原水爆兵器投下指令史その2

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).8.9日
 (只今学習中故云々)



 テニアン島に到着した巨大なプルトニウム爆弾「ファットマン」。 1945年8月9日に長崎へ投下された。(UNIVERSAL HISTORY ARCHIVE/GETTY IMAGES)」。 
 1945年の夏、米国が世界で最初の原子爆弾を投下したとき、戦争は永久に変わった。たった1個の爆弾が、都市とその住民を丸ごと消し去ってしまう時代が訪れたのだ。 米国は、7月にニューメキシコ州の砂漠で原子爆弾の爆発実験を行った後、8月に日本の広島と長崎に原爆を投下した。だが、長崎への投下から日本が降伏するまでの6日間、米国はこれで終わりとはまだ考えていなかった。次の原爆投下は間近に迫っていた。 長崎への投下で米国は原爆を使い果たしており、降伏しなければさらに原爆を落とすというのはハリー・トルーマン大統領の脅しだったとする主張が根強くある。しかし、それは決して単なる脅しではなかった。

 第二次世界大戦末期、米国はできる限りの原子爆弾を製造していた。そして日本が降伏する直前まで、第3の原爆を落とす準備に入ろうとしていた。1945年8月15日に日本が降伏するわずか数時間前、米国時間では14日、英国の外交官を前にトルーマン大統領は沈痛な面持ちで、第3の原爆投下を命令する以外に「選択肢はない」と漏らしていた。戦争があと数日続いていたら、第3、そして第4、第5の原爆投下の可能性は著しく高まっていた。米国の計画では、2発の原爆で戦争が終わるとは考えられていなかった。核兵器に加え、日本の本土決戦が必要になるだろうと予測されていた。原子爆弾は強力な新兵器とはなるかもしれないが、それが決定打となるのか、日本の戦意を左右しうるのかは、まったくわかっていなかった。 日本の通信を傍受していた米国は、日本の内閣上層部の意見が割れていることを承知していた。1945年半ばに内閣の多数派を占めていた軍部は、米国を「流血」させ続ければ米国民はやがて戦争に飽きてくるだろうという淡い期待を抱いていたが、「和平」派はこれを愚かな戦略と考え、そんなことをすれば日本が崩壊してしまうと危惧していた。もし米国が日本の降伏を引き出すなら、軍部の支配を切り崩す必要がある。これまでの空襲作戦だけでは十分ではない。米軍は1945年3月から何度も日本の都市に対して空襲を行っていた。東京大空襲では、一夜にして10万人以上が死亡したとされ、数百万人が家を失った。ほかにも7月までに日本各地で60カ所以上が空襲を受けていたが、日本が降伏する様子はなかった。直ちにその態度を変えさせるには、原爆が革命的な武器であることを日本に理解させる必要があった。
 目標都市の選定
  米国は、1回目の原爆投下によって断固とした意思表示をしたかったため、最初の攻撃目標の選定には慎重な議論が重ねられた。科学者と主な軍の代表が率いるマンハッタン計画の目標選定委員会は、1945年4月(ドイツ降伏の約1週間前)に第1回目の会合を開き、目標都市の選定に入った。候補地として「ある程度広い都市地域で、目標自体は直径3マイル(4.8キロ)以上あり…東京と長崎の間にあって…戦略的価値が高いこと」との基準を設け、具体的に東京湾、川崎市、横浜市、名古屋市、大阪市、神戸市、京都市、広島市、呉市、八幡市、小倉市、下関市、山口市、熊本市、福岡市、長崎市、佐世保市の17都市を検討した。同年5月の会合でリストが修正され、有力候補順に京都市、広島市、横浜市、小倉市、新潟市に絞られた。京都は、大都市でまだ空襲を受けていなかったため、最有力候補に挙げられた。同じくまだ空襲を受けていなかった広島は、中心部に大きな軍事基地があり、周囲が山で囲まれていることから、爆発を「集中させて」破壊力を増幅させるとしてリストに加えられた。6月末に、委員会は京都、広島、小倉、新潟を指定目標リストに載せ、これら4都市への空襲を禁止した。5月末に空襲が行われた横浜は、このリストから外された。また、京都もそのすぐ後にリストから外され、空襲や原爆を含め一切の攻撃が禁止された。ヘンリー・スティムソン陸軍長官が、戦略的理由と感情的理由から、日本の古都は守るべきと判断したためだ。マンハッタン計画の軍部責任者だったレスリー・グローブス少将はこれに強く反対し、京都は価値の高い重要な目標であると繰り返し主張したが、最終的にスティムソンがトルーマン大統領を説得し、リストから外された。

 1945年7月、ポツダム会談に出席していたトルーマン大統領とスティムソン陸軍長官のもとへ、ニューメキシコ州のトリニティ実験場で原爆実験が成功したとの知らせが入り、トルーマンは興奮した。それまでは原爆開発にあまり関心を示していなかった大統領だったが、今やその新型爆弾が日本への強力な武器となり、ソ連に対してもメッセージを送ることになるとの理解にいたった。京都を外したことで、悪天候などに備えて、もう一カ所広島と小倉の近くにある都市を加える必要があった。長崎には捕虜収容所があり、地形もそれほど好ましくなかったが、港湾都市で軍需工場が2カ所あったことから、長崎をリストに加えた。

 最終的な攻撃命令の草稿はグローブスが作成し、トルーマンが閲覧した後、スティムソンとジョージ・マーシャル陸軍参謀総長によって承認され、7月25日に発効された。トーマス・ハンディ参謀総長代行からカール・スパーツ太平洋戦略航空軍司令官に送られた命令書には、次のように書かれていた。 「1945年8月3日以降」第20航空軍は最初の「特殊爆弾」を広島、小倉、新潟、長崎のいずれかへ投下せよ(これ以前の草稿では、これが優先順位であると明記されていた)。投下は(レーダーではなく)目視で行うこと。同行するのは観測用航空機数機に限ること。さらに「計画担当者による準備が整い次第、上記攻撃目標に追加の爆弾を投下するものとする」とある。初の4都市以外の目標については、改めて指示を出すとされていた。それは、原爆を1個投下せよという命令ではなかった。準備さえ整えば、何個でも投下することを許可するという内容だった。
 1回目の投下
 日本への空襲と原爆投下作戦の基地として使われたのは、北マリアナ諸島にある小さなテニアン島だった。日本が統治していたが、1944年夏に米軍が占領した後、島全土が基地化された。このテニアン島へ7月29日、「リトルボーイ」と名付けられた原爆の部品が運び込まれ、最終的な組み立て作業が行われた。8月6日午前1時頃、リトルボーイはB-29爆撃機「エノラゲイ」に乗せられ、基地を飛び立った。この日、広島の上空には雲がほとんどなく、午前8時すぎに町が視界に入った。8時15分、原爆が投下された。それは44秒間落下した後、TNT火薬およそ1万5000トンに匹敵する威力で爆発した。広島はほぼ一瞬にして炎に包まれ、破壊された。数分のうちに数万人が命を落とし、その後も原爆の影響でおよそ10万人が犠牲となった。エノラゲイは1万メートルの高度を1時間弱旋回して町を観測した後、テニアン島へ戻っていった。
 第2の攻撃
 ポツダム会談からの帰り、船の中で原爆投下の報告を受けたトルーマンは大喜びし、「歴史上最も偉大なこと」とコメントした。ニュースはすぐに報道機関に公開され、日本向けのラジオ放送でも流された。8月6日時点では、広島が受けた攻撃についてよく把握できていなかった日本軍は、科学調査団を現地へ派遣した。日本の原子物理学の第一人者だった仁科芳雄教授は8月8日、広島から「倒れずに残っている建物はほぼ皆無」で、見たところ「いわゆる新型とされる爆弾は、原子爆弾である」と報告した。

 日本がまだ広島で調査をしていたころ、次の投下準備は既に始まっていた。8月8日に気象予報を確認すると、作戦予定日とされていた10日の天気は思わしくなかった。そこでテニアン島の幹部はワシントンDCに相談することなく(トルーマンだけでなくスティムソンにすら知らせなかった)、当初の命令書により次の作戦遂行の決定権も自分たちにあると判断し、時を移さず原子爆弾「ファットマン」を組み立てて別のB-29爆撃機「ボックスカー」へ積み込むと、日本へと送り出した。目標は、九州北端にある武器庫の町、小倉市(現北九州市の一部)だった。ところが、町の上空は雲のせいなのか煙のせいなのか(前日に近くの八幡市が空襲を受けていた)視界が悪かった。ボックスカーは45分間上空から目標を探していたが、やがてあきらめて長崎へ向かった。  1945年8月9日午前11時2分、ファットマンは長崎上空でTNT火薬2万トン相当の威力で爆発し、一瞬にして7万人以上の命を奪った。ボックスカーはしばらくの間破壊の状態を観察してから、基地へ戻っていった。

