原水爆兵器開発史2

 更新日/2017(平成29).8.6日
 (只今学習中故云々)



【広島、長崎ーの原爆投下経緯考】
 1944.8.26日、ニールス・ボーア博士がルーズベルト大統領に会い、原子力の国際管理を提案。

 9.1日、ポール・チベッツ陸軍中佐が原爆投下のための飛行隊「第五〇九混成部隊(B 29爆撃機14機、将校・下士官合わせて1767人)」の隊長に任命される。

 1944.11.15日、連合軍のバッシュ中佐が指揮するアルソス部隊は、原子爆弾開発の重要人物カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー博士を捕らえて、原爆開発の全貌を知るために、シュトラスブルクに侵攻した。シュトラスブルク病院の一角にあった、原子物理研究所を発見して、数名の物理学者を捕虜にした。

 部隊の一員オランダの物理学者サミュエル・ゴーズミット博士らが、ヴァイゼッカーの研究室でドイツの原子爆弾開発計画の貴重な資料を発見した。そこで、ヒトラーは、1942年に原爆の可能性について報告を受けていたが、1944年後半には原子力開発はまだ実験段階にあり、原爆製造の考えを放棄していたという事実を知った。連合軍は、これまでアメリカの原子爆弾開発を、政治的に、軍事的に、道徳的に正当化して、原爆製造と投下計画に駆り立てていたドイツの原爆の脅威が幻影であることを知った。カイザー・ヴィルヘルム研究所のナチスの科学者たちは、戦後イギリスへ連れて行かれ、ファーム・ホール刑務所へ拘留された。このときの調べにより、ドイツの原爆製造は最終段階にあったと言われている。

 12月、原爆投下のための飛行隊「第五〇九混成部隊(B 29爆撃機14機、将校・下士官合わせて1767人)」の編成を終え、ユタ州の砂漠にあるウェンドバー基地で訓練開始。

 1945.4.12日、ルーズベルト大統領死去。

 4.13日、東京空襲で理化学研究所がウラン分離筒とともに焼失。

 4.25日、 ハリー・トルーマン副大統領が大統領に就任する。その直後、日本への原爆投下が実質的に決定された。 トルーマン大統領と原爆開発の責任者であったスチムソン陸軍長官、 マンハッタン・プロジェクトを指揮していたグローブス将軍が会談し、その場で決定されたと推定されている。

 4.27日、グローブス将軍が召集した 「目標選定委員会」 で、 日本への原爆投下を前提として、いろいろな問題が検討されている。

 5月、日本の陸軍が研究継続を断念。

 4.25日、スチムソン長官とグローブス少将が4カ月以内に原爆完成とトルーマン大統領に報告。 アイゼンハワー総司令官 (後に大統領) が、 『日記 にスチムソン陸軍長官から日本へ原爆を投下することを知らされたときの模様を次のように記している。

  「そこでスチムソンが、 原爆が完成していていつでも落とせる、 という電報を見せた。 ……これを日本へ落とすというのだ。 ……だが思うだに気が滅入った。 彼は私に意見を求めたから二つの点で反対だと言った。 まず日本は降伏しかかっているから、 そんなひどいものを落とす必要はない。第二にそんな兵器を、 わが国に最初に使ってもらいたくない、 と。 スチムソンはカンカンになった。 それももっともだ。 原爆開発のため莫大な予算をとったのは彼の責任でもあり権利でもあり、正しいことだった。 でも、 ひどい話だった」。

 ラルフ・バード海軍次官は次のように記している。
  「すべてはスチムソンとグローブスの手ですすめられていた……。 私が真の状況を知ったのは、 しばらくたってからのことである」 。

 5.18日、第五〇九混成部隊がテニアン島へ移動開始。

 5.28日、シラード氏らがバーンズ国務長官に会い、原爆の日本への使用に反対を表明。

 7.16日、ニューメキシコ州アラモゴードで初のプルトニウムを使った原子爆弾実験が 「成功」。

 7.17日、シカゴ大学冶金研究所のアーサー・コンプトン所長が、研究所の学者67人が署名した日本への原爆使用に反対する請願書をジョージ・ハリソン陸軍長官顧問 に提出。

 7.22日、原爆投下の目標選定委員会が、広島、小倉、新潟、長崎を目標都市に選ぶ。京都はスチムソン長官の反対で外される。

 7.24日、ポツダムで、トルーマン大統領がソ連のスターリン首相に新型爆弾の開発成功 と日本への使用を伝える。

 7.25日、参謀本部のトーマス・ハンディー作戦部長が戦略空軍司令官のカール・スパ ーツ大将に、 8月 1日以降、原爆を広島、小倉、新潟、長崎のいずれかに目視投下するよう命令。

 8.1日、広島に投下するウラン型原子爆弾「リトルボーイ」の組み立て完了。新潟は 都市規模が小さく遠いため投下目標から除く。攻撃部隊は7機編成。B29爆撃 機3機が先行して広島、小倉、長崎の上空で待機、気象状況を原爆投下機エノ ラ・ゲイのチベッツ機長とグアム、テニアンの両司令部に報告。2機はエノラ ・ゲイを援護、うち1機は爆発測定器、もう1機はカメラを搭載。残る1機は エノラ・ゲイの代替機として硫黄島で待機。

 8.6日、日本時間 8月 6日午前1時37分、気象観測機3機のB-29が太平洋のテニアン基地を離陸。 午前 2時45分、原爆を積んだエノラ・ゲイ発進。ポール・W・チベッツ大佐の操縦する 「エノラ・ゲイ」号は、 「リトルボーイ」 とよばれるウラン型 (砲身型) の原爆を広島に投下するよう命令されていた。 午前8時15分に広島の上空に進入、高度9600メートルの上空から原爆を投下。 落下傘につるされた原爆は、43秒後に原爆ドーム (旧広島県産業奨励館/厳密には原爆ドームそばの島病院の上空) 上空580メートルで炸裂した。作戦を終え基地に帰ったのは午後2時58分だった。

 8.9日、チャールズ・W・スウィニー少佐の操縦する 「ボクス・カー」 号が 「ファットマン」 とよばれるプルトニウム型 (爆縮型) の原爆を搭載して、 最初の攻撃目標である小倉に飛来した。 しかし小倉上空は厚い雲に覆われて目標が目視できません。 そのため第二攻撃目標である長崎に向かった。 長崎の上空も雲に覆われていたが、 わずかに雲の切れ目があり、 午後11時2分、 二発目の原爆がその雲の切れ目から投下された。 原爆は、 松山町の交差点南東約80メートル (原爆中心碑横30メートル) の上空503メートルで炸裂した。


 林俊嶺の「真実を知りたい-NO2」の2013年11月05日付けブログ原爆投下決定と原爆投下命令の諸問題」参照。
 原爆投下命令が発せられのは1945年7月25日であり、 「ポツダム宣言」(1945年7月26日)発表前である。その命令書は、陸軍参謀総長局参謀総長代理トマス・ハンディ(陸軍大将)署名の米陸軍戦略航空隊司令官カール・スパーツ(陸軍大将)宛てである。この命令の存在は、日本がポツダム宣言を「黙殺」・「拒否」したので原爆投下に至った、という一般に語られている筋書きと矛盾するものである。
 その命令書には、”陸軍長官と(マーシャル)参謀総長の命により、かつその承認のもとに、貴官に出されたものである。貴官がこの指令の写し各一部を(西南太平洋軍総司令官の)マッカーサー陸軍元帥と、(米太平洋艦隊司令長官の)ニミッツ海軍元帥に対し、情報として自身で手交されるのが望ましい…”とある。また、”第20空軍第509混成群団は、1945年8月3日ころ以降、天候が有視界爆撃を可能にするようになり次第、最初の特殊爆弾(原爆)を、次の目標のうちの一つに投下すること。広島、小倉、新潟、長崎。…”とある。したがって、日本軍を直接相手にしている現場のマッカーサーやニミッツが原爆投下計画には関わっていないことが察せられる。それだけではなく、この命令書は、日本の降伏に関わる動きに全く触れておらず、投下中止の可能性がなかったことをうかがわせる。
 また、原爆投下後にトルーマン大統領は声明を発したが、その声明文の草案はスティムソンによって事前に作成されていた。原爆投下準備の進捗に合わせ、その一部を修正したものが、ワシントンからポツダムのトルーマン大統領に送られた7月30日時点で、スティムソンは鈴木貫太郎首相の「黙殺」発言(7月28日)を知っていたにもかかわらず、そのことには全く触れなかった。

 トルーマンは、その回顧録で”「(前略)7月28日、東京放送は日本政府が戦争を継続するであろうと発表した。アメリカ、イギリス、中国による合同の最後通告に対する正式回答はなかった(nofoemal reply)。いまや他の選択はなかった。日本がその日までに降伏しない限り(原子)爆弾は8月3日以降に投下される予定になっていた(後略)”と書いている。鈴木貫太郎首相が記者会見でおこなった言明を知りながら、正式回答はなかったというのである。「黙殺」発言を正式回答とは受け止めていないということであろう。
 ところが、トルーマンは、原爆投下後、一転して日本のポツダム宣言拒否を原爆投下の理由とする。以上のようなことから、トルーマンと側近のアメリカ首脳部にとっての中心課題は「日本の降伏」ではなく、「原爆投下」であった、と推察される。スティムソンから”グローブスの計画の時間表が、まことに迅速に進行しているので、閣下が発表される声明が、遅くとも8月1日の水曜日までに当地(ワシントン)に届くことが、今や必要不可欠になりました。この声明の草案は以前にお見せしましたが、今回次の諸点をかんがみて、小職が修正しました>
(イ)最近大統領が発表された最後通告(ポツダム宣言)
(ロ)核実験の劇的な成果
(ハ)英国が提案した小さな修正点
 閣下の手に届くよう、明日(修正済み草案の)コピーを、特使に持たせて行かせる予定ですが、万が一にも到着が間に合わない場合は、必要が起き次第こちらのホワイトハウスから修正入りの大統領声明を発表することで、閣下の権限を委任していただければ幸甚です。周囲の状況からこの緊急措置が必要となったもので、恐縮しています”という電報をポツダムで受け取ったトルーマン大統領は、すぐに
Reply to your 41011
Suggestions approved
Release when ready
but not sooner than
August 2
HST
(訳) 陸軍長官あて
貴電41011号への回答
提案(複数)を了承する
状況到来次第公表されたし
ただし早くとも
8月2日以降とする
HTS(ハリー.S.トルーマン)

 と返し、ポツダム首脳会談閉幕日以降の原爆投下と、その声明の発表を承認しているのである。日本の降伏に関わる動きは、全く考慮されることなく、原爆投下計画が進んだといえる。「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」と言われる理由は、そこにある。

 その他にも、原爆投下には、下記に指摘されているような、”4つの問題点”がある。「黙殺 ポツダム宣言の真実と日本の運命」仲晃(日本放送出版協会・NHK-BOOKS-891)から抜粋した。
 第7章 重慶への至急電報

 原爆投下と、”分別をつくした熟慮”

 ここで、ポツダム首脳会談の動静を追うのをしばらく中断して、少し回り道になるが、日本への原爆投下について、これまであまり取り上げられなかった4つの問題点
(イ)原爆の破壊力の本質に対する米軍首脳部のあいまいな認識
(ロ)最新の日本関連情報を関係者に知らせないままの原爆使用決定
(ハ)”軍事都市”かどうかの検証のないままの投下目標都市の選択
(ニ)投下目標から京都を除外した政治的理由

 終戦から一年近く前の1944年9月19日、当時のローズベルト大統領が、ニューヨーク州ハイドパークの自宅にチャーチル英首相を招いて行った2人だけの首脳会談で、原爆の使用について秘密の覚書を交わしていたことが、戦後明らかになっている。その中で両首脳は、「それ(原爆)が利用可能になれば、分別をつくした配慮をしたのち、ことによると(mightperhaps)日本人に使用されることになるかも知れない」と書いていた。

 ・・・

 7ヶ月後、米大統領はトルーマンに代わっていた。”人間らしさ”を踏まえたハイドパーク協定は、名実ともにきれいに忘れさられてしまう。最初の問題点は、原爆の破壊力の本質に関する米軍部の認識が、ごく一面的だったことである。グローブス少将や側近は、通常(TNT)爆弾に換算して最大2万トンにも達する原爆の破壊力をほぼ正確に予測していたが、軍事的効果の源泉を、巨大な「爆風」によるものと考えていたという。原爆投下の政策決定過程を研究している米スタンフォード大学のバートン・バーンスタイン教授は、グローブスらが当時、原爆は地表はるか上空で爆発させられるため、主としてその爆風(blasteffect)によって物的被害がもたらされると想定していた、と書いている。このため、原爆の命中精度がかりに最低であっても、最大限の数の住居や工場を修復不能な程度にまで損害を与えうる、と彼らは考えていた。

 ・・・  

 現在十分な資料が残っていないものの、オッペンハイマーが提起したこの放射能被害の問題を詳細に検討しようとした「目標選定委員会」のメンバーは、一人としていなかった、とバーンスタイン教授は述べている。…
 ・・・

 材料を与えず原爆使用論議をさせる

 二つ目の問題点も、これと通じるものがある。原爆の使用に関する米大統領の最高諮問機関の「暫定委員会」(委員長はスティムソン陸軍長官)の下部機関として設置された4人の著名な科学者からなる「科学問題特別諮問委員会」というのがあった。アーサー・コンプトン(ノーベル物理学賞)、前記のオッペンハイマー、エンリコ・フェルミ(ノーベル物理学賞)、アーネスト・ローレンス(ノーベル物理学賞)がそのメンバーである。

 そんなとき、原爆を事前警告なしに日本に投下する動きを見て、ジェームス・フランク、レオ・シラードらの著名な物理学者たちがつくる科学者の委員会が7月11日に報告書を発表した。報告書は、原爆の使用についての決定を軍に委ねるべきではない、とし、最高指導者(大統領)が、この問題を慎重の上にも慎重に考慮すべきである、と述べる。そして、原爆は実戦で使うのではなくて、国連のすべての国の代表を招いて、砂漠か不毛の島で、原爆の示威実験を行うよう提案した。
 ・・・

 だが、問題は諮問委員会の結論の内容というよりも、そうした結論を出すのを余儀なくさせた政府の姿勢にあった。この4人の超一流の物理学者たちは、原爆の実戦使用か、非軍事的(平和的)な公開実験かの論議をするのにあたって、必要な討議資料を何一つ政府から提供されていなかった。当時の日本の軍事的敗北は、このままでも時間の問題になっていること、早期終戦を望む平和勢力があり、その一部はソ連その他に働きかけて、和平の仲介を要請してたこと、11月には米軍の九州上陸作戦が予定されており、この作戦が成功すれば日本はたぶん降伏すると米軍首脳部が予測していたことなど、内外の政治・軍事情勢がそれである。メンバーが全員物理学者というのに、近く実験が行われる原爆の兵器としての威力さえも知らされていなかった。バーンスタイン教授によると、戦後になって、これらの科学者たちの何人かが、以上のような事実をしぶしぶ認めたという。オッペンハイマー博士は、とりわけ辛辣な口調で、「軍事情勢など、豆粒ほども知らなかった」と回想している。
 原爆投下とモラル・ハザード

 原爆の投下目標を選ぶさい、”軍事都市”かどうかの厳密な検証が、米軍上層部の手で一度も行われなかったという第3点は、終戦前夜の軍人たちの倫理観の荒廃ぶりを見せつける。最近の言葉でいえば”モラル・ハザード”が蔓延していた。政治家出身のスティムソン陸軍長官は、45年に入ると米空軍の猛烈な都市爆撃によって、多数の民間人が犠牲になっていることに心を痛めていた。そして、民主主義の先進国を自負する米国だけは、ヒトラーをも上回る残虐な行為を行ったとの汚名を着せられたくない、と考えていた。しかし、そのスティムソンが委員長をつとめる「暫定委員会」は、原爆の投下目標の選定について、一度も厳密なガイドラインを明示したことはなかった。その下部機関の「目標選定委員会」も、数多くの日本の都市を原爆投下の目標として検討したが、広島は「通常爆撃で手つかずのままになっている最大の目標」、八幡は「鉄鋼産業で知られる町」といったごく一般的な描写ばかりで、綿密な資料を突き合わせた上で、どの程度の”軍事都市”なのかといった検討はなかった。

 「目標選定委員会」は結局、原爆の軍事的効果だけを投下目標選定のほとんど唯一の基準にし、原爆が”恐怖の兵器”として認識されることを最重要と考えた。そして、日本に対して最大の心理的影響を与えるとともに、アメリカがこの新兵器を保有したことを全世界、とりわけソ連に認識させるような形で使用されるべきだと強調したのである。・・・
 京都が除外された本当の理由

 それでもスティムソンは、戦争末期のアメリカが、いつの間にか”戦争への情熱とヒステリー”に取りつかれている、と感じ、これを食い止めようと力をつくしていた。老いたるドン・キホーテのようなスティムソンのところへ、7月21日、神経を逆撫でするような電報がワシントンから届いた。腹心のハリソン補佐官からで、グローブス陸軍少将ら現場幹部からの露骨な圧力に突き上げられて、やむなくその要望を取り次いだものである。「グローブス将軍はじめ、当地ワシントンの空爆作戦担当者たちは、日本での原爆投下目標の4都市の中で、長官が除外するよう関心を示してこられた京都への投下をとりわけ望んでおり、出撃当日の日本上空の気象条件いかんでは、これを投下目標の第1目標にしたいと希望しています」。頭にきたスティムソンは、折り返しこれを厳しく却下する至急の返電をワシントンに打たせた。いわく「小職の決定を変更すべき要素は見当たらず。それどころか、当地(ポツダム)での新しい要素がこれ(京都爆撃回避)を確認しつつあり」、「当地での新しい要素」の内容は具体的に書かれていないが、日本がすでに敗勢を認め、ソ連を通じて懸命の和平工作に乗り出したことを、スティムソン長官は「マジック」の暗号解読を通じて十分知っており、こうした状況を指したものと思われる。実は、これこそスティムソンが原爆投下目標から京都を除外するに、あれほど強く固執した政治的、外交的背景であった。

 京都が原爆の投下目標として”魅力的”とされたのは、第1に百万の住民の住人口密集地帯であること、第2には日本の古都かつ学術都市として、日本の知性の一大中心地であり、原爆の衝撃を住民がより正確に理解すると考えられたこと、などによる。5月28日に開かれた目標選定委員会の第3回会議でも、京都は広島と長崎を押さえて、依然投下目標リストのトップに置かれた。

 5月31日の委員会では、スティムソンとグローブスが公然と対立した。神社仏閣が多い古都の京都に原爆を投下すれば、アメリカは日本国民の反感を買い、戦争継続の意思をかえって強めることになる、として、スティムソンが投下目標リストから京都を削除するように主張する。だが、グローブスは上司を前に一歩も引かない。グローブスの先輩で、陸軍からの”空軍”の独立に執念を燃やしているアーノルド陸軍航空隊総司令官(元帥)までが、京都は軍事活動の拠点である、と主張してグローブスの肩を持つ有様であった。

 困り果てたスティムソン長官は、このときの議論を踏まえて、ホワイトハウスを訪ね、京都を原爆攻撃すれば、アメリカは全世界からヒトラーと同じレベルの野蛮人と見なされてしまう、との持論でトルーマンンに訴えた。大統領もこれに同調し、議論はいったん終止符を打ったかに見えた。しかし、グローブス以下の軍官僚たちが、「京都」を全然あきらめていなかったことを、7月21日のハリソン補佐官からの電報がハッキリ示していた。
 ・・・

 こうしてスティムソン陸軍長官の強力な政治的介入により、京都は原爆の攻撃目標からはずされたが、現在の時点から振り返ってみると、より多くの問題点が見えてくる。
 第1に、京都が目標リストから除外されたため、長崎が繰り上げられてリストに入り、8月9日に第2発目の原爆を投下された。悲劇の犠牲者が入れ替わっただけであった。
 第2に、スティムソンの動機は、京都市民の生命というよりは、この町に残る過去の遺産を救済する(バーンスタイン)ことにあった。原爆によるこうした歴史的遺産の破壊が、日本人憤激させ、のちになって日本がソ連と組むようになる可能性を、この老練な政治家は懸念したのである。

 ・・・

 スティムソン陸軍長官が、ポツダム首脳会談開催の前夜の7月16日にトルーマンン大統領に長文の覚書を提出し、「日本との戦争の進め方」についての意見を詳しくのべていたことはすでに紹介した。スティムソンはこの中で、日本がソ連に接近を試みている、との最新のニュースに大きな関心を見せている。さらに、7月24日「スティムソン日記」はもっと端的にこう書いている。「(前略)こうした野蛮な行為によって生まれるかも知れない(日本国民の)苦々しい感情は、戦後の長期間にわたってアジア地域で、日本人たちがロシア人とではなくアメリカと和解するのを不可能にしてしまうこも知れない。われわれの政策は、ソ連が満州に進攻した場合、日本がアメリカ寄りになることを必要としているが、こうした(京都への原爆投下のような)やり方は……そうしたアメリカの政策の実現を阻害する可能性がある(後略)」

http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。

 原爆投下で21万人以上の命を札束に変えた重罪人ども。
 エドウィン・S・ウェブスター
 ストーン・アンド・ウェブスター創業者 原爆投下時会長
 マンハッタン計画のすべての施設を建設した。...
広島、長崎にいた人々を虐殺し、最も巨額の札束を手に入れたのがこの男だ。原爆投下の5年後に死去。地獄に札束は運べねえよ!!戦後、ストーン・アンド・ウェブスターはボーグル原発で10倍のコスト超過。原発所有企業「サザン」の子会社副社長が社用機で爆死する「社内殺人事件」の原因を作ったのがこの会社だった。

 2011年以降、ボーグル原発、VCサマー原発建設でも失敗(補助金目当てのサボタージュ?)を重ねた。債務超過となったストーン社を東芝は「0円で買収した」と発表したが……。2016年12月末。東芝は、ストーン社が作った損失が数千億円に上ることを突如、発表した。親会社ウェスチングハウスは破産。天罰!?「これ以下」の極悪企業を私は知らない。

〇日本の原爆開発
加速器

日本の研究者が戦前に、核研究でネイチャーの常連だった。陸軍にウラン爆弾の開発を進言したのが仁科芳雄(人形峠のある岡山が郷里)、国の最優先として予算を付けられた二号作戦(原爆開発)の指揮者である。1937年4月、仁科芳雄が原子核物理学や生物学研究目的の高速中性子を発生する小型サイクロトロンを完成し、ボーアも見に来ている。(論文「サイクロトロンの生成した光線の生体効果」にも注目してほしい。)
<出典>
科学技術史に輝く理研
長岡半太郎の新資料について
加速器 歴史

ウラン抽出

ウランを抽出・加工する技術は大正時代に既にあり、作州ウラン釉薬瓦やウランガラスが大量に作られた。岩城硝子、島田硝子などがウランガラスの食器・ガラス工芸品を製造し、大正から昭和にかけて、国内産品が大量に造られた。大正9年(1920年)に「カナリア電球」という名前の電球が開発された。

ウラン濃縮

六フッ化ウラン

六フッ化ウラン(ろくフッかウラン)は、化学式 UF6 で示される化合物。常温では固体だが約 56.5 ℃ で昇華して気体になる。空気中の少量の水分と反応してフッ化水素 (HF) を放出する。核燃料を得るために、ウランの同位体である 238U と 235U を分離する作業が行われる。これをウラン濃縮といい、六フッ化ウランの気体を遠心分離器などの装置に供給して行う。ウランをフッ化させる理由は、単体のウ ランを気化させ続けるには約 3800 ℃ の高温が必要だが、前述の通り六フッ化ウランは沸点が低く、処理の開始から完了まで気体の状態を維持するのが容易であること、フッ素が単核種元素であり、 六フッ化ウランの式量の差は全てウランの質量数の差に由来することにある。
<出典>
ウィキペディア

「ウラン濃縮に成功すれば原爆が作れる」

1943年、仁科芳雄は安田武雄中将に「ウラン濃縮に成功すれば原爆が作れる」と報告。東条内閣は仁科研究室に無限の予算を約束。ここから“ニ号研究”が本格的に始動した。

<出典>
日本の核兵器開発

六フッ化ウラン(UF6)製造

広島原爆は1945年8月6日、長崎原爆は1945年8月9日である。
その当時、六フッ化ウラン(UF6)製造に成功していたのは日本であり、米国は未完成であった。

米国 1948年 特許出願保存
日本 1944年1月 UF6製造に成功(理化学研究所)保存

1944年9月2日、ウラン濃縮に不可欠な六フッ化ウランの生産を試みた米国フィラデルフィア海軍工廠が爆発。
<出典>
Atomic Accidents

日本は、世界初の核実験を1940年のネイチャ―に発表
<出典>
nature : Fission Products of Uranium produced by Fast Neutrons

日本は第2次世界大戦中に原爆の実物試験に成功

アトランタコンスティチューション紙
日本は原爆を開発した。第二次世界大戦中、実物試験に成功。ロシアが科学者達をつかんだ。


〇爆撃機に積載できない原爆
第2次大戦当時、B29などの爆撃機に搭載できるような大きさの原爆を製造できなかった。巷に喧伝される原子爆弾はフィクションである。

日本は第2次世界大戦中に原爆の実物試験に成功
アインシュタインのルーズベルト大統領への手紙

「新しいタイプの非常に強力な爆弾が作られるということは --- 確実というほどでないにしても --- 十分に考えられることでもあります。このタイプの単体爆弾がボートで運ばれ、港で爆発すれば、それは港全体を破壊してしまうばかりでなく、その周辺地域を も破壊してしまうでしょう。しかし、この爆弾は、飛行機での輸送には、重すぎることも明らかになるでしょう。」
<出典>
ルーズベルト大統領への手紙
〇広島・長崎の原爆は地上起爆
前述のとおり、「爆撃機から投下された原爆」はフィクション(作り話)である。 実際は、地上に設置された原爆が爆発した。戦時中に米国が設置できるわけもない。では、誰が設置したのか?

