1980、1981、1982、1983、1984年平和宣言

 (最新見直し2007.8.7日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここに「1980、1981、1982、1983、1984年の広島、長崎平和宣言」を収録しておくことにする。

 2007.8.7日 れんだいこ拝


【1980.8.6広島原爆忌:平和宣言(全文) 】

平和宣言 

生々流転—あの日から35年の歳月が流れた。

あの時、炎熱の地獄と化し、核戦争の悲惨さを身を以て体験した広島は、核兵器の廃絶を訴え、ひたすら人類永遠の平和を求め続けて来た。

しかるに、世界の情勢は、このヒロシマの心を痛ましめてやまない。拡大し続ける世界の軍事費はついに1日10億ドルを超え、また、軍備拡大の波は発展途上国にも及んでいる。

中東や東南アジアでの相つぐ紛争は、大国の動向次第では、全面核戦争に発展する危険をも孕み、多数の難民の問題も深刻な影を投げかけている。

もとより、今日まで核兵器の増大・拡散を憂え、人類を破滅から救おうとする努力は、部分的核実験禁止条約、核不拡散条約、米ソによる戦略兵器制限交渉等にも見ることができる。特に、国連初の軍縮特別総会では、国家の安全は、軍備の拡大よりも軍縮によってこそ保たれるとの合意を見、廃絶を目標とする核兵器の削減が軍縮の最優先課題であるとの決議がなされた。

また、本年は米国上院議員会館で原爆展が開催されるなど、ヒロシマの被爆体験への世界の関心もとみに高まりを見せており、このことが被曝者の増大を阻止し、核兵器を全面否定する国際世論の形成に大きく発展することを期待する。

しかし、現実の世界情勢を思うに、軍備拡大の裏にある国家相互間の根強い不信感を取り除かない限り、決して輝かしい平和の岸に至ることはできない。ヒロシマは今ここに第2回国連軍縮特別総会に先がけて、米ソを始めとする平和首脳会議の開催を提唱する。第1回国連軍縮特別総会において平和に徹し、国際協調を基本とする外交努力を一層強化してゆく旨の決意を表明した日本政府は、その先導的役割を果たすべきである。

今こそわれわれは全人類の連帯を求め、破滅への道を生存への道に転じなければならない。

本日、被爆35周年の記念日を迎えるに当たり、犠牲となられた方々に対し、謹んで哀悼の誠を捧げ、原爆被爆者援護対策が国家補償の理念に基づいて一日も早く法制化されることを念願しつつ、人類生存への道を邁進することを固く誓うものである。


1980年(昭和55年)8月6日


広島市長  荒  木  武
 


 

長崎平和宣言

1980年(昭和55年)