 日本の大本営は8月9日、数日前のソ連による宣戦布告とそれに続く満州侵攻について話し合っていた時に、長崎が攻撃されたとの報告を受けた。このとき、日本がさらなる攻撃を予測していたかどうかは定かではない。しかし2回目の攻撃があったことで、米国には爆弾が1個しかないかもしれないという期待は吹き飛んだ。  ところが、2回の原爆投下もソビエト侵攻も、日本の無条件降伏受け入れを引き出すことはできなかった。日本は、天皇制を維持するという条件付きの降伏を米国へ申し入れる準備を進めていた。
 待機、そして次の投下への準備
 米国の首都は騒然としていた。8月10日、日本から条件付き降伏案を受け取ったトルーマン大統領と閣僚らは、その内容を隅から隅まで精査していた。グローブス少将はマーシャル参謀総長に書簡を送り、「次の爆弾」は予想よりも早く準備できると報告した。 ニューメキシコ州ロスアラモスでは、次の爆弾に使用される部品を完成させて、テニアン島へ運搬するための作業が急ピッチで進められていた。8月12日か13日にも最後の部品がロスアラモスを出発し、その1週間後には日本に投下できる見込みだった。 トルーマンはこの報告を受けるなり、準備作業を止めるよう命じた。マーシャルはグローブスへ「大統領の明確な許可なしに日本へ原爆を投下してはならない」と書き送った。広島への原爆投下後に「歴史上最も偉大なこと」と発言したトルーマンが、なぜ突然投下禁止命令を出したのだろうか。これ以上の原爆は戦争終結を早めるのではなく、終結へ向けた努力を妨げることになるのではと恐れていたという意見もあるが、別の歴史家は、トルーマンは大量殺戮をやめさせたかったからだと考えている。当時の商務長官で元副大統領ヘンリー・ウォレスの日記には、その朝トルーマンが閣僚に対して「さらに10万人の命を奪うなど考えただけで恐ろしい」と語ったと書かれている。トルーマンの口から出た「あの子どもたちが皆」との言葉は、人を殺すことへの嫌悪の表れだったのだろう。いずれにしても、トルーマンは決定権を自らの手に取り戻そうとしていた。おそらく知らず知らずのうちに、新型爆弾の使用に関する決定権は自分たちにあると軍に思い込ませてしまっていたようだ。最初の原爆投下については承知していたが、2回目はそうではなかった。もし3回目があるとしたら、それはトルーマンが直接命令を下さなければならない。
 第3の原爆、標的は東京だったか
 日本から降伏案が提示されたことは良い兆候ではあったが、トルーマンと閣僚にとっては十分ではなかった。受け入れられるのは無条件降伏だけであると、トルーマンは返した。そして次の数日間、ワシントンはひたすら日本からの返答を待った。米国メディアと軍では、次の原爆がいつ、どこへ落されるかについて様々な憶測が飛び交っていた。  トルーマンからの中止命令を受けた後も、陸軍はさらなる原爆は必須と考えていた。8月10日、スパーツ太平洋戦略航空軍司令官は陸軍航空軍の目標計画責任者ローリス・ノースタッドへ電報を打ち、次なる目標は東京にすべしと強く勧告した。「明確な目標を狙ったほうがより多くの破壊効果が得られるが、現時点では破壊よりも日本政府の指導部へ心理的圧力をかけるほうが重要であると考える」。同じ日、スパーツは「上層部がこの提案を検討中」であり、「最終決定」は2日以内に下されると告げられた。8月13日、スティムソンはテニアン島への部品の運搬を再開したほうが良さそうだと示唆した。グローブス少将は、今後の原爆投下スケジュールに関する最新情報をマーシャル参謀総長に伝達する役割を任された。マーシャルは、準備が整い次第原爆を使用すべきか、それとも日本本土進攻へ備えてそれを取っておくべきかを思案していた。本土決戦となれば、約12個の原爆が必要となる。いずれにしても、グローブスの代理人がマーシャルの代理人へ伝えたところによると、第3の原爆は「運搬の準備が整い、命令を待っている」状態であるということだった。  8月14日、スパーツは相変わらず東京を次の目標にせよとの主張を続け、「一刻も早く」第3の原爆を「東京へ投下すべく」、テニアン島へ運ぶよう求めていた。だが、またも決断は保留中であると告げられた。グローブスは、翌日にでも原爆投下に関する決定が下されると告げられていた。  その日の午後、トルーマンは英国大使と面会し、日本が無条件降伏に前向きでないことから、「東京への原爆投下を命じる以外もはや選択肢はなくなった」と伝えた。もしその命令が下っていれば、数日のうちに作戦は遂行されていたはずだ。
 終戦
 だが、幸いなことにそれが遂行されることはなかった。トルーマンが英国大使と話をして間もなく、日本時間で1945年8月15日、日本は無条件降伏を受諾すると発表した。日本がなぜ考えを変えたのか。原爆、ソ連の宣戦布告、日本軍の内部勢力。それぞれの相対的な役割を紐解くのは難しく、それらすべてが何らかの役割を果たしたと思われる。  第3、第4の原爆投下は確かに、第二次世界大戦終結をにらんだ米国の戦略に含まれていた。原爆が戦争を終結させるだろうという期待はあったものの、トルーマンから軍の司令官まで、あのタイミングで終戦になるとは思っていなかった。さらに多くの原爆が必要と考えられており、米国の上層部はさらなる投下命令に備えて急速に動いていた。もしあのまま戦争が続いていたら、次の原爆は確実に落とされていたはずだ。
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 2023.8.11日、林千勝「原爆は「日本人」に投下せよ…資料館に残る衝撃の「ハイドパーク覚書」 「降伏するまで繰り返し」非人道性の最たる一文も」。
 広島G7(先進7カ国)サミットで、各国首脳が訪れた広島市の原爆資料館には、多くの日本人が知らない「ハイドパーク覚書」が展示されている。なぜ、広島・長崎の人々の頭上への原爆投下に至ったのか。その答えが記された〝一次史料〟であるハイドパーク覚書は、1944=昭和19=年9月18日、米ニューヨーク州ハイドパークで、フランクリン・ルーズベルト米大統領と、ウィンストン・チャーチル英首相の会談の内容が記されたものだ。原本は、ハイドパーク郊外にあるルーズベルト大統領図書館に保管されている。原爆資料館の展示はコピーだが、この覚書の中盤に重要な一文が記されている。

《When a ”bomb” is finally available, It might perhaps, after mature consideration, be used against the Japanese, who should be warned that this bombardment will be repeated until they surrender.》

(爆弾が最終的に使用可能になった時には、熟慮の後にだが、多分日本人に対して使用していいだろう。なお、日本人には、この爆撃は降伏するまで繰り返し行われる旨、警告しなければならない)

原文は、英米首脳の合意・了解事項として、原爆投下目標は(市街地で暮らす)〝人間であり、日本人〟と明言し、〝降伏しなければ、「繰り返し」投下し〟ほぼ全滅させる趣旨を警告するとしている。〝非人道性〟の最たるものだ。

43年5月、米国軍事政策委員会は「トラック島(=西太平洋、カロリン諸島内に位置する島々)に集結する日本艦隊に原爆を投下することが望ましい」と大半の意見としてまとめた。当初から投下目標は、原爆開発の競争相手と見なしていたドイツではなかった。

しかし、44年2月に対象としていた日本艦隊が壊滅し、投下目標がなくなってしまった。そして9月、ハイドパーク会談で対象を人間、しかも「日本人」(「市街地・労働者・住民」)にした。彼らには、黄色人種への根深い差別意識がある。そのような意識がなければ、科学者や軍人そして政治家が、人々の頭上に直接原爆を投下するという発想にはならないはずだ。

原爆資料館の意義深いさまざまな展示を総合すると、米国による広島・長崎への「原爆投下の目的」は、次の3つとなる。
第1は、日本人に対して使用すること。
第2は、原爆の開発に膨大な経費(20億ドル)を投入したため、米国内に向けて費用対効果を正当化する必要があったこと。
第3に、原爆投下での戦争終結で、ソ連の勢力拡大を抑止すること。

 つまりは、戦後秩序を統制し、支配権、覇権を握ること。原爆を投下しその大量殺戮(さつりく)の威力・破壊力を見せつければ世界に恐怖を植え付け、支配できるということだ。これが現在に至るまで世界の核秩序につながっている。さらに、重要な点は、原爆資料館の展示では、終戦や本土上陸作戦による米軍の犠牲の回避が原爆投下の理由とされていないことだ。「日本人」への原爆投下を了解事項として確認したハイドパーク覚書の方針は、45年4月12日、ルーズベルト大統領が亡くなった後も変更がなく、疑問の余地のない明確化された想定だった。


 2023.8.15日、林千勝「日本への原爆投下〝8発以上〟の予定だった 3発目は東京へ…本当に問うべきなのは「なぜ、長崎で止めたのか」」。
 【発掘・考察 大東亜戦争】 「なぜ、広島に続き、長崎に2発目を投下したのか?」

 広島はウラン型で米テネシー州のオークリッジ研究所で開発され、長崎はプルトニウム型でワシントン州のハンフォード研究所で開発され、双方とも投下する必要があったと言われる。 しかし、本当は「なぜ、長崎(2発目)で止めたのか?」と問うべきなのかもしれない。 前回述べたように、原爆投下の狙いとして、費用対効果の正当化と威力・破壊力の誇示があり、それはハイドパーク覚書にあるように「繰り返し」の投下であればあるほどいい。現に、そのような計画であった。そこに、日本人の尊厳は無い。 米国などにある一次史料で、日本人への原爆投下計画の実際を確認できる。

 1945=昭和20=年8月10日、マンハッタン計画責任者のグローブス将軍から、チーフ・スタッフへのメモランダム(覚書=ジョージ・C・マーシャル図書館保管)において、3発目の投下は8月17日か18日以降の最初の天候が良い日とされている。 8月10日 ヘンリー・ウォレス商務長官(前副大統領)の日記(アイオワ大学図書館保管)から、ハリー・トルーマン大統領が日本降伏が近づいているという情勢判断により、一連の原爆投下計画の一旦停止を命じた。8月6日・9日の広島・長崎への投下は非人道的なものであったことを、遅まきながら認識したことが分かる。しかし、依然として日本のポツダム宣言受諾の報は入らなかった。 8月13日、原爆投下実務の責任者であるジョン・ハル大将(戦後の琉球総督)と、ライル・シーマン大佐(グローブス将軍の補佐)との電話会議記録(ジョージ・C・マーシャル図書館保管)は、以下の通りだ。
(1)(広島・長崎への)2発の原爆の効果は絶大だった。
(2)8月19日に3発目投下可能。
(3)9月に4・5発目投下可能。
(4)10月に6~8発目投下可能。
(5)10日ごとに投下は固い。本土上陸侵攻前にまとめて投下も検討。

 ちなみに、本土上陸作戦(ダウンフォール作戦)は、ハル大将が指揮し、主として関東と南九州への侵攻が予定されていた。本土上陸作戦と原爆投下は代替関係にあったのではなく、セットであった。 8月14日 トルーマン大統領と会談した駐ワシントン英国公使から英国外務省への電文報告(英国国立公文書館保管)によると、トルーマン大統領は、3発目の原爆の東京への投下を命令する以外に選択肢はないと述べた。 その数時間後の午後4時5分、ホワイトハウスは日本の降伏表明を受けた(=各史料の詳細は、ユーチューブ番組『これが本当の近現代史』『月刊インサイダーヒストリー』を参考)。 「なぜ、長崎(2発目)で止めたのか?」 理由は日本の降伏だ。そして、真珠湾攻撃の悪魔的帰結が一連の原爆投下だったと言えよう。 =おわり

  ■林千勝(はやし ちかつ) 
 近現代史研究家・ノンフィクション作家。1961年、東京都出身。東京大学経済学部卒、大手金融機関等を経て、近現代史の探究に取り組む。著書に『日米開戦 陸軍の勝算』(祥伝社)、『日米戦争を策謀したのは誰だ! ロックフェラー、ルーズベルト、近衛文麿 そしてフーバーは』(ワック)、『近衛文麿 野望と挫折』(ワック)、『ザ・ロスチャイルド―大英帝国を乗っ取り世界を支配した一族の物語』(経営科学出版)など。ネット番組「これが本当の近現代史」「月刊インサイダーヒストリー」などで情報発信中。

 2023.8.11日、林千勝「原爆は「日本人」に投下せよ…資料館に残る衝撃の「ハイドパーク覚書」 「降伏するまで繰り返し」非人道性の最たる一文も」。
 広島G7(先進7カ国)サミットで、各国首脳が訪れた広島市の原爆資料館には、多くの日本人が知らない「ハイドパーク覚書」が展示されている。なぜ、広島・長崎の人々の頭上への原爆投下に至ったのか。その答えが記された〝一次史料〟であるハイドパーク覚書は、1944=昭和19=年9月18日、米ニューヨーク州ハイドパークで、フランクリン・ルーズベルト米大統領と、ウィンストン・チャーチル英首相の会談の内容が記されたものだ。原本は、ハイドパーク郊外にあるルーズベルト大統領図書館に保管されている。原爆資料館の展示はコピーだが、この覚書の中盤に重要な一文が記されている。

