「大川聖戦講話2、英国東亜侵略史」 |
(最新見直し2006.1.14日)
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【「大川聖戦講話2、英国東亜侵略史」】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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第1日(昭和十六年十二月二十日放送) 「偉大にして好戦なる国民」 常に実際の利益のために戦う 地中海が商業交通の中心であり、欧羅巴の商権がイタリーの町々とハンザ同盟の手に握られていた頃のイギリスは、欧羅巴の片隅に位ずる弱小なる国家にすぎなかったのであります。それにもかかわらず、アメリカ大陸の発見及び印度航路の発見が、大西洋をもって第二の地中海たらしめるに及んで、運命はイギリスに向かって微笑し始めたのであります。イギリスはこの重大なる歴史の転回期において、一面には群島内部における国家的統一を成就し、他面にはこれまでのフランス侵略政策を棄てて、その国是を海洋並びに海外に対する発展に向け始めたのであります。そしてこれと共にイギリスの地理的特徴が、俄然としてその意義を発揮し来り、世界制覇のための最も有利なる条件となったのであります。 まずイギリスは海によって囲まれた島国でありますがゆえに、外国との直接の軋慄を免れ、欧羅巴大陸諸国のように、重大なる犠牲を国境戦争に払う必要がなかったので、そうして節約された国力を、存分に海上の活躍に用いることが出来ました。そしてその位置は、一面において欧羅巴という選ばれたる大陸に面しており、エルベ河よりセーヌ河に到る大陸の大きい河々は、すべてイギリスに向かって注いでおります。そして他面においても同じく選ばれたる海、大西洋に面し、その著しく発達した海岸線は、この国のために無数の港湾を提供しております。こうしてヴァスコ・ダ・ガマ及びコロンブス以前においては、わずかに欧羅巴の片隅の一歩哨に過ぎなかったこの国が、今や欧羅巴大陸の運命を海洋の上に展開する自然の開拓者となったのであります。 このようなイギリスの地理的特徴が、まず列国に先んじて世界的舞台に活動する機会をイギリスに与えたのでありますが、経験主義・個人主義・功利主義をもってその本質とするイギリスの国民性も、またこの発展に好箇の条件となったのであります。ルーテルの宗教改革は、ローマ教会の束縛から個人を解放したものでありますが、イギリスの徹底した個人主義的国民性は、この宗教改革が生んだ個人解放の成就のための最も都合よき下地となっております。この国民性のためにイギリスは、その他の欧羅巴諸国がなお未だ教会と僧侶との束縛に対して悪戦苦闘している間に、国民としていち早く中世期的権威を破壊し、諸国に先んじて自由にその力を世間的活動に用いたのであります。のみならずあくまでも事実と経験とを重んじる国民性でありますから、エマソンが申しているとおり、常に想像のために戦わずして実際の利益のために戦い、その精力を実際的活動に向かって集注させたのであります。その上イギリスの気候風土が、イギリス人の体力を健全強壮ならしめ、堅忍不抜の意志を鍛錬し、善戦健闘の精神を養成しております。 また彼らにとって甚だ好都合であったことは、ピューリタンの教義が、彼らの世間的勤勉や金儲けに対して、宗教的・道徳的基礎を与えてくれたことであります。単にイギリスとは言わず、すべて北方に国を建てる民は、険悪なる風土と戦って自己の生存を維持し発展させねばなりません。そのためには栄養に富む食物、温暖なる着物、堅牢なる家屋が必要であります。従って営々孜々として利を営むことが、一個の美徳と考えられるようになるのであります。ピューリタンもその通りで、この宗教はその名のように、一面にはイギリス人に克己制欲の生活を要求すると同時に、他面には勤勉と営利の精神を鼓吹したのであります。それゆえにイギリス人は、道徳的義務を遂行する心持ちで金儲けに身を委ねることが出来ました。キリストは、神と黄金とに兼ね仕えることが出来ないと申しましたが、イギリス人は安んじて神と黄金とに兼ね仕えることが出来たのであります。 欧羅巴の最強国を次々と撃破 このようにしてイギリスは、国を挙げて営利に没頭し、その経済的勢力を海外に扶植していったのであります。そしてその勢力圏の驚くべき拡大に伴い、民族としての自尊心と自信も次第に昂まり、限りなき膨張的本能と、これに相応する発展的性質を養い上げて、ついに古代ロー了帝国以来、未だかつて見ない支配民族となったのであります。 今日のイギリス人は、口を開けばイギリスの世界的覇権が平和の間に確立されたかのように主張しますが、それは偽りであります。せ界制覇の志を抱いたのは、決してイギリスのみのことでなく、他の欧羅巴諸国も同然でありましたから、イギリスはこれと死活の戦を戦い通してその目的を遂げたのであります。ただここで注意すべきことは、世界制覇のための戦が、海洋の上でまたは海外において戦われたよりも、むしろ多く欧羅巴大陸において行われたこと、及びイギリスのために戦ったのが、英国自身の軍隊よりは、むしろ戦費をイギリスに仰いだ同盟国の軍隊であったということであります。それからイギリスが常にその敵として戦ったのは、海上並びに海外における最も強く最も恐るべき競争国であり、力弱い競争者に対しては原則として親善なる態度をとり、攻撃の全力を最も強大なる敵国の上に加えてきたのであります。しかも一旦これを撃破してもはや危険ならざる程度に打ちのめした後は、努めてこれと新善なる関係を回復し、来るべき機会にさらに新しき競争国と戦う場合に、かえってこれを自国の同盟者たらしめるようにしたのであります。 近代英国が第一に選んだ相手はスペインでありましたが、一五八八年、これは我が国では羽柴秀吉が太政大臣となって豊臣という苗字を名乗り始めた年であります。この年にイギリスは英国海峡における三日の奮戦によって、見事敵の無敵艦隊を粉砕し、徹底してスペイン制海権を覆し、百年にわたるイベリア国民の優越を没落せしめて、ここにイギリス海上発展の第一の基礎を築いたのであります。 次にイギリスは第二の敵手としてオランダを選びました。その戦いは、オリヴァー・クロムウェルの雄渾なる精神と鉄石の意志からほとばしった一六五一年の航海条例によって、最も無遠慮にオランダに対して挑まれ、一六五二年から一六七四年の間に行われた三度の戦争によって、これまで「海洋の幸福なる所有者」と謳われたオランダは、その優越なる制海権を苦もなくイギリスに奪われてしまったのであります。 オランダを雌伏させたイギリスは、第三の敵手としてフランスを選びました。イギリスは、一六八八年から一八一五年に至る百二十六年のうち、実に六十四年間は戦争をもって終始しております。地球上のいずれの国民も、これほど頻々と戦争に参加したものはありません。この間の数々の戦争は、その本質においてはことごとく欧羅巴大陸並びに植民地におけるイギリスとフランスの争覇戦であります。そしてこの百年を超えた長き英仏争覇戦は、ナポレオンの最後の敗戦によって、遂にイギリスの勝利をもって終わりを告げたのであります。 第四の敵手、ドイツ このような次第でありますから、十九世紀の英国史は、もはや前世紀の歴史とは面目を異にし、欧羅巴列強との争覇戦は終わりを告げ、海上においては世界無敵の覇者となり、植民的発展においては非常なる成功を収めたので、その後ロシアが中央亜細亜からアフガニスタンに迫って印度を脅かすまでは、世界政策においてほとんど無人の野を闊歩する有り様であったのであります。 すなわちこの間にイギリスは、まず印度全部を事実上の領土としております。一八二六年から一八八六年に至る間にビルマを併合しております。印度航路を確実に守るために、一八三九年には紅海の人口のアデンを、一八五七年には同じくペリム島を占領しております。一八四二年には阿片戦争によって香港を支那から奪い、東亜侵略の根城を作っております。地中海では一八七八年、キプロス島をトルコから奪い、太平洋上では豪州全部及びニュージーランドを英国国旗の下に置きました。阿弗利加では次第に領土を南部及び西部に広めました。 そして一八七五年には、実に咄嵯の間にわずかに四千万円をもってエジプトからスエズ運河の株券を買収しております。この運河はフランス人レセップスの不屈不撓の努力によって出来たもので、イギリスは実に悪辣極まる方法をもってその仕事を妨害したのでありますが、一旦竣工するとその実権を自国の手に収めたのであります。そして一八八二年には、エジプトに起こったアラビ・パシャの民族運動による国内不安を口実としてアレキサンドリア港を砲撃し、これを端緒に積極的にエジプト侵略をはじめ、容易にその目的を遂げました。そして最後に南阿弗利加のプール人の両共和国を征服し、ここにイギリス世界帝国の最後の建設を終えたのであります。 それゆえに十九世紀の英国史は、もはや覇権獲得の歴史ではなく、その強化、その確保、その維持の歴史であります。従って一九一四年の世界大戦に至るまで、イギリスはひとたびも決定的戦争を行う必要がなかったのであります。しかしながらイギリスの伝統的政策そのものは、十九世紀においても何らの変更を見るはずはありません。従前と同じく、いやしくも新興国家が俄然頭角を現さんとする場合は、イギリスは直ちに容赦なき一撃をこれに加え、または強硬にこれを脅迫して、その野心を放棄させなければ止まなかったのであります。クリミア戦争及び日露戦争後のロシア、あるいはファショダ事件以後のフランス、みなこの政策の俎板の上にのせられたのであります。そして近代ドイツの勃興が、欧羅巴の勢力均衡を覆し、やがてはイギリス世界幕府の顚覆者たらんとする惧れあるに及んで、イギリスは第四の敵手としてドイツを選び、まずいわゆる包囲政策によってこれを孤立に陥れ、次いで英独争覇戦としての第一次世界大戦となったのでありますが、この戦争においても、イギリスは一旦は勝利を得たのであります。 ドイツに打ち勝ったイギリスは、国際連盟によって戦後の世界を釘付けにし、これによって自己の欲する世界秩序を維持しようと努めました。とりわけボールドウィン内閣の外相イーデンは、国際連盟を強化していわゆる「集団保障」の体制を築き上げるために最も熱心に努力したので、この政策はイーデン外交と呼ばれております。ところが満州事変によって、日本がまず連盟から脱退しました。