広島原爆
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分
写真と爆心地
広島原爆は、ウラン原爆である。下の写真から地上で爆発していることがわかる。
広島原爆とその爆心地
爆心地
広島原爆動画
Fukushima Cesium Nuclear Fallout
Equals 4,023 Hiroshima Bombs
<出典>
https://www.youtube.com/watch?v=eaMpGtYyLik&feature=youtu.be
「私、空中から爆弾を落としたとは思ってないんですよ。下から爆発」

元第343海軍航空隊 少尉 本田稔氏の証言
【戦士の証言】元第343海軍航空隊 少尉 本田稔氏に聞く Part3[桜H24/8/13]

長崎原爆

1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分
長崎原爆は、プルトニウム原爆である。
写真
〇原爆特許所有者は天皇
原爆特許
特許計画が始まった1942年から、米国の原子力施設が原子力委員会に引き継がれた1947年1月まで、マンハッタン計画の特許部門は、原爆に係る 5600以上の異なる発明の報告書を、最終的に米国特許庁と共に秘密裏に整理するための2100件別々の特許出願を目録にした。マンハッタン計画の特許計画は、戦時中に開発された原子力全分野において、米国政府のための総合的な法律上の所有権を取得する計画的な試みだった―その特許は、「採掘されたままの原石から原爆まで」の技術の異なる493科目分類に及んだ。
<出典>
アレックス・ウェラスティン(スティーブンス工科大学助教)ブログ

日本は、広島長崎の原爆の人体や遺伝子への影響を調査し1947年1月2日に米国に提出した。これは、マンハッタン計画の特許出願範囲日(1947年1月まで)にぴったり符合する。
<出典>
米国科学アカデミー保存

自国民をモルモットにする理由
特許になるためには原爆の効果(遺伝子破壊兵器)を立証する必要がある。自国民ならば、子々孫々にわたる遺伝子破壊を追跡調査できる。
<出典>
Children of the Atomic Bomb
NHKスペシャル 封印された原爆報告書

アメリカ国立公文書館のGHQ機密資料の中に、181冊、1万ページに及ぶ原爆被害の調査報告書が眠っている。
200人を超す被爆者を解剖し、放射線による影響を分析したもの…。子供たちが学校のどこで、どのように亡くなったのか詳しく調べたもの…。いずれも原爆被害の実態を生々しく伝える内容だ。報告書をまとめたのは、総勢1300人に上る日本の調査団。調査は国を代表する医師や科学者らが参加し、終戦直後から2年にわたって行われた。
5. 2016年6月09日 20:15:19 : 0Hl4NNsFPk : Nutk8NpXR4M[3]
少なくとも、近代以降の戦争は、1%が、己が権力を守るために、99%に対して行ったものだ。(ロスチャイルドの発祥地は、ドイツ。)1%は、示し合わせて、99%を、敵味方に分かれさせ戦わせた。1%は、敵国が戦争できるように、資金を初めとする様々な便宜さえ図った。どちらの国が勝利しようと、どちらの国の1%も、社会的不満の圧殺による権力の安定と、莫大な利益を手にした。現在の過激派組織を背後で操っているのも、1%である。組織が行う、テロは、1%が、99%に仕掛けた、戦争行為が、その本質だ。昭和天皇とそれに連なる人々が、実は、この1%に属していたと聞いても驚かない。バーガミニは、「天皇の陰謀」で、一連の戦争において、。天皇が無力であったとか、戦争責任はなかったとか、軍部の暴走であったというような説明を、きっぱりと拒否して、天皇と宮家が中心となって進めた戦争であることを明らかにした。昭和天皇が、稀代の権謀術数家であったと思わせる点は、多々散見される。広島・長崎の原爆投下をめぐる不可解な出来事に関しては、鬼塚英昭氏などが、指摘する所だ。

>恐るべき”破壊力”を持つ書ー鬼塚英昭著『原爆の秘密〔国内編〕~昭和天皇は知っていた』

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/573.html

>続・: 恐るべき”破壊力”を持つ書ー鬼塚英昭著『原爆の秘密〔国内編〕~昭和天皇は知っていた』

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/575.html

原発が暴走すると爆発することは、福島原発事故で証明済みだ。減速材に黒鉛を使えば、10トン、重水を使えば、0.8トンの天然ウランで、臨界に達することができる。ある量の天然ウランに水さえあれば、核分裂が始まることは、オクロ天然原子炉の存在で、証明された。制御手段のない原子炉は、濃縮ウランを使用せずとも、暴走して爆発するのではないか?紫電改のパイロット本田氏の証言は貴重だ。広島・長崎の原爆の、直後に撮られた写真は、空中爆発より、地上爆発を推測させる。地上で爆発したのであれば、それを実行したのは、米国であるよりは、日本だとなる。昭和天皇が、戦争で果たした役割を考えるならば、結論は自ずと得られる。ところで、最近、ドイツで、ナチスの原爆計画をめぐる、新しい本が出た。ナチスは、ウオール街の金融筋やフォードなど企業から支援を受けていた。それによると、当時のドイツの原爆計画は、米国のそれに比べて、20年は進んでいた。100-140グラムの兵器級濃縮ウランを使って、ミニ核実験まで行っていた。核兵器をロケットに搭載することを考えたのも、ドイツ人が最初だと言う。ドイツが降伏したのは、1945年5月初旬、米国のトップエージェントであった、リチャード・ドナルドソンは、ドイツの研究施設から、60キロの兵器級濃縮ウランを手に入れることができた。これが、広島の原爆の材料になった可能性も十分考えられる。99%には、戦争の敵味方であったドイツ、日本、米国、しかし、その1%同士は、裏ではつながっていて、その連携の下に、原爆が使われたとするならば、悪魔の所業と称する他はない。

7. 2016年6月10日 18:18:47 : c0VCC7u1LM : gVZbDQfY_I8[4]
陰謀論だという決めつけは、CIAが、不都合な事実を隠蔽するために、発案した。

>鬼塚英昭

日本のノンフィクション作家、竹細工職人、郷土史家。家業の傍ら、国内外のありとあらゆる関連書を渉猟・読破、関係者にも精力的に取材を重ね、郷土史家として私家版の歴史書を書き上げる。その読書量は膨大・・・・

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E5%A1%9A%E8%8B%B1%E6%98%AD


 ★阿修羅♪ > 戦争b11 」の金剛夜叉 氏の2013 年 8 月 11日付け投稿「日本人は知らない原爆投下の真実
http://raizen.seesaa.net/article/218746300.html

 2011年8月6日、広島に原爆が投下されて66年が経過した。広島・長崎の悲劇は繰り返されてはならない。一瞬にして数十万の命を奪い、また生き残った人達もその後凄惨な人生を送ることとなった行為は正当化されるものではない。「繰り返されてはならない」であって「繰り返してはならない」ではない。日本人の発言としては「繰り返されてはならない」が適切であると思うがいかがだろうか。

 戦争をおこさない、あるいは参戦しない、ということに関しては「繰り返してはならない」という強い決意に同意だ。しかしながら広島・長崎の被爆は、日本が第二次世界大戦に参戦したから引き起こされた悲劇ではない。参戦したから原爆を落とされたという因果応報的な自虐史観はいかがなものかと思う。

 日本には元々第二次世界大戦を戦い抜く力はなく早く終戦させたかった。戦争を終結させるために原爆投下は必要ではなかったことは明らかだった。

 終戦後、GHQ占領の元でアメリカのためだけの資本主義、民主主義教育体制が構築され日本人は自虐史観を持つよう洗脳されてきた。勝てば官軍、負ければ賊軍。勝ったアメリカが正で、負けた日本は悪なのか?欧米諸国の侵略・略奪植民地主義から日本やアジア諸国を守ろうとし命を落としていった先祖達は悪で、原爆を落としたアメリカが正義なのか!アメリカに押し付けられた価値観ではなく、日本人は自らの文化、歴史に誇りを持って良いと思う。

 今、世界で戦争や紛争が起こると「人道的」という言葉がよく使われる。「人道的」とは人が人としてどうあるべきかを問う言葉だと思う。人が人であるならば、「人道的」という概念は太古の昔から変わっていないはずだが、どうやらこの言葉は欧米諸国の都合によって使い分けられているようだ。日本人はもちろん人間なのだが、欧米の一部のものたちはそうは思っていない。人間以下の動物と思っているわけだから、人道的という概念も日本人に対しては適用されないというわけだ。

 アメリカは自国民に対しプルトニウムを投与するという人体実験を国家プロジェクトとして行っていた国である。人間以下の日本人を原爆の実験台にすることに何のためらいもなかったのだ。

 最新の調査によると、アメリカ政府は1943年5月という早い時点で「対日投下」を決定し、原爆使用を来たるべき戦後の原子力開発競争において、アメリカがとりわけソ連に対していかに優位を確保していくかを中心に議論していたことが判明している。

 大戦中、アメリカとソ連は同じ陣営に属してはいたが、戦後の世界再建に向けてにらみ合っていた。ともに増大する軍事的脅威に危機感を感じ取っていた。ソ連はヨーロッパ戦線でベルリンを陥落し、東ヨーロッパの大部分を手中に収めるにまで至っており、アメリカと対等の席につくはずであった。ところが、原子爆弾という切り札によってソ連の優位は崩れ、アメリカに交渉のイニシアティブを握られてしまったのである。原子爆弾は「対ソ外交」を有利に運ぶ上で、効果的な材料だったのである。


 「マンハッタン計画」に携わったユダヤ人科学者の中で、もっとも反日強硬派だったのはフォン・ノイマンだろう。彼は日本人を蔑視し、京都を原爆の最初の血祭りにあげるべきだと主張。京都が日本国民にとって深い文化的意義をもっていたというまさにその理由によって、京都の破壊を求めていたのである。

 しかし、ヘンリー・スチムソン陸軍長官の反対によって、京都は原爆のターゲットから外された。彼は、京都の代わりに長崎の追加を指示したのである(1945年7月22日)。

 一般に、この時にスチムソンが京都を原爆のターゲットから外した理由として、「スチムソンは京都が歴史のある都市であることを理解していたから」という“美談”で語られる場合があるが、だまされてはいけない。この“美談”は、戦後、GHQがお涙頂戴好きの日本人を洗脳する為に、意図的に流したニセ情報である。

 アメリカ軍部の一部は京都を原爆投下目標とすることを諦めず、空襲を実施しなかった。原爆投下後に原爆の影響を正確に把握するため、空襲が禁止されていたのである。京都が最後まで空襲されなかったのは、原爆投下の前に日本が降伏したからにすぎない。

 スチムソン以外にも、「京都を戦果から救った恩人」と言われるアメリカ人が何人かいるが、すべて何の根拠もない流言に過ぎないのだ。詳しくは吉田守男著『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』(朝日文庫)を読んで欲しい。当時のアメリカ政府は、日本の文化遺産を根こそぎ破壊することに、なんのためらいもなかったのである。


 ところで、「マンハッタン計画」をスタートさせたフランクリン・ルーズベルト大統領は、日本人を“劣等人種”として激しく差別していたことで知られている。一般のアメリカ人の間にも、日本人に対する人種差別意識が蔓延していた。

 当時のアメリカの雑誌にはこう書かれていた。「アメリカ人はドイツ人を憎むことを学ばなければならないが、日本人に対しては憎しみが自然と湧いてくる。これはかつてインディアンたちと戦ったときと同様に自然なものだ。」「普通の日本人は知性が低く、無知である。たぶん人間なのだろうが、人間であることを示すような点はどこにもない。」

 当時、トマス・ブレーミー将軍も、こう演説していた。「諸君らが闘っているのは奇妙な人種である。人間と猿の中間にあると言っていい。文明存続のために我々は最後まで戦いぬかねばならない。日本人を根絶しなければならない!」

 ところで、「強制収容所」といえば、真っ先にナチスを思い浮かべる人は多いと思うが、第二次世界大戦中、自由と民主主義の国、アメリカ合衆国にも「強制収容所」があった。それも日本人と日系人専用のもので、約12万人もの民間人が財産と市民権を奪われて、カリフォルニア州からルイジアナ州までに広がる10数ヶ所の強制収容所に収容されたのである。

 このアメリカの日系人に対する強制収容政策の裏には、白人の有色人種に対する人種的偏見や差別意識があったことは明らかである。(この時期、同じ敵国であったドイツ系・イタリア系のアメリカ人は「お構いなし」の状態だった)。この日系人強制収容政策の最高責任者は、前出のヘンリー・スチムソン陸軍長官である。彼は太平洋戦争と原爆を語る上で、非常に重要な人物だ。彼は、セオドア・ルーズベルト大統領の時代に政権に入り、以後、1950年に死ぬまで、7人のアメリカ大統領に仕えたことで知られている。第二次世界大戦中は、「マンハッタン計画」の最高責任者を務め、広島と長崎への原爆使用を決定した。それ以前に、彼は、ロンドン海軍軍縮会議においてアメリカ代表団議長として、また、フーバー政権の国務長官として、日本海軍力の制限のために中心的に働いた。さらに、フランクリン・ルーズベルト政権においては、経済封鎖によって日本を窮地に追い込み、真珠湾攻撃へと駆り立て、ついに、アメリカを太平洋戦争に参加させた張本人である。ルーズベルト大統領が急死すると、彼はトルーマン大統領の背後で、実質的にアメリカの戦争を指揮した。(トルーマンはスチムソンを全面的に信頼した)。戦争が終わると、スチムソンは、原爆投下に対する批判を抑えるために、「原爆投下によって、戦争を早く終わらせ、100万人のアメリカ兵の生命が救われた」と発言(1947年2月)。これが原爆使用正当化の定説となった。(「原爆神話」の誕生)。


 一般のアメリカ人に、なぜアメリカが広島と長崎に原爆を落としたのかを尋ねれば、たいていの人はこう答えるであろう。「アメリカ軍の日本上陸により、多くの犠牲者を出すことを避けるためであった。原爆を落とさなければもっと大きな悲劇を生んでいたであろう」と。しかし、この言説を鵜呑みにしてはならない。「当時、原爆投下以外にも日本への本土上陸を阻止する方法があったことは識者の間ではすでに常識となっており、トルーマンも彼の顧問もそれを知っていた」という事実があるからである。これは、アメリカ原子力規制委員会の主任歴史家であるサミュエル・ウォーカーの言葉である。

 1946年実施の戦略投爆調査の結論も、「原爆が投下されなくても、またソ連が宣戦布告しなかったとしても、さらには日本上陸を考えなくとも、1945年12月31日までには確実に、そしておそらく1945年11月1日までには、日本は降伏していたであろう」として、先の歴史家サミュエル・ウォーカーと同じ結論を示している。

 1989年に公開された、陸軍省諜報部による1946年の最高機密調査では、「日本の降伏に原爆はほとんど関係がなかった」という大胆な結論が出されている。そして第二次世界大戦終結の決定的要因はソ連の宣戦布告であったとされ、アメリカの大規模な日本侵略が行なわれることはなかったであろうと記されている。

 つまり、「日本を降伏に追い込んだのは、原爆の使用ではなく、ソ連の参戦であるといっても過言ではない」というのが同調査の結論であった。また、スタンフォード大学の歴史家バートン・バーンスタイン教授によれば、統合参謀本部の諮問グループ、統合戦争計画委員会は当時、ソ連が宣戦布告しない場合でも、九州への上陸だけで戦争を終結できるであろうと結論づけていたのだ。

 ヨーロッパのアメリカ軍司令官アイゼンハワー将軍は、スチムソン陸軍長官から計画を報告された時のことをこう記している。「彼の報告を聞いているうちに、暗い気持ちになった。私は彼に深い不安を伝えた。まず、日本はすでに敗北しており、原爆は全く必要ないということ、次にアメリカ人の命を救う手段として、もはや不要ともいえる兵器を使用することで国際世論に衝撃を与えることは避けるべきだと伝えた。」

 アイゼンハワーの見解は「日本はできる限り体面を損なわない降伏の方法を模索している。恐ろしい兵器で日本に打撃を与える必要はもはやない」というものであったのだ。

 現在では、原爆は恐らく戦争を長引かせ、アメリカ兵の命を救うどころか、奪ったと信じる歴史家もいる。なぜなら、国務次官ジョセフ・グルーは、1945年5月には降伏条件を変えるだけで戦争は終結すると大統領に進言しており、また大統領は原爆が完成するまで明らかにそれを引き延ばしたからである。タフツ大学の歴史家マーティン・シャーウィンは、「トルーマン大統領がジョセフ・グルーの助言を受けていれば、アメリカ兵、日本人の犠牲者の数は大幅に削減されたことであろう」と語っている。スチムソン陸軍長官もまた後になって、「歴史の中で、アメリカは降伏の条件を延期したことによって戦争を長引かせた」としている。結局、アメリカ政府が日本に対して原爆を使用したのは、先に触れたように、戦争を早期に終結させるためではなく、戦後の対ソ外交を有利に運ぶ上で、効果的な材料だったためである。アメリカ政府は1943年5月という早い時点で「対日投下」を決定し、原爆使用を来たるべき戦後の原子力開発競争において、アメリカがとりわけソ連に対していかに優位を確保していくかを中心に議論していたのだ。

 大戦末期、米軍幹部の間では、原爆を投下しなくてもいずれ日本は力尽きるという予想が大勢をしめていた。しかし、トルーマン大統領は、ソ連の対日参戦で日本が降伏する前に、原爆という圧倒的なインパクトのある兵器を投入することで、日本にとどめを刺したのはソ連ではなく原爆、というイメージを全世界に与えようとしたのだ。「原爆ホロコースト」に重大な責任がある人物を挙げるなら、その筆頭は、直接ゴーサインを出したトルーマン大統領だろう。「原爆の誕生」自体は、当時の「原子物理学」発展の流れにおいて避けられなかったとしても、原爆の「実戦使用」に関しては、彼個人の「政治的な判断」で避けようと思えば避けられたのだ。(原爆は作った人よりも使う人に問題があると思う)。しかし彼は、原爆を使わずに戦争を終わらせるなどとは考えもしなかった。彼は誕生したばかりの超兵器=原爆を使用したくてたまらなかった。人間のいない荒野で爆発させるのではなく、人間が密集する大都市の上で爆発させて、その破壊力を試してみたい気持ちに駆られていたのだ。人体実験をしたかったのだ。彼は日本から提示された降伏条件をはねつけ、日本への原爆投下を命じた。しかも無警告で。2発も。そうしたうえでその降伏条件を認めたのだった。彼は自分の行動を正当化するために、「原爆投下により100万のアメリカ兵の生命が救われた」とする「原爆神話」を積極的に広めた張本人でもある。

 「原爆ホロコースト」の実態より

 広島大学の名誉教授である芝田進午氏は、原爆の対日使用は「人体実験」だったとして、1994年に次のように述べている。「広島・長崎への原爆攻撃の目的は何だったのか。1つには戦後世界でのアメリカの覇権確立である。そしてもう1つは、原爆の効果を知るための無数の人間への『人体実験』である。だからこそ、占領後にアメリカ軍が行なったことは、第1に、原爆の惨状についての報道を禁止し、『人体実験』についての情報を独占することだった。第2に、史上前例のない火傷、放射能障害の治療方法を必死に工夫していた広島・長崎の医者たちに治療方法の発表と交流を禁止するとともに、死没被爆者のケロイドの皮膚や臓器や生存被爆者の血液やカルテを没収することだった。第3に、日本政府をして国際赤十字からの医薬品の支援申し出を拒否させることだった。たしかに、『実験動物』を治療するのでは『実験』にならない。そこでアメリカ軍は全力を尽くして被爆治療を妨害したのである。第4に、被爆者を『治療』せず『実験動物』のように観察するABCC(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置することであった。加害者が被害者を観察するというその目的自体が被爆者への人権蹂躙ではなかったか。」


 広島で女学生(14歳)のときに原爆にあい、現在も原爆後遺症で苦しむ詩人の橋爪文さんは、「ABCC」(原爆傷害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)について、次のような恐ろしい事実を述べている。
まさにアメリカがやったことは、「人体実験」だったといえよう。「私は広島の生き残りのひとりです。 〈中略〉 ここで、ひとつ触れたいことは『ABCC』についてです。これは日本でもほとんど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に『原爆傷害調査委員会』(通称ABCC)を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行ないました。その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。治療は全く受けませんでした。そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。日本政府もそれに協力しました。こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。しかもそれは戦争が終わった後で行なわれた事実なのです。私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。あれから50年、『ABCC』は現在、日米共同の『放射線影響研究所』となっていますが、私たちはいまも追跡調査をされています。このように原爆は人体実験であり、戦後のアメリカの利を確立するための暴挙だったにもかかわらず、原爆投下によって大戦が終結し、米日の多くの生命が救われたという大義名分にすりかえられました。このことによって核兵器の判断に大きな過ちが生じたと私は思っています。」

 「原爆ホロコースト」の実態より

 アメリカは人口の多い全国の64都市を戦略爆撃していることも忘れてはならない。東京大空襲では一夜にして10万人以上の民間人が焼き殺された。広島・長崎は戦略爆撃、無差別空襲の極みとも言えよう。日本人はとてつもなく徹底的に、、、虐殺された。これを戦争犯罪と言わずして何と言うべきか。全ての犠牲者の御霊が安らかに眠らむことを願います。

コメント
01. 2013年8月11日 16:46:16 : 6RxiEwTbRo
昭和35年仙台の本屋で立ち読みした本は仙台空襲15周年を記念して空襲を語り継ぐ人達が出した本である。そこには約3800人の人達が一晩でアメリカ軍に焼き殺れたと出ていた。ところが今仙台で出している空襲の犠牲者は約1600人と発表している。岩手県被団協会長の斉藤さんが6年前に言われた言葉があります。ピカドンでアメリカに虐殺された広島市民は約80万人そのうち軍人は約6000人長崎市民は約30万人軍人は約3000人が虐殺されたそうです。で、斎藤さんに質問しました。広島の原爆ドーム前の石碑には死亡約10万人と書いてあるよと言いました。そしたらアメリカからその様に書けと命令されたそうです。斉藤さんは当時爆心地から2キロ程離れた比治山の陸軍情報部に勤務していた少尉の人です。
03. 2013年8月11日 21:01:10 : yi58Qk88hs
 世界大戦の御蔭で、多くの人間扱いされなかったアジア諸国が独立できた。未だに日本人の特攻隊精神は白人を含む全世界から尊敬されている。原爆を落としたいほど、日本人は白人にとって脅威だった。それほど不利の中、楯突いた勇敢な唯一のアジア人だったのである。中国がアメリカに楯突いて欲しい。
05. 2013年8月12日 02:57:26 : 9NKiiqErzo
 「マンハッタン計画」をスタートさせたフランクリン・ルーズベルト大統領は、日本人を“劣等人種”として激しく差別していたことで知られている。一般のアメリカ人の間にも、日本人に対する人種差別意識が蔓延していた。アメリカの雑誌にはこう書かれていた。「アメリカ人は、日本人に対しては憎しみが自然と湧いてくる。これはかつてインディアンたちと戦ったときと同様に自然なものだ。」「普通の日本人は知性が低く、無知である。たぶん人間なのだろうが、人間であることを示すような点はどこにもない。」当時、トマス・ブレーミー将軍も、こう演説していた。「諸君らが闘っているのは奇妙な人種。人間と猿の中間にある。文明存続のために我々は最後まで戦い日本人を根絶しなければならない!」。 ・・・・そうか、うん、よく言ってくれたね。おそらく今もそうだろう。アングロサクソン アメリカ人やイギリス人 が大嫌いになりました。西欧で一目をけるのはドイツ人だけだな。彼らはユダヤやアングロより優秀だ。
06. いちごサンデー 2013年8月12日 05:42:13 : XujN/GmlzX3Fg : Oeom75xoFA
 1945年3月10日、東京大空襲で10万人の方々が亡くなりました。それに対する報復として、日本はアメリカの首都であるワシントンやニューヨークに空爆を……などということは全く不可能でした。西海岸さえ攻撃できていません。西海岸まで半分の距離、太平洋のド真ん中のハワイを開戦直後に奇襲しながら、橋頭堡にすらできませんでした。敗戦は確実でしたが、軍部官僚のメンツのためだけに大本営発表により各地で連戦連勝しているように装いながら戦争は続けられました。バンザイアタックで長引かせました。その結果原爆を落とされたのです。それでも軍部官僚が理解できなかったため、もう一発食らいました。本当に命が軽視されていました。「20million Japanese war crimes ww2」で検索してください。世界中の方々の記録や意見が見られます。日本ではネット自民が「日本軍は2000万人のアジア人を殺した」という世界的な歴史常識をリビジョニズムで歪めようとしていますので、英語の方がいいです。

