「アンチ・ロスチャイルド・アライアンス資料室『通産省・国売り物語』」その3

 (最新見直し2009.8.29日)

 「アンチ・ロスチャイルド・アライアンス資料室」の「通産省・国売り物語」を転載しておく。その2として、5〜9までを採り上げる。


通産省・国売り物語(7)馬借

黒字攻撃の犯罪性

市場を閉鎖したいのなら、閉鎖するのはその国の自由でしょう。現にアメリカは繊維以降、相次いで日本に「自主規制」を強要して市場を閉ざしてきた。しかしそれが何故「黒字化」に結びつかなかったか・・・。それは、アメリカの対日輸入=アメリカの赤字=日本の黒字という貿易バランス論の発想が間違っていたのです。

黒字・赤字を作り出すものは、クリントン押し売り外圧の非を諭す経済学権威が主張する如く、貯蓄・消費の「ifバランス」なのです。だからある分野で日本製品を追い出したとしても、安くて良い輸入品を使えない「経済全体」の効率を悪化させ、けっきょく収入の低下を招いて赤字は拡大する。だから世界の赤字国はすべからく障壁が多い。

日本が輸出で大きな成長を遂げたのは、実は60年代からの貿易自由化の結果であると、日本だけでなく、それに続くアジア諸国の輸出産業の成長も、自由化故にこそ可能になったんだと、(野口旭氏「経済対立は誰が起こすのか」)。つまり日本は、市場を閉鎖したから黒字になったのではなく、市場を開放したからこそ黒字大国になったのです。

学会では飯田経夫・小宮隆太郎・下村治氏といった日本経済学会の真っ当な権威は、アメリカのの我が儘で嘘だらけな責任すり替えを厳しく批判していおり、東洋経済93年7月10日の小宮教授の名著は賞賛を呼びました。これが単なる「一方からの見方」でなく、学問レベルでの客観的な現実であった事は、アメリカを擁護して貿易バランス論から黒字減らしを主張する香西泰氏が、学会で孤立感を抱いていたと自白言している事からも明らかです(東洋経済88年1月23日)。

ところが、彼に言わせれば主流である筈の飯田氏もまた、孤立感を表明していた。これを香西氏はいぶかしんでいますが、東洋経済のようなマスコミ雑誌ではまさに、学会でのまともな理論が孤立状態にあった・・・その理由は一般向け香西氏や天谷氏のような一般向けエコノミストの多くが「政治的立場」を持った官僚出身者である事を考えれば、解ります。

アメリカの悪質な政治宣伝と、それを鵜呑みにする隷米・排日派の強弁は裏腹に、小宮氏が断言するように「日本は最も開放的な市場のひとつ」(エコノミスト92年3月31日)であった。これが客観的・学問的事実であり、それがマスコミがリードする社会一般の「常識」では無視されていたのです。「内需拡大をやらない日本にアメリカを批判する資格は無い」と強弁する香西氏。

批判する資格も何も、アメリカの赤字の問題は、アメリカの一方的な都合に基づいてアメリカ自身の問題です。バブル期の香西氏が言う「最近の日本経済の成長ぶりは、こうしたモノ余り説の信頼性を疑わせる」などは、バブルのバブルたる所以を無視し、日本人の気を大きくさせて「大盤振る舞い」を正当化するだけのもので、そんな論こそが現在、日本を破綻の淵に追い込んでいる・・・その責任を彼はどう取るのか・・・。

まともな学者が、例えば小宮・下村氏などは(リチャードヴェルナー氏曰く「アメリカの要求のような」)前川レポートを批判し、貿易黒字悪玉論を完膚なきまでに否定しても、そういう正論はめったにジャーナリズムに登場せず、世論には殆ど影響を与えず、代わりにアメリカの立場に立って黒字減らしを擁護した、天谷・香西・赤羽といった、官僚や日銀のOBのエコノミスト達。彼等はバブルに至るまでの経済予測を間違え、楽観論を垂れ流し続け、日本経済をミスリードして今日を招いたのも彼等です。それは本当に「間違えた」のでしょうか。それとも「間違える振り」をしただけだったのでしょうか?

三和総研のような金融企業子会社のシンクタンクは、天下り官僚OBの金城蕩池で、そういうのが世論ミスリードの先頭に立ったのです。原田和明氏が小宮理論を攻撃した東洋経済93年8月7日号では「政治的視点を欠いた純理論は国際社会の場で理論は通っていても容易には受け入れられない」と・・・。「政治的視点」とは、要するにアメリカの強欲におもねる談合ではないのか。

客観的に正しいものが政治的なゴネに踏みつけられる事を「不公正」と言います。不公正をまかり通すために公正を引っ込めろ・・・と彼は主張しているのです。そんな理不尽の上に立って彼は客観的に正当な「純理論」を「一方的な黒字正当化」「利己的な主張」などとほざく。三和総研がでっち上げた「輸入障壁度」なるものを振りかざして「現実輸入数値」なるものと「比較優位度」なる正体不明の数値を元に、日本市場に障壁が高いと強弁していますが、その論を見る限り結局それは、輸出側の売込努力や需要方ニーズ対応といった、本来の「輸入が少ない」原因と無関係で、急速な円高による歪みをもろに反映した歪んだ数値であることは間違いないでしょう。

何より、彼が「日本の高障壁度」の見本とした品目ときたら、殆ど輸入に頼っている航空機だの、世界一関税の低い日本においての例外的な「高関税品目」だの・・・、到底日本の貿易実態の見本たりえない代物ばかりなのですから、いかにまやかし臭い数値標識かが解ろうというものです。

同様に、獨協大学の杉岡碩夫氏は、円高を「大東亜戦争と同じだ」などという、とんでもない比喩で押売に対する抵抗を脅しました。「自由貿易の旗をふりかざしてガットの場で改善を求める」ことを「鬼畜米英的発想」だというのです。あからさまな自由貿易破壊論であり、絶対に容認できるものではありません。

安場保吉氏も黒字悪玉論を強弁して赤字財政垂れ流し、「財政危機は起こらない」と大見得を切りました。根拠の無い強気発言でバブルの傷を深くした経済戦犯の金森久雄氏は、「黒字の15兆円を使い切る」などという目的のために公共投資の垂れ流しを主張し、日本の黒字はアメリカの赤字などというお粗末な妄説を垂れ流す人が「反対派はマクロ経済に無知だ」などと宣うに至っては、空いた口がふさがりません。

「日本は黒字が大きいから、何を言われても仕方がない」という論理無視を、葵の御紋のように振りかざすのが、アメリカや、それを擁護する従米派マスコミの十六番で、下手をすると「黒字が大きい」というだけで、外国による不公正行為をガットに訴える事すら「資格が無い」かのように強弁する暴論も多いのです。「黒字」という結果主義によって自由貿易システムの出番を否定するような人は「自由経済の敵」と言われて寸分の反論も出来ないでしょう。

数々の「きちんとした理由」にも関わらず、「額が巨額だから批判はやむを得ない」などと、おかしな市場破壊的輸入政策を受け入れました。マスコミは、日本の産業は消費財から生産財へ、そして「日本でしか作れない部品」に特化するから大丈夫だと・・・。麻薬のような日本不死身説で国民を宥めます。ところがその技術的強みすらも「テクノグローバリズム」の名の元で、大バーゲン的に譲り渡せという外圧に身を任せたのでは、その末路は明らかでしょう。そして今、「産業大国」としての日本は、そうした流れに便乗してのし上がった中国によって、止めを刺されようとしています。

黒字が大きいのは、長い間のアメリカ自身の姿でした。それをアメリカは「黒字国は許されない」との批判を甘受したでしょうか。現実に、60年代に外貨不足に悩んでいた日本がアメリカに「対日輸入増加」を求めた時、アメリカは身の蓋も無く一蹴したのです。(エコノミスト92年3月31日)。貿易不均衡の解消は赤字国の努力に拠るのが「世界の常識」であり、それでも出てくる黒字・赤字を調整するのは、基本的に赤字国に対する投資というのが「国際経済のルール」だと。

そのための対米投資すら、摩擦に煽って妨害し、逆に経常赤字を拡大する対日投資の増大保護を要求したのです。建前上は「アメリカの労働者の利益」と称して、市民運動関係団体を対日攻撃に動員し、実は資本家の利益を追求する。全ては見え透いた真っ赤な嘘。当時から、誰の目にも明らかだった筈です。

こうした資本家の暴利を堂々と追求する「お手盛給与」に、日本市民の憤慨はどれほどのものがあったか。そうした悪行をごまかすための、労働者の不満の矛先を日本に向けた日本叩きを煽り、現実に不足する労働者の職場や輸出生産力を補ったのは、むしろ日本企業の対米進出なのに、それに「ローカルダンピング」等で縛って損失を強制し、多くが損を被って追い出されるに至った事実をどう弁解するのでしょうか。

92年の自動車押売協議の「ボランタリープラン」で進出した日系自動車メーカーは「アメリカ資本から部品を買う」事を政治的に強制され、真面目な供給をしなかったアメリカ部品メーカーに代わる部品を供給すべく、無理なアメリカ進出を行った日系部品メーカーの、切り捨てを強要されました。日本の善意でアメリカのために血を流した「ボランティア」は、アメリカの悪意によって絞め殺されたのです。

従米派作家石川好氏は、こうした悪意によって損失を出す日本企業に「アメリカから引き揚げるな」などと反市場主義的なお説教を垂れました。「儲からなくても歯を食いしばってがんばることによって、アメリカ人との友情はさらに深まる」。あの悪意に満ちたアメリカの、どこを叩けば「友情」なんて言葉が出てくるのでしょうか?儲からないようにしたのは誰か?