次いでエチオピア問題が起こった時に、イギリスは国際連盟規約を利用して経済的圧迫をイタリーに加え、大いなる期待をもって集団保障の効力を実地に試してみたのでありますが、御承知のように惨憺たる失敗に終わったのであります。 当時ボールドウィン内閣の蔵相であったチェンバレンはこの実情を見て、一九三六年のある会合において「国際連盟至上主義は、エチオピア問題の経験によってもはや維持されなくなった。重大なる国際間の問題を連盟に託することは、考え直さねばならぬ」という意見を発表しております。それでボールドウィンの後を受けて自分が内閣の首班になりますと、連盟至上主義のイーデン外相を犠牲にし、集団保障制の代わりにいわゆる協和政策を樹立することによって、イギリスの安定を図ろうとしたのであります。 執拗無比の戦闘的精神 協和政策とは、欧羅巴の四大国、すなわち英・仏・独・伊の和解によって、欧羅巴の平和を維持せんとしたものであります。この目的のためにチェンバレンは、あれほど反目していたムッソリーニに親しく手紙を送り、過去は一切水に流して、地中海における二大国として協調したいという希望を述べ、またロンドンデリー侯爵、ロシャン侯爵などをドイツに派遣して、ヒトラーやデーリングと懇談させております。それでイギリスは、ヒトラーがオーストリアを併合した時でも、また、チェコ問題の時でも、ドイツに向かって武力を用いることを避け、世界に固唾を呑ませたミュンヘン会議も、結局イギリスの譲歩によって協定が出来たのみならず、協定調印と同時にヒトラーとチェンバレンの両人が署名して、次のように共同声明をしております。すなわち「英独両国が再び相互に相戦う意志のないことは、先に両国間に成立したる海軍協約、及び今ここに調印を終えたミュンヘン議定書で明白である。我々両人は、英国民もドイツ国民も、両者間の問題はすべて相談によって解決すべく、これが両国民共通の意志であることを声明する」というのであります。 ところがチェンバレンの協和政策は、ヒトラーが一晩の間にチェコの残部を併呑し去るという離れ業を敢えてしたので、脆くも失敗に帰しました。この時以来チェンバレンは、英独両国は断じて両立出来ぬという信念を堅め、ここに対独決戦の覚悟を決めたのであります。そのために唱えられたのがいわゆる平和戦線であります。 平和戦線というのは、武力的に極めて強力なる一個の結合を作り、この強大なる武力結成の前に、侵略国家をしてその野心の実現を断念させようとする仕組みであります。このようにして、イギリスはまず自国軍備の強化に全力を注ぎ、イギリスを中心としてドイツよりも遥かに強力なる武力群を結成してドイツに臨み、可能ならば戦わずしてこれを屈し、やむなくば今度こそ一戦を交える覚悟で進んで来たのであります。 一昨年のこと、北洋漁業がイギリスとの間に、鮭缶詰三千カケースの売買契約が出来たというので、農林省ではこれも貿易振興政策の結果だと吹聴していたことを記憶しておりますが、これは取りも直さず、英独戦争を覚悟しての食糧貯蔵に外ならなかったのであります。事情はこのようであるがゆえに、両国の戦争は避けられない運命であったと申さねばなりません。 今日の英人は好んで平和を□にし、自ら平和の愛好者と称えております。しかしながら、少なくとも過去の英人は、ミルトンが「汝ら偉大にして好戦なる国民よ!」と呼んだように、天国において奴隷たるよりは、地獄において主人たらんと豪語してきた好戦敢為の民であり、かつその世界制覇は、執拗無比の戦闘的精神によって成就され、現に必死の力をふるってこれを守ろうとしているのであります。それでもイギリスが、ドイツと共に日本を敵とするに至ったことは、その運命の尽きる日が到来したことであります。イギリスの運命尽きることは、世界が解放されること、とくに亜細亜が解放されることであります。以上、私はイギリス世界制覇の経路を述べ終わり、明朝よりその東亜侵略の跡を辿ろうと存じます。 |
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第二日(昭和十六年十二月二十1日放送) 東印度会社 インドを失えば「第三等国」 イギリス帝国主義の権化ともいうべきカーゾン郷は、その著『ペルシア問題』の中で、もし英国が一朝印度を失うならば、断じて世界帝国の地位を保つことが出来ないと明言しております。また、ホーマー・リーという極めて特色あるアメリカの一軍人は『アングロ・サクソンの世』と題する著書の中で、「イギリスが印度を喪うということは、英国の領土内に、アングロ・サクソンのあらゆる血と火と鉄とをもってするも、到底破れたる内端を接ぎ合わせることの出来ぬ一大破綻の発生を意味する」と申しております。また、今一人のスナサレフという人は、『印度』という著書の中で「もしこの不幸蒙昧たる印度のために、自山の勝利を告げる鐘が鳴るならば、その次の瞬間に、歴史の時計は海の女王の死を世界に告げることであろう。そしてイギリスは、わずかに本店をロンドンに有する一個の世界銀行となってしまうであろう」と申しております。まことにこれらの人々の申す通りで、もしイギリスが印度を失えば、明日から第三等国となるのであります。 印度が英国にとってそれほど大切な意義を有するのは、単に無限の天産物と無数の人口を擁しているからではありません。印度は実に、イギリス資本のこの上もない投資の場所であり、志あるイギリス青年の立身出世の舞台であり、英国商品の無二の市場であり、莫大なる商業の中心であり、重要なる海上の連絡点であり、軍隊の註屯所であり、最も必要なる海軍根拠地であります。イギリス人の中には、かつてはシェークスピアを失うよりはむしろ印度を失わんと申した人もありましたが、そのような時代はもはや過ぎ去り、今日のイギリスは、百人のシェークスピアを失っても決して印度は失ってならぬと苦心しているのであります。 十九世紀前半以来、英国外交の根本政策は印度保有の一事に存し、イギリスは第一に、いかにしてイギリスより印度に至る海路または陸路、可能ならば海陸両路の支配権を確保すべきか、第二にいかにして印度自身を防衛すべきかということに、その全心全力を注いで来たのであります。 しかしながら、イギリスは決して、当初から印度の重要性を明らかに認識して、印度征服を企てたのではありません。イギリス人が初めて印度を目指して来たのは、簡単明瞭に金儲けのためであったのであります。印度航路を初めて開いたのは、ポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマでありますから、莫大に利益ある東洋貿易は、ほとんど百年の間、ポルトガルの独占であったのです。ポルトガルは第一に、当時欧羅巴の精神的君主だったローマ法王から、東洋に対する政治的・経済的・宗数的な絶対優越権を与えられていたのみならず、もし他国がこの独占権を脅す場合は、武力をもってこれを倒すだけの海軍をもっていたのであります。ところで、イギリスは、エリザベス女王の時代には、もはやカトリック教を棄てて新教に帰依していたので、ローマ法王に遠慮する必要がなくなった上に、海軍も次第に強大となって、一五八八年には、スペイン無敵艦隊を撃破するまでに至ったのであります。 大英帝国の基礎を築いた海賊たち このイギリス海軍の基礎を築き上げたのは、ジョン・ホーキンスやフランシス・ドレークのような、大胆勇敢なる海賊すなわちヒーロー・バッカニーァであります。イギリスの海賊は十五世紀頃から音に聞こえておりましたが、十六世紀になりますとますます盛んになったのみならず、掠奪の相手はスペインやポルトガルの船でありましたから、海賊的行為は愛国的行為となり、イギリスの船長は数門の大砲を備えた船に乗って、東洋貨物を満載したポルトガル船や金銀を満載してアメリカから帰るスペイン船を掠奪することを公然の商売としていたのであります。世の中にこれほど儲かる商売はなかったのであります。 例えば、ただいま申し上げたホーキンスはプリマスの舟乗りの悴でありましたが、スペイン領アメリカヘの第一回航海によって、一躍プリマス第一の富豪となり、第二回航海から帰って実にイギリス第一の富豪となったと言われております。フランシス・ドレークも、一五七七年にイギリスを出帆し、行く先々で強盗を働きながら、世界を一周して一五八〇年にイギリスに帰り着いたのでありますが、その途々掠奪してきた貨物の価は実に約二億フランに達しかと言われております。 エリザベス女王も、ドレークから少なからぬ分け前を貰って、大いに喜んでおります。この話がスペインに伝わると、スペイン王は非常に憤慨して、ロンドン駐在スペイン公使をして厳重なる抗議を提出させました。するとエリザベス女王は、スペイン公使をドレークの船の甲板に連れて行って、厳然としてドレークに向かい、スペイン人は汝を海賊だと申すぞと叱りつけ、それから甲板の上に披を跪かせ、悠然とナイトの爵位を賜わる時の接吻を彼に与えて、「いざ起て、サー・フランシスよ」と申したことは、名高い話であります。すなわち女王は海賊である平民フランシスを、サー・フランシスに取り立てたのであります。 このような次第で、イギリス人はスペイン勢力の没落以前から、ポルトガルの独占を犯して東洋貿易に参加しようと苦心してきたのでありますが、一五八八年にスペイン無敵艦隊が、ホーキンス、ドレーク等の海賊を中心とするイギリス艦隊のために撃滅されたので、印度航路上の最大の障害物がなくなったのみならず、東洋発展において一歩イギリスに先んじたオランダが、スペイン、ポルトガルに代わって東洋貿易の新しき独占者たらんとする形勢があるので、一群のロンドン商人が結束して、一五九九年の十二月三十一日、資本金わずかに六十八万ポンドをもって、東印度会社を組織し、エリザベス女王から「喜望峰よりマゼラン海峡に至る国々島々と、向こう十五年間自由にかつ独占的に通商貿易を営むことを得る」という特許状を与えられ、翌一六〇〇年―この年は日本では天下分け目の関ケ原合戦が戦われた年ですーから直ちに活動を開始したのであります。この小さい会社が、後にイギリスのために「王冠に輝く燦たる宝玉」と讃えられる印度を征服し去ろうとは、当時は何人も考えなかったことであります。 印度両海岸に根拠地を置く さてイギリス東印度会社は、同じく東洋貿易を目的として一六〇二年に創立されたオランダ東印度会社と相並んで、まず東洋に残存していたポルトガル勢力と戦わなければならなかったのでありますが、一時あれほど多くの英雄を輩出せしめ、あれほど盛大を極めたポルトガルも一旦下り坂になると国力にわかに衰え、到底新興両商業国すなわちイギリス、オランダの敵でなく、十年ならずして勝敗の数は早くも決してしまったのであります。