《When a ”bomb” is finally available, It might perhaps, after mature consideration, be used against the Japanese, who should be warned that this bombardment will be repeated until they surrender.》

(爆弾が最終的に使用可能になった時には、熟慮の後にだが、多分日本人に対して使用していいだろう。なお、日本人には、この爆撃は降伏するまで繰り返し行われる旨、警告しなければならない)

原文は、英米首脳の合意・了解事項として、原爆投下目標は(市街地で暮らす)〝人間であり、日本人〟と明言し、〝降伏しなければ、「繰り返し」投下し〟ほぼ全滅させる趣旨を警告するとしている。〝非人道性〟の最たるものだ。

43年5月、米国軍事政策委員会は「トラック島(=西太平洋、カロリン諸島内に位置する島々)に集結する日本艦隊に原爆を投下することが望ましい」と大半の意見としてまとめた。当初から投下目標は、原爆開発の競争相手と見なしていたドイツではなかった。

しかし、44年2月に対象としていた日本艦隊が壊滅し、投下目標がなくなってしまった。そして9月、ハイドパーク会談で対象を人間、しかも「日本人」(「市街地・労働者・住民」)にした。彼らには、黄色人種への根深い差別意識がある。そのような意識がなければ、科学者や軍人そして政治家が、人々の頭上に直接原爆を投下するという発想にはならないはずだ。

原爆資料館の意義深いさまざまな展示を総合すると、米国による広島・長崎への「原爆投下の目的」は、次の3つとなる。
第1は、日本人に対して使用すること。
第2は、原爆の開発に膨大な経費(20億ドル)を投入したため、米国内に向けて費用対効果を正当化する必要があったこと。
第3に、原爆投下での戦争終結で、ソ連の勢力拡大を抑止すること。

 つまりは、戦後秩序を統制し、支配権、覇権を握ること。原爆を投下しその大量殺戮(さつりく)の威力・破壊力を見せつければ世界に恐怖を植え付け、支配できるということだ。これが現在に至るまで世界の核秩序につながっている。さらに、重要な点は、原爆資料館の展示では、終戦や本土上陸作戦による米軍の犠牲の回避が原爆投下の理由とされていないことだ。「日本人」への原爆投下を了解事項として確認したハイドパーク覚書の方針は、45年4月12日、ルーズベルト大統領が亡くなった後も変更がなく、疑問の余地のない明確化された想定だった。




 ★阿修羅♪ > 戦争b11 」の金剛夜叉 氏の2013 年 8 月 11
日付け投稿「日本人は知らない原爆投下の真実
 http://raizen.seesaa.net/article/218746300.html

 2011年8月6日、広島に原爆が投下されて66年が経過した。広島・長崎の悲劇は繰り返されてはならない。一瞬にして数十万の命を奪い、また生き残った人達もその後凄惨な人生を送ることとなった行為は正当化されるものではない。「繰り返されてはならない」であって「繰り返してはならない」ではない。日本人の発言としては「繰り返されてはならない」が適切であると思うがいかがだろうか。

 戦争をおこさない、あるいは参戦しない、ということに関しては「繰り返してはならない」という強い決意に同意だ。しかしながら広島・長崎の被爆は、日本が第二次世界大戦に参戦したから引き起こされた悲劇ではない。参戦したから原爆を落とされたという因果応報的な自虐史観はいかがなものかと思う。

 日本には元々第二次世界大戦を戦い抜く力はなく早く終戦させたかった。戦争を終結させるために原爆投下は必要ではなかったことは明らかだった。

 終戦後、GHQ占領の元でアメリカのためだけの資本主義、民主主義教育体制が構築され日本人は自虐史観を持つよう洗脳されてきた。勝てば官軍、負ければ賊軍。勝ったアメリカが正で、負けた日本は悪なのか?欧米諸国の侵略・略奪植民地主義から日本やアジア諸国を守ろうとし命を落としていった先祖達は悪で、原爆を落としたアメリカが正義なのか!アメリカに押し付けられた価値観ではなく、日本人は自らの文化、歴史に誇りを持って良いと思う。

 今、世界で戦争や紛争が起こると「人道的」という言葉がよく使われる。「人道的」とは人が人としてどうあるべきかを問う言葉だと思う。人が人であるならば、「人道的」という概念は太古の昔から変わっていないはずだが、どうやらこの言葉は欧米諸国の都合によって使い分けられているようだ。日本人はもちろん人間なのだが、欧米の一部のものたちはそうは思っていない。人間以下の動物と思っているわけだから、人道的という概念も日本人に対しては適用されないというわけだ。

 アメリカは自国民に対しプルトニウムを投与するという人体実験を国家プロジェクトとして行っていた国である。人間以下の日本人を原爆の実験台にすることに何のためらいもなかったのだ。

 最新の調査によると、アメリカ政府は1943年5月という早い時点で「対日投下」を決定し、原爆使用を来たるべき戦後の原子力開発競争において、アメリカがとりわけソ連に対していかに優位を確保していくかを中心に議論していたことが判明している。

 大戦中、アメリカとソ連は同じ陣営に属してはいたが、戦後の世界再建に向けてにらみ合っていた。ともに増大する軍事的脅威に危機感を感じ取っていた。ソ連はヨーロッパ戦線でベルリンを陥落し、東ヨーロッパの大部分を手中に収めるにまで至っており、アメリカと対等の席につくはずであった。ところが、原子爆弾という切り札によってソ連の優位は崩れ、アメリカに交渉のイニシアティブを握られてしまったのである。原子爆弾は「対ソ外交」を有利に運ぶ上で、効果的な材料だったのである。


 「マンハッタン計画」に携わったユダヤ人科学者の中で、もっとも反日強硬派だったのはフォン・ノイマンだろう。彼は日本人を蔑視し、京都を原爆の最初の血祭りにあげるべきだと主張。京都が日本国民にとって深い文化的意義をもっていたというまさにその理由によって、京都の破壊を求めていたのである。

 しかし、ヘンリー・スチムソン陸軍長官の反対によって、京都は原爆のターゲットから外された。彼は、京都の代わりに長崎の追加を指示したのである(1945年7月22日)。

 一般に、この時にスチムソンが京都を原爆のターゲットから外した理由として、「スチムソンは京都が歴史のある都市であることを理解していたから」という“美談”で語られる場合があるが、だまされてはいけない。この“美談”は、戦後、GHQがお涙頂戴好きの日本人を洗脳する為に、意図的に流したニセ情報である。

 アメリカ軍部の一部は京都を原爆投下目標とすることを諦めず、空襲を実施しなかった。原爆投下後に原爆の影響を正確に把握するため、空襲が禁止されていたのである。京都が最後まで空襲されなかったのは、原爆投下の前に日本が降伏したからにすぎない。

 スチムソン以外にも、「京都を戦果から救った恩人」と言われるアメリカ人が何人かいるが、すべて何の根拠もない流言に過ぎないのだ。詳しくは吉田守男著『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』(朝日文庫)を読んで欲しい。当時のアメリカ政府は、日本の文化遺産を根こそぎ破壊することに、なんのためらいもなかったのである。


 ところで、「マンハッタン計画」をスタートさせたフランクリン・ルーズベルト大統領は、日本人を“劣等人種”として激しく差別していたことで知られている。一般のアメリカ人の間にも、日本人に対する人種差別意識が蔓延していた。

 当時のアメリカの雑誌にはこう書かれていた。「アメリカ人はドイツ人を憎むことを学ばなければならないが、日本人に対しては憎しみが自然と湧いてくる。これはかつてインディアンたちと戦ったときと同様に自然なものだ。」「普通の日本人は知性が低く、無知である。たぶん人間なのだろうが、人間であることを示すような点はどこにもない。」

 当時、トマス・ブレーミー将軍も、こう演説していた。「諸君らが闘っているのは奇妙な人種である。人間と猿の中間にあると言っていい。文明存続のために我々は最後まで戦いぬかねばならない。日本人を根絶しなければならない!」

 ところで、「強制収容所」といえば、真っ先にナチスを思い浮かべる人は多いと思うが、第二次世界大戦中、自由と民主主義の国、アメリカ合衆国にも「強制収容所」があった。それも日本人と日系人専用のもので、約12万人もの民間人が財産と市民権を奪われて、カリフォルニア州からルイジアナ州までに広がる10数ヶ所の強制収容所に収容されたのである。

 このアメリカの日系人に対する強制収容政策の裏には、白人の有色人種に対する人種的偏見や差別意識があったことは明らかである。(この時期、同じ敵国であったドイツ系・イタリア系のアメリカ人は「お構いなし」の状態だった)。この日系人強制収容政策の最高責任者は、前出のヘンリー・スチムソン陸軍長官である。彼は太平洋戦争と原爆を語る上で、非常に重要な人物だ。彼は、セオドア・ルーズベルト大統領の時代に政権に入り、以後、1950年に死ぬまで、7人のアメリカ大統領に仕えたことで知られている。第二次世界大戦中は、「マンハッタン計画」の最高責任者を務め、広島と長崎への原爆使用を決定した。それ以前に、彼は、ロンドン海軍軍縮会議においてアメリカ代表団議長として、また、フーバー政権の国務長官として、日本海軍力の制限のために中心的に働いた。さらに、フランクリン・ルーズベルト政権においては、経済封鎖によって日本を窮地に追い込み、真珠湾攻撃へと駆り立て、ついに、アメリカを太平洋戦争に参加させた張本人である。ルーズベルト大統領が急死すると、彼はトルーマン大統領の背後で、実質的にアメリカの戦争を指揮した。(トルーマンはスチムソンを全面的に信頼した)。戦争が終わると、スチムソンは、原爆投下に対する批判を抑えるために、「原爆投下によって、戦争を早く終わらせ、100万人のアメリカ兵の生命が救われた」と発言(1947年2月)。これが原爆使用正当化の定説となった。(「原爆神話」の誕生)。


 一般のアメリカ人に、なぜアメリカが広島と長崎に原爆を落としたのかを尋ねれば、たいていの人はこう答えるであろう。「アメリカ軍の日本上陸により、多くの犠牲者を出すことを避けるためであった。原爆を落とさなければもっと大きな悲劇を生んでいたであろう」と。しかし、この言説を鵜呑みにしてはならない。「当時、原爆投下以外にも日本への本土上陸を阻止する方法があったことは識者の間ではすでに常識となっており、トルーマンも彼の顧問もそれを知っていた」という事実があるからである。これは、アメリカ原子力規制委員会の主任歴史家であるサミュエル・ウォーカーの言葉である。

 1946年実施の戦略投爆調査の結論も、「原爆が投下されなくても、またソ連が宣戦布告しなかったとしても、さらには日本上陸を考えなくとも、1945年12月31日までには確実に、そしておそらく1945年11月1日までには、日本は降伏していたであろう」として、先の歴史家サミュエル・ウォーカーと同じ結論を示している。