 今の日本は90年代のドイツのような有り様です。ネオナチを中心として「ガス室はなかった」「ユダヤ人が600万人(※この数字は誇張されていると思われますが)殺されたのは嘘だ!」と騒ぎ立て、犠牲者は200万人程度だろうとする他国の学者も現われましたが、ではそれでナチスに対する世界の見方が変わったかと言うと、何も変わりませんでした。つまり国際社会的には何も意味がなかったどころか、むしろドイツに対する警戒感が拡大したのです。終戦については「victory over japan day」「Victory in Japan Day」で検索してください。

20世紀は大戦争の世紀(5)日本軍は2000万人のアジア人を殺した
http://yamanasi-satoyama.blog.ocn.ne.jp/blog/2012/08/post_8cda.html

人権と原発
http://d.hatena.ne.jp/nemimini_mimimi/
http://image.bayimg.com/123c1cf82a6862d2fccd1c8a18f3692590a001d3.jpg
http://bayimg.com/GAoAEAAEe
http://image.bayimg.com/d0ee4289da40cb6a46bc71a39f076de1a566550e.jpg
http://bayimg.com/GAoamAaeE

07. 2013年8月12日 10:30:22 : 9NKiiqErzo
>>20世紀は大戦争の世紀(5)日本軍は2000万人のアジア人を殺した
http://yamanasi-satoyama.blog.ocn.ne.jp/blog/2012/08/post_8cda.html

どうしてアメリカが戦後勝手に攻め込んで殺戮してきた世界の人の数とかいわないかなあ?どちらが悪いといえば日本は西欧の植民地政策をストップさせて点で世界史のなかで後世に語られるべきことで我々の先人の勇気に感謝すべきなのです。イギリス、オランダ、スペイン、ポルトガルなども含めて世界中でおこなってきた植民地政策での死亡者を調べないかな?あなたのような自虐史をあおるような嘘のこういうプロパガンダはいいかげんにしろということです。ユダヤの虐殺がなかったのは事実でありましょう。それに反論しているというのも嘘でマスコミを牛耳っているユダヤ勢力が反発しただけの話で世界中の人がその話を耳にするにつけ真実は広まっていくよ。

08. 2013年8月12日 10:54:19 : 9NKiiqErzo
日本軍の行為がいかなるものであったかは本当にあったことをきちんと伝えている人から聞くべきである。パラオべリリュー島での日本人の戦いも僕は印象に残っている。

~そこでは日本軍はすべての現地民間人を日本軍は救うため、外国人の現地民間人に犠牲をださないようにして安全な場所に移送してから米軍と戦いをはじめ、結果玉砕となりました。外国人である現地民間人は当時の日本軍の米軍ではありえないようなその立派な行為について今も後世に語り継いでいるとのことです。


 一時が万事ということがあるが、このような日本軍であったということはアジア諸国での行動が同じで規律正しく現地民間人の話が伝わる場所できけば簡単なことである。台湾にいって日本軍のことを聞いてみるといい。アメリカは制覇した国では上陸後その国のインフラ学校病院をすべて破壊しつくすが、日本は逆でその国の人のために道路をつくりインフラを作り学校をつくり病院をつくるような国であった。アメリカはその国の戦死者をしきつめてそこに滑走路をしくような国民で(硫黄島はそうなっている)日本軍は相手の戦死者の葬儀をおこなって霊魂をともらうようなことをする国である。

10. 2013年8月12日 12:57:22 : 9NKiiqErzo
>>台湾にいって日本軍のことを聞いてみるといい。
アメリカは制覇した国では上陸後その国のインフラ学校病院をすべて破壊しつくすが、日本は逆でその国の人のために道路をつくりインフラを作り学校をつくり病院をつくるような国であった。

>>アメリカはその国の戦死者をしきつめてそこに滑走路をしくような国民で(硫黄島はそうなっている)日本軍は相手の戦死者の葬儀をおこなって霊魂をともらうようなことをする国である。

台湾では 中国より、アメリカより 日本を気にしてくれたりしていて、だからこそ下記のような日本の思想文化を取り入れてくれているのです。

日本では戦後の自虐史で廃止されつつある 日本の仰げば尊し
http://www.youtube.com/watch?v=ihdres4pgoA

台湾で小学校で歌い継がれる 日本の仰げば尊し
http://www.youtube.com/watch?v=z5GPnvVEDzU

台湾で大学校にいってもなお歌い継がれる 日本の仰げば尊し
http://www.youtube.com/watch?v=19XXs3VCH4k
http://www.youtube.com/watch?v=pWi93tYxXz4

日本があくどいものであれば国民歌のようなものにはけしてなっていません。

パラオべリリュー島での日本人の戦いも僕は印象に残っている。

~そこでは日本軍はすべての現地民間人を日本軍は救うため、外国人の現地民間人に犠牲をださないようにして安全な場所に移送してから米軍と戦いをはじめ、結果玉砕となりました。外国人の現地民間人は日本軍の米軍ではありえないようなその立派な行為について今も語り継がれているとのことです。

http://www.youtube.com/watch?v=cTRfPNEPR-A

遠いインドの国でもインドの人々が大東亜戦争という西欧に立ち向かった日本軍をたたえる歌があるのです。
http://www.youtube.com/watch?v=5gbvMnP2cYE

18. 2013年8月13日 02:02:28 : xYUHqhvOhg
>>6
当時の状況をできるだけ正確に説明しないといけない。両サイドの説明が要。
中国を征服=侵略はいかに民衆を沢山殺して恐怖政治で従わせるかにかかるんだね。
結果、中国共産党3000万、中華民国1000万、日本500万、殺しが足りないと言う事を言ってんのかね?中国共産党は村全体を陣営に組み込むときは漢妖で指導者を虐殺し恐怖で村全体を抗日に従わせる。日本軍に被害がでると日本軍が村に報復する。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E8%A1%86%E6%AE%BA%E6%88%AE

ならず者集団共産党軍は正規軍と比べると怖いぞ。親玉のソ連の振る舞いは”5月2日、首都ベルリン市はソ連軍に占領された。その際、ベルリン市民の女性の多くがソ連兵に強姦されたと言われている。ある医師の推定では、ベルリンでレイプされた10万の女性のうち、その後死亡した人が1万前後でその大半が自殺だった[27]。また東プロイセン、ポンメルン、シュレージエンでの被害者140万人の死亡率は、さらに高かったと推定される。全体で少なくとも200万のドイツ人女性がレイプされ、繰り返し被害を受けた人もかなりの数に上ると推定される(同上より)。ドイツ以外でも、ソ連軍は侵攻したポーランド、オーストリア、ハンガリーでも大規模な暴虐・略奪行為を行い、スイス公使館の報告によると、ハンガリー女性の半数以上が強姦されたという。”     ウイキより
どうりで共産党は下半身にだらしがない奴が多いわけだ。伝統か?

広島の平和もまじめに取り組んでると福島はなかった訳だ。2度めの大災害が日本を襲った。共産党はプロパガンダばっかりで魂が入ってない証拠だよ。脱原発運動も個人として素の気持ちであれば成功するがプロパガンダなら第2の広島平和運動になる。追悼はいいが核廃絶は今までのやり方では絶対無理。中国電力も核エネルギー利用してたし政治的に簡単な原発阻止を容認してたら核は無理だろうよ。少なくともノーモアヒロシマはよりによって日本の福島でおきた訳だ。

21. 2013年8月13日 09:46:25 : oMqWjPMWeM
パンプキン爆弾(かぼちゃ爆弾、Pumpkin bomb)とは第二次世界大戦中にアメリカ軍が開発、使用した爆弾である。1945年8月9日に長崎に投下された原子爆弾(原爆)「ファットマン」の模擬爆弾として知られる。単に「パンプキン」と呼称される場合も多い。正式名称は「1万ポンド軽筒爆弾」。「ファットマン」とほぼ同一の形状を有し、重量もファットマンとほぼ同一になるよう調整された模擬原爆で構造分類上での通常型爆弾のコードネームである。マンハッタン計画に携わる、ロスアラモス研究所の科学者と兵士によって命名された。この爆弾は原爆投下に備えた爆撃機乗員訓練のためと、今までに例のない特殊な形状をしたファットマンが爆撃機(原爆搭載可能なように特殊改修を受けたB-29)から投下され爆発するまでの弾道特性・慣性能率等の様々な事前データ採取のためにいわば「模擬原爆」として製作された。 wiki より
ハロウィン 、あるいはハロウィーン (Halloween, Hallowe'en) はヨーロッパを起源とする民族行事で、カトリックの諸聖人の日(万聖節)の前晩(10月31日)に行われる。諸聖人の日の旧称"All Hallows"のeve(前夜祭)であることから、Halloweenと呼ばれるようになった。ケルト人の行う収穫感謝祭が、カトリックを信仰する他民族の間にも非宗教的な行事として浸透していったものとされている。由来と歴史的経緯からアングロ・サクソン系諸国で盛大に行われるが、キリスト教の広まるところであれば必ず祝われるという訳ではなく、むしろ地域は限定的である。31日の夜、カボチャ(本来はカブ)をくりぬいた中に蝋燭を立てて「ジャック・オー・ランタン (Jack-o'-lantern) 」を作り、魔女やお化けに仮装した子供達が近くの家を1軒ずつ訪ねては「トリック・オア・トリート(Trick or treat. 悪戯かご馳走か)」と唱える… (引用先は検索で)◯ちなみに、ハロウィンから131日後が3月11日。131は、9番目のオイラー素数で1つ前は113である。また、回文数であり回文素数でもある。数字を入れ替えた113と311もまた素数である。
25. 2013年8月13日 15:37:13 : F1Sr2Hx0Nj
戦争は勝てば官軍。勝者であるアメリカ(連合軍)に正義があり、敗戦国は正義に反する侵略国となる。もし日本が勝っていればその逆、米国が悪の侵略国になっていた。勝者に正義があり、原爆使用も勝者の論理で正当化される。
29. 2013年8月13日 22:27:07 : 2WsMJFhUs6
>東条英機の東京裁判での証言「臣民が陛下のご意思に背いて何かなすことなど考えられぬことであります。いわんや日本の政府高官においてをや!」
31. 2013年8月14日 08:33:25 : fh0nyQu4BI
>>02>>22

「正しい宗教」なんて言い出した時点でOUT!そんなものはない。一神教では信奉する神以外は「邪教」だが、多神教では「すべてが神」であり尊ばなくてはならない。敗戦を宗教と絡めるのは誤り。当時の軍指導部や政治家が宗教によって国策を決定したと考えるのは、一神教徒にとっては判りやすい説明だが真実ではない。

●"劣等人種"の大量被曝の影響実験としてのヒロシマ、ナガサキ。
        ↓
『米国による広島、長崎への原爆投下は最初から「市民の殺戮」が目的だった!』
http://www.asyura2.com/11/senkyo118/msg/156.html

●"劣等人種"の低線量被曝の影響実験としてのフクイチ。
        ↓
『南相馬市、恐怖の人体実験!?人体への低線量被曝の研究を強力に推進』
http://news365news365.seesaa.net/article/322089058.html

-----(一部引用させていただきます)

「放射能の挙動と放射線レベルの解明及びそれらによる被ばく線量の評価法の開発並びに低レベル放射線の人体に及ぼす身体的・遺伝的影響の機構の解明及びそのリスクの評価に関する研究を強力に推進していく」(『新たな発想による事業事例の研』~ 経済復興計画の策定に向けて~』:南相馬市経済復興研究チーム)

ここまで、はっきりと書かれている公文書は初めて見ました。今までは、汚染地域(ここでは南相馬市)に住んでいる人たちは、陰で、「モルモット」とささやかれ、また、自虐的に、言っていましたが、この公文書により、はっきりと、「モルモット」になることが、明言されました。「家畜を包含する生息環境を研究」。つまり、人間を含むということでしょう。「南相馬市は放射能による生態への影響を調査及び研究する意義が大きいフィールドとなつており」、つまり、汚染が広範囲、全域にわたっているということ。広島、長崎で得られなかった詳細な低線量被曝のデータを、今回の福島第一原発爆発事故により、収集し、研究に利用しようとしています。そして、収集したデータは、収集者、つまり自治体(たぶん=国)の都合の良い様に改ざんされ、捏造され、そして、都合の悪い部分は、非公開。そうなるような気がします。

-------

●"劣等人種"永久支配の構造としての「日米安保地位協定」と「TPP」
   ↓
『TPPは、世界金融支配体制が、日本人を完全制圧するための最終的な仕掛け・・・』
http://ameblo.jp/porte-bonherur/entry-11509489771.html

-------(引用させていただきます)

【原発の耐震偽装】

日本の原発は全て耐震偽装のもと、耐震震度370~600ガルでつくられていることがわかりました。しかし、実際の地震は、2000ガルあるいは、それ以上の強い揺れで原発を襲います。震度5強の地震によって、総延長約80kmにも及ぶパイプの2万5千箇所の接合部のいずれかが破断し、冷却水が漏れてメルトダウンが始まります。フクシマでも地震でパイプが切断してメルトダウンが始まりました。津波はその後に襲い、ぬれぎぬを着せられたわけです。地震列島日本の上で、まさに、「今そこにある危機」です。しかも、フクシマの完全密閉という処置さえできていないにも関わらず、さらに地震活動期に入ったと言うのに、再稼働へ着々と進んでいます。そのために、再運転の見通しが立たず発電しないまま、膨大な資金が、血税が無駄に投入されています。敦賀原発などを保有しているものの、一切発電していない日本原子力発電株式会社に、東電など発電会社が年間760億円、3.11以降も支払っています。その代金は、国民の電気代として徴収されています。全ての経費を合算して、さらに一定の利益を上積みして電気代を請求できる総括原価方式というカラクリのなせるワザです。3.11以降、全炉即廃炉・安全化、そして未来型エネルギーに全力で取り組んでいれば、今頃は日本にも光明が見えていたかも知れません。

【日本の癌・日米安保地位協定の真実】

ちなみに、戦後のこの日本における世界金融支配体制を堅持する原動力が、日米安保の地位協定、つまり「アメリカの望む軍隊を、アメリカの欲する時期・場所に置く権利」にあると言うことも、日本人に見えて来ました。これなど、サンフランシスコ平和条約締結直後に、吉田首相だけが米陸軍下士官クラブに「連行」され、強制的に調印された不平等条約であり、当時の日本の与党政治家たちも、「永久に日本はアメリカの占領下・植民地になる」と地団駄を踏んで悔しがったものです。在日米軍は、日本の防衛のためでなく、世界金融支配体制が、世界戦略上の利益追求のために置いているのです。ベトナム戦争の北爆も日本の基地からB52が飛び立ち、湾岸戦争等でも日本の基地が無ければ戦争ができなかったのです。大きな戦いになるほど、基地の兵站(へいたん)機能、戦力基盤がなければ遂行不可能なのです。この米軍基地の維持費等を支援するということは、世界金融支配体制をバックアップするということに他なりません。自分で自分の首を真綿で締める、ということになりかねないことを、日本人は自覚しなければなりません。在日米軍基地は、治外法権ですから、日本人の全く知り得ないところで、自由に何でも日本に搬入、搬出できるわけです。世界金融支配体制のそれぞれの分野で自由に対日工作ができることを意味します。ところが彼らの作った日本のメディアが、日本の防衛に不可欠と、嘘を繰り返した結果、今現在、日本人のほとんどの人が、独立国家・日本に外国軍を永久に置くその「異常さ」に気がつかなくなりました。このようなメンタリティの国民は世界広しといえども日本人だけです。もちろん、日本社会の中で軍事関連問題をタブーにして、日本人から自主独立の気運を喪失させた上で、尖閣、竹島、北方四島という係争地域を「設定」し、常に脅威を演出することによって、在日米軍依存症候群にしたわけです。世界でもっとも危険な輸送機と言われるオスプレイも、何ら事前協議することなく、米軍司令官の一方的通知のみで日本の上空で自由に飛行訓練できます。ハワイでさえもできない訓練を、世界で日本だけできるわけです。もし、世界金融支配体制の医療部が、新たなワクチンでお金を儲けようとすれば、オスプレイから新インフルエンザウイルス等を散布する、というようなシナリオも可能なわけです。もちろん、やがて世界金融支配体制の武器部が、1機60億円の高価な値段で日本に売るためのデモンストレーション飛行でもあるわけです。かつての防衛省大臣が未亡人製造機と揶揄し、海上自衛隊が次期ヘリコプターとして導入を検討したときに、欠陥機と見送ったにもかかわらず、再登場した自民党政権は自衛隊への導入を決めてしまいました。このような理不尽なことがまかり通るのも、世界金融支配体制の医療部にしろ武器部にしろ、原発部門と同じように、日本人の中に、彼らからおこぼれをもらう利権者がいるからうまく機能するわけです。知らないのは、善良な日本国民だけです。このオスプレイの基地である普天間基地を含め、米軍基地は世界に737箇所、そのうち日本には134箇所あります。その世界全体の維持経費の半分を、なんと日本が負担しています。これも、日本人の知らないところで、お金が吸い上げられる構造となっています。東日本大震災時に、原発から80km以内には入らず、お茶を濁すような復興支援で、向こう5年間、年1800億円のおもいやり予算を勝ち取った巧みさには、私も舌を巻いたほどです。

 【飽くなき日本からの金融収奪】

 ところで2008年、彼ら世界金融支配体制者たちは、リーマンショックをおこしてしまいました。サブプライムローンなど、架空の金融商品を作り、実体のないお金で、さらにお金を産もうとして大失敗したのです。グローバルスタンダードとは、彼ら世界金融支配体制のためのお金儲けのシステムにすぎず、その経営理念とは「オーナー・株主の利益、お金儲けのみを目的とする」ものです。社員やその家族、消費者の利益・幸福は考えません。いや、考えてはならないのです。会社=オーナーの利益のために、それまでその利益を産むために働いてきた社員を、経営不振になったらすぐにクビにする。形は違え、霊的成長の場という本来の地球システムから見れば、殺人と同じレベルに私には見えます。眼前のお金が目的になれば、経営者は、投資ですぐに成果を上げようともするわけです。投資など、実体のない、まさに架空のお金儲けの博打に過ぎません。日本人の好む麻雀と同じゼロサムゲームです。実体の価値を生み出すのではなく、誰かが誰かのお金を集めているに過ぎません。これで人生を賭けるようになれば、この世の春と膨大なお金をつかむ一方で、悲惨な自殺を選ぶ人が出ます。もっともこの投資システムそのものも、世界金支配体制の本部ともいえる金融部がお金を集めるためのシステムとして作り、運営しているわけです。彼ら配下の機関投資家は、儲けは懐に入れ、損失は税金で補填してもらうわけです。いわばぼったくりの世界です。こういう経営のもとでは、製品開発費も抑えられ、社員の帰属意識・忠誠心、士気も落ち、永続的な活動は不可能で、やがて会社そのものが倒産するでしょう。もちろん、世界金融支配体制内の大企業は、「社会問題となり、潰すわけにいかない」というメディア誘導のもと、税金でリカバーするわけです。何も知らない国民からの税という効率のよい巻き上げです。倒産に導いた経営者にも手厚い退職金などが支払われます。例えば、倒産したGM社の経営者には、退職金が約9億円支払われたのみならず、手厚い年金も支給されています。経済的にも、二極構造化のなかで、彼ら支配者層だけが儲けて生き延びる体制になっているのです。アメリカ型企業体系を取り入れた国々、地域では、リーマンショック後、不況に陥り、中央銀行が無制限にお金を刷って不良債権を買い取るしかなく、まさに大インフレ不況への道を歩み出しています。これがエゴ型資本主義の終焉を迎えて、本来の地球の役割に応じた新たな政治経済体制へ移行するきっかけとなるのか、自暴的破壊へと進むのか、分かれ道になるのかも知れません。

 【TPP、日本収奪の最後の仕掛け】

 要するに、これからますます、実体的なお金を吸収できるところは、日本しか無くなってきたのです。TPPとは、まさにそのために、日本に仕掛けられた彼らの起死回生の最後の「仕掛け」、舞台装置なのです。その認識のない限り、真の脅威を見誤って、様々な汚染で健康被害を受けながら抹消されつつ、貴重なタンス資金が奪われるでしょう。そうなれば、日本人にも、この文明にも明日はありません。TPPのもともとの原点は、自民党宮澤政権下の1994年に始まった「年次改革要望書」に見られます。日米双方が自由な交易の障害となっている相手側の規制や制度などの自主的改善を「要望書」という形で、毎年相互に出すようにしたのです。相互といいながら、植民地的被支配者意識の日本政府・官僚が出すわけはなく、実体は、日本への経済的な侵攻を狙う世界金融支配体制の一方的な要求書でした。郵貯約350兆円が最大の目標で、第1回目の要望書からすでに郵政民営化項目が入っていました。彼らが作り出した小泉首相マジックに先立つこと10年と言う用意周到さです。改革要望書といいながら、官僚たちにとっては、至上命令と同じでした。なぜなら、優秀な官僚ほど、若くして米国留学し、対日ハンドラーズで有名な学者の薫陶を受けるなどして思考様式がアメリカナイズされ、米国の提唱するワールド・スタンダードこそ世界を、日本を豊かにすると、心底から洗脳されて帰国するからです。もっとも米国はそのために様々な留学制度や交換学生制度をつくっているのです。これを「ソフト・パワー」戦略といいます。対象国の官僚だけでなく、メディアやあるいは大企業の優秀な若者も対象となります。このような米国心酔派が、やがて直接的な日本統治者グループとして、世界金融支配体制とメディア等の支援を受けて形作られてきたわけです。その年次改革要望書も、ネット情報等により実体が晒され、鳩山政権下で廃止されました。こういう意味でも、自主独立の動きをする小沢・鳩山ライン、及びそれにつながる政治家を日本の政局から一掃したかったわけです。ちなみに、先の衆院選でほぼその目的は達成されています。彼らは、次の参院選で完全制覇を狙っています。そうなると、本国民が目覚めない限り、永遠の現代版金融植民地国家となります。このような経緯を経て、世界金融支配体制は、TPPを活用することにしました。TPPには、世界的大企業が主力である彼らにとって、次のようなうまみのある条項があります。

・ISDS条項
 海外起業を保護するために内国民待遇が適用される。これにより当該企業・投資家が損失・不利益を被った場合、国内法を無視して世界銀行傘下の国際投資紛争解決センターに提訴することが可能。結果、日本政府や自治体は法外な賠償金を請求されるか、不都合な法律改正を迫られる可能性がある。

・ラチェット条項
 一度自由化・規制緩和された条件は、当該国の不都合・不利益に関わらず取り消すことができない。例えば、一度輸入を認めれば狂牛病が出ても、米牛肉の輸入禁止ができない。遺伝子組み換え食品、化学添加物問題も、医薬品も同じ。

・TPP離脱リスク
 TPPのルール上、離脱はいつでも可能とされるが、実際上は海外企業からの莫大な損害賠償請求が予想され、TPP離脱は極めて困難と考えられる。

 すでに、カナダやメキシコなどでは、世界金融支配体制食糧部門の代表存在的企業・モンサントの遺伝子組み換え作物が、モンサント契約農家以外の農地に勝手に飛び火して実ったにもかかわらず、知的財産権をもとに、モンサントから膨大な賠償金を請求されて、廃農においこまれた農家が出ています。TPPは、世界金融支配体制が、明治維新以降、なかなか入れなかった日本社会内で、日本人を完全制圧するための最終的な仕掛け・舞台装置であることを、日本人にしっかり認識して欲しいと思います。今のところ、日本の為政者等は、これらの構造を知らずに、その仕掛け針に食い付かされたと、私には見えます。まるで、先の大戦で、わざわざルーズベルト米大統領が仕掛けたエサであるハワイの空母なき旧式米国艦隊に、みずから先制攻撃をしてしまった山本五十六と安部首相がだぶって見えます。 まず真実を知り、目覚めることです。

35. 2013年8月14日 12:13:39 : IUvoxADoQI
 昭和50年、皇后と共にアメリカを訪問。帰国後の10月31日に日本記者クラブ主催で皇居の石橋の間で正式な記者会見が行われた。記者の質問に対して戦争責任者の言葉とは思えない返答をした。「原爆投下はやむをえないことと私は思っています」。 (どなたか当時の動画をお持ちなら貼り付けて下さい)レビで父と見ていたが、天皇は過去の戦争のことを口ではなんとでも言うだろうが 無謀な戦争で死んだ兵士や民間人のことをこれっぽつちも思っちゃいない 本当の意味で反省していない。 

(ウイキペヂアより)
法華経の成立が、釈迦存命時より数世紀後だという文献学の成果に対し、日本と他の大乗仏教圏諸国では受容の仕方が異なる。日本の伝統教団では、師の教義を弟子が継承し発展させることは、生きた教団である以上あり得ることから、法華経をはじめ般若経、大般涅槃経など後世の成立とされる大乗経典は根無し草の如き存在ではない。釈迦の直説を長い時を経て弟子から弟子へと継承される課程で発展していったものとして、後世の経典もまた「釈迦の教義」として認める、という類の折衷的解釈を打ち出す傾向がみられる。また、文献学といっても、たとえば、サンスクリット重視の立場で研究しても、そのサンスクリット原典そのものが、原典ではなく、写本であり、その成立年代も漢訳の仏典より、さらに新しいという例も多々あり、文献学もいまだ発展途上である。漢訳一覧

47. 2013年8月15日 21:12:03 : dRQMRm83JA
■民主党を破壊した仙谷一派の中の長老・藤井裕久がまた米国擁護(原爆投下は仕方なし)の詭弁を扱いている。藤井裕久といえば民主党政権で財務大臣をやって菅と野田を従え官僚の犬に調教した大悪党だ。仙谷が小沢追放の犯罪を犯し、藤井裕久が鳩山後の菅と野田の育成係りを担当した。この二人が国民が選んだ民主党を潰した張本人と言っていい。この大悪党・藤井裕久が東京新聞で鬼畜米国を擁護するための昔話を、そうとはわからないように巧妙に発言している。
    ↓
 『核爆発開発 中学生も動員 「ばかな戦争から学ぶべき」』(東京新聞、2013.8.15)

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 「新しい武器の発明は青少年に期待するほかない」

 終戦一年前の1944年9月、国会で「戦時英才教育機関設置に関する建議案」が可決された。翌年、核爆弾の製造を目指し、理系のエリート学生を集めた「特別科学組」が編成された。元財務相の藤井裕久氏はメンバーの一人だ。当時を振り返り、改憲、集団的自衛権の容認などを推し進めようとする安倍政権への思いを聞いた。(略)「数学のできそうな生徒が選抜されて上野駅に集まり、出発した。(略)米国では(原爆開発の)マンハッタン計画が進んでいた。(略)そんな時、中学生からやろうなんてむちゃくちゃな話だ。なぜ、そんなばかな戦争をやったのか」。

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 笑っちゃうね。なんで突然こんな話を新聞社に(おそらく)持ち込んで記事にしなきゃならんのか?従米・従官の長老の一人藤井裕久の答えは一つだ。米国のヒロシマ、ナガサキ原爆投下100万人虐殺を正当化するためだ。要は「日本は原爆の開発を始めていました」、だから原爆投下はやむをえなかったといいたいのだ。この老醜は国民の民意を破壊し、米国の側に立ってヒロシマ・ナガサキ原爆投下の正当性を側面支援する。仙谷由人、藤井裕久、江田五月。これらはみんな東大法学部。バカモン族はどこまでも従米であり、売国・棄民の逆賊なのである。

●東京新聞も気を付けて! 狙われているぞ!

