大川聖戦講話1、米国東亜侵略史

 (最新見直し2006.1.14日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ムネオ事件で連座し、未曾有の長期拘留から生還した外務省国際情報局分析第一課員・佐藤優・氏が、「国策逮捕」なる造語で評判を得た「国家の罠」に続いて「国家の自縛」、「国家の崩壊」、「自壊する帝国」と刊行し、新たに「日米開戦の真実」(小学館、2006.7.1日初版)を世に問うた。佐藤氏は、同書の中で幻の名著となっていた大川周明著「日米開戦の真実」を全文転載している。

 れんだいこは、大川周明氏については、東京裁判の際にパジャマ姿で登場し、東条英機の頭を叩いて退廷させれた史実を知るばかりであった。佐藤氏の「日米開戦の真実」により、大川氏の批評眼の有る歴史家ぶりを教えられた。有り難いことであった。同時に、れんだいこがこれまで大川氏の言及を知らなかったことは迂闊であったことを気づかされた。

 彼の「米英東亜侵略史」は、近世に於ける西欧諸国内の抗争史即ち、ポルトガルからスペイン、オランダ、フランスを経てのイギリスへ、更に最終的にアメリカへの覇権の移動を分かりやすく語っている。植民地政策の司令塔・東インド会社のインド、支那、東南アジア諸国侵略史の概要を要点整理で伝えている。幕末日本がそうしたアジアの動向に危機感を覚え、難局に賢明に対処せんとしたことが浮き彫りとなる。そういう意味で、ネオ・シオニズムの再襲来の観点さえ持つならば、幕末維新はまさに誉れの史実であろう。そういうことを知ることができ、実にためになる。

 「愛宕北山氏のユダヤ問題論考」に較べて、大川氏の研究はネオシオニズムの原理的研究は為されていない。その分隔靴掻痒の感無きにしも非ずであるが、ネオシオニズムの近現代史上の世界席巻史については逆に詳しい。この二書を読み比べ双方向的に理解することが相応しいのではなかろうか。戦後の我々は、敗戦の影響によってこの種の知識を全く剥奪され無知蒙昧にされてしまっている。その種の自称インテリばかりが大量生産されている。今こそ隠され意図的に教えられなかったネオシオニズムに対する知識を持つべきではなかろうか。戦前の研究の方が高みにあるということは何とも残念なことではなかろうか。

 ふと気づかされたことは、大川氏の東京裁判退廷顛末は双方の出来レースだったのではなかろうかということである。大川に大東亜戦争の正義を弁明されたら「平和の罪、人道の罪」を問えなくされることを恐れたネオ・シオニストが、大川に精神異常誘引食を与え続け、かくして大川は頭がぼっとした状況で異様ないでたちであることの判別も出来ず登場せしめられたものかも知れない。お蔭で大川は出廷に及ばずとなり、武人ではない大川はこれを良しとしたのではなかろうか。推測でしかないが。

 それはそうと、左藤氏は、大川周明著「日米開戦の真実」を紹介するのに、下手に解説して原文を知らせぬ当節流行の手法を採らずに、まず原文を全文紹介し、次にこれを解説するという至極真っ当な構成にしている。これが却って爽やかである。読者は、原文と解説で二重に味わえるというアーモンドチョコ式恩恵に浴することができる次第である。歪んだ解説ほど害悪なものは無いという観点に立てば、左藤氏の手法は大いに称讃されるべきであろう。

 ところで、れんだいこはがネット検索したところ、大川周明著「日米開戦の真実」はサイトアップされていない。内容的に捨て置けぬことなので追々転載していくことにする。なぜなら、「愛宕北山氏のユダヤ問題論考」同様に、日本人民大衆の必須読本であると思われるから。例によって「チョサク、チョサク」の声が出でようが、じゃかましい、みんなが読めるようにするのが先じゃ、急ぐのじゃと切り返し、真一文字に突進しようと思う。

 もっとも、独りでは骨が折れる。誰か手分けして頼む。掲示板でもメールでも送信してくれたらそれを取り込むから。「れんだいこの名著翻訳、発掘一覧シリーズ」に収納しようと思う。みんなに役立てて貰いたい。という訳で、さぁ行ってみよう。

 「愛宕北山氏のユダヤ問題論考」(neoshionizumuco/atago.htm)

 「れんだいこの名著翻訳、発掘一覧シリーズ」(honyakubun/top.htm)


 2006.1.14日、2010.1.5日再編集 れんだいこ拝
 このたび、koko女史の尽力により、「大川周明氏の米国東亜侵略史講話」転写文を入手した。これにより、ここにサイトアップしておくことにする。

 2010.1.5日 れんだいこ拝


【大川聖戦講話1、米国東亜侵略史】
【「第一部、米国東亜侵略史」】本サイトに記す
米英東亜侵略史(序)
 第一日 ペリー来朝 日米戦争の真箇の意味
ペリー艦隊来る
江戸幕府の周章狼狽
ペリーはなかなか立派な人物
 第二日 シュワード政策

アメリカが日本に着目した理由

日本の膨張はアメリカを脅威せず

「門戸開放」提唱の経緯

 第三日 鉄道王ハリマン

太平洋を世界政局の中心たらしめるもの

ハリマンの「満鉄買収策」
日本が東亜進出の障碍に
応諾させられた満州の門戸開放
 第四日 アメリカ人の気性と流儀

米国務長官の驚くべき提案

中立声明を無視して参戦
在米日本人の排斥
ルーズヴェルトの「賢明なる助言」
 第五日 日本が屈服した日 ダニエル海軍計画と八八艦隊計画
ワシントン会議での「一石二鳥」
ワシントン会議以後の劣勢
敵国に誉めそやされた「ロンドン条約調印」
 第六日 敵、東より来たれば東条 国民から湧き上がってきた大なる憂い
満州事変
国際連盟は旧秩序維持の機関
来るべき日が遂に来た
 「第三部、英国東亜侵略史」は、「大川聖戦講話2、英国東亜侵略史」に記す。

米国東亜侵略史 序

昭和十六年十二月八日は、世界史において永遠に記億せらるべき吉日である。米英両国に対する宣戦の詔勅はこの日をもって渙発せられ、日本は勇躍してアングロ・サクソン世界幕府打倒の為に起った。そして最初の一日において、すでにほとんどアメリカ太平洋艦隊を撃滅し、同時にフィリピンを襲い、香港を攻め、マレー半島を討ち、雄渾無限の規模において皇軍の威武を発揚した。

この小冊子は、対米英戦開始の第七日、すなわち昭和十六年十二月十四日より同二十五日に至るまで、四方の戦線より勝報刻々に至り、国民みな皇天の垂恵に恐懼感激しつつありし間に行ったラジオ放送の速記に、きわめて僅少の補訂を加えたものである。それは『米英東亜侵略史』と題するも、与えられたる時間は短く、志すところは主として米英両国の決して日本及び東亜と並び存すべからざる理由を闡明するにありしがゆえに、史実の叙述はただこの目的に役立つ範囲に限らざるを得なかった。

ただしこの小冊子が、いささかにても大東亜戦の深甚なる世界史的意義、並びに日本の荘厳なる世界史的使命を彷彿せしめ、これによって国民がすでに抱ける聖戦完遂の覚悟をいっそう凛烈にし、献己奉公の熱腸をいっそう温め得るならば、予の欣幸は筆紙に尽くし難いであろう。

 昭和十七年一月 大川周明

 第一日(昭和十六年十二月十四日、NHKラジオで行った放送講演)

 ペリー来朝 

 日米戦争の真箇の意味

 私は大正14年、すなわち今から16年以前に「亜細亜・欧羅巴・日本」と題する著書を公けにしております。この書物は百ページにも満たぬ小冊子でありますが、容量に似合わぬ数々の大なる目的をもって書かれたものであります。目的の第一は、戦争の世界史的意義を闡明して、当時日本に跋扈していた平和論者の反省を求める為でありました。目的の第二は、言葉の真箇の意味における世界史とは、東西両洋の対立・抗争・統一の歴史に外ならぬことを示す為でありました。その第三は、世界史を経緯し来れる東洋並びに西洋の文化的特徴を彷彿させる為でありました。その第四は、このようにして全アジア主義に理論的根拠を与える為でありました。そして目的の第五は、新しき世界の実現の為に東西戦の遂に避け難き運命なることを明らかにして、これに対する日本の荘厳なる使命を省みる為でありました。

 私はこの書の最後を次のように結んでおります。「いま東洋と西洋とは、それぞれの路を往き尽くした。しかり、相離れては両ながら存続し難き点まで進み尽くした。世界史は両者が相結ばねばならぬことを明示している。さりながらこの結合は、おそらく平和の間に行われることはあるまい。天国は常に剣影裡にある。東西両強国の生命を賭しての戦が、おそらく従来もそうであるように、新世界出現の為に避け難き運命である。

この論理は、果然米国の日本に対する挑戦として現れた。アジアにおける唯一の強国は日本であり、ヨーロッパを代表する最強国は米国である。この両国は故意か偶然か、一は太陽をもって、他は衆星をもって、それぞれその国の象徴としているが故に、その対立はあたかも白昼と暗夜との対立を意味するが如く見える。この両国は、ギリシャとぺルシア、ローマとカルタゴが戦わねばならなかったごとく、相戦わねばならぬ運命にある。日本よ! 一年の後か、十年の後か、または三十年の後か、それはただ天のみ知る。いつ何時、天は汝を喚んで戦を命ずるかも知れぬ。寸時も油断なく用意せよ。

建国三千年、日本はただ外国より一切の文明を摂取したるのみにて、未だかつて世界史に積極的に貢献するところなかった。この長き準備は、実に今日の為ではなかったか。来るべき日米戦争における日本の勝利によって、暗黒の夜は去り、天つ日輝く世界が明けはじめねばならぬ」。

 私のこの立言は、16年後の今日、まさしく事実となって現れたのであります。私は日米戦争の真箇の意味について、16年前と毛頭変わらぬ考えをもっております。この戦争はもとより政府が宣言したように、直接には支那事変の為に戦われるものに相違ありません。しかも支那事変の完遂は東亜新秩序実現のため、すなわちアジア復興の為であります。アジア復興は、世界新秩序実現のため、すなわち人類のいっそう高き生活の実現の為であります。

世界史は、この日米戦争なくしては、そして日米戦争における日本の勝利なくしては、決して新しき段階を上り得ないのであります。それならば日本とアメリカ合衆国とは、いかにして相戦うに至ったか。太陽と星とは同時に輝くことができないのでありますが、いかにして星は沈み、太陽は昇る運命になって来たか。その経緯を探ることが、とりもなおさず私の講演の目的であります。そしてこの経緯を明らかにすることは、同時に我らの敵の本質を、その善悪両面について併せ知ることに役立つのであります。

 ペリー艦隊来る

 そもそも欧米列強の圧力が、にわかに我が国に加わってきたのは、およそ百五十年前からのことであります。ちょうどこの頃から、世界は白人の世界であるという自負心が昂まり、欧米以外の世界の事物は、要するに白人の利益のために造られているという思想を抱き、いわゆる文明の利器を提げて、欧米は東洋に殺到しはじめたのであります。

