ぼやきくっくりから
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「WiLL」2014年6月号の〈著者インタビュー〉は『人生は喜劇だ 知られざる作家の素顔』の著者・矢崎泰久氏。左翼の集会で「皇室中傷」芝居に一役買うなど、保守には評判のよろしくない人かもしれません。(それ以前にあまり知られてないかも。私も知らなかった)
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[画像は朝日新聞2012年6月7日より]
が、その矢崎氏が、大江健三郎氏についてびっくりなこと(少なくとも私にとっては)を話していたので、あえて紹介。 聞き手は花田紀凱編集長です。
【――この本の話に戻ると、大江健三郎さんの章も興味深かったです。昔は核開発、原発に賛成だったとは知りませんでした。
矢崎 はっきりと、「核開発は必要だということについてはぼくはまったく賛成です。このエネルギー源を人類の生命の新しい要素にくわえることについて反対したいとは思えないです」と講演で言っています。その後、考えが変わったのなら、それはそれでいい。人間は変わるものですから。しかし、せめて過去の発言について、「あの時は間違っていた」とでも何でも言うべきですよ。それを口を拭(ぬぐ)って脱原発運動のリーダーに立つなんて、勘違いも甚だしい。
――原稿依頼に行った女性編集者に対して冷たくあたるだけでなく、手土産に持っていった菓子折を投げつけるなんて、普通はできませんね。
矢崎 当時はヒステリックな対応に呆れましたが、深くは考えなかった。たぶん権威主義が身についていて、編集長が来なかったことに腹を立てたんでしょう。その後、ノーベル賞を受賞したから天下をとったような気持ちだと思います。あれは文学に対するものであって、人間に対するものではない。はっきり言って、人間としては卑劣な人ですよ。】
後半の女性編集者云々はさておき…あの大江健三郎氏が、昔は原発賛成だったって?Σ(゚Д゚;マジデ!? つい2ヶ月前にも脱原発集会で呼びかけ人として演説してた人が? 大江健三郎氏は、いつの講演で原発賛成を言ったのか? Wikipediaによれば、1968年だそうです。
原子力発電所に対する立場
1968年5月28日紀伊国屋ホールで「核時代への想像力」と題して講演し、「核開発は必要だということについてぼくはまったく賛成です。こ のエネルギー源を人類の生命の新しい要素にくわえることについて
反対したいとは決して思わない」と述べた[11]。しかし、2011年の東日本大震災の福島第一原子力発電所事故に際して、米誌「ニューヨーカー」に「歴史は繰り返す」を寄稿し、「原発建設は人命軽視の姿勢を示すもので、広島の原爆犠牲者に対する最悪の裏切り」と述べている[12]。
11. ^ 大江健三郎『核時代の想像力』新潮社、2007年、p120 ISBN 9784106035845
12. ^ 原発は「原爆犠牲者への裏切り」 大江健三郎さんが寄稿
かつては原発に賛成していた人が、福島第一原発事故後は反対運動のリーダーって、何じゃこりゃ? 矢崎氏も言っているように、考えを変えたこと自体は必ずしも悪いことではありません。が、それならそれで、やはり「間違ってました」とちゃんと言うべきだし、どこがどう間違っていたかも説明すべきではないでしょうか。それをしたら、脱原発運動のリーダーとしての立場が危うくなるとでも思ってるのかな? だとしたら小さな人ですね。(矢崎氏の話にあった女性編集者への態度にもこの人の小ささが見える)
そもそも大江氏の言ってることって、つじつまが合ってないような気が。というのも、Wikiで紹介されてる共同通信の記事を見ると、大江氏は福島第一原発事故後の寄稿の中で、…広島と長崎の原爆やビキニ環礁の水爆実験、原子力施設事故で被害を受けた者の視点で日本の歴史を見るという考え方を提示し、原発建設は人命軽視の姿勢を示すもので、「広島の原爆犠牲者に対する最悪の裏切り」だと非難した…
とあります。だったら、1968年の時点ですでに反対派に回ってないとおかしくないですか? 広島・長崎の原爆投下は1945年、ビキニの水爆実験は1954年ですから。