「日本人が自らの努力によって儲ける」事自体を否定し、口先では友情だ・・・などと言いつつ、日本人の「アメリカのために」という友情を踏み躙ったのは誰でしょうか?日本企業がアメリカに工場を作ったのは儲かるからじゃない。日本から輸出したほうが儲かるし、東南アジアで作ればもっと儲かる。けど「アメリカ人の雇用を確保してくれ」と言われて、困難を承知で出て行った。今から考えれば馬鹿なことをしたものだが、その友情をアメリカが裏切ったんじゃないか!

「日本企業が進出すると対日輸入が増える」という、どう考えても有り得ない妄説を、いかがわしい数字の操作によって、こうした日系企業排斥を正当化したデニス教授は、「アメリカの赤字の増加は、日系工場が使う部品の輸入が増加するから」と強弁していますが、今までの製品輸入の代替としての製品価格が、それに使用した部品の価格を下回らない限り、有り得ない話ですが、彼の数字トリックは簡単です。

要するに、アメリカ経済全体のパフォーマンスを押し上げた結果としての「製造拡大効果」でしょう。日系工場が従来の輸入以上に製造して第三国に輸出したと考えれば、全て辻褄が合うのです。この論理は、唐津一氏が指摘したような、アメリカが90年代前半に増やした輸出の相当部分を日系工場が稼ぎ出している事実が、それを裏づけています。こんな単純なトリックを批判することも無く「ローカルコンテンツは当然」などと馬鹿をほざく高梨義明氏のような無能な日本のエコノミスト達は、誰かから賄賂でも貰っていたのでしょうか?

逆に、対日進出したアメリカ企業は、強欲な搾取への欲望を隠そうとしませんでした。東燃などは、エクソン・モービルが協調して過大な配当を要求し、92年12月期にはなんと175%という配当性向を要求。利益を遙かに超える配当という、経済の常識を踏み躙る暴挙をやらせて会社の資産を取り崩しを強要したのです。株主権の乱用によって、過大な利益に舌鼓を打つアメリカの資本家達。その強欲な行動を「日本は株主に対する認識が甘い」などと開き直るアメリカと、それを後押しするマスコミ・・・。

彼等をここまで横暴ならしめたのには、もう一つ「日本の産業は全てアメリカから教わった知識で発展した」という、牢固とした恩着せ的な思い込みがあります。かつてケントデリカット氏が、クイズ番組で大恥をかいた事があります。世界に先駆けてテレビ画像電送に成功した高柳健次郎の業績を紹介した際に、彼は「そんな事がある筈がない。テレビ技術は全てアメリカ人が創ったんだ」・・・(絶句)。歴史的事実すら足蹴にするその蒙昧は、日本人を知的創造の出来ない劣等民族として軽蔑し、その業績を全く認めようとしない差別意識の産物です。

そしてその害毒は「アメリカ崇拝」の陋習によって、多くの日本人の精神をも侵しているのです。西澤健一氏は、半導体で多くの発明を取った事でも有名ですが、企業に特許を売り込もうとして門前払いを食ったのだそうです。ところがその後すぐ、その企業に同様の特許をアメリカ人が売り込むと、一も二もなく採用した。曰く「日本人の特許を使ったなんて言っても、売れない。アメリカから買った特許を使ったと言うと売れるんだ」。

日本が産業で成功したのは、必要以上にアメリカに特許料を払ったと同時に、多くの独自技術の開発したためです。それを「アメリカ人の知識を盗んだ」などと言いがかりをつけ、「アメリカがただ同然で使わせてやったお蔭」などと蒙昧な恩着せ論を振りかざすアメリカの姿の、何と醜いことか・・・。

テレビだって、日本が高柳以来の成果を捨ててRCA方式を買った結果、そのRCAが巨額の特許料に胡座をかいて自滅したのは有名です。日本企業がデュポンのナイロン特許に支払った特許料があまりに巨額なため「潰れるのではないか」と言われたのを、その重圧を克服して成功したのです。しかも、実は既に独自技術を持っていたにも関わらず、パテント裁判を警戒して技術導入に踏み切った・・・というのも、有名な話です。

にも関わらずアメリカは、恩着せ論の挙げ句が、日本が「強くなる」事自体が不公正だと言い張り、そのためであるからと、日本の技術開発努力すら攻撃の的にしたのが「研究摩擦」です。研究摩擦では、アメリカが日本での研究情報の収集をサボっておいて「日本がアメリカの情報に一方的アクセス」などと言い張るからと、日本側の負担でアメリカから日本の研究情報を検索できるようにすると「何かアメリカから盗もうとしているに違いない」などと、逆に陰謀説を煽る始末。

「アメリカは、日本が教えられたことを単に膨らませただけだと思っている」というのが間違った思い込み(東洋経済88年1月16日)であるという事実を「アメリカでもよく分かっている人たちも多い」が、それが「ひとたび政治の場に持ち込まれる」と簡単に無視され、確信犯的に嘘がまかり通ってしまうのだという。そしてそれが日本のマスコミに流れて「常識」として幅を利かせ、その嘘を振りかざしてアメリカの横暴に対する批判を押し殺そうとする人達が出てくる。

日本側はそうした要求を宥めるため・・・と称して「テクノグローバリズム」を大々的に鼓吹し、国内の研究プロジェクトにアメリカ人を誘致したり、超伝導などの研究成果を差し出した・・・。摩擦最盛期の88年の「国際超伝導産業技術開発センター」などはその典型です。その結果がどうなったか。肝心のアメリカがテクノナショナリズムを掲げて技術囲い込みに狂奔し、湾岸危機の時などは、日本の半導体製造技術の突出に対して、曰く「技術独占は第二のイラク(絶句)」。

TW・カン氏というコンサルティング会社の社長の弁では、日本が努力によって技術的優位を得ることを、公然たる侵略行為と同じになるというのです。こんなとんでもない理屈が、堂々とまかり通ってしまう「グローバルスタンダード」とは何なのでしょうか?それまで一体誰がアメリカによるソフト技術独占を誰か批判したでしょうか?航空・宇宙技術独占は?逆に自助努力でアメリカの独占に対抗しようとした日本を、アメリカは叩きました。

「だからこそ日本が技術を解放し、テクノグローバリズムのリーダーになるのだ」と、自称国際派は言いますが、日本の技術バーゲンで、国際社会における技術的リーダーの地位に少しでも近づいたか?事実は逆で、日本の影響力は今や見る影も無く、ナショナリズムを振りかざして技術支配力を格段に強化したアメリカの、独り舞台に成り果てたではありませんか。日本での共同研究で得た成果を本国に持ち帰って、特許で囲い込む悪徳研究者が多数出現している(「乗っ取られる大国日本」浜田和幸著)という現実すら多いのです。

こうした恥ずべき我が儘が、アメリカでは「国防」というキーワード一つで恥を恥と感じない鉄面皮と成り果てて理性を忘れます。そうしたアメリカ人の軍国体質を利用すべく、彼等はあらゆる技術問題を軍事問題としてハイビジョンも液晶もみんな国防省の元で軍事プロジェクトとして推進しました。そして狂犬のような反日的雰囲気を盛り上げる一方で、「対米武器技術供与」の協定を強要し、安保の名目で一方的に有利な条件で日本人の血と汗の結晶である有用民間技術を囲い込む・・・、そのためのリストとして「クリティカルテクノロジープラン」というのをでっち上げました。

これを大々的に実行すべく91年度から予算化され、遂行されますが、湾岸戦争や東芝ココム事件は、まさにそうした軍事名義の圧力に対する日本側の心理的抵抗力を奪う布石として作用されたのです。最も悪質な技術強奪外圧としては、FSXなどはその典型でしょう。

一体形成炭素繊維技術や高度なレーダーなど、ただ同然で手取り足取り教える事を強要され、生産技術から何から完全に毟られ、日本はソフトやエンジンで実質的に得る所無し。日本が自主開発で進めていたのを強引に割り込んで、使い古しのF16ベースの共同開発を押しつけておいて「技術を持っていかれる」などと被害者意識を喚き立てて、殆ど「やらずぶったくり」の好条件を毟り取った。日本の独自航空技術の芽を摘もうという悪意に満ちた猿芝居のサクラも、多くいた隷米派マスコミと、その背後には通産省の影があったのです。

航空機市場を独占するアメリカならでこそ、ボーイングのように「手抜き整備」で膨大な犠牲者を出しておいて、本来なら過失致死に問われるべきを、「司法取引」と称してアメリカから誰も責任を問われない日航ジャンボ機墜落などは、まさに「昭和モルマントン号」事件と呼ぶべき変事でしたが、にも拘わらず日本は、引き続き航空機をアメリカから輸入せざるを得ない。