それにもかかわらず当時の日本は、多年にわたる鎖国政策の為に、一般国民は日本の外に国あるを知らず、わずかに支那朝鮮の名前を知っているだけで、インドでさえもこれを天竺と呼んで、あたかも天空の上にあるかのように考えていたほど、海外の事情に無関心であったのであります。従って文化年中にロシア人が北海道に来て乱暴を働こうとしたことは、日本にとってまさしく青天の霹靂であり、徳川幕府は甚だしく狼狽したのであります。

幕府はとにもかくにもあらん限りの力を尽くして防備の方法を講じましたが、その後はしばらく影を見せなかったので、文化・天保年中になりますと、かえってその反動が起こり、海防のために力を注いだ松平楽翁公などを、臆病者と笑うような始末でありました。騒ぐ時には血眼になって騒ぐが、止めればまるで忘れ果てて、外国船などは来ないもののように思う、これは今も昔も変わらぬ日本人の性分であります。そのような次第でその後の数十年というものは、日本はある時は外国の侵略を恐れ、ある時は全く国難を忘れ去りながら、その日その日を過ごしてきたのであります。

ところが嘉永初年の頃から、長崎のオランダ人がしきりに徳川幕府に向かって、イギリス人、アメリカ人、ロシア人などが、日本に開港を迫ってくるから用心しなさいと注進してきたのであります。この注進によって幕府当時の人々や、一部のオランダ学者には、形勢が次第に切迫してきたことが知られておりましたが、その頃の政治と申せば、総じて何事も人民には知らせず、ただ由らしめるという方針であり、たとえ知らしめようと思ったところで、通信機関の不備な時代でありましたから、国民は無論のこと、役人の大部分さえ世界の形勢について無知識であったのであります。もっとも幕府は、もし外国船が近海に現れた場合は「二念なく打ち払え」という命令を下してはいました。しかしいくら「打ち払え」と言われても、遠方に弾の届く大砲もなく、鎖国以来巨船建造を禁じられて、一隻の千石積の船さえもない状態であったのであります。

日本の国内がこのような状態にありましたとき、かねてからオランダ人が注進していた通り、日本に向かって開国を要求する外国軍艦が、堂々と名乗りを挙げて江戸に間近き浦賀湾に乗り込み、通商開港の条約締結を求めてきたのであります。それは言うまでもなくペリーに率いられたアメリカ艦隊で、時は喜永6年陰暦6月3日、暑い盛りの真夏のことで、今から数えて98年前、西暦で1853年に当たります。

先程申し上げた通り、この時より五十年前から、外国船がしばしば日本近海に出没しましたけれど、その立ち寄ったのは皆江戸から申せば辺鄙の土地であります。従って若干の先覚者は夙に鬱勃たる憂国の心を抱いておりましたけれど、国民一般は風する馬牛であったのであります。ところがこの度のアメリカ艦隊に至ってはその碇を泊せるところは日本国の玄関であり、その求むるところは、条約の締結でありますから、ロシアの軍艦が蝦夷の片隅に立ち寄ったのとは、その人心に与えた影響は到底同日の談でなかったのであります。

浦賀奉行は、ペリー来朝の趣旨が、アメリカの国書を奉呈し、通商和親を求めるにあるということを聴き、日本の国法を説明して、浦賀では国書を受け取り兼ねるから、直ちに長崎に回航するように申しましたが、ペリーは頑として耳を貨さず、武力に訴えても目的を遂げねば止まぬ意気込みを示しました。その上、アメリカの水兵は、勝手に浦賀湾内を測量し始めたので、日本の法律はそのようなことを断じて許さぬと抗議しましたが、ペリーは、自分はアメリカの国法に従うだけで、日本の国法などは一向に存じ申さぬと空嘯く始末であったのであります。

 江戸幕府の周章狼狽

 浦賀奉行の急報に接した江戸幕府の周章狼狽は、まことに目も当てられぬ次第でありました。あくまでも国法を守ろうとすれば、すなわち戦争の火蓋が切られて、江戸湾は封鎖される。そうすれば鉄道も荷馬車もないその頃の日本で、江戸に物資を運ぶたった一つの路であった海上交通が断たれてしまう。江戸十万の市民は日ならずして飢えに迫る。そうすれば既に動揺しかけていた徳川幕府の礎はいよいよ危険になって来る。仮に幕府はどうなってもよいとしても、何ら防戦の準備なくしてアメリカと戦端を開くことは、日本の興廃に関する一大事になることを痛感したので、幕府は久里浜に仮館を建て、6月9日、ここでぺリーからアメリカの国書を受け取り、返事は明年ということにして、一旦浦賀を引き上げさせたのであります。

 おそらく幕府の役人のうちには、アメリカと申せば波濤万里の彼方である、往復にはまず二、三年もかかるであろう、そのうちに何とか妙策もあるだろうと考えた者もあったでありましょうが、ペリーは決して浦賀を去って本国に帰ったのではなく、支那の上海に行っただけでありましたから、約束通り、翌嘉永7年正月早々、またもや浦賀に来た。しかも今度は進んで神奈川湾に投錨し、幕府に向かって厳重に確答を求めたので、やむなく幕府は横浜でペリーと談判を行い、遂に日本は長崎の他に下田・函館の二港を開く約束をしたのであります。

 わずか百年前のことでありますが、当時の日本と今日の日本とを比べて見ますと、実に感慨無量であります。嘉永6年6月9日、いよいよペリーが久里浜に上陸するというので、アメリカ軍艦は砲門を開いて祝砲を放ちました。その殷々轟々たる響に驚いて、久里浜の漁民はすわ戦争だと仰天し、夜具包や仏壇などを背負い出して、山手の方に逃げまどっております。また久里浜の仮館では、ペリー一行に腰掛けさせる椅子がないのに困り、いろいろ知恵を絞った揚げ句に考えついたのが、葬式の時に坊さんが使う曲?であります。それがよかろうというので、村役人・町役人に命じて寺々から曲?を借り集めてみたものの、いずれも古色蒼然たるものばかりで、漆が剥げていたり脚が析れたりしています。そこで大急ぎで朱塗の剥げたのには紅殻を塗り、黒塗の剥げたのには墨を塗り、毀れたところは釘で打ちつけなどしてようやく十脚だけ調えましたが、その中で一番綺麗なのが野比村の最宝寺の朱塗の曲?でありましたので、浦賀奉行がこれに腰掛けることにしました。

 それよりも情けなかったのは、ペリー艦隊が浦賀碇泊中の日本側の警備であります。幕府は四人の大名にこの警備を命じたのでありますが、その方法は各大名が漁師から借り集めた漁船をもって、アメリカ軍艦を取り囲み、いわゆる八陣の備えを取っているのであります。八陣の備えと申すのは、三方から軍艦を取り巻き、陣鐘・陣太鼓を鳴らし、法螺貝を高らかに吹き立て、ちょうど鶏が羽を緊めるように、軍艦を羽がいじめにするのであります。それらの船には皆々沢山の旗・差物を立てているのでありますが、風が強く吹きはじめると旗や幟がはためいて、船の動揺が激しくなるので、急ぎこれを旗竿に巻き付け、船舷に横倒しにして縛りつけねばなりません。その上艦長は各藩の家老がこれを勤めましたが、波が荒くなると肝心の艦長がたちまち船に酔い、呻きながら号令をかけるので、何を言うのやら聴き取れぬ始末であります。そしてアメリカ人は軍艦の上からこの有り様を望遠鏡で眺めていたのであります。この警備はペリーからの抗議で解くことにしましたが、実際は何の役にも立たなかったのであります。

 
この時の警備の実状を目撃した一人がこのように申しております。「この際にたとえ一片の風なく、十分に八陣の備えを完うしたるにもせよ、いざ戦争という場合においては、先方において仰々しく砲門を開き発砲するに及ばず、ただ軍艦をもって、取り巻きつつある百石積の運送船または漁船の間を縦横に操縦し暴れ廻るにおいては、あたかも玩弄物の天神様を摺り鉢の中に入れこれを摺るがごとく、一瞬にして粉砕微塵となるや必せり。然るにぺリーは十分にこの状態を知りつつ、心を和らげ温心もって応接を遂げしは、実に寛仁大度の器量あるものというべし」。

 さて、アメリカがいかなる経路を経て、日本に艦隊を派遣するに至ったかを述べる前に、まずペリーの人となりについて申し上げておかねばなりません。

 ぺリーはなかなか立派な人物

 ペリーは1858年に使命を果たして帰国してから、直ちに詳細なる報告を政府に提出しております。この報告は後に印刷に付せられ「1852・1853・1854年に行われたる支那海及び日本へのアメリカ艦隊遠征顛末」という長い表題の本になっておりますが、実に四六倍版6百頁の大冊で、遠征中にこれだけのものを書き上げるだけでも並々の仕事ではありません。

それから報告中に現れたる彼の知識、彼の識見、注意の周到などによって判断すれば、疑いもなく彼は当時アメリカ第一等の人物であります。仔細にこの報告を読みますれば、我々は当時のアメリカの是非善悪を最も良く掴み得るように思われます。

ペリーは1852年11月24日、ノーフォークを出発し、大西洋を横断して、12月11日、すなわち18日目にマディラ島に達し、そこで越年して1853年1月10日、セント・ヘレナ島に寄港、1月24日、ケープ・タウンに到着し、2月3日にここを出帆して18日にインド洋上のモーリシャス島に着いて十日間滞在、ついで3月10日にセイロン島、3月25日にシンガポール、4月7日に香港、5月8日に上海、5月26日那覇に着き、それから浦賀に参ったので、出帆してから約八ヶ月を費しております。これが当時、アメリカから東洋に参る普通の順路であったのであります。

ペリーはこの航海の途上において、ヨーロッパ諸国の数々の植民地に寄港したのでありますが、丹念にその植民政策を研究し、その非人道的なる点を指摘して、手酷き攻撃を加えております。とりわけ著しく目につくことは、イギリスに対する激しき反感であります。

セント・ヘレナに寄港中には、ナポレオンが幽囚されていた見すぼらしき家を訪ね、たとえ敵とは言え、古今の英雄にかくのごとき待遇をするとは何事ぞと義憤を洩らしております。当時イギリスは、ナポレオンが五年間も起臥していた家を、家賃を取って一人の百姓に貸し、その百姓はナポレオンの使用していた部屋の一つを厩にしていたのであります。またイギリス植民地統合の残酷に対しても忌憚なく弾劾を加えております。

これを今日の英米関係に対比して見ますと、誠に今昔の感に堪えないのでありますが、当時はアメリカがフランスの助力によって独立してから60、70年、イギリスと戦ってから30、40年経ったばかりで、今日とは事変わり、アメリカは大なる敵意と反戦とをイギリスに対して抱いていたのであります。ただし彼は、外国とりわけイギリスの侵略主義を非難すると同時に、正直に自国の非をも認め、我々もメキシコその他に対して道徳に背くようなことをやったが、これは国家の必要上止むを得ぬことであったと申しております。彼はそのメキシコ戦争においても、艦隊司令官として戦ったのであります。

ペリーは日本に参る前に、実に丹念に日本及び支那の事情を研究しております。従って日本に対しても相当に正しき認識をもっておりました。彼は日本人が高尚なる国民であること、これに対するにはあくまでも礼儀を守り、対等の国民として交渉せねばならぬことを知っていたのであります。すなわち日本に対しては、オランダのごとき卑屈な態度を取ってはならぬし、またイギリスやロシアのごとき乱暴な態度を取ってもならぬ。どこまでも礼儀を尽くして交渉し、止むを得ぬ場合にのみ武力を行使するという覚悟で参ったのであります。ただし日本を相手に戦争を開く意図はなく、従って果たして開港の目的を遂げ得るや否やを疑問としております。