そしてポルトガル勢力敗退後は、必然新興両国自身の間に激しき競争が行われました。 当時一番有利であった東洋貨物は丁子・ニクズクなどの香料でありましたが、その主たる産地は香料群島すなわち南洋諸島であります。それゆえに両国とも、印度本土を第二にして、まずマレー群島の争奪に鎬を削り、この貴重なる香料産地を独占せんとしました。 ところでオランダ東印度会社は、その資本はイギリスの会社の倍額であり、しかも国家の強力なる後援があったので、この角逐において苦もなくイギリスを圧倒し、南洋諸島の主人公となったのであります。イギリスは島々から遂われたので、心ならずも印度本土を活動の舞台とせねばならなくなったのでありますが、この事が他日かえってイギリスの幸いになろうとは、当時何人も夢想せぬところであったろうと思います。 イギリスはまず印度の西海岸において、有力なるポルトガル艦隊を撃破して、一六一二年にスラートに商館を置き、印度本土における最初の根拠地を置きました。一六二〇年にはペルシア国王と相結んで、ポルトガルの東洋における最も重要なる根拠地、ペルシア湾頭のオルムスをペルシアのためにポルトガルから奪回し、その報償としてオルムスに城塞を築くことを許され、またこの同じ年に、コロマンデル海岸のマドラスを土人君主から買収し、ここにも城塞を築いて、印度東海岸に最初の根拠地を置きました。その後一六六八年に、イギリス国王チャールズニ世から、一年わずか十ポンドの地代で、東印度会社はボンベイを借り受けたのであります。 ボンベイはこの時より約八十年前に、ポルトガル人が開いた印度第一の良港であります。一六六一年、ポルトガル王女がチャールズニ世の妃となった時、ポルトガル国王が王女の化粧料としてこれをイギリス国王に贈ったもので、ポルトガル王は当時のゴア総督が「英人がボンベイに腰を据えるその日に、ポルトガルは印度を失うであろう」と切諌したのも聴かず、遂にこれをイギリス王に進上したのであります。ところが国王は、色々な事情からその維持に困り、これを会社に貸し下げたのであります。爾来ボンベイは次第に栄え、一六八七年以後はスラートに代わって印度西海岸における英国貿易の中心となり、もって今日に及んでおります。 また一六九〇年には、ベンガルのフーグリ河畔に、今日のカルカッタとなるべき基礎も置かれ、その他にも印度の東西両海岸に幾多の貿易拠点が置かれました。一六六〇年より一六九〇年に至る三十年間は、東印度会社の黄金時代で、毎年の平均配当率は二割五分強に達しております。 巨万の富を独占した会社 マコーレーはその流麗なる筆をふるって、当時の事情をこう書いております。「会社はチャールズニ世の大部分の間、この印度館で莫大の富を得た。商業史は、このような巨万の富が堂々と流れ込んだ例を他に見出さず、ロンドン市民は、驚きと貪欲と嫉妬に充ちた憎悪に興奮していた。富と豪奢とは急激に増加した。東洋産の香料・織物・宝石などに対する嗜好が日増しに強烈になった。 モンク将軍がスコットランド兵をロンドンに送った頃は、茶は支那の非常なる珍品として持て囃され、極めて少量を唇で舐めて珍重したものであるが、八年後にはこれが規則的に輸入され、間もなく大蔵省が好ましき課税の対象の一つとしたほど多量に消費され始めた。 王政復古以前、イギリスの船舶は、未だ一隻もテームズ河畔からガンジス河のデルタを訪れたことは無かった。ところが王政復古に続く僅々二十三年間に、この富裕にして人口多き印度からの輸入年額は、八千ポンドから三万ポンドに増大した。このように急激に膨張せる貿易を、一手に独占していたその頃の東印度会社の利益は、ほとんど真実と思われないほど莫大であった。 この印度貿易による莫大なる利益が、もし多数の株主の間に分配されていたならば、何の不平も起こらなかったかも知れない。ところが実際は、株券の値段が上ると同時に、株主の数は漸次減少していった。会社の富が最高度に達した時、その経営は極めて少数の富豪の手に握られた」。 このように東印度会社は最も有利なる東洋貿易を独占し、しかもその無限の利益は極めて少数なる大株主の壟断するところとなったのでありますから、イギリスの世論は次第に沸騰し、会社の特権を取り消せという声が当然高まってきました。東印度会社は、この攻撃に対して、莫大なる黄金をもって戦っております。これもマコーレーの言葉を借りて申せば「宮廷において会社のためになりそうな者、または害になりそうなすべての者、すなわち大臣、女官、僧侶の果てに至るまで、カシミア・ショール、絹織物、薔薇香水、ダイヤモンド、金貨の袋が贈られた。この思い切った賄賂は、間もなく豊かな利益をのせて帰ってきた」。 豊かな利益というのは、国王をはじめ、政府の高官や会社攻撃者に莫大の賄賂を贈ったお蔭で、世論の激しき反対にかかわらず、スチュアート家の王様たち、すなわちチャールズニ世・ジェームズニ世から特許状を更新して貰い、独占期限を延ばすことを得たという意味であります。この賄賂の好きなチャールズニ世とジェームズニ世は兄弟でありましたが、その頃のイギリス人は「兄チャールズは物を理解しようと思えば理解することが出来る、ただし弟ジェームズの方は理解することが出来ても理解するを欲しない」と取り沙汰していたのでありますが、そのジェームズニ世が遂に民心を失い、一六八八年のいわゆる名誉革命によってスチュアート家が没落することになったので、東印度会社はここに有力なる味方を失い、イギリスの議会と直接対峙せねばならなくなったのであります。 ここで東印度会社の反対者はホイッグ党と提携して会社を倒すに決し、まず議会をして東印度会社に加えられる数々の非難について調査会を開かせることに到しましたが、調査の結果、会社は新しい特許状を得るために、政府や攻撃者に八十万ポンドの賄賂を贈ったこと、一六八八年から一六九四年に至る六年間に百七万ポンドの大金が不当に費消されていることが暴露され、一六九五年には多数の重役が獄に投ぜられております。 このような次第で会社に対する非難は段々と高まり、一六九七年には印度絹の輸入によって大打撃を蒙ったロンドン絹織業者が、先頭に立って会社攻撃をはじめ、市民は彼らの宣伝に激して市中諸処に集合し、東印度会社の建物を襲撃し、その貨物を掠奪せんと騒ぐまでになりました。 会社は日々激しくなる攻撃に対する策戦として、当時政府がフランスとの戦争のために財政困難に陥っていたのに乗じ、印度貿易独占権確保を条件とし、四分利で七十万ポンドの国債に応ずることを提議しました。すると会社の反対者はホイッグ党と相結び、三分利にて二百万ポンドの国債に応じ、これによって印度の貿易独占権を奪おうと努め、結局一六九八年の議会はこれらの人々に新しき印度会社の設立を許可したのであります。そこで、印度貿易のために二つの会社が出来て、激しい競争を始めたので、英国王室及び議会は、こうした状態を放置していては、結局競争国の乗ずるところとなることを悟り、一七〇二年、遂に両会社に合同を命ずるに至りました。もっとも合同後にも内部に新旧両派の対立が続きましたが、一七〇八年にゴルドフィン伯爵の調停によって、はじめて両派の十分なる和解を見、名実共に一個の会社として活動することになったのであります。東印度会社の印度における真箇の活躍は、実にこの時から始まるのであります。 |
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第三日(昭和十六年十二月二十二日放送) 印度征服の立役者R・クライヴ ムガール帝国 イギリス人が純然たる金儲けのために初めて印度に渡って来たころは、印度ではムガール帝国の盛んな時でありました。この帝国はムガールすなわち蒙古人の帝国と呼ばれておりますけれど、その建国者バーバルは英雄タメルランの血を引いたトルコ人であります。もとは中央亜細亜の小国の君主にすぎなかったのでありますが、まずアフガニスタンを征服し、次いで印度に攻め入り、一五二六年には北印度全部を統一してムガール帝国の礎を置いたのであります。 彼は限りなき興味と教訓とに満ちたる自叙伝を書き残しておりますが、実に驚くべき天才で、欧羅巴の歴史家でさえも「古今東西の歴史において、バーバル皇帝よりも聡明で、魅力に富み、また好愛すべき君主はほとんどない」と言っております。その孫のアクバル大帝は、ほとんどイギリスのエリザベス女王と時を同じくし、五十年の長きにわたって印度に君臨し、これに国家的統一と組織とを与えております。 アクバル大帝以前のトルコ人または蒙古人の印度支配は、要するに一種の軍事的占領にすぎなかったのでありますが、アクバルは、これを強大なる帝国としてその子ジャハーンギールに伝え、ジャハーンギールに次いでアウラングゼブが帝位を継いだのであります。ジャハーンギールの即位は一六〇五年で、アウラングゼブが死んだのは一七〇七年でありますから、私が昨日述べたイギリス東印度会社の前半期の活動は、取りも直さずこの二人の皇帝がムガール帝国に君臨していた時代であります。 イギリスの東洋進出は、その初めにおいては征服のために非ず、占領のために非ず、専ら貿易のためであったことは、度々繰り返した通りでありますが、東印度会社が印度と商売をはしめたころは、ちょうどムガール帝国の盛時に当たり、少なくとも北印度は政治的に統一され、平和の間に商売を営むのに好都合の時代でありましたので、東印度会社は印度で戦争をしようなどとは夢にも想っていなかったのであります。ところが、アウラングゼブ皇帝の治世後半から帝国の礎とみに揺らぎ、それまで従順であった諸藩王国が次第にデリー政府の統制に服さなくなったのであります。 ヴィンセント・スミスは、アウラングゼブの人となりを説明してこう書いております。 「彼は高邁なる知力の人であり、その文章が示すごとく燦然たる文筆の人であり、巧妙なる外交家であり、恐怖を知らぬ勇士であり、公平仁慈なる裁判官であり、練達なる行政家であり、その日常生活においては最も厳粛敬虔なる修道士であったが、それにもかかわらずその政治は遂に失敗であった」。 そしてその失敗の最大原因は、回教徒としての彼の信仰が、余りに熱烈であったからであります。