 1989年に公開された、陸軍省諜報部による1946年の最高機密調査では、「日本の降伏に原爆はほとんど関係がなかった」という大胆な結論が出されている。そして第二次世界大戦終結の決定的要因はソ連の宣戦布告であったとされ、アメリカの大規模な日本侵略が行なわれることはなかったであろうと記されている。

 つまり、「日本を降伏に追い込んだのは、原爆の使用ではなく、ソ連の参戦であるといっても過言ではない」というのが同調査の結論であった。また、スタンフォード大学の歴史家バートン・バーンスタイン教授によれば、統合参謀本部の諮問グループ、統合戦争計画委員会は当時、ソ連が宣戦布告しない場合でも、九州への上陸だけで戦争を終結できるであろうと結論づけていたのだ。

 ヨーロッパのアメリカ軍司令官アイゼンハワー将軍は、スチムソン陸軍長官から計画を報告された時のことをこう記している。「彼の報告を聞いているうちに、暗い気持ちになった。私は彼に深い不安を伝えた。まず、日本はすでに敗北しており、原爆は全く必要ないということ、次にアメリカ人の命を救う手段として、もはや不要ともいえる兵器を使用することで国際世論に衝撃を与えることは避けるべきだと伝えた。」

 アイゼンハワーの見解は「日本はできる限り体面を損なわない降伏の方法を模索している。恐ろしい兵器で日本に打撃を与える必要はもはやない」というものであったのだ。

 現在では、原爆は恐らく戦争を長引かせ、アメリカ兵の命を救うどころか、奪ったと信じる歴史家もいる。なぜなら、国務次官ジョセフ・グルーは、1945年5月には降伏条件を変えるだけで戦争は終結すると大統領に進言しており、また大統領は原爆が完成するまで明らかにそれを引き延ばしたからである。タフツ大学の歴史家マーティン・シャーウィンは、「トルーマン大統領がジョセフ・グルーの助言を受けていれば、アメリカ兵、日本人の犠牲者の数は大幅に削減されたことであろう」と語っている。スチムソン陸軍長官もまた後になって、「歴史の中で、アメリカは降伏の条件を延期したことによって戦争を長引かせた」としている。結局、アメリカ政府が日本に対して原爆を使用したのは、先に触れたように、戦争を早期に終結させるためではなく、戦後の対ソ外交を有利に運ぶ上で、効果的な材料だったためである。アメリカ政府は1943年5月という早い時点で「対日投下」を決定し、原爆使用を来たるべき戦後の原子力開発競争において、アメリカがとりわけソ連に対していかに優位を確保していくかを中心に議論していたのだ。

 大戦末期、米軍幹部の間では、原爆を投下しなくてもいずれ日本は力尽きるという予想が大勢をしめていた。しかし、トルーマン大統領は、ソ連の対日参戦で日本が降伏する前に、原爆という圧倒的なインパクトのある兵器を投入することで、日本にとどめを刺したのはソ連ではなく原爆、というイメージを全世界に与えようとしたのだ。「原爆ホロコースト」に重大な責任がある人物を挙げるなら、その筆頭は、直接ゴーサインを出したトルーマン大統領だろう。「原爆の誕生」自体は、当時の「原子物理学」発展の流れにおいて避けられなかったとしても、原爆の「実戦使用」に関しては、彼個人の「政治的な判断」で避けようと思えば避けられたのだ。(原爆は作った人よりも使う人に問題があると思う)。しかし彼は、原爆を使わずに戦争を終わらせるなどとは考えもしなかった。彼は誕生したばかりの超兵器=原爆を使用したくてたまらなかった。人間のいない荒野で爆発させるのではなく、人間が密集する大都市の上で爆発させて、その破壊力を試してみたい気持ちに駆られていたのだ。人体実験をしたかったのだ。彼は日本から提示された降伏条件をはねつけ、日本への原爆投下を命じた。しかも無警告で。2発も。そうしたうえでその降伏条件を認めたのだった。彼は自分の行動を正当化するために、「原爆投下により100万のアメリカ兵の生命が救われた」とする「原爆神話」を積極的に広めた張本人でもある。

 「原爆ホロコースト」の実態より

 広島大学の名誉教授である芝田進午氏は、原爆の対日使用は「人体実験」だったとして、1994年に次のように述べている。「広島・長崎への原爆攻撃の目的は何だったのか。1つには戦後世界でのアメリカの覇権確立である。そしてもう1つは、原爆の効果を知るための無数の人間への『人体実験』である。だからこそ、占領後にアメリカ軍が行なったことは、第1に、原爆の惨状についての報道を禁止し、『人体実験』についての情報を独占することだった。第2に、史上前例のない火傷、放射能障害の治療方法を必死に工夫していた広島・長崎の医者たちに治療方法の発表と交流を禁止するとともに、死没被爆者のケロイドの皮膚や臓器や生存被爆者の血液やカルテを没収することだった。第3に、日本政府をして国際赤十字からの医薬品の支援申し出を拒否させることだった。たしかに、『実験動物』を治療するのでは『実験』にならない。そこでアメリカ軍は全力を尽くして被爆治療を妨害したのである。第4に、被爆者を『治療』せず『実験動物』のように観察するABCC(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置することであった。加害者が被害者を観察するというその目的自体が被爆者への人権蹂躙ではなかったか。」


 広島で女学生(14歳)のときに原爆にあい、現在も原爆後遺症で苦しむ詩人の橋爪文さんは、「ABCC」(原爆傷害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)について、次のような恐ろしい事実を述べている。
まさにアメリカがやったことは、「人体実験」だったといえよう。「私は広島の生き残りのひとりです。 〈中略〉 ここで、ひとつ触れたいことは『ABCC』についてです。これは日本でもほとんど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に『原爆傷害調査委員会』(通称ABCC)を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行ないました。その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。治療は全く受けませんでした。そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。日本政府もそれに協力しました。こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。しかもそれは戦争が終わった後で行なわれた事実なのです。私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。あれから50年、『ABCC』は現在、日米共同の『放射線影響研究所』となっていますが、私たちはいまも追跡調査をされています。このように原爆は人体実験であり、戦後のアメリカの利を確立するための暴挙だったにもかかわらず、原爆投下によって大戦が終結し、米日の多くの生命が救われたという大義名分にすりかえられました。このことによって核兵器の判断に大きな過ちが生じたと私は思っています。」

 「原爆ホロコースト」の実態より

 アメリカは人口の多い全国の64都市を戦略爆撃していることも忘れてはならない。東京大空襲では一夜にして10万人以上の民間人が焼き殺された。広島・長崎は戦略爆撃、無差別空襲の極みとも言えよう。日本人はとてつもなく徹底的に、、、虐殺された。これを戦争犯罪と言わずして何と言うべきか。全ての犠牲者の御霊が安らかに眠らむことを願います。

コメント
01. 2013年8月11日
 昭和35年仙台の本屋で立ち読みした本は仙台空襲15周年を記念して空襲を語り継ぐ人達が出した本である。そこには約3800人の人達が一晩でアメリカ軍に焼き殺れたと出ていた。ところが今仙台で出している空襲の犠牲者は約1600人と発表している。岩手県被団協会長の斉藤さんが6年前に言われた言葉があります。ピカドンでアメリカに虐殺された広島市民は約80万人そのうち軍人は約6000人長崎市民は約30万人軍人は約3000人が虐殺されたそうです。で、斎藤さんに質問しました。広島の原爆ドーム前の石碑には死亡約10万人と書いてあるよと言いました。そしたらアメリカからその様に書けと命令されたそうです。斉藤さんは当時爆心地から2キロ程離れた比治山の陸軍情報部に勤務していた少尉の人です。
05. 2013年8月12日
 「マンハッタン計画」をスタートさせたフランクリン・ルーズベルト大統領は、日本人を“劣等人種”として激しく差別していたことで知られている。一般のアメリカ人の間にも、日本人に対する人種差別意識が蔓延していた。アメリカの雑誌にはこう書かれていた。「アメリカ人は、日本人に対しては憎しみが自然と湧いてくる。これはかつてインディアンたちと戦ったときと同様に自然なものだ。」「普通の日本人は知性が低く、無知である。たぶん人間なのだろうが、人間であることを示すような点はどこにもない。」当時、トマス・ブレーミー将軍も、こう演説していた。「諸君らが闘っているのは奇妙な人種。人間と猿の中間にある。文明存続のために我々は最後まで戦い日本人を根絶しなければならない!」。 ・・・・そうか、うん、よく言ってくれたね。おそらく今もそうだろう。アングロサクソン アメリカ人やイギリス人 が大嫌いになりました。西欧で一目をけるのはドイツ人だけだな。彼らはユダヤやアングロより優秀だ。
06. いちごサンデー 2013年8月12日
 1945年3月10日、東京大空襲で10万人の方々が亡くなりました。それに対する報復として、日本はアメリカの首都であるワシントンやニューヨークに空爆を……などということは全く不可能でした。西海岸さえ攻撃できていません。西海岸まで半分の距離、太平洋のド真ん中のハワイを開戦直後に奇襲しながら、橋頭堡にすらできませんでした。敗戦は確実でしたが、軍部官僚のメンツのためだけに大本営発表により各地で連戦連勝しているように装いながら戦争は続けられました。バンザイアタックで長引かせました。その結果原爆を落とされたのです。それでも軍部官僚が理解できなかったため、もう一発食らいました。本当に命が軽視されていました。「20million Japanese war crimes ww2」で検索してください。世界中の方々の記録や意見が見られます。日本ではネット自民が「日本軍は2000万人のアジア人を殺した」という世界的な歴史常識をリビジョニズムで歪めようとしていますので、英語の方がいいです。

 今の日本は90年代のドイツのような有り様です。ネオナチを中心として「ガス室はなかった」「ユダヤ人が600万人(※この数字は誇張されていると思われますが)殺されたのは嘘だ!」と騒ぎ立て、犠牲者は200万人程度だろうとする他国の学者も現われましたが、ではそれでナチスに対する世界の見方が変わったかと言うと、何も変わりませんでした。つまり国際社会的には何も意味がなかったどころか、むしろドイツに対する警戒感が拡大したのです。終戦については「victory over japan day」「Victory in Japan Day」で検索してください。

20世紀は大戦争の世紀(5)日本軍は2000万人のアジア人を殺した
http://yamanasi-satoyama.blog.ocn.ne.jp/blog
/2012/08/post_8cda.html

人権と原発
http://d.hatena.ne.jp/nemimini_mimimi/
http://image.bayimg.com/123c1cf82a6862d2fccd1c8
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http://bayimg.com/GAoAEAAEe
http://image.bayimg.com/d0ee4289da40cb6a46bc71
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http://bayimg.com/GAoamAaeE

