日本学術会議の原子力政策に対する見識史考 |
(最新見直し2007.7.21日)
藤田祐幸(慶応大)氏の「日本の原子力政策の軍事的側面」、「2004年日本物理学会第59回年次大会 社会的責任シンポジウム 現代の戦争と物理学者の倫理とは」その他を参照する。 1949.1.22日、日本学術会議の設立第一回総会を開催し、冒頭羽仁五郎の発議により、発足に当たっての声明が採択された。
1950.4月、第6回総会において「戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない決意の表明」を採択した。
敗戦直後の科学者の戦争に対する反省と、平和主義の姿勢が率直にここに表明されているが、精神規定に終わっていた。 1952.10.24日、茅・伏見は学術会議に「原子力委員会を政府に設置すること」を提案した。いわゆる「茅・伏見提案」である。これに対し、広島大の理論物理学研究所三村剛昴会員が反対の演説を行った。三村は広島の惨状を話したあとで、次のように述べた。
かく述べて原子力の研究に取り組むのは米ソの緊張が解けるまで待つべきであると主張した。会場は静まり返り、伏見は提案そのものを撤回せざるを得なかった。しかし、「一夜にしてそれが原爆に化する」とはどういうことなのか、そうさせないためにはどうすれば良いのか、そのような議論は行われないまま、三村議員の素朴な、あまりにも素朴な反対意見の前に学術会議は沈黙した。 茅伏見提案の半年前、講和発効と前後して、吉田茂率いる自由党に不穏な動きがあった。1952年4月20日の読売新聞に「(政府は)再軍備兵器生産に備えて科学技術庁を新設するよう具体案の作成を指令した」と報じ、日本産業協議会月報五月号には提案者である前田正男の論文を掲載している。 前田論文は冒頭「敗戦直後鈴木総理大臣は『今次戦争は科学によって敗れた。今度こそ科学を振興して日本の再建を図らねばならぬ』と力説せられたことを記憶している。その後約七年も経過したが、国民はこの科学振興に如何程の努力を拂い、その結果科学の振興が、如何程実行されたか、深く反省する必要がある」と書き出し、前田が51年に米国の科学技術の立法行政の視察した折の経験を次のように披瀝している。
かく米国側の要望を伝えたうえで、日本にも科学技術庁の新設が、科学の研究費不足と研究、連絡の不能率を克服するため必要であることを論じている。 それによれば、科学技術庁の任務は、1.科学技術の基本的セ施策の統合企画立案、2.関係行政機関の間の事務の総合調整、3.科学技術研究費の査定、調整、4.科学技術情報の収集周知宣伝、5.特に必要な総合研究及び連絡調整、であり、性格は総理府の外局で、長官には国務大臣を当て、付属機関として科学技術情報所と中央科学技術特別研究所を持つ。 6月、前田はこの案を学術会議に持ち込み、そのとき、中央科学技術特別研究所の目的は「原子力兵器を含む科学兵器の研究、原子動力の研究、航空機の研究」にあるという「部外秘」情報をもらしたと伝えられている(日本の原子力問題、民主主義科学者協会物理部会監修、理論社刊、1953年4月25日、p21)。もちろんこのことは伏せられた。 |
(私論.私見)