彼以前のムガール君主は、宗教に対して極めて寛大でありましたが、アウラングゼブはその寛容政策を一擲して、回教を広めるために、従って異教徒を亡ぼすために、一切の非難、一切の抵抗、一切の政治的不利益を無視して全力を注ぎ、そのためにムガール帝国の最も勇敢なる護衛であったラージプト人を離反させ、南印度におけるマラーター人の魂に民族的憎悪の炎を燃え立たせたので、帝国の秩序はにわかに紊れはじめ、民は塗炭の苫を嘗めるようになったのであります。 この混沌はアウラングゼブの死後、急速に激成されていきました。そこで印度会社は今までのように平和の間に商売が出来なくなり、貿易を支持するために兵力を用いるに決し、一六八六年に最初の印度遠征軍派遣をみましたが、この時はアウラングゼブ皇帝時代のこととはいえ、遠征軍は散々な目に遭い、一六九〇年、ムガール皇帝に十七万ポンドの償金を出し、その上「将来このような恥ずべき行為を繰り返さぬ」という約束の下に再び通商を許されたのであります。 英仏植民地争奪の舞台に このイギリスの印度遠征軍は、十二門または十七門の大砲を具えた軍艦十隻、歩兵六百から成る小規模のものでありましたが、その目的だけは恐ろしく大規模であったのであります。すなわち印度の西海岸では、土民の船艦を捕獲してムガール帝国に宣戦する。東海岸では海上における一切のムガール船艦を拿捕し、ベンガル湾の北東隅にあるチッタゴンを占領し、ガンジス河を溯ってベンガル国の首府ダッカに至り、藩王との間に武力をもって強制して条約を結ぶというのであります。 これはイギリスと印度とがいかに遠距離であるか、印度の勢力はいかはどのものであるかについて全く無知であったから立てられた笑うべき計算であります。当時のムガール帝国は、衰えたりとはいえなお十万の大軍を擁し、ベンガル藩王でさえも直ちに四万の兵を動員し得たのでありますから、六百や千人のイギリス兵では、歯の立ちようがなかったのであります。 ただ、この時印度におけるイギリスの没落を救ったのは、その有力なる海上権で、英国軍艦が西海岸の一切の船舶を捕獲した上、艦隊を紅海及びペルシア湾に出動させて、印度とメッカの間を往復する回教徒の巡礼船を捕獲させたので、ムガール皇帝もようやく和意を生じたのであります。 これより先、フランスもまた諸国に遅れて印度に進出しております。種々の失敗を重ねた後、フランスでも印度会社と呼ぶ大きい団体が、ルイ十四世の保護の下に一六六四年に形成され、一六七四年に印度東海岸のポンディシェリ、一六八八年にはカルカッタ付近のチャンデルナガールに根拠地を築き、その他東及び西海岸の諸処に商館を置いて活動をはじめました。そして印度の政治的混沌に乗じ、互いに反目する諸藩王を争わせて漁夫の利を占めながら、次第に勢力を扶植していったので、勢いイギリスとの衝突を免れぬこととなりました。 そうしている間に欧羅巴では、スペイン王位相続を導因として英仏両国が相戦うことになったので、一七四四年以来、戦争はひいては印度にも及び、ここに印度は明白に英仏両国民の植民的覇権争奪の舞台となり、この世紀の初めより次第に政治的性質を帯びて来たイギリス東印度会社は、今や著しくその色彩を濃くするに至ったのであります。 印度における英仏両国の角逐は多年にわたり、互いに勝敗あったのでありますが、初めの間は勇敢大胆なるフランスの指揮者デュプレークス及びラ・ブールドネ等の武断政策が、着々効を奏して、イギリスの地位は次第に不利となり、一七五三年にはイギリス東印度会社より本国政府に干渉を請うて、その結果一時休戦を見るに至りました。それから一七五六年には、イギリス勢力の衰えに乗じ、以前から英人の無遠慮なる進出を恨んでいたベンガル藩王スラージャ・ウッダウラがカルカッタを襲撃し、百四十六人のイギリス人を小さい部屋に閉じ籠めて、遂に悉くこれを窒息させた、いわゆるブラック・ホールの悲劇があり、イギリスの形勢日に非ならんとしたのであります。 三十二歳の陸軍中佐 このような時に当たり、形勢を一変してイギリスの地位を回復したのは、実にクライヴの機略と勇気とであります。イギリスはスラージャ・ウッダウラの襲撃に対抗するため、ワトソン提督に二千四百の兵を与え、マドラスからベンガルに艦隊を派遣したのでありましたが、この遠征隊の中に当年三十二歳の陸軍中佐、ロバートー・クライヴが加わっていたのであります。 東印度会社の重役達は、艦隊派遣はもともとベンガル藩王の膺懲が目的でなく、会社が営業を始められる状態に復帰すればそれで満足なのでありますから、藩王から和平を申し入れると、直ぐさまこれに応じて停戦状態に入ったのであります。ところが藩王は故意に交渉を長びかせ、その間にいろいろな権謀術策を用いて有利に問題を解決しようとしましたので、クライヴの方でも負けず劣らず陰謀をめぐらしました。 披はその放った間諜によって、藩王の周囲には、機会あらば自ら取って代わらんと謀叛を企んでいる者があり、その中で最も有力なのは藩王の総軍司令官ミル・ジャファールであることを知り、一方で藩王と和平交渉を続けながら、他方でこのミル・ジャファールを籠絡して、彼を助けてベンガル藩王とする計測を進めていきました。そして準備が出来ると、藩王に向かって英国の堪忍袋の緒はもはや切れたから、諸種の懸案を即刻解決したいと申し込んだのであります。 藩王はクライヴの言葉の意味を直覚し、彼の挑戦に応ずるため急ぎ軍隊を集結し、歩兵五万、騎兵一万四千、大砲五十門を具えた上、フランスからの援軍を得て、イギリスとの一戦を覚悟しました。この時クライヴの兵はわずかに二千四百でありましたが、彼はミル・ジャファールと打ち合わせ、適当な時機に藩王に叛いて部下と共にイギリス軍に投降させる手筈を整え、安心して行軍を開始したのであります。 いまや両軍はプラッシーの野に対陣し、戦火を開くばかりになりましたが、ミル・ジャファールは約束に背いて定められた時刻に行動を起こさなかったのであります。そこでイギリスは二千四百の寡兵で六万五千の大敵と雌雄を決せねばならぬこととなったので、イギリス側の軍事会議は甚だしく絶望的な空気に包まれ、みな激しくクライヴを非難して、いかなることがあってもこの無謀なる会戦は避けねばならぬと主張したのであります。 クライヴは黙々として彼らの喧々囂々たる議論を聞いていましたが、やがてすっくと立ち上がり、「一時間後に何を為すかを言ってやる」と言ったまま、大本の下にいって横臥していました。そしてまさに一時間の後に「戦争だ! 明日すなわち一七五七年七月二十日、我らは印度軍に向かって進撃する」と命令したのであります。 そして灼けつく熟さの中を行軍して、印度軍を距る一マイルの森の中にその日は野営を張り、翌日黎明から激しい会戦を始めたのでありますが、必死の英軍の前にベンガル軍は次第に旗色悪くなり、遂に応戦の手を弛めて退却に移り出した時、初めてミル・ジャファールが動き出し、ここに勝敗は忽ち決し、藩王は都を棄てて亡命したのであります。 クライヴはミル・ジャファールの臆病な行為などは素知らぬ顔をして彼をベンガル藩王の位につかせ、たちどころに銀貨で八十万ポンドの賠償金を英国側に支払わせた上、自分自身も三十万ポンドに相当する金銀宝玉をこの新しきベンガル王からせしめて引き上げたのであります。すると前藩王の一族の一人が、ミル・ジャファール征伐の軍を起こしてデリーから追撃して来たので、クライヴは軍を回して敵軍を走らせ、ミル・ジャファールの危機を救った報酬として三十万ポンドの年金を終身彼に与える約束をさせました。 さてこの時、イギリスと角逐していたオランダがカルカッタ占領を企てて、軍艦七隻に一万五千の大兵をのせフーグリ河口に押し寄せたのであります。ミル・ジャファールはクライヴが煙たくもあるし三十万ポンドの金も支払いたくないので、密かにオランダ人を煽動して、ベンガルにおけるイギリス人の根拠を覆そうとしたのでありますが、この時もクライヴは機先を制してオランダ艦隊を襲撃し、遂にこれを降したのであります。この時の戦いに、一弾来ってクライヴの帽子を貫きましたが、クライヴは帽子を脱いで弾痕を見ながら冷然として「この帽子はまだ役に立つ」と言い、再びこれを頭にのせ、剣を抜いて敵艦隊の中に小船を乗り込ませたことは有名な話であります。 戦い終わってクライヴはミル・ジャファールに会いましたが、オランダとのことなどは口にも出さず、丁寧に外交辞令を取り交わして引き上げたのであります。それはミル・ジャファールがもはや完全に英国の手中に落ちたのでありますから、釈明を求めることもこれを叱責する必要も無くなったからであります。実にクライヴの外交術策と武力行動とが一挙にして印度の東北一帯をイギリスの勢力範囲とし、会社の中心をマドラスからカルカッタに移させることになったのであります。そして一七六五年には、当時の一中佐クライヴがベンガル総督兼軍司令官として印度に来て、在職一年半の間にベンガル、オリッサ、ビハール三国―実にフランスよりも大きい地域を事実上、イギリスの領土としたのであります。 「印度統治法」の制定 ところで会社の印度統治は、土民に対して甚だしく過酷無理解であったので、到るところ土民の反抗を激成し、諸処に叛乱の勃発を見るに至りましたが、イギリスはその都度これを鎮圧して領土を広めていきました。ただし連年の戦争のために莫大なる戦費を必要としたので、たとえ貿易で儲けたとはいえ、会社の財政は次第に困難に陥り、その上、会社の印度政策が議会において激しく非難の的となったので、ウィリアム・ピットの内閣において、東印度会社を完全に本国政府の監督下に置く、いわゆるピットの印度法が制定され、印度事務の最高管理は会社の手を離れ、最初貿易を目的として始められた仕事が、今や貿易と関係なき人々の管理に帰し、会社は全く政治的性質を帯びるに至りました。これは一七八四年のことであります。 このように政府と会社とが相並んで印度に臨んだ時代を「二重統治」の時代と申しますが、イギリスが印度に対する積極的侵略を断行したのはこの時代のことで、一七九八年、ウェルズリが印度総督になった時から始まり、次いでヘスティングスがこれを遂行し、最後にダルハウジ総督によって狂熱的に行われたのであります。 一八五七年、この年は井伊掃部頭が大老となった年でありますが、この年六月二十三日、ロンドンではプラッシー会戦百年記念祭が行われ、人々が荐りにクライヴの勲功を讃えていたその時に、イギリスの圧迫に堪えかねた印度土人軍隊が起って叛乱を起こしました。この未曾有の凶報が数日後ロンドンに達した時の朝野の驚きは大変であったのです。叛乱はほとんどガンジス河の全流域に波及し、英国の印度支配は覆されるかに見えましたが、東印度会社から年金を受けていた印度の王侯貴族がこれに加わらず、その他の上層階級もまた立ち上がらなかったので、半年の後に徹底的に鎮圧されてしまいました。 ただし、この動乱は二重統治の不備を遺憾なく暴露したので、翌一八五八年の「印度統治法」により、印度統治の大権はすべてイギリス国王の手に移り、一八七三年、東印度会社は解散し、次いで一八七六年、イギリス女王ヴィクトリアが印度皇帝の位につき、ここに印度帝国の建設を終わったのであります。 |
