親日論

 (最新見直し2011.9.22日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、アインシュタインの親日論を確認する。

 2011.9.22日 れんだいこ拝


【アインシュタインの予言】
 宮地正典氏の「新説ホツマツタエ」(徳間書店、1995.4.30日)に紹介されているアインシュタインの「日本人に期待する予言」が掲載されている。これを転載しておく。
 世界を導く者

 世界の未来は、進歩するだけ進歩し、その間に、幾度か戦争が繰り返されますが、最後に、戦いに疲れるときが来ます。その時人類は、世界を、真の平和へと導いてくれる者を、探し出さねばなりません。その世界を導く者は、武力や金の力による者ではなく、あらゆる国の歴史を抜き越えた、もっとも古く、また尊い家柄の者でなければなりません。世界の文化は、アジアに始まって、アジアに帰ります。それはアジアの高峰、日本に戻らなければなりません。私たちは、神に感謝します。私たちに、日本と云う尊い国を作っておいてくれたことを。

 1922.10.8日、アインシュタイン博士が、日本の根物理学者・石原純博士、哲学者・西田幾太郎氏、雑誌「改造」の山本実彦氏らの招きに応じて、エルザ夫人と共にフランスのマルセイユ港から日本郵船の北野丸に乗船し、日本へ向かった。11.10日、北野丸がシンガポール沖を航行していたとき、ノーベル賞受賞の知らせを受け取る。授賞対象となったのは「理論物理学への貢献、特に光電効果の法則の発見」であった。11.17日、北野丸が神戸港に入港し、アインシュタインが来日した。以降12.29日までの43日間、日本各地を訪問している。11.21日、皇后陛下の主催で開かれた観菊御宴に参列する。12.3日、東北大学で「相対性理論」についての講演を行う。12.8日、名古屋での講演会の後、熱田神宮を訪れている。12.20日、瀬戸内海の厳島神社を訪れている。

 アインシュタインが関心を寄せたのは、日本の科学技術の目覚ましい発展の様子よりも日本の伝統的な文化に対してであった。能、邦楽、歌舞伎、尺八、三味線、琴、義太夫、長唄、芸者踊り、どじょうすくい等を鑑賞し、金魚、蚕、凧上げ、餅つき、天ぷら、昆布の佃煮にまで及んだ。

 日本を去るにあたって次のような感謝の言葉を日本に贈っている。
 「一月以上にもなる日本滞在の中で、私が特に感じたことは、日本国民のような謙虚で親切な人間味あふれる人々が、この地球上に存在していたことを知り得たことです。世界の各地を訪問してみましたが、私はこのような純真な心地良い国民に出会うったことはありません。また私が出会った日本の建物や絵画その他の美術や自然については、山や水や草や木がすべて美しく繊細であり、日本の家の形や構造も自然に調和し、独特の価値があります。ですから日本国民のこれらのものについては、ヨーロッパの影響を受けないで欲しいと私は希望します。また私は福岡で畳の上に座り、味噌汁をすすってみました。そのわずかな経験からも、私は日本国民の日本の生活を、すぐに受け入れた人間であることに気が付きました」(宮地正典氏の「新説ホツマツタエ」より)。

 アインシュタインは晩年、70歳の誕生日を祝って日本の子供たちが贈った本の御礼に、次のあいさつ文を送っている。
 「日本のみなさんへ、私のごあいさつをお送りします。私には、ぜひお伝えしておきたいと思っていることがあります。私は、美しい日本を訪れたことがあり、そこで町や家や山や森を見て、日本の子供たちが、生まれ育ったところを、とても大切に思う心を、持っていることを知りました。いつも私の机の上には、日本の子供たちが私に作ってくれた、色のついた絵で一杯の、大きな厚い一冊の本があります。今こんなに遠く離れている、あなたたちが、私のあいさつを受け取ったならば、私たちの時代になってはじめて、様々な国に住む人々が、お互いに優しく分かり合えるようになったことを考えてみてください。前の時代では、いろんな国の人々がお互いのことを、分からないまま暮らしていました。それどころか、お互いに恐ろしがったり、憎しみ合っていたこともありました。兄弟を思う気持ちと同じように、多くの国の人々が、お互いを思い合うことが、もつと広く、世界の中で育ってゆくことを期待しています。年を取ってしまった私は、そのような気持ちを込めて、遠い国から、日本の小学校の皆様へ、ご挨拶をお送りいたします。いつの日か、あなたたちの世代が、私の過ごしてきた時代を、恥ずかしいと感じるようになることをろ、私は期待しております」(宮地正典氏の「新説ホツマツタエ」より)。




(私論.私見)