 昭和20年8月9日。長崎市は人類の想像を絶する焦熱地獄と化し、7万有余の尊い生命が奪われた。
 あれから35年、いまもなお、数多くの被爆者が後遺症に苦しみ、死の影におびえ続けている。
 戦争の惨禍を受けた国民が歳月の流れとともにその精神的・肉体的痛みが薄れつつあるとき、被爆者の苦悩は深まり、激しくなっている。
 いまここに、被爆者、遺族、青少年はじめ、市民、国内外の人々が相集い、原爆によって死亡した方々のみ霊の前にぬかずき、心からその霊を慰め、ごめい福をお祈りした。
 われわれは、原爆のためにたおれた肉親や隣人の悲しみと恨み、平和への願いを深く心に刻んでいなければならない。
 後世の史家は、必ずや、原爆投下の残酷さを20世紀最大の汚点の一つに数えるであろう。
 長崎市民は原爆の悲しみと憤りの中から立ち上がって、核兵器の廃絶と全面軍縮とを訴え続ける義務と責任、そして使命感を持つものである。
 思えば、いまやかすかにさしそめた国際間の緊張緩和の曙光さえかき消され、核兵器開発競争はますます激しさを加え、今年の核実験の回数は昨年をはるかに超えた。長崎市がこの11年にわたって行ってきた188回の核実験への抗議は、完全に踏みにじられてきた。
 核保有国は、戦争抑止力という名のもとに、核武装の強化をはかりつつある。
 いま、この危険な方向を転換しない限り、地球上に真の平和と繁栄はあり得ないことを確信する。世界に蓄積された膨大な核兵器は人類を幾たびも絶滅させ得る量に達しており、技術的、管理的ミスによる核戦争偶発の危険性も強まっている。
 人類は、滅亡の道を歩もうというのか。
 時は迫っている。
 世界の良心はいまこそ、ナガサキの声に耳を傾け、英知に目覚め、核兵器の廃絶と戦争の完全放棄を実現するために、行動と実践に立ち上がらなければならない。
 被爆体験の継承は、長崎・広島両市民にとどまらず、国民の、いな全人類の課題として協力に推進すべきである。
 いまや、真の平和の実現のため、人々は国境を越え、信教・信条を越えて、必死の努力を払っていくべきときである。
 われわれは、ここに、日本国政府が核兵器の完全禁止と全面軍縮への決意を新たにし、国家補償の精神に基づき被爆者援護対策の確立をはかるよう強く訴える。
 ここに、原爆犠牲者のごめい福を祈り、核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現に向かって直進することを、全市民の名において内外に宣言する。

1980年(昭和55年) 8月9日
長崎市長 本島 等


【1981.8.6広島原爆忌:平和宣言(全文) 】

平和宣言 

「安らかに眠ってください 過ちは繰返しませぬから」これは原爆の犠牲者に捧げる人類の誓いの言葉である。この誓いのもとに、われわれは核兵器の廃絶と戦争の否定を訴え続けて来た。

しかし、米・ソを頂点とする果てしのない核軍拡競争は、益々対決の姿勢を強め、今や人類を破滅の淵に立たせるに至った。

この緊迫した情勢を憂えて、ローマ法王、ヨハネ・パウロ二世は、本年2月この地に立ち、過去を振返えることは将来に対する責任を担うことであり、広島を考えることは、核戦争を拒否し、平和に対しての責任をとることであると述べ、すべてをさしおいて、平和が追求され、保持されねばならないことを全世界に訴えられた。

核兵器は競って高度化・多様化し、地に空に、或は海に配備され、互に対峙しながら、その破壊力は広島型原爆の百数十万発分にも達している。われわれ人類はまさに「恐怖の均衡」下に置かれている。加えてこの均衡を破る先制核攻撃の兆しも見られ、核戦争の危機は高まっている。ひとたび核戦争が勃発すれば、人類が絶滅することは明らかである。

もはや核兵器で安全を保障することはできない。核兵器の廃絶こそが安全を保障し、平和への道に通じることを人類は悟らねばならない。

今こそ人類は、この現実を直視し、人類生存を最優先課題として、地球的視野に立ち、思想、信条、国家体制の対立を克服し、協調と相互依存の精神に基づく平和への大道を拓くときである。

来る第2回国際軍縮特別総会において全加盟国は、この精神に立脚し、核兵器保有国率先の下に、核兵器の不使用・非核武装地帯の拡大・核実験全面禁止など、核兵器廃絶と全面軍縮に向けて具体的施策を合意し、すみやかに実行に移すべきである。平和国家の理念を掲げ、非核三原則を国是とするわが国がその先導者となることを期待する。

本日、被爆36周年の8月6日を迎え、原爆犠牲者の御霊を弔うに当たり、われわれ広島市民は一層平和への責任と義務を自覚し、国家補償の精神に基づく原爆被爆者及び遺族への援護対策の拡充強化を求めるとともに、世界に強く平和への努力を訴えるものである。


1981年(昭和56年)8月6日


広島市長  荒  木  武
 

長崎平和宣言

1981年(昭和56年)

