吉田調書考その2

 (最新見直し2014.05.26日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「吉田調書考その2」をものしておく。

 2014.05.26日 れんだいこ拝


 「★阿修羅♪ > 原発・フッ素38 」の赤かぶ氏の2014.5.28日付投稿「あの時、福島第一原発で本当に起きていたこと… ニューヨークタイムズ(星の金貨プロジェクト )」を転載する。
 【 あの時、福島第一原発で本当に起きていたこと… 】
 http://kobajun.chips.jp/?p=18449
 2014年5月28日 星の金貨プロジェクト

 福島第一原発の事故の真実を隠ぺいしたまま、原子炉の再稼働を推進する安倍政権 。全職員の10分の1以下の68名ではなく、720名全員で事故収束作業に取り組むつもりだった吉田所長。吉田所長が大半の職員の『施設外避難』を把握した時点で、すべては手遅れになっていた。マーティン・ファクラー / ニューヨークタイムズ 5月20日

 3年前、福島第一原子力発電所の事故が最も深刻な事態に陥っていたそのタイミングで、東京電力の職員は持ち場に残り何とか原子炉の制御が可能になるよう努力を続けるよう命じられましたが、パニックに陥ってしまった多数の職員が持ち場を捨てて避難してしまったことが明らかになりました。日本を代表する新聞社が5月20日、この事実を明らかにしました。 朝日新聞はこの出来事について、2011年3月福島第一原発の事故発生以降、日本政府の調査チームによって行われた一連の聞き取り調査により、当時所長を務めていた吉田正夫氏の記述によるものであるとしています。 朝日新聞社は400ページに上る聴き取り調査の筆記録のコピーを手に入れたことを明らかにしましたが、この記録はこれまで政府内の報告書に一部が記載されることはあっても、一般にすべてが公開されることはありませんでした。 現在このコピーは当時所長を務めていた吉田氏であればこそ残すことが出来た、事故の事実を伝える唯一の証拠です。その吉田氏はガンが原因で、昨年58歳で亡くなりました。

 吉田所長は原子炉が過熱して破滅的事態が眼前にあった当時、原子炉が再び使えなくなることを恐れた東京電力の本社の制止命令を振り切り、独断で原子炉に海水を注ぎ込み、事故のそれ以上の拡大を防いだ数少ない本当のヒーローとして広く知られていました。 3月11日に巨大地震と津波が重要な冷却装置を完全に使えなくしてしまってから4日後の15日、福島第一原発はまさに壊滅間際の様相を呈し、職員全体が恐慌状態に陥っていた事実をこの報告書は伝えています。調査に対し吉田所長は、結局中間管理職を含む650人の職員が福島第二原発に避難してしまったことを明らかにしました。原子炉建屋が爆発した原子炉ではまさに炉心のメルトダウンが始まろうとしていた段階で、現場に残されたのは吉田所長と68名の職員だけであったのです。この原子炉は福島第一原発の事故において、最終的にメルトダウンを起こしたことが確認された3基の原子炉のうちの1基でした。 この記述がもし本当であれば、東京電力はこの日、必要最低限の人員を除き職員の大部分を『あらかじめ』あるいは『計画的に』避難させる措置を採り、残された強い使命感を持った職員が命を危険にさらしながら事態が最悪の局面に陥るのを防いだという、事故対応の全体像が違ってくることになります。 そして北日本の広域を放射性物質で汚染してしまった福島第一原子力発電所の事故について、発生後3年が過ぎた現在ですらなお、日本政府と東京電力は事故の全容を明らかにしていないことが明らかとなった事で、新たな批判が寄せられることになるでしょう。朝日新聞は記事中で、福島第一原発の事故後停止していた国内の原子力発電所の再稼働を推進しようとしている一方、福島第一原発の事故の記録全てを公開しようとはしていない日本政府を非難しました。 定例記者会見の席上、日本政府のスポークスマンを務める菅義偉官房長官は、朝日新聞の記事の正確さに疑問を呈することはしませんでした。菅官房長官は吉田所長を始め事故現場に居合わせた人々に行ったインタビューの筆記録は、公的に記録を残すために行ったのではないため公開しなかったと語りましたが、なぜそのような対応を採ったのかについては説明しませんでした。