そうした悪しき独占を継続させるべく、日本国内では「軍事技術だから」と反発は押さえられ、逆に「経験のあるアメリカなら、純国産と違って安くできる」などとお気楽な意見がまかり通りました。その背後に実は通産省の、アメリカの戦略に協力しようという「国益度外視で従米」という85年頃からの方針転換が、FSX事件の背後に隠されていた事実が、当時、航空機担当だった伊佐山氏(四人組の1人)の証言で明らかになっています。

ところが現実には「安くなる」どころか、FSXでは、六割を担当する日本企業より、四割を担当するアメリカ企業の方が多くの支払いを要求(エコノミスト92年1月21日)し、その「アメリカが外圧で啜った甘い密」は全額、日本国民の税金から支払われたのを、告発する人は殆どいませんでした

最近になってようやく認知されるようになったエシュロンも、90年代前半から公知の事実です。当時から企業情報は盗まれ放題で、93年頃には、ある通産官僚が大手メーカー社員に「電話もファックスもアメリカに盗聴されている」と漏らしたそうですが、そうした実態がかなり知られていたにも関わらず、全く対策は取られなかったのです。

特に冷戦集結後は、余ったパワーを産業スパイに振り向けて、アメリカ企業に膨大な不当な利益を与えていました。「CIAは産業スパイをやらない」というコルビー元長官の、今から見れば「真っ赤な嘘」は、それをヨイショする新藤栄一氏との対談を「エコノミスト」誌に載せるなどして、日本人の警戒心解除に狂奔したのもマスコミです。

それどころか彼等は、逆に「スパイをやってるのは日本人だ」と言い張って、あろうことか「通信システムで他国を盗聴してるのは日本だ(絶句)」。まさに嘘を嘘で塗り固めるの体を地で行く破廉恥行為です。アメリカ政府肝いりの「クリーンカー技術研究計画」「フラットパネルディスプレー構想」のようなコンソーシアムの加盟企業には、CIAなどが日本企業から盗んだ技術を大っぴらに提供しているという事で、まさに「汚い手段」による技術盗品で潤っているのはアメリカ自身なのです。

摩擦最盛期の92年5月、カナダ商銀が報告書で「日本の貿易は公正」と報告しています。事実に対して冷静な「世界の知性」にとっては、アメリカ等の言いがかりの不当さはまさに常識だったのです。ところが、口先で「現時点で日本の市場が閉鎖的だから改善しろ」という論が破綻すると、「昔は閉鎖的だったじゃないか」と、外貨不足に呻吟していた50年代の昔を持ち出して「引けめを感じろ。だったら要求に逆らうな」などと、感情論で正当な論理の押さえ込みを図る・・・。

結局、彼等の反日感情の唯一の根拠は「感情」です。こういうものは反論可能であり、反論しなければならない。実際、表の交渉において、日本側は一応の反論はやっているのです。ところがその反論に対するアメリカの言い分は、ひたすら「アメリカが本気になれば日本なんか潰せるんだ」という脅しと「自分達がそう思っている」と言い張り。不満を振り回すだけの感情論なのです。これがアメリカ側の正当性の無さを如実に物語っています。これでは到底「協議」とは言えません。結局、裏でアメリカの言いなりとなり、「政治判断」で譲歩・・・と、表の交渉での反論など全く無意味であるという・・・これが「従うべき国際社会」と称されているものの実態です。

リビジョニスト達は口先だけで官僚統制を批判していますが、実際にはアメリカの日本叩きは官僚統制による日本企業抑圧を求めるもの以外の何物でもありません。ニューヨークタイムズ92年3月2日の記事では、日本企業を「関東軍」と称し、経済的に活動して消費者に安い品物を届ける行動を「軍事的膨張主義」と同一視する暴論を曝しました。

その暴論の元で日本政府にあからさまな規制を要求し、それをせずに「企業に自由にやらせる」からと日本政府を批判したのが「市場の論理を信奉するグローバルスタンダードの国」とやらの実態です。アメリカ企業の強欲に奉仕する醜い利権圧力を「健全野党」などと称し、「自国企業の行動を十分規制できない日本政府を補強しているのは実は米国だ」と、はしなくもこの「日米政府協同市場規制」の談合を暴露しているではありませんか。

通産省・国売り物語(8)馬借

「感情」という武器

結局のところ、棚橋氏などが著作で主張する言い訳は、次のものに尽きます。「外圧に従わなければ経済戦争だ。それを避けるためにはどんな譲歩もせよ」。

確かにマスコミで報じられた「アメリカの雰囲気」は、激しいものでした。そうしたアメリカの横暴に対する日本人の反発の声が出ると、決まって出てくる反論は「反日で荒れているのは議会だけ。アメリカの民衆は日本に無関心」。不思議なことに、「アメリカが反日で結束している訳ではない」という意見は、「理不尽な圧力で盛り上がる理不尽な国」という対米批判に対する反論としては出てきても、「外圧に従わなければ大変なことになる」という脅しへの反論としては、けして出てこないのです。

しかし逆に言えば、そうであるにも拘わらず、「外圧に従わなければ経済戦争だ」という脅しがマスコミで横行した状況は、通産官僚の「屈伏への国内説得」のための脅しとして、大いに機能した訳です。実際にそうした「アメリカでは日本批判の嵐だ」という記事を読むと、結局それは交渉担当者が伝えたアメリカ政府筋の雰囲気に過ぎなかったりする。つまり、そういう「アメリカ市民擁護論」によると、これは通産官僚による明らかな情報操作という事になる。

いずれにせよ「アメリカの民衆は日本に無関心」という事は、アメリカ市民の良識が働かない状態だった訳です。アメリカ人は一般に外交に対して無関心で、実際に読まれているのは地方新聞に書かれた国内記事だと。その結果「フジヤマ・ゲイシャ」の偏見に安住し、満足な知識を得ようともしないまま、組合や政財界の垂れ流す偏ったマスコミ情報を無批判に信じ、権力者の暴走を許した。それはけして彼らの免罪符にはならない事は、言うまでもありません。

さらに言えば、アメリカの議員は「得票」のためにこそ、対日強硬派として行動した。それはつまり、何だかんだ言っても、アメリカ市民は「日本叩き」を喜んでいたのだという事です。アメリカの政治家や官僚にとって、日本叩きは「ゲーム」だと、多くの人が表現します。アメリカ側の、論理的には到底成り立たない我が儘は、まさに「我が儘を通す」ことにより、自己の力を誇示する・・・。これを行う弁護士出身の担当者が、「ゲーム感覚」で得点を競い、そのために、あらゆる手法で反日感情を煽る。これは典型的に危険な衝突コースで、普通の国であれば当然反発します。

当然、日本では広範な人々による反発が起こりました。それがマスコミと政・官担当者によって無視され、せいぜいが「認識の違い」に過ぎないかのように見なされて、日本人の不満は鬱屈するだけ。日本が「国」として怒らないから、政治家も安心して「国益衝突ゲーム」に狂奔し、それを民衆はスポーツ観戦のように、熱狂する。「平和のため」として血を流す敗者は軽蔑を浴び、勝者は賛美を浴びる。

世界的に見て、外国に「言うことを利かせる」事の快感を求めて、政治大国を指向して醜い争いを繰り返す独裁者の、なんと多いことか。それは民衆をも酔わせ、独裁者の地位を堅固にします。そのためにこそ、イラクのフセインや金正日のように、危険な軍拡に走って国民を不幸に陥れる罪人は、後を絶たない。アメリカの日本叩きもまた、その同類です。

クレッソンやファローズなどが「日本が経済支配の陰謀を巡らせている」と主張し、「ライジングサン」のような悪質な日本陰謀本が横行する・・・と、まさにユダヤ差別にも酷似する状況が現出したこの時期、日本では、様々な陰謀説を「トンデモ本」として批判した「陰謀がいっぱい」という本があります。何故か、この日本陰謀説だけは取り上げられていないのは、不思議と言う他はありません。こうした陰謀論は、日本を「一枚岩の強固なグループ意識に支えられたものと」みなす発想に、その基盤を置いています。しかし、それが過ちであることは、霍見氏が「日本見直し派」との討論で完膚無きまでに論破したにも関わらず、執拗に宣伝され続けました。

外務官僚だった小倉和夫氏は、その著「日米経済摩擦」において、アメリカが国内で対日感情を煽るテクニックをいくつか紹介しています。例えば、様々な案件を「象徴」化する。その案件で「勝利」すれば、闘いに勝った事になるとして、官民一体化して要求の声を荒げるのです。日本としては「それさえ譲歩すれば相手は納得する」として譲歩すると、さらに次から次へと、限りなく「象徴」を出てくる。

グリーンピースなども捕鯨を「象徴」だと明言されていますし、自動車もそうです。映画会社やロックフェラーセンターなど、まさに反日を煽るために「象徴」として宣伝されました。その他、「相手側担当者の顔を立てる」という発想も、小倉氏は「日本的な考え方が災いした」ような言い方をしていますが、結局はアメリカ側の「俺達はお前等の味方だから顔を立ててくれ」という要求で、ああいう不透明な交渉をやった訳ですから、「日本的が災い」などというものではありません。「白黒つけるのを避ける」のが日本的・・・などという言い訳も、同じです。

このような、相乗的に悪化する要求・譲歩・増長というサイクルを断ち切るためには、日本からの怒りによってアメリカの要求を拒否する他は無いということは、誰の目にも明らかなのです。そして、多くの人の指摘するところでもありました。ところが自民・通産の政官複合体は、「譲歩すればアメリカは宥められ、摩擦は収まる」と主張し、言いなりを続けてアメリカの我が儘を肥え太らせたのです。