48. 2013年8月16日 08:28:17 : BBEfCgGLfE
 広島も長崎も東京大空襲も、神戸も仙台も新潟も日本本土の空襲は  「ハーグ陸戦協定」違反(非戦闘員の虐殺)です。彼らの言い方からすれば、米軍はとりあえずB級戦犯になります。原爆製造、原爆使用はA級戦犯です。
62. 2013年8月18日 13:48:10 : xlxmEf55aU
 ドイツ空襲には大型最新鋭のB29は使用されなかった。白人ドイツなので原爆投下使用しなかった。「黄色い猿」の日本だからこそ、これらは使用されたのだ。厳然たる事実である。マスゴミが言うようなその後多くの小賢しい理由づけは、全て毛唐アメリカの逃げ口上でしかない。神を信じる国のアメリカがやったこんな赦されざる蛮行を、一体キリストは赦すのか?これ一つにしても、ペテンいかさまアメリカであり、眉つばキリスト教というこにならないか?
63. 2013年8月18日 15:29:38 : K4wmGqMf9o

 中型戦略爆撃機のB29の初飛行はヨーロッパ戦線に投入されたB17より3年ほど遅れ、日本の敗戦3年前ということだ。第二次世界大戦が始まってすぐにアメリカは大型長距離爆撃機の開発に着手しているから、準備でき次第アメリカを離陸したんだろ。近代化も近代戦も当時は工業力が戦力を決めることになり、アメリカ全土の工業力を地獄の釜に例えるとするなら、日本のそれは遅刻の鹿馬のようなお粗末なものだったとも考えられる。気合だけ世界一だったのかもしれないが、あらゆる工業技術においてアメリカの方が十年早いという認識が軍部には皆無とは言えなかったまでも、戦争回避を軍部上層部が判断するに至るべく軍事力の詳細な認識には乏しかったのであろう。

68. 2013年8月20日 08:16:34 : xYUHqhvOhg
 アメリカの学者が言ってるな。中国共産党が3000万自国民虐殺。国民党が1000万人自国民虐殺。日本軍がアジアで500万人他国民を虐殺。隣のチョンは戦後なのに韓国で自国民数百万、北が数百万自国民虐殺。また最近も韓国に逃げてきた中国避難民を中国の要請により強制送還。日本は少なくとも好んで自国民は殺さないな。現在”コリアン”と韓国人をアメリカ人が表現するのは差別用語になってるね。韓国って相当悪いイメージがあるんだね。有史以来弱小国で現代ではさらに馬鹿だから2つに割れてるね。日本の非難より先に自国の後始末を先にやれよ。また東西ドイツを見らなえよ。隣国平和日本では迷惑千万だよ。
69. 2013年8月20日 12:41:33 : xl8Hu7dvdk
「模擬原爆」(パンプキン)は軍需工場や基地ではなく、市街地にも投下されている、これは投下演習と爆風や衝撃波からB29戦略爆撃機がいかに回避するための訓練。(実質49発投下)当時、日本の主要都市は、無差別爆撃で破壊されていたのに、広島と長崎はほとんど、空襲を受けていなかった。広島への原爆投下時間も、ちょうど市民が動き出す頃の8時15分19秒。都市の大きさ・山に囲まれている・重要な基地があった。(完全に人体実験)投下された原爆の目標地点は、相生橋だが突風が吹いてシマ病院の方向へ流されたらしい。(爆心地のシマ外科の住居人は、炸裂する前に大量の中性子を浴びて即死だったとされている)爆心地から170メートルの(当時)燃料会館(現レストハウス)の地下倉庫に偶然居て助かった人がいる。

※ 実際に広島を訪れ、原爆ドーム(広島県産業奨励館)の前で立ち止まって無意識に空を見てしまった。その後に原爆資料館(入館料50円)に直行。

73. 2013年12月28日 05:02:41 : 72SbPnhbjQ
07さん

 日中戦争(支那事変)について、私は専門家ではありませんが、次のように認識しています。

 いつから日本人が2000万人だの殺したことになったのかというと、70年代後半位からそれらの数字が中国共産党により、持ち出されるようになった。戦争直後、蒋介石や国連の発表では100万から130万で、それですら誇張だと言われていました。一挙に膨らんだ2000万人の内訳は、中国共産党支配下の大躍進や内戦、果ては文革時代の死者までもが、日本軍のせいにされたということで、政治的な数字であるのは蓋然性が高い。冷静に一次資料やソースに当たったがよいのでは。

75. 2013年12月28日 05:19:31 : 72SbPnhbjQ

 フライイング・タイガースを御存知でしょうか?米国民にひた隠しで進められた、米志願軍人による、大陸での日本軍との戦争行為です。真珠湾の数年前から日本は中国大陸で、米軍やソ連軍と戦っていました。真珠湾が宣戦布告無しの戦争行為だと責められる理由は国際法上本来成立し得なかったのです。それ以前に、「宣戦布告」から始まった戦争はないのですから。中国大陸では、ソ連軍や米軍兵士が、中国国旗を付けた飛行機に乗って、日本軍機と戦っていました。米国本土の法律に反しているので、極秘にされた事実でした。

76. 2014年1月16日 00:47:13 : yFQo1NxlbU
 日本の支配階級に潜んでいたメースンが、米と通じていたのですよね。社会だけでなく軍人にも蔓延していた共産主義革命を恐怖していたので、アメリカに頼んで原爆を落として軍を一掃してもらったのですよね。もう隠すことは出来ないと思います。米から崩壊後のソ連文書からも、たくさん証拠文書が出てきていますしね。海外の見方は、とても厳しいものがあります。もう、国民にだけ、隠しきれるものではないでしょうね。
81. 2014年2月02日 09:18:43 : KUjB74mYjU
 日本人を人間などと思ってないから、原爆投下したというのが事実だ。バカな日本は戦後あの人種主義者で日本壊滅爆撃実施したカーチス・ルメイという極道に勲章などやっている。全くバカな国だ日本は!そもそもこれは日本人への反逆行為だ。アメリカはドイツこそ原爆落として然るべきだったが、ドイツには落とさなかった。使用した爆撃機も、ドイツにはより旧式小型のB17を使用しながら、日本には新鋭でより大型のB29を使用した。ドイツは石作りで強力爆弾が必要だったのだ。なのに、逆に木造家屋で爆撃量も少なくて済む日本に対してこんな非道やったのがアメリカだ。こんなものだ、身勝手独善の白人のやることは。そもそも、飢え死にしかけていたピルグリムファーザーズの命を救い、北米大陸での農業や生存方法まで教えてくれた北米先住民を彼らはどれほど非道残虐な扱いし滅亡させ、彼らの土地含む財産や文化文明を根絶やしにしたかを知ればよい。今の日本が全く奴隷如くアメリカに従っていることに怒り心頭になるはずだから。日本はいい加減には好戦悪魔帝国アメリカの植民地を脱せよ。今のままアメリカ一辺倒続けるなら、日本人は金玉抜かれるだけでなくケツの毛までむしられ尽くされるることだろう。
84. 2014年2月02日 18:03:56 : WzX8nPCmYM
 第二次世界大戦の当時なら仮に新型爆弾の開発に成功した国がどこであっても使用したと考えられるだろ。アメリカが超軍事大国になったのは戦争が終わってからのことだ。原爆の研究は軍人は何も恐れず猪突猛進したが科学者や研究者らは副産物の放射能の毒性をいち早く察知したことにより、皮肉にも超軍事大国であるアメリカが世界に先駆けて核拡散防止を呼びかける国になったのである。原子力エネルギーは未だに開発途上であることを如実に物語ってると言うことはできるだろう。地球上には人間が一人も住めなくする程のウランが存在していることが分かっただけでも一部の人類が勝手に利用することは利己主義というより我田引水と言う方が分かりやすいのだろうか。安全であることが証明されれば良いのだが、最終的には誰の手にも負えず責任を取らなくても良いことの安全保障が必要らしい。現時点では核利用の反対を唱える人間の方に理がある。
85. 2014年2月02日 18:19:47 : TGZjS8iB2r
 早期降伏を迫る為だったのならば一発で十分なはずだ。にも関わらず、ウラン型とプルトニウム型のタイプの異なる原爆を2発落としたことからも、一義的には実験目的だったと言わざるをえない。日本にも、伊400に搭載した艦載機でもってアメリカ本土に細菌兵器を撒き散らす作戦があったものの、結局船長が人道上の理由で反対し実現しなかった。
88. 2014年2月02日 23:34:43 : TGZjS8iB2r
 仮定の話だが、もし体調不良やスキャンダル等で安倍が辞任するようなことになったら、前回の自民党総裁選の結果から判断するに、次に首相になるのは石破だろう。ここの皆は既に知ってると思うが、石破は安倍なんかよりも遥かにアメリカべったりだからね。アメリカの言うことなら「はい、分かりました!」と二つ返事で了解し、その要請を粛々と実行してくるだろう。安倍は就任以来、大胆な金融緩和で円安誘導し、アメリカが止めろと言ってるのに靖国に行き、アメリカや欧州のトップが軒並み参加を見送るなかでソチ五輪の開会式へ参加を決めた事、インドに近づき独自の安全保障政策を進めつつある事、それから拉致問題もアメリカ抜きで進展させようとしてるらしい。以上の結果から、少なくともただのアメリカのポチでは無さそうだ。故に、そろそろアメリカからイチャモンが付く頃かな?安倍が首相であることは確かにベストでは無いかもしれないが、これまでの首相に比べたら間違いなくベターぐらいではあると言える。しかし、ここで石破になったら?
93. 2014年2月06日 10:43:23 : L3WV4408G2
 アメリカは日本国の総理大臣が靖国神社に参拝した事に「失望した」と声明を出した。広島や長崎に突如、原子爆弾を投下して女・子供・お年寄りなど罪もない一般市民を大量虐殺した。その数、20万人とも30万人とも言われている。この事に対する謝罪の言葉は一度たりとも聞いた事がない。この「失望した」発言には、今まで余り深く考えてこなかったものが、突如としてアメリカの理不尽さがくっきりと浮かび上がってきた。「南京大虐殺」とか「従軍慰安婦」と言った問題は、アメリカの狡猾な日本屈服・服従戦略として生き続けているのが、ネットなどの発達によってはっきり見えてきた。日本の新聞やテレビは彼らの手足に使われている事も。そのための餌として地位や名誉や金銭があてがわれている事も。アメリカのくびきから解き放たれなければならない。産みの苦しみを乗り越えて。
96. 2014年2月08日 10:38:15 : G4ZilYeXQP
 さすがのアメリカも、白人ドイツには原爆だけは落とさなかった。たとえ完成以前にドイツが降伏したとは言えである。だが、日本には2発も落とした。不要なのにだ。しかも、日本敗戦はそれ以前に確定していたのにだ。目的の為には手段選ばぬ白人アメリカだ。しかも、有色人種や自分らより「劣る」と決め付けた相手には容赦なく残酷な仕打ちしてきたのが白人アメリカなのだ。そもそも、白人侵略以前には平和素朴に生きていた北米先住民なのに、かれらを根絶やしにし、その土地をブン捕りデッチ上げて作ったのがアメリカであり、アメリカはそれ自体が「犯罪」そのものなのである。多くの日本人は「強い者に対しては弱く、卑屈に靡く」国民なので、アメリカの根本的悪事や間違いについて、たとえ知っていても、何も言わない、言えない。それよりも、弱い者イジメに専念する。原爆投下は防げたはずなのに、むざむざと白人アメリカの実験台として多くの同胞の首差し出したのが悪党の日本権力者らだ。そんな奴等自身は戦後もノウノウヌクヌクと生き延び、その末裔ジミンとその金魚の糞勢力らは今のようなデタラメ滅茶苦茶な独裁政治やっているという始末なのである。これが悪党らによるイカサマペテン八百長何でもあり日本の真実だ。
101. beobachter 2014年2月09日 23:40:23 : ljsB2yiZ5RqJU : GXXJjwt8aM
 原爆がドイツに落とされなかったのは当然だ。5月に降伏した時点でまだ完成されてない。スティムソンが京都を外したのは敗北後の日本支配の困難さをさけるためだが、軍の中には最後まで京都に拘る勢力がいた。文民と軍の対立はやはり政治的計算で決着された。日本の侵略で苦しめられていたアジア諸国の民衆は原爆投下を喜んだとある。フィリピン人らはなぜ東京に落とさなかったのか。次は東京だ。と望んだそうだ。一般大衆への原爆投下を批判したのは、かつて日本の海軍機が無差別爆撃を行った重慶の新聞で共産党系とされるものだった。世界唯一の好意的反応だった。連合国側の西欧人はこれで戦争が早く終わると安堵したと正直に述べている。重慶とゲルニカは無差別爆撃のはしりだった。重慶でこれを目撃した米国大使館の武官は激怒し、「見ておれジャップども!」と叫んだそうだ。ルメイ将軍がそれであった証拠はないが、米空軍がそのような復讐心で東京大空襲に臨んだことは予想される。米軍はドイツ・ハンブルク、英空軍はドレスデンで報復を果たした。この論戦を見て、事実を客観的に調べず、単なる思い込みや他人のパクリで勝手なことを言い合っているのに驚いた。素人ではなく本物の専門歴史家(大学博士課程で専攻したテーマに関して述べているもののみだ)の研究を読むことをお勧めする。彼らは嘘を一度でもやれば、研究者失格だから、真剣勝負をやっている。なんでもありで売れればよい漫画家や物書きのいうことを真に受けるのは悲劇だ。なお言わせてもらうと、天皇の人気がないのに驚かされた。批判すべきは天皇個人ではなく、ご本人の意思を押し切って勝手なことをしてきた権力者の方だろう。とくに慎重で控えめな平和愛好者であらせられる今上陛下は神ではなく生きた個人として象徴天皇の役割を引き受けられておられる。日日分刻みで拘束され。
102. 2014年2月10日 02:29:51 : uO5xns7LQo
 現在も米国は311テロ攻撃とtpp奴隷化とプラザ合意収奪で日本を滅ぼそうとしてるだろ。米軍基地で支配してる。それが現実だ。認めろ。米国が全部悪い。関東、東北5000万人を逃がさないようにして被曝させて殺そうと命令してるだろ。認めろ。現実は悪魔の米国が真実だ。イラク、アフガニスタン、シリア、で現在もジェノサイド実行中だ。認めろ。なにを洗脳されてとろいことプロパガンダしてるんだ。トンスル工作員は。お前達は日本が亡べば用済みで始末だろう。
107. けろりん 2015年8月08日 03:31:29 : xfW5FN1G6ouU2 : duq0kWvUpk


<<日本人は知らない原爆投下の真実 の真実>>

●日本< 統治 >プラン

 アメリカの国立公文書館で発見された「米国陸軍軍事情報部真理作戦課『日本プラン』」

 日本プラン」は1941(昭和16)年12月、すなわち日本軍の真珠湾攻撃の直後に作成が開始されたもので、「天皇を平和の象徴(シンボル)として利用する」戦略が明記されていた。すべての戦争責任を、「軍部」に押しつけて天皇を免罪し、「象徴天皇制」のもとで日本を占領支配するという計画を立てていた。1942(昭和17)年5月には「皇室に対するすべての攻撃は避けられなければならない」とする「英米共同指針計画」を出し、皇居への爆撃の禁止命令を厳格に実施させた。戦後駐日大使となったライシャワーはその当時、「日米戦争勝利後の“ヒロヒトを中心とした傀儡(かいらい)政権”」を提言し、「天皇は100万の軍隊駐留に匹敵する」と主張していた。対日戦争というのは、野蛮な日本の侵略をこらしめ、平和と民主主義のための参戦だったと欺瞞する。しかし、日露戦争後に、日本との戦争は必至と分析し、ハワイ攻撃を待って徹底的にたたきつぶし、無条件降伏させるという計画を持っていた。ライシャワーなどは、「戦争責任はすべて軍部にかぶせて、天皇を傀儡(かいらい)として利用する」といっていた。日本にかわって中国アジアを侵略するためであり、日本を占領支配するための戦争だった。そして、日本の人民が抵抗できないように、戦地では餓死、病死に追いこみ、内地では原爆投下、全国の都市空襲、沖縄戦でさんざんに殺しまくった。


 ●< 無条件降伏 >

アメリカとイギリスと中国の三国で取り決めた「 無条件降伏 」を日本に迫る< ポツダム宣言 >が、1945年7月26日に出された。その時点ですぐに受諾していれば、原爆は落とされなかった。しかしそれでは日本人を使って原爆の人体実験をする予定のアメリカとしては、計算違いになる。

そこで、ポツダム宣言を出しておきながら矛盾するのだが、スティムソン陸軍長官は天皇ヒロヒトと裏取引をした。

 ●ヨハンセン・スパイ<  白州 次郎 >

( 吉田茂を中心とする連合軍側のスパイ「 ヨハンセングループ 」が仲介者であった。メンバーには著名な「 白洲正子 」の夫で、イルミナティ( イギリスのウォーバーグ )のエージェントであった「 白洲次郎 」と、正子の父「 樺山愛輔( 正子の母、つまり愛輔の妻の父「 川村純義 」が、昭和天皇と弟の秩父宮の養育係であった関係で、昭和天皇の母「 貞明皇后 」と愛輔は昵懇の仲。御前会議の翌日には、内容がそっくり丸ごと白洲邸( 兵役免除され町田に疎開した次郎と正子の愛の巣「 武相荘 」)からウォーバーグ( ロスチャイルドの右腕 )に筒抜けだった )( ちなみに愛輔も貞明皇后もいずれもクエーカー派のクリスチャン )」が主になって動いていた。)


 ●天皇ヒロヒト指定<  原爆投下地 >

「 敗戦宣言は、原爆を落とすための準備( 完成した原爆をテニアン島に運んだりなど ) が、整うまで待って欲しい」と。( 長崎に落とされたプルトニウム239型の原子爆弾「 ファットマン 」は7月16日にやっと完成した )そして更に、「 原爆の投下場所と日時は天皇が決めてくれ!   敗戦宣言を延期すれば東京には落とさないし、  天皇の安全と財産は保証する 」  との確約は取れた。そこで、原爆を落としてもらったあとで敗戦宣言をするにあたり、一億総玉砕の覚悟で内地戦を展開するつもりの陸軍としては、敗戦宣言などされた暁には予定がトチ狂ってしまうわけだから、敗戦宣言に猛反対することは火を見るより明らか。・・・かと云って敗戦宣言をしなければ、天皇としては己の生命も財産も没収されてしまう・・・そこでこの邪魔な陸軍を抹殺するため、「 陸軍第2総軍司令部 」のある広島を、原爆の人体実験の標的として差し出したのだ。

●ヒロヒトのスパイ<  畑俊六 >の米軍手引き

第2総軍司令官「 畑俊六 」元帥は天皇の密命を受け、大屋角造中佐( アメリカ情報通 )に命じて、原爆搭載機が飛び立つ「 テニアン島 」のアメリカ軍と極秘に情報交換をひんぱんに行い、原爆投下が無事成功するように取り計らった。( 原爆投下が無事成功するように、抜かりなく準備した )8月5日の夜は偶然を装って口実を設け、独り抜け出して遠方の知人の別荘に宿泊し、自分だけ避難した卑劣な男「 畑俊六 」。( 昭和天皇の卑劣さには到底及ばないが・・ )

●ヒロヒトによる<  日本国民・大虐殺 >

 実験用の子供たち1万5千人と、市民(義勇軍)3万人とを8月3日~6日にかけて、爆心予定地に勤労奉仕の名目で騙して集めた。( 天気が晴れの日が原爆投下に最適なため、3日~6日の幅で予定を立てていた。投下日が6日と決定したのは8月3日であった。)ところで8月6日に決めた裏の理由は、天皇の財産をスイスの銀行が受け入れる態勢が整うのが8月6日とメドがついたから。( 海軍の潜水艦を使ってアルゼンチンに金塊や金銭を逃がしたり、フィリピン( マニラ )に金塊を隠したり( 戦争で略奪した金塊14万t・・・天皇の百合と呼ばれる。・・・・全世界の金の総量は15万t )、満洲や朝鮮から人々が帰る船が無くて虐殺されてるときに、天皇は自分の財産隠し一本に集中し、何百回も船で日本から財宝を運び出していた。昭和天皇の強欲度が天井知らずの理由は??・・・・)時刻はちょうど通勤時間帯であり、人々が外に出ている時間にした。特に第2総軍本部には、女子( 学生 )挺身隊も集合して8時から朝礼を行うのが日課であり、竹ヤリ訓練を開始するのがまさに8時15分。その真上に原爆を投下すれば、間違いなく跡形もなく建物もろとも木っ端ミジンになる! と計画して8時15分を選んだのである。

