日共の原子力政策史考その1

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).3.11日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、日共の原発政策史その1を確認しておく。

 2007.7.23日、2011.4.22日再編集 れんだいこ拝


Re::れんだいこのカンテラ時評921 れんだいこ 2011/04/22
 【日共の原子力政策史考】

 タイトルに「日共の原子力政策史考」と記したが、本意は「日共の原子力政策転換史考」である。現在の反原発姿勢を顧慮して敢えて穏和に表記した。気になって仕方がないことがあるので以下、確認しておく。

 案外知られていないが、日共の原発政策史は現在の言行と1970年代のそれは一致しない。1970年代前半までの日共は、原子力利用政策に対してそれ自体に反対ではなく、むしろ容認してきた形跡が認められる。その昔、この問題を廻っても「原水禁」と「原水協」が対立した。社会党系の「原水禁」が反対姿勢を打ち出したのに比して、日共系の「原水協」はむしろ協力的姿勢をとった。これが史実である。

 当時の日共は、政府の原発政策に対し、「民主・自主・公開の三原則が守られればこれに賛成する。民主的規制の元での慎重な開発を期待する」、「原発は核武装化には使用させない、平和利用であればよい。民主的政権であれば軍拡に使うことはない」という態度をとった。それは、政府・電力資本の原発政策を裏から容認するもの以外の何物でもなかった。肝腎なところで果たす宮顕ー不破系日共党中央の「左」から果たす役割がここでも透けて見えてくる。ここが確認したい。これが本稿の執筆趣意である。こういうところを踏まえないと正確な日共論が生まれない。

 日共の1970年代の原発政策論が開示されれば、在りし日の原発容認姿勢の日共が確認できるのだが、この党は宮顕系党中央以来、かっての理論、政策等の資料を隠匿する癖がある。サイトにも当時の政策が出てこない。よって、れんだいこの記憶を辿ることにする。思い出すのに、物理学専攻を吹聴する不破が大きく写真付きで登場し、得々と「何でも反対の社会党と違うところとして原発政策容認論」をぶっていたと記憶する。

 このことは、「反原発を訴えていた日本社会党と差異化を図り、距離をおいていた」、「日本共産党は、民主的・平和的な原子力であればよいという路線で、原発反対派の日本社会党・原水禁に対抗してきた」と他の方が記していることが裏付けられる。れんだいこの記憶とも一致する。

 いつの国政選挙だったか忘れたが、新聞紙面に各党の政策対照表が紹介されており、その中でもこのことが詠われていた。「さざなみ通信」の2011.3.22日付け投稿「共産党の原子力政策の変遷について」が次のように証言している。「今の原子力は危険だ。しかし、今の技術水準をそのまま将来に延長して、原子力の潜在的な可能性まで否定すべきではない。原子力には夢も希望もある。正しい研究開発をすれば、科学の発達は無限だから、安全に原子力を利用できるようになる」、「原子力発電を禁止することは国民の間に意見の一致ができていないと主張していた」。ということは、いまどきの「共産党と社民党以外、みんな原発推進だね」なる言は、歴史検証に耐える言ではなく素人のそれであることになる。

 チェルノブイリ事故後、反原発機運が高まった。「原子力は現段階の科学に於いて制御不能なものであり、この状態での開発は許されないのではないのか、余りにもリスクが大きすぎるのではないのか」との疑問が広まった。これにより、日共的な「自主・民主・公開の三原則の下での民主的規制による開発促進政策」にも疑惑が向けられるようになった。日共は当初は、チェルノブイリ原発事故を発端とする1980年代後半の反原発運動に対して「非科学的」と批判していた。原子力の平和利用を理由に、チェルノブイリ事故直後の時点までは推進派の立場を堅持していたことが分かる。
 
 日共がいつ原発に消極的な姿勢を示すようになったのか、これがはっきりしない。「左翼政党は、基本的政策を転換するときには激しい議論が行われ、時として組織内の対立まで起きるような種類のものだが、日本共産党の原子力政策についての路線変更が全く不明確であり、痕跡もなくなっている」(「原発事故雑感」)とある通りである。そういう意味で、いつの時点からかは不明であるが、日共は原発反対スタンスに転換した。それはまことに結構なことである。

 良くないのは、その際にいつもの通りで自己批判が一切ない。昨日までの政策に口を拭い、翌日から何の断りもなくコロッと方針を替えて憚らない。日共理論のヌエ性、姑息性がここでも確認できよう。現在の日共は、「いかなる国の核実験反対」への転換と同様に過去の原発容認政策に頬かむりしたまま「昔から反対でした」的にすり替えている。

 今日では次のように述べている。2011.4.1日付けの赤旗の「原発の危険を告発 国民の命守る日本共産党(上)」は早くも次のよう述べている。「1976年1月、日本共産党の不破哲三書記局長(当時)は、『原子力は本来、危険性をはらみ、未完成の技術だ』と指摘。そのため『原子力開発に取り組むには、今日の技術が許す限りの安全体制をとらねば非常に危険なことになる』という根本問題を指摘していました。当時、政府は4900万キロワット、約50基分の原発大量増設計画を開始。日本共産党は安全最優先の立場から、無謀な原発大量増設計画に反対してきました」。以下、不破が如何に原発政策に反対してきたかを縷々述べている。

 次のようにも述べている。「福島原発が爆発事故を起こし、放射能を振りまいている問題で、この危険性を日本共産党国会議員団は、繰り返ししてきました。詳しくは、共産党のホームページから吉井秀勝衆議院議員のページに入れば、国会での質疑を見ることが出来ます」。かく、いかにも昔からの原発反対の音頭取りのような顔をしている。拉致事件の際の論理論法と同じである。風向き次第でケロッとして口を上手に廻し新しい状況に合わせている。

 日共式原発論を仔細に見れば、そういう過去の痕跡をとどめていることが分かる。日共の原発反対論の比重は危険性反対論であり、原発そのものの反対論ではない。要するに「大丈夫な原発推進論」と云うべきしろものである。これが日共の原発論の本質である。ところがその後、代替エネルギー論が登場してきた。こうなると次のように云い始める。「再生可能エネルギーの開発・利用を広げ、原発依存のエネルギー政策を転換します(2010年7月、参議院選挙政策より)」。適当な論文か過去の質疑を持ち出して、代替エネルギー論の昔からの旗振り役の顔をしている。かなり作法が悪いということになるのではなかろうか。

 本稿の締めくくりとして、あるべき原発論を確認しておこう。我々は、原発政策そのものに反対である。なぜなら、福島原発事故が次々と明らかにしているように、稼働中の原発が天災、事故等に遭うことによる大気中への放射能漏れ危険性、平素からの放射能汚染冷却水の外部排水による海洋汚染の危険性、何より最終核廃棄物の原始的な地下格納庫処理方式の余りにも杜撰な危険性等々の問題があるからである。

 これらの問題に未解決なままの原発稼働は狂気の沙汰と云わざるを得ない。これらによる水脈汚染、土壌汚染等の被害は長期化且つ広域化するものであり、将来に取り返しのつかない負荷を抱えていることになる。「大丈夫な原発推進論」などは有り得ない。如何なる堅固な原発も軍事攻撃には耐えられない。これらを思えば端から手を染めぬのが賢明であり分別というものであろう。

 原発反対派の「広島長崎の原爆を経験している日本が、原発政策を推進するのはナンセンス」なる主張も良いが、それは情緒論である。我々は、そういう情緒論のみならず以上のような唯物論的な論拠によって警鐘乱打している。これが我々の原発論である。