 東京電力の広報担当の清水氏は、朝日新聞の記事にはある重要な側面に関する記述が欠落していると語りました。すなわち、吉田所長は職員に対し漠然とした表現で「放射線量の低い」場所まで下がるように指示を出しており、その場所には10キロ離れた福島第2原子力発電所も含まれると語りました。清水氏は東京電力はこのような理由から、当時の職員の行動について規律違反とは考えていないと付け加えました。 朝日新聞側はこの記録は、2011年7月から11月にかけて調査委員会が行った29時間以上にわたるインタビューに基づき、吉田所長の発言を一語一語の性格に記録したものであると伝えました。この筆記録はその大分部分が未だに公開されていない他の771人の聞き取り調査記録とともに、首相のオフィス内に保管されていると朝日新聞は伝えています。 この筆記録の中で吉田所長は3月15日早朝に起きた爆発について、当初2号機の原子炉格納容器が破裂してしまったのではないかと、その事を何よりも恐れたと語っています。もしそうなっていれば、莫大な量の放射性物質が環境中に放出されていたはずでした。しかし発電所内に設置されていた放射線量の測定装置では計測値の著しい上昇は無く、その事によって格納容器が無事であることを確信できたと語っています。しかし午前6時42分、吉田所長は放射線量の測定値について確信が持てるようになるまで、発電所内で最も放射線量の低い場所で待機するよう職員に対し指示を出しました。吉田所長は聴き取り調査の中で、事故収束のための作業に出来るだけ早く着手できるように、720人の職員をできるだけ手元に置いておきたかったと語っています。 「指示があればすぐ持ち場に戻れるよう、職員は福島第一原発の敷地内に留まってください」。吉田所長は発電所内の会議システムの装置を使い、職員にこう呼びかけたことを憶えていました。
しかし職員がとった行動はその指示とは異なるものでした。記録によれば、ある者は東京電力のバスを挑発し、ある者は自家用車に乗り、多くの職員が福島第2原子力発電所に避難してしまったのでした。吉田所長によれば、一部の人間は午後になって福島第一原発の敷地内に戻ったものの、一時は職員の90%が敷地外に避難してしまったのです。 朝日新聞は吉田所長が調査に答えて、管理職ですらあまりに多くの人間が避難してしまったことに驚き、福島第2原発に連絡を取ってそこにいた職員に対し直ちに持ち場に戻るように命じました。 「事実として、私は第2原発まで避難するように指示はしていません」。吉田所長の発言はこのように記録されています。「職員の大半が第2原発まで避難したことを私が告げられた時点で、すべてはもう手遅れになってしまっていました」。


 「★阿修羅♪ > 原発・フッ素38 」の赤かぶ氏の2014 年 6 月 01 日付投稿「お粗末な朝日新聞「吉田調書」のキャンペーン記事  門田隆将」。
 お粗末な朝日新聞「吉田調書」のキャンペーン記事
 http://blogos.com/article/87529/
 2014年06月01日 06:28 門田隆将

 「ああ、またか」。失礼ながら、それが正直な感想である。今週、私は取材先の台湾からやっと帰ってきた。私が日本を留守にしている間、朝日新聞が「吉田調書」なるものを“加工”し、「福島第一原発(1F)の現場の人間の9割が所長命令に違反して撤退した」という記事を掲げ、そのキャンペーンが今も続いている。 「ああ、またか」というのは、ほかでもない。ある「一定の目的」のために、事実を捻じ曲げて報道する、かの「従軍慰安婦報道」とまったく同じことがまたおこなわれている、という意味である。私は帰国後、当該の記事を目の当たりにして正直、溜息しか出てこないでいる。

