした。一九五六年五月になってやっと刑務所入りをしたオズワルド・ポールは、アメリカおよびイギリス役人から尋問を受ける際、椅子に縛りつけられ、意識を失うほど殴りつけられ、足を踏まれ、ついにワルター・フンクの有罪を証明するものを文書で出すと約束するまで虐待された」
 ドイツ人の法律家の場合には、そのうえに、ニュルンベルグ裁判が採用した英米式の訴訟手続きに不慣れだった。審理のすすめかたについて弁護団が抗議したときのジャクソン首席検事の「言い草」は、「数人の弁護人は元ナチスでありました」というものだった。結果として、そのさい、裁判長は弁護団の抗議を却下した。
『六〇〇万人は本当に死んだか』では、ニュルンベルグ裁判を「歴史上もっとも恥ずべき法の名による茶番狂言」と断定した理由をたくさんあげているが、そのなかでも、もっとも決定的とおもえるものは、つぎのような法廷の内部の構成員による告発であろう。
「ニュルンベルグ裁判の背景的事実を暴露したのは、その法廷の一つの首席裁判官だったアメリカ人の裁判官、ウェナストラム判事だった。かれは訴訟手続きの進行状況に愛想をつかして辞任し、アメリカに飛行機でもどったが、置き土産として、裁判にたいするかれの異議を逐一箇条書きでしるした声明を『シカゴ・トリビューン』紙上で発表した」
 法廷構成の欠陥は早くも、当のニュールンベルグ裁判の進行中にも専門家から指摘され、メディア報道にもあらわれていたのだ。「正義は否定された」と主張するウェナストラム判事の「異議」は、いかにも判事らしい慎重な表現になっている。「箇条書き」の異議のなかから、もっとも核心的な法廷の構成の適格性にたいする疑問を要約すると、つぎのようである。
一、「国際検察局」のアメリカ人スタッフが「個人的な野心や復讐心のみによって動く」
一、「ニュルンベルグ裁判の法廷構成員の九〇%は、政治的または人種的な立場から、訴訟事件を利用しようする偏見にみちた人々だった」
一、「検察当局はあきらかに、どうすれば軍事法廷のすべての管理的地位を、帰化証明がきわめてあたらしい“アメリカ人”によって占めることができるかを心得ていた」し、それらの「“アメリカ人”」が「被告人たちにたいする敵意にみちた雰囲気をつくりだした」

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『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
(18)
第1部:解放50年式典が分裂した背景
第一章:身元不明で遺骨も灰も確認できない「大量虐殺事件」 10/10

『週ポ』Bashing反撃)