 一刻も早い代替エネルギーへの転換こそが国策となるべきであり、その新技術を廻る競争こそが近未来の科学競争である。原発のように自然の摂理に反するのではなく、自然の摂理をうまく応用した科学に転ぜねばならない。ここに科学の質の歴史的転換がある。科学を云うならば、こういう科学競争に向かわねばならない。

 2011.4.22日再編集 れんだいこ拝

【大塩平七郎氏の「日本共産党の原発政策履歴一端」】
 さざなみ通信」の大塩平七郎氏の2011.7.22日付け投稿「日本共産党の原発政策履歴一端」が次のように証言している。

 2000年の自衛隊活用論批判以来,久々に投稿します。

 去る6月13日,志位和夫委員長が記者会見で発表した提言『原発からのすみやかな撤退,自然エネルギーの本格的導入を 国民的討論と合意をよびかけます』は,すでに皆さんお読みのことと思います。同提言は次のことばで結ばれています。

 「日本共産党は,一貫して原発の建設に反対し,「安全神話」を告発し,原発依存からの転換を求め続けてきた政党として,また,原発建設反対や安全を求める幅広い住民との共同を全国各地ですすめてきた政党として,原発からの撤退を決断し,自然エネルギーの本格的導入を求める国民的な運動の先頭にたって奮闘する決意です。」

 その言や良し。脱原発(共産党は「原発ゼロ」ということばを使いたいようですが)に向かって,過去の行きがかりを捨て,それぞれ力を尽くすことに異存はまったくありません。しかしながら,過去の「履歴詐称」は,市民の信頼を得るうえで支障をきたすことになりはしないか,蔭ながら危惧するものです。すでに,各種メーリングリストやブログなどで,過去の実績が明瞭になっていますので,食傷気味でしょうが,《高速増殖炉の研究・開発》まで推奨していた過去をご存じの方は少ないと思い,以下,その一部を引用します。

 『無責任で対米従属的な原子力政策の根本的な転換を 安全優先,国民本位の原子力開発をめざす日本共産党の提言』(1975年3月27日,福井市で不破哲三書記局長(当時)が発表)(日本共産党の六つの提言の第4項目)
 「自主的,民主的,総合的な研究開発体制の確立 原子力の開発・研究については,もっぱらアメリカからの輸入技術にたよる軽水型発電炉偏重,対米依存の開発でなく,将来の展望にたった自主的で総合的な研究・開発を基本とし,資源の有効利用をはかる多様な炉型の積極的開発をはじめ,高速増殖炉や熱核融合炉の研究・開発,そのための基礎的研究などを重視する。この研究・開発を民主的系統的にすすめるためには,日本原子力研究所の民主的な改編をふくめ,日本学術会議など関係学者,専門家の意見を十分反映させる体制をつくることが重要である」(3月28日付け赤旗)。

 こうした実績を見ると,今や時の人・吉井英勝衆議院議員の次の発言も,どこか気になります。

 「米国が兵器に利用し,出発点がゆがめられてしまいましたが,核分裂や核融合は科学の研究として続けなければなりません」(7月9日,大阪府委員会主催「原発から撤退,自然エネルギーへの大転換を」の集いにて,紹介された事前質問のうち,核の平和利用について問われての回答)

 この惨状のなかで,一体だれが,だれに,研究を続けさせるというのでしょうか。


【原発を廻る不破講話】
 2011.5.10日、不破哲三・社会科学研究所所長が、党中央委員会主催の第4回「古典教室」で次のように原発政策史を論じている。これにコメントしておく。転載元サイトは「『科学の目』で原発災害を考える」。

 今日は「古典教室」の第4回。第3回が2月1日で、それから3カ月と9日たちました。この間に、東日本大震災といっせい地方選挙という二つの大問題がありました。最初に、震災の犠牲者への追悼の気持ちとともに、二つの大問題に直面してがんばってこられた全国のみなさんに、感謝と激励のあいさつを送りたいと思います。(拍手 今日の予定は『経済学批判・序言』ですが、いきなり「あのマルクスは…」という感じにはならないので、この3カ月間を経ての「古典教室」らしい受け止め方として、補講的なテーマを予定しました。それは、第1課、『賃金、価格および利潤』で学んだことに照らして、今回の大震災、とくに福島の原発災害をどう考えるか、この問題を取り上げたいと思います。

 第1課で学習したのは、資本主義とはどんな社会か、そこで労働者はどういう地位にあるのか、という問題でした。その学習のかなめの一つは、「利潤第一主義」が資本主義社会の本質的な特徴だということ、何をやる時にも自分の会社のもうけがどうなるかが第一の優先課題になる、それが資本主義だということでした。2番目は、労働者や国民がその社会で自分たちの生活と権利を守るうえで、「社会的なバリケード」をたたかいとることが必要だということです。マルクスはそのことを150年も前の段階からいっていたのですが、このバリケードがいま世界各国で大いに広がり、それが強くなっている国も出てきています。ヨーロッパでは、国民の生活と権利を守るルールが広く勝ち取られている国が多く、「ルールある経済社会」と呼ばれます。そういう状況と比べると、日本は、このルール、生活と権利を守るバリケードが極端に弱い国です。このことを、日本共産党の綱領では「ルールなき資本主義」と呼んでいます。この二つのことが、第1課で学んだ大事な点でした。

 今度の原発災害では、この二つの大問題、資本主義社会の根本である利潤第一主義がどんなに有害なものかということと、原発災害に立ち向かううえでも、わが日本がいかに「ルールのない国」か、この二つのことが非常に鮮明に、しかも国民の命にかかわる形で現れました。そういう意味で、第1課の時事的な補講として、原発災害の問題を話したいと思うのです。

 原子力の利用をめぐる二つの不幸

 まず最初に、原子力発電で利用している核エネルギーとは何か。その“そもそも”論になりますが、人類が地球上に生まれて、火というものを発見したのは、大事件でした。それまで火というものを、人間は山火事で追われたりする時しか経験しなかったけれども、それを自分でつくって使いこなし、生活を豊かにする道具に変えた。これは、100万年以上も前のことですが、人類史上の大事件でした。ところが、1930年代に人間は核エネルギーを発見しました。これは、“第二の火の発見”と呼ばれたほどの人類史的な大事件でした。ものすごい巨大なエネルギーの発見でしたから。

 ただ、このエネルギーは巨大であると同時に、強烈な放射能がつきものでした。これに不用意に手をつけたら、強烈な放射能をどうするか、その手段・方法をきちんと見つけ出さない限り、このエネルギーが放射能を野放しにしたまま解き放たれたら巨大な災害が起きます。だからこのエネルギーを使いこなす、そして人間が人間の目的のために制御するには、たいへんな研究が必要でした。そのことは、最初からわかっていたのです。

 最初の実用化が核兵器だった

 ところが、不幸なことが二つありました。一つは第2次世界大戦です。ヒトラー・ドイツが、最初に核エネルギーを使って爆弾ができないかという研究を始めたのです。そのことを知ったまじめな科学者たち、ドイツからアメリカに亡命したアインシュタインもその一人でしたが、ドイツが先に開発したらたいへんなことになる、それに対抗するためにアメリカが先に開発する必要があると、ルーズベルト米大統領に進言し、アメリカが多くの科学者を結集して原子爆弾開発の研究を始めたのです。その途中で、ことの危険性に気づいて、開発の続行に反対した科学者も少なからずいました(アインシュタインも後で自己批判しました)。しかし、ことは進みました。