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第四日(昭和十六年十二月二十三日放送) イギリス人歴史家の記録 いかに印度は虐げられたか 英国の印度征服史上に、クライヴと相並んでその名を謳われるウォレン・ヘスティングスは、もと東印度会社の一書記で、一七七一年、三十九歳でベンガル知事となり、一七八五年には印度総督となって、昨日申し上げた二重統治時代に、最も辣腕をふるった人物でありますが、私は披がいかに残酷なる手段によって印度を虐げたかについて、二、三の例を紹介したいと存じます。 私はイギリスを憎む印度人やドイツ人の書物によってではなく、イギリス自身の歴史家の著書に拠って申し上げるのでありますから、何らの誇張もないということを承知して頂きます。その歴史家とはすでに引用したマコーレーであります。マコーレーはたとえ偉大なる歴史家でないとしても、少なくとも偉大なる歴史文学者であり、その上、一八三四年に印度最高会議の法律顧問となり、四年間印度で勤務して、ヘスティングスの行動を現地で見聞した人であります。 さて、この二重統治時代において、イギリス本国は印度総督にいかなる命令を与えていたかと申しますと、「統治は正義と温情を旨とせよ。ただし金を送れ、もっと送れ、もっともっと送れ」ということであったのです。従ってヘスティングスも絶えず同様の命令に接したのであります。 これは実際においては全く矛盾した注文で、マコーレーが言ったように「汝は同時に印度人の父となり、また腐敗に導く誘惑者となれ、汝は正義であると同時に非道であれ」というのと同じ事であります。ヘスティングスも印度人の慈父になりたかったかも知れませんが、ロンドンから金だ金だと激しく催促してくるので、これにも応じなければなりません。 印度総督の暴虐―二つの例 このロンドンからの催促を満足させるために彼がとった方法の一つは、ウードの一藩王スジャー・ウッダウラに向かい「イギリスの軍隊を貸すから隣接ロヒラ人の国ロヒカンドを占領せよ、その代償として四十万ポンドを提供せよ」とそそのかし、遂にスジャー・ワッダウラをして、何らの理由もないのにロヒカンドに攻め入らせたことであります。 この事についてマコーレーは下のように書いております。 「ロヒラ戦争の目的は、他国人に対して毛頭侮辱を加えた事のない善良な人々から、その善き政治を奪い、その意志に背いて厭うべき虐政を押し付けるということであった。……ロヒラ人は平和を望んで哀訴嘆願し、巨額の金を積んでひたすら戦争を避けようとしたが、すべては無効であった。彼らには徹底的抗戦の外にいかなる方法もなかった。血腥い戦争がこうして起こった。印度において最も善良で最も立派であった国民は、貪欲・無知・残虐無類なる暴君の手に委ねられ、スジヤー・ウッダウラの貪欲をそそったあれほど豊かなこの国は、今や惨めな国の中でも最も貧乏な地方と成り下がった」。 このロヒラ戦争は本国でも囂々たる非難の的となり、政府はヘスティングスに向かって顧問会議を開くよう命令しました。ところが顧問会議の議員は過半彼の敵であったのに加えて、当時印度人が非常に尊敬していた名高きバラモン僧ナンダクマールが「ヘスティングスは官職を売り、かつ罪人から収賄してこれを無罪放免した」という告訴状をこの顧問会議に提出したのであります。ヘスティングスは形勢の不利なるを見て、まずナンダクマールが、六年前に他人の筆蹟を偽造したという廉でこれを告訴し、カルカッタ最高法院の裁判長でヘスティングスの親友なるイムビーが、これに死刑の宣告を下したのであります。 マコーレーはこの時の死刑の実状を下のように伝えております。「翌日未明に、絞首台の周囲に無数の人々が集まって来た。すべてが苦悩と恐怖の表情を浮べていた。彼らは最後の瞬間まで、いかにイギリス人でもこの偉大なる婆羅門僧を殺すのでなかろう、殺しはしまいと信じたかったのである。 遂に悲壮な行列が群衆の中を進んで来た。ナンダクマールは輿の中に端座し、擾されぬ心の平静を示す眼差しであたりを見廻した。それは近親の者への告別である。近親者の泪と、思い惑えるように見えるその振る舞いは、流石の欧羅巴人の顔色を蒼ざめさせた。この告別は囚人の水のごとき冷静と対比して、強い印象を与えた。 会議の友人たちに宜しくと言い残して、彼はしっかりした足取りで刑台に上り、絞首台に向かって合図した。揺れたる彼の身体を見た無数の人々は、一斉に大きな叫喚を上げた。人々はこの惨ましき有り様を見て、泣き叫びながらフーグリ河指して走り行き、その河水に浴して穢れを潔めようとした」。実に憐れな話であります。 いま一つの例は、ヘスティングスがこれまた金を絞り取るためにウード国の一女王に加えた暴虐であります。彼は英国兵の一隊を派遣して王宮の門を占領し、女王を捉えて一室に幽閉したが、それでも財宝を提供することを肯んじなかったので、女王に忠実であり女王が最も親愛していた二人の老人を捕え、これを檻の内に投げ込み、死なんばかりに飢えさせた上、弱りきった両人をルクノーに護送して拷問にかけたのであります。こうして女王の心を痛ましめようというのであります。ここでまたマコーレーの言葉を引用致します。 「ルクノーで野蛮なる行為が行われている一方、女王はますます厳重に禁錮された。食物の差し入れはほんの一口か二口にすぎないから、二人の腰元は飢えて死んだ。あらゆる脅迫を行い尽くし、もはやいかなる手段も種切れとなった後、ようやく総督は彼女から百二十万ポンドを絞り上げた。ルクノーの二老人も初めて釈放された」。しかもこのような行為は、決してヘスティングスのみのことでなく、彼の後を継いで総督となったダルハウジも同様であったのであります。ダルハウジについては同じくイギリスの名高き歴史家シーレーが、いかに「横暴を極めた方法」で侵略を行ったか、「到底是認し難き数々の行為を敢えてしたか」を物語っております。 印度人同士を反目させて「漁夫の利」を得る 印度とイギリスとは波濤万里を隔てております。印度の民衆は爾く多数であります。従ってイギリスの印度征服は不可能とも考えられます。実際、もしイギリスが武力だけで印度を征服しようとしたならば、おそらく不可能であったろうと思われます。 しかしながらイギリスは、決して武力にのみ頼って印度を征服したのでありません。辛辣なる権謀術策を用いて、印度をその単純なる人民から奪い取ったものであります。イギリスは印度教徒と回教徒とを反目させ、藩王と藩王とを敵対させ、ジャット人とラージプト人を戦わしめ、そのジャット人・ラージプト人とマラーター人とを戦わしめ、ブンデラ人とロヒラ人とを争わしめたのであります。 さて、ムガール帝国廃類以後の印度諸藩王の政治はもとより善政でありませんでしたが、それでもなお東印度会社の統治より優っていたことは、ジェームス・ミルの『英領印度史』が正直にこれを認めております。このイギリス人の虐政に対する抑え難き悪態が、一八五七年の印度兵叛乱でありますが、この叛乱中、並びに叛乱鎮定後におけるイギリス人の残忍酷薄は、世間の人が多く知らないところで、しかも彼らの印度に対する態度を最も赤裸々に暴露したものでありますから、二、三の例を、これもイギリス人の著書のうちから紹介しておきます。第一はケー・A・マレソンの『印度叛乱史』第二巻の一節であります。 「我が軍の将校はすでに各種の罪人を捕え、あたかも獣を居るがごとくこれ を絞刑に処していた。絞首台は列をなして建てられ、老者・壮者は言語に絶する残酷なる方法をもって絞首された。ある時のごときは、児童等が無邪気に叛兵の用いし旗を押し立て、太鼓を打ちながら遊んでいるのを捕えて、ことごとくこれに死刑の宣告を与えた。裁判官の一人なりし将校は、これを見て長官の許に赴き、流涙してこれらの罪なき児童に加えられたる極刑を軽減せられんことを嘆願したが、遂に聴かれなかった」。 「印度農民以上に悲惨なるものはない」 次はベルの『印度叛乱』第一巻の一節であります。「予は面白い旅をした。我らは一門の大砲をのせたる汽船に乗り込み、左右両岸に発砲しつつ航行した。叛乱のあったところに着くと、船から上陸して盛んに小銃を発射した。予の二連銃はたちまち数人の黒ん坊を殺した。予は実に復仇に渇していた。我らは右に左に小銃を発射した。天に向かって発射せる銃火は、微風に揺られて叛逆者の上に復仇の日が来たことを示した。毎日我らは騒動の起こった村々を破壊し焼き打ちするために出て歩いた。予は政府並びにイギリス人に抵抗する一切の土民を裁判する委員の主席に推された。日々我らは八人乃至十人を屠った。生殺の権は我等の掌中に在った。 そして自分はこの権利を行うにいささかの容赦もなかったことを断言する。死刑を宣告された犯人は、頸に縄を巻いて、大木の下に置かれた馬車の上に立たされ、馬車が動けば犯人は吊り下って息絶えるのである」。印度はこのようにして英国のものとなったのであります。それならば、印度の統治が東印度会社の手を離れ、二重統治時代を去って、すべて英国政府の手に移った後に、印度は果たして幸福であったか。断じて否であります。 まずイギリスは、数々の法律条例によって、印度在来の農業制度を根底から破壊し去りました。そのために印度社会の経済的障壁であった村落共同体は亡び去り、農村はイギリス資本の支配の諸条件に都合いいように改革されましたので、印度農村は目も当てられぬ悲惨な状態に陥りました。ハーバート・コンプトンは、「予は誓って言う。大英帝国において、印度農民以上に悲惨なるものはない、彼は一切を絞り取られてただ骨のみを残している」と言っております。彼らの多くは、腹一杯物を食った経験なくして死ぬのであります。常に精根を使い尽くしているので病に罹れば直ぐ斃れます。衣服はほとんど纏わず、子供に至ってはまったく裸であります。家には明りがなく、日暮れて月なき夜には、彼らは悄然として闇黒の裡に据っているのであります。 一九ニ八年と言えば今から十年前です。この年にベンガル州の衛生長官は下のように報告して居ります。「ベンガル農村の大部分は、鼠でも一月とは生きていかれそうもない物を常食としている。