21. 2013年8月13日
 パンプキン爆弾(かぼちゃ爆弾、Pumpkin bomb)とは第二次世界大戦中にアメリカ軍が開発、使用した爆弾である。1945年8月9日に長崎に投下された原子爆弾(原爆)「ファットマン」の模擬爆弾として知られる。単に「パンプキン」と呼称される場合も多い。正式名称は「1万ポンド軽筒爆弾」。「ファットマン」とほぼ同一の形状を有し、重量もファットマンとほぼ同一になるよう調整された模擬原爆で構造分類上での通常型爆弾のコードネームである。マンハッタン計画に携わる、ロスアラモス研究所の科学者と兵士によって命名された。この爆弾は原爆投下に備えた爆撃機乗員訓練のためと、今までに例のない特殊な形状をしたファットマンが爆撃機(原爆搭載可能なように特殊改修を受けたB-29)から投下され爆発するまでの弾道特性・慣性能率等の様々な事前データ採取のためにいわば「模擬原爆」として製作された。 wiki より
29. 2013年8月13日
>東条英機の東京裁判での証言「臣民が陛下のご意思に背いて何
かなすことなど考えられぬことであります。いわんや日本の政府高
官においてをや!」
31. 2013年8月14日
>>02>>22

「正しい宗教」なんて言い出した時点でOUT!そんなものはない。一神教では信奉する神以外は「邪教」だが、多神教では「すべてが神」であり尊ばなくてはならない。敗戦を宗教と絡めるのは誤り。当時の軍指導部や政治家が宗教によって国策を決定したと考えるのは、一神教徒にとっては判りやすい説明だが真実ではない。

●"劣等人種"の大量被曝の影響実験としてのヒロシマ、ナガサキ。
        ↓
『米国による広島、長崎への原爆投下は最初から「市民の殺戮」が目的だった!』
http://www.asyura2.com/11/senkyo118/msg/156.html

●"劣等人種"の低線量被曝の影響実験としてのフクイチ。
        ↓
『南相馬市、恐怖の人体実験!?人体への低線量被曝の研究を強力に推進』
http://news365news365.seesaa.net/article/322089058.html

-----(一部引用させていただきます)

「放射能の挙動と放射線レベルの解明及びそれらによる被ばく線量の評価法の開発並びに低レベル放射線の人体に及ぼす身体的・遺伝的影響の機構の解明及びそのリスクの評価に関する研究を強力に推進していく」(『新たな発想による事業事例の研』~ 経済復興計画の策定に向けて~』:南相馬市経済復興研究チーム)

ここまで、はっきりと書かれている公文書は初めて見ました。今までは、汚染地域(ここでは南相馬市)に住んでいる人たちは、陰で、「モルモット」とささやかれ、また、自虐的に、言っていましたが、この公文書により、はっきりと、「モルモット」になることが、明言されました。「家畜を包含する生息環境を研究」。つまり、人間を含むということでしょう。「南相馬市は放射能による生態への影響を調査及び研究する意義が大きいフィールドとなつており」、つまり、汚染が広範囲、全域にわたっているということ。広島、長崎で得られなかった詳細な低線量被曝のデータを、今回の福島第一原発爆発事故により、収集し、研究に利用しようとしています。そして、収集したデータは、収集者、つまり自治体(たぶん=国)の都合の良い様に改ざんされ、捏造され、そして、都合の悪い部分は、非公開。そうなるような気がします。

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47. 2013年8月15日
■民主党を破壊した仙谷一派の中の長老・藤井裕久がまた米国擁護(原爆投下は仕方なし)の詭弁を扱いている。藤井裕久といえば民主党政権で財務大臣をやって菅と野田を従え官僚の犬に調教した大悪党だ。仙谷が小沢追放の犯罪を犯し、藤井裕久が鳩山後の菅と野田の育成係りを担当した。この二人が国民が選んだ民主党を潰した張本人と言っていい。この大悪党・藤井裕久が東京新聞で鬼畜米国を擁護するための昔話を、そうとはわからないように巧妙に発言している。
    ↓
 『核爆発開発 中学生も動員 「ばかな戦争から学ぶべき」』(東京新聞、2013.8.15)

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 「新しい武器の発明は青少年に期待するほかない」

 終戦一年前の1944年9月、国会で「戦時英才教育機関設置に関する建議案」が可決された。翌年、核爆弾の製造を目指し、理系のエリート学生を集めた「特別科学組」が編成された。元財務相の藤井裕久氏はメンバーの一人だ。当時を振り返り、改憲、集団的自衛権の容認などを推し進めようとする安倍政権への思いを聞いた。(略)「数学のできそうな生徒が選抜されて上野駅に集まり、出発した。(略)米国では(原爆開発の)マンハッタン計画が進んでいた。(略)そんな時、中学生からやろうなんてむちゃくちゃな話だ。なぜ、そんなばかな戦争をやったのか」。

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 笑っちゃうね。なんで突然こんな話を新聞社に(おそらく)持ち込んで記事にしなきゃならんのか?従米・従官の長老の一人藤井裕久の答えは一つだ。米国のヒロシマ、ナガサキ原爆投下100万人虐殺を正当化するためだ。要は「日本は原爆の開発を始めていました」、だから原爆投下はやむをえなかったといいたいのだ。この老醜は国民の民意を破壊し、米国の側に立ってヒロシマ・ナガサキ原爆投下の正当性を側面支援する。仙谷由人、藤井裕久、江田五月。これらはみんな東大法学部。バカモン族はどこまでも従米であり、売国・棄民の逆賊なのである。

●東京新聞も気を付けて! 狙われているぞ!

48. 2013年8月16日
 広島も長崎も東京大空襲も、神戸も仙台も新潟も日本本土の空襲は  「ハーグ陸戦協定」違反(非戦闘員の虐殺)です。彼らの言い方からすれば、米軍はとりあえずB級戦犯になります。原爆製造、原爆使用はA級戦犯です。
62. 2013年8月18日
 ドイツ空襲には大型最新鋭のB29は使用されなかった。白人ドイツなので原爆投下使用しなかった。「黄色い猿」の日本だからこそ、これらは使用されたのだ。厳然たる事実である。マスゴミが言うようなその後多くの小賢しい理由づけは、全て毛唐アメリカの逃げ口上でしかない。神を信じる国のアメリカがやったこんな赦されざる蛮行を、一体キリストは赦すのか?これ一つにしても、ペテンいかさまアメリカであり、眉つばキリスト教というこにならないか?
63. 2013年8月18日

 中型戦略爆撃機のB29の初飛行はヨーロッパ戦線に投入されたB17より3年ほど遅れ、日本の敗戦3年前ということだ。第二次世界大戦が始まってすぐにアメリカは大型長距離爆撃機の開発に着手しているから、準備でき次第アメリカを離陸したんだろ。近代化も近代戦も当時は工業力が戦力を決めることになり、アメリカ全土の工業力を地獄の釜に例えるとするなら、日本のそれは遅刻の鹿馬のようなお粗末なものだったとも考えられる。気合だけ世界一だったのかもしれないが、あらゆる工業技術においてアメリカの方が十年早いという認識が軍部には皆無とは言えなかったまでも、戦争回避を軍部上層部が判断するに至るべく軍事力の詳細な認識には乏しかったのであろう。

68. 2013年8月20日
 アメリカの学者が言ってるな。中国共産党が3000万自国民虐殺。国民党が1000万人自国民虐殺。日本軍がアジアで500万人他国民を虐殺。隣のチョンは戦後なのに韓国で自国民数百万、北が数百万自国民虐殺。また最近も韓国に逃げてきた中国避難民を中国の要請により強制送還。日本は少なくとも好んで自国民は殺さないな。現在”コリアン”と韓国人をアメリカ人が表現するのは差別用語になってるね。韓国って相当悪いイメージがあるんだね。有史以来弱小国で現代ではさらに馬鹿だから2つに割れてるね。日本の非難より先に自国の後始末を先にやれよ。また東西ドイツを見らなえよ。隣国平和日本では迷惑千万だよ。
69. 2013年8月20日
「模擬原爆」(パンプキン)は軍需工場や基地ではなく、市街地にも投下されている、これは投下演習と爆風や衝撃波からB29戦略爆撃機がいかに回避するための訓練。(実質49発投下)当時、日本の主要都市は、無差別爆撃で破壊されていたのに、広島と長崎はほとんど、空襲を受けていなかった。広島への原爆投下時間も、ちょうど市民が動き出す頃の8時15分19秒。都市の大きさ・山に囲まれている・重要な基地があった。(完全に人体実験)投下された原爆の目標地点は、相生橋だが突風が吹いてシマ病院の方向へ流されたらしい。(爆心地のシマ外科の住居人は、炸裂する前に大量の中性子を浴びて即死だったとされている)爆心地から170メートルの(当時)燃料会館(現レストハウス)の地下倉庫に偶然居て助かった人がいる。

※ 実際に広島を訪れ、原爆ドーム(広島県産業奨励館)の前で立ち止まって無意識に空を見てしまった。その後に原爆資料館(入館料50円)に直行。

73. 2013年12月28日
07さん

 日中戦争(支那事変)について、私は専門家ではありませんが、次のように認識しています。

 いつから日本人が2000万人だの殺したことになったのかというと、70年代後半位からそれらの数字が中国共産党により、持ち出されるようになった。戦争直後、蒋介石や国連の発表では100万から130万で、それですら誇張だと言われていました。一挙に膨らんだ2000万人の内訳は、中国共産党支配下の大躍進や内戦、果ては文革時代の死者までもが、日本軍のせいにされたということで、政治的な数字であるのは蓋然性が高い。冷静に一次資料やソースに当たったがよいのでは。

75. 2013年12月28日

 フライイング・タイガースを御存知でしょうか?米国民にひた隠しで進められた、米志願軍人による、大陸での日本軍との戦争行為です。真珠湾の数年前から日本は中国大陸で、米軍やソ連軍と戦っていました。真珠湾が宣戦布告無しの戦争行為だと責められる理由は国際法上本来成立し得なかったのです。それ以前に、「宣戦布告」から始まった戦争はないのですから。中国大陸では、ソ連軍や米軍兵士が、中国国旗を付けた飛行機に乗って、日本軍機と戦っていました。米国本土の法律に反しているので、極秘にされた事実でした。