 一番危ないと思っていたドイツが、原爆の製造に成功しないまま敗北して、1945年5月、降伏しました。原爆製造の最初の動機は消滅したのです。ところが、アメリカは研究を続けて、1945年7月、最初の原爆実験に成功しました。そうなると、ヒトラー・ドイツはなくなったけれども、せっかくつくった核兵器です。世界にその威力を示さないまま、戦争が終わったのでは、戦後世界でアメリカの威力を発揮できない。そういう政治的な打算から、もう日本の敗北必至という情勢のなかで、その日本に原爆を落とすことを計画しました。つくった原爆は2種類ありましたから、まずウラン型を広島に落とし(8月6日)、次にプルトニウム型を長崎に落としたのです(8月9日)。

 アメリカは、広島・長崎への原爆投下は、戦争を終結させるために必要だったといっていますが、実は何よりも戦後政治のために必要なことだったのでした。その犠牲になったのが広島・長崎だということは、日本の国民として肝に銘じておく必要があります。ここに、人類の核エネルギーの利用の第一の不幸がありました。

 動力炉も戦争目的で開発された

 第二の不幸は何か。人間が核爆発という形で原子力エネルギーを使いだした。しかし、爆発という方法では、経済に利用できませんから、もっと温和なやり方で核を燃やして、経済的なエネルギーとして使えるようにしたいというのは、当然の願望になります。これもたいへんな危険をともなう問題で、本来だったら、災害の危険が絶対にない、放射能の心配などする必要がない、そこまで研究を尽くして、初めて実用化するというのが、当たり前の道筋のはずです。ところが、この開発もまた、戦争と結びついて始まってしまったのでした。

 アメリカの海軍が、潜水艦の動力にこれを使おうということで、開発の先頭に立ったのです。原子炉を潜水艦に積んでこれを動力にすることができたら、いままでの潜水艦よりも、ものすごく長い航続距離をもった潜水艦になって、地球上の海を走り回ることができる。その原子炉(動力炉)を開発したのです。超スピードの開発ぶりでした。原爆の開発成功が1945年でした。それから9年たった54年には、潜水艦用動力炉を積んだ原子力潜水艦の第1号・ノーチラス号が進水して、早くも活動を始めたのです。もともと戦争のための開発ですから、安全などは二の次、三の次でした。こうして軍用に開発した原子炉を、すぐ民間に転用し始めたのです。そのために、安全性を十分に考えないままあわててつくった原子炉の弱点が、いまの原子力発電には、そのまま残っているのです。

 原子力発電は「未完成」で危険な技術

 開発の初期には、いろいろなタイプの原子炉が研究されたようですが、現在では、アメリカ海軍が開発した「軽水炉」という型の原発が、日本でも、全部アメリカから入り込んで使われています。私たちは「未完成の技術」だと呼んでいるのですが、ここには、大きな弱点が二つあります。何が「未完成」なのか。

 原子炉の構造そのものが「不安定」

 一つは、原子炉の問題です。いまテレビで原発のニュースがあると必ず図解の解説が出てきますが、要するに、原子炉のなかでウランの核燃料を燃やすわけです。運転を止める時には、制御棒を挿し込んでウランの核反応を止めるのですが、その状態でも、ウランから生まれた核分裂の生成物は膨大な熱を出し続けます。だからそれを絶えず水で冷やしておく機能が必要なのです。ところが、普段、条件が整っている時なら、そういうコントロールができるけれども、いざという時、水の供給が止まってしまったら、膨大な熱が出っぱなしになって暴走が始まるのです。そうなると核燃料の熱がたまり、どんどん高温になって、核燃料が壊れ始める。30分もたったら融けだしてばらばらになり、2時間で原子炉がめちゃくちゃになるといわれています。水を止まらないようにしたらいいだろうと思うかもしれないけれども、あらゆる場合を考えて水が止まらないようにするということができないのですね。アメリカのスリーマイル島の原発事故も、操作の誤りから水が止まって起こったことでした。今度の福島の原発も同じように地震と津波の影響で電源が全部失われて水が止まって起こりました。

 やはりこれは、軽水炉がもっている構造上の本質的な弱点、これは難しい言葉でいうと「熱水力学的不安定性」ともいいますが、その表れなのです。軽水炉による原子力エネルギーの利用は、いざという時の安定性がない、本来なら安全な使用には適さない、そういう段階だということが、スリーマイルおよび福島と、2度の大災害で実証されたということです。

 さらに、原子炉そのものの危険性という点で、いま深く考える必要があるのは、今回の福島の原発災害が、軽水炉という特定の型にとどまらない、より深刻な問題を提起していることです。いま開発されているどんな型の原子炉も、核エネルギーを取り出す過程で、莫大な“死の灰”を生み出します。どんな事態が起こっても、この大量の“死の灰”を原子炉の内部に絶対かつ完全に閉じこめるという技術を、人間はまだ手に入れていません。軽水炉でいったん暴走が起こったら、それが社会を脅かす非常事態にすぐ結びつくというのも、根底には、この問題があります。福島原発は、五重の防護壁なるものを看板にしていましたが、現実にはたいへんもろいものでした。原子炉の技術的な「未完成」を問題にする場合、軽水炉の固有の弱点に加え、ここにさらに大きな問題があることを、いま直視する必要があると思います。

 使った核燃料の後始末ができない

 いまの原発システムには、技術的にまったく「未完成」で危険だという点で、もう一つの大きな弱点があります。それは、自分が燃やした燃料の後始末ができないことです。昔はこの言葉は世間にあまり広くは知られていませんでしたが、福島を経験したいまでは、「使用済み核燃料」という言葉をもう毎日のように聞かされているでしょう。

 これは何かというと、原発を運転したら必ず大量に出てくる“死の灰”の塊なのです。原発では、ウランでつくった燃料を3〜4年燃やすと、それ以上は燃やさないで取り出します。しかし、いったん燃やした後の核燃料というのは、大量の放射能を絶えず出し続けるたいへん危険な存在なのです。その放射能を広島型原爆にたとえてみましょう。原爆が落ちた時に“死の灰”が周辺に広く降り、これを浴びたらたいへんだということになりました。100万キロワットの原子力発電所だと、毎日3キログラムのウランを消費して、3キログラムの“死の灰”を残します。それが使用済み核燃料にたまるのです。この原子力発電所で100万キロワットのものが1台動いていたら、毎日広島型原爆の3発分の“死の灰”がたまっている。1年間動いたら広島型原爆1000発分をこす“死の灰”がたまります。ところが、“死の灰”のこういう塊である使用済み核燃料を、始末するシステムをいまだに人間は開発できないでいるのです。

 政府は、70年代から、フランスで開発された再処理工場をつくって、それで処理するからと説明していました。再処理工場でどう処理するかというと、使用済み核燃料のなかから使えるプルトニウムと残りカスとを分けるのです。できたプルトニウムはたいへん物騒な物質で、長崎型原爆はこれからつくられました。政府は、原発に再利用すると宣伝していますが、この危険性は日本でも世界でも大問題になっています。

 もっと危険なのは、実は残りカスの方にあるのです。残りカスは、もっと強い高レベルの放射能をもつようになっていて、その放射能のなかには、半分に減るまでに何千年、何万年もかかるものもあります。ですから、高レベル放射能の大量の残りカスをどこで始末するか、というのは、だれもまだ答えをもっていないのです。