この事は1852年12月14日付で、マディラ島から海軍長官に宛てた手紙の中に明記しております。ただしその場合は、日本の南方に横たわる島、すなわち小笠原島か琉球を占領すべしと建策しております。

このような次第で、ペリーはなかなか立派な人物であり、こうした人物が艦隊司令官として日本に参ったことは、日米両国の為に幸福であったと申さねばなりません。その上、アメリカ合衆国も当時は決して今日のように堕落した国家ではなかったのであります。アメリカ建国の理想は、なお未だ地を払わず、ワシントンの精神が国民の指導階級を支配していた時であります。もし今日の米国大統領ルーズヴェルト及び海軍長官ノックスがペリーのような魂をもっていたならば、もし彼らが道理と精神とを尚ぶことを知っているならば、もしアメリカがただ黄金と物質とを尚ぶ国に堕落していなかったならば、日本に対してこの度のような暴慢無礼の態度に出て、遂にかえって自ら墓穴を掘るような愚をあえてしなかったろうと存じます。

 第二日(昭和十六年十二月十五日放送)

 シュワード政策

 アメリカが日本に着目した理由

 さて、19世紀前半のアメリカは、実に急速なる領土拡張の時代でありましたが、その拡張は植民と征服と買収との三つの方法をもって行われ、面積は半世紀聞に三倍半となっております。この領土拡張に伴って当然人口も増加し、これまた約三倍半となっております。そしてこの頃から東洋貿易への参加ということが次第にアメリカの関心を惹きはじめ、とりわけ無限の富を包蔵すると思われた支那市場が彼らの大なる誘惑となり、大西洋を横ぎってアフリカを回り、ちょうどペリーが取った航路によってインド洋及び支那海に至るアメリカ商船は、年々その数を加えてきたのであります。

 従って、この頃はアメリカ造船業の黄金時代でもあり、1861年の統計によりますと、アメリカ商船の総トン数は554万トン、イギリスのそれは590トン、英米両国を除く世界諸国のそれが580トン、すなわちアメリカは世界商船総トン数の三分の一を占め、イギリスと雁行する商船国となっているのであります。あたかもこのような時に当たり、カリフォルニアに金山が発見され、東部のアメリカ人は言うまでもなく、世界各国の人々がアメリカの太平洋沿岸に殺到して来たので、沿岸一帯は急激なる発展を見るに至りましたが、とりわけ支那労働者の米国に渡航する者がにわかに多数となり、同時に米国商品の対支輸出も次第に盛況に赴いたので、従来のごとく大西洋・印度洋を経て支那海に至る迂回路を棄て、太平洋を横ぎって支那に至る直接航路を開く必要が迫ってきたのであります。

 そればかりでなく、太平洋は今一つの意味でアメリカ人の心を惹きつけたのであります。18世紀から19世紀にかけて、捕鯨はアメリカ及びロシアの最も重要なる産業の一つでありましたが、19世紀初頭に至って大西洋の鯨はほとんど捕り尽くされ、同時に北太平洋に夥しき鯨のいることが知られたので、この方面における捕鯨船の活躍がとみに目覚ましくなりました。とりわけ1842年、米露両国の間に条約が結ばれ、両国互いにその領海内に入って鯨を捕り得るようになったので、アメリカ捕鯨船の日本近海に出没するものにわかに多くなり、1840年代にはすでに1200隻に及んだと言われております。

 当時、どうして彼らがそれほど捕鯨に熱心であったかと申せば、蝋燭(ろうそく)の原料にする油を取る為であったのであります。その頃のヨーロッパは、植民地から搾取した富によって生活は豪奢となり、各国の宮廷をはじめ、貴族富豪は競って長夜の宴を張って、飲みかつ踊っていたのであります。その宴会場を真昼のごとく明るくするために、数限りなく蝋燭を灯したのでありますが、その蝋燭の白蝋が鯨油から取れるので、贅沢が増せば増すほど、鯨が蝋燭に化けてヨーロッパの金殿玉楼を照らすことになったのであります。

 このような次第で太平洋に出漁する捕鯨船のためにも、暴風や難破の際の救護所または避難所が必要になり、米支直接航路のためには中間の貯炭所または食料補給所が必要になり、このような必要の為にアメリカは我が国に着目するに至ったのであります。そういう経緯を経てアメリカにおける日本訪問の機が次第に熟し、1850年には米国議会がこの事を決議し、遂にペリーの日本派遣となったのでありますが、その時に政府がペリーに与えた訓令の要旨は次のようなものであります。すなわち第一には、アメリカ船舶が日本近海で難船し、または暴風を避けて日本の港湾に入った場合、日本はアメリカ人の生命財産を保護するよう永久的なる和親条約を結ぶこと、第二はアメリカ船舶が燃料食糧の補給のために入港し得る港を選定すること、第三には通商貿易のために二、三の港を開かせることであります。

 日本の膨張はアメリカを脅威せず

 ペリーは日米通商の下地を作って帰国し、その後を受けて日米条約を締結したのはハリスであります。この条約調印のために井伊大老の首が飛び、明治維新の機運を激成したことはここに申し上げるまでもありませんが、私は当時の談判の経緯を子細に書き残したハリスの日記から、二、三の重要なる箇所を紹介しておきます。

まず彼は、「従来幕府の役人は、日本の指導者たるミカドに対して、ややもすればこれを軽んずる傾向があったが、近来は盛んにミカドの絶対権を主張するのを見て、大勢の推移したことが感ぜられる。予は従来将軍をもって事実上の日本の君主と思っていたが、今やミカドが名実共に主権者にして、将軍はその仮装的統治者であるように思われはじめた」と申しております。これはハリスの談判進行中に俄然として勤皇論が台頭し来れることを示すものであります。

また披は、「日本というこの不思議な国の数々の不思議の中で、ミカドのごとく予の判断を苦しめたものはない」と書いております。このミカドの不思議は、ひとりハリスのみのことでありません。それは90年後の今日のアメリカ人にとっても、依然不思議のものとなっております。ただし、この度の日米戦争における日本の勝利の行程を奥深く探ることによって、あるいはアメリカ人も初めてこの不思議を理解するに至るかも知れません。私はそうであることを切に祈って止まぬものであります。

 さてこの頃のアメリカは、当時の大統領ブキャナンが1857年5月、支那使節に任命されたウィリアム・ピッドに与えた教書において、「支那において我が同胞の通商と生命財産の保護以外には、いかなる目的をも追求せざることを銘記せよ」と述べている通り、当時支那に起こりつつあった長髪賊の乱に対しても、傍観的態度を取り、ペリーが画策した琉球占領計画をも「面白からぬ視察」としてしりぞけ、またこれと時を同じくして、台湾を米国の保護領とせよという宣教師パルケルの画策をも黙殺しております。

 時の国務長官シュワードは、将来太平洋が世界政局の中心舞台たるべきことを力強く主張したので、歴史家は好んでシュワード時代」または「シュワード政策」という言葉を用いますが、実際においては、何ら積極的活動を太平洋または東亜において試みておりません。1850年に至って一旦は著しく活発となったアメリカの太平洋及び支那に対する活動は、1861年に始まった南北戦争以後、1898年のフィリピン占領に至る40年間、甚だ消極的となったのであります。

 確かにこの時代は、まだ金融資本主義が現れず、帝国主義のまだ確立せられない以前であったので、欧米の東洋政策、とりわけ対支政策の領域を支配していた産業資本は、支那を自国製品の販売市場として、または原料生産地として、最大限度にこれを利用することを主たる目的としていたのであります。

 例えば1867年、アメリカ政府がロシアからアラスカを買収した時に国民は政府の帝国主義的動向を激しく非難し、国内に未だ耕されぬ土地が夥しいのに、何の必要あってこのような無駄な買い物をするのか、白熊でも飼うつもりかと憤っております。また京城駐在米国大使が、朝鮮における宣教師と協力してアメリカ勢力を京城に扶植せんとした時も、ワシントン政府は 該公使に対して「朝鮮の政治に干渉することは貴下の権限外なり」とたしなめております。日清戦争(1894~1895年)の時も、時の国務長官グレシャムは、「米国は武力を行使し、またはヨーロッパ列強と提携してこの戦争に干渉する意図なし。米国は表面は好意的中立を守り、内実は日本にのみ好意を寄せんとするものなり」という訓令を、京城駐在公使に与えております。当時のアメリカは、日本の膨張はアメリカを脅威せずと考えていたのであります。

 しかも、日清戦争は東亜政治史全体の偉大なる転回点となったのであります。すなわち日本に敗れた支那が、この時初めて封建支那の無力と解体とを全面的に暴露したのに乗じて、あたかもこの頃に台頭し来れる帝国主義が、孤立無長の支那を掠奪の対象として、激しく殺到しはじめたのであります。そして、これと共にアメリカの東洋政策も俄然面目を改めたのであります。

 「門戸開放」提唱

 さて、シュワードの太平洋制覇の理想は、ただいま申し上げた通り、約半世紀の間、アメリカの具体的政策とはならなかったのでありますが、彼の理想は一部のアメリカ政治家によって堅確に継承されてきたのであります。

 この理想は、一八八〇年代から次第にアメリカに浸潤しはじめてきた帝国主義と相結んで、アメリカの東亜政策もようやく積極性を帯びるようになりました。そして、この新しき帝国主義の最も勇敢なる実行者は、今日の大統領フランクリン・ルーズヴェルトの伯父セオドア・ルーズヴェルトであり、その最初の断行が、一八九八年の米西戦争を好機として、フィリピン群島及びグアム島を獲得したことであります。

 戦争の当初において、時の大統領マッキンリーは、「アメリカはフィリピン群島の強制的併合を行わんとするものに非ず、予の道徳的規範によれば、かくのごときは犯罪的侵略なり」と声明したにもかかわらず、後には「神意」と称してフィリピン統治をアメリカに委任することを要求したのであります。その一切の献立を行ったのが、取りも直さず海軍長官であったルーズヴェルトであります。アメリカはスペインの統治に不満だったフィリピン独立運動者を煽勤し、これを援助してマニラのスペイン守備隊を攻撃させました。この時アメリカは数々の約束を彼らに与えたが、彼らを片付けるに足る軍隊がアメリカ本国から到着するに及んで、一切の約束を蹂躙し去ったのであります。

すなわちフィリピン独立党はアメリカに欺かれて、その手先となってスペイン軍と戦い、その彼に彼ら自身も葬り去られたのであります。当時日本の民間にはフィリピン独立運動に援助を与えた人々も多く、アメリカの悪辣なる手段を痛慎したのでありますが、日本政府は「いかなる国が南太平洋で日本の隣邦となるよりも、アメリカが隣邦となることをよろこぶ」として、米国のフィリピン併合に賛意を表したのであります。

