1950、1951、1952、1953、1954年平和宣言


 (最新見直し2007.8.7日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここに「1980、1981、1982、1983、1984年の広島、長崎平和宣言」を収録しておくことにする。

 2007.8.7日 れんだいこ拝


【1950.8.6広島原爆忌:平和宣言(全文) 】

長崎平和宣言

1950年(昭和25年)

 1950年(昭和25年)の平和宣言は行われておりません。


【1951.8.6広島原爆忌:平和宣言(全文) 】

市長あいさつ

平和実現への一里塚

6年前の本日、わが広島市は一瞬にして壊滅し20数万の市民がその尊い命を失いました。この言語に絶する戦災は戦争による人類の破滅を示唆し、恒久平和招来のためには、いかなる努力をも払わなければならないことを強く教えたのである。われわれはその深き意義に思いを致し、いよいよあらん限りの力を傾け、さらに子々孫々にもわたるねばり強い努力を継続することによって必ずこれを完遂しなければならないと固く覚悟するものである。 

8月6日は実にこの恒久平和実現の大道に一里塚を打建てる日である。われわれ広島市民は、この日を迎えることに過去を顧み、将来をいましめて一歩一歩大理想の実現にまい進する決意を新たにすべきで、犠牲者の霊を慰めるとともに平和への深き祈りを捧げて、30万市民うって一丸となり平和都市建設の礎とならんことを誓うものである。


1951年(昭和26年)8月6日


広島市長  浜  井  信  三


(この年は、平和宣言として発表されず、市長あいさつとして読み上げられた。)
 

長崎平和宣言

1951年(昭和26年)

 われら日本民族は過去半世紀帝国主義的侵略を行い武力をもってアジアの隣国を侵してきたのであるが、近代兵器の最高峰、原子爆弾によって戦争は終止符をうたれたのであった。われら長崎市民は広島の同胞と共に、日本の犠牲となり、世界の試験台となったのである。
 嗚呼、恐ろしい想い出の日が六度巡ってきた。8月9日午前11時2分、原子爆弾の一瞬によってわれわれの親兄弟妻子の尊い血潮がこの長崎の地を紅に染め上げた。
 この尊い体験、あまりにも高価な犠牲の体験から今やわれわれは大胆素直に戦争絶対反対を叫び、平和日本憲法を守り、原子力を平和の手にする猛運動を巻き起こし、人類の平和維持のために闘はんとするものである。
 平和はあくまでも平和的手段によってのみ生れ出る。
 この故われわれは相対立する国家群をはじめ、何れの国々とも友好関係を促進し、一方的講和条約をしりぞけすべての交戦国と等しく和解の講和を締結し、恒久平和を推進していかねばならない。
 原爆の地長崎より平和を絶叫するわれわれの雄叫びは必ず大きな流れとなり日本のみならず世界各国のすみずみまで流れほとばしるであろう。
  ここにわれわれは再びあのいまわしい8月9日の惨状を再現させないために平和を祈念するあらゆる民主的諸団体ならびに宗教諸団体が相提携し、世人の良心に 訴え世論をかん起し、固い団結をもって25万市民が打って一丸となり、平和運動を推進し全人類の繁栄のために闘うことを宣言するものである。

1951年(昭和26年) 8月9日
平和推進市民大会


【1952.8.6広島原爆忌:平和宣言(全文) 】

平和宣言 

時は空しく過ぎるものではない。7年の間、私たちは心にうけた恐ろしい傷あとをじっとみつめてきた。思えば人間の犯しうる過失の余りにも深刻なのに戦りつせずにはいられない。

けれども私達は人間の善意と寛容とを信じている。

己の尊厳を汚すことなく、むしろそれを生かすことによって、かえって世界に通じる道のあることを信じたい。

ひとりの心の中に愛情の火を点じ、ふたりの心の中にそれを受けつぎ、やがてはそれがひとつの聖火へと燃えつづけるとき、きっと世界は良心の環によってひとつに結ばれるに違いない。

私達は素直に反省し、このことを個人としての、また市民としての責任において考え、かつ実践することを尊い精霊たちの前に誓うものである。


1952年(昭和27年)8月6日


広島市長  浜  井  信  三

長崎平和宣言

1952年(昭和27年)