110. 2015年8月10日 22:31:34 : Ma5RZiiuic
大戦時の新兵器テストは当初中国人に対して行われた錦州爆撃から始まる 
北京・南京爆撃の後、重慶爆撃で既にメチャメチャなものとなる
その後標的は日本人に変わり、東京始め多くの都市がホロコーストされたが、アメリカのアジア攻撃はそれでは終わらなかった
戦争は相手がいないと起こせない 中国と北朝鮮はハルマゲドン詐欺をやる為の道具だし、第二次朝鮮戦争詐欺を宣伝する為に朝鮮戦争は引き起こされたのだと思っている
原爆が原発を生んだこの奇怪な構造はソ連や中国、北朝鮮でも貫徹しているし、原発利権と核武装が一体化しているのは右派が認めている通りである
ただ温暖化を阻止する為とか言うなら廃棄物処理場の問題一つ解決出来ないのに、完全な事故阻止対策や事故後対策一つ打ち出せないのに再稼動を急いでいい訳はない
あの戦争はルーズベルトと毛沢東と金日成の為に引き起こされた だから戦中の軍部官僚は共産主義者を弾圧しながら革新官僚と言われたんだろう
そして、アメリカも中国も軍産複合体=人体実験=核産業支配という点では同じである
ただ国際社会が右翼と左翼に分かれて対立しているように見えるが、米中両陣営ともロスチャイルドのウラン利権に行き着くのだ
112. 2016年5月28日 14:54:10 : AiChp2veWo : crH3ggO@jw4[346]
●神国日本についてお分かりになってませんな。
●過ちは繰り返しませんって、誰が誤ったのかな?。知らない人が見たら日本が大きな過ちを犯したように記しておいて、慰霊も何もないでしょ。
●はい、そもそも過ちではない。確信犯でっせ。
●日本製原爆かな?。軍隊を広島原爆の前に、当地に放り込んでおいて、空襲警報も鳴らず、やすやすと広島上空にB29がやってきただって?。
●大戦前に、日本は、米国のある会議に出席してるよね、ご苦労様。
●田布施、田布施って、それもそうだが、それで目くらましですな。
●南京ねつ造で、広島原爆の恐ろしい被害と犯人たちへの煙幕ですか?。
●ほんとに上から降ってきたんかいな、地上で爆発したんやない?。
●どなた様か存じ上げませんが、なんで米国の大統領に抱かれてるの?。背が低いから構図的にそう見える?。ちゃうでしょ。信念もって直利不動で臨んでちょうだい。
●オバマさん来る前に、米国の政府関係者の女性が、「興味あることに、日本は謝罪を求めていない」って発言した。謝罪を求めてくるのが当然と思ってんだな。
●どっちにしろ、日本列島での原爆爆発ジェノサイドの真実は必ずその真実が暴露されてきますな。
●日本人からは、米国に謝れ謝罪しろって声はあまり聞いた事がない。もし悪うございました、真実はこうでございますって、言ったって、原爆被災者の無念も苦しみも絶望も白紙にはできないし。空襲で死んでいき家を焼かれた全国の民間人たちもね。
●オバマさんは広島長崎の原爆投下問題に直接関係はないが、今回ご足労いただいたが、はは、まったくあれでしたね。当然ですがね。
●テロなんかこの状況で起るわけないが、まあほっとけないし大げさな事して見せないとね命令だし、で、民間人の郵便の遅配、移動の遅れ、お店には閑古鳥でぼやいてますな。
●戒厳令のシュミレーションですか?、そら大きな良くない出来事から日本と日本人を護らないかんですからな。
●米国のイエローストーンや日本列島の安全が問題ですな。
●監視カメラの数、なんでこんな増えてるの?。海底には増やさないのかな?。核よりもっと凄い兵器すでにできてるんでしょ。
●とにかく日本列島の安全と世界の安全を祈ります。
113. 2016年5月28日 17:53:36 : w3M1BHSquE : 5KToaZSVnLw[554]
>アメリカに押し付けられた価値観ではなく、日本人は自らの文化、歴史に誇りを持って良いと思う

↑ まあ、これこそが ウヨの妄想 矛盾の権化みたいな幼稚な論理

ウヨ連中は、二言目には 「自虐史観」 などと言う その一方で 「アメリカの押し付け」 と言う
この二つの言葉は 矛盾している事に気が付かないのだろうか だから馬鹿ウヨと言うのである

「自虐史観」というのは本当かもしれないが 自虐というのは 自らを虐めるという意味である
「押し付け」 というのは、他人から(他国から)強制される事を言う

確かに、アメリカは日本人の歴史観に介入しようとした形跡はある しかし そんな事は微々たる影響しか
及ぼしてはいない あくまで日本国民が戦後 “自発的に”あの軍国体制を否定したのである

戦後、アメリカを始めとする連合国から暴かれた戦争犯罪は あくまでも諸外国に対する加害行為であり
日本国民が受けた戦争被害とは別物である あの戦争を経験した全ての日本国民が それを否定するのは
徹頭徹尾 【日本国民が受けた戦争被害 いわゆる塗炭の苦しみである】

外国への加害行為など、無いに越した事はないという程度で ほとんど影響をもたらしてはいない
戦争なのだからある程度の加害行為は有って当たり前 日本人はそこまで心の狭い人種ではない

あの戦争を経験した全ての日本人が 「あんな戦争二度とやってはいけない」 と、口を揃えていうのは
あくまでも日本国民が受けた【壮絶な苦しみ】のせいなのである 馬鹿ウヨ連中は全くそれを無視している

明日食う米すらなく 雨露凌ぐ粗末な家すらなく 戦地に送り出した掛け替えの無い家族が
生きているのか死んでいるのかさえ判らない そんな状況で、誇りもへったくれも無かろう
食うや食わずで、なにが誇りだ なにが価値観だ

● 誇りや価値観なんかで 腹は膨れない 子孫を養う事も出来ない ●


誰がどう考えたって、【国民を騙し 欺いて】いたのは 戦前の大日本帝国という国家体制である
ほとんど嘘ばかりで固められていた大本営発表がその典型と言える そしてさらに
北は樺太 西は満蒙 南は台湾から南洋諸島 今と比べて遥かに広大な領土を誇っていた国家が
あんな情けないほどの貧乏国家だった事実 そして、戦争で獲得した領土全てを失った戦後の日本が
奇跡と呼ばれる程の経済復興を成し得た事実とその理由が 説明出来る訳がない。


【嘘だらけの大本営発表】【嘘だらけの戦時スローガン】【無駄死にの極致 神風特攻】【餓死させられた兵士達】
【戦後の壮絶な飢餓 食糧難】  日本人に自虐史観をもたらした真犯人はこれらである。

117. 何が真実か[132] ib2CqpBejsCCqQ 2016年5月30日 02:29:08 : HqMjbdOmjI : mDAV7reNgvE[2]
>115

>アメリカとの戦争だけは やる必要はまったくなく 日本側の被害妄想だけが
一方的に先走った 病気にかかった患者の暴走とも言える
「無駄な戦争」「無意味な戦争」「二度と繰り返してはならぬ愚かな戦争」 だったのである

 戦争に無意味な戦争はない。歴史認識が違うかも知れない。当時はパリ不戦条約が国際法だが自衛戦争は認められた、しかも自衛かどうかの判断は当事国にあった。対中国、対ソ連、対米英蘭であれ日本が自衛と考えた戦争が無意味と言えるのか?満州事変も支那事変も自衛戦争、(満州では対ソ連防共と中国の反日・侮日運動に対する自衛)この時点で対米戦争は無用、満州事変はすぐ終わった、満州国建国は溥儀の意思であり正当、支那事変は盧溝橋事件から始まるがこれもすぐ終わる、圧倒的に強い日本軍が何故すぐ終わらせたのか?戦争をしたくないから。基本的に満州は死守、中国に領土的野心は無い、数々事件が起こされるが全て不拡大方針で収めた。第二次上海事変から支那事変は本格的になる、蒋介石が日本租界に侵攻、海軍陸戦隊約4000の殲滅を図る、日本援軍増派、米英ソが蒋介石を支援して戦争を終わらせない、日本の和平提案いく度か全て蹴られる、蒋介石軍は上海から南京に敗走、南京戦では南京城内外に将兵を置いて逃亡、南京陥落、蒋介石は重慶まで逃げて重慶政府擁立、市街に高射砲などを設置(兵民分離違反)、これを日本軍は重慶空爆(誤爆あるが無差別攻撃では無い、合法)、蒋介石軍は米英の支援ルート確立で和平に応じない、これが対米英戦の原因になる南印進駐になる(援蔣ルート遮断の目的)、また米フライングタイガーは中国戦線で日本軍と交戦、F・ルーズベルは真珠湾攻撃の半年前に中国から東京空襲作戦にサイン、アメリカに戦意がある。中国戦線で中立違反をしたのは米英ソ。アメリカはハル・ノートで日本を追い詰め、日本の真珠湾攻撃を誘い込む。対米戦は避けたい、しかしハル・ノートで中国と南印など進駐軍の全撤退要求はのめない、のめば後は農業国しかないと考えたから開戦やむなし。満州事変は一旦終わり、大東亜戦争は盧溝橋事件から始まり終戦まで。この間の何が愚かか?

128. 何が真実か[133] ib2CqpBejsCCqQ 2016年5月31日 00:26:15 : h4yrS6hgmc : _2KIdKKg4bo[1]
>122

>確かに、侵略とは まだ明確な定義は確率されていない事は事実だが

どこにどのような文言で定義されるかされないかソースを示されよ。
歴史認識の違いがどこにあるか知りたい。

>不拡大などで 全然収めてなどいない 収まっていないから国民党政府は 重慶まで逃げ込む羽目になったのではないか 「南京事件」「重慶爆撃」

「蒋介石相手にせず」は有名だが原因は蒋介石側にある。戦争を準備して日本租界を侵攻した蒋介石側が、日本側のいく度の和平案に応じないことが原因。僅か約4000で日本租界を守る海軍陸戦隊は当初応戦発砲を控えていた、この行動が不拡大方針を守っていた証。したがって蒋介石側は上海戦で和平できたがしなかった。仮に和平して後の「南京事件」「重慶爆撃」は起こり得ない。

135. 何が真実か[136] ib2CqpBejsCCqQ 2016年5月31日 17:00:09 : iRNOvIqRpo : vJdefcwQHhI[1]
>133

http://blog-imgs-60-origin.fc2.com/s/e/i/seitousikan/msnhhg.jpg
満州鉄道およびその付属地におこける被害一覧(被害総件数1436件)
(昭和5年1月~12月まで)

満州事変の前年にこれだけの被害がある。これらの事件を起こしたのは誰か?日本の正当な権益を侵されて、それに対する警察行動が満州事変。満州事変の発端となった1931年9月18日の柳条湖事件は、大東亜戦争の戦中戦前までは「犯人は支那軍」が通説だった。その後リットンなどが調査したが結論は出ないまま、戦後の「検証しようのない証言」で、なぜか通説が引っ繰り返されて常態化しているが、証明されたことではない。石原莞爾は一貫して否定している、石原莞爾は戦犯にならなかった。

石原莞爾氏の証言
◆柳条湖における鉄道爆破は支那軍隊の仕業。
◆満州事変は武力による解決は希望しておらず、やむを得ず自衛的に武力発動したが、それも奉天占領までで、それ以上の占領計画はなかった。
◆錦州爆撃は偵察飛行していたら応射を受けたから爆弾を落とした。
◆満州国建国は東北新政治革命の所産であり、我が国の軍事行動は、その契機となっただけ。

自作自演があろうが無かろうが、日本の満州における特殊権益が侵された被害に対して関東軍が警察行動を起こしたことは正当。リットン報告書も日本の正当性を裏付けている。何が侵略か?

『リットン報告書』は日本の正当性を裏付ける内容だった!
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-116.html


1932年(昭和7年)3~9月、リットン報告書
1932年3月、中華民国の提訴と日本の提案により連盟からリットン卿を団長とする調査団が派遣され、3カ月にわたり満州を調査、9月に報告書(リットン報告書)を提出した。

『リットン報告書』 第1章のなかで、当時、支那は世界平和に対する脅威だったと書かれている。

●第1章 支那に於ける近時の発展の概要

1、近代支那の発展

(一部抜粋)

支那に於ける主導的要素は徐々に行われつつある国民自体の近代化なり。
現代支那は其国民生活のあらゆる方面に於いて過渡的証跡を示しつつ
進展しつつある国家なり。

政治的擾乱内乱、社会的及経済的不安は中央政府の衰微をもたらすとともに
1911年の革命以来支那の特徴となりたり。

之等の状態は支那の接触し来れるあらゆる国家に
不利なる影響を及ぼし来れるものにして、
匡救せらるるに至る迄は常に世界平和に対する脅威たるべく
又世界経済不況の一原因たるべし。

●第2章 満州

2、支那の他の部分との関係

(一部抜粋)

満州は有史以来各種「ツングース」族居住し蒙古韃靼人と自由に
雑居したるが優越せる文明を有する支那移住民の影響を受け
団結心に目覚め数個の王国を建設し此等王国は時に満州の大部分
並びに支那及朝鮮の北部地方を支配せり。
殊に遼、金及清朝は支那の大部分又は全部を征服し数世紀間之を支配したり。

(中略)
1911年革命起こるや共和政体に賛せざる満州官憲は
後日満州及北支の独裁官となるに至りたる張作霖に対し
革命軍の前進阻止を命じ以て内乱の騒擾より此等の省を救うに成功したり。

共和国建設せらるるや満州官憲は既成事実を受諾し進んで
共和国第1大統領に選任せられたる袁世凱の統率に従いたり。
各省には省長及督軍任命せられたるが満州に於いては支那の他の部分と
同様督軍は忽ち同僚たる省長を無力の者たらしめたり。

1916年張作霖奉天省督軍に任命せられ同時に
省長の職を執りたるが其の実力の及ぶ所は遥かに大なりき。
対独宣戦の問題起こるや彼は支那将領と共に
之に反対せる会議の解散を要求せり。

而して右要求大統領に依り拒絶せらるるや
彼は奉天省は北京中央政府に対する功績に依り東三省巡撫使に任せられたり。
斯くして満州は再び特別の制度を有する一つの行政単位となりたり。

張作霖は中央政府の与えたる顕職を受領したるも
其の態度は変転常なき中央政府の支配者たる軍閥との個人的関係の
如何に依り変化せり。

彼は自己と政府との関係を視るに個人的同盟の意味を以てしたるものの如し。
1922年7月其の権力を長城以内に樹立するに失敗し
其の政敵北京政府を支配したる際彼は中央政府に対する忠誠を廃棄し
満州において行動の完全なる独立を維持し遂には
其の権力を長城以南に及ぼし北京の支配者となりたり。

彼は外国の権利を尊重するの意あるを表明し支那の義務を承認したるも
外国に対し満州に関する一切の事項に付いては
今後自己の政府と直接交渉せむることを要求せり。

張作霖元帥は其の晩年に於いては
日本に対し日本が各種の条約及取極に依り取得せる特権の利益を
漸次容認せざる意向を示すに至れり。

日本との関係は特に稍緊張したり支那における党派的闘争に関係せず
専ら力を満州の開発に用ふべしとの日本の忠告に対し
張は憤怨を感じ之を無視したるが、其の子張学良亦彼に倣へり。
馮将軍敗北後張作霖は大元帥の称号の下に北方軍閥同盟の盟主と成れり。

(中略)

国民党の宣伝は同党の教科書に依り学校に侵入し
又遼寧人民外交協会の如き協会出現して国民主義的感情を
鼓舞強調すると共に抗日煽動を実行し
又支那人家主及地主に対しては日本人及朝鮮人たる借人への賃貸料の引上げ
又は賃貸契約の更新拒絶を強要したり。

日本人は当委員会に対し多数の此の種事件を訴え来れり。
朝鮮人移民は組織的迫害を蒙れり。
諸種の抗日的命令及訓令発せられ軋轢の機会は重なる緊張加れり。

1931年3月各省首都に国民党省党部設立せられ
続いて其の他の都市及地方に支部の設立を見たり。
党の宣伝員にして支那より北上し来る者は
次第に其の数を加え日本人は抗日運動の日に激化するのを嘆きたり。

●第3章 日支両国間の満州に関する諸問題

2、満州に於ける日支両国間の根本的利害関係の衝突

1928年春、支那国民軍が張作霖軍を駆逐せんが為、
北京に進軍中なりし時、
田中男爵を首相とせる日本国政府は、
日本国の満州に於ける「特殊地位」に鑑み右地方に於ける平和及秩序を
維持すべき旨の声明を発せり。

国民軍が内乱を長城以北に及ぼさんとする惧れあるに至るや
日本国政府は5月28日、指導者たる支那将軍に左の通告を送れり。

「満州の治安維持は、日本国政府の最も重視する所にして、
苟も同地方の治安を紊し、
若しくは之を紊すの原因を為すが如き事態の発生は、
日本国政府の極力阻止せむする所なるが、
既に戦乱京津地方に進展し其の禍乱、
満州に及ぼさんとする場合には日本国は満州治安維持の為
適当にして且有効なる措置を執らざるを得ざることあるべし。」

右と同時に、田中男爵は日本政府は「敗退軍又は其の追撃軍」が
満州に入るを防止すべしとの一層確然たる「ステートメント」を発せり。

右遠大なる政策の宣明は、北京及南京の両政府よりの抗議を招致したるが、
南京政府の「ノート」は日本の提議するが如き措置は、
唯に「支那国内事項の干渉たるに止まらず、
又領土主権相互尊重の原則の甚だしき侵犯」なりと陳述せり。

日本においても、田中内閣の右「積極政策」は
一党より強き支持を受けたる一方、
他の一党特に幣原派に依り全満州における治安維持は
日本の責任に非ずとの理由を以て、非議せられたり。

5、満州に於ける朝鮮人問題

日本の法律に依り日本の国籍を有する80万朝鮮人の満州内居住は
日支間の諸政策の衝突の先鋭化を促進せり。

右自体の結果諸種の紛争惹起せられ為に朝鮮人自身犠牲となり
厄災と惨禍とを蒙りたり(本報告付属書第9章参照)。

朝鮮人が売買又は租借に依り満州において土地を取得するに対し
支那の反対ある処、日本側は朝鮮人も等しく日本臣民として
1915年の条約並交換公文によりて獲得せる商租権に均霑すべきものなり
と主張して之に反対せり。

而して日本人は朝鮮人が帰化によりて支那臣民たることを否認せるが為に
亦二重国籍の問題発生せり。
朝鮮人の保護の為日本領事館警察の使用は
支那側の忿満を招き日支警察の衝突を惹起せり。

殊に朝鮮の北境に接する間島地方の如く朝鮮人の居住者40万人に
及び同地支那人をして1927年に至るに及満州に於ける朝鮮人の
自由居住を禁止するの政策を採るに至らしめたり。
右政策は日本人側より許すべからざる弾圧の一例として目せられたり。

(中略)

日本側においては若し満州に於ける朝鮮人に対し
他の日本臣民の許与せられたると同様の権利及特権を要求せざらんか、
右は朝鮮人に対し差別を設くることとなるべしと主張す。

(中略)

日本側は1927年末頃より一般的排日運動に伴い、
支那国官憲の煽動に依り満州に於て朝鮮人迫害運動起これることを主張し
又此の圧迫は満州諸省が南京国民政府に忠誠を宣言せる後更に熾烈を
加えたることを陳へ居れり。

或は朝鮮人を強制して支那に帰化せしめ、或は米田より彼らを駆逐し、
或は彼らに移住を強制し、或は彼らに不当の納金及法外なる租税を課し、
或は彼らをして家屋及土地の商租または貸借契約を結ぶことを禁じ、
或は彼らに幾多の暴力を加えるなど、
朝鮮人に対する支那の徹底的圧迫政策の証拠として
満州に於ける中央及地方の支那官憲の発したる多数の命令の翻訳委員会に
提供せられなり。

日本の主張に依れば右惨虐なる運動は特に「親日」朝鮮人に対して行われ、
日本政府より補助金を受ける朝鮮人居留民会は迫害の的となり、
朝鮮人により又は朝鮮人の為に設立せられたる支那学校に非る学校は
閉鎖せられ、
「不逞鮮人」は朝鮮人農民より脅迫に依り金銭を徴収し
又之に暴行加害を為すことを許され、
又朝鮮人は支那服を着用することを強制せらるると共に
其の悲惨する状態に対し日本の保護又は補助に依頼する一切の権利を
放棄するのやむなかりし趣なり。

満州官憲が帰化せざる朝鮮人に対し差別的命令を発せる事実は、
支那側之を否定することなし。
此種命令の数及性質特に1927年以後のものを見るに
満州の支那官憲は一般に日本の司法管轄を伴う限り朝鮮人の侵入は
一つの脅威にして反対すべきものと認めたること明白なり。

日本の主張の重大なるに鑑み、
又満州に於ける朝鮮人の哀れむべき状態に鑑み、
委員会は本問題に対し特別の注意を払えり。

而して本委員会は必ずしも右非難の全部が事実を
適当に叙述せるものとは認めず
又朝鮮人に適用せられたる右抑圧手段の或ものか
全然不正なりしものと断ずることなしと雖も、
只満州の或地方における朝鮮人に対する支那の行動に関する
右一般的記述を確認するものなり。
委員会は其の満州滞在中朝鮮人団体の陳情委員と称する多数の代表者を引見せり。

満州に於ける此の大なる少数民族なる朝鮮人の存在が土地商租、
司法管轄権及警察、
並びに1931年9月事件の序幕を為せる経済的抗争に関する
日支紛争を複雑ならしめたることは明白なり。

大部分の朝鮮人の欲する所は只自由は其の生計を稼がすとするに在るも、
其の中には支那人又は日本人より又は其の両者より
「不逞鮮人」と呼ばるる団体ありて、
右は日本の統治より朝鮮を独立せしめんと主張する者及其の同志、
共産主義者、職業的犯罪人密輸入者及売薬業者を含む職業的犯罪人、
並びに支那人匪賊と結託して其の同胞より恐喝取財を行い
又は金銭を強制する者を包含し居れり。

朝鮮人農民自身も其の無智、
無用心により又彼らより更に狡猾なる家主又は地主より借財せる為、
しばしば自ら圧迫を招来せり。


6、萬寶山(万宝山)事件に於ける反支暴動

萬寶山事件は中村大尉事件と共に満州に於ける日支間の危機を
齎せる直接原因として広く認めらる。

(中略)

其後幾何もなく朝鮮人は日本領事館警察官の援助を
得て水道開穿を続行せり。
(中略)
日本領事館警察官は右暴徒を散逸せしめ朝鮮人を保護する為め
発砲したるも何等被害はなかりき。
支那農民は撤退し日本警察官は朝鮮人が水溝及伊通河の堰を
完成する迄現場に屯留せり。

7月1日事件以後支那地方官憲は在長春日本領事に対し
日本領事館警察官及朝鮮人の行動に付抗議を継続せり。
萬寶山事件よりもはるかに重大なりしは朝鮮に於ける
本事件に対する反動なりき。

日本語及朝鮮語新聞に記載せられたる萬寶山における事態、
殊に7月1日事件の誇大なる報道の結果は
朝鮮全道に亙り激烈なる反支暴動の続発を見たり。
右暴動は7月3日、仁川に始まり急速に他市に伝播せり。
支那側は其の広報に基づき、支那人127名虐殺せられ、393名負傷し、
250万円に達する支那人財産は破壊せられたりと称す。

(中略)

此の重要なる一結果とも云う可きは朝鮮に於ける右暴動が
直ちに支那全国を通じ排日ボイコットを復活せしむるに至れることなり。
朝鮮における排支暴動直後萬寶山事件の未だ解決せられざるに先ち
支那政府は日本に対し暴動の廉に依り抗議を為し
暴動鎮圧失敗に対する全責任を負わしめたり。
日本政府は7月15日、回答を発し、
右暴動の発生に対し遺憾の見を表し且死者の家族に対し賠償金を提供せり。


7、中村大尉事件

中村大尉事件日本側の見解に依れば満州に於ける日本の権益に対し
支那側が全然之を無視せる幾多の事件が遂に其の極点に達せるものなり。
中村大尉は1931年盛夏の候、
満州の僻遠なる一地方において支那兵に殺害せられたり。

(中略)

中村事件は多の如何なる事件よりも
一層日本人を憤慨せしめ遂に満州に関する日支懸案解決の為
実力行使を可とするの激論を聞くに至れり。

本事件自体の重大性は当時萬寶山事件、朝鮮に於ける排支運動、
日本陸軍の満州国境圖們江渡河演習並びに青島における
日本愛国団体の活動に対し行われたる支那人の暴行等に依り
日支関係が緊張し居たる際なるを以て一層増大せられたり。
(中略)
斯くて1931年8月末頃までに満州に関する日支関係は
本章に記述せるが如き幾多の紛議及事件の結果著しく緊張し来れり。

両国間に三百の懸案あり且此等事件を処理すべき平和的手段が
当事国の一方に依り利用し尽くされたりとの主張については
充分なる実証あり得ず。

此等所謂「懸案」は根本的に調和し得ざる政策に基づく一層広汎なる
問題より派生せる事態なりき。
両国は各地方が日支協定の規定を侵害し
一方的に解釈し又は無視せりと責むるも
両者何れも他方に対し正当なる言分を有したり。