 長崎の皆さん、日本全国の皆さん、そして全世界の皆さん。
 きょう8月9日は、悲しい長崎原爆の日です。
 私たちは、原爆で亡くなられた数多くのみ霊のごめい福を祈り、またいまなお後遺症で苦しむ被爆者を励ますために、そして再び世界に核戦争を起させないことを誓うために、この原爆の丘に集まりました。
  年老いた被爆者、被爆者の2世・3世、遺族、小中高生、市民、そして全国から、また外国からたくさんの皆さんが参列して、花を供え、水を献じて、鎮魂と平 和への決意を新たにしています。式典に参列できない寝たきりの方、一人ぼっちの方も、手を合わせてお祈りしていることでしょう。
 いまわしいあの焦熱地獄が、きのうのことのように思われます。悪魔のような熱線・爆風・放射線は、親兄弟も、親しい友達も、隣人も、そして長崎にいた外国人の命も一瞬のうちに奪い、幼稚園・学校・会社・商店・工場は、廃墟となりました。
 あれから36年、被爆者の悲痛の叫び声は押しつぶされ、原爆の悲惨さ、その傷跡も忘れ去られようとしており、戦争そのものが風化しつつあります。
私の声の届く限りのすべての皆さんに申し上げます。8月9日を心に刻んでください。私たちは、国家補償による被爆援護の確立を要求し続けております。
 特に孤独・老齢化が進み、死を目前にした被爆者の実情に、国民の深い理解と協力をお願いします。
 社会の担い手も、戦争の経験のない若い世代に代わりつつあります。これらの人々に「原爆の悲惨さ残酷さをどう伝えるか。」「80年代の平和へのエネルギーをどうかもし出させるか。」これが、私たちに負わされた課題といえましょう。
 そこで、特に、教育者の皆さんにお願いしたい。
 核兵器をなくし、完全軍縮の実現こそが、人類が未来に生き残る唯一の道であることを、子供たちに、すべてに優先して教えて欲しい。平和こそ、私たちが子孫に残すただ一つの遺産なのです。
  世界の人々の平和を求める声は強く、1978年の国連軍縮特別総会でも多くの国々の関心が高まり、また、本年2月来日したローマ法王ヨハネ・パウロ2世 は、平和アピールの中で、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことだ。」と指摘し、全世界に平和の力強い叫びとして伝えられました。
 しかし、いつまで続くのか。核兵器の拡大競争と核兵器を持つ国の増加は、恐怖の均衡のもとに破滅へ向かう絶望の世界と言えないでしょうか。
 核兵器を造る国々の人々に訴えます。私たちは、今まさに、人類滅亡の淵に立っております。核兵器の生産をやめ、その費用の一部を使えば、世界各地の数億人の飢えと、第三世界の貧困は解消されるでしょう。
次に考えなければならないのは、日本の国是としての非核三原則の一つ『核兵器を持ち込ませず』が揺らいでいることです。今日核の寄港、通過があったと信じている多くの人々の声に耳を傾けてください。
鈴木総理大臣は、直ちにこのことに対処して真実を国民に知らせてください。
 廃墟の中、絶望と飢えに耐えながら、戦争放棄と永久の平和確立を誓った日本国憲法の精神を思い起し、将来にわたって核兵器の廃絶、完全軍縮、恒久平和を国是として積極的に外交を進め、決してどの国をも敵視しない国の方針を打ち立ててください。
 また、来年の第2回国連軍縮特別総会に向けて、世論を高め、対策を練り、実り多い結果をもたらすよう努力してください。
 特に、第1回国連軍縮特別総会の行動提起に従って、日本本土とその周辺を非核武装地帯とすることを宣言してください。
 ここに、被爆36周年原爆犠牲者慰霊平和祈念式典を迎え、重ねて原爆殉難者のごめい福と原爆後遺症に苦しむ生存被爆者の健康と平安とをお祈りするとともに、世界恒久平和の実現に向かって直進することを、全市民の名において内外に宣言します。