エルサレムで戦死した将軍は戦争犯罪局の「狂信的シオニスト」

 わたしは可能なかぎり原資料を確認したかったので、「歴史見直し研究所」訪問の帰途、ロサンゼルスの市立図書館に立ちよって、ウェナストラム判事の「置き土産」がのっているはずの新聞を探し、マイクロフィルムからコピーをとってきた。
 通信社は『シカゴ・トリビューン・プレス・サーヴィス』だが、掲載紙は『シカゴ・デイリー・トリビューン』(48・2・23)だった。たしかに『六〇〇万人は本当に死んだか』が引用したとおりの記事があったが、やはり原資料を探してみて良かったと思ったのは、追加の関連記事まで発見できたことだ。しかもその「判事は攻撃(非難)された」という追加記事の書きだしが、つぎのようで興味深々なのである。
「シカゴ・トリビューンの発信記事が発行されるより前に、テルフォード・テイラー准将からのしっぺい返しがあったので、アメリカ軍による報道通信の無線盗聴があきらかになった。わが通信員は六〇日間におなじ経験を二度あじわっている」
「テイラー准将」は国際検察局のトップである。しかし、トップが孤独に趣味の盗聴をするわけはないので、配下のスタッフの構成が気になってくる。
 これにも絶好の材料がある。さきのようにウェナストラム判事が「慎重な表現」で告発した法廷の構成の実態を、おなじくニュルンベルグ裁判に参加したアメリカ人の弁護士、アール・キャロルは、より具体的に報告している。キャロルの報告を『六〇〇万人は本当に死んだか』から要約紹介すると、つぎのようになる。
一、国際検察局のスタッフの六〇%は、ヒトラーによる人種法公布以後にドイツをはなれたドイツ国籍のユダヤ人だった。
一、ニュルンベルグ裁判でやとわれたアメリカ人のうち、実際にアメリカでうまれたものは一〇%以下だった。
一、戦争犯罪法廷のトップはテイラー将軍[ジャクソン主席検事の次席から後任へ昇格]だが、その背後の国際検察局のボスは、元ドイツ国籍のユダヤ人移民、ロバート・M・ケンプナー[ジャクソン主席検事の下では準備チームに参加]だった。
 ケンプナーは、ヒトラーからドイツの市民権を剥奪されたのちにアメリカにわたったのだが、元プロイセン州の公務員という経歴の持ち主だった。バッツは『二〇世紀の大嘘』で九ページをさいて、ケンプナーの経歴とニュルンベルグ裁判における役割を紹介している。ケンプナーは一八九九年うまれでプロイセン州の内務官僚となり、一九二八年から一九三三まではプロイセン警察に上級検事として配属され、とくに当時台頭中のナチ党の調査にあたっていた。シュテーグリッヒ判事はバッツの長文の記述の存在を紹介しながら、「ケンプナーは証言を強要するこで悪名たかかった」としるしている。
 ドイツ語が母国語で、ドイツの官僚組織ばかりかナチ党の内情にもつうじていたケンプナーが、国際検察局の実務部門をにぎるのは当然の帰結だった。ジャクソン主席検事は舞台上の花形役者であり、法律とは無縁のテイラー准将は実際には飾りものでしかなかった。
 では、ケンプナー以下のユダヤ人スタッフの採用を決定したのは、いったいだれだったのであろうか。『二〇世紀の大嘘』によると、これもテイラー将軍ではなくて、アメリカ軍の戦争犯罪局が人事採用の権限を一手ににぎっていた。当時の戦争犯罪局長として「占領下のドイツで“アメリカの政策決定権をにぎるナンバースリー”」とよばれたのは、ウェストポイント陸軍士官学校出身でユダヤ人のデイヴィッド・マーカス大佐だった。
 マーカスは、その後、ミッキー・ストーンという変名をつかって、イスラエル軍の将軍としてエルサレム方面軍の最高指揮官をつとめたが、アラブ側との戦闘中に戦死したために身元があきらかになり、おおいにアメリカのメディアをにぎわしたようだ。横大見出しは、「聖書の時代以来イスラエル軍の将軍の位をはじめてえた軍人」というものだったらしい。バッツ博士は、マーカスを「狂信的シオニスト」と形容している。つまり、その後にも問題をのこす「二重の忠誠心」の先駆者といえるほどの、アメリカ国籍のユダヤ人シオニストの大先輩であった。
「ニュルンベルグ裁判とホロコースト」によると、マーカスとともにニュルンベルグ裁判の企画の中心的な役割をはたしたマレイ・バーネイズ中佐も、ユダヤ人だった。ニューヨークで成功した弁護士出身のバーネイズは、アメリカ軍の首脳を説得して、敗残のドイツの指導者を裁くという企画をうけいれさせた。
 以上のことからあきらかなように、ニュルンベルグ裁判では、「自分自身がかかわる事件については、だれも審判の席に座ることはできない」という基本的な法的原則は、まったく無視されていた。もともと世間一般に、ニュルンベルグ裁判についても東京裁判についても、「勝者が敗者を裁く」という法廷の構成にたいする疑問が提出されていた。ところがここでは、それより数段うえの、または、これ以上の可能性が考えられないほどの「復讐」の場としての、法廷の構成の仕方への疑問が提出されているのだ。
「復讐」はまた、あらたな「復讐」をよぶ。現在台頭中のドイツのネオナチなどは、さしずめ、ニュルンベルグ裁判の基本的欠陥が必然的にうみおとした「鬼っ子」というべきであろう。
 ところで、以上のようなニュルンベルグ裁判の企画全体を知ったうえでならば、ニセ証人、ニセ証拠がふんだんにあらわれたという主張を紹介しても、もはや、いささかもおどろく理由はないであろう。ウィーバーは「ニュルンベルグ裁判とホロコースト」で、矛盾だらけで「偽造」があきらかな文書がたくさんあり、すでに裁判当時に法廷で疑問がだされていたという事実を列挙している。有給のニセ証人もたくさんいた。ここでは、そのもっとも典型的な例だけを訳出しておこう。
「ダッハウでの裁判の進行中におきた悲喜劇的な小事件が[ニュルンベルグ裁判]全体の雰囲気を示唆してくれる。アメリカの検事、ジョセフ・キルシュバウムは、アインシュタインという名のユダヤ人の証人を法廷につれてきて、被告のメンツェルがアインシュタインの兄弟を殺したという証言をさせようとした。ところがなんと、その当の兄弟[つまり、生きている実物]が法廷のなかにすわっているのを、被告が発見して指さしてしまったので、あわてふためいたキルシュバウムは、証人をつぎのように怒鳴りつけたのである。
『兄弟を法廷につれこむなんて馬鹿なことをしやがって、これでどうやれば、この豚を絞首台においあげられるっていうんだ』」

 以上、本章では、殺人事件ならまず最初に発見されなければならない「死体」の存在への疑問から出発して、いわば「死体なき殺人事件」を事実だと判定した法廷への疑問におよんだ。
 本章の最初に指摘したように、「ホロコースト」物語の説明では、「死体」は焼かれ、「遺骨」はくだかれて「灰」と一緒に埋められたことになっている。「それだけの灰は発見されていない」という疑問も早くからだされている。マイダネク収容所跡には、「犠牲者の灰」を収めたという説明板のある記念のドームがあるが、その「灰塚」の規模では、せいぜい数百人から数千人分であろう。病死などの自然死だけでも、それだけの数字になるはずだ。





(私論.私見)