いまやアメリカは「イギリスが香港に拠るごとく、我らはマニラに拠る」と公言し、フィリピンを根城として東亜問題に容喙する実力を養いはじめ、一八九九年には国務長官ジョン・ヘイの名において、名高き支那の門戸開放を提唱し、翌一九〇〇年には、支那の領土保全を提唱したのであります。この二つの提唱は、アメリカ人の言い分によれば、ある程度まで利他的政策であり、支那に同情し支那を援助せんとする希望から出たものであるというのでありますが、それは偽りの標榜であります。第一にヘイはこの政策を提唱するに当たって、いささかも支那自身の希望や感情を顧みず、支那政府は門戸開放に同意なりや否やの問い合わせさえアメリカから受けたことがなかったのであります。ヘイの提唱は、支那に対するアメリカの権利を一方的に主張したもので、要するに支那はアメリカの同意なくしてはいかなる国にも独占権を与えてはならぬ、関税率を決めてはならぬ、相互条約を結んでもならぬという要求であります。

まさしくヨーロッパ列強は、アメリカに先んじて支那においてそれぞれ勢力範囲または利益範囲を確立していたので、立ち遅れたアメリカは、支那に対する自国の政治的・経済的発展に大いなる障碍の横たわれるに当面し、これを撤去するために門戸開放を唱えたのであります。また、その領土保全主義は、支那が列強によって分割される場合、アメリカの現在の準備と立場では、自分の分け前が甚だ少なかるべきことを知っていたので、支那における自国の利益を消極的に守るために他ならなかったのであります。すなわちロシア及びイギリスが、すでに武力と領土占領の手段によってその勢力を支那に張り、とくにロシアが将来も同様の手段を遂行せんとするのに対し、アメリカは門戸開放と領土保全とを提唱する以外、支那における現在及び将来の帝国主義的利益を擁護するために、いかなる現実の手段をももたなかったのであります。

 第三日(昭和十六年十二月十六日放送)

 鉄道王ハリマン

 太平洋を世界政局の中心たらしめるもの

 支那に対するアメリカの門戸開放提唱は、いつもながらのアメリカ流儀、甚だ堂々たるものではありましたが、内実は昨日申し上げた通り、一つには支那におけるアメリカの利益を保護し、また一つには列強の対支進出を消極的に阻止する目的をもって行われたものであり、その上この提唱によって格別の効果を挙げることも出来なかったのであります。その提唱者である国務長官ジョン・ヘイが、すでに次のように申しております。

「予は支那人に向かって、アメリカに与えておらぬような特権を他国に与えるなと激励した時に、支那人は文字通りこう応えた。もし他国が武力に訴えてきた場合、支那だけではこれに抵抗出来ないが、貴国はその時に支那に味方してくれるかと。予は残念ながら、その通りであると答えることが出来なかった。ここに米国の根本的弱点がある。我らは支那を掠奪しようと思わないが、他国が支那を掠奪する場合、我が国の世論は武力をもってこれに干渉するのを許さない。その上、我らは十分なる兵力をもっていない」。

このような次第でアメリカは東亜進出の準備と態度だけは整えましたが、大体立ち遅れていたのでありますから、 決して易々と目的を遂げることは出来なかったのであります。

ただし、この頃に至って太平洋の重要性は何人にも明白になり、十九世紀における世界政局の中心は大西洋でありましたが、二十世紀に入って舞台は明らかに太平洋に移り、従って覇を太平洋に称えることが、取りも直さず世界的覇権を握ることを意味するようになったのであります。

新興アメリカ精神の権化というべきセオドア・ルーズヴェルトは、最も明瞭にこの間の消息を看取し、一九〇五年六月十七日付で友人B・I・ホウィーラーに宛てた手紙の中に、アメリカの将来は、ヨーロッパと相対する大西洋上のアメリカの地位によってに非ず、支那と相対する太平洋上の地位によって定まるのだと明言しております。

それならば太平洋をして世界政局の中心たらしめるのは何故であるか。何が太平洋をしてそのように重大なものたらしめるか。実は、その岸に沿って支那満蒙が横たわっているからであります。太平洋を巡る周囲の国々、洋上に浮かぶ大小の島々は、すでに欧米列強の領有するところとなり、または欧米勢力の確立を見たのでありますが、独り東亜だけにおいては、なお未だいずれの国の勢力も、絶対に圧倒的ではなかったのであります。列強がなお競争角逐を試みる余地があり、しかもなお未だ十分に開発されていない厖大なる国土あるがゆえに、太平洋は限りなく価値あるものとなっているのであります。ここには列強がその工場を養うべき豊富なる資源が、なお未だ開発されずに埋もれています。たとえ貧乏であるとはいえ、四億の人口を擁することは、欧米列強にとって無二の市場であります。

例えば昭和初年において、日本では毎年一人当たり三十八円ずつ外国品を買っておりますが、支那ではわずかに三円七十銭前後、すなわち我が国の十分の一に足らぬほどしか買っておりません。もし支那人が一人当たり十円ずつ外国品を買うようになれば四十億円、ニ十円ずつ買うようになれば実に八十億円の大金が、外国商人の懐に落ちるのであります。そればかりでなく、支那の国情が安定すれば、資本を投じてこれほど儲かる国はありません。鉄道一本敷くにしても南米などに敷いたのでは、鉄道沿線一帯が開拓され尽くすまでの何十年間は、猿や鸚鵡でも乗せなければ、荷物も客もないのであります。ところが支那ならば、鉄道開通の明日から、旅客にも貨物にも困らないのであります。

 ハリマンの「満鉄買収策」

このような事情でありますから、支那が欧米列強進出の最大目標となったことに、何の不思議もありません。それゆえにアメリカにとっては、太平洋を支配するということは、東亜を支配するという意昧であります。東亜を支配するということは、支那満蒙における資源の開発、その広大なる市場の獲得、その高率なる投資利益において、他国よりも優越した地歩を確立するという意昧であります。

 さればこそルーズヴェルトは、先程の手紙の中にただ漠然と太平洋とは申さず、実に「支那と相対する太平洋」と銘打っているのであります。そしてアメリカの太平洋進出、従って東亜進出は、日露戦争直後から初めて大胆無遠慮となってきたのであります。

すべての攻撃または進出は、常に抵抗力の最も薄弱だと考えられる方向に向かって試みられます。そうであるならばアメリカは、多年にわたる東亜進出計画をいよいよ実行に移すに当たって、どこを最小抵抗と睨んだか。それが満蒙であります。日露戦争によって国力を弱めていた日本の勢力圏満蒙が、実にアメリカ進出の目標となったのであります。

 ルーズヴェルトの調停によって行われた日露両国の講和談判が、なおポーツマスにおいて進行中のことであります。アメリカの鉄道王と呼ばれたハリマンが、条約によって日本のものとなるべき南満州鉄道を買収するために、一九〇五年八月下旬、秘かに日本に来朝したのでありますが、極力披に奨めてこの来朝を促したのは、時の東京駐在米国公使グリスカムであります。

 ハリマンがいかなる弁舌をふるって日本政府を籠絡したかは詳しく存じませんが、日本は遂に彼の提議を容れて、驚くべき内容を有する覚書が、十月二十日付をもって桂首相とハリマンとの間に成立したのであります。その内容とは、満鉄及び満鉄に属する鉱山その他各種事業の権利の半ばを、ハリマンの支配するシンジケートに譲渡し、これに相当する代金を受け取るということであります。そしてハリマンは、この覚書を手に入れたその日の午後に、直ぐさま横浜から船に乗って帰国の途に上りました。

 そのちょうど三日後に、ポーツマス条約を携えて帰朝した小村全権が、その覚書を見て驚き、かつ憤り、極力反対を唱えて遂に政府を動かし、これを取り消させたのであります。日本政府が何故に満鉄をアメリカに売る決心をしたかは、我々の今日に至るまで不可解とするところであります。日本は文字通り、国運を賭してロシアと戦い、多大の犠牲を払って勝利を得ましたものの、これによって日本が獲得したところのものは、必ずしも大でなかったのであります。

 日本国民はハリマンが秘かに東京に来たころに、講和談判に不平を唱えて焼き打ちの騒動となり、戒厳令まで敷かれたのであります。それなのにその少なき獲物のうちから、満鉄をアメリカに売ってしまえば、勝利の結果を全く失い去るに等しいのであります。当時もし、日本国民がハリマン来朝の真意を知ったならば、その激昂は一層猛烈であったに相違ありません。想うにハリマンは、日本が経済的危機に迫っていたのに乗じ、講和談判斡旋の恩を笠に着て、日本から満鉄利権の半分を見事に奪い取ったもので、もし小村全権が敢然これに反対しなかったならば、おそらく日本の大陸発展が、この時すでにアメリカのために阻止されてしまうはずであったのであります。

 このハリマン満鉄買収策は、きわめて大規模なる計画の一部であったのであります。その計画とは、まず第一に満鉄を手に入れ、次いでロシアの疲弊に乗じて東支鉄道を買収し、こうしてシベリア鉄道を経てヨーロッパに至る交通路を支配し、鉄道の終点大連及び浦塩から、太平洋を汽船でアメリカの西海岸と結び、大陸横断鉄道によって東海岸に至り、東海岸から汽船で大西洋をヨーロッパと結ぶ交通系統、すなわち世界一周船車連絡路をアメリカの手に握る第一歩として、満鉄を日本から買収しようとしたのであります。

 日本が東亜進出の障碍に

 さて、ルーズヴェルトが日露の間に立って講和談判の斡旋をするまでは、これまで申し上げてきたように、アメリカは大体において常に日本に好意を示してきたのであります。しかしハリマンの計画ひとたび失敗するに及んで、日本に対するアメリカの態度は、次第に従前とは違ってきたのであります。それはアメリカが、日本をもってアメリカの東洋進出を遮る大いなる障碍であると考えはじめたからであります。ここにアメリカの甚だしき無反省と横暴とがあります。

 東亜発展は日本にとって死活存亡の問題であります。さればこそ国運を賭してロシアと戦ったのであります。ところがアメリカの東洋進出は、持てるが上にも持たんとする贅沢の沙汰であります。アメリカはその贅沢なる欲望を満たさんがために、日露戦争によって日本が東亜に占め得たる地位を、無理矢理奪い去らんとしたのであります。実にこの時より以来、アメリカは日本の必要止むなき事情を無視し、傍若無入の横車を押しはじめたのであります。

 横車の第一は、日露戦争の終わった翌年すなわち一九○六年に、突如当時の東京駐在代理公使ウィルソンをして、下のような提言を日本政府に向かって為さしめたことであります。「満州における日本官憲の行動は、すべて日本商業の利益を扶植し、日本人民のために財産権を取得せんとするにありて、このため該地の日本軍隊の撤退を了する頃には、他の外国の通商に充つべき余地は希有、もしくは絶無たるに至るべく、世界列国の正当なる企業並びに通商に対する門戸開放に同意すといえども、日本従来の僭越なる専権に鑑み、こうした行動は合衆国政府の甚だ遺憾とするところなり。日本政府は、露国があえて該地方に実質的の国家的統制を為さんとして失敗せるに鑑み、切に反省せん事を望む」。こういう乱暴な文句をつけたのであります。十万の生霊を犠牲にし、二十億の金を使って、満州からロシア勢力を駆逐したのでありますから、ここに日本が商業的発展を試み、あらゆる企業を計画することは、当然至極のことなるにかかわらず、すでに日露戦争の翌年から、アメリカはこのような横槍を入れております。

 次には翌一九〇七年のことであります。支那において事業を営むことを主としているイギリスのボーリング商会が、秘かに支那と交渉を進め、京奉線すなわち奉天から北京に至る鉄道の一駅新民屯から、まず北方法庫門に至り、ゆくゆくは北へ北へと延ばしてシベリア鉄道と連絡する斉々哈爾までの鉄道敷設権を獲得したのであります。当時の奉天のアメリカ総領事は、有名なストレートであります