1981年(昭和56年) 8月9日
長崎市長 本島 等


【1982.8.6広島原爆忌:平和宣言(全文) 】

平和宣言 

燈燈無盡 — ヒロシマの平和の心は、すべての人々に受け継がれ、語り継がれなければならない。

広島のあの日の惨禍は、人類絶滅の不気味な暗雲の到来を告げるものであった。その危機を身を以て体験したヒロシマは、核兵器の廃絶と全面完全軍縮を世界に訴え続けてきた。

しかし、米・ソを始めとする国家間の対立は牢固として解き難く、核兵器はますます量的拡大と質的高度化の一途を辿り、限定核戦争や先制核攻撃論が台頭し、人類は今、まさに、核戦争の危機に陥ろうとしている。

軍縮と安全保障問題に関する独立委員会のパルメ委員長やペルティーニ・イタリア大統領は、いずれも、ここ広島の地で、原爆被害の苛酷さに慄然とし、核戦争に勝者も敗者もあり得ない、と深い憂慮の意を表明した。

今こそ各国政府は、世界各地で澎湃として高まっている核兵器廃絶への熱望を真摯に受け止め、一刻も早く軍縮を促進し、平和への道を急ぐべきときである。

この時開催された第2回国連軍縮特別総会は、遺憾ながら国家間の不信を克服しえず、「包括的軍縮計画」の合意には至らなかった。

しかし、核戦争の防止と核軍縮が最優先課題であるとの第1回軍縮特別総会の決議を再確認するとともに、新たに、軍縮への世論形成を目的とする「世界軍縮キャンペーン」の実施に合意し、さらに、日本政府が提案した広島・長崎への軍縮特別研究員派遣を採択した。

広島市長は、今回の特別総会でヒロシマを証言し、ヒロシマの悲願を訴えた。

今、重ねてここに訴える。

核実験を即時全面的に禁止し、あらゆる核兵器を凍結して、これを廃棄するよう強く求める。

また、ヒロシマと心を同じくする世界の都市が、互いに連帯することを呼びかける。

さらに、核保有国の元首をはじめ各国首脳が広島を訪れ、被爆の実態を確かめること、広島で軍縮のための首脳会議を開催すること、また、広島に平和と軍縮に関する国際的な研究機関を設けることを提唱する。

ヒロシマは、単なる歴史の証人ではない。

ヒロシマは、人類の未来への限りない警鐘である。

人類がヒロシマを忘れるとき、再び過ちを犯し、人類の歴史が終焉することは明らかである。

本日、被爆37年を迎え、犠牲となられた人々を弔うに当たり、今なお、肉体的・精神的に苦しみ続ける原爆被爆者及び遺族への援護が、国家補償の精神に基づいて充実・強化されるよう、わが国政府に求めるとともに、ヒロシマは平和の燈火を絶やすことなく、世界に平和を訴え続けていくことを固く誓うものである。


1982年(昭和57年)8月6日


広島市長  荒  木  武
 


 

長崎平和宣言

1982年(昭和57年)