 故・吉田昌郎氏は、あの1号機から6号機までの6つの原子炉を預かる福島第一原発の所長だった。昼も夜もなく、免震重要棟の緊急時対策室の席に座り続け、東電本店とやりあい、現場への指示を出しつづけた。 東電本店のとんでもない命令を拒否して、部下を鼓舞(こぶ)して事故と闘った人物である。体力、知力、そして胆力を含め、あらゆる“人間力”を発揮して「日本を土壇場で救った一人」と言えるだろう。 昨年7月に癌で亡くなった吉田氏は、生前、政府事故調の長時間の聴取に応じていた。今回、朝日が報じたのは、28時間ほどの聴取に応じた、いわゆる「吉田調書」の中身だそうである。 私は吉田さんの生前、ジャーナリストとして唯一、直接、長時間にわたってインタビューをさせてもらっている。私がインタビューしたのは、吉田所長だけではない。 当時の菅直人首相や池田元久・原子力災害現地対策本部長(経産副大臣)をはじめとする政府サイドの人々、また研究者として事故対策にかかわった班目春樹・原子力安全委員会委員長、あるいは吉田さんの部下だった現場のプラントエンジニア、また協力企業の面々、さらには、地元記者や元町長に至るまで、100名近い人々にすべて「実名」で証言していただいた。 私がこだわったのは、吉田さんを含め、全員に「実名証言」してもらうことだった。そして、拙著『死の淵を見た男―吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』が誕生した。 私は、吉田氏に直接取材した人間として、さらには100名近い関係者から実名証言を得た人間として、朝日新聞が「所長命令に違反」して9割の人間が「撤退した」と書いているのは「誤報」である、ということを言わせていただきたい。 今回、自分の意図に反して貶(おとし)められた故・吉田昌郎さんとご遺族の思いを想像すると、本当に胸が痛む。この意図的な捻じ曲げ記事に対するご遺族の心痛、精神的な打撃は大きく、今後、なにがしかのリアクションが朝日新聞に対して起こされる可能性もあるのではないか、と想像する。

 朝日の巧妙な捻じ曲げの手法は後述するが、今回、朝日の記事で「9割の人間が逃げた」とされる「2011年3月15日朝」というのは、拙著『死の淵を見た男』の中でも、メインとなる凄まじい場面である(拙著 第17章 266頁~278頁)。 震災から5日目を迎えたその2011年3月15日朝は、日本にとって“最大の危機”を迎えた時だった。その時、免震構造だけでなく、放射能の汚染をできるだけシャットアウトできる機能も備えた免震重要棟には、およそ「700名」の所員や協力企業の人たちがいた。 朝日新聞は、その700名の「9割」が「所長命令」に「違反」して、原発から「撤退した」と書いている。そう吉田氏が調書で証言しているというのである。 だが、肝心の記事を読んでも、所員が「自分の命令に違反」して「撤退した」とは、吉田氏は発言していない。それが「意図的な」「事実の捻じ曲げ」と、私が言う所以だ。 これを理解するためには、あの時、一体、なぜ700名もの人が免震重要棟にいたのか。そのことをまず理解しなければならない。 震災から5日も経ったこの日の朝、700名もの職員や協力企業の人たちが免震重要棟にいたのは、そこが福島第一原発の中で最も“安全”だったからである。 事態が刻々と悪化していく中で、とるものもとりあえず免震重要棟に避難してきた所員や協力企業の面々は、「外部への脱出」の機会を失っていく。時間が経つごとに事態が悪化し、放射線量が増加し、汚染が広がっていったからだ。 免震重要棟にいた700名には、総務、人事、広報など、事故に対応する「現場の人間」ではない“非戦闘員”も数多く、女性社員も少なくなかった。彼らをどう脱出させるか――吉田所長はそのことに頭を悩ませた。 700名もの人間がとる食事の量や、水も流れない中での排泄物の処理……等々、免震重要棟がどんな悲惨な状態であったかは、誰しも容易に想像がつくだろう。 事故対応ではない「非戦闘員」たち、特に女性職員たちだけでも早くここから退避させたい。トップである吉田さんはそう思いながら、広がる汚染の中で絶望的な闘いを余儀なくされていた。

 震災が起こった翌12日には1号機が水素爆発し、14日にも3号機が爆発。その間も、人々を弄ぶかのように各原子炉の水位計や圧力計が異常な数値を示したり、また放射線量も上がったり、下がったりを繰り返した。 外部への脱出の機会が失われていく中、吉田所長の指示の下、現場の不眠不休の闘いが継続された。プラントエンジニアたちは汚染された原子炉建屋に突入を繰り返し、またほかの所員たちは原子炉への海水注入に挑んだ。 そして、2号機の状態が悪化し、3月15日朝、「最悪の事態を迎える」のである。5日目に入ったこの日、睡眠もとらずに頑張って来た吉田所長は体力の限界を迎えていた。いかにそれが過酷な闘いだったかは、拙著で詳述しているのでここでは触れない。 最後まで所内に留まって注水作業を継続してもらう仲間、すなわち「一緒に死んでくれる人間」を吉田さんが頭に思い浮かべて一人一人選んでいくシーン(拙著 第15章 252頁~254頁)は、吉田氏の話の中でも、最も印象に残っている。