76. 2014年1月16日
 日本の支配階級に潜んでいたメースンが、米と通じていたのですよね。社会だけでなく軍人にも蔓延していた共産主義革命を恐怖していたので、アメリカに頼んで原爆を落として軍を一掃してもらったのですよね。もう隠すことは出来ないと思います。米から崩壊後のソ連文書からも、たくさん証拠文書が出てきていますしね。海外の見方は、とても厳しいものがあります。もう、国民にだけ、隠しきれるものではないでしょうね。
81. 2014年2月02日 09:18:43 : KUjB74mYjU
 日本人を人間などと思ってないから、原爆投下したというのが事実だ。バカな日本は戦後あの人種主義者で日本壊滅爆撃実施したカーチス・ルメイという極道に勲章などやっている。全くバカな国だ日本は!そもそもこれは日本人への反逆行為だ。アメリカはドイツこそ原爆落として然るべきだったが、ドイツには落とさなかった。使用した爆撃機も、ドイツにはより旧式小型のB17を使用しながら、日本には新鋭でより大型のB29を使用した。ドイツは石作りで強力爆弾が必要だったのだ。なのに、逆に木造家屋で爆撃量も少なくて済む日本に対してこんな非道やったのがアメリカだ。こんなものだ、身勝手独善の白人のやることは。そもそも、飢え死にしかけていたピルグリムファーザーズの命を救い、北米大陸での農業や生存方法まで教えてくれた北米先住民を彼らはどれほど非道残虐な扱いし滅亡させ、彼らの土地含む財産や文化文明を根絶やしにしたかを知ればよい。今の日本が全く奴隷如くアメリカに従っていることに怒り心頭になるはずだから。日本はいい加減には好戦悪魔帝国アメリカの植民地を脱せよ。今のままアメリカ一辺倒続けるなら、日本人は金玉抜かれるだけでなくケツの毛までむしられ尽くされるることだろう。
84. 2014年2月02日
 第二次世界大戦の当時なら仮に新型爆弾の開発に成功した国がどこであっても使用したと考えられるだろ。アメリカが超軍事大国になったのは戦争が終わってからのことだ。原爆の研究は軍人は何も恐れず猪突猛進したが科学者や研究者らは副産物の放射能の毒性をいち早く察知したことにより、皮肉にも超軍事大国であるアメリカが世界に先駆けて核拡散防止を呼びかける国になったのである。原子力エネルギーは未だに開発途上であることを如実に物語ってると言うことはできるだろう。地球上には人間が一人も住めなくする程のウランが存在していることが分かっただけでも一部の人類が勝手に利用することは利己主義というより我田引水と言う方が分かりやすいのだろうか。安全であることが証明されれば良いのだが、最終的には誰の手にも負えず責任を取らなくても良いことの安全保障が必要らしい。現時点では核利用の反対を唱える人間の方に理がある。
85. 2014年2月02日
 早期降伏を迫る為だったのならば一発で十分なはずだ。にも関わらず、ウラン型とプルトニウム型のタイプの異なる原爆を2発落としたことからも、一義的には実験目的だったと言わざるをえない。日本にも、伊400に搭載した艦載機でもってアメリカ本土に細菌兵器を撒き散らす作戦があったものの、結局船長が人道上の理由で反対し実現しなかった。
88. 2014年2月02日
 仮定の話だが、もし体調不良やスキャンダル等で安倍が辞任するようなことになったら、前回の自民党総裁選の結果から判断するに、次に首相になるのは石破だろう。ここの皆は既に知ってると思うが、石破は安倍なんかよりも遥かにアメリカべったりだからね。アメリカの言うことなら「はい、分かりました!」と二つ返事で了解し、その要請を粛々と実行してくるだろう。安倍は就任以来、大胆な金融緩和で円安誘導し、アメリカが止めろと言ってるのに靖国に行き、アメリカや欧州のトップが軒並み参加を見送るなかでソチ五輪の開会式へ参加を決めた事、インドに近づき独自の安全保障政策を進めつつある事、それから拉致問題もアメリカ抜きで進展させようとしてるらしい。以上の結果から、少なくともただのアメリカのポチでは無さそうだ。故に、そろそろアメリカからイチャモンが付く頃かな?安倍が首相であることは確かにベストでは無いかもしれないが、これまでの首相に比べたら間違いなくベターぐらいではあると言える。しかし、ここで石破になったら?
93. 2014年2月06日
 アメリカは日本国の総理大臣が靖国神社に参拝した事に「失望した」と声明を出した。広島や長崎に突如、原子爆弾を投下して女・子供・お年寄りなど罪もない一般市民を大量虐殺した。その数、20万人とも30万人とも言われている。この事に対する謝罪の言葉は一度たりとも聞いた事がない。この「失望した」発言には、今まで余り深く考えてこなかったものが、突如としてアメリカの理不尽さがくっきりと浮かび上がってきた。「南京大虐殺」とか「従軍慰安婦」と言った問題は、アメリカの狡猾な日本屈服・服従戦略として生き続けているのが、ネットなどの発達によってはっきり見えてきた。日本の新聞やテレビは彼らの手足に使われている事も。そのための餌として地位や名誉や金銭があてがわれている事も。アメリカのくびきから解き放たれなければならない。産みの苦しみを乗り越えて。
96. 2014年2月08日
 さすがのアメリカも、白人ドイツには原爆だけは落とさなかった。たとえ完成以前にドイツが降伏したとは言えである。だが、日本には2発も落とした。不要なのにだ。しかも、日本敗戦はそれ以前に確定していたのにだ。目的の為には手段選ばぬ白人アメリカだ。しかも、有色人種や自分らより「劣る」と決め付けた相手には容赦なく残酷な仕打ちしてきたのが白人アメリカなのだ。そもそも、白人侵略以前には平和素朴に生きていた北米先住民なのに、かれらを根絶やしにし、その土地をブン捕りデッチ上げて作ったのがアメリカであり、アメリカはそれ自体が「犯罪」そのものなのである。多くの日本人は「強い者に対しては弱く、卑屈に靡く」国民なので、アメリカの根本的悪事や間違いについて、たとえ知っていても、何も言わない、言えない。それよりも、弱い者イジメに専念する。原爆投下は防げたはずなのに、むざむざと白人アメリカの実験台として多くの同胞の首差し出したのが悪党の日本権力者らだ。そんな奴等自身は戦後もノウノウヌクヌクと生き延び、その末裔ジミンとその金魚の糞勢力らは今のようなデタラメ滅茶苦茶な独裁政治やっているという始末なのである。これが悪党らによるイカサマペテン八百長何でもあり日本の真実だ。
101. beobachter 2014年2月09日
 原爆がドイツに落とされなかったのは当然だ。5月に降伏した時点でまだ完成されてない。スティムソンが京都を外したのは敗北後の日本支配の困難さをさけるためだが、軍の中には最後まで京都に拘る勢力がいた。文民と軍の対立はやはり政治的計算で決着された。日本の侵略で苦しめられていたアジア諸国の民衆は原爆投下を喜んだとある。フィリピン人らはなぜ東京に落とさなかったのか。次は東京だ。と望んだそうだ。一般大衆への原爆投下を批判したのは、かつて日本の海軍機が無差別爆撃を行った重慶の新聞で共産党系とされるものだった。世界唯一の好意的反応だった。連合国側の西欧人はこれで戦争が早く終わると安堵したと正直に述べている。重慶とゲルニカは無差別爆撃のはしりだった。重慶でこれを目撃した米国大使館の武官は激怒し、「見ておれジャップども!」と叫んだそうだ。ルメイ将軍がそれであった証拠はないが、米空軍がそのような復讐心で東京大空襲に臨んだことは予想される。米軍はドイツ・ハンブルク、英空軍はドレスデンで報復を果たした。この論戦を見て、事実を客観的に調べず、単なる思い込みや他人のパクリで勝手なことを言い合っているのに驚いた。素人ではなく本物の専門歴史家(大学博士課程で専攻したテーマに関して述べているもののみだ)の研究を読むことをお勧めする。彼らは嘘を一度でもやれば、研究者失格だから、真剣勝負をやっている。なんでもありで売れればよい漫画家や物書きのいうことを真に受けるのは悲劇だ。なお言わせてもらうと、天皇の人気がないのに驚かされた。批判すべきは天皇個人ではなく、ご本人の意思を押し切って勝手なことをしてきた権力者の方だろう。とくに慎重で控えめな平和愛好者であらせられる今上陛下は神ではなく生きた個人として象徴天皇の役割を引き受けられておられる。日日分刻みで拘束され。
102. 2014年2月10日
 現在も米国は311テロ攻撃とtpp奴隷化とプラザ合意収奪で日本を滅ぼそうとしてるだろ。米軍基地で支配してる。それが現実だ。認めろ。米国が全部悪い。関東、東北5000万人を逃がさないようにして被曝させて殺そうと命令してるだろ。認めろ。現実は悪魔の米国が真実だ。イラク、アフガニスタン、シリア、で現在もジェノサイド実行中だ。認めろ。なにを洗脳されてとろいことプロパガンダしてるんだ。トンスル工作員は。お前達は日本が亡べば用済みで始末だろう。
107. けろりん 2015年8月08日


<<日本人は知らない原爆投下の真実 の真実>>

●日本< 統治 >プラン

 アメリカの国立公文書館で発見された「米国陸軍軍事情報部真理作戦課『日本プラン』」

 日本プラン」は1941(昭和16)年12月、すなわち日本軍の真珠湾攻撃の直後に作成が開始されたもので、「天皇を平和の象徴(シンボル)として利用する」戦略が明記されていた。すべての戦争責任を、「軍部」に押しつけて天皇を免罪し、「象徴天皇制」のもとで日本を占領支配するという計画を立てていた。1942(昭和17)年5月には「皇室に対するすべての攻撃は避けられなければならない」とする「英米共同指針計画」を出し、皇居への爆撃の禁止命令を厳格に実施させた。戦後駐日大使となったライシャワーはその当時、「日米戦争勝利後の“ヒロヒトを中心とした傀儡(かいらい)政権”」を提言し、「天皇は100万の軍隊駐留に匹敵する」と主張していた。対日戦争というのは、野蛮な日本の侵略をこらしめ、平和と民主主義のための参戦だったと欺瞞する。しかし、日露戦争後に、日本との戦争は必至と分析し、ハワイ攻撃を待って徹底的にたたきつぶし、無条件降伏させるという計画を持っていた。ライシャワーなどは、「戦争責任はすべて軍部にかぶせて、天皇を傀儡(かいらい)として利用する」といっていた。日本にかわって中国アジアを侵略するためであり、日本を占領支配するための戦争だった。そして、日本の人民が抵抗できないように、戦地では餓死、病死に追いこみ、内地では原爆投下、全国の都市空襲、沖縄戦でさんざんに殺しまくった。


 ●< 無条件降伏 >

アメリカとイギリスと中国の三国で取り決めた「 無条件降伏 」を日本に迫る< ポツダム宣言 >が、1945年7月26日に出された。その時点ですぐに受諾していれば、原爆は落とされなかった。しかしそれでは日本人を使って原爆の人体実験をする予定のアメリカとしては、計算違いになる。

そこで、ポツダム宣言を出しておきながら矛盾するのだが、スティムソン陸軍長官は天皇ヒロヒトと裏取引をした。

 ●ヨハンセン・スパイ<  白州 次郎 >

( 吉田茂を中心とする連合軍側のスパイ「 ヨハンセングループ 」が仲介者であった。メンバーには著名な「 白洲正子 」の夫で、イルミナティ( イギリスのウォーバーグ )のエージェントであった「 白洲次郎 」と、正子の父「 樺山愛輔( 正子の母、つまり愛輔の妻の父「 川村純義 」が、昭和天皇と弟の秩父宮の養育係であった関係で、昭和天皇の母「 貞明皇后 」と愛輔は昵懇の仲。御前会議の翌日には、内容がそっくり丸ごと白洲邸( 兵役免除され町田に疎開した次郎と正子の愛の巣「 武相荘 」)からウォーバーグ( ロスチャイルドの右腕 )に筒抜けだった )( ちなみに愛輔も貞明皇后もいずれもクエーカー派のクリスチャン )」が主になって動いていた。)