 日本全国の皆さん、世界の皆さん、ナガサキからの声を聞いてください。
 長崎は、この7月23日、思いがけない大水害に襲われ、3百人の方々が尊い命を失いました。
 私たちは、これらの方々のご冥福を祈りつつ、悲しみのうちに原爆の日を迎えました。
 思えば37年前、ただ一発の原爆によって、子供も、大人も、おとしよりも、外国の人も、7万有余のかけがえのない生命が一瞬にして奪われました。
 見渡す限りの死の廃墟、川は沸騰して血と脂がとび散り、屋根瓦も、道ばたの石ころもとけました。
 人々は熱線でやけどし、爆風がそのやけどの肉をちぎり、はぎとっていきました。皮膚がたれ下がり、ボロをまとったような負傷者の群、地をはう人、呻きもだえ水を求める人、爆圧で叩きつけられ腸がとびだした人たちが巷にあふれました。
 一人の少年は両親のなきがらを焼いた土の上に涙を流し続け、一人の少女は粗末な空きかんに父と母の遺骨を入れて学校に通いました。
 まさに地球滅亡の姿、人類皆殺しの地獄絵図であります。
 今、無限の悲しみにくれつつ、厳粛に思うことは、原爆の残酷さと死の恐怖を体験し、苦しみと絶望の極限に立つ者こそが、誰よりも戦争を完全に否定し、心から平和を求める境地に到達し得るものであるということを。
 今日、ここ、原爆の丘に集まった私たちは、声を大にし、決意を新たにして、次のことを強く訴えます。

1、日夜、生命の不安におびえている被爆者の皆さん、今後、地球上のどこにも、決して核兵器が使われないために、皆さんの悲惨な体験を積極的に証言してください。
また、教育者と母親の皆さん、核兵器をなくし、完全軍縮と平和を実現することが、人類が未来に生き残る唯一の道であることを子供たちに教えてください。

2、 長崎市民の皆さん、第2回国連軍縮特別総会を契機として、核兵器反対草の根運動は、地球上に大きなうねりとなりました。世界の反核、軍縮の署名は1億人に も達しました。私たちは国の内外にさらに強く、広く平和運動を燃え上がらせ、世界を包む民衆の声にそだてましょう。長崎はその運動の原点として力を結集 し、第3回国連軍縮特別総会へ向けて核兵器廃絶、世界恒久平和実現の道を開きましょう。

3、全国民の皆さん、被爆後37年をへて、年老いた被爆者は孤独の中で死の恐怖とたたかっています。これらの方々に平和のあかしとして、国家補償の精神にのっとり、被爆者援護の確立のために深い理解と協力をお願いいたします。

4、 鈴木総理大臣にお願いを申し上げます。世界最初の被爆国として核兵器廃絶、世界恒久平和実現のため、国民の先頭に立ってください。また外国政府に強く働き かけて下さい。特に第2回国連軍縮特別総会で演説された「核軍縮の最優先」「国連の平和維持機能の強化、拡充」が具体的に推進されるよう尽力して下さい。 また非核三原則を堅持するとともに、日本本土とその周辺を非核武装地帯とすることを宣言してください。

5、 核兵器を毎日生産している米ソ両大国をはじめ、すべての核保有国の指導者に申し上げます。核兵器の拡大競争は、絶望と破滅の世界を作ることになります。今 のままで人類に未来があるでしょうか。核兵器廃絶への具体的一歩をふみだすために、核兵器実験の禁止と生産の停止を直ちに実現するよう、誠意と信頼をもっ て話し合ってください。

 原爆殉難者の御霊よ、あなた方の安らかないこいをお祈りいたします。原爆後遺症に苦しむ被爆者の皆さん、あなた方の悲痛の叫びがきこえます。ご健康を心からお祈りいたします。
 原爆は絶対に使われてはなりません。長崎は地球上最後の被爆都市でなければなりません。
 今こそ、核兵器廃絶、世界恒久平和実現に向かって、全市民こぞって直進することを内外に宣言します。

1982年(昭和57年) 8月9日
長崎市長 本島 等


【1983.8.6広島原爆忌:平和宣言(全文) 】(「平和宣言」

平和宣言 

あの惨禍の日から38年、ヒロシマは、今年も深い憂慮と憤りのうちに暑い夏を迎えた。

今日までのたび重なる軍縮交渉にもかかわらず、米・ソ両国を中心とする核軍拡競争は、ますます熾烈の度を加え、ヨーロッパにおけるSS20の配備、パーシング2の配備計画、極東における核兵器増強の動きなど、増大する核の脅威のもとで、人類は、まさに破滅の危機に直面している。