 午前6時過ぎ、ついに大きな衝撃音と共に2号機の圧力抑制室(通称・サプチャン)の圧力がゼロになった。「サプチャンに穴が空いたのか」。多くのプラントエンジニアはそう思ったという。恐れていた事態が現実になったと思った時、吉田所長は「各班は、最少人数を残して退避!」と叫んでいる。 たとえ外の大気が「汚染」されていたとしても、ついに免震重要棟からも脱出させないといけない「時」が来たのである。「最少人数を残して退避!」という吉田所長の命令を各人がどう捉え、何を思ったか、私は拙著の中で詳しく書かせてもらった。 今回、この時のことを朝日新聞は、1面トップで「所長命令に違反 原発撤退」「福島第一 所員の9割」と報じ、2面にも「葬られた命令違反」という特大の活字が躍った。要するに、700名の所員たちの9割が「吉田所長の命令に違反して、現場から福島第二(2F)に逃げた」というのだ。 吉田所長の命令に「従って」、福島第二に9割の人間が「退避した」というのなら、わかる。しかし、朝日新聞は、これを全く「逆に」報じたのである。記事の根拠は、その吉田調書なるものに、吉田氏がこう証言しているからだそうだ。 「本当は私、2Fに行けと言っていないんですよ。ここがまた伝言ゲームのあれのところで、行くとしたら2Fかという話をやっていて、退避をして、車を用意してという話をしたら、伝言した人間は、運転手に、福島第二に行けという指示をしたんです。(中略) いま、2号機爆発があって、2号機が一番危ないわけですね。放射能というか、放射線量。免震重要棟はその近くですから、これから外れて、南側でも北側でも、線量が落ち着いているところで一回退避してくれとうつもりで言ったんですが、確かに考えてみれば、みんな全面マスクしているわけです。 それで何時間も退避していて、死んでしまうよねとなって、よく考えれば2Fに行った方がはるかに正しいと思ったわけです。いずれにしても2Fに行って、面を外してあれしたんだと思うんです。マスク外して」 。

 吉田調書の中の以上の部分が「吉田所長の命令に違反して、現場から逃げた」という根拠なのである。しかし、この発言をみればわかるように、吉田所長は「2F」、すなわち福島第二に「行ってはいけない」とは全く言っていない。むしろ、その方がよかった、と述べている。 これのどこが「吉田所長の命令に違反して、現場から退避した」ことになるのだろうか。サプチャンが破壊されたかもしれない場面で、逆に、総務、人事、広報、あるいは女性職員など、多くの“非戦闘員”たちを免震重要棟以外の福島第一の所内の別の場所に「行け」と命令したのだとしたら、その方が私は驚愕する。 サプチャンが破壊されたかもしれない事態では、すでに1Fには「安全な場所」などなくなっている。だからこそ放射能汚染の中でも吉田氏は彼らを免震重要棟から「避難させたかった」のである。 つまり、記事は「所内の別の場所に退避」を命じた吉田所長の意向に反して「逃げたんだ」と読者を誘導し、印象づけようとする目的のものなのである。

 朝日の記事は、今度は地の文で解説を加え、「吉田所長は午前6時42分に命令を下した。“構内の線量の低いエリアで退避すること。その後、本部で異常でないことを確認できたら戻ってきてもらう”」と、書いている。 今度は、なぜ調書の吉田証言を「直接引用」をしないのだろうか。ひょっとして、そうは吉田所長が語っていないのを、朝日新聞の記者が“想像で”吉田氏の発言を書いたのだろうか。 この一連の朝日の記事の中には、実質的な作業をおこなったのは「協力企業の人たち」という印象を植えつける部分がいくつも登場する。しかし、これも事実とは違う。放射能汚染がつづく中、協力企業の人たちは吉田所長の方針によって「退避」しており、作業はあくまで直接、福島第一(1F)の人間によっておこなわれているのである。 吉田氏は、「いかに現場の人間が凄まじい闘いを展開したか」「部下たちはいかに立派だったか」を語っているはずだ。しかし、朝日新聞にかかれば、それとはまったく「逆」、すなわち部下たちを貶める内容の記事となるのである。