「摩擦を未然に食い止めるには、アメリカから言われる前に、進んでアメリカの意を汲むべし。」などとアメリカ通を自称する提灯学者やに説法させて、日本の政治システムを丸ごとアメリカに奉仕する御用聞きと化していきました。小倉氏の言う「こうした論議に迎合し、米国や西欧の批判を日本にとりつぐことだけを自らの存在意義としているエセ国際主義者」とは、まさにこうした人達なのです。

富田氏がその愚かさを指摘し、紛争の拡大の原因たることを実証した「米国の報復に対してはっきりと反対の意思表示もせずに、産業界に対して米国製半導体の使用を促した」政策は、まさにその要求への対応として行われ、その後も富田氏の警告した通り、ますますアメリカを増長させ、その欲望を刺激し、さらなる生け贄の要求を引き出していきました。こうなる事は誰の目にも明らかなのに、耳を貸そうとしなかったのです。結局それは彼等通産官僚が、日本ではなく、アメリカの利益に奉仕する存在であったからに他なりません。

「日本を封じ込めろ」と声を大にするアメリカの反日派を前に、「話せば解る」と和解の可能性という虚しい幻想を振り撒き、あるいは「彼等はアメリカの一部に過ぎない」と、一方では言いながら、まさにその「一部に過ぎない」筈の彼等の主張に沿って日本を叩く行為に対する抵抗を「アメリカとの対決を煽るから」と制止する。なぜ「一部に過ぎない」筈の日本叩きに身を任せるのか。何故、ひたすら自制が強要されるのか。客観的に見れば、アメリカ側が「国」として、「力の勝利」を目指す限り、和解の可能性は皆無なのに、その事実に目を背け、結局は日本が「全てを奪われる」という彼等の目的通りの結末に終わったのです。

つまり、限りない「衝突」と「叩頭」という、相反するベクトルに固執した両者の、見事なコンビネーションによって、見え見えのシナリオ通りに邁進したのが、この80〜90年代に行われた「摩擦」の実態です。全ては「批判すべき相手を批判しない」という過失の結果であり、その「過失」すらも「物言わぬ日本が悪い」とアメリカを正当化する論理に転用されています。その「物を言う」行為を妨害した人々の責任は、あくまで不問に付されたまま・・・。

こうなってしまったのは結局、その背景にあるのは、自省の利益のためなら国益を犠牲にする、巧妙に隠された官僚の背信行為であり、外国との不透明な癒着です。それは厳罰に処すべき犯罪行為ですが、それを国民が止められなかったのは何故か?結局、彼等が最も苦慮したのは国民が反発する可能性でした。だからこそ、それに対する目眩ましとして、口先では棚橋氏自身、「20%を約束した覚えはない」と言って、抵抗の素振りを示し、実際には正反対の事をやっていたのです。

盛田氏なども、「NOと言えるニッポン」などで、外圧抵抗派であるかのように勘違いしている人が多いのですが、こうした行動を理解する例として、金丸氏のこんな話があります。金丸氏は「アメリカあっての日本」と公言する対米従属派の巨頭で、棚橋氏と近いという梶山この金丸氏の側近をもって任じたほどでした。この金丸氏は一方で郵政族の首領として、NTT民営化問題に大きく関わっていました。最初、彼は民営化に反対を主張したのですが、後に一転して賛成派に転じます。

これについて、彼が当時の盟友に言ったのが「俺はこれから絶対反対を唱える。すると反対派が俺の所に集まるから、頃合いを見計らって賛成に転じて、情勢をひっくり返す。これで全てうまく行く」と・・・。つまり用心すべきなのは、外圧容認の人が、外圧反対派を自分の所に集めるために、わざと反対を唱える場合があるのです。そうやって彼らを回りに集めて、その動きを押さえ、裏で外圧容認のために画策する・・・。

では、国民としては、どうすれば良かったのでしょうか。実際の行動・・・交渉の結果に対しての責任を追求する事は、先ず大前提でしょう。それには「日本の国益とは何か」「あるべき外交とは何か」という基本的な概念が必要です。国益とは、日本国民にプラスになるべく、その繁栄と地位を最大限に高める事です。そしてその国益を最大限に実現するためにこそ、外交は存在する筈なのです。

「日米関係を良好ならしめるための努力」だって、そうした国益を実現するための外交の、一つの手段に過ぎない。そうした基本概念を真っ向から否定し、「外国に喜ばれ、アメリカに可愛がられるのが国益」などと、対米関係を糊塗することが目的化されました。そして、日本の外交は「アメリカとの関係」を支えるための道具になり、それを支えるために国益を犠牲にする・・・という、まさに本末転倒の「国民認識」が巧妙に演出されていたのです。

アメリカは日本人を「論理を重視する理性的なアメリカ人に対して、日本文化は感情優先だから思考が非論理的」と言い張ります。しかし一連の日米摩擦では全く逆の実態が証明されたのです。日本側が理によってアメリカの要求を批判したのに対し、アメリカが感情を振りかざす。まさに感情優先で非論理的なのはアメリカのほうではありませんか。アメリカに論理は通用せず、客観的な正当性は度外視される。その「アメリカの感情を最優先」して理論を取り下げた日本は、その意味では「感情の国」と言えるのかも知れませんが。

ビルトッテン氏などは、論理的にアメリカを批判した1人です。それに対して、「日本人のプリミティブな反米感情に火をつけるのを恐れる」などという発想は、まさにそうした日本人愚民視の現れでしょう。おかしな悪しき排日が反発を受けるのは当然で、それを「恐れる」というのは正義を恐れる事です。「日本人は感情的になると一斉に走り出してコントロールが利かなくなる」と言い張る日本性悪論者は、(新)右翼にも左翼に居ます。

では、アメリカの排日はコントロールが利いたのか?「アメリカは行き過ぎれば自分で反省する」などと嘘臭いアメリカ擁護論を出す人は「クリントンの二期目で反省して押し売りを止めた」と言っている、まさにそのクリントン二期目で、フィルムでも保険でも過去の押し売り協定の継続でも、あれほど執拗に押し売りを要求したのは何故か?中国をヨイショして日本に圧力をかけたのも、まさにその時期です。願望と現実を取り違えても、何も解決しません。クリントン二期目の時期に「それ以前に比べて日本叩きに熱心ではない」と言う言い逃れも、既に日本をボロボロにした後で「熱心ではない」のは当然で、それを「不当な日本叩きを反省」などとはあまりに無理が過ぎる・・・。

それに対して、アメリカ側が「国益」つまりアメリカ国家のエゴイズム的利益追求や、議員選挙区企業の利益を代弁して、不当な対日要求をごり押しすれば「理性を起点とした対日批判(古森義久氏)」だというのだ。日本人が「国益」のために自国に対する不平等条約要求を批判すれば「お前は国家主義者」だと言われる。そして「右翼の感情的反発」との言いがかりを吹っかければ、大抵の日本人は沈黙します。

「アメリカの感情を宥めるために」とか言っても、その感情は結局は、日米関係を自国国益の道具とするアメリカの「気分次第」なのですから、論理も正義も無い、アメリカの御都合的な感情のみが左右する。アメリカが感情を昂ぶらせれば、何でも要求できる。感情を武器にすれば、どんな無理難題でも日本が呑む。それで縛ればいい。

これはまさに奴隷状態です。客観的な論理を通さずに何でも強制できて、日本の存在目的そのものが「日本人の利益」を離れてアメリカ国益の感情に奉仕する道具と化し、どんどんすり減らされるだけの存在になる。「国滅んで日米関係残る」・・・これこそまさに現在の日本ではありませんか。

こういう隷米主張は、無能な政治家はさらに露骨に主張します。加藤紘一氏が東洋経済88年4月9日号に書いた論では、アメリカ人を代弁して、こう主張しています。「地元の自動車工場を潰され」「工業製品を輸入し農産物を輸出する」ことによって「プライドが傷ついた」と日本を恨み、「この痛みを日本にも味わせてやる」・・・と。だから日本は、その感情を満足させるために「スムーズにこの問題を処理」せずに、叩かれて叩かれて経済を破壊され、「のたうち回」る状況に陥る必要があるのだと。そうした犠牲を反感抜きで受け入れるために、「昔お世話になった」だの「自由主義社会のリーダーシップ」を握ってもらうためにアメリカを助ける・・・だのという・・・。こういう人達が主導した国が、どういう運命に陥るかは、そして陥ったかは、いまさら言うまでもありますまい。そういう運命に「突き落とす」ための外圧だったのですから。

大前研一氏は言います。「日本が強い」というのは幻想だった。「アメリカのシステムは駄目だ」という「傲慢の罪」の結果だと。しかし、そうした日本強国論は、何のために鼓吹されたのでしょうか。「アメリカがこんなに弱くなった。日本は強いんだから、アメリカを助けるために、どんなに譲歩したって大丈夫」と・・・。渡辺昇一氏曰く。「アメリカの時代は終わる。日本の時代は必然だ。だからアメリカの要求は何でも聞いてやろう」・・・。こうして無茶な出血サービスが正当化され、言いなりになり続け、日本の繁栄は潰されました。