●『リットン報告書』 第6章 「満州国」

第1節 「新国家」建設の階段

熱河省は従来満州に於ける政治的変動に対し中立を維持し来れり。
熱河省は内蒙古の一部分なり。

目下三百万以上の支那人移民同省内に住居し漸次遊牧蒙古人を
北方に追放しつつあるが蒙古人は依然として伝統的部族又は
旗人組織の下に生活す。

約百万を数ふる斯種蒙古人は奉天省の西部に居住する蒙古旗人と
若干程度の関係を保持し来れり。

奉天省及熱河省の蒙古人は「盟」を組織したるが
其の中最も有力なるものを「チェリム」盟と為す。

チェリム盟は独立運動に参加せるが従来しばしば支那の支配より
免れんと試み来れる「バルガ」地方即ち黒龍江省西部の「コロンバイル」の
蒙古人も亦同運動に参加せり。

蒙古人は容易に支那人と同化せず。
彼等は自尊心強き人種にして皆「チンギス」汗の偉業及蒙古武人の
支那制服を記憶し居れり。

彼等は支那人の支配を受くることを悪み殊に支那移民の来住を好まず。
蓋し右移住に因り蒙古人は漸次自己の領土より駆逐せられ居ればなり。
熱河省のチチハル及チョサツの両盟は
奉天省の各旗と連絡を取り居れるか後者は
今や委員会に依り支配せられ居れり。

熱河省の主席湯玉麟は9月29日同省に対する全責任を執り
満州に於ける同僚と連絡を取り来りたる由なり。
3月9日の「満州国」建国に当り熱河省は新国家に包容せられたるか、
実際に於いては同省政府は何等決定的措置を執ることなかりき。
同省に於ける最近の出来事に付いては
前章の末尾において言及するところありたり。

以上の如くにして各省に設立せられたる地方自治政府機関は
次いで分離独立せる「国家」として相結合せられたり。

―――――――

2月末に至るまでに奉天、吉林、黒龍江及特別区は既に夫々宣言を発し、
蒙古旗族も亦特別自治区を形成し地方蒙古族の権利を保障し得ること
或は可能ならしむること判明したるを以て其の忠誠を
新国家に対し誓うに至れり。

回教徒は奉天における2月15日の会合に於いて既に彼等の忠誠を誓いたり。
其他未だ帰属せざる少数の満州人の大部分は新国家の執政として
多分前皇帝が推挙せらるべしとのことを知るや新国家を歓迎したり。

各省区が新国家建設計画に対し正式の賛同を與えたる後
自治指導部は2月卅9日、奉天に全満州大会を召集したり。
右大会には各省並びに奉天省及蒙古地方の各郡等より
正式代表其他多数参列し、
又吉林及特別区の朝鮮人並蒙古の青年同盟支部等諸種の団体の
代表者会合し其の総数7百名以上に達したり。

諸種の演説為され、満場一致を以て宣言及決議可決せられたるが
前者は旧制度を攻撃し、後者は新国家を歓迎したり。
又新国家の臨時的元首として
前皇帝の宣統帝(帝はヘンリー溥儀氏として知らる)を推挙するの
第2決議も採択せられたり。

東北行政執行委員会は直ちに緊急会議を開き
6名の代表者を選び之を旅順に派遣し去年11月、
天津出発以来同地に滞在中の前皇帝を招ぜしめたり。
溥儀氏は最初之を拒絶したるも3月4日、
第2回目の29名より成る代表者は遂に僅か1年を期限として
氏の承諾を取り付け得たり。

於此前記執行委員会は陸軍中将張景恵を委員長とし
他に9名の委員を選出して歓迎委員会を組織したるが右委員会は3月5日、
旅順に赴き謁見を賜りたり。
前皇帝は委員の懇請を容れて3月6日、
旅順を出発し湯崗子に至りたるが2日の後、
即ち3月8日には既に満州国の執政としての礼遇を受けたり。

3月9日、新都長春に於いて就任式行われたり。
溥儀氏は執政として新国家の政策は「道義、仁慈、愛撫」を
基礎とすべきことを約する旨の宣言を発したり。

10日には新政府の幹部即ち内閣の閣僚、立法院長監察院長、
参議院総裁及副総裁、各省庁及特別区長、
各省防備司令其他の高官の任命を見たり。
満州国建設に関する通告は3月12日諸外国に発せられたるが、
右通告の目的は諸外国に対し満州国建設の根本目的、
対外政策の主義を通告し、
新国家としての承認を要求するにありとせられたり。

―――――――

第3節 満州居住民の意見

満州に於ける一切の少数民族の団体の内哈爾賓
及其の付近における少なくも其の数10万人を算する白系露人の
小植民地は近年最も迫害を蒙りたり。

彼等は庇護すべき国民政府なき少数民族団体なるの故を以て
支那の官吏及警官により各種の屈辱を蒙りたり。
彼等は故国の政権と不和の関係に在りて満州に在りてさえ
此の故に絶えざる不安の裡に在るものなり。

彼らの内裕福にして教育ある者は生計を立て得るも支那官憲が
彼等を犠牲にし供して或種の利益をソ連邦より得らるると考えるときは
之が為に苦しめらるるを常とす。

より貧困なる者は生活を営むこと甚だ困難を見
又絶えず警察の手及支那法廷において苦を嘗めつつあり。

請負制度により租税が賦課徴収せらるる地方においては
彼等は其の支那人たる隣人よりも餘き割合の課税を支払うを要したり。
彼等は其の取引及行動に関し多くの制限を経験せり
而して彼等の旅券が検査せられ、
其の契約が認証せられ又は其の土地が譲渡せらるるには
官吏に対し賄賂を贈ることを要したり。

彼等の多くにとりては現在よりも劣れる条件を想像し能わざるを以て
日本人を歓迎したるは尤ものことにして
今や彼等の運命は新政権の下に開け行くべしとの希望を
抱懐することは怪しむべきに非ず。

●第7章 日本の経済的利益及支那の「ボイコット」

前世紀の60年代における明治維新の頃、
日本は2世紀以上に亘る孤立より脱却し而して
50年を俟たずして世界の第一等強国にまで発展せり。

以前殆ど停滞し居りし人口は急速に増加し始め
1872年に3300万なりしものが、
1930年には6500万に達せり。
而して此の驚くべき増加は1年に約90万の割合を以て尚継続す。

可耕地1平方哩におけり日本の人口を他の国の夫れに比せんに
日本の割合は例外的に高し。右は島帝国の特殊の地理的構成に起因す。

(中略)

移民は救済の見込みある方法として考慮せられたるも
次章において述ぶるが如き理由を以て現在迄の処解決手段とならざりき。

日本の最初都会の人口増加を支ふる為産業主義に転向せるが右は
農産物の為国内市場を提供し且内地
及外国において使用さる可き物資の生産に労働を向はしむべきものなり
爾后幾多の変化を生ぜり。

以前日本は食料品供給の見地より観て自足以上の状態にありしが
近年は全輸入の8%乃至15%は食料品の輸入及此の輸入必要の
恐らく増加すべきことは既に逆となれる貿易感情を
工業品輸出の増加によりて補うことを要す。

若し日本が増加しつつある人口に対する職業を是以上の工業化の
行程において見出すの要ありとせば輸出貿易の発展
並びに増加しつつある製造品及半製品を吸収し得る外国市場の開拓が
益々緊要なり。而して如斯市場は同時に原料品及食料品の供給地たり得べし。

(中略)

尚日本の支那における利益は単に貿易に止まらず
即ち日本は巨額の資本を工業的企業並びに鉄道、
船舶及銀行に投じ此の方面の財政活動において
発展の一般的傾向は最近30年間に顕著なるものありしなり。

(中略)

右投資以外に支那は日本に対し諸種の国債省債
及市債として債務を負い其の額は1925年に於いては
3億445万円(其大部分に無担保)及利息1803万円なり。

(中略)

ボイコット運動の実行に際し用いられたる方法は
常に適法なりしや否やに在り。
委員会の蒐集せる証拠に依れば不法行為は常に行われ而も此等不法行為は
官憲及法廷により充分に禦壓せられざりしところなりと云う以外に
何等かの結論を為すこと困難なり。

此等の方法が往時支那に於いて用いられたるものと大体に於いて同一なり
との事実は一の説明となるべしと雖も弁明とはならず。

昔時支那の同業公会がボイコットを宣言し被疑者たる之会員の家宅を捜索し、
彼等を公開裁判所に引出し、反則の廉により罰し、科料を課し、
押収品を売却したりしも公会は当時の慣習に従い行動したるなり。

加之右は支那社会の内部問題たりしものにして
外国人の関係なかりし所なり。現在の状態は右と異なる。
支那は近代的法典を採用したるが此等の近代的法律は支那における
ボイコットの伝統的手段と両立せざる所なり。

支那参与員がボイコットに関する支那側の意見を弁護せる覚書は
以上の記述を駁せず、
単に「ボイコットは一般的に言わば合法的手段により行わるる・・・」
と論ずるのみ。委員会の有する証拠は右の主張を支持せず。
 
(中略)

本章中において、第1に、日本は其の人口問題に関連し其の産業能力を
増加せんとし、此の目的の為に頼り得べき海外市場を求めつつあること、

第2に、対米生絲輸出を除きては支那は日本の輸出の主たる市場にして
同時に日本帝国に多くの原料品及食料品を供することを示せり。

加之支那は日本の海外投資の殆ど全部を護し従って現時の如き混乱と
未開の状態を以てすら支那は日本の諸種の経済的乃至財政的活動に対し
有利なる天地を供す。

最後に、1908年より今日に至る迄陸続として起これる種々の
ボイコットが支那における日本の権益に加えたる損害の検討は、
此等の権益は毀損せられ易きものなることに付注意を喚起せり。

日本が支那市場に依存することは日本人自身も充分之を認むる所なり。
他方支那は経済生活の各方面に於ける発展を最も焦眉の急とする国なり。
而して1931年に於いてボイコットにも不拘其の全貿易額に於いて
首位を占めたる日本は、他の如何なる外国よりも
支那の経済的に支那の友邦たるべきものと思科せらる。

此等2箇の隣邦の貿易上の相互依存と両国の利益との為には
其の経済的近接必要なり。
然れども両者の政治的関係が然く険悪にして一方が兵力を、
他方がボイコットなる経済的武器を用いる間は此の如き接近不可能なり。


●第8章 満州に於ける経済上の利益

(一部抜粋)

満州市場は安全性に於いて支那市場に優るべきも、
支那市場に比し其の範囲に制限あり。
経済ブロックの観念は西洋より日本に迄浸透せり。
日本帝国及満州を包括するブロックの可能性に関しては日本の政治家、
学者及操觚者の文書中にしばしば之を見受く。

現商工大臣は其の就任の暫く前に執筆せる論説中に於いて
世界に於ける米国、ソ連邦、欧州及英帝国の経済ブロックの成立を指摘し、
日本も満州と共に斯くの如きブロックを創設すべきことを述べたり。

(中略)

満州の富源は豊富なれども未だ充分に実測せられ居らず。
之が開発の為には人口、資本、技術、組織及国内の安寧を必要とする住民は
殆ど全部支那より送らる。

現在住民の多数は北支諸省の産にして其の故郷との家族的連絡は
今尚密接なるものあり。
資本、技術及組織は今日迄の所主として南満州においては
日本に依り又長春以北に於いては露国により供給せられ来れり。
其の他の外国も程度少なきも東三省を通じ主として大都会に於いて
利益を有せり。

是等諸外国の代表者は近年の政治的危急に際し調停的の役割を演じたるが
経済的に最も優勢なる日本が市場独占を企てざる限り
今後も右役割を行うこととなるべし。

現在最も重要なる問題は住民が受諾し得べく且窮極的の要件を
充たし得べき法と秩序の維持し得べき政権の樹立なり。

●第9章 解決の原則及条件

今や吾人は将来に注意を集中する時期に達したるを以て
本章の考察を最後とし此上過去には言及せざるべし。

前掲各章の読者にとりては本件紛争に包含せらるる諸問題は
往々称せらるるが如く簡単なるものに非ること正に明らかなるべし。

即ち問題は寧ろ極度に複雑なるを以て
一再の事実及其の歴史的背景に関し十分なる知識あるもののみ
之に関する決定的意見を表明する資格ありというべし。
本紛争は一国が国際聯盟規約の提供する調停の機会を
予め十分に利用し尽くすことなくして他の一国に宣戦を布告せるが如き
事件にあらず。

又一国の国境が隣接国の武装軍隊に依り侵略せらるるが如き
簡単なる事件にもあらず。
何となれば満州に於ては世界の他の部分に於いて
正確なる類例の存せざる幾多の特殊事態あるを以てなり。

(中略)

日本は右事実完了に至らしめたる手段は
この種行動の防止を目的とする国際聯盟規約、
不戦条約及華府(ワシントン)九国条約の義務に合致するものなりと主張す。

更に本問題に付初めて聯盟の注意が喚起せられたる際漸く
開始せられたる行動は其の後数ヶ月間に完結せられ且日本は右行動を以て
9月30日及12月10日寿府(ジュネーブ)に於いて
其の代表の與えたる保証と合致するものなりと主張す。

日本の説明に依れば其一切の軍事行動は正当なる自衛行為にして
右権利は叙上の多那的条約中に包含せられ
又国際聯盟理事会の何れの決議に於いても奪われたることなし。

将又東参照に於いて支那の旧政権に代われる新政権は
其の成立が地方人民の行為にして彼等は自発的に其の独立を宣言し
支那との一切の関係を断ち自己の政府を樹立したものなるを以て
正当視せらるるものなりとせり。

尚日本の主張に依れば斯くの如き真正なる独立運動は
如何なる国際条約若しくは国際聯盟理事会の決議に依りても禁ぜられず、
且斯かる運動の既に行われたりと云う事実は
九国条約の適用を著しく改編し聯盟に依り調査せられつつある問題の
全性質を根本的に変更せるものなりとせり。

(中略)

前章に記述せる程度以上に日本の満州に対する経済的依拠を
誇張することなく且経済的関係は日本に対し
東三省の政治的は勿論経済的発達を支配するの資格を
与うるものなりと提言することなく、
日本の経済的開発の為満州が甚だ重大なる事を認むるものなり。

将又日本が満州の経済的開発の為必要なる治安を維持し得べき
安定せる政府の樹立を要求することも不合理なりと考えるものに非ず。
然るに斯くの如き状態は人民の願望に合致し且彼等の感情及要望を十分に
考慮する政権に依り初めて確実且有効に保障せらるべし。

尚右満州の急速なる経済的開発に必要なる資本の集中は
現在極東に見られざる外部の信頼と内部の
平和の雰囲気とに於て初めて可能なり。

(中略)

日本にとり重大利益ある右日支の経済的提携は同時に支那の利益問題なり。
何となれば支那が更に日本と経済的及技術的に合作することは
其の国家改造の第1事業を助成するものなるを発見すべければなり。

支那は其の国民主義の狭量なる傾向を抑圧することに依り
又友誼関係復活するや否や組織的ボイコットの再現することなき
旨の有効なる保障を与えることに依り右提携を助成し得べし。

一方日本としては満州問題を支那関係の一般的問題より切り離し、
支那との友好及合作を不可能ならしむる方法にて
支那問題を解決するが如きあらゆる試みを放棄することに
依り右提携を容易ならしむるを得べし。

(中略)

支那に於いても亦該国家に対する死活問題、
真の国家的問題は国家の改造及近代化なることを認むるに至れる処彼らは
右改造の近代化の政策は既に開始せられ政綱の望多きも其の実現には
一切の国家特に其の最も近隣者なる大国との友好的関係の涵養を
必要とすることを認めざるを得ざるなり。

支那は政治的及経済的事項に於いて一切の主要国の協力を必要とする特に
支那にとり有益なるは日本政府の友好的態度及満州に於ける
日本の経済的協力なり。

新に目覚めたる国家主義の他の一切の要求は如何に正当にして
且緊急なりとも右国家の有効なる内部改造に対する
重大なる必要の前には之を従とせざるべからず。


 満州事変が 関東軍の謀略であった事は 昭和30年に 石原莞爾の側近中の側近だった 花谷正が暴露証言して初めて明らかになる事であり、東京裁判は終わっており 石原も病没した後だったからである
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E8%B0%B7%E6%AD%A3

 さらに、石原莞爾が中心になった謀略である話は 以下にも随所に現れる

1、1928年、関東軍 作戦主任参謀として満州に赴任してきた時の石原の挨拶の言葉は
「私の在任中に必ず 満州をごっそり頂戴して御覧に入れます」 こう豪語している事
(彩図社 日本軍激闘の舞台裏より)

2、1933年、石原は 本土に召喚され参謀本部作戦課長となっているが
関東軍が進めていた内蒙古の分離独立工作(いわゆる「内蒙工作」)を進め 言う事を聞かぬ関東軍に対して、
中央の統制に服するよう説得に出かけた時には、現地参謀であった武藤章(後の軍務局長)が
「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と反論し同席の若手参謀らも哄笑、石原は絶句したという
(ウィキより)

3、1936年、2.26事件で戒厳司令部参謀兼務で処理に当たり、事件解決の中心となって活躍
だが、この時の石原に対する 昭和天皇の言葉が残っているが
「いったい、石原という人間はどんな人間なのかよく判らない 【満州事変の張本人】でありながら
この時の態度は極めて正当なものであった」 (昭和天皇独白録より)

4、1945年、当時の関東軍司令官だった本庄繁が、「満州事変の一切の責任は自分に有り」 と言う遺書を残し
割腹自決しているが、もし本当に抗日運動による偶発的事故ならば 遺書にしたためるほど大きな責任を感じる必要はなく
かえって、部下の行動を庇う意味があると思える 本庄とはそういう人間であった
(左高信 石原莞爾とその虚飾 より)

5、柳条湖事件が関東軍の自作自演である事は、戦後しばらく経ってから 花谷正 元陸軍中将の証言による真相解明でしたが
実は 新聞マスコミは、事件当時から謀略である事を、関東軍上層部の将校から直接聞かされていたという事実がある
これはマスコミ側の人間から“白状”する形で出てきた証言であり、マスコミ側にとって極めて不利な事実の暴露であり
(軍部と新聞マスコミの癒着を現わすもので) 信ぴょう性はかなり高いと思われる事。


以上、これらの話が、すべて真実だという証拠はないが、すべて嘘だというのも極めて考えにくい。したがってこの通説は、よっぽどの新事実が出されない限り ひっくり返ることはまず有り得ない

そして、たとえもし 石原莞爾の関与が 通説よりも薄かったとしても中国大陸への侵略が、日本軍(関東軍の)の謀略と暴走から始まった事実は 未来永劫たとえ天地が引っくり返っても覆る事はない 厳然たる事実である。

142. 2016年6月01日 02:31:58 : TbdsjgRivc : 5LSyNpOGNzg[4]
イルミナティにより日本人皆殺し作戦は、まだ続いているようです。

<驚きの現実・・・!> あのベトナム戦争の枯葉剤が林野庁の指示で四国にもまかれていた
http://sharetube.jp/article/2784/


 四国だけではないでしょう。全国の山林にまかれていた、のだろうと思いますよ。沖縄に撒かれたのは文書が発覚していますし。明らかに、最古層の日本人である、山の民に照準を合わせているのでしょう。自作自演であるらしいテロ原爆や空襲テロ、戦争棄民や地震・気象兵器その他の、ステルス兵器による民族浄化、薬や放射線を使った民族浄化なども同じところから生まれているのだと確信しています。

 これで明らかになりましたね。散布・埋設・遺棄先は、すべて京都や東京等、特定人口密集地から離れている場所である上に、大和朝廷族ではない、原住民勢力が居住する土地です。林野庁から枯葉剤を押し付けられたのは、16県1道ですが、高知県は、散布、埋設投棄ともに全国で1、2を争う多さです。16県1道の名前をここに列記すると、北海道、青森県、岩手県、福島県、群馬県、山梨県、愛知県、岐阜県、広島県、愛媛県、高知県、佐賀県、長崎県、熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県です。人口集中地帯を外しているのは、原発建設の立地条件と同じ理由によるものでしょう。つまり、林野庁は、散布、埋設投棄の危険性は百も承知しており、そのリスクを田舎に押し付けたのです。林野庁の天下り先の中には、農薬製造会社があります。高知県内では、四万十市(西土佐村)、四万十町(窪川町)、いの町(本川村)、北川村、大豊町、安芸市、土佐清水市、津野町(東津野村)、宿毛市、と

143. 2016年6月01日 02:41:10 : TbdsjgRivc : 5LSyNpOGNzg[5]
補足・追加します。拡散望みます。
145. 何が真実か[137] ib2CqpBejsCCqQ 2016年6月01日 13:03:18 : oy5r8fqId2 : ZfLM7Les6z8[1]
>137

>柳条湖事件を中国人の仕業と見せかけたのは 列記とした事実

リンクから引用
1955年(昭和30年)『満州事変はこうして計画された』(「別冊知性」 昭和30年12月号 河出書房)において秦郁彦の取材に答える形で、満州事変が関東軍の謀略であったことを証言した。なお、満州事変は自衛であるとし、関東軍による謀略を否定していた当時の関東軍指導者である本庄繁、板垣征四郎、石原莞爾らは物故していた。
1957年(昭和32年)に病で倒れる。片倉衷が義捐金を募ったが、過去の悪行から花谷のことを嫌悪していた部下は一人としてこれに応じなかった。同年死去。旧満州関係者が列席して盛大な葬儀が営まれたが、部下は誰一人会葬しなかった。
引用おわり

花谷正は誰からも信用されていない。
通説が柳条湖線路爆破が支那側であることは、戦後の花谷正一人の証言では覆らない。
花谷以外の関東軍関係者で、満洲事変は関東軍の謀略に基づくものであったことを認めた者はいない。
事件当時、日本側の公式発表では爆破行為は中国側によるものとされ、東京裁判でも否定されていない。何故中国側は反論しなかったのか、それが戦後昭和30年の関東軍指導者である本庄繁、板垣征四郎、石原莞爾らが物故して検証しようもない時期に花谷正が書いた証言一つを頼ったところで証明されない。


日本が満州事変前に被害者であったことは明白、それに対して自衛の警察行動をしたのが満州事変。

何が侵略か?