 応諾させられた満州の門戸開放

 ストレートは成功しなかった米国のセシル・ローズと言われ、一九○一年コーネル大学を卒業すると直ちに支那に赴き、ロバート・ハートの下にあって支那海関に三年勤務し、日露戦争の勃発と共に新聞記者となって朝鮮に赴き、ここで京城駐在米国公使に知られ、その私設秘書兼副領事を務め、その時に日本来朝のついでに朝鮮を旅行したハリマンと相識り、大いに鉄道王の尊敬を博したのでありますが、一九〇六年、わずか二十六歳にして奉天総領事となって赴任したのであります。 ひとりハリマンのみならず、ルーズヴェルトもタフトも、皆ストレートを非常に重んじていました。

 このストレートは、あらゆる機会を捉えて日本を抑えつけ、アメリカの力を満州に扶植する覚悟で着任したのでありますから、ボーリング商会が法庫門鉄道敷設権を獲得しますと、披は直ちにアメリカをこれに割り込ませたのであります。この鉄道は満鉄と並行して、シベリア鉄道と渤海湾とを結びつけるものでありますから、この鉄道が敷かれることになると、満鉄は大打撃を受けなければなりません。今日においても満州農産物の最も多いところは北満一帯でありますゆえに、そこから出る農産物が満鉄を経ずに、営口または葫蘆島に出ることになれば、日本は満鉄をもっていても何の甲斐もないことになります。

 従って、小村全権が北京において満州善後条約を支那と結んで、次のように約束しております。「支那政府は南満州鉄道の利益を保護する目的をもって、自ら該鉄道を回収する以前においては、該鉄道の付近において、もしくはこれに並行していかなる欽道をも敷設せず、また該鉄道の利益を害するいかなる支線をも敷設せず」。支那がこういう約束をしておきながら、ボーリング商会に法庫門鉄道の敷設を許可することは、疑いもなく条約違反でありますゆえに、日本は強硬にこれに抗議し、遂に支那をして一旦与えた許可を取り消させたのであります。 さりながら、ストレートは、決してそれくらいのことで思い止むものでありません。彼は翌一九〇八年、支那当局者との間に満州銀行設立の約束を結んだのであります。当時支那の政治の実権を握っていたのは袁世凱であります。袁世凱は、日路戦争前並びに日露戦争中は、我が国に非常なる好意を示していたのであります。それはロシアという共同の敵があったからであります。ところが日露戦争以後、ロシアに代わって日本が満州に勢力を張るに至りますと、今度はアメリカの力を借りて日本の満州における発展を掣肘しようという方針に変えたのであります。この袁世凱の親米政策を利用して、ストレートは当時の東三省総督・徐世昌及び奉天督弁・唐紹儀と相図り、満州における鉄道の敷設並びに産業の開発を主目的として、その金融機関たる満州銀行を建てることを承諾させ、二千万ドル借款の仮契約を結んで、よろこび勇んでアメリカに帰っていったのであります。

アメリカはこの銀行を機関として、満州において日本と角逐して鉄道並びに事業を始めようとしたのであります。ところが日本にとって幸福であったことには、この年袁世凱が政変のために失脚し、彼の政敵だった醇親王が支那の政治を執るようになりましたので、ストレートの計画は今度も失敗に終わったのであります。

また、この年すなわち一九○八年十一月に、アメリカは時の駐米日本大使高平小五郎に対し、日本は満州において決して他国の事業の邪魔をせぬ、門戸開放・機会均等の主義を忠実に守ると約束せよと提議し、日本をしてこれを応諾させたのであります。このようにしていわゆる高平・ルート協定の成立を見たのであります。

 第四日(昭和十六年十二月十七日放送)

 アメリカ人の気性と流儀

 米国務長官の驚くべき提案

 今日も引き続きアメリカの横車について申し上げます。昨日申し上げた通り、アメリカは日支両国の間に満鉄に並行する鉄道を敷かぬという約束があることを知っていたにもかかわらず、またボーリング商会と合作して企てた法庫門鉄道計画が失敗したのにも懲りず、1909年、またもや極秘の間に支那政府と交渉を進め、渤海湾頭の錦州から斉々哈爾を経て、黒龍江省愛琿に至る非常に長距離の鉄道敷設権を得たのであります。

 この錦愛鉄道は、この前の法庫門鉄道よりも満鉄にとっていっそう致命的なる並行線であります。この並行線の敷設権を支那から得たのは、1909年10月のことでありますが、11月に至りて国務長官ノックスは、まず英国外相グレーに向かって、二つの驚くべき提案を行ったのであります。第一は英米一体となって満州の全鉄道を完全に中立化させること、第二は鉄道中立化が不可能の場合は、英米提携して錦愛鉄道計画を支持し、満州の完全なる中立化のために、関係諸国を友好的に誘引しようというのであります。

 英国外相はこの提案に対して体よき拒絶を与えたにかかわらず、ノックスは12月4日、このうえ二案を日・支・仏・独・露の各政府に示し、かつ英国政府の原則的賛成を得たと通告し、これらの諸国に対して「同様に好意ある考慮」を求めたのであります。この突飛なる提案に対して、日露両国はもとより強硬に反対し、ドイツ・フランス・イギリスもアメリカを支持しなかったので、この計画もまたまた失敗したのであります。この計画の背後にもストレートが活躍していたのでありますが、その失敗は「イギリスの冷酷な日和見政策」によるものとして、激しく英国を非難しております。

 このように手を変え品を変えても成功しないので、アメリカは今度は列強の力を借りて目的を遂げようというので、その前年に成立した英米独仏の四国借款団を利用することとし、その借款団から支那に向かって英貨一千万ポンドを貸し付け、これによって支那の幣制改革及び満州の産業開発を行う相談を始めたのであります。これは取りも直さず、アメリカ一国では従来やり損なったから、列強と共同して日本を摯肘しようという計画であります。ところがこれまた日本にとって幸いであったことは、あたかもこの頃に武漢に革命の火の手が上がり、清朝は脆くも倒潰して支那は民国となったので、この交渉も中絶の姿となったのであります。

 それにもかかわらず、新たに出来た民国政府は、この四国財団に政費の借款を申し込んだのであります。この申し込みを受けた四国財団は、日露両国を無視しては支那とのいかなる交渉も無益なることを知っていたので、結局日露両国を加えた六国借款団を作ることにしたのであります。その借款契約は1913年6月、仏国パリで作られたのでありますが、その際日露両国は共にその満蒙における各自の特殊権益を損傷されぬことを条件として該財団に参加する旨を声明し、旧四国財団関係者の反対があったにもかかわらず、列国政府がこの声明を承認したので、6月22日、正式に六国借款団の成立を見るに至りました。ところで、日露両国がこのような条件の下に参加してきたのでは、思うように満州進出が出来なくなったので、アメリカは翌1914年に至り、六国借款団は支那の行政的独立を危うくするという口実の下に、勝手にこれを脱退したのであります。

 中立声明を無視して参戦

 さて、1914年は世界大戦の始まった年であります。日本は日英同盟の誼みを守り、ドイツに宣戦して連合国利に参戦しました。するとアメリカの最も恐れたことは、このどさくさ紛れに日本が支那及び満州において、火事場泥棒を働きはせぬかということであったのであります。そこでアメリカはこの年8月21日、無礼極まる通牒を日本に向かって発しております。

その文面はまず「合衆国は日本のドイツに対する最後通牒につき、意見を発表することを見合わすべし」というもので、ほとんど日本を属国視しております。日本がドイツに対して最後通牒を発するのに、アメリカから文句をつけられる囚縁は毛頭ないのであります。さらに「またヨーロッパの戦争の状態如何にかかわらず、かつて声明するごとく、アメリカは絶対に中立を維持することをもって、その外交政策となす。そして合衆同政府は、日本の意向について左のごとく記録するの機会を有す」と豪語したる後、第一に日本は、「支那において領土拡張を求めざる」こと、第二に「膠州湾を支那に還付する」こと、第三に「支那国内に重大なる動乱もしくは事件の発生する場合において、日本は膠州湾領域外において行動するに先だち、アメリカと協同する」ことを要求しているのであります。誠に無礼極まる申し分でありますから、日頃アメリカに対して妥協的態度に出ることを習慣としている日本政府も、この乱暴なる申し分には取り合わなかったのであります。

そうしているうちに、絶対に中立を維持すると声明し、戦争は我らの自尊心の許さぬところだ、「We are too proud to fight」などと嘯いておりながら、アメリカも遂に参戦したのであります。当初戦争に加わらなかったのは、勝敗の数が逆賭し難かったからでありましたが、戦局が段々と進んで連合国側の勝算がほぼ明らかになりますと、存分に漁夫の利を収めるために、以前の声明などは忘れたかのように大戦に参加したのであります。いざ大戦に参加してみると、今までのように日本と相争っていたのでは、甚だ心がかりになりますので、1917年、アメリカからの提案によっていわゆる石井・ランシング協定が成立し、アメリカははじめて東亜における日本の立場を承認したのであります。「合衆国政府及び日本政府は、領土相接する国家間には特殊の関係を生ずることを承認す。従って合衆国政府は日本国が支那において特殊の利益を有することを承認す。日本の領土の接壌する地方においてことに然りとす」。この協定によってアメリカは一時日本の意を迎えたのであります。しかしながらこの協定は、後に申し上げるワシントン会議において、苦もなく廃棄されたことは御承知の通りであります。

一方、このように日本の意を迎えながら、アメリカは世界大戦の最中においても、満州に発展する機会さえあれば、無遠慮に自国の立場を作ろうとしました。例えば1917年、ロシア革命によってツァー政府が倒潰し、列強がシベリアに出兵することになりました時、アメリカは東支鉄道及びシベリア鉄道の管理権を握るという強硬なる主張を列強に向かって発したのであります。これも実に乱暴な提案であります。日本は当然これに反対し、結局連合国特別委員会を作り、その委員会が両鉄道を管理することになりました。

叙上のような始末で、日露戦争以後におけるアメリカの東亜進出政策は、その無遠慮にして無鉄砲なること、近世外交史において断じて類例を見ないところのものであります。それは薮医者が注射もせずに切開手術を行うような乱暴ぶりであります。しかも数々の計画がその都度失敗に終わったにかかわらず、いささかも恥じることなく、いささかも怯むことなく、矢継ぎ早に横車を押し来るに至っては、言語道断と申すほかありません。我々はアメリカのこのような気性と流儀とをはっきりと呑み込んで置く必要があります。

 在米日本人の排斥

 さてアメリカは、東亜に対しては今まで申し上げたような傍若無人の進出を試み、ひたすら、東亜における我が国の地位を覆えそうと焦ったのみならず、同じく日露戦争直後から、内においては在米日本人の排斥を始めたのであります。すなわち1906年にサンフランシスコの小学校から日本少年を放逐したのを手始めとして、次第に無法なる日本人排斥をない、1907年には数十名の アメリカ人が一団となって日本人経営の商店を襲撃し、多大の損害を与えるに至ったのであります。