要するに、アメリカの圧力による被害に民族的不満を高まらせる日本人の「民族意識」を麻薬のようにくすぐり、麻痺させ、不満を逸らせるための宣伝だったのです。まさにアメリカの利益のための「日本強国論」だったのです。その幻想を振り撒いた人達は、もちろん非難に値します。だからといって「傲慢な日本の自業自得」というのはお門違いです。ましてや「傲慢な日本にアメリカが怒るのは当然」などと、そもそも日本強国論を必要としたアメリカが、被害者意識を振りかざすに至っては、本末転倒と言うほかはありません。

通産OBの天谷氏は言います。摩擦は感情レベルだから理屈は通用しない。理不尽でも言うことを聞け・・・と。彼に言わせると、アメリカが強くて日本が弱ければ日米関係はハッピー。日本が強くなるとアンハッピーだ。だから日本は弱くなれ・・・と。そして、相手にいかに「与える」か・・・という経済の世界を、相手からいかに奪うか・・・という軍事の世界と混同し、項羽や源義仲を引用して「強くなった日本も同じ運命を辿る」と脅しました。ビジネスでの顧客への奉仕による成功を、あたかも不道徳な軍事支配と混同し、努力によって繁栄する権利そのものを否定する。これが「通産省最大の論客」と呼ばれた人の主張です。

天谷氏の町人国家論の「町人は武士の犠牲になるべきだ」という発想は、彼の言い分では「これが世界の常識だ」という事になるのでしょう。しかし本当に「町人は武士の犠牲になるべきだ」というのが「世界の常識」でしょうか?「日本は市民革命を経ていない」と、欧米人は日本の後進性を主張して言います。その、彼等が「これぞ先進世界のスタンダード」と自賛する、その市民革命とは、一体何でしょうか。それは「犠牲を要求した武士」に対する「町人」の抵抗だったはずではないのでしょうか。つまり「町人国家」として欧米の犠牲たる事を説いた天谷氏の、そして従米派の論は「グローバルスタンダード」でも何でもない、民主国家たる、そしてアメリカの圧力に憤激した現在の日本市民のスタンダードですらない、遥か昔の封建社会のスタンダードでしかないのです。

「戦略論」と称するものの教科書には、大国の横暴への反発をマスコミの世論操作で抑えるのが「戦略」の一つだと、まさに大国の利益に奉仕するような事が書いてあります。民主主義の根本を破壊するような暴論を、堂々とひけらかしてるのだから驚きます。日本の馬鹿な政治家たちが、それを実行したのは疑い無いでしょう。民衆蔑視に凝り固まった彼等には、限りなく甘い響きの主張です。

そして、それがいかに愚かな「戦略」だったかは、事実が証明しました。この妄説を、どういう人が書いたかは、一目瞭然。軍事学の世界は「米を食うと馬鹿になる」とか「鯨は人間の次に賢い」とかいうトンデモ学説をばら撒いた学会より、はるかに権力にとってはコントロールし安いでしょう。何しろ、説を出してる人達が「戦略の実行者」そのものなのですから。

そんなのに騙されて、日本の政治家とマスコミたちは、自国を破壊したのです。その昔、勝海舟が「日本では上に行くほど愚かになる」と言った時と、全く変わっていません。愚かな「上の人達」の外国優先の感覚は、結局はどこにも通用しない封建時代のそれでしかなく、外国に叩頭して自国を害し、外国への抵抗を求めた「賢いヒラの人達」の日本優先の感覚こそが、真のグローバルスタンダードだったのです。

こうした愚かな論理によって通産省は、自殺的ベクトルを向いた「市場管理」を受け入れ、民間企業を縛ったのです。省内の都合では、「強くなり過ぎた民間企業」をコントロール下に引き戻すため、民間の力を「削ぐ」必要があった。「行政指導」と称する不透明な政策強制においては、「お願いするだけ」と称して、露骨な脅しによる圧力を加えて、不合理な行動を強制し、それを「おまえらのためだ」と言いくるめるのが、彼等の常套手段です。

日経89年12月頃の「通産省、管理貿易の誘惑」という記事では、アメリカの対日管理の欲望と結びついて「外圧を利用できる今こそ権限を拡張できるチャンス」という通産省の本音を暴き出しています。そしてこの図式は「民間企業」を日本、「通産省」をアメリカ、「行政指導」を貿易交渉に置き換えると、全く同じ図式になるではあまりせんか。

こうした不当な圧力に対しては、もちろん、アメリカ国内でも反対はありました。曰く「日本の不健全なナショナリズムを誘発する」。理不尽な外圧に対する反発を「不健全」と断じる事を忘れないのが、アメリカ人なのです。しかも、アメリカの真に不健全な感情を擁護しながら・・・。これが、日米のマスコミのスタンスの差です。

アメリカによる覆い隠せない不公正を伝えるに当たって、マスコミは、アメリカに対する「思いやり」を強調しました。「世界一を続けてたんだから、正常な判断が出来なくても仕方ない」・・・。仕方ないでは済まないという事を、誰も言わない。倫理的にどうなのだ・・・とは言わない。日本が不当な被害を受けても「自分達が我慢すれば済むことだ」・・・

私生活なら、それでもいいでしょう。しかし日本人全員に「我が儘なアメリカ」のための不公正に対する我慢を強制する資格が、誰にあるのか。それを従米派は強制したのです。公正を主張する権利を行使する一部の日本人に「右翼」だの「国家主義者」だのというレッテルを貼ることで。「日本の事を心配するなんてダサい。個人として生きてない情けないやつだ」「悪しき日本政府に味方する権力の犬」なんておかしな理屈で、より良い社会を考えるという「日本の主権者」としての義務の放棄を迫ったのです。

中西輝政氏は、戦前の日英間の経済摩擦を引き合いに出して、日本が自国の立場を主張する事自体が「自己中心的で道徳的に敗北」(ボイス90年9月)だなどというとんでもない世界観を振りかざしました。そうまでして自己主張を押さえて「顔の無い不気味な日本」というレッテルを生き延びさせたいのでしょうか?

「世界の事を考えろ。日本を考えるな」という、日本叩き容認を迫るための常套手段は、盛んにヨーロッパ要塞化を引き合いに出しました。EU統合をあたかも「世界統一」のように鼓吹し、ばら色の未来図を描いて理想化したのです。あたかもハーロルンの笛吹き男のように、「バスに乗り遅れるな」的に日本人を「統一世界」という幻想に誘い、そこに至る切符として国益放棄を迫る。そして、誘い込まれた先に何が口を開けて待っていたか・・・

叩かれ、たかられるばかりの立場に縛られるよう陰に陽に画策しながら、名ばかりに「大国の義務」などと持ち上げて、自国の影響力のために巨額のODAを引き出し、自衛隊をアメリカの道具にすべく圧力をかけたのも、終わった筈の戦後処理のやり直しを迫る不当要求への恭順を説いたのも、そうです。アメリカは、言いなりになる代償としてとして日本に、千島返還支持や常任理事国入りをちらつかせました。ところが実際には、その実現のための努力はなし崩し的に破棄されるどころか、それを困難にしたのはアメリカ自身です。ロシアをつけ上がらせるべく「無条件の援助」を要求し、安保理改革交渉で最も固い態度を取ったのもアメリカです。

不思議なのは、少しでもアメリカの要求に理解を示すような「考え」を政府の人間が示すと、それは直ちに「国際公約」と取られて「実現」を要求される事です。これでは、まともな国なら、果てしなき突っ張り合いを演じる事を強制されるのと同じです。ところが日本だけは、唯々諾々と「公約化」を受け入れ、政府もマスコミもその「実現」を、あたかも「国家目的」のように自国を犠牲にしながら奉仕を続けたのです。

日高義樹氏は、湾岸支援にしても海部訪米にしても、アメリカの強面の「まだ足りない」的な要求し続け姿勢に相反する、裏面での「アメリカは大満足」な実態を指摘しました。叩かれ続けても笑って言いなりになる日本・・・、それをいいことに、日本に犠牲を強い続けるアメリカが、「自分達の満足は日本の不満」という状況を作り続けている。だからこそ「こんな事が続く筈が無い」という猜疑心に苛まれ、いつか日本は造反するに違いないと、日本に対する敵視に直結する。その敵意を満足させるために、「敵対不可能」なほどに日本を弱めるために、さらに日本を苛める・・・。利己主義に発した感情の暴走が、日本に一方的な被害を要求する悪のサイクル。

そうしたアメリカの内心での「加害者」としての怯えから来る対日恐怖と攻撃性を指摘したのが岸田秀氏です。ところが、それを「解消」するためにと、岸田氏が主張したのは、「アメリカの疑念を宥めるために、日本は自己を去勢して徹底的な属国になれ」・・・(絶句)。アメリカが勝手に膨らませた猜疑心を、いったいどれだけ日本が叩頭すれば「納得」させられるというのでしょうか。

日本人が人間であり、人間には「知能」があって、叩かれれば叩かれるほど反発するのは当然なのです。だからこそ、日本を叩けば叩くほど、アメリカは猜疑心を膨らませるというのに。岸田氏は日本人に「人間を止めろ」とでも言うのでしょうか。そういう邪悪のサイクルを暴き出し、決着をつけない限り、何も解決しないのではないですか?

