元駐スイス大使 信念訴え十数年 村田光平さん 脱原発 世界中に書簡 (東京新聞「こちら特報部」5月2日)
十数年前から原発の危険性に着目し、自然エネルギーへの転換を訴え続けてきた異色の元外務官僚がいる。駐スイス大使などを務めた村田光平さん(74)。各国要人らに原発の危険性についてのメッセージを送り続ける。そこにあるのは「脱原発こそが世界に平和をもたらす」との思いだ。(小倉貞俊)
「いかに日本、そして世界が危機的状況に直面しているかを伝えたい」。今年三月二十二日、参院予算委員会の公聴会。公述人として出席した村田さんは、穏やかな表情に強い意志をにじませながら、こう切り出した。
村田さんが特に訴えたのは、福島第一原発4号機の危険な状況だ。4号機建屋の上部にある使用済み核燃料プールには、千五百三十五体の燃料集合体が今でも残っている。建屋は、水素爆発によって激しく壊れもろくなっている。
現在は何とか冷却できているが、地震などで倒壊することにでもなれば、燃料棒は溶け出し、大量の放射性物質をまき散らす。さらに付近の1〜6号機の共用プールや使用済み核燃料プールにある約一万体の燃料集合体にも被害は拡大。そうなれば、放射性物質は広範囲に拡散し、「首都圏住民が避難を余儀なくされるだけにとどまらない。世界の究極の破局が始まる」と口調を強めた。
「『福島』を経て放射能汚染の加害国になってしまった日本は、民事、軍事を問わず核廃絶を世界に伝える歴史的責務を担っている。なおも脱原発に躊躇(ちゅうちょ)するのは倫理観、危機感の欠如だ」
参院予算委の公聴会に招かれたのは、4号機の危険性を伝えようと関係者に送った村田さんのメッセージが、旧知の国会議員の目にとまったのがきっかけだった。
外務省時代を含め、講演や著作の中で脱原発と自然エネルギーへの転換の必要性を繰り返し訴えてきた。だが、著作や講演に接してもらえる人数は限られる。そこで思い付いたのが、一枚の紙またはメールに伝えたいメッセージをまとめ、政治家や経済人、有識者らに送る“一枚書簡作戦”とも呼べる活動だ。
現在、4号機の危険性についてのメッセージはインターネットを通じ、世界の約百六十カ国で読まれるまでに広がっている。
現役時代の人脈を生かすなどし、各国の要人らにも送っている。一月にはマレーシアのマハティール元首相から「倫理観の高揚を目指す村田氏の運動を全面的に支持する。生活の質の向上と引き換えに、子どもたちの命を脅かすべきではない」との返信を受けた。国連の潘基文(バンキムン)事務総長には文書で「世界の非核化を目指す第一歩として、国連倫理サミットを開くべきだ」と提案。潘氏からは三月に「私も核軍縮に努めてきた。加盟国が望むなら、喜んで支持する」との手紙が届いた。「世界規模の意見交換で、議論を巻き起こしたい」と笑顔を見せる。
村田さんの活動の原点にあるのは、若き日に抱いた「国際平和の役に立ちたい」との思いだ。中学生のころ、カナダ大使館付の軍人と知り合って外国に興味を持ち、外交官を志望。大学在学中には平和をテーマにした論文コンテストで優勝したこともある。
エネルギー問題に傾倒する最初のきっかけになったのは、第四次中東戦争当時に務めた在エジプト一等書記官としての経験だ。「原油不足の情勢下、日本政府の“油ごい外交”の情けなさを痛感した。エネルギーの自給を模索しなければ、と」
五十一歳で初めて大使を拝命し、セネガルに赴任。アフリカの強烈な日差しから着想を得て、当時のディウフ大統領に太陽エネルギーの導入を提言したところ、大統領はその場で部下に検討を指示。その縁から日本政府との橋渡し役を担い、二十五億円の無償援助によるソーラープロジェクトの実現にこぎ着けた。
アフリカの奥地を回る機会もあり、「経済的には貧しくとも幸福に暮らす人々に感銘を受けた。『幸せとは心の持ちようがすべて』と、経済至上主義に疑問を持ち始めた」と振り返る。
九六年からのスイス大使時代には、一般の電気料金より割高な太陽エネルギーによる電気を国民の多くが購入していることに驚いた。原発依存からの脱却方針や環境税導入の検討など、スイスの先進的な環境政策も目の当たりにし「日本も見習うべきではないか」と自問するようになった。
講演やメッセージの送付など、村田さんが官僚の枠にとどまらない活動を始めたのもこのころだ。
石橋克彦神戸大名誉教授が提唱した、震災によって原発事故が誘発される「原発震災」への懸念を募らせた。「想像を絶するような破局は起こり得る。何としても食い止めねば」と警鐘を鳴らし続けた。
浜岡原発での原発震災を防ごうと、〇四年から同原発の即時停止を求める署名運動の呼び掛け人になった。
昨年三月十一日、恐れていたことが福島第一原発で現実になってしまったものの、秋には浜岡の署名が目標の百万人を超えた。村田さんは「菅政権が昨年五月に浜岡の運転を停止したのは、国民の声を看過できなくなった証拠。何としても再稼働はさせない」と誓う。
震災以前、とりわけ官僚の間ではタブーだった脱原発を主張してきた日々は、決して穏やかなものではなかった。
九九年四月、村田さんはスイスの環境政策を評価した文書を現地の日本企業関係者に配った。ところが、当時の閣僚の一人が「欧州の大使が政府の原子力政策に反対する文書を持ち歩いている」と問題視。上司から注意を受けた。
「今まで周囲から白眼視されたり、批判を受けることは少なくなかった。妻たち家族や知人らにも迷惑が及んだかもしれない」。あふれる思いをかみしめ、涙を浮かべる。「自分だけでも声を上げなければ、との信念だけが支えでした」
喫緊の4号機問題だけでなく、政府が原発の再稼働をもくろむ現状だからこそ、「手を休めるわけにはいかない」と思う。「福島の最大の教訓は『危険な科学技術はゼロにしなければならない』ということ。ゼロにならない限り、何基減らそうが結果は同じ。放射能の被害は無限大だ」と言う。
「今こそ、物質的な豊かさより精神的な豊かさ重視へとシフトしていくべきだ。利用するエネルギーを、再生可能な範囲だけにとどめることも不可能ではない。一人一人が意識を変えること、それしか世界の未来を良くするすべはありません」
<デスクメモ> 震災前、霞が関で脱原発を口にすることは、とても勇気のいることだったろう。しかも、現職の大使だ。大臣ににらまれたというだけで、普通はへこんでしまう。涙の中にはいろんな思いがあるに違いない。どんな方かと思ったら、小柄で物腰の柔らかな人だった。その胸の奥に強い強い信念がある。(国)
むらた・みつへい 1938年、東京生まれ。61年に東京大法学部卒業後、外務省に入る。中東第一課長などを経て、アルジェリア公使、フランス公使、セネガル大使などを歴任。スイス大使を最後に退官。東海学園大教授、京セラ顧問なども務めた。