花谷正の自著から引用
日満は不可分一体で例えば太陽の光を受ける月のようなものであるようにしたい。その際日本人は大規模な企業、智能的事業に、朝鮮人は農業、中国人は小商業や労働を分担し、各々その分を完うして共存共栄しようというのであつた。虐げられている満州人を救つて王道楽土にしようというのであるから、内地のように大資本の横暴を許すことは出来ない。
 財閥満州に立入り禁止という我々の考えはその後も一貫した。日産コンツェルンを導入したのも、日産が広汎な大衆に株式を公開していたからで、単に経営技術を使つたにすぎない。さて、我々の計画は昭和六年に入ると急に具体化して来た。張学良の排日はいよいよひどくなつて小学生の通学さえ危険になつて来る。
 しかも大恐慌の波が波及して、満州の穀物は大暴落して、農民は塗炭の苦しみに陥るし、学良の平行線建設が功を奏して満鉄も大きな赤字を出すという状況であり、邦人の多くも学良の陰に陽に手を変えての圧迫によつて生業をつづけて行くことが出来ず、満州を去る者も出て来た。
引用終わり

「張学良の排日はいよいよひどくなつて小学生の通学さえ危険になつて来る。」「学良の平行線建設が功を奏して満鉄も大きな赤字を出すという状況であり、邦人の多くも学良の陰に陽に手を変えての圧迫によつて生業をつづけて行くことが出来ず、満州を去る者も出て来た。」とあるが張学良を排さない限り満州人を救
って王道楽土を築くことは不可能と考えている。


満州は日本にとって生命線である、張学良軍閥非道のために満州に住めないとしたら関東軍が満州事変を起こしたことは自衛のためである。リットン報告書は侵略(英語では侵攻が正しい)としなかった。むしろ同情している。
また柳条湖事件が日支どちらが起こしたとしても関東軍が自衛行動を起こしたことに変わりない。


ーここでパリ不戦条約に定める侵略(英語では侵攻が正しい)の定義が必要になるー当時それは明確では無いが、自衛戦争は認めている。

【パリ不戦条約の付帯事項】
―――――引用はじめ―――――――
自衛権は、関係国の主権のもとにある領土の防衛だけに限られてはいない。
そして本条約のもとにおいては、自衛権がどんな行為を含むかについては、
各国みずから判断する特権を有する。
―――――引用おわり―――――――

つまり戦争当事国が「この戦争は、侵略戦争ではなく、自衛戦争だ」
と判断すれば、その戦争は侵略ではないということ。

日本は、侵略国か、それとも権利を侵された国か

http://blogs.yahoo.co.jp/japanrebirth/30372331.html
K. カール・カワカミ 著、 福井雄三 訳
「シナ大陸の真相:1931-1938」 展転社

引用

第五章 日本は、侵略国か、それとも権利を侵された国か

過去40年にわたり日本が中国で、また中国のために戦ってきた記録を詳細に調べれば、日本は中国に対する大きな権利を侵害された。
1894年の清との戦争は、極東全体を帝政ロシアに侵食される危険から守るためで、暗愚で、腐敗し、混沌とした朝鮮を助けることが目的で、日本は朝鮮を改革しようとした。それを中国が宗主権を持ち出して妨害した。そこで日清戦争が起こった。中国は、西洋諸国の干渉によって、活路を見出そうとしていた。

日本の「21か条要求」は、1915年に中国に対して提出されたが、それは中国があまりにも執拗に妨害

政策を推進したためである。日本は単独でロシアを打ち負かし、中華帝国の土台を支えてやった。しかし、

中国は日本に協力しようとしなかった。しかも、悪いことに中国は満州における日本の企業を無力にしようとして第三勢力と陰謀をたくらんだ。「21か条の要求」は満州における日本の権益を保護するための警告に過ぎないものであったが、中国側は日本の強制によって調印したと主張している。これは全く言語道断である。事実、アメリカ側は21ヵ条のうちの16ヵ条については、「何の異議もない」としている。問題のある残る5ヵ条は、日本側が撤回した。

ワシントン会議:この会議で日本は通常行われないような譲歩を中国に対して行った。山東における権利の返還とすでに中国政府から得ていた満州における権利の譲歩で、在留邦人の保護のための部隊の撤退である。更に、1915年に提出した「21か条要求」の第五グループの正式放棄も宣言した。日本は中国に対す
る敵対政策を変更し、協力の時代に入ることを願ったのである。日本は、この会議で表明したことを厳守した。

日本の対中国政策:幣原男爵は1925年に外務大臣となり、さらに中国との友好政策を推進しようとした。1925-1927年にかけて、反外国人暴動が揚子江南部に広がった。1927年3月24日日は南京暴動が発生、すべての外国領事館、外国企業などが略奪され、多くの外国人が殺害され、婦女子が暴行を受
けた。この機会にも、日本は宥和政策を取り続けた。しかし、中国はそれに対して通商条約の一方的な破棄の通告で答えた。日本は中国に譲歩することによって、日中関係を新しい確固たる基礎の上に築こうとするが日本の誠実な願望を中国人に確信させることができると幣原男爵は信じていた。彼は、この考えを維持したが、結果は出なかった。宥和政策は、中国人の自惚れを助長するだけであるのだ。中国は、法を超越していて、そうすることが正しいと思っている。

中国の条約侵犯:1923-1927年の間に活躍したソ連の工作員からの助言によって、国民党の考えは、前にもまして非友好的になった。以下のスローガンが用いられた。「打倒外国帝国主義」「打倒外国軍国主義」「打倒不平等条約」「打倒大英帝国」「打倒日本」。幣原は中国人の発想を全く理解できなかった。

中国人は、幣原外交の宥和政策を日本の弱さのあかしと捕らえ、平気で条約を破棄したり、外交通告を無視した。満州事変に至るまでに中国が侵害した日中協定のリストは、少なくとも17に及ぶ。
1.1915年の条約の南満州で日本人に与えた土地を借りる権利の遵守を拒否
2.1911年に定められた日本人の経営する石炭鉱山の石炭の輸出税を勝手に四倍に引き上げ
3.1905年の北京条約議定書に違反して、南満州鉄道に平行した鉄道の建設
4.1909年の間島に関する鉄道延長の協定の発効を拒否
5.満州の中国の鉄道で輸送される日本商品への差別。これは「九ヵ国条約」違反
6.1915年の条約を無視して、大連港の返還を要求
7. 1905年の協定を無視して、日本の警備隊の鉄道沿線からの撤退を要求
8. 1909年の協定を無視して、南満州鉄道沿線の日中共同鉱山事業に関する詳細規定の交渉を拒否
9. 1907年の大連港に関する協定に違反して、タバコへの差別的な高輸入税の適用
10.1905年の北京条約に違反して、鉄道建設に必要な土地の南満州鉄道への売却拒否
11.1915年の協定に違反して、南満州の鉄道区域外に日本人が出ることを不可能にする秘密命令の発布
12.1909年の間島協定に違反して、朝鮮人を迫害
13.1896年の中露協定に違反して、南満州鉄道沿線区域内で、不法な税金の取立て
14.満州国と南満州鉄道の協定に違反して、タオナン・アンガンチー鉄道に日本人の採用を拒否
15.日本人が資金を出し、中国人が経営している鉄道で日本人のスタッフが協定で決められた監督権を行使することを拒否
16.撫順産出の石炭から南満州鉄道が頁岩油を製造することに抗議
17.日系資本の鉄道の売上金の着服。この売上金が平行しいて走る鉄道の建設に使用

これらによって日本人は満州地域での業務遂行に多大の不便を感じていた。その結果が、1931年9月の満州事変であった。
引用終わり

中国側に条約や協定の違反が多いことが解る、この原因が20万とも30万とも言われる張学良軍の非道にあった、それに対して関東軍は僅か11000で反撃して張学良軍を追い出したことは満州民の協力があった、その自衛行動が侵略であるわけがない。侵略するつもりなら10万は最低でも準備しなければならない。

151. 何が真実か[138] ib2CqpBejsCCqQ 2016年6月01日 23:54:33 : 5TG2jgThUE : gCUkt6nV4jQ[1]
>148
>花谷正 一人だけの証言などとは 一度たりとも言っていないぞ

こちらが言ったことは花谷正の証言があったとしても侵略にすることはできないということ。

満州国を20か国が認めている、バチカンも認めた。リットン報告は侵略としていない。東京裁判では溥儀の嘘で侵略になったが、「紫禁城の黄昏」が証拠として採用されていれば溥儀は満州国皇帝になる意思があった、それを日本が支援した。
満州は清朝の故郷であり、溥儀が故郷に帰って皇帝になることは歴史的に正当、満州人待望のことであった。

何が侵略か?

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1931-40/1931_manshu_jihen.html


引用
満州事変に対するもっとも国際的権威のある証拠は何かといえば、それはリットン委員会の報告書であるといえよう。

  リットン報告書

リットン報告書は、満洲事変の直後に国際連盟の代表として五ヶ国から派遣されたリットン調査団が、何ヶ月もかけて調査したもので、日本から見れば不満な部分はあるが、一応、国際的な見解といえる。その報告書に「これは侵略戦争と簡単に言えない」と書いてある。日清戦争の頃から日本は満洲に対する特別の権利
があって、その後、権利が複雑に絡み合っているため、侵略とは言えないと言っているのだ。
当時の国際連盟の代表たちが判断して侵略ではないと言っているものを、東京裁判では共同謀議の一環とした。これは極めて無理がある見解で、パール判事もそこを鋭く突いている。

東京裁判の「日本が満洲を侵略した」という主張については、「紫禁城の黄昏」が裁判の証拠に取り上げられればまったく問題がなかった。

  紫禁城の黄昏

これは清朝最後の皇帝・溥儀(ふぎ)の家庭教師であったイギリス人、レジナルド・ジョンストンの著書で、そこに満洲侵略の事実など存在しないことが明瞭に記されているからである。清朝というのは満州族の帝国であって、清朝時代、支那人は満洲人に支配さえていた民族だった。だから辛亥革命というのは、正しくは辛亥独立運動というべきだ。そして満洲国は、独立運動を起こされてしまった清朝皇帝溥儀が、命からがら日本の公使館に逃げ込んだのが始まりだった。彼が、自分の故郷の土地である満洲に国を建てたいというのを、日本が助けたのだ。そうしてできた満洲国を20ヶ国以上の国々が国として認めているのは歴史的事実である。当時は今のように独立国が多くなかったので、満洲国は十分に独立国として世界に通用する資格があった。パチカン教皇庁もその独立を認めたのだから。しかし、この主張は一切、認められなかった。「紫禁城の黄昏」が証拠として採用されなかったからだ。採用されなかった理由の一つはジョンストンが亡くなっていること。もう一つは、「紫禁城の黄昏」には溥儀が序文を寄せているのだが、それを溥儀が「書いた覚えがない」と証言したことだった。書いた覚えがないのなら出版されたときに言うべきだろう。東京裁判での溥儀の発言は嘘であることが明白である。溥儀は他にも偽証をした。自分が日本の公使館に逃げ込んで、国と作りたいと熱烈に訴えてきたことは周知の事実でありながら、捕まってソ連にいたために、「自分は嫌だったが日本によって皇帝にされた」と証言した。この偽証によって、東京裁判は満洲事変を侵略と決めつけた。後年、溥儀自身が東京裁判での証言が嘘であったことを認めている。

引用終わり

152. 2016年6月02日 03:13:33 : w3M1BHSquE : 5KToaZSVnLw[575]

>「満州国を20か国が認めている」  これまたご都合主義

7年以上経過した 世界が連合国と枢軸国に分かれてしまった後での承認である
むしろ、満州国を 真っ先に認めて良いはずの 友邦ドイツですら 承認に7年近くかかっており
ようやくドイツが承認した後での20か国である 全部枢軸側の国ばかりだ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD

153. 何が真実か[139] ib2CqpBejsCCqQ 2016年6月02日 10:06:45 : OFrqTvOL6w : oSNaT4qLuMQ[1]
>152

>とうとう、ボロを出したな あんたの示したウヨサイトですら こう書いてあるではないか

貴殿が引用したその下を
以下引用

東京裁判以来の反日・自虐史観では、この満州事変は日本のシナ侵略の第一段階と決め付けている。しかし、日本側が起こさなければシナ側が必ず起こしていたものである。それほど満州は緊迫した状況になっていたのだ。柳条溝事件は無数の原因の累計の上に加えられた最後の小原因であり、満州事変は東京裁判で決め付けられたような「シナ侵略の出発点」では決してなく、4半世紀にわたるシナの排日侮日政策の必然的結果であった。

中村粲氏は「大東亜戦争への道」の中で以下のように喝破している。
「危険なガスの充満する満洲で、現実に柳条溝の満鉄爆破事件というマッチを擦ったのが日本側であったことは、今日知らぬ者とてない。東京裁判以来、満洲事変はわが国の中国侵略の第一段階とするのが定説のごとくだ。だが、日本側が点火しなければ、必ず中国側にひょって点火されていたに違いない。それ程、満洲の緊迫状況は持ちこたえ得る限界に近づいていた。・・・それ故、満洲事変は原因ではない」

この当時の日本軍の行動は、当時の先進国と呼ばれた国ならどこでもやっていることである。それなのに、同じことを日本がやれば「侵略」で、欧米がやれば「侵略ではない」という理屈がどうしてできるのだろうか。そもそも、当時の満州で日本が軍事行動を起こしたことについて、国際法上、何の問題もない。というのも、第一に日露戦争のポーツマス条約において、日本はロシアから南満州における権益を譲られている。これは当時のシナ政権も承認したことであって、何も不法に満州に入っていたわけではない。しかも、満州にいた日本人が、満州事変当時、シナ人によって危険な状況にあったのも動かしがたい事実である。関東軍が満州事変を起こした目的は、このような危機的状況を解決するために、シナの軍隊や匪賊を満州から排除することにあった。現地の居留民に危害が及んだ場合、本国政府が彼らの安全を守ろうとするのは、今日の世界でも当たり前に行われていることである。そのために軍隊が出動するというのは、当時の国際社会では広く認められたことであった。
関東軍は朝鮮人を含む日本人居留民の安全を守るために実力行使をしたのであって、これは外交上、特に非道なことをやったとは言えない。
しかも、関東軍は満州を制圧したまま居すわったわけではない。満州地方の安全を維持するため、溥儀を迎えて満州国を作った。

  満州国建国(1932年)

満州事変を理解するには以下の満州事変に至るまでの満州の状況を理解しなければ絶対に不可能である。

  満州事変に至るまでの満州の状況

この満洲事変を考え出したのは石原莞爾である。石原は、日本が莫大な投資を行なった満州権益と在留邦人の命を守るには、満州をシナから切り離すしかないと判断した。そして独断で満州事変を起こした。
下っ端に過ぎない関東軍の青年将校が、司令官にも東京の軍本部にも、ましてや政府首脳にも知らせず勝手に兵を動かしたことに、陸軍も怒った。しかし、統帥権干犯問題を振り回し、政府をないがしろにする「下克上」をよしとしたのは軍部である。
日本政府は不拡大の方針(幣原外交)だったが、現地の軍部を抑えられず、戦線は拡大した。政府は結局既成事実として事後承認した。
このような複雑な状況が他の列国にわかるべくもない。満州事変の釈明のため、日本代表は国際連盟で事態の説明を試みるが、出先の軍隊が勝手にやったことをうまく説明できるはずもなかった。問題の根本を知らない列国は「日本は二重政府(ダブルガバメント)」と激しく非難した。
こうして、これまで外交の優等生だった日本の信用は地に落ちる。満州事変は「侵略戦争」では決してなかったが、確実に日本の将来を大きく狂わせた。

満洲事変に対する他国の反応

ソ連は第一次経済開発5カ年計画の真っ最中で中立不干渉だった。
イギリスやフランスは恐慌対策で忙殺されていた。
例によってアメリカのみが満州事変のすべての結果に不承認を唱えた。しかしアメリカも恐慌対策に必死であったため日本の行動を黙認した。
しかし、シナの抗議を受けて国際連盟はリットン調査団を派遣した。

満洲事変は塘沽(たんくう)停戦協定で終了した。

引用終わり

この中に
「満州にいた日本人が、満州事変当時、シナ人によって危険な状況にあったのも動かしがたい事実である。関東軍が満州事変を起こした目的は、このような危機的状況を解決するために、シナの軍隊や匪賊を満州から排除することにあった。現地の居留民に危害が及んだ場合、本国政府が彼らの安全を守ろうとするのは、今日の世界でも当たり前に行われていることである。そのために軍隊が出動するというのは、当時の国際社会では広く認められたことであった。」

「この当時の日本軍の行動は、当時の先進国と呼ばれた国ならどこでもやっていることである。それなのに、同じことを日本がやれば「侵略」で、欧米がやれば「侵略ではない」という理屈がどうしてできるのだろうか。そもそも、当時の満州で日本が軍事行動を起こしたことについて、国際法上、何の問題もない。」

日本人居留民が危険な状況になったことに反撃したのが満州事変。

抗日運動が激しくなったことは貴殿が認めた、それは正当に暮らしていた日本人への挑発である、それに対して反撃した侵攻は侵略では無い。

ともかくも満洲事変は塘沽(たんくう)停戦協定で終了した。


何が侵略か?

154. けろりん[839] gq@C64LogvE 2016年6月02日 10:55:56 : O0GeDdmpm2 : AO21EqWR0GA[286]

ここ最近、広島・長崎原爆地上起爆説を扱っているサイトが かなり増えて来ています。 何故なのかは分かりません。 この私でさえも、2011年当時は「  陰謀論の極み  」として スルーしていた経緯も御座いますので、時間の経過と共に、私も含め、 ネット全体における意識レベルが変わって来たのかもしれません。

エノラ・ゲイ号の航路が、各地の空襲警報によりその全容がほぼ明らかになった。広島で原爆が爆発したのは、8時6分。 その時に、エノラ・ゲイ号は呉あたりを飛んでいた。 何故、8時15分投下でなければならなかったのか? 広島観測所が午前8時14分にB29確認と記録されているからだ。

1945年7月16日、米国ニューメキシコ州で行なわれた人類最初の核実験とされるトリニティ実験がアラモゴードで行われた。 ところが、当時のマンハッタン計画では、原爆の製造に失敗している。 濃縮ウランが出来ていなかったからだ。 これで、どうやって広島に原爆が投下出来るの!?

この広島・長崎原爆実験の大いなる闇は、日本建国史上における最大の謎であり巨悪犯罪に間違いありません。 どんな悪魔でも裸足で逃げ出すほどのおぞましいホロコーストです。 にも関わらず、国民の何と反応の鈍い事でありましょうか!? 日本人は最も大切な心の何かを失ってしまったようだ。


私が「  8時15分  」にこだわって考えるようになったのは、 2冊の本をほぼ同時期に読んだからである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『 原爆は本当に、8時15分に落ちたのか』/中条一雄著_三五館(2001年)
『 広島原爆 8時15分投下の意味 』/諏訪澄著 (2003年)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この2冊を読み、「8時15分」という時間の持つ意味を考え続けた私は一つの 結論に達した。「広島原爆は完全に仕組まれていた!」

中条一雄は1926年生まれ、小中高と広島で育ち、19歳のとき被爆した。大学卒業後、朝日新聞の記者(スポーツ担当)となった。 当時、広島一中から広島高等工業(現広島大工学部) で、学業の成績がよかった彼は旧帝大への進学クラスに入り、 担当教授から研究テーマを与えられて広島に残っていた。 一瞬のうちに大破した校舎の下敷きになり、血まみれになりながら、必死の思いで木材の間からはい出して防空壕に転がり込んだ。そのとき時計を見たら、たしかに「  8時6分だった  」と、次のように話してくれた。前夜もいつものように最後の時報に合わせた。絶対正確だったという自信がある。 「  大破した校舎からはい出した時、自分の時計なら見向きもしなかったかもしれないが、友達の高価なものだから壊れていないかと心配で反射的に時計を見だ。 8時6分を鮮明に覚えている。絶対に間違いない  」。
山本郁郎君は2度も3度も「  8時6分  」を繰り返した。 /中条一雄

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

エノラ・ゲイが、一度、広島上空に入り、播磨灘方面に飛び去り、Uタ―ンして、戻って来たのを広島市より20キロ東部にある広島観測所が 確認したのが8時14分と、当時の実記録が残されています。 だから、何がなんでも8時15分に投下されたとしなければならなかったのです。 しかし、実際に爆発が起こったのは、  8時6分  です。 8時6分に、エノラ・ゲイは、呉上空を飛んでいたと推定される。 エノラ・ゲイが、広島に原爆投下など出来る訳がない。

「  原爆を造らなければ良かった  」と言い残して死んだある日本人技術者
http://ameblo.jp/64152966/entry-12164817035.html

/by「wantonのブログ」
http://ameblo.jp/64152966/
________________________

★1945年8月 原爆の地上起爆の場所はどこか?
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1992879.html

●<  ヒロシマ  >編

○阪大系列『 島病院 』
 悪魔の勢力が、島病院の中庭で起爆するには、病院長と話をつける必要がある。初代院長でもあり被爆時の院長でもあったは島薫が病院を建てる際、患者が低料 金で治療・入院が受けられるように工夫したという。被爆前、細工町内には島病院を含め5つの医院があったが、島病院は安い治療代と「盲腸もすぐ治る」と噂 されたほどの手術のうまい病院として評判であったと言われている。島薫は広島の「赤ひげ先生」だったのです。 そのような先生が悪魔の勢 力と手を結んだとは思いたくない。とは言え、地上起爆の場所として可能性が高い場所は、島病院の中庭である。仮にここだとしたら、あの日、医療従事者や患 者の何名かは、いつもと違う中庭の様子を見たはずである。しかし、島病院にあの時間にいた人は、いつもと違う中庭の様子を見た人も見てない人も即死であっ た。 悪魔の勢力は、秘密を知った人をすべて抹殺しようとする。日航123便墜落事故< 高天原山事変 >でもそうだった。墜落直後はたくさんの生存者がいた。翌日早朝、口封じの為殺害された。殺害の際、意識を失っていた女性達が生き残り救出された。

464.川上慶子さんがアメリカ人と結婚したのはなぜか?
http://ab5730.blog.fc2.com/blog-entry-666.html

465.川上慶子さんは避難の為に渡米したのではないか?
http://ab5730.blog.fc2.com/blog-entry-667.html

466.日航ジャンボ123便が撃墜された後、生き残った多数の生存者の救助を遅らせ、生存者虐殺を招いた人物は誰か?
http://ab5730.blog.fc2.com/blog-entry-668.html

さて、話を島薫院長に戻そう。 何と、島薫と付添いの看護婦<当時の表現>1人は、前日の8月5日から世羅郡甲山町(現世羅町)にある知人の病院に出張診療(出張手術)に出かけていたため難を逃れたのだ!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%97%85%E9%99%A2

島院長が世羅郡甲山町の知人の病院に呼ばれて出張手術をすることになっていたのは、何と、年に一、二回、なのです。それがたまたま1945年は8月6日だったのです!

http://yo-koda.sakura.tv/genbaku/bakusin-sima.htm

8月6日当日、院長は出張手術で不在、更に、長男は学童疎開で田舎にいたために、他の2人の家族とともに生き残った!

http://iepcollege.org/news/%E5%8E%9F%E7%88%86%E6%8A%95%E4%B8%8B%E3%81%A8%E
7%88%86%E5%BF%83%E5%9C%B0

何と、爆心地とされた病院の院長ファミリーは皆生き残ったのだ!  何という奇跡!


●<  ナガサキ  >編

(3)地上起爆の場所は? 長崎編

○三菱系列『  別荘コート 』
長崎の爆心地は松山町171番地にあった「高見別荘」のテニスコートです。ここは被爆寸前まで長崎の富豪、高見和平が所有していたが、三菱長崎造船所が女子挺身隊の宿舎にする計画で買収したばかりで無人だった。現在は平和公園内の通称・原爆公園内に、原爆落下中心地を示す碑が置かれている。

http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2004Ishi-no-kioku/01/010311.html

被爆直前にやがて爆心地となる土地を売り抜けた高見和平! 何という奇跡!

/by「 大摩邇 」
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1992879.html

167. けろりん[844] gq@C64LogvE 2016年6月02日 19:49:54 : O0GeDdmpm2 : AO21EqWR0GA[291]
_________________________

『  アヘン帝国/アジアにおける日本の帝国主義と麻薬の取引  』

●1793
英国の東インド会社が「  アヘンの専売制  」を導入
●1878 (明治11 )
英国が中国の植民地およびインドでアヘンの登録制を導入
登録したもののみがアヘンを購入できる
(台湾の「阿片漸禁策」と同様にアヘンの消費を抑制するとした欺瞞政策)
●1879 (明治12 )
アヘン専売法
●1894 (明治27 )
日清戦争 が開始
日清戦争中、日本はアヘンで多大な利益を得る
●1895 (明治28)
日清戦争が終了 ( 下関条約 )
台湾が日本の支配下
中国との通商条約で日本がアヘン戦争の勝利国と対等の立場 (不平等条約)
(日本も中国に阿片を持ち込めるような条約)
●1898 (明治31 )
後藤新平が台湾総督府民生長官
阿片漸禁策 (1878 年に英国が植民地で導入した方式と類似のもの)
見かけ上の論理とは別に単に麻薬で儲ける政策
●1904 (明治37)
日露戦争 (1904-1905)
(軍票の使用開始)
●1905 (明治38)
桂・タフト協定
(米国がフィリッピンを手に入れ日本が朝鮮を手に入れるための秘密協定)
日露戦争が終了 ( ポーツマス条約 )
日本が朝鮮を保護国化
●1906(明治39)
南満州鉄道 (満鉄)、日本の会社
(日本が恒久的な麻薬ルートの確保)
中国がアヘン撲滅運動開始
英国と中国間にインドのアヘンの持ち込みを停止することを目的とした協定を締結
●1910 (明治43 )
日韓併合
●1911 (明治44)
英国と中国間に二度目の協定(インドのアヘン持込の段階的停止)
辛亥革命
●1912 (大正元)
ハーグにおける 万国阿片協定
●1913 (大正 2)
英国によるインドから中国へのアヘンの持込が事実上終了
この頃、ヨーロッパのモルヒネが日本により中国及び朝鮮に持ち込まれる
英国のモルヒネはインドのアヘンを加工したもの
●1914 (大正 3)
第一次世界大戦 開始
青島占領 (日本が麻薬ルートの確保)
朝鮮でアヘンが禁止 (朝鮮はモルヒネ化)
この頃台湾にモルヒネ工場
●1915 (大正 4 )
対華21ヶ条要求
(この結果、ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承,
また日本人が南満州で自由に往来する権利と、工場などを作る権利を確保
麻薬の密輸に好都合となる)
●1917( 大正 6)
朝鮮にモルヒネ工場
朝鮮のモルヒネが満州を経由して大量に中国に持ち込まれることとなる
●1918 (大正 7 )
シベリア出兵開始
シベリア出兵で日本は外満州 ( 極東ロシア ) と内満州 ( いわゆる満州 ) を占領
(  広範囲の麻薬ルートを獲得  )
台湾のアヘンの売り上げがピーク (  800 万円以上  )
●1919 (大正 8)
ニューヨークタイムズの記事
(この頃日本のモルヒネが中国に怒涛のように乱入)
ベルサイユ条約 (第一次世界大戦終了)
(多くの国により万国阿片条約が批准される)
●1922 (大正11)
シベリア出兵終了
中国へ青島返還
●1929 (昭和 4 )
世界恐慌
●1931 (昭和 6)
満州事変
●1932 (昭和 7 )
満州国成立
星野直樹はアヘンの専売のために日本の銀行 (複数) から多額のローンを取り決める
満州国に朝鮮の麻薬の売人が大量に投入される
満州国が麻薬活動の中心となる
●1933 (昭和 8 )
リットン報告書、 日本が国際連盟から脱退
日本に対する経済制裁成立せず (米国が国際連盟の一員ではなかったため)
●1934 (昭和 9)
1934-35 年、満州におけるアヘンの栽培面積は 480 平方キロメートル、
1 平方キロメートルあたり 1.1 トン、1 年あたり 2000 万円から 3000 万円の利益
●1936 (昭和11)
興亜院 の設立
麻薬政策の一本化、内閣総理大臣が掌握
●1937 (昭和12)
日中戦争 の開始
南京占領
●1938( 昭和13)
南京傀儡政権 の設立
南京傀儡政権の下でアヘン、ヘロインなどの麻薬が大量に流通する
満州の麻薬の売人たちが大量に南京傀儡政権の領土に投入される。
●1939 (昭和14 )
里見機関 の成立、(日本政府から資金提供を受ける)
里見機関は内蒙古のアヘン、イランのアヘンを持ち込む
●1941 (昭和16)
真珠湾攻撃
●1945 (昭和20 )
日本の降伏
●1948 (昭和23)
東京裁判 ___________________________