この緊迫した状況の中で、核兵器反対の運動は、大きな盛り上がりをみせ、「ヒロシマを繰り返すな」、「ノーモア・ヒロシマ」の声が、今や、国際的世論にまで高まっている。

国際連合は、第2回軍縮特別総会で採択した軍縮キャンペーンの一環として、今年秋の各国軍縮特別研究員の広島派遣、国連本部での原爆被災資料の常設展示など、被爆実相の普及と継承への新たな努力を始めた。

広島・長崎両市長は、本年1月、核兵器廃絶に向けての「世界平和都市連帯」を呼びかけた。今、世界の各地から熱い賛同のメッセージが寄せられ、国境を越えて連帯の輪が広がりつつある。

今こそ人類は、敵対の歴史に訣別して、人間の尊厳に目覚め、相互の対話を大いに深めて、信頼と友好の絆を確立すべきときである。

きょうの逡巡は、あすの破滅につながる。

際限のない核軍拡競争に歯止めをかけるため、核兵器保有国は、直ちに、核実験全面禁止条約を締結し、すべての核兵器の製造と配備とを停止し、さらに、核兵器を廃絶するように強く求める。

特に、核超大国である米・ソ両国は、一日も早く首脳会談を開催し、軍事的・戦略的立場を超えて、全人類的見地から、世界に希望を与える決断を行うよう訴える。

唯一の被爆国であり、憲法の平和理念のもとに非核三原則を堅持するわが国は、その実現に先導的役割を果たし、世界平和の灯火たるべきである。

本日、この式典にあたってわれわれは、原爆犠牲者の御冥福を心から祈念し、国家補償に基づく被爆者援護対策の確立と核兵器廃絶、全面完全軍縮を目指して邁進することを固く誓うものである。


1983年(昭和58年)8月6日


広島市長  荒  木  武
 


 

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長崎平和宣言

1983年(昭和58年)

 長崎の皆さん、日本の皆さん、そして世界の皆さん、今日、38年目の悲しい原爆の日。
 私たちは原爆で亡くなられた御霊の安らかないこいと、年老いた被爆者の健康を願い、また、長崎こそは世界最後の被爆都市でなければならないと心から訴えるために、ここ原爆の丘に集まりました。
 ああ、7万数千人の命が奪われ、あらゆる建物が瓦礫となりました。人の肉がちぎれて飛び散り、乳飲み子は焼け死んだ母親の乳房にすがりついたまま、人々は水を求めて川にのめり込んだまま、息絶えました。
 それはまさに人類の滅亡を思わせる残酷な光景でした。
  私は、昨年ニューヨークの第2回国連軍縮特別総会に、今年ジュネーブの国連主催「核兵器・現代世界への脅威展」に出席し、核兵器廃絶、世界恒久平和実現を 強く訴えました。そして、核兵器廃絶、世界恒久平和実現を強く訴えました。そして、平和へのうねりの大きな高まりと、それにもまして、核戦争の危機を肌で 感じたのであります。
 米ソ両大国をはじめとする核保有国の指導者の皆さん、すべての人類を数十回も殺すことのできる核兵器の貯蔵がどうして必要でしょうか。直ちに核兵器の実験と生産をやめて下さい。
 地上から、空中から、海上から、いつ発射されるかもしれない核兵器におびえながら、平和がいつまでも続くというのでしょうか。
  日本政府は「非核三原則」の中の「核を持ち込ませず」に疑いをもっている人々に誠意をもって答えて下さい。私たちは、武装した外国艦船の出入に大きな不安 を抱いております。日本の国土とその周辺を非核武装地帯とすることに力を注いでください。また、昨年、鈴木前首相が第2回国連軍縮特別総会で提唱した「核 軍縮の最優先」「国連の平和維持機能の強化、拡充」を一刻も早く推進してください。
 日本の皆さん、私たちは後遺症に苦しみ、年老いていく被爆者に国家補償による援護の確立を強く訴えてきました。暖かいご支援をお願いします。
 長崎の皆さん、私たちはあの原爆の恐ろしさを忘れることができません。全市民が力を合わせ、「平和は長崎から」の声を全世界に送りましょう。また、被爆者の皆さんが積極的に原爆の残酷さを証言して下さい。
  さあ、被爆者も、教育者も、母親たちも、そして、すべての国民が、平和への行動に立ち上がるときです。私たちの一人一人が平和をしっかり考え、勇気をもっ て発言するときです。人間のすべての生活が平和の基礎の上に成り立っていることを多くの人たちに伝えましょう。ただ、平和への草の根運動は常に立場や考え 方の相違を認めあう寛容の精神によって支えられなければなりません。
 最後に私は、米ソ両大国に被爆の実相を訴え、相互不信の打開のために平和使節団の派遣を提唱いたします。
 また、日本と外国の被爆者のための国際医療センターの設置が必要であります。その実現に力を結集しましょう。
 ここに、被爆38周年原爆犠牲者慰霊平和祈念式典を迎え、原爆殉難者のごめい福と原爆後遺症に苦しむ被爆者の健康と平安をお祈りするとともに、今こそ、核兵器を地球からなくし、世界の永遠の平和を実現するために、市民こぞって力強く歩き続けることを宣言いたします。