彼らの生活は、不当なる食物のために非常に悪化しているので、悪疫の伝播を防ぐよしもない。昨年はコレラで十二万人、マラリアで二十五万人、肺結核で三十五万人、腸チフスで十万人死んだ」と。印度の手工業もまた壊滅しました。十八世紀末から十九世紀初めにかけて、イギリスは産業革命の時代でありますが、この革命は印度で搾取した黄金の力でいっそう早められたのであります。昔から世界最大の綿製品生産国であった印度に、イギリス製の綿糸綿布が氾濫するようになって、極めて多数の印度人は路頭に迷ってしまいました。 アメリカ国務長官からの非難 アメリカの国務長官であったブライアンは、音に聞こえた雄弁家として、我が国にもあまねく知られた政治家であります。この人がかつてロンドンで発行される『印度』という週刊新聞に「印度における英国の統治」と題する一文を発表したことがあります。ブライアンはこの論文の冒頭に、「正義とは何ぞ、この疑問は予の印度旅行中、不断に予の耳に響いていた。予がまだ法律学生たりしころ、予はウォレン・ヘスティングスの審問におけるシェリダンの演説を読んだ。その後十六年にしてアメリカがマニラを取り、盛んに植民政策が論議されるようになると、予は印度における英国の統治を知らんとして、端なくもシェリダンの弾劾演説を想い出した。予はこれを読めば読むほど英国の不正なるを思った。ところがアメリカ人の多数は、年来イギリスの植民政策を賞賛しているので、予は我国にとりて極めて重大なる問題を、真剣に研究する機会を与えられるだろうと思って、大いなる期待をもって印度視察の途に上った。予は高級下級のイギリス官吏、印度教・回教・波斯教の教養ある人士と会談し、貧者、富者、都会の人、農村の人を視察し、統計・報告・演説筆記など、アメリカで手に入れられぬ文書を集めて調査した。そして印度における英国統治は、予の想像したるよりもはるかに悪く、はるかに苛酷に、はるかに不正なるを知った」と申しております。 次いで彼は印度視察中に知り得たる数々の不正を指摘したる後、次の言をもってその文を結んでおります。「何人も植民政策を弁護するために印度を引照するなかれ。助けなき人民の上に無責任なる権力をふるうに当りて、智慧と正義とをもってすることのいかに人間として不可能事なるかを、イギリス人はガンジス河・インダス河の流域において立証している。英人はある利益を印度に与えたが、これに対して無法なる代償を強奪した。生きたる者に平和をもたらすと称えながら、幾千万の生霊を死者の平和に誘った。争闘に苦しむ民衆に秩序を与えると称えながら、合法的掠奪によって国土を極度の貧困に陥れた。掠奪というは過言かも知れない。ただしいかに言葉を飾るとも、現在の不当なる政治を浄めることは出来ない」。これが実にイギリスの印度統治であります。 |
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第五日(昭和十六年十二月二十四日放送) 阿片戦争 銀に代わる輸出品の発見 今日は英国の支那進出について申し上げます。支那の数々の物産のうち、古くから西洋で珍重されたのは、絹布及び茶であります。この高価なる品物は、印度航路のまだ開かれぬ前から、陸路中央亜細亜を経て欧羅巴に供給されていたのであります。そして最初に海路によってこの有利なる貿易を独占したのはポルトガルでありましたが、十七世紀の初め、チャールズ一世の時に至り、英国商人の一団が、支那貿易に参加すべく、国王から特許状を与えられ、艦長ウェッデルがこの目的のために一小艦隊を率いて支那に向かい、一六三五年、マカオに到着しました。すなわち我が国では三代将軍徳川家光の時に当たります。ポルトガルはこの新しき競争者の出現を憤り、一切の迫害を加えてそのマカオに拠ることを妨げたので、ウェッデルはこの地を去って広東に進もうとしました。 さて、艦隊が広東河口の虎門砲台に差しかかると、突然支那兵が砲撃を加えたので、ウェッデルは直ちにこれに応戦し、遂に砲台を占領してイギリス国旗を掲げました。その結果、支那はイギリスに通商を許し、交易の場所を広東城外に定めました。爾来、英国と支那との貿易は専ら広東を通じて行われ、やがてイギリス人は支那貿易において他の欧羅巴諸国を凌ぎ、少なくとも他国商人の取り級う荷物でも、船は主としてイギリス船で運ばれ、ロンドンが支那商品の欧羅巴市場となりました。 さて初めに述べたように、イギリス人が広東から積み出す主要商品は、主として絹布と茶でありましたが、これに対して莫大の現銀を払わなければならなかったのであります。支那は当時、自給自足の国でありましたから、ほとんど欧羅巴貨物を必要とせず、ただ銀だけが欲しかったのであります。しかしながら、多量の銀を輸出することは、イギリスにとって甚だ苦痛であったので、これに代わるべき商品を求め、一石で二鳥を獲んと苦心しました。そして現銀に代わるべき商品を英国商人は阿片において発見したのであります。 十八世紀の中頃まで、阿片は多くペルシアで栽培され、それが支那に輸入されて一部の階級に愛用され、次第に広まっていく情勢にあったのであります。そこでイギリス商人は印度で阿片栽培を奨励し、やがて印度阿片が支那に輸人されはじめましたが、その額は年々増加していきました。それだけ支那の阿片吸飲者が激増したわけであります。 英国艦隊、砲撃を開始 この事は支那にとって二重の深刻なる打撃でありました。第一には阿片中毒によって国民の心身が劣悪になります。第二には従来とは反対に現銀が国外に流出しだします。それは銅銭に対する銀の騰貴を招き、租税収入は減少し、一般に経済的・財政的危機を誘発するおそれがあったのであります。 それゆえに支那は、すでに一七九六年に阿片の輸入を禁じ、一八一五年には国民に阿片吸飲を禁じておりますが、この年イギリス商人の輸入した阿片は三千箱でありました。一八二二年には両広総督院元が厳重に阿片販売を禁じましたが、度々の輸入禁止にかかわらず、この年の輸入額は一万箱に達していました。爾来、支那は毎年阿片禁止令を発し、その輸入及び吸飲を厳禁せんとしましたが、輸入も吸飲も年々増える一方で、結局どうすることも出来なかったのは、支那の官吏が賄賂を取って、見て見ぬふりをするからであります。そこで後には、どうせ防ぎきれないからというので、重税を課して輸入を黙許することにしたので、海岸到るところで密輸入が行われ、これを取り締まる大官までが、いつの間にやら阿片吸飲者となってしまった始末でありました。 支那政府は阿片政策についていろいろ頭を悩まし、これに対する政治家の意見も区々でありましたが、遂に阿片貿易に徹底した弾圧を加えるに決し、必要の場合には武力をも用いる覚悟をきめ、この目的のために一八三九年、林則徐を欽差大臣に任じて広東に派遣することになりました。林則徐は勇気もあり、精力もある愛国者でありました。彼は外国商人の所有する阿片は、禁制品だから支那官憲に引き渡せと要求して、約二万箱の阿片を押収してこれを焼いてしまいましたが、たまたまこの時に支那人がイギリス水夫のために殺された事件がありました。林則徐は犯人の引き渡しを要求したけれど、イギリス側がこれに応じなかったので、遂に最後通牒を発し、もし時間内に犯人を引き渡さなければ、広東市外商埠地内の英人区域を攻撃すべしと威嚇したので、商埠地居留の外国人はみなマカオに引き上げました。 ところがイギリスは、欣んで林則徐の挑発に応じたのであります。戦争はまず広州付近で、支那軍艦に対するイギリス側からの砲撃をもって始められましたが、イギリスは印度を根拠地とし、支那よりはるかに優越せる戦争技術を用い、易々と支那軍を破ったのであります。その陸海軍は、舟山列島・香港を略取し、次いで寧波・上海・呉淞・鎮江等を占領しました。今や英国艦隊は楊子江に侵入し、大運河による北支と中支との連絡を遮断し、まさに南京を衝く勢いを示したので、支那は一八四二年八月二十九日、南京でイギリスとの講和条約に調印せねばならなくなったのであります。 この南京条約は、今日まで支那を拘束する不平等条約の長き歴史の最初のものでありますが、この条約と翌一八四七年の補足条約とによって、ちょうど百年目に昨日我が軍が奪回した香港をイギリスに与え、イギリスのために広東・厦門・福州・寧波・上海の五港を開き、かつこれらの諸港においては、外国に対するこれまでの一切の制限を撤廃し、関税率と港湾税率とを定め、支那における外人の治外法権の基礎を置いたのであります。 マルクスの「阿片戦争」評 阿片戦争は、マルクスの言葉を借りて言えば「それを誘発した密輸入者どもの貪欲に適わしき残忍をもってイギリス人が行えるもの」であります。この戦争は深刻無限の影響を支那に与えております。まず、イギリスと戦って惨めな敗北をしたために、満州朝廷の威信が地に落ちてしまい、その後決して再び回復されなかったのであります。五つの港が貿易の自由のために開かれて以来、数千の外国船が支那に殺到し来り、支那国内には瞬く間に英米の廉価なる器械製品が氾濫するようになり、手工を基礎とする支那産業は、機械と戦争の前には倒れ去る外、仕方がなかったのであります。いまや驚くべき多量の不生産的なる阿片が消費され、阿片貿易によって貴金属が流出したのに加えて、国内生産に及ぼした外国競争の破壊的影響が加わってきたのであります。 旧い支那が維持され、保存されるための第一要件は、完全に国を鎖ざしておくことでありましたが、今やその鎖国が、イギリスの武力によって苦もなく打ち破られたのであります。あたかも密封された柩の中に、注意深く納められてきたミイラが、一朝新鮮なる外気に触れると、たちどころにボロボロとなるように、阿片戦争は支那の財政・産業・道徳並びに政治機構の上に重大なる作用を及ぼし、必然的に支那国家の解体を促したのであります。 この時以来、急速に土地は腐敗した官吏や豪商の手に落ちていった。灌漑や堤防が投げやりにされたので、旱魃や洪水のたびごとに農民は貧困に陥った。匪賊の横行跋扈が年と共に甚だしくなった。騒動は各地に勃発した。その最も大規模なるものは、いうまでもなく一八五〇年から六四年にわたる長髪賊の乱であります。そして欧米列強、とりわけイギリスは、この動乱を好機として、いっそう強大なる根拠を支那において築き上げたのであります。 イギリス陸軍の主力は印度人だった やがてアロー号事件を導火として、第二次英支戦争が行われました。アロー号というのは、香港政府に登録されていた支那船で、アイルランド人を船長とし、勝手に英国国旗を掲げて航海しておりましたが、水夫十四名はみな支那人で、実は英国国旗の陰に隠れて阿片の密輸入を事としていた数々の船の一つであったのであります。 