大江氏の原発に対する「変節」について、ネットで色々調べていたら、「核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ」様にたどり着きました。ブログ主は菅原健史さんという方です。この方は脱原発派(即ゼロではなく少しずつなくしていきたい派=2011/8/13付記事参照)ではあるものの、大江氏には批判的な立場です。関連記事をざっと拝見しましたが、やはり、大江氏が昔は原発賛成だったのにそれを「隠している」ことに納得行かないご様子です。また、この方のブログの2011/4/20付記事に、1968年の講演における大江氏の発言の、Wikiにはなかった前段が引用されていました。引用元はWikiと同じく「大江健三郎『核時代の想像力』新潮社、2007年」です。
【現に東海村の原子力発電所からの電流はいま市民の生活の場所に流れてきています。それはたしかに新しいエネルギー源を発見したことの結果にちがいない。それは人間の新しい威力をあらわすでしょう。(略)核開発は必要だということについてぼくはまったく賛成です。このエネルギー源を人類の生命の新しい要素にくわえることについて反対したいとは決して思わない】
どう見ても推進派ですね。ただ、菅原さんは、1968年当時に大江氏が推進派だった理由として、こう考察されています。「福島第一原子力発電所は1967年に着工し、1970年に試運転を開始した、といえば、先の大江発言の時代背景がおわかりいただけるかと思います」。なるほど。当時は、原子力は人類にとって夢の新エネルギーだ!ということで盛り上がってたんですね。大江氏の発言も、そんな時代の流れに乗っかってのものだったのでしょう。
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[画像は東京電力サイトより着工当時の福島第一原発]
ですが、先ほども言ったように、福島第一原発の事故(あるいはチェルノブイリの事故や、日本でそれまでに起きていた小さな事故やトラブル)をきっかけに推進派が反対派に転じた例はゴマンとありますし、大江氏も転換したからって誰も責めないでしょう。なのに、なぜ過去を隠そうとするの? 菅原さんも、2011/4/23付記事で同じことを、いや、もっと踏み込んだ形で言われてます。「1968年に己が原発推進論者だったことへの反省や、原発廃止後の代替エネルギーをどうするのかという切実な問題について語られていないことが大きな(いや、「大きい」かな)不満です」。
また、菅原さんの2012/9/10付記事では、1965年に文藝春秋新社から発行された大江氏のエッセイ『厳粛な綱渡り』が、1991年に文庫版として発行された時に“削除”された箇所が引用されています。
【この遅れたカメの性格を多分にもつ地方都市に、新しい産業の光が不意にさしこんできたように思えた一時期があった。三十年の小鴨鉱山におけるウラン鉱発見である。市長をはじめ市民たちは、かなり興奮したもようである。しかし、放射性物質にいたして(原文のまま。「たいして」か)の世界市場の態度が一種の雪どけを示して以後、ウラン鉱山の採算のとれる範囲は縮小した】
大江氏は文庫化に際して、文庫版のための編集(削除)は「物理的に分量を少なくするための整理」だと説明しているそうですが、菅原さんはそうは捉えておられません。「ウラン鉱発見を『新しい産業の光』と持ち上げ、外国人や友人のだれかれをウラン焼の町へ誘っておいて、その文章を後から全部なかったことにするような真似」を大江氏がしていることを、厳しく批判されています。そして2012/8/2付記事ではこう述べておられます。「大江健三郎が根っからの悪人だとは思いません。(中略)しかし、原発問題に関しては、大江健三郎に誠実さや言葉の重みはまったく感じられません。何らかの理由があって1968年から70年代までに反原発に転じたのであれば、その理由を明らかにすべきです。自分の言葉に責任を持つこと。それは私にとっては原発への賛否よりも重大な問題です」。これは立場の違いを超え、とても説得力のある言葉です。(奇しくも、先に紹介した3月15日の脱原発集会(動画)で大江氏は「責任」という言葉を連呼しています)
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[画像は共同通信2012/10/13より]
脱原発派にも濃淡があって、先ほど書いたように、菅原さんは比較的「淡い脱原発派」のようです。では、「濃い脱原発派(=反原発派?)」の方々は、大江氏の「変節」をどう考えているのでしょうか。「変節」をご存知ないのでしょうか。あるいはご存知の上で、あえてそこには目をつむっているのでしょうか。とても気になります。
※拙ブログ関連エントリー
・07/11/10付:沖縄戦集団自決問題まとめ(1)
(大江健三郎氏の「沖縄ノート」名誉毀損訴訟について)
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