 私はこの報じ方は本当に恐ろしい、と思う。一定の目的をもって、事実を「逆」に報じるからである。吉田氏は、政府事故調による28時間もの聴取に応じたことを生前、懸念していた。自分の勘違いによって「事実と違うことを証言したかもしれない」と危惧し、この調書に対して上申書を提出している。そこには、こう記されている。 「自分の記憶に基づいて率直に事実関係を申し上げましたが、時間の経過に伴う記憶の薄れ、様々な事象に立て続けに対処せざるを得なかったことによる記憶の混同等によって、事実を誤認してお話している部分もあるのではないかと思います」 。そして、話の内容のすべてが、「あたかも事実であったかのようにして一人歩き」しないかどうかを懸念し、第三者への「公表」を強く拒絶したのだ。昼であるか夜であるかもわからない、あの過酷な状況の中で、吉田氏は記憶違いや勘違いがあることを自覚し、そのことを憂慮していたのである。その吉田氏本人の意向を無視し、言葉尻を捉え、まったく「逆」の結論に導く記事が登場したわけである。私は、従軍慰安婦問題でも、「強制連行」と「女子挺身隊」という歴史的な誤報を犯して、日韓関係を破壊した同紙のあり方をどうしても思い起こしてしまう。 「意図的に捻じ曲げられた」報道で、故・吉田昌郎氏が抱いていた「懸念」と「憂慮」はまさに現実のものとなった。記憶の整理ができないまま聴取に応じたため、「公表」を頑なに拒否した吉田氏の思いは、かくして完全に「踏みにじられた」のである。

 私のインタビューに対して、吉田氏は事故の規模を「チェルノブイリ事故の10倍に至る可能性が高かった」と、しみじみと語ってくれた。そして、それを阻止するために、部下たちがいかに「命」をかけて踏ん張ったかを滔々と語ってくれた。しかし、朝日の記事には、そんな事実はいっさい存在しない。 最悪の事態の中で踏ん張り、そして自分の役割を終えて私たちの前から足早に去っていった吉田氏。そんな人物を「貶める」ことに血道をあげるジャーナリズムの存在が、私には不思議でならないのである。


 「★阿修羅♪ > 原発・フッ素38」の赤かぶ氏の014 年 6 月 22 日付投稿「吉田調書を通じて見えるもの 小出裕章(とある原発の溶融貫通(メルトスルー))」。
 吉田調書を通じて見えるもの 小出裕章
 http://blog.livedoor.jp/home_make-toaru/archives/7737843.html
 2014年06月22日18:47 とある原発の溶融貫通(メルトスルー)

 石井:
 今日は以前、朝日新聞にいらした、現在ジャーナリストで、現在デモクラTV代表の山田厚史さんにも加わっていただきます。

 山田さん:よろしくお願い致します。

 小出さん:山田さん、よろしくお願いします。

 石井:今日は、先月5月20日付の朝日新聞が朝刊の1面に掲載した独占スクープ「吉田調書」についてお伺いしたいと思うのですが。この吉田調書は簡単に説明すると、政府事故調査検証委員会が東京電力福島第一原発の最高責任者だった吉田昌郎元所長。 残念ながらお亡くなりになりましたけれども、を聴取した聴取結果書を巡っていろいろな問題が指摘されているという状況です。この吉田調書について、まず小出さんはどんな風にご覧になってらっしゃいますか?

 小出さん:はい。私自身は、あの当時の事故の経過をそれなりに注意深く情報を集めながら判断をしてきましたので、吉田さんが書かれたというか、調書に応じて話されたということの内容自身は、特別不思議なことでも何でもないと思います。 ただ、今改めて吉田さんの調書を読むとですね、当時がもの凄い緊迫した状態だったんだなと。何かもう3年経って皆さんすっかり忘れてしまっているように私には思えるのですが、ほんとに酷い事故があの当時起きていて、吉田さんも含めて生きるか死ぬかの瀬戸際で何日もの苦闘を続けていたということが改めてひしひしと伝わってきました。

 石井:なるほどね。現実に、所員の9割が福島第二原発に逃げていて、現場には約1割ぐらいの人達しか対応ができない。その時に、1号機・2号機・3号機でいろいろなことが全部起きてくる。当然、対応ができない。つまり、吉田さん自身がこの調書の中で、「チェルノブイリ級ではなくてチャイナシンドロームだ」というような感想ももらしているという風に朝日は報じています。 チェルノブイリよりさらにひどい事が起きる。つまり、もはや自分たちでは制御できないものに私達は手を付けてしまったという事がこれを読むとよく私は分かると思うんですが。