 今朝、新聞を見ましたら、アメリカと日本が、モンゴルに核廃棄物の処分場をつくる計画を立てて、モンゴル政府と極秘の交渉をしているという報道が大きく出ていました(「毎日」5月9日付)。地下数百メートルの穴を掘るんだといいますから、使用済み核燃料や高レベルの廃棄物などをそこで冷却管理するといったことを考えているのでしょうが、相手は何万年も放射能を出し続ける危険な代物です。自分の国で始末できないからといって、そんなものを外国の地下に埋めこんで、1万年、2万年の先までだれがその管理に責任を負うというのでしょうか。

 結局、使用済み核燃料の行く先はありませんから、何をやっているかというと、六ヶ所村(青森県)の施設に送る以外は、その原発に保存しておくしかない。だから、それぞれの発電所にプールをつくってそこに放り込んでおきます。いま日本に54基の原発がありますが、54基の原発はみな、建屋と敷地にそういうプールをもっています。福島の実例ではっきりしたように、いざという時には、原発だけでなく、使用済み核燃料のプールの一つひとつが核事故の発火点になるのです。自分が生み出す核廃棄物の後始末ができないようなエネルギーの利用の仕方が、本当に完成した技術といえるのかどうか。答えはすでに明白だと思います。

 この二つの点で、人間が使いだした原子力エネルギーという物騒なもののこれまでの使い方は、すべて、戦争のために入り込んでしまった危険性をもっています。ここに根本問題があるのです。だからいま、世界で原発を利用している国でも、たいていの国は、原発の物騒さをのみこんで、その上でこの危険な相手をどうやって管理するか、ここに力を入れています。ところが、原発を利用している主な国ぐにのなかで、その管理の力が、世界で一番足りないのが日本なのです。そこに、もう一つの大問題があるということを、まずご承知願いたいと思います。

 日本共産党は最初の段階から安全性抜きの原発建設に反対してきた

 日本で、原子力発電が問題になってきたのは1950年代の中ごろからで、1957年には東海村で研究用の原子炉が初稼働し、1960年代に商業用の発電が始まるのですが、日本共産党は、安全性の保障のない「未完成の技術」のままで原子力発電の道に踏み出すことには、最初からきっぱり反対してきました。私たちが、党の綱領を決めたのは1961年7月の第8回党大会でしたが、その大会直前の中央委員会総会で、この問題を討議し、「原子力問題にかんする決議」を採択したのです。その決議は、―、「わが国のエネルギー経済、技術発展の現状においては、危険をともなう原子力発電所をいまただちに設置しなければならない条件は存在しない」―、原発の建設は、「原子力研究の基礎、応用全体の一層の発展、安全性と危険補償にたいする民主的な法的技術的措置の完了をまってから考慮されるべきである」として、日本最初の商業用発電所とされた東海村の原子力発電所の建設工事の中止を要求したものでした。

 それ以来、この問題でのわが党の立場は一貫しているのです。そして、ただ「反対」というだけでなく、国会では、大事な局面ごとに、この問題を取り上げて、原発のもつ危険性とそれを管理・監督する政府の態度の無責任さを、具体的に取り上げてきました。

 これまでの国会質問から

 今度の『前衛』6月号には、私が1976年に初めてこの問題を取り上げた時から、最近の吉井英勝衆院議員の質問まで、原子力問題での共産党の国会討論の記録をまとめて掲載しました。興味のある方は、それを読んでほしいのですが、論戦をした私自身の実感をいいますと、質問に答える政府側が、原子力の問題をほとんど知らないですませていることにあきれ続けた、ということでしょうか。

 形だけの審査体制。使用済み核燃料の危険性(1976年)

 最初の1976年1月の質問は、三木武夫内閣の時でした。当時は原発は6カ所に9基、出力の合計は400万キロワットほどでした。そこへ政府が、9年後には4900万キロワットにまで増やすという原発の「高度成長」計画を立てたのです。私は、二つの角度から質問しました。一つは、あなた方はこんな増設計画を進めているけれども、その原子力発電所の一つひとつが安全かどうかの審査をきちんとやっていると責任もっていえるか、という問題です。政府側の答弁は「十分やっています」ですよ。

 それで、私は、審査の体制とそのやり方を、その当時のアメリカの状況と比べてみたのです。アメリカでは原発の審査や管理にあたる機関に、1900人の技術スタッフがいる。電力会社ではなく、監督する政府の側にそれだけの技術の専門家がいて、原発の設計からどこへ建てるかの立地や運転の状況まで、全部実地に入って点検しています。ところが、日本はどうか。日本に専門の審査官がいるのかと聞くと、「います」と答えるのですが、実態は全員「非常勤」。普段は大学にいる先生方に、審査の時だけ頼む、いわば全部がアルバイト仕事です。だから、審査といっても、設計図を見るだけです。それですませている。そんなことでいいのか、ということをまず聞きました。答えは「今後強化をはかりたい」というだけです。

 2番目に聞いたのは、使用済み核燃料の問題です。ちょうどそのころ、フランスから技術を仕込んで、日本で再処理工場をつくり始めたところでした。私は、あなた方はいったいどんな危ないものを扱っているか、そのことがわかっているのか、というところから始めました。原子力発電所を動かしている時には核燃料はともかく全部原子炉のなかにあって、外には出ない建前になっている。ところが使用済み核燃料の処理ということになると、核燃料が外に出てくるわけです。使用済みの燃料は、熱を出し続けます。キャスクという入れ物に入れますが、熱を出し続けますから、エアコンで冷風を送りながら運ぶ。そういう形で使用済みの核燃料が、原子力発電所から再処理工場まで道路を走りだすじゃないか、再処理をフランスなど外国に頼む時には、船に乗せて海上を遠くフランスまで運ぶ、海難事故にあう危険がある。例えば、海難事故が起きた時、使用済み核燃料を入れたキャスクは、水深何メートルまで大丈夫なのか。こういうことを聞いても答えられないんですね。後で聞いた話ですが、担当者たちが質問の後、あわてて、キャスクの強度を試す大型の実験装置を買い込んで、強度実験を始めたとのことでした。

 ともかく何をやるにも事故など想定もしない、それぐらい無防備でことにあたるのです。

 実際、今度、福島で災害が起きてみると、使用済み核燃料が大問題になったでしょう。3基の原発が危ないのと同時に、4基の建屋にある核燃料のプールが全部危ない。しかも、使用済みの核燃料だということで、防備が一番薄いのです。この質問をした時に、私は、政府側が、使用済みの核燃料のことなど、ほとんど何も知らないですませていることに驚きました。それから、35年たっても、原発の後始末のこの面では、何の手も打たれていません。だから、原発は、「トイレなきマンション」といわれ続けてきたのです。

 スリーマイル事故の教訓もそっちのけ(1980年)

 2回目の質問は、1980年2月、大平正芳首相の時でした。前の年の79年3月にアメリカのスリーマイルで大事故が起きた。いまの福島に比べれば危険度が2級も軽い事故でしたが、世界で大問題になりました。アメリカは当時、カーターという大統領でしたが、彼は技術畑の出身ということもあって、そこからかなり本格的な教訓を引き出しました。最大の教訓は、“事故の根源は「安全神話」にある、原子力発電所は十分安全だという考えがいつの間にか根をおろしてしまった、これを一掃しなければならない”、ということでした。そして日本に比べれば桁違いの水準にあった安全規制の体制をさらに強化して、そこに3000人の技術スタッフを集中したのです。ところが、日本では、私の前の質問から4年たっていましたが、その時なお、安全審査の専門委員はアルバイトのままで、常勤の専門家は一人もいませんでした。