 小学校から日本児童を放逐する時のサンフランシスコ学務局の言い分は、日本児童の数が多くて収容し切れぬこと、不行跡で不品行だということ、米国児童と年齢が違いすぎるということにあったのでありますが、実際はサンフランシスコの全小学校に日本少年はわずかに93人しか入学しておらず、年齢は多く14歳以下で、15歳のものが33人、20歳のものが二人あっただけであり、米人教師の言葉によれば行状は優秀で、最も好ましき生徒であったのであります。

 カリフォルニアにおけるこうした日本人排斥は、甚だしく日本国民を激昂させ、世論は烈しく沸騰したのでありますが、当時の日本の知識階級の中には、排斥は日本人が悪いからだ、日本人はどこへ行っても日本人で、決してアメリカに同化しないから、アメリカから見れば厄介者に相違ないなどと、まるで他国のことのように議論する人が多かったのであります。そして政府もある程度までアメリカの言い分を通して、この年12月にいわゆる紳士協約をアメリカと結び、今後は在米邦人の父子妻子、及び商人・学生を除き、永住の目的をもって、日本人をアメリカに渡航させぬという約束をしたのであります。この日本の譲歩にかかわらず、そしてその約束を忠実に守ったにもかかわらず、カリフォルニアの在留邦人に対する迫害と排斥は、年々激しきを加え、1911年には日本人の土地所有禁止を目的とする法案が、加州議会を通過するに至ったのであります。

 この排日運動は、世界大戦中だけはしばらく下火となっていましたが、1918年11月に世界大戦終結するや翌年正月からまたまた排日運動が始められ、加州排日協会は次の五事を断行すべしと決議したのであります。

 一、日本人の借地権を奪うこと。

 二、写真結婚を禁ずること。

 三、紳士協約を廃し、米国が自主的に排日法を制定すること。

 四、日本人に永久に帰化権を与えざること。

 五、日本人の出生児に市民権を与えざること。

 加えて排日法を制定するため、臨時議会を開くべしとの決議案が満場一致をもって加州議会を通過しました。日本はこの形勢を見て、米国の意を和らぐべく、自ら進んで写真結婚を禁止したのであります。

 しかも日本の譲歩にますます増長した加州人は、盛んに排日法制定のために臨時議会を招集すべしと高唱し、加州知事がこれを拒絶すると、直接州民投票によって法案を通過させ、遂に邦人の借地権を奪い、不動産移転を目的とする法人の社員たることを禁じました。そして1924年には、さらに徹底的した排日法が制定され、かつ実施されるに至り、米国の排日派は思う存分にその目的を遂げたのであります。

 ルーズヴェルトの「賢明なる助言」

 ただしこの日本人排斥は、決して心あるアメリカ政治家の意思ではなかったのであります。現に大統領ルーズヴェルトは、その子カーミットに宛てた手紙の中に「予は痛く対日策に悩まされている。加州とくに桑港の馬鹿者どもは、向こう見ずに日本人を侮辱しているが、その結果として惹起さるべき戦争に対して、国民全体が責任を負わねばならぬのだ」と申して居ります。彼は日本人排斥を阻止する為にできるだけの力を尽くしましたが、その事がかえって加州米人を激昂させ、日本人を駆逐すると共に、彼らに味方する非愛国的なる大統領をも放逐せよと騒ぎ立てたのであります。ルーズヴェルトは、任期終わって職を去るに臨み、予が加州の日本人問題で苦しんだことを思えば、その他の議会対策のごときは、物の数ではなかったと述懐しております。

 さればこそ、彼はその政治的後継者ノックスに向かって、次のような賢明なる助言を与えております。「米国の最も重大なる問題は、日本人を米国から閉め出しても同時に日本人の善意を失わぬように努めることである。日本の死活問題は満州と朝鮮である。それゆえに米国は、理由の如何にかかわらず日本の敵意を挑発し、またいかに軽微であろうとも日本の利益を脅威するごとき行動を決して満州において取らぬよう注意しなければならぬ」。

 しかしアメリカはこの忠告と反対に、満州において常に日本の敵意を挑発し、日本の利益を脅威するごとき行動を繰り返してきたことは、これまで申し上げた通りであります。満鉄中立提議は、ルーズヴェルトから叙上の忠告を受けたノックス国務長官の名において行われたのであります。

 第五日(昭和十六年十二月十八日放送)

 日本が屈服した日

 ダニエル海軍計画と八八艦隊計画

 東亜においては遮二無二日本の地位を覆えさんと焦り、国内においては没義道なる日本人排斥を強行したアメリカは、さらに強大なる海軍の建造に着手したのであります。米日における大海軍論の偉人なる先覚者は『歴史における海上権の影響』という名高い本を書いたマハン海軍大佐であり、これを実行に移したのがセオドア・ルーズヴェルトであります。

 ルーズヴェルトは1898年3月、すなわち彼が海軍長官だった頃、すでにこの書を読んだ感激をマハン大佐に書き送って、「貴下の著書は、予の心中に漠然として存在していた思想に、明確なる姿を与えてくれた。予は崇高なる目的のために貴著を研究した」と述べております。そして後年、彼が大統領となった時には「世界第一等の海軍建設を議会に要求することは、大統領たる予の荘厳なる責任である」と豪語しております。

 彼は強大なる海軍なくしては、アメリカはただ中国の門戸開放主義を有効に維持し得ざるのみならず、モンロー主義さえも守り得ないと力説し、敵海軍主力の撃滅を第一目的とする大戦艦隊建造の必要を強調したのであります。今日のアメリカ海軍政策は、実にルーズヴェルトの精神を継承し、これを実行しつつあるものであります。従って彼の誕生日、10月27日が「海軍日」として記念されているのは決して偶然でないのであります。

 このようにしてアメリカ海軍は、ルーズヴェルトの指導の下に強大なる基礎を置かれたのでありますが、1914年8月14日に至り、パナマ運河の開通を見たのであります。この運河の開通によって、以前は大西洋岸ハンプトン・ローズ軍港より加州のメーア軍港に到るために、南米大陸を迂回して実に1万3千浬の航海を必要としたのが、今や5千浬強の距離に短縮され従ってアメリカ海軍は、その全力を挙げて大西・太平両洋のいずれにおいても作戦し得ることとなり、あたかもその艦隊を倍加したと同一の効果を見るに至りました。加えて1916年には、ダニエル海軍計画またはウィルソン海軍法として知られる偉大なる海軍拡張計画が着々実行され、次いで1919年には太平洋艦隊の編制を見るに至ったので、太平洋におけるアメリカの勢力は、俄然として大を加えたのであります。

 さて、名高きダニエル海軍計画は、戦艦10隻、巡洋艦6隻を基幹とし、120十隻に近い駆逐艦及び潜水艦を建造せんとするもので、翌1917年より直ちにその実現に着手しました。この計画はいたくイギリスを剌激しましたが、いっそうの圧力をもって我が国を脅威したことは申すまでもありません。とりわけこの計画が米国議会に提出された時、責任ある朝野の政治家が、議会の内外において試みた該案支持の説明は、異□同音に東アジア問題における日米の衝突を力説したので、我が国はこの挑戦に対して必然備うるところ無きを得なかったのであります。そのためにダニエル海軍計画が米国議会を通過した1917年、日本はいわゆる84艦隊計画を立て、翌年にはさらに86艦隊計画、その翌々年には遂に88艦隊計画を立てざるを得なかったのであります。

 この間の消息は、イギリスの海軍通パイウオーターがその書『海軍と国家』の中に述べている通りでありますー「日本は一年以上にわたって、海上の覇権を握らんとする断乎たる目的をもって行われたるアメリカ海軍の大規模の拡張を、不安の念を高めつつ眺めていた。日本の利害は太平洋に限られているが、アメリカがその力を集注し来れるは、実にその太平洋に外ならなかった。1919年8月、アメリカ海軍の最強艦隊が、新たに編制された太平洋艦隊としてパナマ運河を通って来た。同時に太平洋艦隊根拠地の計画が発表された。フィリピン、グアム、サモアにおいて、大規模の海軍施設が計画された。ハワイの真珠港は、太平洋上のジブラルタルたらしめられんとした。そして日本は、アメリカのこのような海軍行動をもって、自国を目的としたものと感ぜざるを得なかった。こうして1920年、日本は名高き88艦隊計画を立ててこれに対抗した」。

 さて、このようにして惹起された猛烈なる製艦競争において、我が国の造船工業は、実にその全力を挙げて奮闘したのであります。そしてこれを船台・船渠・港湾の設備の上から見て、並びに造船技術の上から見て、我が国は優にアメリカを凌駕しており、金力だけはアメリカに劣るけれど、その他の点では明白に我が国が勝利の地歩を占めていました。アメリカはこの競争の容易ならぬ性質をようやく判然と看取し得たのであります。

 加えてアメリカの海軍計画は、ひとり日本のみならず同時にイギリスの海軍拡張をも促さずば止まなかったのであります。アメリカいかに富めりとは言え、日英両国を相手にとっての競争は無謀と申さねばなりませぬ。その上、世界大戦によるアメリカの好景気も、いつまで続くはずのものでもありません。一朝経済的不況に陥った時、莫大な経費を海軍に奪われることは大なる苦痛となります。

 ワシントン会議での[一石二鳥」

 こうしてアメリカは、自ら招いた苦境から脱出すべく、ここに軍備制限を議する国際会議を招集し、これによって日英両国の海軍を掣肘すると同時に、東亜における日本の勢力を失墜させ、もって東洋進出の路を平坦ならしめることを考えたのであります。1921~1922年のワシントン会議はこうして開かれ、アメリカはこの会議によって見事に一石二鳥をせしめたのであります。

 ワシントン会議は、ロンドン・タイムズ主筆スティードが道破した通り、その本質においてまさしく「日米両国の政治的決闘」であったのであります。そしてこの決闘においてアメリカは、まず第一に、その最も好まざりし日英同盟を破棄させて、日本を国際的に孤立させることに成功しました。第二に日本海軍の主力艦を自国並びにイギリスのそれに対し、6割に制限し去ることに成功しました。我が全権は、英米海軍主力艦に対する7割のそれをもって日本国防の最小限度なりとし、極カアメリカ案に反対したにかかわらず、英米両国の共同作戦によって、遂に太平洋西部の防備制限を交換条件として、国防の「最小限度」以下の比率を承諾したのみならず、加藤全権は次のような驚くべき声明までもしたのであります。「日本は過去においてこれ無かりしごとく将来においても、その力において合衆国もしくは英国とその程度を同じうする一般的海軍設備を保有することを要求するの意思を有せず」。この声明はすこぶる英米人の喝采を博したそうであります。

 日本を孤立せしめ、その海軍を劣勢ならしめたアメリカは、さらに四ヵ国条約の締結によって、西太平洋における自国領土の安全を図りました。この条約はもともと日英米三国の間に結ばれるべく、その成立と同時に日英同盟を太平洋の藻屑とする魂胆でありましたが、フランスの面目を立てるためにこれを誘い入れて四カ国条約としたものであります。オランダのごときは西太平洋においてフランスよりも遥かに重大なる利害関係を有しているにかかわらずこれを加入させぬところを見ても、この条約の不真面目さを窺い知ることが出来ます。条約の要旨はその第一条に尽くされております。