通産省・国売り物語(9)

何が日本を潰したか

最も罪が重いのは、やはり日本のマスコミでしょう。日高義樹氏の言うように「アメリカとのビジネスが最優先」と主張するアメリカのコンサルタントの主張がそのまま「評論」としてまかり通る(ボイス91年6月)のが、日本のマスコミの実態です。こういう従米派マスコミは「何が正当か」という最も基本とすべき論理を、何も考えません。それに対する反対勢力が「進歩的知識人」と称する左翼勢力で、彼等は根っから日本を敵視して、ソ連だの中国だのの利益を代弁するだけなのですから。

マスコミが行う最悪のミスリードのテクニックは、その記事に対する「見出し」のつけ方です。たとえ記事の中ではアメリカ側の主張の理不尽を解説して、よく読めば自由化でも解放でもない単なる「押売」に過ぎない事が解るとしても、その見出しには「自由化を求めるアメリカの市場開放要求」と来る。アメリカの都合で張りつけた羊頭看板をそのまま見出しにするのです。

結局、記事の中身を読まず、表題だけ流し読みにする大部分の人達、ましてや電車の吊り広告は、見出しのイメージだけを垂れ流します。これでは、「ああ、アメリカが要求してるのは市場開放なんだな」と早合点してしまう人が大勢いるのも当然です。おまけに、日本側がそうした圧力に反対する理由を「市場原理を歪める」という本当の理由より、「業界が困るから」などとあたかも特定の業者のエゴであるかのように報道するのですから、アメリカ特定業者のエゴを正当化する雰囲気すら出てしまう事になる。

「アメリカ人は白黒をはっきりさせる透明な文化」だの「論理を優先する理性的民族」だの、果ては「フェアを尊び、利己主義を嫌い、明確なルールを尊重し、二枚舌が大嫌い」・・・。そして止めが「日本人はそれと正反対な邪悪な民族」だからアメリカに嫌われただ・・・などと、あまりにも幼稚で空想的なアメリカ人の自文化礼賛論・・・論と言うにはあまりに実態とかけ離れた、宣伝イメージ依存の自己陶酔的発想を、そのまま無批判で受け入れ、そういうイメージを前提として記事を書き、解説する。大嘘付きとしてこれにまさるものはありますまい!

日米合作のマスコミ操作のシステムが整備されたのは、カーター政権時代のストラウス通商代表の時期だと言われています。「貿易不均衡是正を迫る」という目的に沿って激しい日本叩きのための「米マスコミの情報を完璧に操作」する体制が整ったのだと・・・。そして70年代〜80年代前半、防衛費増額を促進する日米国防族合作の工作の中で、日本のマスコミを巧みに操作するシステムが整った。それが80年代、「経済官庁同士の外圧づくり」に応用されたのだそうです。84年のブロック通商代表による日本の「農産物市場解放プログラム」が、実は通産省の入れ知恵で作られたものだったという「ブロック事件」は有名です(エコノミスト91年9月24日)。

対米奉仕のための市場管理に対して、「市場管理は企業の活力を損ない、没落を早める」という鉄則は、「アメリカ企業自身の没落を早めるだけ」という論調で、この協定に反発する日本人を宥める役割を果たしました。それはまさに「自力での外圧排除」を諦めて「天罰」を待つという、消極的過ぎる抵抗意識でしたが、もちろん現実はそんなに甘くありません。

結局、それまでの「言いがかりダンピング輸入障壁」や「輸出自主規制」は、アメリカの主権によってアメリカ市場を管理するから、被害はアメリカ市場に及びます。ところが半導体協定は、日本市場に対する管理を強制する訳ですから、「規制によって歪められる」のは日本市場です。結局この「天罰」説は「日本が受ける被害」という、事の本質を忘れていたのです。

伊丹氏は、アメリカによる「日本企業はアメリカ市場に依存して儲け、国内を閉じている」という言いがかりをデータによって廃し、半導体市場が元々極めてローカリティの高い性格を持っているのだ・・・という事実を明かしています。だから日本メーカーが本当に依存しているのは実は日本国内市場であり、アメリカに対する輸出というのは、アメリカメーカーが安易な工場移転による不良品増加で自滅した結果に過ぎない。その一方で、国内に強力なライバルのいる日本市場でアメリカメーカーが高いシェアを取れないのは自然です。それを無理に「シェア増加」を要求すれば、無理が生じるのは当然なのです。だからこそ彼等は「日本ユーザーが欲しい品物」を作るのをサボり、そのツケを日本企業に押しつけることで、余計な労力を使わせて出血を強いて日本企業を潰したのです。

霍見芳弘氏は、半導体協定やその他、87年の制裁・屈伏劇に大きく影響した東芝ココム問題での交渉における、通産官僚の非常識な馴れ合い・追従ぶりを痛烈に批判しました。国益を破壊する無茶な要求に対して、ほとんど意図的に言いなりになっているとしか思えない・・・と。もちろん、その官僚の国益破壊を擁護するマスコミの無能に対しても、です。きちんと反論・抵抗することは十分に可能で、それが国際的な常識である・・・と。もちろん、官僚がそうした義務を怠ったのは、彼が言うような、単なる「無能」による追従・・・というよりは、もっと深刻な、意図的な「裏切り」なのだという事は、言うまでもありません。

ただ、霍見氏の論で残念なのはリビジョニスト(と、実はその通産官僚自身)の、ノートリアスMITI論に瓜二つな論調で「悪いのは日本だ」と、結局アメリカを擁護してしまっている点です。「万能の官僚統制」という神話を前提(それが通用しないから、復活させるための摩擦利用)に、「値下げ競争」で負けただけのアメリカ企業の言い分に踊らされ、スパコン摩擦が「入札に参加したいだけ」なんて建て前に踊らされてしまうのは、彼の「親米派」故の限界なのでしょうか。交渉事でアメリカに逆らうのが「あちらの感情」を怒らせるから日本が悪いとか、挙げ句はあの悪名高い反捕鯨ゴネゴネ団体の言いなりにならない事が「世界を怒らせた=日本の国益に反する」とか・・・。

これでは、彼が批判している筈の「非常識な馴れ合い・追従」をまるで奨励しているようなものです。アメリカの圧力に対する当然の反米感情を「ヒステリー気味の大合唱」などと貶め、「回りの国が迷惑するから経済戦争だけは回避せよ」と政府の弱腰を擁護する御用マスコミと同じ事を主張するのはいただけません。これでココム事件の際のノルウェー世論の国益擁護を羨ましがるのだから、筋が通らないのではないでしょうか。アメリカの官民癒着を、市民(摩擦企業)に政府が奉仕する民主主義の鑑・・・などと持ち上げ、日本企業のあるべき戦略・・・とかで、アメリカ中華思想に染まったおかしな発想が、彼の著作には多々ある。

東京一極集中を批判しながら、「日本企業はニューヨークに本社を移して一極集中せよ」とか、「アメリカで英語で世界中の情報が手に入る」・・・というので、それでは日本の情報は、というと、三大紙の英語版を読めば日本の全てが解る・・・などと。その日本のマスコミを、一方では政府の言いなりで信用できないって言ってるんですから、これは笑うしかありませんね。

同様に、貿易黒字悪玉論を批判した野口氏ですが、一方で日本国内の反黒字減らし要求派による対米批判を「自国の貿易黒字を歓迎している」からアメリカの要求と同じなどと書いていますが、これでは実質的に、黒字減らし要求に同意しているのと同じです。「よい外圧もある」などというのは、民主国家としての根源を否定しかねないだけではなく、「赤字か黒字か」しか見ていない視点で、見かけ上アメリカの強欲との違いを強調するだけでしかない赤字転落容認論は、本来の自由貿易論の根拠である「経済合理性」こそが問題の核心である事実を忘却し、そうした合理性を高め、効率的な経済を実現することによる、国際的競争努力の放棄を迫ることになってしまう点で、日本にとっても世界にとっても、到底プラスにはなり得ません。

通産OBの天谷氏は、この醜い日本叩きを「経済を重視し文化を軽視したツケ」と正当化を試みています。では、文化とは何でしょうか。それは、様々な情報を創造し発信するものです。それは、「自ら」の立場を当然反映した好みや価値観の主張から生まれます。アメリカの発信したそれらを「ありがたく押し頂く」自称協調派にとっては、日本人自らの立場の主張など「許されざる傲慢」だった筈です。そういう人達が多数を占め、あろうことか少数の自己主張派を抑圧さえした、天谷氏を代表とした彼等こそが、この日本に文化小国の状況をもたらした張本人ではないのでしょうか。

辛うじて日本が世界をリードする文化を創造できたのは、そういう彼らの欧米を代弁した「大人のくせに電車の中で漫画を読む恥ずかしいやつら」という抑圧の声に、耳を貸さなかった人達だという事実を、彼等はどう弁解するのでしょうか。

彼等は「日本に関心を持つ外国人が増えた。しかし日本人はその外国人に心を開こうとしない」と言い張ります。ではその外国人が、本当に「日本人に対して心を開いた」のか?到底、そうは思えません。日本人が海外に出れば、「日本的行動様式」という看板が「非難理由」になってしまいます。「金持ち日本人から巻き上げるのは当然の権利」などとうそぶき、「平和ボケで警戒しない日本人が悪い」などと、責任を被害者になすりつけて犯罪者を正当化する。彼等が日本に対して求めていたのは、結局「金」であり「技術」であり「成功した秘訣」であって、生身の日本人の姿など、知ろうともしなかったのではありませんか。そのくせ「商品は知ってるけど顔が見えない日本人は誤解されて当然」などと、平然と責任を転嫁する。