●ヒロヒトのスパイ<  畑俊六 >の米軍手引き

第2総軍司令官「 畑俊六 」元帥は天皇の密命を受け、大屋角造中佐( アメリカ情報通 )に命じて、原爆搭載機が飛び立つ「 テニアン島 」のアメリカ軍と極秘に情報交換をひんぱんに行い、原爆投下が無事成功するように取り計らった。( 原爆投下が無事成功するように、抜かりなく準備した )8月5日の夜は偶然を装って口実を設け、独り抜け出して遠方の知人の別荘に宿泊し、自分だけ避難した卑劣な男「 畑俊六 」。( 昭和天皇の卑劣さには到底及ばないが・・ )


142. 2016年6月01日
イルミナティにより日本人皆殺し作戦は、まだ続いているようです。

<驚きの現実・・・!> あのベトナム戦争の枯葉剤が林野庁の指示で四国にもまかれていた
http://sharetube.jp/article/2784/


 四国だけではないでしょう。全国の山林にまかれていた、のだろうと思いますよ。沖縄に撒かれたのは文書が発覚していますし。明らかに、最古層の日本人である、山の民に照準を合わせているのでしょう。自作自演であるらしいテロ原爆や空襲テロ、戦争棄民や地震・気象兵器その他の、ステルス兵器による民族浄化、薬や放射線を使った民族浄化なども同じところから生まれているのだと確信しています。

 これで明らかになりましたね。散布・埋設・遺棄先は、すべて京都や東京等、特定人口密集地から離れている場所である上に、大和朝廷族ではない、原住民勢力が居住する土地です。林野庁から枯葉剤を押し付けられたのは、16県1道ですが、高知県は、散布、埋設投棄ともに全国で1、2を争う多さです。16県1道の名前をここに列記すると、北海道、青森県、岩手県、福島県、群馬県、山梨県、愛知県、岐阜県、広島県、愛媛県、高知県、佐賀県、長崎県、熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県です。人口集中地帯を外しているのは、原発建設の立地条件と同じ理由によるものでしょう。つまり、林野庁は、散布、埋設投棄の危険性は百も承知しており、そのリスクを田舎に押し付けたのです。林野庁の天下り先の中には、農薬製造会社があります。高知県内では、四万十市(西土佐村)、四万十町(窪川町)、いの町(本川村)、北川村、大豊町、安芸市、土佐清水市、津野町(東津野村)、宿毛市、と


154. けろりん[839] gq@C64LogvE 2016年6月02日

ここ最近、広島・長崎原爆地上起爆説を扱っているサイトが かなり増えて来ています。 何故なのかは分かりません。 この私でさえも、2011年当時は「  陰謀論の極み  」として スルーしていた経緯も御座いますので、時間の経過と共に、私も含め、 ネット全体における意識レベルが変わって来たのかもしれません。

エノラ・ゲイ号の航路が、各地の空襲警報によりその全容がほぼ明らかになった。広島で原爆が爆発したのは、8時6分。 その時に、エノラ・ゲイ号は呉あたりを飛んでいた。 何故、8時15分投下でなければならなかったのか? 広島観測所が午前8時14分にB29確認と記録されているからだ。

1945年7月16日、米国ニューメキシコ州で行なわれた人類最初の核実験とされるトリニティ実験がアラモゴードで行われた。 ところが、当時のマンハッタン計画では、原爆の製造に失敗している。 濃縮ウランが出来ていなかったからだ。 これで、どうやって広島に原爆が投下出来るの!?

この広島・長崎原爆実験の大いなる闇は、日本建国史上における最大の謎であり巨悪犯罪に間違いありません。 どんな悪魔でも裸足で逃げ出すほどのおぞましいホロコーストです。 にも関わらず、国民の何と反応の鈍い事でありましょうか!? 日本人は最も大切な心の何かを失ってしまったようだ。


私が「  8時15分  」にこだわって考えるようになったのは、 2冊の本をほぼ同時期に読んだからである。
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『 原爆は本当に、8時15分に落ちたのか』/中条一雄著_三五館(2001年)
『 広島原爆 8時15分投下の意味 』/諏訪澄著 (2003年)
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この2冊を読み、「8時15分」という時間の持つ意味を考え続けた私は一つの 結論に達した。「広島原爆は完全に仕組まれていた!」

中条一雄は1926年生まれ、小中高と広島で育ち、19歳のとき被爆した。大学卒業後、朝日新聞の記者(スポーツ担当)となった。 当時、広島一中から広島高等工業(現広島大工学部) で、学業の成績がよかった彼は旧帝大への進学クラスに入り、 担当教授から研究テーマを与えられて広島に残っていた。 一瞬のうちに大破した校舎の下敷きになり、血まみれになりながら、必死の思いで木材の間からはい出して防空壕に転がり込んだ。そのとき時計を見たら、たしかに「  8時6分だった  」と、次のように話してくれた。前夜もいつものように最後の時報に合わせた。絶対正確だったという自信がある。 「  大破した校舎からはい出した時、自分の時計なら見向きもしなかったかもしれないが、友達の高価なものだから壊れていないかと心配で反射的に時計を見だ。 8時6分を鮮明に覚えている。絶対に間違いない  」。
山本郁郎君は2度も3度も「  8時6分  」を繰り返した。 /中条一雄

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エノラ・ゲイが、一度、広島上空に入り、播磨灘方面に飛び去り、Uタ―ンして、戻って来たのを広島市より20キロ東部にある広島観測所が 確認したのが8時14分と、当時の実記録が残されています。 だから、何がなんでも8時15分に投下されたとしなければならなかったのです。 しかし、実際に爆発が起こったのは、  8時6分  です。 8時6分に、エノラ・ゲイは、呉上空を飛んでいたと推定される。 エノラ・ゲイが、広島に原爆投下など出来る訳がない。

「  原爆を造らなければ良かった  」と言い残して死んだある日本人技術者
http://ameblo.jp/64152966/entry-12164817035.html

/by「wantonのブログ」
http://ameblo.jp/64152966/

★1945年8月 原爆の地上起爆の場所はどこか?
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1992879.html

●<  ヒロシマ  >編

○阪大系列『 島病院 』
 悪魔の勢力が、島病院の中庭で起爆するには、病院長と話をつける必要がある。初代院長でもあり被爆時の院長でもあったは島薫が病院を建てる際、患者が低料 金で治療・入院が受けられるように工夫したという。被爆前、細工町内には島病院を含め5つの医院があったが、島病院は安い治療代と「盲腸もすぐ治る」と噂 されたほどの手術のうまい病院として評判であったと言われている。島薫は広島の「赤ひげ先生」だったのです。 そのような先生が悪魔の勢 力と手を結んだとは思いたくない。とは言え、地上起爆の場所として可能性が高い場所は、島病院の中庭である。仮にここだとしたら、あの日、医療従事者や患 者の何名かは、いつもと違う中庭の様子を見たはずである。しかし、島病院にあの時間にいた人は、いつもと違う中庭の様子を見た人も見てない人も即死であっ た。 悪魔の勢力は、秘密を知った人をすべて抹殺しようとする。日航123便墜落事故< 高天原山事変 >でもそうだった。墜落直後はたくさんの生存者がいた。翌日早朝、口封じの為殺害された。殺害の際、意識を失っていた女性達が生き残り救出された。

464.川上慶子さんがアメリカ人と結婚したのはなぜか?
http://ab5730.blog.fc2.com/blog-entry-666.html

465.川上慶子さんは避難の為に渡米したのではないか?
http://ab5730.blog.fc2.com/blog-entry-667.html

466.日航ジャンボ123便が撃墜された後、生き残った多数の生存者の救助を遅らせ、生存者虐殺を招いた人物は誰か?
http://ab5730.blog.fc2.com/blog-entry-668.html

さて、話を島薫院長に戻そう。 何と、島薫と付添いの看護婦<当時の表現>1人は、前日の8月5日から世羅郡甲山町(現世羅町)にある知人の病院に出張診療(出張手術)に出かけていたため難を逃れたのだ!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%97%85%E9%99%A2

島院長が世羅郡甲山町の知人の病院に呼ばれて出張手術をすることになっていたのは、何と、年に一、二回、なのです。それがたまたま1945年は8月6日だったのです!

http://yo-koda.sakura.tv/genbaku/bakusin-sima.htm

8月6日当日、院長は出張手術で不在、更に、長男は学童疎開で田舎にいたために、他の2人の家族とともに生き残った!

http://iepcollege.org/news/%E5%8E%9F%E7%88%86%E6%
8A%95%E4%B8%8B%E3%81%A8%E
7%88%86%E5%BF%83%E5%9C%B0

何と、爆心地とされた病院の院長ファミリーは皆生き残ったのだ!  何という奇跡!

●<  ナガサキ  >編

(3)地上起爆の場所は? 長崎編

○三菱系列『  別荘コート 』
長崎の爆心地は松山町171番地にあった「高見別荘」のテニスコートです。ここは被爆寸前まで長崎の富豪、高見和平が所有していたが、三菱長崎造船所が女子挺身隊の宿舎にする計画で買収したばかりで無人だった。現在は平和公園内の通称・原爆公園内に、原爆落下中心地を示す碑が置かれている。

http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2004Ishi-no-
kioku/01/010311.html

被爆直前にやがて爆心地となる土地を売り抜けた高見和平! 何という奇跡!