 小出さん:はい。吉田さん自身はおそらくそうなるかもしれないという危機感の中で、どうすれば所員を少しでも被ばくから守れるか。 そして、一方では何としても事故を終息させなければいけないという、本当に二律背反ですね。その中で、一刻一刻どうすればいいかとか考えていたのだと思いますが、東電本社が全然頼りにならないという中で、彼はやらざるを得なかったという立場だと思います。

 石井:なるほどね。山田さんから、ご質問があれば。

 山田さん:あの時に、東電の本社では撤退するって話がありましたよね?

 小出さん:そうでした。

 山田さん:結果的に、あの時に吉田さんは頑張ったんですけども、くじけちゃって浮き足立ってみんな逃げちゃったら、どんな事になったんでしょうかねえ?

 小出さん:はい。吉田さんの確か調書の中にあったと思いますけれども、ずーっとあの時、注水をしなければいけないということで、1号機・2号機・3号機、あるいは4号機に水を入れようとしていたわけです。 なんとかその作業をずーっと維持できたからこそ、今の段階でとどまってるわけですけれども、あの段階で、福島第一原発の作業員がみんな逃げてしまうということになれば、注水自身が全くできなくなるわけですから、これまででも出てきた放射性物質は大量ですけれども、それ以上の放射性物質がたぶん吹き出してきたということになったと思います。

 石井:なるほどね。それと、もうひとつ小出さん、そのドライベントを準備せざるを得なかった。格納容器の圧力が高くなったために、高濃度の放射性物質を3号機から空中に出そうとしていたと。しかも、この格納容器の中の圧力が上昇していたことを公表することを規制したということが、この調書の中で明らかになりましたね。

 小出さん:はい。私の言葉で聞いて頂こうと思いますけれども、当時、事故の進行の最中で日本の政府が恐れたことは、住民達がパニックに陥るということだったのだと思います。住民たちを被ばくから守るというよりは、むしろパニックを恐れるというのが日本政府の基本的な方針だったように私には当時も見えましたし、今ふり返ってみてもそうなんだと思います。 そういう時には、住民がパニックを起こすような情報というのは、できる限り抑えなければいけないということになるわけですし、実際に当時も彼らはSPEEDIという計算コードの結果を隠したりして、とにかく住民にパニックを起こさせないというように行動していました。

 石井:そうですよね。

 山田さん:事故が起きた時の情報の出し方というのは凄く難しいわけですね。これだと、完全に情報統制をして知らせないまんま、その高濃度のガスを生出ししようとしたわけですよね?  結果的には、なんか下の方で爆発したから、その事もしなくて済んだでしょうけど。あの時に生出ししてたら、これ大変な話になりましたよね?

 小出さん:はい。住民達も不安にはなったでしょうけれども、でも例えばSPEEDIの情報を政府が隠してしまったというために、住民たちは逃げることもできないまま、大量の被ばくをしてしまったという人達だっているわけですし、やはり、情報というのは限りなく公表して、住民たちにも知らせた上で、どんなことができるかということを選んでいくということは私はいいのだと思います。

 石井:小出さん、なんとかそういう形のなるべく隠そう隠そう、なかったことにしようということに対して、せっかく吉田さんがここまで答えている中で、そのことから学ぶべきことというのは、多分小出さん沢山ありますよね?

 小出さん:当然です。吉田さんという方は、お亡くなりになった方に矢を放つようで申し訳ありませんが、福島第一原子力発電所の所長だったのです。 幸いなことにというか、大変豪胆な気質を持たれた方で、最後まで自分の責任を全うしようとして戦って下さった方であって、私は吉田さん自身は優れた方だとは思うけれども、それでもきちっとした責任のある立場な人なわけですから、その人が公表を望まなかったから、公表しないということはあり得ないと思います。 現在、たくさんの人々が被害者として存在しているわけですから、責任のあった立場の人の調書として、きちっと公表すべきだと思います。

 石井:ありがとうございました。またよろしくお願い致します。

 http://www.rafjp.org/koidejournal/no76/









(私論.私見)