 その時にもう一つ取り上げたのは、アメリカは、スリーマイルの経験から、事故が起きた時の地域住民の安全をどう確保するかという地域的な備えをいよいよ重視しだしたのです。原発で事故が起きたら16キロ以内がまず第一の危険地帯になる、さらに80キロ以内ではこういう対策が必要だと、そのモデルまで示して、原発周辺の事故対策に力を入れていました。日本では、どうかと思って、私は質問前に、当時日本で原発が一番集中していた福井県を訪ねて、原発防災が地域でどうなっているかを調査したのです。

 行ってみて驚いたのは、県でも市でも対策が何もないんですね。普通だったら東京でも大地震で災害になったら、ここの地域はどこが避難所とか決めるでしょ。そういうものもいっさい用意がない。どうしてかと聞くと、災害といっても、何がどんなふうに起こるか、その時にはどんな対策が必要か、国からも電力会社(関西電力)からも何も情報がない。だから対策の立てようがない、というのです。政府は何かいっているだろうとさらに聞くと、「今度原発災害にたいする『緊急助言組織』をつくった。いざという時にはその緊急助言組織の人たちが指導にあたります」と、そこに期待していました。

 私は、東京に帰ってからその名簿を調べて、緊急助言組織に入っている学者さんに会いました。聞くと、顔合わせの会議の招集が1度あっただけで、後は何の連絡もない、ということでした。まったく名前と形だけの「組織」だということがすぐわかりました。ところが、この組織について、国会で質問すると、政府は「すでに人選も終わって、いざという時には現地に行く体制をとっている」と平気でいいます。

 地域対策がこんなひどい状態になるのは理由があるのです。電力会社がある土地に狙いをつけて、そこに原発をもちこもうという時、原発は「安全」だという大宣伝をする。つまり、「安全神話」を振りまくわけです。だから、事故があったらこうします、なんてことは絶対いわないのです。事故も可能性があるといった話をしたら、そんな原発はいやだってことになりますから。だから電力会社からはいっさいそういうことをいわない。ここでも、「安全神話」のあるところ、災害対策なしということになるのです。

 こういうやり方が、いま、福島で住民を本当にひどい状態に落とし込んでいるのです。何の用意もない所に、いきなり原発災害が降りかかってきた、予想もしない避難の命令や勧告が夜中にいきなり出される、着の身着のままでとびださざるを得ない。こういうことが起きるのも、電力会社が「安全神話」に浸り込んで、自分のところで災害対策の準備をしなかったばかりか、住民にも「安全神話」を押しつけて、地域の災害対策をまったく空っぽにしてきた結果なんです。

 東海大地震の予想震源地でなぜ原発増設を認めるのか(1981年)

 3回目はその次の年、81年2月に質問しました。大平首相が亡くなって鈴木善幸首相に代わった時でした。この時には、地震の問題を取り上げたのです。実はその質問の3年前、政府が、東海地震という巨大地震の危険がある、それに備えて、地震予知のシステムをつくるという法律(大規模地震対策特別措置法)をつくったのです。その後、地震予知のための観測システムは、東海地震に関しては、ずいぶん綿密につくりました。ところが、地震というのは、予知されても、対応できることは限られているのです。一番大事なのは地震がきても大丈夫なような街づくりをすること、危ないモノはその地域に置かないことです。

 ところが、電力会社(中部電力)は、静岡県の御前崎に浜岡原発をつくった。ここが地震の危険地帯だということは早くからわかっていたのですが、そのことを無視して1号機、2号機は運転を開始してしまった。しかし、東海地震が必至ということで、予想される震源域を地図の上に書いてみると、浜岡原発を建てたのは、まさにもっとも危険な震源域、東海地震が起きる時にはここでの大きな地震断層が震源になるだろうと予想される地域のどまん中だったのです。ここに最大の危険があるとして、国が特別の地震立法までしたのですから、原発など、この地域から撤退させるのが当然の道理なのですが、こともあろうに電力会社は平気で3号機の計画を立て、当時の通産省も平気でそれを認可してしまったのです。後は科学技術庁の承認を待つだけという段階になっていました。

 そこで私は地震と原発の問題を取り上げ、国が法律までつくって対応に取り組んでいる、そのもっとも危険な地震地帯に原発の増設をはかることは許されない、といって追及したのです。「地震への対応はあらゆる角度から十分に考慮してあります」というのが通産相の答弁でした。しかし、安全審査の書類を取り寄せて読んでみると、地震対策は「震度5」で大丈夫という審査ですませていました。震度5の地震など、今度の東日本大震災ではその程度のものが余震の段階でざらにあるでしょう。東海地震なら、少なくとも「震度7」が予想されるし、地盤の液状化の危険も広く問題になっています。そのことを指摘して追及すると、文章はともかく、実際の審査は「震度5」にとどまらず、「予想される最大級の地震動」をすべて調査したうえで結論を出した、というまったく無根拠のいいわけに逃げ込みました。私は、最後に科学技術庁長官に「あなたのところぐらいはしっかりやれ」と注文をつけたのですが、結果は、私の質問の後まもなく科学技術庁もOKを出し、後は3号機から4号機、5号機と無神経な増設を繰り返して、今日にいたっているわけです。

 問題は浜岡だけではありません。日本は世界有数の地震国ですから、日本の地震学界では、東海地震に限らず、大きな地震の起こりそうな危険地帯を地域指定して、そこでは特別の観測体制を敷いていました。これを「特定観測地域」と「観測強化地域」といっていたのですが、調べてみると、日本の原発の多くがこの地震危険地帯にあったのです。

 当時の状況を北から順にあげると、宮城県の女川で1号機が建設中、福島が6基で4基建設中、浜岡が2基、新潟県の柏崎で1号機が建設中、島根が1基、愛媛県の伊方が1基で次の1基を建設中、といった具合でした。稼働中の原発は21基でしたから、半分は地震危険地帯ととくに指定されたところにあったのです。日本の電力会社は、なぜか地震のあるところにひかれるクセがあるんですね。そういう危険地帯に平気で原発をつくってゆく。政府はそれを平気で認めてゆく。このことも、電力会社と日本の原子力行政がいかに「安全神話」に浸り込んでいるかの象徴といってよいでしょう。現在は、地震を起こす活断層の研究が進んで、地震の危険地域は当時に比べてさらに格段と広がっています。

 国際条約違反を承知で「推進機関」に規制を任せる(1999年)

 次は1999年、小渕恵三内閣の時ですが、この時は、日本の原発審査体制が国際条約に違反しているという問題を提起しました。世界では、スリーマイルの原発事故(79年)に続いて、86年にはソ連でより深刻なチェルノブイリ原発の大事故が起こり、原発の審査や規制の問題が国際政治の上でも大きな問題になってきました。そして、88年には「原子力発電所の基本安全原則」が決定され、94年には「原子力の安全に関する条約」が結ばれるところまできました。日本も、この条約に94年9月に調印し、翌95年4月に国会で承認しましたから、私たちが繰り返し追及してきた日本の原子力行政について、この条約に照らして根本的な改革をおこなうべき国際的義務を負ったわけなのですが、政府は、条約の加盟国になって以後、何年たってもそういうことはいっさいしなかったのです。

 そこで私は、99年11月、衆院本会議の代表質問でこの問題を取り上げ、ちょうどそのころ始まった首相と野党党首との「党首討論」で、続けて問題提起をしたのです。私が取り上げた中心は、条約の一番大事な次の点でした。この条約では、原子力発電を進める「推進機関」と、その安全を審査して施設を認可する法的権限をもつ「規制機関」とは分離しなければいけない、という厳重な規定があるのです。「規制」と「推進」を同じところでやってはだめだ、安全に責任を負う「規制機関」は、推進役の役所の一部であってはならず、完全に独立した機関にして、そこに権限を集中しなければいけない。こういうことがはっきりと条約化されているのです。