 「締約国は、太平洋方面におけるその島嶼たる属地及び領地に関する各自の権利を、互いに尊重すべきことを約す。もし締約国のいずれかの間に、太平洋問題に起因しかつ前記の権利に関する争議を生じ、外交手段によって満足なる解決を得ること能わず、かつその間に現存する円満なる協調に影響を及ぼすところある場合には、右締約国は他の締約国の共同会商を求め、当該事件全部を考量調整の為、その議に附すべし」。そして、この条約の第4条において、「1911年7月13日、ロンドンにおいて締結せられたる大ブリテン国及び日本国間の条約は、これと同時に終了するものとす」と明記して日英同盟に最後の引導を渡しております。

 日本はワシントン会議において、山東問題に関してはベルサイユ条約によって得たる権利をさえも犠牲にして、ほとんど無条件にこれを支那に還付しました。石井・ランシング協定の廃棄にも同意しました。そして支那に関する九ヵ国条約が、米・露・英・仏・伊・日・蘭・葡・支の九ヵ国間に、実にアメリカが欲する通りの内容をもって成立しました。この条約は「支那の全領土にわたり一切の国民の商業及び工業に対する機会均等主義を有効に樹立維持するために努力する」こと、また「友好国の臣民または人民の権利を減殺すべき特殊権利、または特権を獲得するために支那の情勢を利用せざる」ことを定め、さらに、締約国にして「本条約の規定の適用問題に関係し、かつ右適用に関し討議をなすことを適当なりと認むる事態発生したる時は、何時にても右目的のため、関係締約国問に十分かつ隔意なき交渉をなすべきこと」を取りきめたものであり、アメリカはこの条約によって、少なくとも形式的には、我が国の支那とくに満蒙における特殊権益を剥奪し去ったのであります。

 こうしてワシントン会議は、太平洋における日本の力を劣勢ならしめることにおいて、並びに東亜における日本の行動を掣肘拘束することにおいて、アメリカをしてその対東洋外交史上未曾有の成功を収めさせたのであります。米国が東洋に向かって試みた幾度かの猪突的進出は、その都度失敗に終わりましたが、ワシントン会議においては、かつて欲して得ざりしことを、一応は成し遂げたのであります。当時アメリカ人が上下を挙げて喜んだのも当然であります。

 ワシントン会議以後の劣勢

 しかもアメリカはこれをもっても満足しなかったのであります。アメリカはワシントン会議によって日本の戦闘艦を制限し得たのでありますが、それだけではまだ枕を高くして眠ることができない。アメリカと日本のように、きわめて遠隔な距離を隔てて相対している間柄では、大きい巡洋艦が時として戦闘艦以上の効力を発揮することがあります。こうしてアメリカが主導者となって、今度は主力艦以外の軍艦制限の目的をもって招集されたのが、ジュネーブ会議及びロンドン会議であります。

 そしてこの二つの会議においても、日本はワシントン会議におけると同じく、アメリカの前に屈服したのであります。ただしアメリカに屈服したのは日本だけではありません。実にイギリスまでがアメリカの前に頭を下げ、アメリカよりも劣勢なる海軍をもって甘んずることになったのであります。これは世界史における非常の出来事と申さねばなりません。大ブリテンは海洋を支配すと高嘯して、世界第一の海軍を国家の神聖なる誇りとしてきたイギリスが、今やその王座をアメリカに譲ったのであります。ここで我らは心静かにアメリカの国際的行動を観察してみたいと存じます。

 自ら国際連盟を首唱しながら、その成るに及んでこれに加わることをしない。不戦条約を締結して、戦争を国策遂行の道具に用いないということを列強に約束させておきながら、東洋に対する攻撃的作戦を目的とする世界第一の海軍を保有せんとする。大西洋においては英米海軍の十対十比率が、何ら平和を破ることないと称しながら、太平洋においては日米海軍の七対十比率さえなおかつ平和を脅威すると力説する。ラテン・アメリカに対しては門戸閉鎖主義を固執しながら、東アジアに対しては門戸開放主義を強要する。例えば往年邦入漁業者が、メキシコのマグダレナ湾頭に土地を租借しようとした時、これをもってアメリカのモンロー主義に反するものとする決議案が、アメリカ上院を通過しております。それにもかかわらず東亜においては、日本の占め来れる地位は、アメリカがメキシコまたはニカラグアにおいて占める勢力の十分の一にも及ばざるにかかわらず、門戸開放主義の名においてこれをも否定し去らんとするのであります。総じて、これ無反省にして、しかも飽くなき利己主義より来る矛盾撞着の行動であります。

 アメリカの乱暴狼籍このようであるにもかかわらず、世界のいかなる一国もアメリカに向かって堂々とその無理無法を糾弾せんとする者がなかったのであります。我が国もロンドン会議において、それだけに補助艦比率の十対十を主張して何の憚るところなかりしのみならず、ワシントン会議以後の情勢変化、及び不戦条約の精神を楯として、主力艦六対十の比率変更をさえ要求し得たにかかわらず、当初から七対十の比率をもって甘んじ、しかもその主張さえアメリカのために拒否されて、いっそうの劣勢をもって甘んじたのであります。すべてこれらの会議は、筒単に軍縮会議と呼ばれておりますが、決して単純なる海軍会議ではありません。三十年にわたる執拗極まりなきアメリカの東亜政策全体を顧みることによって、これらの会議の真実の意味を、初めて正しく理解し得るのであります。

 敵国に誉めそやされた「ロンドン条約調印」

 我らは意気揚々としてロンドン会議を引き上げたアメリカ代表スティムソンが、この年五月十三日、上院外交委員会において下のような説明を試み、口を極めて日本代表及び日本政府を賞揚したことを今日といえども忘れることが出来ません。

 「我ら合衆国代表の眼目とせるところは、我が海軍が日本海軍を凌駕すべき製艦計画を完成するまで八年間、日本をして現勢力のままに在らしめる事であった。六インチ砲巡洋艦に関しては、我らは我が保有量を七万五千トンより十四万三千トンに拡張するまで、日本は現状を維持すべきことを要求した。我が国は、この条約によって六インチ砲巡洋艦を倍加し得ることになったにもかかわらず、日本は現在保有する九万八千トンよりわずかに二千トンを拡張し得るに過ぎない。

 日本は本国において海軍拡張論者の猛烈なる運動あり、海軍当局は国民の支持後援を得ていた。それゆえに予は、日本代表はロンドン会議において非常に困難なる仕事を成し遂げたと断言する。我らは、日本が勇敢にもその敵手が自国を凌駕するまでその手を縛るような条約を承認した事に対し、その代表及び政府に最大の敬意を払いつつ、会議から引き上げて来た。我らは故意に潜水艦を日本と同等にした。これは潜水艦の総トン数を縮小すれば、それだけ我が国を有利に導くからである。そして日本は一万六千トンの縮小に同意した」。

 ロンドン会議における日本代表及び日本政府は、アメリカ代表から「敵が自分よりも優勢なる艦隊を建造するまで、自分の手を縛られるような条約に調印した」と言って、その「勇敢」を誉めそやされたのであります。

 その日本代表は、ロンドンから帰ると、日本国民に向かって会議の成功を語り、首相は議会において、国防の安全を保証していたのであります。痛憤に堪えなかった私は、我らの機関誌であった月刊『日本』のこの年の五月号に「ロンドン会議の意義」と題する一文を発表し、その末尾を下のように結んでおります。

 「ロンドン会議は、もしそれが単独に海軍協定のためのものであるならば多少の譲歩はこれを忍び難しとせぬ。ただそれ四半世紀にわたる米国東洋政策遂行の歴史を観る時、そしてその歴史の行程としてこの会議を観る時、すでにワシントンにおいて譲り、いままたロンドンにおいて譲るならば、やがていっそう大なる譲歩を強要せらるべきこと、火を睹るよりも瞭かである。

 繰り返して述べてきたように、米国の志すところは、いかなる手段をもってしても太平洋の覇権を握り、絶対的に優越した地歩を東亜に確立するに在る。そのために日本の海軍を劣勢ならしめ、無力ならしめ、そうした後に支那満蒙より日本を駆逐せんとするのである。日本がもし適当なる時期において、このような野心の遂げられるべくもなきことを米国に反省させるのでなければ、米国の我が国に対する傍若無人は年と共に激甚を加え来り、ついに我が国をして米国の属国となり果てるか、そうでなければ国運を賭してこれと戦わねばならぬ羽目に陥らしむるであろう。ロンドン会議は日本の覚悟を知らしめる絶好の機会であったにもかかわらず、ついにこれを逸し去った」。

 第六日(昭和十六年十二月十九日放送)

 敵、東より来たれば東条

 国民から湧き上がってきた大なる憂い

 ロンドン会議は、日本現代史に対して深刻無限の意義を有しております。第一次世界戦以来、日本の上下を支配してきた思想は、英米を選手とする自由主義・資本主義と、ロシアを選手とする唯物主義・共産主義であります。深く思いを国史に潜め、感激の泉を荘厳なる国体に汲み、真箇に日本的に考え、日本的に行わんとする人々は、たとえあったにしてもその数は少なく、その力は弱かったのであります。

 ところがロンドン会議は、それだけにこれら少数の人々のみならず、多数の国民の魂に強烈なる日本的自覚を呼び起こす機縁となったのであります。そしてロンドン会議の責任者・浜口首相は、遂に国民義憤の犠牲となったのであります。日本はワシントン会議以来、アメリカとの政治的決闘において、常に負け続けてきたのであります。いまやロンドン会議に勝ち誇れるアメリカを見て、この上負けては遂に息の根が止められるぞという大なる憂いが、国民の魂の底から湧き上がってきたのであります。それは我らの先輩が黒船の脅威によって、幕府も忘れ各自の藩も忘れて尊皇攘夷のために奮い起ったと同じことで、米国国務長官スティムソンは、百年以前にペリーが日本に対して務めた同じ役割を務めたのであります。

 ロンドン会議に至るまで、日本はアメリカの東洋進出に対して受け身であり、アメリカの対日政策に対して常に譲歩してきたのであります。そのアメリカの政策が余りに傍若無人であったために、アメリカの政治家のうちにさえ、日本の憤激を買って戦争を誘発せぬかと心配した人が少なくなかったほどであります。

 例えば、加州における排日問題の時でも、大統領ルーズヴェルトは、日本人はこのような侮辱を甘受する国民でないと信じていたので、フィリピン陸軍司令官ウッドに対し、何時日本軍の攻撃を受けても戦い得るよう準備せよという命令を発し、しかも万一日米戦争になれば、フィリピンは日本のものとなるであろうと甚だ憂鬱であったのであります。そして心配に堪えかね、フィリピン派遣という名目で陸軍長官タフトを東京に寄越したのでありますが、タフトが来てみると、国民こそ激しく憤慨しておりましたが、政府は毛頭そのようなことを考えておりません。そこでタフトは東京から「日本政府は戦争回避のために最も苦心を払いつつあり」と打電して、ルーズヴェルトの愁眉を開かせております。その後十数年を経て、移民問題が再び日本国民を憤激させたときも、余りに日本の体面を傷つけては戦争になるかもしれんと心配した米国政治家が少なくなく、当時の駐日米国大使モリスのごときもその一人であります。ただしこのときも日本政府は、干戈に訴えても国家の面目を保とうなどとは夢にも考えていなかったのであります。

 最後に1934年、埴原大使をして、無法に日本人排斥法を通すならば「重大なる結果」を生ずるだろうと抗議させましたが、かえって上院議員ロッジのために「日本はアメリカを脅迫するつもりか」と開き直られ、もともと覚悟を決めての抗議でなかったのでありますから、結局いかなる結果をも生ぜずに済みました。