「日本は情報を得るだけで出そうとしない」と言いますが、日本は謙虚に「仲よくなりたい」と思うからこそ、外国の情報を自ら得ようとしたのです。彼等は日本の情報を自ら得ようとしたか?マスコミにしても、「相手国情報」の需要があるからこそ、その国のマスコミ資本が伝えるメディアを供給するのです。それを、上げ膳据え膳で日本が情報を持ってきてくれない・・・などというのは、甘すぎる我が儘と言う他はありません。

ナタデココブームの時、日本に高く売れるからと、ココヤシの農場に投資したフィリピン人がいました。ところがブームが去って売れなくなり、借金を返せずに自殺した・・・。まともに日本の情報を求めれば「あんなものはろくでもない」という意見は当時から多かった。続かない事なんか解る筈です。それを日本に対して本気で付き合おうという姿勢もなく、金だけ求めるから、こういう事になる。それを従米派の人が何と言ったか。曰く「ナタデココ殺人」などと、まるで日本に殺された被害者であるかのように、とんでもない言いがかりをつけたのです。

相手に好意を持って耳を傾けるから、「何を欲しているか」を理解でき、それを供給する商売が可能になる。だから日本は成功したのです。仲よくしようともせずに金だけ求めて、或いは奉仕の心を忘れて「成功した秘訣」だけを求めて・・・。そういうのを「インチキ指向」と言います。

日本が何故、経済発展できたのか。アメリカや欧州の資本家・経営者に都合のいい説明では、「働き過ぎの日本人対怠け者のアメリカ労働者」という事になっていました。「蟻のように働く日本人」というのは、あの反日家クレッソンの台詞で、それを受け売りした・・・というより、受け売りする立場にあったのが、日本の「放言政治家」です。中曾根の「知的水準」発言。渡辺の「アッケラカーのカー」。これが「アメリカ人の感情を害して摩擦を深刻にした。

悪いのは日本であってアメリカは悪くない」という反日の言い訳として、アメリカで大々的に利用されましたが、誰でも知ってる筈のその本質を顧みれば、こんなもので被害者意識を振りかざす事の恥は知れる筈です。「アメリカ産業が弱いのは、黒人などの底辺の労働者がサボるから」と見え透いた言い逃れを並べて「だから競争で手を抜いて欲しい」と談合を迫る、アメリカ人資本家の言い分を追認するような政治家は、日本人有権者にとっては「裏切り者」です。実際、彼等は常にアメリカとともにあり、日本人を裏切り続けました。「ロンヤス」を看板にした中曾根にしろ、原爆対日加害を進んで免罪した渡辺にしろ・・・そもそも、半導体協定という「日本産業の死刑執行命令」に直接サインしたのは、彼等なのです。

そうした従米政治家の愚かさは、言うまでもないでしょう。それは彼等の従米というスタンス自体の愚かさなのです。そういう人種偏見を憎むなら、競争を続ける「日本の立場」を支持し、「アメリカ産業の潰すつもりか」などと競争放棄を要求する保護主義要求を堂々と非難すべきだったのです。それを一方では保護主義的日本叩きに荷担しておいて、どの面下げての「放言批判」か!ましてや、それを口実に、外圧利権資本家と肩を並べての日本叩きなど、矛盾も甚だしいと知るべきでしょう。

「日本異質論」の過ちは、90年代に入って大前氏や霍見氏等によって完膚無きまでに暴露されました。それでも、彼等の反日姿勢そのものは擁護しようというごまかし論は生き続けました。「悪いのは日本だ」という論法で。「日本の成功を説明する理由づけ」のために「日本人が自らのユニークさを強調したツケ」として日本文化の特殊性を誇った反動だと・・・。リビジョニストの言いがかりの非を認めつつ、これによってあたかも「自業自得」であるかのように正当化したのです。

実際には、ずっと以前から「菊と刀」に代表される、欧米が言い出した日本特殊論が存在していた事実を、これらの論者は無視しています。例えば「欧米の罪の文化に対して、日本は恥の文化だから倫理性に欠ける」とか、「欧米は論理性の文化で日本は感情の文化だから理性に劣る」だとかの非難と偏見に満ちたものでした。「日本の常識世界の非常識」としてあざけり、「だから日本は欧米の言いつけを守れ」と。

それが「多元文化論」によってマイナスがプラスに転じた結果、「日本はユニーク」という発想が生まれたに過ぎないのです。そのずっと以前から「サムライ・ゲイシャ」の感傷的指向と文明論的軽蔑心の対象としての勝手な日本像を求めてきた彼等が作り上げた幻想が、対等を求める日本人の心をどれほど踏み躙ってきたかを考えるならば、文化摩擦をでっち上げて日本を叩く行為が、どれほど罪深いものであるか・・・彼等は思いを巡らすべきではないでしょうか。

日本が繁栄したのは「人種的に優れていたから」でも「特殊なノウハウを持っていたから」でもない。ましてや「アメリカから繁栄を恵んでもらった」からでも「狡い事をやった」からでもない。顧客に対して謙り、奉仕の心を持って商品を作り、販売したからに他ならないのです。ただこれは、別の事実の裏返しでもあります。そもそも何故「押し売り貿易」が犯罪的かというと、本来なら財・サービス、輸出・国内販売を問わず、商行為で「代価」を貰うということは、相手の求めに対して奉仕した見返りを得るという、顧客に対して謙虚な奉仕の心こそが、日本が輸出経済で成功した理由に他ならないのです。

つまり日本の繁栄は、多くの国に対して謙虚に「奉仕」した当然の果実であり、日本のように繁栄したいなら、同じ事をすればいいだけなのです。それを、市場における消費者を無視して、市場をあたかも資本家が儲けるためのゼロサム的資源か何かのように勘違いして「日本に市場を恵んでやったんだ」という。経済とは「互いに利益を与え合う」ための共生行為に他ならない。政治や軍事のように相手を縛る「パワー」を奪い合うものでは無い。安くて良い品物を輸入するのは、それを使う消費者自身の利益のための権利であって、だから自国市場を閉ざすのは、その「権利を放棄する」に過ぎない。だからこそ「市場開放」は繁栄の元なのです。それを、「輸入してやった」などと被害者意識を振りかざしたり、恩を着せたりするなんてとんでもない心得違いです。

これこそ「経済的成功」を政治的権利拡張と同一視できない、理由です。「経済侵略」だの「経済支配の陰謀」だのと政治的ゼロサム論理を振りかざすのが間違いな理由です。経済大国化した日本の存在そのものを「警戒」して潰す事を意図が批判されるべき理由です。そして、あまつさえ買い手の権利を侵害して、政治力によって強制的に売りつける行為が、許されざる犯罪行為である理由です。

「何故日本は経済的に成功したのか」という、何か日本が特別のことをやったと、出来れば、狡い事をやったと思いたがる人達が、世界には大勢いました。そういう傲慢な対日姿勢こそが、逆に言えばそれまで、彼等が成功出来ない原因ではなかったのでしょうか。彼等にしてみれば絶対認めたくない事なのですから。

逆に、一部の人が言うような、日本が特殊な文化だからでも、人種的に優れているからでもない、外国に対して姿勢を低くし、奉仕の心で摂したからです。日本企業が外国に輸出する物は、常にその国の基準に合わせた。商談には、英語より相手の国の言葉を使い、そういう相手国言語を話せる人たちが、過去、各々の国に駐在する商社にはいたのです。「商社は日本経済の尖兵」だった理由が、これです。

アメリカが日本に対して、例えば左ハンドル車を強引に押しつけるとかというのは、「相手に合わせる」という顧客奉仕の基本原理を無視した暴挙なのです。サイドミラーの衝突吸収機能やヘッドレストに関する義務づけを「非関税障壁」などと言い張るのは、相手国の安全基準を無視した暴挙なのです。しかもアメリカは、EUでの同じ基準には対応した商品を輸出するにも関わらず、日本に対しては対応を拒否しました。日本人顧客に対する差別的な軽視で傲慢な商売を行う彼等に、まともに日本で儲けることなど、そもそも不可能だったのです。

こうした日本人の「奉仕の心」は、戦後の日本の政治的地位の低さ・惨めさと無関係ではないでしょう。「敗戦国」として差別・精神的搾取の対象になり続け、世界中の政治的サンドバックとして叩かれ続け続けたのです。ISバランス論で言う、日本人が貯蓄超過で消費が少ない・・・というのも、「消費者」として心地よくサービスを受ける立場に無い・・・と多くの人が感じているからです。多くの日本人が外国の思いのままに圧力を感じて「自分達はこの国の主人公でない」と知っているからこそ、「国は頼りにならない。お金だけが頼り」と考えて預金を増やすのではないでしょうか。