 ところが、みなさん、いま、政府が福島原発について政府としての発表をするのを見ているとおわかりだと思いますが、いつも福島原発の安全問題の発表をするのは、「原子力安全・保安院」の代表です。これが安全に責任を負う「規制機関」の人かと思うと、経済産業省のお役人です。経済産業省(かつての通産省)は、まぎれもない、原発推進の先頭に立っている原発の「推進機関」です。だから、「安全・保安院」と、名前だけは「安全」とつけていても、これは「推進機関」の一部局、これが安全に責任を負う「規制機関」だとしたら、明々白々な条約違反になります。

 政府は、いや「規制機関」は別だ、「原子力安全委員会」があって、経済産業省とは分離している、というかもしれません。たしかに「原子力安全委員会」はありますが、この委員会は、形は分離されていても、肝心の権限がここにないのです。条約では、「規制機関」とは、原子力施設の「立地、設計、建設、試運転、運転又は廃止措置を規制する」法的権限をもつ機関だときっちり定義されているのですが、そんな権限は何も与えられていない。ごく補助的な、政府の諮問機関程度の役割しかない。

 だいたい今度のような大原発災害が起きても、ごくたまに数字の資料を出したり、せいぜい政府に部分的な助言をしたなどの話しか聞こえてこないでしょう。しかも、この委員会は、頭のなかはまったく「独立」していないのです。現在、原子力安全委員会の委員長の班目(春樹)さんは、この任につく前だったと思いますが、浜岡原発の安全性をめぐる裁判があった時に、なんと電力会社側の証人として法廷に出て、浜岡原発は安全だ、あなた方(原告側)のようなことをいっていたら原発などつくれませんよと大見えを切った、そういう人がいま原子力安全委員会の委員長です。

 日本の原子力行政の実態は、このように、国際条約の規定をおおもとから踏みはずした体制なのです。こんなお粗末な体制のままで原発を大規模に推進している国は、世界でもなかなか見当たらないでしょう。だから、小渕首相にこの問題を質問したら、本会議の代表質問では、官僚が書いた文章を読み上げて答弁しましたが、党首討論でその続きをやろうとしたら、最初の第1問で「規制機関」と「推進機関」の区別がわからず立ち往生してしまうという始末でした。原発問題は、日本の首相の頭のなかで、その程度の位置しか占めていないのか、と驚かされたものでした。

 大災害でも司令塔を立てられない日本の体制

 こういう原子力行政の根本的な欠陥を世界にさらけ出したのが、今度の原発災害だったと思います。アメリカだったら、強大な権限をもった原子力規制委員会が、大統領の指揮のもとに、事故の対応に全部責任を負います。ほかの国はどうか。先日の日本経済新聞に、フランスの体制についての記事が出ていました。「事故後指揮委員会―。原発大国、フランスにある組織だ。放射能漏れ事故などが起これば電力公社に代わって対応に当たる。各省庁や軍を指揮下に置き、住民の避難から放射性廃棄物の処理まで一元的に担う。仏原子力安全委員会副委員長のラショム(51)は『事故は必ず起きるという考え方こそが危機管理』と話す」(5月2日付)。どこでも原発災害が起きたら、こういう司令部が災害対策の中心になって活動するのですし、その組織は「安全神話」などとはきっぱり手を切っているのです。 

 日本の現状は、それとはあまりにもかけ離れています。どこに指揮官がいるかわからないでしょう。菅直人首相が東電と合同で本部をつくったと発表しましたから、いよいよ首相が総指揮官になったのかと思ったら、その後も「私は復旧の計画を立てるように指示した」などというだけ。実態は何も変わりませんでした。実際の対策は、東電の原発の現場で、発電所の所長さんなどが担ってやっているようです。全力をあげている様子はわかりますが、事故から2カ月たっても、何が起こり現場がどうなっているかの全貌もいまだに見えてきません。

 専門家といっても何の専門家なのかが問題

 よく現場を知っている専門家は、東京電力にしかいないから、といわれますが、私はこういう事態を見て、話はまったく違うのですが、思い出すことがあるのです。ベトナム戦争の時、アメリカが最後の段階で、ベトナムを封鎖するといって、北ベトナムの全港湾にぎっしりと機雷を敷設したのです。73年1月にパリ協定で戦争が終わった時、その機雷の除去が問題になりました。アメリカがそれを引き受けて、機雷の専門家部隊を派遣したのです。機雷の除去というのはたいへんだそうですね。同じ形のものでも構造にはいろんな種類があって、軍艦に1回接触したら爆発するものもあれば、接触7回目で初めて爆発するものもある。その一つひとつを見分けて対応しないといけないのです。その作業にあたった専門家部隊が犠牲者を出したあげく、ついにお手上げになった。彼らがその時、こういったそうです。「われわれは機雷を敷設する専門家だが、除去する技術はもっていない」

 私はその翌年74年にベトナムを訪問した時、その話を聞いたので、「ではだれが除去の仕事をやったのか」と聞いたら、「ベトナム自身がやったのだが、一番働いたのは丸木舟を使った若い女性たちだった」との回答でした。機雷は鉄の軍艦に触れると爆発するが、木の丸木舟なら触れても爆発しないんです。それで接近して危険な仕掛けを手作業ではずしてゆく。こうして、若い女性たちのおかげで、アメリカの敷設しかできない専門家部隊がやれなかったことをみごとにやり遂げた、という話でした。

 私がその話を思い出すというのは、いまの日本の電力会社やその関係団体には、原子力の専門家はたくさんいます。しかし、これは、原発の建設や運転の専門家であって、原発災害に対応する知識と技術をもった専門家はいない、ということです。「安全神話」が大前提になっている体制ですから、災害対策どころか、事故が起きたらどうなるかの想定もなければその事態に対応する備えもない。専門家もいない。そういう体制のまま、日本はひたすら原発への依存と大増強の道を走ってきた。まさに“「ルールなき資本主義」の原発版”じゃないでしょうか。

 福島の原発災害から何をくみ取るべきか

 利潤第一主義がここまで徹底していた

 利潤第一主義の怖さも、新聞報道を読むだけでもよくわかります。今度の事故対策でも、初動の遅れがいわれています。原発への水の供給が止まった時、海水を注入して原発を冷やすことが何よりの急務だったのに、なぜすぐやらなかったのかが問題になっています。それをやっておけば、ここまでひどくはならなかったはずだ、と。報道によると、理由は、電力会社が迷ったのだというのですね。海水を入れるとその原発が使いものにならなくなる。それで対応が遅れたというのですが、あの事故を起こしてまだその原発を使い続けるつもりでいる。これも利潤第一主義ですね。

 また、日本では、原発を同じ場所に何基も集中して置くのが当たり前になっています。なぜこんな危ないことをやるのかというと、新しい土地を見つけてそこに原発を置くためには、カネも時間もかかるのです。だから一度土地を手に入れたら、いざという時の安全の問題など考えないで、建てられるだけ建てる。理由は簡単です。それが安上がりだからです。とくに日本は地震国です。集中立地をしたら、地震が起きた時の災害はたいへんなことになる。そんなことは当然わかることですが、そんなことはあえて想定からはずして、地震危険地帯でも、平気で原発を次から次へとつくってゆく。それが安上がりだというだけでつくる。これもひどい話です。