 ところがロンドン会議以後、事情は全く一変したのであります。政府は依然として英米に気兼ねしながら、国際的歩みを徐々に進めんとしたにかかわらず、国民は日本国家の根本動向を目指して闊歩し始めたのであります。政府はロンドン会議において低く頭を下げたにかかわらず、国民は昂く頭をもたげて、アメリカ並びに全世界の前に、堂々と進軍をはじめたのであります。この日本の進軍は、実に満州事変においてその第一歩を踏み出したのであります。

 満州事変

 1928年、父張作霖の後を継いで満州の支配者となった張学良は、南京政府及び多年にわたるアメリカの好意を背景として、東北地帯における政治的・経済的勢力の奪回を開始したので、満州における日本の権益に対する支那側の攻撃は年と共に激化し、排日の空気は全満に漲らんとするに至りました。もともと満州における日本の権益は、ポーツマス条約に基づくものであります。もし当時日本が起ってロシアの野心を挫かなかったならば、満州・朝鮮は必ずロシアの領土となったであろうし、支那本部もやがて欧米列強の俎板の上で料理されてしまったことと存じます。日露戦争における日本の勝利は、ただロシアの東洋侵略の歩みを阻止したのみならず、白人世界征服の歩みに、最初の打撃を加えた点において、深甚なる世界史的意義を有しております。このとき以来日本は、朝鮮・満州・支那を含む東亜全般の治安と保全とに対する重大なる責任を荷い、かつその重任を見事に果たしてきたのであります。

 その間にいかにアメリカが日本の意図を理解せず、日本の理想を認識せず、間断なく乱暴狼籍を働きかけてきたかは、三日にわたって述べた通りであります。このアメリカの後援を頼み、南京政府の排日政策に呼応した満州政権は、遂に暴力をもって日本に挑戦してきたのであります。それは取りも直さず、1931年9月18日の柳条溝事件であります。そして時の政府が断じてこれを欲しなかったにもかかわらず、日本全国に澎湃として漲りはじめた国民の燃える精神が、遂に満州事変をしてその行くべきところに行き着かしめ、大日本と異体同心なる満州国の荘厳なる建設を見るに至ったのであります。

 我らは満州事変が、こうした事変の発生を最も憎みかつ恐れていた幣原氏が、日本の外交を指導していた時代に起こったことを考えて、歴史の皮肉を想わざるを得ぬものであります。しかしながら満州事変は、決して日本にとって不利なる時期に起こったのではありません。運命は明らかに日本に向かって微笑していたのであります。すなわちこの事変の起こった1931年の夏の末には、世界を挙げて大不景気の影響を深刻に感じなかったことはなく、とりわけイギリスとアメリカは、ヨーロッパ及び本国において、経済的混乱に陥っていたのであります。

 すなわちこの年は信用機関の没落、イギリスの金本位制離脱、フーヴァー大統領のモラトリアムなど、欧米の政府及び国民を途方に暮れさせた重大問題の頻発した年であります。さればこそスティムソンは、その著『極東の危機』の中で「もし誰かが、外国の干渉を受けずに済むと考えて、満州事変を計画したとすれば、無上の好機会を掴んだものと言わねばならん」と申しております。満州事変はそれほど国際的に好都合のときに起こったので、日本の為には甚だ幸運であったと存じます。

 ただしアメリカは、もちろん手をこまねいて見ているわけはありません。国務長官スティムソンは事変勃発の四日後、すなわち9月22日に駐米日本大使を経ていわゆる「熱烈なる覚書」を日本政府に交付しております。その中で彼は「過ぐる四目間、満州において展開せられつつある事態には、夥しき数の国々の道徳・法律及び政治が関係している」と、居丈高になっております。その後に至り満州事変に対して執った国際連盟の行動は、一つとしてスティムソンと相談しなかったものがなく、またその指図に由らぬものがなかったのであります。

 国際連盟は旧秩序維持の機関

 当初スティムソンは、幣原外相に大なる期待をかけていました。国際連盟、四ヵ国条約、九ヵ国条約、不戦条約、総じてこれらの世界現状維持のための約束に欣然参加し来れる日本の外務省は、このたびとてもアメリカの意図を無視した行動を取るまいと考えていたのであります。これは決して私の想像でなく、スティムソン自身が同年9月23日、すなわち「熱烈なる覚書」を日本に叩きつけた翌日の日記に「予の問題は、アメリカの眼が光っているぞということを日本に知らせること、及び正しい立場にある幣原を助けて彼の手によって事件の処理を行わしめ、これをいかなる国家主義煽動者の手にも委ねてはならぬということである」と書いております。

 スティムソンは、これも彼自身の言葉によれば、日本の外務大臣が日本に燃え上がった国家主義の炎々たる焔を消し止め、過去及び現在の征服を中止して、日本をして九カ国条約及び不戦条約に再び忠実ならしむべきことを希望し、かつその可能を信じていたのであります。そして幣原外相も恐らくこの希望に添いたかったに相違ありませんが、事変の発展はスティムソンの希望を完全に打ち砕き、彼は矢継ぎ早に「不愉快なるニュース」のみを受け取らねばならなかったのであります。

そしてこの年の12月に民政党内閣か倒れ、翌1932年1月、日本車が錦州を占領するに及んで、スティムソンは遂に「談合によって満州問題を解決せんとした予らの企図は失敗に終わった」と告白しております。そうして今度は「満州の平和撹乱者に対して、全世界の道徳的不同意を正式に発表する手段を取り、もし可能ならば日本の改心を要求する圧力となるべき制裁を加える」と決心したのであります。

彼はこの目的のために国際連盟を利用せんとしたのであります。国際連盟は、スティムソンの属する共和党とは反対の政党、すなわち民主党の大統領ウィルソンを生みの親とし、しかも共和党のために勘当を受けたる子供であります。それが今や共和党の国務長官が、自ら勘当した子供を日本制裁の為に働かせようとして、一切の鞭撻と激励とを与えたのであります。

彼は1932年春、カリフォルニアとハワイとの間において、全米国艦隊の大演習を行わしめ、演習終了後もこれを太平洋に止めて日本を威嚇しました。そして一方絶えずロンドンとジュネーヴに圧力を加え、この年3月12日には、連盟総会をして2月18日に独立を宣言した満州国に対し、不承認の決議をなさしめました。それからこの年11月末には、国際連盟はいわゆるリットン報告に基づいて、日本に対して満州を支那に返還せよという宣告を下したのであります。その後この宣告を巡って長い劇的な討論が行われましたが、遂に我が松岡代表が「ヨーロッパやアメリカのある人々は、いま日本を十字架にかけんとしている。それでも日本人の心臓は、恫喝や不当なる抑制の前には鉄石である」と叫んで、日本の決意を世界万国の前に声明したのは、英米に対する宣戦詔勅を渙発した12月8日と、日も月も同じ十年前の12月8日であります。

そして翌1933年2月14日、リットン報告書が遂に連盟総会によって採択されるに及んで、松岡代表は即刻会場を退出し、日本はたちどころに国際連盟を脱退したのであります。国際連盟は言うまでもなく世界旧秩序維持の機関であります。それゆえに我々は、復興亜細亜を本願とすべき日本が、世界の現状すなわちアングロ・サクソンの世界制覇を永久ならしめんとするこのような機構に加わることに、当初より大なる憤りを感じていたのであります。それなのにスティムソンの必死の反日政策が、日本をして国際連盟より脱退せしめる直接の機縁となったことは、これまた歴史の皮肉と申さねばなりません。

 来るべき日が遂に来た

 さてスティムソンは、1932年12月下旬、次期大統領に選ばれたフランクリン・ルーズヴェルトから、外交政策について相談したいからという招待を受け、紐育ハイド・パークのルーズヴェルト邸で、長時間の会談を行いましたが、その後数日を経てルーズヴェルトは、米国の対外政策において両者の意見は完全に一致したことを発表しております。したがって現大統領の東亜政策または対日政策が、スティムソンのそれと同一なるべきことは、すでにこのときより明白であったのであります。

 スティムソン政策の拠って立つところはあくまでも九ヵ国条約及び不戦条約を尊重し、これに違反する行動はすべて不法なる侵略主義と認め、徹底してこれを弾劾するというものであります。したがってこの政策を完全に継承するルーズヴェルトは、今回の支那事変に際しても、当初より日本の行動を不法と断定し、支那の抗戦能力強化を一貫不動の方針として、あらゆる援助を蒋介石に与えてきたのであります。

 このことはルーズヴェルトが、1937年10月5日、シカゴにおいて試みたる最も煽動的な演説の中に、極めて露骨に言明されております。「条約を蹂躙し、人類の本能を無視し、今日のごとき国際的無政府状態を現出せしめ、我らをして孤立や中立をもってしてはこれより脱出し得ざるに至らしめし者に反対する為に、アメリカはあらゆる努力をなさねばならぬ」。

 そしてまさしくこの言明の通り、日米通商条約を廃棄し、軍需資材の対日輸出を禁止し、資金凍結令を発布して、一歩一歩日本の対支作戦継続を不可能ならしめんとすると同時に、蒋政権の抗戦能力を強化する為には、一切の可能なる精神的並びに物質的援助を借しまなかったのであります。日本は、もしアメリカが東亜における新秩序を認めさえすれば、東亜におけるアメリカの権益をできるだけ尊重し、かつアメリカのいわゆる門戸開放主義も、この新秩序と両立し得る範囲内においては十分にこれを許容する意図をもっていたのであります。ところがアメリカは、東亜新秩序建設を目的とする我が国の軍事行動をもって、あくまでも九ヵ国条約・不戦条約に違反する侵略行為とし、頑としてその見解を改めざるのみならず、車亜新秩序はやがて世界新秩序を意味するがゆえに、このような秩序―アングロ・サクソン世界制覇を覆すに至るべき秩序の実現を、その根底において拒否するのであります。

 しかもこれらは決して現大統領の新しき政策にあらず、実にアメリカ伝統の政策であります。すなわちシュワードによって首唱され、マハンによって理論的根拠を与えられ、大ルーズヴェルトによって実行に移された米国東亜侵略の必然の進行であります。この伝統政策あるがゆえに、日米両国の衝突は遂に避くべからざるものであり、今や来るべき日が遂に来たのであります。

 弘安4年、蒙古の大群が多々良浜辺に攻め寄せたとき、日本国民は北条時宗の号令の下、たちどころにこれを撃退しました。いまアメリカが太平洋の彼方より日本を脅威する時、東条内閣は断固膺懲を決意し、緒戦において海戦史上振古未曾有の勝利を得ました。敵、北より来たれば北条、東より来たれば東条、天意か偶然か、めでたきまわり合わせと存じます。熟々考え来れば、ロンドン会議以後の日本は、目に見えぬ何者かに導かれて往くべきところにぐんぐん引っ張られて往くのであります。この偉大なる力、部分部分を見れば小さい利害の衝突、醜い権力の争奪、些々たる意地の張り合いによって目も当てられぬ紛糾を繰り返している日本を、全体として見れば、いつの間にやら国家の根本動向に向かって進ませていくこの偉大なる力は、私の魂に深き敬虔の念を呼び起こします。私はこの偉大なる力を畏れ敬いまするがゆえに、聖戦必勝を信じて疑わぬものであります。





(私論.私見)