1983年(昭和58年) 8月9日
長崎市長 本島 等


【1984.8.6広島原爆忌:平和宣言(全文) 】

平和宣言 

8月6日—あの忘れ得ぬ日の一瞬の閃光と、身を焦がす灼熱、地軸を揺るがす轟音は、われわれの脳裡に焼き付き、今もなお消え去ることはない。

言語に絶する原子爆弾の惨禍を体験した広島は、繰り返し、核兵器の廃絶と恒久平和の確立とを、訴え続けて来た。

しかるに、米・ソ両国は、相互の不信と憎しみをますますつのらせ、核抑止論の名のもとに、自らの安全確保への道を核軍備の増強に求め、戦略兵器削減交渉や、中距離核戦力制限交渉を中断したまま、核軍拡競争に狂奔している。

また、両国の高度に開発された中距離核ミサイルのヨーロッパ・アジア地域への配備や、宇宙空間にまで拡大された核戦略により、軍事的緊張は極度に高まり、世界は核戦争の脅威にさらされている。

ひとたび核戦争が起これば、勝者も敗者もなく、全人類は絶滅するのみである。

この危機に直面して、インド・スウェーデンを始めとする6か国首脳は、核兵器保有国に対し核軍縮を要請するなど、軍縮への世界各国の動きが活発化している。

また、核兵器反対の市民運動は大きな盛り上がりを見せ、「ヒロシマの心」は世界に広く深く浸透し、これが国際世論にまで高まっている。

核兵器保有国は、これらの国際世論を真剣に受け止め、核実験を即時全面的に停止し、核兵器廃絶に踏み出すべきである。特に人類生存の命運をにぎる米・ソ両国は、直ちに核軍縮交渉を再開するとともに、互いの確執を断ち、一日も早く首脳会談を開催するべきである。

わが国は、憲法の平和理念を堅持し、唯一の被爆国として非核三原則を空洞化させることなく、これを厳守するとともに、核軍縮の促進と東西緊張の緩和に積極的に取り組まなければならない。

今や、人類は、破滅か生存かの重大な岐路に立っている。

われわれは、世界恒久平和の理想を高くかかげ、英知をもって対決から対話へ、不信から友好へ、歴史の流れを変えなければならない。

広島・長崎両市は、核兵器の廃絶を希い、平和と協調のため、世界の都市に連帯を呼びかけた。その輪は大きく広がり、被爆40周年には「世界平和連帯都市市長会議」を開催し、都市連帯による新しい平和秩序を探求する。