 さらにこんなこともあります。日本の原発は、かなり老朽化しているのです。いま現役の原発が54基ありますが、そのうち運転開始から30年以上のものが20基くらいあります。原発の寿命には、国際的にもまだ定説はないのですが、長く使えば材料に放射線による劣化が起きることは間違いありません。ただ、一つはっきりしているのは、税法上の減価償却は耐用年数16年で計算されていることです。つまり、16年たったら税法上の寿命が終わる。だから、電力会社から見ると、これからがもうけどころだということになるわけですね。老朽化の段階に入った原発でも、使えるだけ使おうということで、いつまでも使う。今度災害を起こした福島第1原発は6基全部が70年代に運転を開始したもので、税法上の耐用期間16年をとっくに卒業しているのですが、それでも、まだまだ使えると思って、緊急に必要だった海水の注入をためらう、利潤第一主義はそこまで徹底しているのです。

 原発版「ルールなき資本主義」と歴代日本政府の責任

 そういう利潤第一主義が支配している電力業界に、国民の生命と安全をまるごと任せてきた日本政府の側も、世界一ひどい原発版「ルールなき資本主義」の実態に重大な責任があります。この事態をそのままにしていいのか、それがいま問われているのです。

 いま自民党は、菅内閣の責任をうんと追及します。(菅内閣は)ほんとにだらしないです。しかし、こういう事態をつくり出してきたのはだれか。私は、先ほど自分の国会質問を紹介しましたが、相手は三木内閣、大平内閣、鈴木内閣、そして小渕内閣です。全部、自民党内閣ですよ。2000年代に入って、吉井さんが、地震や津波の状況を具体的に取り上げて追及しました。最近の質問では福島原発の危険性をはっきり示して対策をとることを求めた。どの政府も警告を無視しましたが、それも、自民党の小泉純一郎内閣と安倍晋三内閣、最後の質問だけが民主党の鳩山由紀夫内閣でした。こういう無責任な原発増強政策を数十年にわたって取り続けて、現在の国民的大災害の根源をつくり出してきた自民党が、その歴史的責任に口をぬぐって、いまの対応のだらしなさを追及する。民主党政権の対応のだらしなさは、本当に政権党としては考えられないようなものですが、2年前まで政権を担ってきた自民党が、現瞬間の対応の問題点だけの追及でことをすまそうというのは、あまりにも無責任な態度だと私は思います。

 二つの問題―原発からの撤退の戦略的決断と安全優先の原子力管理体制と

 私たちは、現瞬間で必要だと思うことは、民主党政権にどんどん要求するし、そのだらしなさや無責任さは、遠慮なく指摘し、震災被害者への救援とこの大災害からの復興、原発災害の収束、被災地の復興などの当面の大事業を成功させるために全力をあげます。同時に、日本の国民には、震災の復旧にかかわるこれらの問題とあわせて、いま考えなければならない大問題があることを指摘しなければなりません。それは、日本と世界を脅かす大災害を経験した日本国民として、原発の問題にどう対応し、エネルギー政策でどういう道を選ぶべきか、この問題にいまこそ正面から取り組み、道理と展望のある解決策をひきださなければならない、ということです。

 私は、二つのことが大事だと考えています。

 (一)戦略的な方針からいいますと、日本のエネルギーを原発に依存するという政策から撤退するという決断をおこなうことです。その実行には、当然一定の時間がかかりますが、必要なことは、いまその戦略的な決断をし、その方向に向かってこうやって進んでゆくという国家的な大方針を確立することです。

 (二)もう一つは、緊急の当面の課題です。「安全神話」の上に築かれた原発版の「ルールなき資本主義」からきっぱりと手を切り、原子力施設にたいする安全優先の審査と規制の体制を確立することです。いま、電力会社に直接は関与していない科学者、技術者にも、日本には原子力問題の研究者はたくさんいます。日本学術会議という公的な組織もあります。また原発の事業にいままでたずさわってきた人のなかにも、実際の経験のなかから「安全神話」ではだめだということを痛感して声をあげている方々もすでに少なからず現れています。そういう知恵と技術を結集して、本当に安全優先で原子力施設の管理ができる、世界で一番といえるような原子力安全体制を確立することです。

 この体制ができないと、原発からの撤退という大事業も成り立ちません。一つの原発をなくすということは、運転を止めただけですむことではありません。運転を止めた後、原子炉から使用済み核燃料を抜きだし、その始末もしなければなりません。残った原子炉は、まだ放射能がいっぱい出ます。それから放射能を除去する作業があります。それから解体の作業があります。さらには、解体した原子炉の廃棄物の処理、跡地をどうするかの対策などなど、膨大な問題があります。それにはおそらく少なくとも20年ぐらいの時間が要るでしょう。そして、そのすべての段階を、厳重な安全優先の管理と規制の体制のもとで進めることが必要になるのです。

 この二つの問題―戦略的には原発からの撤退を決断することと、体制的には、安全最優先の権限と責任をもった原子力の審査・規制の体制を緊急につくりあげること、私たちは、この二つに国民的な討論が迫られる大問題があると考えています。国政の上でも、これからこの問題は、討論の大きな主題になってゆくと思いますから、今日の話を、みなさん方がそういう問題を見てゆく参考にしてもらえば、ありがたいと思います。

 (「しんぶん赤旗」2011年5月14日付)


Re::れんだいこのカンテラ時評929 れんだいこ 2011/05/22
 【原発を廻る不破講話考】

 「2011.5.10日付け不破哲三・社会科学研究所所長の原発講話」にコメントしておく。(ttp://www.jcp.or.jp/seisaku/2011/20110510_fuwa_genpatsu.html)

 この不破講話に対し、毎日新聞の岩見隆夫が5.21日付け「近聞遠見」で「トイレなきマンション」と題して次のようにコメントしている。これにコメントつけておく。

 岩見は、冒頭で「不破哲三社会科学研究所長の<原発災害講義>は出色だった。日本の原発について歴史的、体系的に振り返り、なにしろわかりやすい」。締めで「原子力への理解を深めるためにも、不破講義の一読をおすすめしたい。分量は400字原稿用紙50枚ほど」と述べ、不破講話を推奨している。

 これはまだしも良いとして問題は次の 「菅内閣の対応は本当にだらしなく、政権党として考えられない。しかし、こういう事態をつくり出したのは、2年前まで政権を担ってきた自民党だ。国民的大災害の根源である自民党の歴史的責任に口をぬぐい、今の対応だけを追及して済まそうというのは、あまりにも無責任な態度だと私は思う」を何の注釈もなしに引用していることにある。

 これでは、日共が昔から原発反対組であったことになる。実際は、2011.4.22日付け「Re::れんだいこのカンテラ時評921」の「日共の原子力政策史考」で確認しているが、日共の原発政策論は、岩見が素描したような「元々からの反対論」では断じてない。

 ジャーナリストであれば不破の虚言癖を見抜き、今そう云っている不破が、「社会党と違って何でも反対ではない原発論」を唱え、裏方から推進していた史実を披歴するのが務めだろう。不破の新情勢に合わせた饒舌は病的なもので、こたびの講話にも如何なく発揮されている。それは拉致事件の例とも重なる。あの時も、拉致事件を問題にし続けてきたのは我が党だった論で顰蹙を買った。

 不破論法によれば、「いつも正しい」。なぜなら、その時々で相反する二枚舌を使っているので、つまり両刀使いなので、情勢がA論有利の場合にはA論を、B論有利の場合にはB論を持ち出す名人芸の持主である。それを思えば、褒めるばかりでは何も評論していないことになろう。