168. けろりん[845] gq@C64LogvE 2016年6月02日 20:09:03 : O0GeDdmpm2 : AO21EqWR0GA[292]

 英・中「 アヘン戦争 」補完資料

_____________________
「サッスーン家」は、もともとは18世紀にメソポタミアに台頭したユダヤ人の富豪家族で、トルコ治世下にあって財務大臣を務めるほどの政商であった。 1792年にこの一族の子供として生まれたデビッド・サッスーンは、バグダッド(現在のイラク)で活動していたが、シルクロードの交易によってますます富を蓄え、そこからインドへ進出(移住)した。デビッド・サッスーンは、1832年にインドのボンベイで「サッスーン商会」を設立し、アヘンを密売し始めた。イギリスの「東インド会社」からアヘンの専売権をとった「サッスーン商会」は、中国で売り払い、とてつもない利益を上げ、中国の銀を運び出した。

(※ デビッド・サッスーンは「アヘン王」と呼ばれた。彼はイギリス紅茶の総元締めでもあり、麻薬と紅茶は、サッスーンの手の中で同時に動かされていたのである)。


******************************

中国人を麻薬付けにし、灰人化させたアヘン貿易によって、中国はイギリスに大量の銀をまきあげられ、銀本位制を取っていた中国の物価は高騰。中国は経済的にも追い込まれ、アヘン輸入禁止令を出す。

******************************

●やがて、清国がアヘン輸入禁止令を出したことに端を発した「アヘン戦争」(1840年)が勃発。敗れた清国は、南京条約により上海など5港の開港と香港の割譲、さらに賠償金2億1000万両を支払わされ、イギリスをはじめ列国の中国侵略の足がかりをつくることになる。その意味では、「サッスーン財閥」はヨーロッパ列国に、第一級の功績を立てさせたアヘン密売人だった。


●アヘン戦争以降、ユダヤ財閥たちは競って中国へ上陸していった。「サッスーン財閥」はロンドンに本部を置き、上海に営業所を設け、英・米・仏・独・ベルギーなどのユダヤ系商事会社、銀行を組合員に持ち、「イングランド銀行」および「香港上海銀行」を親銀行に、鉄道、運輸、鉱山、牧畜、建設、土地・為替売買、金融保証を主な営業科目として、インド、東南アジア、インドシナ、中国に投資を展開していった。

●1930年には、彼らの極東開発計画のため、上海に「サッスーン財閥」の本拠地を建設し、25億ドルの資本による「50年投資計画」を開始した。(毎年1億ドルの投資を25年間継続して、中国の経済と財政を完全に掌中に握り、後半期25年で、投資額の4倍の利益を搾取する、というのが当時の彼らの計算であった)。上海は元は寂しい漁村だったが、「アヘン戦争」の結果としてイギリスの対外通商港となり、一挙に中国最大の都市に成長した。繁栄をきわめ、「魔都」とか「東洋のニューヨーク」と呼ばれた。

●「サッスーン財閥」は、デビッド・サッスーンの死後、アルバート・サッスーン、次いでエドワード・サッスーンが相続し、三代の間に巨富を築いた。(この「サッスーン家」は「ロスチャイルド家」と血縁関係を結んでいる)。

 イギリスは中国から資金を取り戻す為に、アヘン貿易を起こした。その資金を迅速かつ安全に輸送する手段として、香港に「香港上海銀行」を設立するが、この代表発起人が「サッスーン洋行」、「ジャーディン・マセソン商会」、「デント商会」ら。さらに香港最大の銀行「香港上海銀行」のほとんどの株を握ったアーサー・サッスーンの義理の弟は、金融王ネイサン・ロスチャイルドの孫レオポルド・ロスチャイルドだった。___________________

シャーディー・マセソン(サッスーン)は、目標支配国(日本国内)のトロイ戦士___薩・長ファイブを作り上げた・・・かのサッスーンだ。

172. けろりん[848] gq@C64LogvE 2016年6月03日 10:50:10 : O0GeDdmpm2 : AO21EqWR0GA[295]

国際軍事・基礎概念事項/


『    侵略   』の一般的定義

●侵略 (しんりゃく、aggression)とは、 国際法 上、ある 国家 ・武装勢力が別の国家・武装勢力に対して、 自衛 ではなく、一方的にその 主権 ・領土 や独立 を侵すことを意味する。 軍事学 概念としての 侵攻 (invasion)が目的を問わず相手方勢力・領域を攻撃する行動を指すのとは異なり、相手の主権・政治的独立を奪う目的の有無に注目した用語である。また、侵略のために武力を行使して 戦争 を起こすことを 侵略戦争 と言う。


『    侵略   』に付随する歴史的国家形態_<帝国主義>

●帝国主義 ( ていこくしゅぎ、 英語 :imperialism  )とは、一つの 国家 が、自国の 民族主義 、文化 、宗教 、経済 体系などを拡大するため、あるいは新たな 領土 や天然資源 などを獲得するために、 軍事力を背景に他の 民族 や国家を積極的に 侵略 し、さらにそれを推し進めようとする 思想 や政策 。

本来は 19世紀 中期以降の 移民 を主目的としない 植民地 獲得を指して使われる用語であるが、 歴史学 以外の分野ではしばしば文学的・政治的修辞として単純に膨張主義や 覇権主義 を指して使われる場合もある。また、 レーニン は植民地再分割を巡る 列強 の衝突から 共産主義 革命 に繋げようとする立場から更に限定し、『 帝国主義論 』( 1916年 )の中で 20世紀 初頭以降を帝国主義として論じているが、 ソビエト連邦 の崩壊後はそのような限定がなされることは少なくなっている。

帝国主義の観点から 列強 を「帝国主義国」とみなして、その国家の 政体 にはかかわらず「帝国」と呼ぶ例には、 スペイン帝国 、ポルトガル海上帝国 、オランダ海上帝国 、デンマーク海上帝国 、ロシア帝国 、イギリス帝国 、フランス植民地帝国 、ベルギー植民地帝国 、ドイツ植民地帝国 、イタリア植民地帝国 、アメリカ帝国 、更には 社会主義国 に対する 社会帝国主義 などがある。


●西洋列強の『帝国主義』を取込み、模倣した< 大日本帝国主義 >

●日本帝国主義 ( にほんていこくしゅぎ、略称 : 日帝  )とは、 日本 における 帝国主義 を指す用語。一般的には 明治 から 第二次世界大戦 終結までの、いわゆる「 大日本帝国 」における 植民地主義 、覇権主義 、膨張主義、 軍国主義 などを指す。それ以外の時代も含めて批判的に使われる場合もある。

173. 喜多山[1] iuyRvY5S 2016年6月03日 22:47:14 : 10LSR3bm3A : xC6g2Iepl1E[1]
 日本がアジアの人々に酷い事をしたと言っている人がいるがそれはGHQのプロパガンダである。日本はアジアを解放したのであって侵略したわけでも殺したわけでもありません。アジアやアフリカなどの植民地だった国は日本に感謝してくれています。我々は歴史の真実に目覚めるべきです。
176. 2016年6月04日 05:23:19 : AiChp2veWo : crH3ggO@jw4[362]
 投資した権益。在留邦人を守る。当たり前の軍事行動。アヘン問題もほっときゃやられるからな。日清戦争では英国を追い出したしな。日本が吸血支配の侵略国家の性格を持っているなら、江戸時代にとっくにやってるよ。科学機械文明の急速な発展と世界権力の金融と武力とアヘンと人身売買による国際一方的意力情勢と侵略が極東にやってきたころ、害国に内通して日本国家の中枢で、毛色が変わっちまった。公武合体攘夷の孝明天皇の直覚でよかったんだがね、これは害国からは一番嫌なことだったからな。我が国にそれまで基礎工業力が発展しなかったのは(させなかった)ライト兄弟より先に飛行実験もされていたが、科学技術、兵器、の発展は、人間社会や兵法を悪くしてしまう、との慮りからである。
180. けろりん[865] gq@C64LogvE 2016年6月06日 14:33:31 : O0GeDdmpm2 : AO21EqWR0GA[312]

自由のクニ_アメリカは、アフリカ奴隷を輸入しながら・・・そもそもヨーロッパのゼイキン制度から逃れて、無税国家にしようとしたところ・・・「 クニを守れー 」の号令とともに、大・収税国家へと変ぼうしていき、いまや、米国民の三分の一が・・ナマポ・フードスタンパーの支配奴隷社会へと、カンペキに様変わりしてしまった・・・。食えない奴隷が、世界130か国の700か所で、世界を奴隷状態にしようと、ガンバッている__という状態なんだな。金融「 帝国 」主義が、世界的に席巻している・・・これが「いま」だ。そのウラには、ゲンパツ( =放射性核種生産工場 )をベースに、世界の取り立て屋「米軍」が常に待機・・・担保されている、・・・というワケだ。日本では、アフリカ奴隷を輸入するかわりに、自国民の婦女子・童男童女を、奴隷として大量に売り飛ばし、戦費を稼ぎながら・・・金融帝国(英国)のおもわく通りに、大・軍国帝国国家として、まさに周辺国家を麻薬浸けにしながら< 自滅 >の道へと順調に進んできていた___というハナシだ。この上で・・・・ヒロシマ&ナガサキの原爆被災事象そのものが米軍の空爆ではなく__自国内での設置で、実験だったならば・・・だ、・・・・戦前・戦中・戦後の日本の歴史認識_日本史学__というもの事体が、だな・・・・『 日本ホラー学 』へと変貌していく。事実は小説の数倍も「 奇 」なり、をまるで絵に描いたような、スガタだ・・・。<  大日本ホラー史学  >だ。

182. けろりん[888] gq@C64LogvE 2016年6月09日 02:51:21 : O0GeDdmpm2 : AO21EqWR0GA[335]
 最近、ヒロシマ&ナガサキの、「 地上核爆弾_日本実験説 」で、かまびすしいが・・・、 実際の爆発は、被爆者証言から< 8時6分 >。史上に流布されている時間が< 8時15分 >。8時0分から8時15分の間には、B29が広島上空に飛来していた証拠も証言も気録すらない・・・・。ゆえに空襲警報すら鳴っていなかった・・・。誰も原爆爆発時には、上空にB29を見たものは居なかった。 唯一の記録が、姫路方面から飛んできていたB29が呉当たりで8時10分台に確認されていたコトだけだった・・・。 空中投下の核の起爆そのものは、原理的に非常に困難を伴いコントロールが効かない・・・・ならば、それまでの、核実験__地下であろうが地上であろうが・・・すべて、空中からの投下ではなく、地上設置型の爆発実験だった、ことは、納得できる・・・・・。 ところが、ここからが__問題なんだ・・・、
186. ネメシス[7] g2yDgYNWg1g 2016年6月24日 23:52:28 : lqgFDJHVdQ : NCQ02ChacsM[2
>けろりん様

 あらゆる説に渡って、その可能性を一旦は確認してみるという姿勢は、大変、共感できるのですが、正直、貴方ほどの知性のお方が、「地上起爆説」などという客観的に見て余りにもお粗末な科学論説に惑わされるのを見ているのは、正直辛いです。ピカドンの「ピカッ!」で一瞬の内に焼き付いた影から推測される複数の(空中を指し示す)方向から爆心点は決定されています。科学的に見て、これが一番納得のいく方法でしょう。事実、公式の科学者たちのチームも、そのような査定方法をとっているようです。

爆心地の決定に関する動画資料
原爆被災記録映画(熱線の影響)
https://www.youtube.com/watch?v=dPD9ettn2Ug

放影研 業績報告書1969 原子爆弾の炸裂点
http://www.rerf.or.jp/library/scidata/tr_all/TR1969-03.pdf

 個人的には、もうこれだけで充分な感じがするのですが、
本物黒酒女史を始めとする地上起爆派は、それを否定するのに
「否、影は火球が上昇する途中、ずっと照らされ続けて出来た。
だから最初に焼かれた部分は、後から新たに照らされた熱線で
上焼きされて、輪郭線がおぼろになった・・・」などという奇説を持ち出してきました。

しかし核爆発の閃光(核分裂の連鎖反応)に要する所要時間は、
百万分の1秒、あるいは1億分の1秒といった次元とも言われています。
この段階で、既に「地上起爆説」は破綻しています。

ヒロシマ型原爆(ウラン原爆) - 原爆先生の特別授業より
http://www.hiroshima9.com/chishiki/u-genbaku.html
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 天皇家(皇室)が、とてつもないほど巨大な財閥であったことや、日本郵船(日本の婦女子人身売買)などの黒い一面を暴くことは一向に構いません。しかし最近の、そういったムーヴメントに恰も便乗した(?)かのような、原爆の製造すら、天皇(この場合は日本)に責任転化しようとする工作にはちょっと辟易してしまいます。どうもこの動きには統○教会系ネトウヨ、あるいは朝○総連系ネトサヨ達の臭いがぷんぷんしてくるのです。(まあ、何れにしろそれらの背後にいるのは米CIAで同じことですが・・・) そりゃ、日本だって当時、原爆開発に向けての研究はしていました。何もそれを頭から否定しているわけではありません。しかし残されているいろいろな証言や状況証拠などから、総合的に判断してやはり当時、日本軍が「原子爆弾を完成していた」とするのは流石に遣り過ぎなのではないかと思うのです。 ですから戦争終結にあたり、国体護持の代わりに人体実験の要求を呑まされ、広島と長崎を犠牲に差し出させられた(かも知れない)ということと、実際に炸裂した原爆が日本製だったという情報は、まったく別な次元の問題として、二つの事象を別々に分けて考えないと、いくら「天皇の戦争責任追及」に都合が良いから・・・といってホイホイとそんな餌に釣られてしまっては直ぐに足を掬われます。 普通、陰謀論では、バラバラの情報を組み合わせていって、ひとつの有機的な結論に達するのを目的としますが、今回の「地上起爆論説」に関しては、その余りのトンデモ科学的論説から、これはこれ、それはそれといったように、正しい情報と怪しい情報とをちゃんと分けて取捨選択し間違っている情報は剥ぎ取って捨てていかなければならないということです。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

今回いろいろと話題になった「広島長崎の原爆は日本製で、しかもそれらは地上起爆であった」説は、その一連の情報の出所を辿っていくと、

日本製原爆完成全文、とか、
http://nipponseigenbaku.com/?p=42

「本物黒酒」とかいうツイート主あたりがその大元のようです。
https://twitter.com/honest_kuroki/

前者のブログ記事に書かれている膨大な量の情報は、興味深いものも多々ありますが、何処までそれをそのまま信用して良いものだか、 そこの判断は素人には正直、難しいところがあります。※

※しかし、今では「地上起爆説」が明らかにおかしいと判った以上、 このブログの長ったらしい論説を真面目に分析する必要と意味が あまり無いということが判明したようです。

wantonのブログより
http://ameblo.jp/64152966/entry-12159461316.html#cbox 
(コメント番号:69~77番)

大摩邇(おおまに)さんのブログより
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1992929.html?1464797464

福田元昭の「桜の木になろう」ブログより
http://ab5730.blog.fc2.com/blog-entry-741.html
http://ab5730.blog.fc2.com/blog-entry-742.html
http://ab5730.blog.fc2.com/blog-entry-744.html


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、「広島原爆8時6分説」に関してですが、こういった証言もあるのですが、どう思われますか?僕は、こちらもかなり信憑性の高い情報なのではと思うのですが。

広島 鳴らなかった警報 。 。 。
http://www.dailymotion.com/video/xv00kr

広島城の敷地内に設置された旧陸軍司令部の地下通信室。当時14歳だった岡ヨシエさん(78歳)は、ここで 軍人から渡されたメモを読み上げ、放送局や役所に 「警戒警報」を伝える任務を担っていた。 「8時9分過ぎに 『B29が2機、東方向から広島県に侵入』 という情報が入ったんですね。(その後3機に訂正)」 「また来たの?さっき7時31分、警報解除になったばかりなのに・・・」 。敵機は、もう直ぐそこまで迫っていた。岡さんは 「広島と山口に警戒警報発令」 と書かれたメモを上官から受け取り、 放送局直通の受話器を手に叫んだ。 しかし・・・ 「一斉に交換機にコードを挿して、出た相手の人に『8時13分、広島県警戒警報発・・・!』 発令の 『発』 というところまで来たところで原子爆弾が炸裂して、 ここ(窓)からもの凄い光がピカーッと入ってきたんです」 。警戒警報は鳴らなかった(間に合わなかった)。 瞬時にして広島の町は崩壊した。 原爆を積んだB29 - 通称 「エノラ・ゲイ」 の一団3機は、 何故、その直前まで日本側に発見されなかったのか・・・ (以下、略)


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この証言で、敵機確認の第一報が入った8時9分過ぎ。そして警戒警報が発令された8時13分という時刻までは、(あくまで陸軍司令部内の時計によると、という話ではあるが)確証の取れたかなり正確で信憑性が高い証言と思われます。そこから、実際に上官からメモを受け取り、交換機に向かいコードを挿して相手が電話口に出るまでの呼び出し時間、メモを明瞭に読み上げる時間・・・などを考慮に入れていくと、従来からの8時15分説と言うのは、案外、それほど納得出来ない説では無いことも判ると思われます。従って、今まで中条一雄の8時6分説を論拠としてきた地上起爆派のブロガーたちは、今後、自説の見直しを迫られることになるでしょう。一方では、友人から預かった貴重なロンジン腕時計ゆえに、普段から大切にしていた高級時計マニアの証言。もう片方は、軍司令部で原爆投下の直前まで、B29爆撃情報の処理に携わっていた学徒動員の女子中学生の証言。もっとも彼女の証言が、全くのヤラセだと批判し、恰も証言が無かったものとして無視を決め込むというのならば話は別でしょうが・・・


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

また巷には、「仁科型原爆はウラン濃縮度10%で爆発する。起爆は水をかけるだけ」などという論説も、出回っているようですが、本当に爆発するんでしょうか?臨界状態=核爆発 ではありません。臨界を起こし「青い光」が放たれ、ガンマ線や中性子線などある程度の放射線は放出されるかも知れませんが、もしそれを「核爆発だ!」と言うのなら、これからは東海村JCO臨界事故も、「東海村JCO核爆発事故」と呼び方を変えなければなりませんね。

もちろん現在に於いては、それは可能です。以前、「常温核融合と小型核、そして劣化ウラン弾・・・」動画シリーズを高く評価して下さって有難うございます。(ようやくお礼が出来た)
https://www.youtube.com/watch?v=xyxUL6Nea-U
https://www.youtube.com/watch?v=EtdM8xIR9JI
https://www.youtube.com/watch?v=s8LmQrIP4fo
https://www.youtube.com/watch?v=eOZDVtTmAk8

しかし今回の、「広島・長崎原爆の地上起爆説」云々は、原爆開発の最初期の、「臨界質量」問題にガチガチに縛られた時代の話です。それでも「サイクロトロンで作成した高速中性子をウランに当てて・・・」などというのは基礎研究の段階の実験は別として、爆弾としてそれを論じるのが如何に馬鹿げているかお判りでしょうか。

187. taked4700[5574] dGFrZWQ0NzAw 2016年8月08日 22:38:47 : mzuHakYGg6 : RW6wYIK0EQ4[11]
>>09

>ただし、「アメリカ政府は1943年5月という早い時点で「対日投下」を決定し、」
>↑ これはいささか疑問に思う、43年5月の時点では原爆製造の目途は全く立っておらずプルトニウム製造のための原子炉すら、建設を始めたのは この年の10月になってからである
>つまり、この時期に投下地点を特定するなど普通は到底 考えにくくB29に搭載できるかどうかの目途すらも まったく立っていない訳で運用方法すら 検討する段階には程遠いとしか言えない

同意します。

ただし、広島原爆はウランなので、「プルトニウム製造のための原子炉すら、建設を始めたのは この年の10月になってからである」は関連性が薄いはず。

一説によると、広島原爆のもとはドイツ製であったからという話もありますが、自分は、1930年代からアメリカ国内で秘密らにウラン型原爆の研究が進められてきたというのもアリではと思います。原爆製造と言うと、ファットマンの爆縮型のみがいつも取り上げられるのですが、広島投下されたリトルボーイのガンバレル型の方がよっぽど簡単。つまり、ユダヤ人科学者の助けを借りずとも力技で造れるのが広島型原発。核実験をしないで、ぶっつけ本番でやったと言われますが、これも疑問。本当は第2次世界大戦前に核実験まで済んでいたのではと思えます。

188. 2016年8月09日 15:12:52 : tkx2n0qkXo : 1suTBfcyd6M[22]

シャーディーマセソンとか?バカじゃね?ジャーディンマセソンってんだよ。 ちなみにジャーディンマセソンてのは1人じゃなくて、 ウイリアムジャーディン(英国人香港総督府)アングロサクソン、 ジェイムズマセソン(和蘭陀人澳門総督府)アングロサクソン。この2人で 現在のロイヤルダッチシェルなどの英蘭合弁資本。サッスーンとは、上海英国疎開の有色人種のユダヤ人マイスラヒム。法螺貝吹き荒らすな
196. 2018年8月05日 09:12:29 : kY5e4TlAYc : zcH58Wt@9U0[46]

http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/post-f4cc.html
【参考】米国戦略爆撃調査団報告:広島と長崎への原爆の効果、
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/U.%20S._Strategic_Bombing_Survey/30th_ver.htm
【トルーマン大統領の嘘】
米軍将兵100万人を救うためというプロパガンダが米国の正義を主張、
ナチスドイツが原爆の研究を始めたという、米国に亡命したドイツ人(ユダヤ人)科学者の提言により、昭和17年12月FDRはグローブス准将の下にマンハッタン計画(原爆開発)を進めた、ナチスドイツの原爆開発はイギリス軍の工作で阻止されたが、若し、欧州戦線に原爆を投下すればイギリスにもナチスドイツが核廃棄物を投下の恐れがあるという結論に達し、日本への原爆投下を、昭和18年5月5日、米国軍事政策委員会が決定した、
そして、マンハッタン計画の要員にはソ連・コミュンテルンのスパイも存在した、
※FDR政権内部には約300名のソ連スパイが存在:ヴェナノ文書、
昭和20年4月5日、ソ連外相モロトフ、駐ソ日本大使佐藤尚武に日ソ中立条約不延長を通告、(同条約1年間有効)、しかし、日本政府は陸軍の要望でソ連を仲介とする連合国との和平を模索していて、日本のパープル暗号(外交暗号)解読からアメリカもこのことを承知していた、日本政府の和平工作は原爆を投下するために無視されたのです、同年4月12日、FDR死去(63歳)、トルーマン副大統領が昇格した、トルーマンはグローブス少将からマンハッタン計画を打ち明けられて初めて存在を知った、グローブス少将を始めとする軍部はトルーマンを嗾けてでも、原爆の性能を確かめたかった、その一つがウラニュウム型原爆で、プルトニューム型原爆の実験は同年7月16日に成功、その知らせをトルーマンはポツダム会議の席上で受け取った、所謂、ポツダム宣言はチャーチルがイギリスの選挙で首相の地位を失い帰国、スターリンは日ソ中立条約が有効なため署名できず、蒋介石は出席していなかったので電信で許可を取り、トルーマンが代理署名した、日本への原爆投下は始め京都が挙げられていたが、ヘンリー・スティムソン陸軍長官が反対して断念、大都市無差別爆撃を受けていないことが条件(原爆の性能を試すため)で選ばれた、その候補地は広島と小倉で当日の悪天候で小倉が長崎に変更された、そして、原爆の性能を確認するために、戦後逸早く、戦略爆撃調査団が派遣されて医師も活動したが、それは医療が目的ではなく、あくまでも原爆の効果を確認するためであったことを告知しておきます。
一夢斉老人
198. 2018年8月06日 13:58:22 : zSruXm8f1E : aHNR_jbz2KE[1]
イギリスの実力・天皇の立ち位置。
https://ameblo.jp/eigo-garage/entry-12052541306.html




(私論.私見)