被爆39周年の本日、われわれは改めて原爆被爆者及び遺族のために、国家補償の理念に立った被爆者援護対策が早期に講じられるよう強く求めるとともに、犠牲となられた御霊の前に、深く慰霊の誠と平和への誓いとを捧げるものである。


1984年(昭和59年)8月6日

 
広島市長  荒  木  武
 

長崎平和宣言

1984年(昭和59年)

 日本の皆さん、世界の皆さん、ナガサキの声を聞いてください。あの日 11時2分、真夏の太陽を引き裂いて、せん光が走り、天地が揺れ動いた瞬間、長崎は地上から姿を消しました。人間が焼けただれ、肉を引きちぎられ、累々と 横たわり、また全身黒焦げになって、痛みと渇きに水を求めて、川辺に倒れた無数の男女、まさに人類滅亡の姿でした。
  私たちがこの丘に集まり、39年間、核兵器廃絶、世界平和実現を叫び続けてきたのは、長崎の一発の原爆が、広い地域のあらゆる生物を残酷に殺りくし、すべ ての構造物と社会機能とを、痕跡を留めないまでに破壊し尽くした、それは今後核戦争が興れば、地球は滅亡することを、長崎市民は知り得たからであります。 地球の未来は、今や人類自身の選択にゆだねられています。
  確かに、これまでの平和を求める国際世論と、大きな草の根運動のうねりが、核戦争のぼっ発を防いできた。しかし、絶え間なく繰り返される核実験、驚異的に 増え続ける核を含む兵器生産、ヨーロッパ、アジアに拡大される核兵器配備、中断したままの軍縮交渉、また増加し続ける局地戦争、まさに世界は、最悪の危機 にあります。なお、今日人間の生存を脅かす不幸な現実を、直視しなければなりません。今、発展途上国の数億の人たちは飢えに苦しみ、世界各地に難民と失業 者が増え、とくに未来を担う数千万人の子供たちは、教育の機会もなく、飢えと極度の栄養失調にあります。
  このような状況のなかで、日本の私たちが核兵器廃絶、世界平和実現の叫びを、今よりさらに大きく、世界の声とするためには、世界の人たちの苦しみや悲しみ の解決に力を尽くし、とくに発展途上国に対して、誠実さと謙虚さとをもって、技術と富とを分かち合い、信頼と友情とを獲得しなかればなりません。
 さて、被爆国日本の政府に、誠意をこめて申し上げます。まず日本の軍縮に真剣に取り組むこと、米ソ両国を直ちに軍縮の話し合いの席に着かせること、その際世界の平和を求める声を代表して、国連事務総長を同席させることに努力して下さい。
 また、今日ソ連のSS20の極東への増強とアメリカの核トマホークの艦船への配備等、日本周辺は、まさに緊迫した状態にあります。
  これらの核搭載艦船のわが国への寄港、通過について日本政府は、事前に核の有無を確認して「非核三原則」を厳守して下さい。また日本とその周辺を非核地帯 にすることに最大の努力を払って下さい。被爆者も教育者も、すべての国民が、決然として、平和を守ることを考え、行動に立ち上がるときです。
  最後に私は、米ソ両国への平和使節団の派遣と、世界の被爆者のための国際医療センターの設置を提唱いたします。日本政府に来年被爆40周年を期して、被爆 者の国家補償が実現することを強く求めます。また世界中の多くの人たちが長崎を訪れて、原爆の実相を確かめ、人類の未来を考えることを強く訴えます。
 ここに、原爆で亡くなられた御霊のごめい福と、ご遺族のご健康をお祈りし、長崎こそ、地球上の最後の被爆都市でなければならないことを誓い、世界永遠の平和実現のために、まい進することを長崎市民の名において宣言いたします。

1984年(昭和59年) 8月9日
長崎市長 本島 等






(私論.私見)