 もっとも、岩見自身が同じ癖を持つ。角栄を褒めれば株が上がる場合には角栄持ち上げ論を、貶せば受けが良い場合には角栄金権論を持ち出すと云う風に。この両者はムジナの同類であるからして同病相哀れむで自ずと通ずるのかも知れない。岩見は、不破を擁護することで間接的に自己弁護しているのかも知れない。

 興味深いことは、ここへ来て不破がはっきりと「日本のエネルギーを原発に依存するという政策から撤退するという決断をおこなうことです」と云っていることである。「社会科学研究所所長」としての見解であるので党のそれかどうかは不明であるが、日共が福島原発事故を奇禍として「脱原発」に舵を切ったことになる。結果オーライで云えば、これはこれで良いだろう。

 但し問題は残る。「必要なことは、いまその戦略的な決断をし、その方向に向かってこうやって進んでゆくという国家的な大方針を確立することです」と述べ、早急に転換するのではなく徐々に向かうべし論で規制している。又もや二枚舌癖を発揮していることになる。どこまで行っても煮え切らない不破らしい物言いである。

 もう一つ。政策を転換するのであれば、過去の「原子力の平和利用賛成基本姿勢論」の然るべき根拠を述べ、今や転換の合理性を論証し、自己批判しておくのが筋だろう。これをせず上手に口を廻しているところが不破らしい。思うに、我が社会の上層部はこういう手合いでないと生き残れず、逆に云えば、こういう手合い故に出世してきたということだろう。いつの世もこうなのか、今が特にそうなのかは分からない。

 2011.5.22日 れんだいこ拝

【木村愛二氏の「憎まれ口」の日共原発政策論】
 1970年代の各党の原発政策論を確認しておきたいと思いネット検索したが全くと云って良いほど出てこない。辛うじて入手した次の論考を掲載しておく。木村愛二氏の「憎まれ口」の連載のようである。
 「原子力汚染vs超々クリーン・マグマ発電(その8)原発反対運動に物申すと唇寒いか?」1999.10.11.mail再録。

 東海村の臨界事故以後、当初は「臨界事故vs超々クリーン高温岩体発電」、逐次改題して「原子力汚染vs超々クリーン・マグマ発電」の連続mailを送り、ホームページにも収めました。テーマとしては、原発代替エネルギーの提案です。今回は、趣を変えて、「臍曲りの憎まれ愚痴」として、ここらで本性を露わすと、実は、政党や、原発反対運動に、物申したい点が多々あったのです。

 いつぞやは、「東京に原発を!」の運動があり、急速に盛り上がってポシャリました。面白い発想には違いないのですが、私自身、似たような発想の運動をした際、先輩から、「これはオチョクリ」との批判を頂いたことがあります。極論すれば、「批判のための批判」であって、事態の根本的な解決策を持ってはいないのです。体制批判と言えば格好良いようですけれども、それでは、結局、「永遠の反主流運動」に止まり、安住し、甘えていることになるのです。

 根本的な解決策とは、他ならぬ代替エネルギーの確実な提案です。それも天気まかせ、潮まかせ、風まかせ、などの不確かな、コストの高い、しかも抽出エネルギー総量の可能性の低い提案では、補助的な意味しかありません。確実な提案なしに反対ばかりしていても、政治の主導権すら握れません。電力を必要とする有権者が、まともに相手にしてくれないのです。現在、有権者は、自分の生活圏への原発の進出を拒否し始めています。しかし、沖縄の米軍基地の場合のように、どこか他の場所でなら「背に腹は代えられない」とばかりに、黙って許してしまうのです。

 有権者のわがままを責めても仕方ありません。有権者を意識する点で、最も過敏なのは政党ですが、その政党は、原発問題で、どういう態度を示しているのでしょうか?

 私が問題にする政党は、政権党ではありません。ジジコウなんて汚らわしい連中など、論評に値しません。一応、論評するのは、議員数の多さでは、昔は社会党、共産党の順序でしたが、今は、名前も変わり、逆になって、共産党、社会民主党の順になります。

 共産党は、今度の事件以後にも、私が広報に直接電話で確かめましたが、原子力平和利用の方針を変えていません。私の分析では、共産党は、湯川秀樹の平和利用「幻想」を真似たまま、スリーマイルやチェルノブイリを横目で見ながらも、ズルズルと方針変更を回避しています。「危険のないように」といいます。それも幻想にすぎないのですが、今度の電話では、ウラン採掘現場での被曝をどう思うかと質問すると、返事ができませんでした。再考を促して電話を切りましたが、他の数多い事例から判断して、共産党の場合には、方針変更は簡単ではありません。過去の方針決定に関わった責任者の自己批判、ひいては降格に繋がる事態になるからだと、私は、確信しています。一般の「利権政党」との比較上、私は、共産党を「沽券政党」と呼んでいますが、沽券も結局は幹部の個人的地位確保のための利権なのです。しかし、同時に、電力を必要とする有権者に対して、確実な代替エネルギーを公約できない弱腰が、決定的な要素となっているのでしょう。

 社会民主党は原発容認に方針変更しました。この理由は簡単で、社会党支持労働組合の中心だった総評が解体し、特に組織的に社会党支持だった大組合が同盟と一緒の連合に加盟したからです。同盟の主力として連合に加わった電力労連は、御用組合の最たる部類ですから、当然、原発推進に決まっています。連合全体も「右へならえ」となります。労働組合を重要な支持基盤とする政党は、労働組合が右に転べば、一緒に右に転ぶのです。社会民主党も、結局は、有権者と、それ以前に必要な労組の政治献金の重さに、大判を結び付けられた達磨が転ぶ姿を、あられもなく示しているのです。

 今回の事故以後のmailも、そのほとんどは、やはり、体制批判一辺倒です。批判は大いにしなければなりません。しかし、この資本主義の体制が醜いことは、ずっと前から明らかになっているのです。原子力汚染問題だけでも、もうかれこれ半世紀、ここらで、いい加減に決定的な痛打を与え、敵に止めを刺す工夫をすべきではないのでしょうか。

 それには、まず、戦争で言えば決定的な武器、決定的な代替案を、真剣な議論で見いだすべきです。つぎには、いきなり体制に物申したって、まともに相手にされっこないのですから、まずは身近な庶民を味方にすることです。その際に重要なのは、そういう庶民を結果的には騙している共産党や社民党に理論的な痛打を与えることです。電力労連に対しても、悪質な御用幹部の正体を暴露して、一般組合員を味方に付ける戦いを挑むべきです。これは労働争議の基本ですから、ここでは詳しくは述べません。

 以上の内、特に「共産党や社民党に理論的な痛打を与える」点について、一応述べると、現在の共産党や社民党の原発に関する方針には、一般党員も不満なのです。真面目な一般党員の不満を押さえ込んで現状維持を図る幹部は、結果的には電力労連の御用幹部と同じことになるのですから、個々に態度表明を迫るべきでしょう。党の体質改善も迫るべきでしょう。

 以上の提案の原理を、分かりやすくするために、戦国時代の実例で説明すると、織田信長は、いきなり京都に迫ったのではありません。桶狭間の戦い以前に、まずは一家の主導権を握り、周囲を切り従え、着々と実力を蓄えたのです。この内の「周囲を切り従え」の中に、「共産党や社民党に理論的な痛打を与える」ことを位置付けるべきでしょう。これを成し遂げられなければ、反体制の粋がりだけでは、小さな運動すらも長持ちしないでしょう。

 物言えば唇寒し秋の空とか。枯れ葉も散り始めました。とりあえず以上。

 以上で:8終わり。:9に続く。






(私論.私見)