一八五六年、この船が広東下流の黄埔に碇泊していた時に、船長の留守中に支那兵が乗り込み、禁制品の阿片を発見したので、英国国旗を引き降ろし、乗組員十二名を罪人として支那軍艦に引致しました。この些々たることを口実とし、また先年フランス宣教師が広西の田舎で殺されたので、支那に難題をふっかけていたフランスと連合し、一八五七年暮れ、英仏連合軍が広東を攻めてこれを陥れ、総督葉明琛を囚えてこれをカルカッタに送りましたが、一年の後にこれを幽死させております。そこで英国司令官は一書を北京に送り、支那全権は香港に来て和を講ぜよと申し入れたが、支那は無論これに応じなかったので、それならば直接北京政府と談判すると称えて、戦いを北方に移し、英仏連合軍は白河河口の太沽砲台を陥れ、河を溯って天津に入ったので、支那はやむなく両国と和議を結んだのが、いわゆる天津条約であります。この条約によってイギリスその他の列強は、北京に公使を駐在させること、すでに開かれた五港以外にさらに五港を開くこと、イギリス船舶のために楊子江を開放することなどを取りきめました。 この条約は北京で批准交換されるべきものであったが、支那側は上海でこれを行おうとしたので、イギリスは例によって武力をもって強行しようとし、一九五九年英国艦隊は天津に進航するに決しましたが、この度は太沽砲台から砲撃を受けて一旦退却した後、さらに英仏相結んで再び支那に宣戦し、海陸合わせて二万五千より成る英仏連合軍が、またもや支那を破って、この度は北京に進撃し、清国皇帝は熱河に蒙塵するに至りました。 この戦争においてイギリス陸軍の主力は、実に一万の印度兵でありました。印度人は英人のためにその国を奪われた上、同じ亜細亜の国々を征服する手先に使われて今日に及んでおります。こうして支那は、一八六〇年十月、英仏両国と北京条約を結び、天津条約を確認し、天津を開港場とし、多額の償金を払いました。香港の対岸九龍を奪い取ったのもこの条約によってであります。一八五九年、この戦争がなお酣であった時、イギリスの新聞、デーリーテレグラフは実に次のような社説を掲げております。「大英帝国は支那の全海岸を襲撃し、首府を占領し、清帝をその宮廷より放逐し、将来起こり得る攻撃に対して実質的保障を得ねばならぬ。我が国家的象徴に侮辱を加えんとする支那官吏を鞭にて打て。すべての支那将校を海賊や人殺しと同じく、英国軍艦の帆桁にかけよ。人殺しのごとき人相して、奇怪な服装をなせるこれら多数の悪党の姿は、笑うに堪えざるものである。支那に向かっては、イギリスが彼らより優秀であり、彼らの支配者たるべきものたることを知らせねばならぬ」 誠に驚くべき征服欲であり、また驚くべき下品な言葉使いでもあります。 次いでイギリスは、さらに陸路によって支那への進出を試みました。すでにビルマを征服していたイギリスは一八七六年、ビルマと支那とを遮る嶮峻なる山脈を突破して、雲南省との通商路を開かんとし、ブラウン大佐を隊長として、ビルマのバモーから雲南省昆明に至るべき遠征隊を派遣することにしました。同時に英国領事館付書記生マーガリーが、上海から漢口に出て、湖南・雲南を経てバモーに出で、ここで準備を整え待っていたブラウン大佐に会し、その通訳兼案内者となって雲南に向かって引き返しましたが、途上ブラウン大佐に別れて出発し、雲南の一駅で何者かのために殺され、またブラウン大佐も支那兵のために囲まれ、目的を遂げずにビルマに引き返しました。この路が、今度の支那事変に至って開通したいわゆるビルマ・ルートであります。 イギリスは、このマーガリー事件を口実として支那を威嚇し、この年いわゆる芝罘条約を結びましたが、イギリスはこの条約によって、支那または印度から自由に西蔵に入国し得るようになり、爾来、着々西蔵に勢力を扶植し、そのために幾度か支那と衝突しましたが、その都度支那は譲歩するだけでありました。そしてイギリスは西蔵を勢力範囲とすることによって、一面ロシアの印度侵略に備え、他面これを足場として雲南・四川への進出を執拗に続けたのであります。 同盟国日本への「悪辣なる妨害」 もし新興日本が支那保全をもってその不動の国是とし、かつこの国是を実行する力を具えていなかったならば、すでに阿弗利加大陸の分割を終え、満幅の帝国主義的野心を抱いて東亜に殺到し来れる欧米列強は、必ず支那分割を遂行し、イギリスは当然獅子の分け前を得たことと存じます。現に支那・印度・西蔵で活躍する名高きイギリス軍人ヤングハズバンドは、支那のように土地は広大、物産は豊富、しかもその全地域が人間の住むに適する温帯圏内に横たわる国土を、一個の民族が独占しているのは、神の御心に背くーAgainst God’s willだと公言しているのであります。 日本の強大なる武力は、幸いにして支那を列強の俎板の上にのせなかったのでありますが、それでもイギリスの政治的・経済的進出を拒むに由なく、支那の最も大切なる動脈楊子江において、とりわけイギリスの勢力は嶄然他を凌いで強大となったのであります。従って日本が長江に経済的進出を始めるに及んで、その最も手強き妨害者はイギリスであったのです。その数々を列挙することは時間が許しませんが、ただ一つイギリスの悪辣なる妨害とはいかなるものであったかを示す実例を挙げます。 それは日英同盟が結ばれた翌年、すなわち一九〇二年に、日本郵船会社が、かつて三十年間楊子江に航路を張っていた英人マクベーンの事業を数百万円で買収し、その船に社旗を掲げて楊子江航路を開始すると、稀代の珍事が起こったのであります。すなわち上海・漢口をはじめ楊子江岸諸港の英国人居留地会が、郵船会社の船には一切今までマクベーン船舶の繋留せる水面に立ち寄るを許さずという決意をしたことであります。これは地所は売ったが空中権は売らないから、家を建ててはならぬというに等しい無理難題であります。 日本は極力抗議したけれど英人は頑として聴き入れず、郵船会社は百計尽きてフランス人に交渉し、不便ではあったがフランス居留地の水面に繋船し、遠く倉庫から迂回して荷物を揚げ卸しすることになったのであります。これが後の日清汽船会社の前身であります。日本はイギリス人の同様の意地悪き妨害と幾度か戦いながら、とにもかくにも長江流域に今日までの地位を築き上げたのであります。日本の長江発展史は、取りも直さず、イギリスとの経済闘争史であります。 |
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第六日(昭和十六年十二月二十五日放送) 我らはなぜ大東亜戦を戦うのか 東洋の中心―支那と印度 中央亜細亜のパミール高原は、古より世界の屋根と呼ばれております。この高原から斜めに西南に走る山脈はスライマン山脈と呼ばれ、印度とアフガニスタンの国境を走って印度洋に尽きております。また、この高原から北に走るものは天山山脈と呼ばれ、ズンガリア盆地において一旦杜絶した後、再びアルタイ山脈となって東北に延び、さらにヤブロノイ山脈・スタノボイ山脈となっていっそう東北に向かい、遂に亜細亜大陸の東北端イースト・ケープとなってベーリング海峡に突出しております。すなわち南はインダス河口から北はベーリング海峡に至るまで、亜細亜大陸は西南より東北に走る蜿蜿万里の山脈によってまさしく両断されているのであります。この山脈は世界の屋根の長い長い棟であります。そしてこの屋根によって旧世界は東洋と西洋との二つに分かれております。すなわちこの屋根の棟の東南斜面が東洋であり、南西斜面がとりもなおさず西洋であります。ペルシア・小亜細亜・アラビアの諸国は、亜細亜のうちに含まれてはおりますが、これを地理学の上から見ても、また世界歴史の上から見ても、明らかに西洋に属するものであり、真実の意味の東洋は、疑いもなくパミール高原以東の地であります。 この東洋の世界はヒマラヤ山脈に起こり、崑崙山脈となり、東へ東へと進んで支那海に至って尽きる東西万里の山脈によって、さらに南北に両分されております。南方、すなわちヒマラヤ山脈の南斜面は印度であり、ヒマラヤの北、天山アルタイ両山脈の東が取りも直さず支那であります。そして印度と総称されるヒマラヤ山脈の南斜面は、さらに東西両分に分かれ、西なるはヒンドスタン・インド人の国、すなわち狭い意味の印度であり、東部はビルマ・タイ・安南等を含むいわゆる印度支那で、その名のごとく地理的にも歴史的にも、東洋の偉大なる二つの部分、印度及び支那の中間に位する国土であります。 印度と支那とは、東洋の二つの偉大なる中心であります。両者の面積はほとんど相同じく、人口はまた各々数億を数え、ヒマラヤ山脈によって南北相隔てられ、一方には蒙古人種、他方にはアーリア人種が住み、一方は温帯、他方は熱帯、相距ることも遠く、相異なること大でありますが、東洋は実にこの二つのものの結合によって一つの全体をなしているのであります。そして我が日本はこれらの東洋の二つの中心から、実に幾多の貴きものを学び、善きものを習い、これを自身の精神のうちに統一し、これを生活の上に実現しつつ今日に及んだのであります。 日本の勝利を印度独立の機縁に 西洋人が渡来するまで、日本人にとって世界とは実に支那と印度、すなわち唐と天竺とを中心とする東洋を意味し、この両国に我が日本を加えて三国と称えてきたのであります。三国一の花嫁とは世界第一の花嫁のこと、三国一の富士山とは支那にも印度にもない世界一の立派な山のことであったのであります。三国妖婦伝という物語では、九尾の狐が、支那・印度・日本三国の宮廷を瞞しまわっております。それゆえに支那と印度とは、我々にとっては、少なくとも我々の祖先にとっては、決して他国ではなかったのであります。日本はこれらの国から数々のものを学んだので、それだけに他国でないのみならず、実に犬切な国、有難い国であったのであります。ところが今や釈尊が生まれ、孔孟が生まれたその大切な国が、イギリスの属国となり、その半植民地と成り果てているのであります。 我らが印度から学んだ最も貴いものは宗教であります。すなわち印度思想・印度文明の精華と申すべき仏教の信仰であります。我々の祖先がいかに誠実にこの教えを学び、この教えの生まれた印度に憧憬していたかを示すため、幾多の例を挙げることが出来ますが、最も私の心を打った一つだけを申し上げます。それは鎌倉初期の高徳、京都栂尾の明恵上人のことであります。 