公益か人道か

 今日多くのメディアの二分法的な価値対立の背景には、公益主義の立場に立つのか人道主義に寄りそうのかという立場の違いがある。
 両者はなかなか相互理解、相互受入が難しいのである。この相互理解の問題に実践的に取り組むべく、昨年から『原子力ムラ境界線上の「哲」人―“あほ&アホ”―対話』を飯田哲也氏とはじめたが、双方の溝はなかなか埋まる様子は無く、日暮れて尚道遠しの感が弥増している。
 さて、『がまん量』という考えは、それから半世紀以上たった今なお健在なようである。2011年3月11日に起こった福島第一原子力発電所の事故(3.11)を受けて国会事故調査委員会が発足した。その委員のなかに高木学校に在籍したことのある崎山比早子氏があった。氏は、当時ことあるごとにメディア上で〝がまん量〟を発信し、そのことをもって低線量被ばくは恐ろしいものであると警鐘したのである。武谷が断じた〝放射能というものは、どんなに微量であっても、人体に悪い影響をあたえる。〟というドグマが今世紀的意義をもって再び流布されたのである。
 この武谷ドグマは、放射線を本能的に恐れる心(radiophobia)に火をつけ、福島からの自主避難者やその支援者らをノードとするネットワークを広く形成していった。

 新しい理論

 そんななかで、ポスト3.11の時代この武谷ドグマに疑問をもった京都学派の物理学者らがいた。問題提起の根源は、武谷が原爆症やがまん量を吹聴した後に、遺伝子が2重螺旋構造をもっていることがワトソン?クリックらによって発見された。その後、放射線によって損傷を受けた遺伝子が修復する機能をもっていることや、いよいよとなれば細胞が自死して(アポトーシス)その影響を他に伝播させない仕組みがあることが生物学的・医学的に発見されている。医者や生物学者の間では、ある一定量以下の放射線被ばくは、事実上身体に重大な影響を及ぼさないことが常識として共有されている。それなのに、一方では武谷ドグマが生き続けて無辜の市民の心と身体を痛め続けている???おかしいではないか。
 こうした疑問のなかから、自分たちで一から考えてみようと取り組まれて生まれたのが〝モグラたたきモデル〟である。このモデルによれば、低線量被ばくの領域では、放射線による遺伝子の損傷はモグラたたきのモグラに喩えられ、私達の身体に本来的に備わっている修復機能がモグラを叩くハンマーである。モグラが顔を出す頻度はいわば放射線の影響による損傷の頻度である。モグラたたきモデルは実験データによって検証されている。このモデルがたたき出したのは、低線量被ばくに対しては、モグラがいくら頻繁に顔を出そうとも、ハンマーを打つ早さがやがて追いついてことなきを得るという姿である。身体が生理的にそのように反応する仕組みになっている。つまり、〝放射能というものは、どんなに微量であっても、人体に悪い影響をあたえる〟という武谷ドグマは葬り去られるのではないか。つまり、ある被ばく線量以下ならば心配しなくても良いというしきい値があるようだ。
 そのしきい値は具体的には、モグラたたきモデルからは『100mSv/年を超える模様である』と見えてくる。しかしながら、モデルの開発者らは極めて慎重である。今の段階ではハッキリとした数値は言えない。たださまざまな生物種に関する低線量被ばくに対する修復機能を統一的にモデル化できたことは事実。しきい値に関して具体的なことがいえるためには、さらなるモデルの検証と実験が必要とのことである。

 ただし、このモデルが語るもうひとつのもっと重要なことは、低線量被ばくの影響はモグラたたきのようにキチンと潰されていって、時間経過とともにその影響が蓄積しては行かないということである。武谷ドグマは、低線量被ばくの影響が蓄積していくことを前提としている。また、現行の被ばく線量管理の考え方も同様である。

 今私達が気をつけなければならないのは、このように新しい科学的知識によって、従来当たり前とされていたことが覆される可能性があるということである。
 もうひとつ。さらに大きな枠組みのなかでは、私達は公益主義vs.人道主義を背景にした二分法的価値判断に踊らされてはならないということである。ひとりの人間のうちには、公益的考えも人道的考えも共存して日々私達を突き動かしているはずである。ところが、集団やコミュニティになれば、勢い二分法的煽動に乗せられかねない。そのことを自認し自省することこそが未来を拓いて行くのではないだろうか。

 なお、第五福竜丸事件の約半年後に亡くなった乗組員の方については、当時の医療データが後年再度綿密に分析された。その結果、死の原因は輸血の結果感染したC型肝炎であると断定的に公表された。この結論は日米の医療関係社の間では今や共有されている。1954年当時、C型肝炎はまだ発見されていなかったのである。
 新しい理論や発見は過去の謎を解き、同時に過去の事実も覆すのである。それは私達が囚われているドグマから、私達を解き放ってくれる可能性がある。