 今や世界は、冷たい戦争の様を呈し、再び戦争への不安感をつのらしているが、わが国は独立国として、平和憲法のもと、世界の恒久平和に貢献せんと決意している。
  わが長崎市民は原爆の悲惨苦を身を以って体験し、原爆戦による惨禍が人類の一大破滅を招来することを恐れるが故に、原爆7周年の記念日を迎えて人類愛と文 化の交流を基調とする国際親善をはかり、国際間の紛争防止に努め、以って世界平和の悲願を達成せんことを全世界に向かって茲に宣言する。

1952年(昭和27年) 8月9日
長崎市長 田川 務


【1953.8.6広島原爆忌:平和宣言(全文) 】(「平和宣言」

平和宣言 

あの戦慄すべき日から、ここに8年の歳月が過ぎた。

原爆下の広島の惨状は、今もまざまざとわれわれの眼に浮かんで来る。それは、人間の想像をはるかに超えた痛ましき限りのものであった。しかも1個の原子爆弾がのこした罪悪の痕は、いまなお、消えるべくもなく続いている。それは今後の戦争の深刻さを警告し、人類が自らの滅亡を望まないならば、再び武器をもって争ってはならないことを訓えている。

原子力を開放し得たことは、明らかに科学の偉大なる進歩であった。この近代科学の成果が殺戮と破壊のために使われるか、それとも全人類共同の福祉のために使われるかによって、人類の運命は、今や破滅か繁栄かの岐路に直面している。

本日、原爆8周年の記念日にあたり、われわれは、世界最初の原爆を身をもって知った広島市民として、全世界の人々に、重ねてこの事実を伝え、われわれもまた、決意を新たにして、平和確立のために精進することを謹しみて地下の貴き御霊に誓うものである。


1953年(昭和28年)8月6日


広島市長  浜  井  信  三

長崎平和宣言

1953年(昭和28年)

 私たち長崎市民は私達が身をもって体験した原爆の惨苦を、二度と再び地上の人類に繰り返させてはならない。
 8年の間平和祈念日を迎えるたびに私達は地球上のありとあらゆる地域に住む人々にたいし、人類愛の尊さと、人の和の偉大さを強く訴え、かつ又市民としての日常の営みの上にそれを実践してきた。
 惟うに人間個々をつなぐ愛の芽生えなくては家庭、社会はもとより、国家世界の総ての融和は達せられるものではない。
 人間の善意と慣用と一人一人をつなぐ愛こそが一切の平和の基礎をなすものであることを固く信ずる。
  私たち長崎市民は、本日の記念日にあたり、平和を愛する諸国民の公正と信義に依頼する覚悟を新たにし、全世界に正義と秩序とを基調とする永遠の平和が実現 することを念願してこれからの市民生活の営みの上に一つ一つその実を積んでいくことを七万有余の精霊の前に誓うものである。

1953年(昭和28年) 8月9日
長崎市長 田川 務


【1954.8.6広島原爆忌:平和宣言(全文) 】

平和宣言 

本日、われわれは、被爆9周年の悲しむべき日を迎えた。あの日投下された1個の爆弾は一瞬にして20余万の貴き人命を奪い去ったばかりでなく今なお、残存した市民の生命を脅かし続けている。

しかも、今や、原子爆弾につぐにさらに恐るべき水素爆弾の出現を見全人類の運命は愈々滅亡の脅威に曝されるに至った。人類史上これにまさる危機があったであろうか。

われわれ広島市民は、自らの不幸と思いを合わせてこれを坐視するに忍びず、ここに重ねて人類が再びその惨劇を繰り返すべからざることを警告し、一切の戦争排除と原子力の適当なる管理を全世界に訴えると共に、われわれもまた決意を新たにして平和確立のためにまい進せんことを謹しみて地下の諸霊に誓うものである。


1954年(昭和29年)8月6日


広島市長・広島平和協会長  浜  井  信  三

長崎平和宣言

1954年(昭和29年)

 われ等長崎市民は9年前の今日、悲哀と業苦のうちにあって、平和の先駆たらんことを決意した。
 爾来ひたすら世界恒久平和実現のために身と心の限りをつくして来た。
 しかるに国際間の軋轢は尚そのあとをたたず、不安と恐怖にさいなまれつつある。しかし、この切なる念願は人類総ての心に通うものあるを疑わない。
 世界の秩序と繁栄は正義と心理に基き、しかもそれは寛容と博愛と信頼によって培わるべきものであることを固く信ずる。
 われ等は今日の平和祈念日に当って更めて世界に負うべき使命を認識し、愈々決意を新たにして聖なる念願達成に邁進することを、ここに謹んで7万の英霊に誓い、世界に向かって宣言する。

1954年(昭和29年) 8月9日
長崎市長 田川 務






(私論.私見)