逆に言えば、その人達の感覚に合った財・サービスが提供されるかどうかは、社会が誰を「主人公」と考えているかに拠ります。消費者としての立場を無視されるのでは、消費が増える筈がないのです。例えばパソコンやインターネットでは、長いこと「やりたきゃ英語を覚えろ」と言われました。それで「はい、そうですか」と英語を始めるのは、ごく一部の人です。「インターネットは英語で」とか言われている間は、インターネットは普及しなかった。

日本語のコンテンツが揃うようになってから、初めて普及したのです。ジョンネスビッスは「英語のプログラム言語を強制するようでは、日本で商売にならないが、やがてアメリカのソフトメーカーもその傲慢に気付くだろう。そうなれば日本市場はアメリカ企業のものだ」と言いました。結局、アメリカのソフトメーカーは日本語のプログラム言語を作るような「覚睡」は果たさなかったのです。「傲慢は死ななきゃ治らない」という事なのでしょうか。

結局、「不均衡」を本当に解消する正道は、日本にとって不幸なそうした地位を回復する事なのです。差別を解消し、対等を実現する他は無いのです。90年代に入って、こうした不公正な対日認識に異議を唱える意見は、日本において目覚ましく増えました。しかし、国際的に承認されなければ、意味がありません。

対等の立場の回復を前提とした賠償付き平和条約を無視して、「日本は戦争責任を果たさなかったから、対等になる資格は無い」という言い訳を垂れ流す事は、最早、許されない。彼らの唯一の言い分は「それでもアジアの感情が」である。そしてその言い訳は、「感情優先の日本文化は論理的理性と契約重視の世界の文化の中では通用しない」という論理が必然的に粉砕します。長年に渡って日本を非難してきた「世界標準」の存在から、日本断罪論の非合理性が逃れる事は不可能です。

逆に、アメリカ人が日本人に「顧客」として奉仕することに不熱心な限り、赤字が無くならないのは当然です。「日本人相手にサービスするなんて屈辱、多額の報酬が無ければ割りに合わない」という傲慢の罪を、こともあろうにお客様たる日本人に転嫁し、彼等は罪を重ねてきました。「日本で売られているアメリカ製品が高い」のだって「多額の報酬が無ければ割りに合わない」という彼等アメリカの輸出業者自身が、値段を吊り上げて大儲けした結果ではありませんか。

不当な赤字削減要求に迎合した、政治家や学者達の度重なる受容発言は、国民と正義を裏切る許し難い無責任行為です。そうした裏切りこそが、実行不可能な「黒字解消発言」です。しかし、それを不当に強要したのはアメリカである事実もまた事実なのです。その、最も肝心な根本を忘れ、「空手形を乱発した報い」などと、あたかもアメリカには責任が無いかのような擁護論をほざく学者もまた、無責任の罪を重ねている自らの醜い姿に気付くべきだったのです。

こうした不当な外圧から、最後に自国を守るのは誰か・・・と言えば、それは結局は国民の世論であり、それを形成するのはマスコミの「言論」です。本来なら国民の声を代弁する筈だったそれは、国民を裏切って隷米政府・官僚が国民を押さえる道具に成り果てていたのです。しかし、マスコミが「ユーザー」である国民を無視できないのも、また事実です。

こういう勢力が国民の声を抑える武器は、大体、パターンが決まっています。それは暗黙のうちに制度化された「タブー」・・・戦前の「天皇批判」のように、神聖不可侵として意識に植え付けられた

今まで日本では、アメリカ批判はまさにタブーでした。「アメリカを怒らせる」からと・・・。喩え「アメリカの主張の過ち」を指摘しても、アメリカに対する批判はするな・・・と。そのタブーを犯すものは「軍国主義者」のレッテルを貼られる訳です。「いつか来た道」とか言って。しかし、主張の過ちを指摘するのは主張に対する批判ではないのか。そして、アメリカの主張を批判する事は、タブー破りのアメリカ批判・・・というのが、どこにでもいるアメリカ擁護者のスタンスなのです。

だから、アメリカの立場を批判する人がいたとしても、より強く日本を批判してバランスを取るか、あるいは、アメリカの立場として半分を認めるとか、あるいは「アメリカのためにならない」という論法を使うとか、あるいは「アメリカ市民の立場は違う」とか、真っ向からの正邪の別をつける事を回避するよう論を工夫する必要に駆られる事になる。

あまつさえ、アメリカでは自国の利益のために口汚く日本を罵り、あからさまな不当利益を要求しているというのに、それを真っ向から批判出来ないとしたら・・・。きちにとした正邪の別に言及できないまま、なし崩しに「アメリカはより正しい」という、論証を要求されない前提で、アメリカは攻勢をかけ、日本の立場は常に守勢に立たされてしまう。「アメリカに利益がある」事が、正当性の根拠となり、「アメリカが主張する」事が正当性の根拠となる。そんな不公正な「共通認識」の元で議論を闘わなければならないとしたら、まともな議論など、望むべくもあのません。

どちらか一方が批判から守られるようなものが、まともな議論と言えるでしょうか。これはものの喩えではありません。現実に私がネットで議論する相手の、特にアメリカの対日要求に対する批判に対して、多くの対立論者が「アメリカ批判である」という事自体を、実際に攻撃の理由にしてきたのです。「アメリカ批判が何故悪い」という論理的な問いに、けっして彼等は答えず、決まり文句が「アメリカと戦争になるぞ」・・・。まさに「俺を怒らせたいのか!」と凄むヤクザと同じです。アメリカだけではなく、ロシアなどに関しても、そうでした。「日本人は外国を批判してはいけない」という、牢固たる不文律が、あるのです。日本人だからと、事実を指摘してはいけないと言うのです。

これが彼等の言う「世界の常識」という訳です。そうした彼等の論理構造を実証すると、彼等は怒ります。事実を指摘されて彼等は怒ります。「お前は俺をヤクザ呼ばわりした。俺を侮辱した」と・・・。全く処置無しでありまして、こうした従外派が「知識人」と称して、延々と日本の対外姿勢を精神的に腐らせてきたのですから「破綻」は必然だったのですね。

古森義久氏は言います。「言いたい事があるならアメリカに行って直接アメリカ人に言え。日本国内でアメリカを批判するな」と・・・。アメリカでもどこの国でも、自国内で自国語で日本を批判します。それを古森氏のような従米ジャーナリストが日本に持ち込んで「対米譲歩要求」を代弁している事実を、彼はどう説明するのか。全くもって無茶苦茶な言い分であり、正当な主張に蓋をするため以外の何物でもありません。どこで言おうと「正しい事は正しく、間違っている事は間違っている」のです。

そして今まで、アメリカ批判が許された唯一の例外が、左派としてのアメリカ批判でした。ロシアや中国の利益のため、自衛隊の「同盟者」としての米軍を批判するため、組合や共産党や市民団体の立場での「資本主義」批判のため・・・。だから、アメリカの横暴を批判したい人が、左翼に集まったりする。それが日本の左派を延命させたりしました。

しかし、彼等にとって、日本も「敵」という事になる。そして戦後処理が終わったにも関わらず「歴史カード」を振りかざして、日本を叩く勢力を肥大化させていく。彼等にとっては「日本政府批判」は=「日本批判」であり、それは必然的に日本人全体を締め上げます。今度は中国や韓国の奴隷として、日本を売り飛ばす側に回る・・・、それが彼等の大前提なのです。

こうして、左右両派が、アメリカと中露の利益を代弁して「日本潰し」を競う。彼等は日本を潰すための車の両輪であり、裏の同盟者なのです。そして今までの日本における「政治勢力」は、そのどちらかだった・・・。それはつまり、日本において「政治的要求の正当な根源」は、日本人ではなく外国の利益だったから・・・。日本人自身の利益に根源を置いても、それは「利己主義」と見なされた。その意味で日本人は、本当の「主権者」としての地位を奪われていたのです。

こう考えると、今までの日本の「体たらく」は、極めて自然な成り行きなのです。しかし、そんな「現実」を認めていいのでしょうか?少なくとも、表の世界では、我々は自由な民主国家の主権者として認められてきた。そして我々を支配してきた勢力は、その我々の地位を、建前上認めることでこそ、その地位を維持してきたのです。我々の「日本の主権者」としての地位は、十分すぎるほどの正当性があるのです。それを惰性的な従外意識によって放棄を続ける事は、知的怠慢以外の何物でもありません。こんな悪習を、子供達に残していい筈がありません。こういう不公正な政治的構造こそが「構造改革」されない限り、真の21世紀は来ないのです。そのためには・・・

これは外国を排斥するとか報復するとか、そういう問題ではありません。先ず、国内でこの不公正を延命させた責任者を引き出し、正当な裁きを与える事が必要でしょう。そして国民個々の自覚を促し、不当な外圧の批判と排除を・・・、日本は日本自身の利益のためにあるという事実を、世界に宣言すること、そしてかつてのアメリカがそうしたように、団結してこの崩壊した経済を再建すべく、失われた競争力を取り戻す必要がある。世界のために」と、不自然に意図して放棄した競争力は、同じく一致した意識によってしか取り戻せません。

しかし、破壊されたこの国のために「団結して努力する」という発想は、若い人達には「ダサい」という発想でしか見れません。そうした「日本なんか潰れていい」「スチャラカにやるのがカッコイイ」という発想に毒された人達を正気に戻し、再び結束を取り戻すには、その根源を正視する事を避けては通れないと思います。

通産省国売り物語(完)





(私論.私見)