この上人は印度に渡って仏蹟を巡礼したいという抑え難い願いから、その巡礼の筋道を事細かに調ベ上げ、支那の都の長安から印度の王舎城までは八千三百三十里、日に八里ずつ歩けば千日、日に五里ずつ歩けば、正月元日に長安を出発して、五年目の六月十日の午刻に王舎城に辿り着く、天竺は仏の生国なり、恋慕の思い抑え難きにより、遊意をなしてこれを計る、あはれあはれ参らばやと書いております。不幸病のために印度巡礼の願いは遂げられなかったが、印度から渡ってきた竹を見るに、日本の竹と異なるところがない。そうであれば釈尊当時の竹林園の竹もまたかような竹であろうと、一むらの竹を学問所の前に植えつけ、これを竹林竹と名づけて、あけくれ眺めていたのであります。まことに激しい思慕のこころと申さねばなりません。もしこの明恵上人が、今日蘇って印度の現状を見、印度がイギリスの鉄鎖に縛られ、その民が牛馬のように虐げられているのを見たならば、血涙を流して悲しみ、火のように激しく憤ることであろうと存じます。 我々は印度の仏教から、信仰だけを学んだのではありません。仏教は同時に五明すなわち五つの学問を我々に教えております。第一は因明で、論理の研究、第二は内明で、教典の研究、第三は声明で、言語音律の研究、第四は医方明で、医術の研究、第五は工巧明で、工藝美術の研究であります。 しかも教典の研究のうちには、仏典以外の儒教の経典をも含み、寺は寺子屋と呼ばれて国民教育の機関となり、その教科書には儒教の経典が用いられていたのでありますから、仏教は日本にとって一個の宗教であったのみならず、同時に文化の総合体であったのであります。すなわち、印度文化全体が釈尊または仏教を通じて我が国に伝えられ、その仏教の真理は、いろいろなる理論によってに非ず、生活体験によって日本人の魂に浸み込んだのであります。従って仏教徒たると否とを問わず、我々日本人は甚だ多くを釈尊の印度に負うているのであります。それゆえ、真実の日本人である限り、多かれ少なかれ明恵上人が抱くであろうところの悲しみと憤りとを感ぜねばならぬはずであります。 それでありますから、我々日本人が英国の印度統治に対して加える弾劾は、一昨日紹介したアメリカのブライアンが加えたような、単なる人道主義による道徳的非難たるに止まらず、同時に我が心と我が身とに加えられたる辱しめを感じての義憤であります。現代印度革命思想の生みの親、アラビンダ・ゴーシュは、「圧制者あり、我が母の胸に坐す。我が母をこの圧制者より救うまで我は断じて息まず」と誓っておりますが、我々はこの悲壮なる覚悟を、我々寺身の覚悟のごとく身に沁みて感ずるものであります。私はこの度の対米英戦争における日本の勝利が、必ず印度独立の機縁となり、導火線となって、古釈尊より受けたる教えに対する最も善き贈り物として、自由を印 度に与え得るに至らんことを切望するものであります。 日本人と支那人は兄弟である 日本と印度との間のこうした関係は、支那との場合においても同然であります。我々は支那文明の精華と申すべき孔孟の教えを支那から学んだのであります。我々は、すべての生活の基礎を倫理に置かねばならぬこと、すなわち人格の上に置かねばならぬという高貴なる精神を、極めて明晰なる理論をもって儒教から学んだのであります。のみならず、江戸時代三百年の間、学問と申せば支那の学問でありましたので、政治・道徳・文学、あらゆる方面において善かれ悪かれ支那文化は国民生活の隅々に浸透し、印度がそうであるように、支那もまた我が身我が心の一部となったのであります。 その上支那は印度と異なり、一衣帯水の間柄でありますから、多くの支那人が日本に来て、彼らの値が日本人の血に混じっております。中国の大大名であった大内氏も、薩摩の島津家も、遠くその祖先をただせば、朝鮮を経て日本に渡って来た支那人だと言われ、一徹短気で名高い赤穂義士の武林唯七は孟子の子孫だとも申されております。純然たる日本文学と考えられている紫式部の源氏物語でさえ、その思想も、その文学としての結構も明らかに漢学漢文から脱化したものであります。大宝令は御承知のように支那の法律制度を模範としたものであります。 我らの先祖は日本の歴史を学ぶと同じ程度の親しみをもって支那の歴史を学び、日本の英雄豪傑を崇拝すると同じ程度の熱心をもって支那の英雄豪傑を崇拝したのであります。諸葛孔明の出師表は、どれほど日本人に忠義の心を鼓吹したか知れず、岳飛の誠忠がどれほど士気を鼓舞したか測り知れぬほどであります。日本人中の最も偉大なる日本人西郷隆盛が、いかに伯夷叔斉の高潔なる心事に傾倒していたかは、彼自身の文章によって知ることが出来ます。 とりわけ支那文学が甚だしく日本人に喜ばれ、漢詩を作ることは、教養ある人士に欠くべからざる条件の一つとさえなったので、支那の詩歌文学に現れてくる山や川は、自分の故郷の地名のように日本人の耳に響いたのであります。黄河も楊子江も、赤壁も寒山寺も、あるいは西湖も洞庭湖もみな我々の耳に久しく聞き馴れておりますので、例えば「楊子江頭楊柳の春、楊花は愁殺す江を渡るの人」という詩を吟ずれば、我々は支那の詩人が、長江に寄せた綿々の哀愁を、自ら楊子江畔に立って感ずるごとく感じます。また「洞庭西に望めば楚江分る、水尽きて南天雲を見ず」と歌えば、洞庭湖は決して他国の湖とは思えないのであります。日本人と支那人とは、「我々」という一人称を用うべき兄弟であります。 この支那が、国民の身と心を蝕み尽くす阿片吸飲のあさましい風習を止めるために、阿片輸入を禁止するのは当然至極のことでありましたが、それが承知罷りならぬといって武力を用いたのが、実にイギリスであります。イギリスは一切の道徳を無視し、毒薬を買い込んで金儲けをしようという一群の商人の貪欲なる希望を満足させるために、その軍隊を用いたのでありますから、英国軍隊を貫く精神は、ホーキンス、ドレーク等の昔ながらの海賊精神であります。今も昔も変わりなきこの精神をもってイギリスは支那に臨み必要あれば武力をもって、そうでない時は買収と外交的術策と威嚇をもって、遂に支那をその半植民地とし、支那民族を最も都合よき搾取の対象としたのであります。イギリスの対支政策は形こそ変われ、大砲の筒先を向けて、恐るべき阿片を突きつけ、飲まねば打つぞと言ったその精神の種々の現れであります。 湧き上がる日本民族の赤誠 日本が支那の領土保全を不動の国是としてきたのは、その奥深き根底を、日本人の真心に有しております。支那の文明は黄河と楊子江の流域に起こり、その文明は我が日本の生命と生活とのうちに、今なお溌刺として生きているのであります。それゆえに何はともあれ、黄河、楊子江の流域が他国の手に奪われるに忍びない、あくまでもこれを漢民族の手に保存させておきたいというのが、自ずと湧き上がる日本民族の赤誠であります。 支那は、この赤誠より迸れる日本の政策のために、イギリスの、またはロシアの奴隷となり果てずに済んだとは申せ、年久しく欧米の資本主義並びに帝国主義角逐の舞合となってきたので、年一年と自国の貴重なる文化を犠牲にする危険に曝されてまいったのであります。かつては東亜の国々をあれほど豊かにした支那文化は、巧みに支那の統一を破る術を心得ている欧羅巴帝国主義的諸国、とりわけイギリスの侵入と共に、内的にも外的にも弱められて、ついに偉人なる過去の、単なる影と成り下がらんとしております。 のみならず、イギリスの巧妙なる搾取と相並んで、今やボルシェヴィズムの暗い力が新たに支那の舞台に現れ、衰えたる支那をその勢力の下に置きはじめたので、支那の文化は破壊崩潰に対して、ますます無抵抗に曝されるに至ったのであります。日本は自国の文化と、支那において脅かされつつある東洋文化を救うために、あらゆる努力を続けて戦い来れるにかかわらず、支那は起って我らと共に東洋を護り、アジアを滅ぼす勢力と戦わんとはせず、かえって刃を我らに向け来たのであります。そして、東洋の敵たる英米と手を握り、今なお東洋を救いつつある日本と戦い続けんとするのであります。 もとより南京政府はすでに樹立され、汪精衛氏以下の諸君は、興亜の戦において我らと異体同心になっておりますが、支那国民の多数はその心の底においてなお蒋政権を指導者と仰ぎ、日本の真意を覚らんともせず、かえって日本に反抗しつつあることは、悲痛無限に存じます。さりながら明治維新を顧みましても、各藩に勤王佐幕の対立抗争あり、勤皇諸藩の間に反目嫉視あり、最後に薩長相結んで幕府を倒すに至るまで、いかに多くの高貴なる鮮血が流されたかを思えば、これまた止むなき次第であります。 日本の掲げる東亜新秩序とは、決して単なるスローガンではありません。それは東亜のすべての民族にとって、この上なく真剣なる生活の問題と、切実なる課題とを表現したものであります。この問題または課題は、実に東洋最高の文化財に関するものであります。それゆえに我らの大東亜戦は、単に資源獲得のための戦でなく、経済的利益のための戦でなく、実に東洋の最高なる精神的価値及び文化的価値のための戦であります。 この東洋文化財は、すでに申し上げた通り、わが日本民族の魂に、また我が日本国家の中に統一されて、その最高の価値と意義とを発揮しているのであります。我々日本人の魂は、直ちにこれ三国魂であります。日本精神とは、やまとごころによって支那精神と印度精神とを総合した東洋魂であります。従って車亜新秩序の真箇の基礎たるべき魂は、すでに厳然として存在し、かつ活躍しつつあるのであります。足かけ五年、我々はこの魂を基礎とする秩序を、まず支那において実現するために、この実現を妨げるものと苦戦健闘してきました。 そうして今や世界史の進転は、東洋の敵たる英米と日本との明らさまなる戦争となり、従ってこの新秩序の範囲を印度にまで拡大し得る形勢となったことは、我々の欣喜に堪えざるところであります。大東亜すなわち日本・支那・印度の三国は、すでに日本の心において一体となっております。我らの心理に潜むこの三国を、具体化し客観化して一個の秩序たらしめるための戦が、すなわち大東亜戦であります。 支那民族はやがてその非を覚るであろう。印度民族はやがて解放されるであろう。正しき支那と蘇れる印度とが、日本と相結んで東洋の新秩序を実現するまで、いかに大なる困難があろうとも、我らは戦いぬかねばなりません。いと貴きものは、いと高き価を払わずば決して得られないのであります。想えば一九四一という数は、日本にとって因縁不可思議の数であります。元寇の難は皇紀一九四一年であり、英米の挑戦は西紀一九四一年であります。私は日本の覚悟と努力とによって、英米の運命また蒙古のそれのごとくなるべきことを信じて、この不束なる講演を終わることと致します。 |
(私論.私見)