/by「 大摩邇 」
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1992879.html


186. ネメシス[7] g2yDgYNWg1g 2016年6月24日
>けろりん様

 あらゆる説に渡って、その可能性を一旦は確認してみるという姿勢は、大変、共感できるのですが、正直、貴方ほどの知性のお方が、「地上起爆説」などという客観的に見て余りにもお粗末な科学論説に惑わされるのを見ているのは、正直辛いです。ピカドンの「ピカッ!」で一瞬の内に焼き付いた影から推測される複数の(空中を指し示す)方向から爆心点は決定されています。科学的に見て、これが一番納得のいく方法でしょう。事実、公式の科学者たちのチームも、そのような査定方法をとっているようです。

爆心地の決定に関する動画資料
原爆被災記録映画(熱線の影響)
https://www.youtube.com/watch?v=dPD9ettn2Ug

放影研 業績報告書1969 原子爆弾の炸裂点
http://www.rerf.or.jp/library/scidata/tr_all/TR1969-03.pdf

 個人的には、もうこれだけで充分な感じがするのですが、
本物黒酒女史を始めとする地上起爆派は、それを否定するのに「否、影は火球が上昇する途中、ずっと照らされ続けて出来た。だから最初に焼かれた部分は、後から新たに照らされた熱線で上焼きされて、輪郭線がおぼろになった・・・」などという奇説を持ち出してきました。 しかし核爆発の閃光(核分裂の連鎖反応)に要する所要時間は、百万分の1秒、あるいは1億分の1秒といった次元とも言われています。この段階で、既に「地上起爆説」は破綻しています。

ヒロシマ型原爆(ウラン原爆) - 原爆先生の特別授業より
http://www.hiroshima9.com/chishiki/u-genbaku.html
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 天皇家(皇室)が、とてつもないほど巨大な財閥であったことや、日本郵船(日本の婦女子人身売買)などの黒い一面を暴くことは一向に構いません。しかし最近の、そういったムーヴメントに恰も便乗した(?)かのような、原爆の製造すら、天皇(この場合は日本)に責任転化しようとする工作にはちょっと辟易してしまいます。どうもこの動きには統○教会系ネトウヨ、あるいは朝○総連系ネトサヨ達の臭いがぷんぷんしてくるのです。(まあ、何れにしろそれらの背後にいるのは米CIAで同じことですが・・・) そりゃ、日本だって当時、原爆開発に向けての研究はしていました。何もそれを頭から否定しているわけではありません。しかし残されているいろいろな証言や状況証拠などから、総合的に判断してやはり当時、日本軍が「原子爆弾を完成していた」とするのは流石に遣り過ぎなのではないかと思うのです。 ですから戦争終結にあたり、国体護持の代わりに人体実験の要求を呑まされ、広島と長崎を犠牲に差し出させられた(かも知れない)ということと、実際に炸裂した原爆が日本製だったという情報は、まったく別な次元の問題として、二つの事象を別々に分けて考えないと、いくら「天皇の戦争責任追及」に都合が良いから・・・といってホイホイとそんな餌に釣られてしまっては直ぐに足を掬われます。 普通、陰謀論では、バラバラの情報を組み合わせていって、ひとつの有機的な結論に達するのを目的としますが、今回の「地上起爆論説」に関しては、その余りのトンデモ科学的論説から、これはこれ、それはそれといったように、正しい情報と怪しい情報とをちゃんと分けて取捨選択し間違っている情報は剥ぎ取って捨てていかなければならないということです。


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今回いろいろと話題になった「広島長崎の原爆は日本製で、しかもそれらは地上起爆であった」説は、その一連の情報の出所を辿っていくと、

日本製原爆完成全文、とか、
http://nipponseigenbaku.com/?p=42

「本物黒酒」とかいうツイート主あたりがその大元のようです。
https://twitter.com/honest_kuroki/

前者のブログ記事に書かれている膨大な量の情報は、興味深いものも多々ありますが、何処までそれをそのまま信用して良いものだか、 そこの判断は素人には正直、難しいところがあります。※

※しかし、今では「地上起爆説」が明らかにおかしいと判った以上、 このブログの長ったらしい論説を真面目に分析する必要と意味が あまり無いということが判明したようです。

wantonのブログより
http://ameblo.jp/64152966/entry-12159461316.html#cbox 
(コメント番号:69~77番)

大摩邇(おおまに)さんのブログより
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/
1992929.html?1464797464

福田元昭の「桜の木になろう」ブログより
http://ab5730.blog.fc2.com/blog-entry-741.html
http://ab5730.blog.fc2.com/blog-entry-742.html
http://ab5730.blog.fc2.com/blog-entry-744.html


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さて、「広島原爆8時6分説」に関してですが、こういった証言もあるのですが、どう思われますか?僕は、こちらもかなり信憑性の高い情報なのではと思うのですが。

広島 鳴らなかった警報 。 。 。
http://www.dailymotion.com/video/xv00kr

広島城の敷地内に設置された旧陸軍司令部の地下通信室。当時14歳だった岡ヨシエさん(78歳)は、ここで 軍人から渡されたメモを読み上げ、放送局や役所に 「警戒警報」を伝える任務を担っていた。 「8時9分過ぎに 『B29が2機、東方向から広島県に侵入』 という情報が入ったんですね。(その後3機に訂正)」 「また来たの?さっき7時31分、警報解除になったばかりなのに・・・」 。敵機は、もう直ぐそこまで迫っていた。岡さんは 「広島と山口に警戒警報発令」 と書かれたメモを上官から受け取り、 放送局直通の受話器を手に叫んだ。 しかし・・・ 「一斉に交換機にコードを挿して、出た相手の人に『8時13分、広島県警戒警報発・・・!』 発令の 『発』 というところまで来たところで原子爆弾が炸裂して、 ここ(窓)からもの凄い光がピカーッと入ってきたんです」 。警戒警報は鳴らなかった(間に合わなかった)。 瞬時にして広島の町は崩壊した。 原爆を積んだB29 - 通称 「エノラ・ゲイ」 の一団3機は、 何故、その直前まで日本側に発見されなかったのか・・・ (以下、略)


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この証言で、敵機確認の第一報が入った8時9分過ぎ。そして警戒警報が発令された8時13分という時刻までは、(あくまで陸軍司令部内の時計によると、という話ではあるが)確証の取れたかなり正確で信憑性が高い証言と思われます。そこから、実際に上官からメモを受け取り、交換機に向かいコードを挿して相手が電話口に出るまでの呼び出し時間、メモを明瞭に読み上げる時間・・・などを考慮に入れていくと、従来からの8時15分説と言うのは、案外、それほど納得出来ない説では無いことも判ると思われます。従って、今まで中条一雄の8時6分説を論拠としてきた地上起爆派のブロガーたちは、今後、自説の見直しを迫られることになるでしょう。一方では、友人から預かった貴重なロンジン腕時計ゆえに、普段から大切にしていた高級時計マニアの証言。もう片方は、軍司令部で原爆投下の直前まで、B29爆撃情報の処理に携わっていた学徒動員の女子中学生の証言。もっとも彼女の証言が、全くのヤラセだと批判し、恰も証言が無かったものとして無視を決め込むというのならば話は別でしょうが・・・


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また巷には、「仁科型原爆はウラン濃縮度10%で爆発する。起爆は水をかけるだけ」などという論説も、出回っているようですが、本当に爆発するんでしょうか?臨界状態=核爆発 ではありません。臨界を起こし「青い光」が放たれ、ガンマ線や中性子線などある程度の放射線は放出されるかも知れませんが、もしそれを「核爆発だ!」と言うのなら、これからは東海村JCO臨界事故も、「東海村JCO核爆発事故」と呼び方を変えなければなりませんね。

もちろん現在に於いては、それは可能です。以前、「常温核融合と小型核、そして劣化ウラン弾・・・」動画シリーズを高く評価して下さって有難うございます。(ようやくお礼が出来た)
https://www.youtube.com/watch?v=xyxUL6Nea-U
https://www.youtube.com/watch?v=EtdM8xIR9JI
https://www.youtube.com/watch?v=s8LmQrIP4fo
https://www.youtube.com/watch?v=eOZDVtTmAk8

しかし今回の、「広島・長崎原爆の地上起爆説」云々は、原爆開発の最初期の、「臨界質量」問題にガチガチに縛られた時代の話です。それでも「サイクロトロンで作成した高速中性子をウランに当てて・・・」などというのは基礎研究の段階の実験は別として、爆弾としてそれを論じるのが如何に馬鹿げているかお判りでしょうか。


187. taked4700[5574] dGFrZWQ0NzAw 2016年8月08日
>>09

>ただし、「アメリカ政府は1943年5月という早い時点で「対日投下」を決定し、」
>↑ これはいささか疑問に思う、43年5月の時点では原爆製造の目途は全く立っておらずプルトニウム製造のための原子炉すら、建設を始めたのは この年の10月になってからである
>つまり、この時期に投下地点を特定するなど普通は到底 考えにくくB29に搭載できるかどうかの目途すらも まったく立っていない訳で運用方法すら 検討する段階には程遠いとしか言えない

同意します。

ただし、広島原爆はウランなので、「プルトニウム製造のための原子炉すら、建設を始めたのは この年の10月になってからである」は関連性が薄いはず。

一説によると、広島原爆のもとはドイツ製であったからという話もありますが、自分は、1930年代からアメリカ国内で秘密らにウラン型原爆の研究が進められてきたというのもアリではと思います。原爆製造と言うと、ファットマンの爆縮型のみがいつも取り上げられるのですが、広島投下されたリトルボーイのガンバレル型の方がよっぽど簡単。つまり、ユダヤ人科学者の助けを借りずとも力技で造れるのが広島型原発。核実験をしないで、ぶっつけ本番でやったと言われますが、これも疑問。本当は第2次世界大戦前に核実験まで済んでいたのではと思えます。


http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/post-f4cc.html
【参考】米国戦略爆撃調査団報告:広島と長崎への原爆の効果、
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/U.%20S._Strategic
_Bombing_Survey/30th_ver.htm

【トルーマン大統領の嘘】
米軍将兵100万人を救うためというプロパガンダが米国の正義を主張、ナチスドイツが原爆の研究を始めたという、米国に亡命したドイツ人(ユダヤ人)科学者の提言により、昭和17年12月FDRはグローブス准将の下にマンハッタン計画(原爆開発)を進めた、ナチスドイツの原爆開発はイギリス軍の工作で阻止されたが、若し、欧州戦線に原爆を投下すればイギリスにもナチスドイツが核廃棄物を投下の恐れがあるという結論に達し、日本への原爆投下を、昭和18年5月5日、米国軍事政策委員会が決定した、
そして、マンハッタン計画の要員にはソ連・コミュンテルンのスパイも存在した、
※FDR政権内部には約300名のソ連スパイが存在:ヴェナノ文書、
昭和20年4月5日、ソ連外相モロトフ、駐ソ日本大使佐藤尚武に日ソ中立条約不延長を通告、(同条約1年間有効)、しかし、日本政府は陸軍の要望でソ連を仲介とする連合国との和平を模索していて、日本のパープル暗号(外交暗号)解読からアメリカもこのことを承知していた、日本政府の和平工作は原爆を投下するために無視されたのです、同年4月12日、FDR死去(63歳)、トルーマン副大統領が昇格した、トルーマンはグローブス少将からマンハッタン計画を打ち明けられて初めて存在を知った、グローブス少将を始めとする軍部はトルーマンを嗾けてでも、原爆の性能を確かめたかった、その一つがウラニュウム型原爆で、プルトニューム型原爆の実験は同年7月16日に成功、その知らせをトルーマンはポツダム会議の席上で受け取った、所謂、ポツダム宣言はチャーチルがイギリスの選挙で首相の地位を失い帰国、スターリンは日ソ中立条約が有効なため署名できず、蒋介石は出席していなかったので電信で許可を取り、トルーマンが代理署名した、日本への原爆投下は始め京都が挙げられていたが、ヘンリー・スティムソン陸軍長官が反対して断念、大都市無差別爆撃を受けていないことが条件(原爆の性能を試すため)で選ばれた、その候補地は広島と小倉で当日の悪天候で小倉が長崎に変更された、そして、原爆の性能を確認するために、戦後逸早く、戦略爆撃調査団が派遣されて医師も活動したが、それは医療が目的ではなく、あくまでも原爆の効果を確認するためであったことを告知しておきます。
一夢斉老人

198. 2018年8月06日
イギリスの実力・天皇の立ち位置。
https://ameblo.jp/eigo-garage/entry-12052541306.html





(私論.私見)