原水爆兵器投下指令史 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).8.9日
(只今学習中故云々)
(れんだいこのショートメッセージ) |
【広島、長崎ーの原爆投下経緯考その1】 |
1944.8.26日、ニールス・ボーア博士がルーズベルト大統領に会い、原子力の国際管理を提案。 9.1日、ポール・チベッツ陸軍中佐が原爆投下のための飛行隊「第五〇九混成部隊(B 29爆撃機14機、将校・下士官合わせて1767人)」の隊長に任命される。 1944.11.15日、連合軍のバッシュ中佐が指揮するアルソス部隊は、原子爆弾開発の重要人物カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー博士を捕らえて、原爆開発の全貌を知るために、シュトラスブルクに侵攻した。シュトラスブルク病院の一角にあった、原子物理研究所を発見して、数名の物理学者を捕虜にした。 部隊の一員オランダの物理学者サミュエル・ゴーズミット博士らが、ヴァイゼッカーの研究室でドイツの原子爆弾開発計画の貴重な資料を発見した。そこで、ヒトラーは、1942年に原爆の可能性について報告を受けていたが、1944年後半には原子力開発はまだ実験段階にあり、原爆製造の考えを放棄していたという事実を知った。連合軍は、これまでアメリカの原子爆弾開発を、政治的に、軍事的に、道徳的に正当化して、原爆製造と投下計画に駆り立てていたドイツの原爆の脅威が幻影であることを知った。カイザー・ヴィルヘルム研究所のナチスの科学者たちは、戦後イギリスへ連れて行かれ、ファーム・ホール刑務所へ拘留された。このときの調べにより、ドイツの原爆製造は最終段階にあったと言われている。 |
【広島、長崎ーの原爆投下経緯考その2】 | ||||||||||||||||||||||||||
4.25日、 ハリー・トルーマン副大統領が大統領に就任する。その直後、日本への原爆投下が実質的に決定された。 トルーマン大統領と原爆開発の責任者であったスチムソン陸軍長官、 マンハッタン・プロジェクトを指揮していたグローブス将軍が会談し、その場で決定されたと推定されている。 4.25日、スチムソン長官とグローブス少将が4カ月以内に原爆完成とトルーマン大統領に報告。 アイゼンハワー総司令官 (後に大統領) が、 『日記 にスチムソン陸軍長官から日本へ原爆を投下することを知らされたときの模様を次のように記している。
ラルフ・バード海軍次官は次のように記している。
ジェームズ・B.コ―ナントの提案により陸軍長官ヘンリー・ステイムソンは、就業労働者が多数いて周囲に労 働者住宅が密集する軍事施設がもっとも望ましい原爆投下の攻撃対象になるだろうと同意した。
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【広島、長崎ーの原爆投下経緯考その4】 |
7.16日、ニューメキシコ州アラモゴードで初のプルトニウムを使った原子爆弾実験が 「成功」。
7.17日、シカゴ大学冶金研究所のアーサー・コンプトン所長が、研究所の学者67人が署名した日本への原爆使用に反対する請願書をジョージ・ハリソン陸軍長官顧問
に提出。 |
【広島、長崎ーの原爆投下経緯考その5】 | ||||||||||
林俊嶺の「真実を知りたい-NO2」の2013年11月05日付けブログ「原爆投下決定と原爆投下命令の諸問題」参照。
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(私論.私見)